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[最新号]談 no.93 WEB版
 
特集:他者の他者としての〈自分〉……アンドロイド、人工ボディ、ワキ
 
表紙:高津戸優子 本文ポートレイト撮影:新井卓、坂本政十賜
   
    
 

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最期に人間に残るもの、人こそが人を映し出す鏡

石黒浩
いしぐろ・ひろし
1963年滋賀県生まれ。大阪大学大学院基礎工学研究科博士課程修了。工学博士。現在、大阪大学大学院基礎工学研究科システム創成専攻教授。グローバルCOEプログラム「認知脳理解に基づく未来工学創成」拠点リーダー、ATR石黒浩特別研究室室長およびATRフェロー。著書に『どうすれば「人」を創れるか』新潮社、2011、『アンドロイドを造る』オーム社、2011、『ロボットとは何か』講談社現代新書、2009、他。

考えるのではなくて、どんどん引いていくんです。考えてもわからないと思う。
僕たちは人間をつくることはできませんから、今ある人間からロボットでもできることをどんどん引いていく。
その最後に、何が残るかを見る。単純に引けばいいんです。
何も残らなかったら、しょせん人間はそれまでのもので、ロボットでも十分だったということになる。
それではあまりにも辛いので、がんばって生きたいと思うのでしょう。


    
 

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対談 「からだの復元」……自分らしさを求めて

山下柚実
やました・ゆみ
1962年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。作家、五感生活研究所代表。現在、環境省「五感で楽しむまち」検討会委員、放送大学非常勤講師他。『ショーン 横たわるエイズ・アクティビスト』小学館、1994で第1回小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞。身体と社会のかかわりを追求し、著書に『年中行事を五感で味わう』岩波書店、2009、『〈五感〉再生へ』岩波書店、2003、『ルポ美容整形』文春文庫、2001、他。

福島さんのお仕事を拝見すると、
顔や身体は「自分だけ」の所有物ではなくて
他者に向かって「開かれた通路」としても存在しているんだ、
ということが伝わってきます。
お客さんと人工ボディ技術者とがそのことを自覚して、
対話し考えながら身体を一つひとつ再生させているんだなと。

 

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福島有佳子
ふくしま・ゆかこ
1971年大阪市生まれ。大阪市立工芸高等学校卒業。梅田ビジネス専門学校ホテル科卒業。独学で「人工ボディ」製作を学び、第一人者となる。現在、川村義肢株式会社技術推進部工房アルテ主任技師、係長、メンタル心理カウンセラー。内外の数多くの依頼に応えるとともに、約150人以上にも及ぶ暴力団離脱者の更生を支援し、2004年には大阪府警より暴力団追放功労者として表彰を受ける。メディアによる紹介多数。

からだの欠損を隠したい人は隠せばいいし、
出したい人は出せばいい。
ただ、どちらも「自分」なのだから、
決して恥ずかしいことではないということを、
できるだけ多くの人にわかってもらいたいと思っています。

    
 

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ワキ……生の深淵を旅する者

安田登
やすだ・のぼる
1956年生まれ。能楽師、下掛宝生流ワキ方能楽師であり、公認ロルファー(米国のボディワーク、ロルフィングの専門家)。大学時代に中国古代哲学を学び、20代前半に漢和辞典の執筆に携わる。能楽師として、東京を中心に舞台を勤めるほか、年に数度の海外公演も行い、また国内外の学校や市民講座、さまざまな学会などで能や能の身体技法をテーマとしたワークショップを開いている。能のメソッドを使った朗読・群読の公演や指導も行い、東京、東江寺で論語と謡曲を中心とした寺子屋「遊学塾」を開催。出張寺子屋も行っている。著書に『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす 「おくのほそ道」謎解きの旅』春秋社、2012、『異界を旅する能 ワキという存在』ちくま文庫、2011、『身体能力を高める「和の所作」』ちくま文庫、2010、他多数。

ワキの旅とは、不足感や欠落感を感じながら、さらに自分を欠落させていく過程であり、
言い換えれば、自分を「無化」させていく過程そのものだといえます。
自分は無力であり、欠落している人間であるということをただ感じているだけではなく、
深く身に沁みている人間、それがワキという存在であり、それゆえ幽霊、亡霊と出会うことができるというわけです。
 

editor's note

あなたのなかに私はいるのか

人間そっくりさんの衝撃

 人間と瓜二つ。顔かたち、肌の色艶だけではなく、その豊かな表情、立居ふるまいやしぐさ、どれをとっても人間のそれとまったく変わりがない。「ほんとうにロボットなの?」初めてジェミノイドと対面した者は、誰もがそう思うに違いありません。ご多分に漏れず私も、石黒浩氏の研究室のドアを開いた時、ちんまりと座る一組の男女が、まさかロボットであろうとはにわかには信じられませんでした。とくに、そのうら若き女性が、瞬きをしながら唇をちょっとゆがませ、はにかんでみせた時には、内心ドキッとしてしまったほど。それくらい、石黒先生のつくるアンドロイド(石黒氏は自分のロボットをこう呼びます)たちは、人間そっくりだったのです。
 それでも、私たちはあらかじめ石黒氏の著作を読み、資料に目を通し、TV番組(「爆問学問」2007年放映)の録画を見てから会いに行ったわけですから、アンドロイドであることは重々知っていました。にもかかわらず、驚いてしまったのです。何の情報もなくいきなり出くわしたとしたら、さてどう思ったことか。
 今年のバレンタインデー、新宿のとある百貨店のショーウィンドウが話題を呼びました。一人の若い女性がショーウィンドウの中で微笑んでいたからです。そう、その女性こそ「ジェミノイドF」その人(アンドロイド)だったのです。ガラス張りのショーケースの中で、プレゼントをあしらったディスプレイに囲まれて腰かける女性。手にはスマートフォンを持ちながら、いつものようにはにかみながら、誰かを待っているようなポーズ。この女性は、なぜこんな箱の中に入れられているのか。怪訝そうに覗き込む通行人や買い物客。当日の現場を撮影した画像がYouTubeに上がっていますが、ショーウィンドウを取り囲む人々は、それがマネキンなのかあるいは本物の人間なのか、判断しかねている様子。おそらく、ほとんどの人々は一瞬人間だと思い、どうしてこんなところに座らされているのかと不思議に思ったことでしょう。
 このジェミノイドの開発者こそ石黒浩氏です。石黒氏は、大阪大学大学院基礎工学研究科システム創成専攻教授で(株)国際電気通信基礎技術研究所(ATR)石黒浩特別研究室長。人間酷似型ロボット(アンドロイド)の第一人者です。今号の特集は、石黒氏の開発したジェミノイドと名付けられたアンドロイドとの出会いから生まれました。具体的には、ジェミノイドをめぐって鷲田清一氏(元大阪大学総長)と交わされた議論がきっかけです。後に書籍となって出版されますが、お二人は、人間とロボットの関係を、ご自身の専門である科学、哲学の領域を超えて語り明かしました。「人と人でないものの区別はどこにあるのか?」。「ロボットに心はあるのか」そもそも「あなたは、アンドロイドとどこが違うのか?」などなど。まさしく、ロボットは人間とどうかかわるのか、今後の社会の行方を見据えた本質的な議論が展開されたのです。私たちは大いに刺激を受け、これはもう会わないわけにはいかないだろうと思い、早々にATR研を訪ねたというわけです。
 石黒氏は、当初産業用ロボットの開発を目標に研究していました。その研究開発が一段落したところで、石黒氏は、人とロボットのかかわりに関心をもつようになりました。ロボットだけでなくいろいろな技術が、社会と融合することで生まれる未来とはどのような世界か。そうしたなかで、ロボットはどのような役割を果たすのか、また、ロボットはどのようなかたちで人と関係してくるのか。石黒氏は、そうした問題意識をもって人間とコミュニケーションするロボットの開発に向かいます。そこで誕生したのが人間酷似型ロボット、アンドロイドでした。
 人とかかわりをもつロボットをどうつくるか。そのための研究は、じつはロボットだけを見ていてはらちがあかない。ロボットを中心にしたエンジニアリングだけ追究していても、その核心には辿り着かない、ということにある時石黒氏は気がつきます。石黒氏は、一方でコンピュータビジョンの研究にも携わっていました。カメラから得られた画像をコンピュータで解析し、その画像に何が写っているかをコンピュータに認識させるというものです(コンピュータビジョンの研究で石黒氏は博士号を取得しています)。その研究の過程で、コンピュータが認識するには、身体が必要不可欠であるという確信を得ます。言い換えれば、身体をもつことにより初めてコンピュータも人間と同等の認識能力をもつことができるというのです。コンピュータの認識能力を最大化するためには、それが置かれた環境の中で動き回り、ものに接触できるからだがどうしても必要になる。つまり、人間と同じような身体をもつこと。それは、端的に人間になることではないかと石黒氏は考えたのです。
 こうして、石黒氏は研究の軸足を人間へと移し、人間とはいかなるものか、人間そのものの探求へと向っていくことになったのです。

工学的知は人間を捉えきれない?!

 人間とかかわるロボットをつくるには、まず人間を知らなければいけない。言われてみれば当たり前のことです。が、エンジニアリングの側からみると、大胆な飛躍が必要になります。工学は、何よりも人間に役に立つことが優先されます。人間は、工学にとってはユーザーです。人間が、どういう人間かということは当面問題にはならない。人間の何たるかがわからなくても、機械は動き・働けばこと足りる。工学にとって人間とは、受益者に過ぎません。しかし、だからこそ、工学は人間にとってきわめて重要なものだともいえるわけですが、科学と技術は、ここではっきりと袂を分けます(この違いについては、前号のeditor's noteで指摘しました)。
 しかし、そう断言するとすぐにもこんな反論が返ってきそうです。たとえば、クルマの開発にとって、そのユーザーたる人間がどういうものかわからなければ開発もできないのではないか。人間工学という、まさに人間を知ることに重きをおいた工学的アプローチがあるではないかと。
 そのことを考える時、あるジャーナリストが引いた例を私はいつも思い出します。人間工学が追究するクルマは、乗りやすく、壊れにくく、快適で、安心・安全なクルマです。乗りにくく、すぐに故障し、不快で、危険なクルマは欠陥車です。人間工学から見れば、クルマとしてとうてい容認できるものではなく、それこそ人間を無視した乗り物だと考える。しかし、あえて乗りにくいクルマを好む人間もいるし、「すぐ壊れるんだよ、こいつは」と苦笑しながらも英国車に乗り続けるユーザーはいるのです。
 何が違うのか。人間工学が対象とする人間は、こう言ってよければ「前向き」な人間です。乗りにくいクルマを好み、故障することがうれしく、ブレーキの効かなさを楽しむような「後ろ向き」のユーザーは、人間工学にとっては想定外なのです。工学が想定する人間とは、つまりはそうした「わかりやすい」人間です。陰があったり、裏があったり、いわゆるひねくれ者は、工学の対象にはなりにくい、いやなり得ないのです。言うまでもなく、人間は多様です。人種も言葉も肌の色も違うし、同じ人種のなかですら体格や個性やタイプでいくらでも差異を見出すことができます。「人間とは○○だ」と定義することから、最も遠いところにいるのが人間というものなのです。
 人間とかかわりをもつロボットをつくりたい。そのためには、こうしたさまざまな面をもちあわせる人間そのものを知る必要があります。人間と人間がどうかかわっているのか。人間のかかわりあいである社会とはどういうものなのか。つまり、人間とは何かということが解明されて、初めて人間とかかわるロボットがどういうものなのかがわかってくる。何よりもまず「人間とは何か」という問題にアプローチすること。その見通しがついた時に初めてロボットと人間の共生、言い換えれば、ロボットを取り込んだ新たな社会を構想することができるはず、そう石黒氏は考えたわけです。

不気味の谷の謎

 人間を理解することから始まった新たなロボット研究は、まず、ロボットの見かけと動きに着目しました。これまでのロボット開発では、ロボット本体はエンジニアの仕事で、見かけ(たとえば外観)は、デザイナーの仕事でした。産業用ロボットは別として、いわゆるヒューマノイド型であっても、人間とはかけ離れた姿のロボットがほとんどでした。しかし、人間と共生するロボットを構想するに当たっては、その姿、容姿こそが重要です。人間に限りなく近い「見かけ」をもつことではじめて人間社会に入っていけるのではないか。人間社会に溶け込むためには、見かけ、さらには(人間のような)動きが必要不可欠だと考え、石黒氏はアンドロイドの研究開発に乗り出したのです。
 冒頭紹介したジェミノイドは、このプロセスから生まれたもので、ヒューマノイド(humanoid)と同じ意味のアンドロイド(android)と名付けられました。もとより、外見のみが重要というわけではないのですが、実際に目で見た印象は強烈です。人間そっくりなジェミノイドに見つめられた時、私自身動揺を隠せずにはいられませんでした。それがロボットという人工物だと十分わかっているのに。想像以上に、「見かけ」というのは大きな要素なのです。
 石黒氏は、アンドロイドと普通のロボットの最大の違いは、皮膚にあると言っています。人間には皮膚感覚というのがあり、たとえば、隣にいるのが何者であるか(人間であるか)、まず皮膚感覚で感じ、それから視覚で見るという。そのため、アンドロイドの研究は皮膚の開発から始めたそうです。
 「見かけ」を追究していく過程で、次に見えてきたものが「人間らしさ」です。人間そっくりなアンドロイドであっても、動かなければそこに人間らしさを感じ取ることはできません。そこに動きがともなった時、アンドロイドは急に人間らしくなるというのです。ここでいう動きは、手を振り回したり、大きくうなづくといった派手な動きではなく、ちょっとした無意識の動きのことです。人間は、じっと座って何もしていない時でも、からだは無意識に小さな動きをしています。目や唇、首や肩や胸が、常に小さく動いています。この微小な動作を、無意識的微小動作と呼ぶようですが、いずれにしてもそのような微小な動きに人間は非常に敏感だという。ですから、見た目もそっくり、動きもそっくり、ここにいる人は紛れもなく人間だと思っていても、その動きがちょっと変だと感じたとたん、「この人は、人間じゃない!!」という感覚に襲われる。この見かけと動きのアンバランスを起因とする現象は、従来「不気味の谷」として知られていました。
 「不気味の谷」という現象がなぜ起こるのか、じつはまだよくわかっていないようです。脳科学や認知科学の分野でいくつかの仮説は出されているようですが、決定打はないらしい。ただいえることは、何かが人間「らしい」と感じ、その「らしさ」が感じられなくなった瞬間に、「らしさ」は消滅する。この現象のカギは、「人間らしさ」そのものにあるということです。

他者に同化し、自分を異化する

  「人間らしくありたい」とか、「人間らしい暮らしがしたい」とか、私たちは、日頃何の気なしに「人間らしい」という言葉を口にします。また、「人間くさい」とか「人間的」という言い方もしますが、これらも似たような言葉です。いずれも「人間」を一つの特性として見ているところに共通点があります。ものの本によれば、人工物や自然、神ではないもの、つまり人間以外のものではないものが、すなわち人間であり、そういう人間の特性を「人間らしい」というとあります。人を食ったような言い方ですが、要するに、人間以外の何者でもないもの、その特性を「人間らしさ」と定義づけているのです。この伝で言えば、「人間ぽい」も仲間に入るでしょう。「(飼い犬を指して)こいつ、なんか人間ぽくないか」とか「(サル山の猿を見ながら)やってることがまるで人間」とか。単に人間に似ているという意味で言っているのでしょうが、「人間」を特性として見ていることでは同じです。
 石黒浩氏は、女性型アンドロイド「ジェミノイドF」の完成後、さらに新しいことにチャレンジします。自分自身をアンドロイドにするという実験です。つまり、自分のアンドロイドをつくるということです。「人間くさい」しぐさや「人間的」なもの言いが「人間らしさ」を感じさせるのであれば、その対象が自分の場合、同じように感じることができるだろうか。すなわち、アンドロイドに「人間らしさ」を感じとる時、もしもそのアンドロイドが自分であっても同様に「人間らしさ」を感じられるのかという問題です。
 自分にそっくりなアンドロイドが目の前に存在する。遠隔操作で動くためそのアンドロイドは、まったく自律していない。その意味では、ぜんぜん「人間らしく」はないはずです。けれども、もしもそこに「人間らしさ」を感じてしまったらどうなるのか。自分を人間と強烈に意識することになるのか。だが、遠隔操作で動くアンドロイドには違いない。だとすれば、その場合の人間とは単なる「でくの坊」ではないか。「人間らしさ」を追究した先にできた極めつけのアンドロイドが、じつは人間とはまったく異なるロボット=人工物にすぎない、とわかったとしたら、しかも、それをアンドロイド自身として、言い換えれば、アンドロイドの内部でそう感じたとしたら……。私たちはそのことをどう理解すればいいのか。
 ここにきて、ようやく今号の特集テーマに接続しました。石黒氏と鷲田氏の対談の論点の一つが、最初に紹介したように「あなたは、アンドロイドとどこが違うのか?」という問題です。自身がアンドロイドになるという前代未聞の経験をした石黒氏にとって、アイデンティティの意味とは何かということです。人間とも人間でないともいえるような両義的存在である「自分アンドロイド」を、自分と認識することができるのか。できるとすれば、それはどういう時なのか。
 「他者の他者としての〈自分〉」という今回の特集タイトルは、この対談のなかで鷲田氏が言った言葉から引きました。鷲田氏はこう言うのです。「自分という概念と他者という概念は表裏一体になっていて〈自分とは何か〉を定義しようと思っても定義できない。自分とはほかならぬこの〈わたし〉だし、他者は〈わたし〉以外の人だけど、お互いの相手の概念に言及しないと自分の定義ができない。そういう意味でセルフというのは他者の他者(一部筆者によって表現を変えてあります)」なのです。
 アンドロイドという究極の他者と一体化した自分。その究極の他者(自分)の視点で他者としての自分を見る。アイデンティティあるいは自己同一性。それは一種の虚構に過ぎないのではないかという疑念が湧いてくるのです。
 そのことを念頭に置きながら、今号では石黒浩氏へのインタビューを含めた三つの視点からこの問題にアプローチします。まず最初は、石黒浩氏ご本人に、ズバリ、「人間らしさ」についてお聞きします。人間からロボットでもできることを引いていくと、果たして何が残るのか。それこそが人間であり、人間らしさを形づけるものではないか。最後に人間に残るものについて考察していただきます。
 次に、欠損したからだの一部そのものあるいは義肢を覆うことで、人の肌をみごとに再現する「人工ボディ」の制作者、川村義肢株式会社技術推進部工房アルテ主任技師の福島有佳子氏と、五感を中心に人間や社会のかかわりについて幅広い活動をされている作家、五感生活研究所代表の山下柚実氏に対談していただきます。からだの復元にとって大きな意味をもつ「自分らしさ」が主たるテーマになります。
 最後に、「能」の世界下掛宝生流能楽師の安田登氏に、ワキ方を通じて見えてくる「らしさ」それ自体についてお話いただきます。(佐藤真)


 
   editor's note[before]
 


◎アンドロイド症候群
生きるってなんやろか 科学者と哲学者が語る、若者のためのクリティカル「人生」シンキング 石黒浩、鷲田清一 毎日新聞社 2011
アンドロイドを造る 石黒浩、株式会社ココロ オーム社 2011
ロボット演劇 大阪大学コミュニケーションデザイン・センター編著 大阪大学出版会 2010 
人間らしさとは何か? 人間のユニークさを明かす科学の最前線 M・S・ガザニガ 柴田裕之訳 インターシフト 2010
身体補完計画 すべてはサイボーグになる 原克 青土社 2010
気分はサイボーグ 原克 角川学芸出版 2010
ロボットとは何か 人の心を映す鏡 石黒浩 講談社現代新書 2009
サイボーグ・フィロソフィー 『攻殻機動隊』『スカイ・クロラ』をめぐって 高橋透 NTT出版 2008
ヒューマノイドロボット解体新書 春日出版編集部 春日出版 2008 
瀬名秀明ロボット学論集 瀬名秀明 勁草書房 2008
アンドロイドサイエンス 人間を知るためのロボット研究 石黒浩 毎日コミュニケーションズ 2007
サイボーグ・ダイアローグス D・ハラウェイ、T・N・グッドイヴ 高橋透、北村有紀子訳 水声社 2007
超人類へ バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会 R・ナム 西尾香苗訳 インターシフト (発売 河出書房新社) 2006
サイボーグとして生きる M・コロスト 椿正晴 ソフトバンククリエイティブ 2006
サイボーグ化する私とネットワーク化する世界 W・J・ミッチェル 渡辺俊訳 NTT出版 2006
ヒューマノイドロボット 梶田秀司 オーム社 2005
人間の終焉 テクノロジーは、もう十分だ! B・マッキベン 山下篤子訳 河出書房新社 2005
脳・身体性・ロボット 知能の創発をめざして 土井利忠、藤田雅博他編 シュプリンガー・フェアラーク東京 2005
猿と女とサイボーグ 自然の再発明 D・ハラウェイ 高橋さきの訳 青土社 2000

◎人体改造、人工身体、スカリフィケーション
ババア・ウォーズ新たな美貌 中村うさぎ 文春文庫 2009
ビューティ・ジャンキー 美と若さを求めて暴走する整形中毒者たち A・クチンスキー 草鹿佐恵子訳 バジリコ 2008
刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ 宮下規久朗 NHKブックス 2008
サイボーグ・エシックス 高橋透 水声社 2006
イレズミの世界 山本芳美 河出書房新社 2005
タトゥー・エイジ 長吉秀夫 幻冬舎 2005
<五感>再生へ 感覚は警告する 山下柚実 岩波書店 2004
美容整形 「美しさ」から「変身へ」 山下柚実 文春文庫 2001
人体改造マニュアル タトゥー、ボディピアスから整形、性転換手術まで 改造人間プロジェクト 同文書院 1997
人工身体論 あるいは糞をひらない身体の考察 金塚貞文 青弓社 1990
生体廃墟論 伊藤俊治 リブロポート 1987 

◎化粧文化
化粧に見る日本文化 だれのためによそおうのか 平松隆円 水曜社 2009
男はなぜ化粧をしたがるのか 前田和男 集英社新書 2009
化粧する脳 茂木健一郎 集英社新書 2009
コスメの時代 「私遊び」の現代文化論 米澤泉 勁草書房 2008
顔の文化史 村澤博人 講談社学術文庫 2007
化粧行動の社会心理学 化粧する人間のこころと行動 大坊郁夫 北大路書房 2001
現象学的化粧論 おしゃれの哲学 石田かおり 理想社 1995
日本の化粧 道具と心模様 ポーラ文化研究所コレクション(2) ポーラ文化研究所 1989
西洋化粧文化史 青木英夫 源流社 1979
化粧 ものと人間の文化史 久下司 法政大学出版局 1970

◎面(めん)の裏/裏の面(おもて)
日本の仮面 能と狂言 F・ペルツィンスキー 吉田次郎訳 野上記念法政大学能楽研究所監修 法政大学出版局 2007
無心 ある能面師の一生 広瀬裕介 文芸社 2004
能のおもて 中西通 玉川大学出版部 1998
能面大観 斎藤香村 東洋書院 1978
能面 その世界の内と外 戸井田道三、後藤淑 実業之日本社 1977
能面史研究序説 後藤淑 明善堂書店 1964

◎能楽の宇宙
異界を旅する能 ワキという存在 安田登 ちくま文庫 2011
身体能力を高める「和の所作」 安田登 ちくま文庫 2010
世阿弥 別冊太陽 日本の心173 平凡社 2010
能の見える風景 多田富雄 藤原書店 2007
宴の身体 バサラから世阿弥へ 松岡心平 岩波現代文庫 2004
劇場に行こう 能にアクセス 井上由理子 淡交社 2003
脳の中の能舞台 多田富雄 新潮社 2001
能楽入門1 初めての能・狂言 三浦裕子 小学館 1998
謡曲百番 新日本古典文学大系 西野春雄校注 岩波書店 1998
能の物語 白洲正子、松本徹 講談社文芸文庫 1995
夢幻能 田代慶一郎 朝日選書 1994
夢十夜 他二篇 夏目漱石 岩波文庫 1986
能芸論 戸井田道三 勁草書房 1965
風姿花伝 世阿弥 野上豊一郎、西尾実校訂 岩波文庫 1958(74刷2011)