〈ポスト真実〉とポピュリズム

西田亮介

にしだ・りょうすけ
1983年京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業後、同大学院政策・メディア研究科修士課程修了、同後期博士程単位取得退学。同助教、中小機構経営支援情報センターリサーチャー、立命館大学大学院特別招聘准教授などを経て、現在、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。博士(政策・メディア)。専門は社会学、公共政策学。情報と政治(ネット選挙、政党の情報発信)、若者の政治参加、情報化と公共政策、自治体の情報発信とガバナンス、ジャーナリズム、無業社会などを研究。著書に『不寛容の本質』経済界新書、2017、『メディアと自民党』角川新書、2015、『ネット選挙解禁がもたらす日本社会の変容』東洋経済新報社、2013他がある。
社会の熱量が問題解決に向かうのであれば、
そこに発揮されるポピュリズムは「良い」ポピュリズムであると言えるでしょう。
けれどもわれわれが問題の所在を的確に理解できなくなったり、それを他者と共有することができなくなると、
まったく見当違いの方向に進んだり、自分たちの生活が拠って立つ土台を棄損してしまいかねない。
これは「悪い」ポピュリズムと呼んでよく、
けれども日本の将来は、どちらかというと悪いポピュリズムの方へ向かっていくような気がしています。

〈ポスト真実〉とメディア・リテラシーの行方

飯田豊

いいだ・ゆたか
1979年広島県生まれ。東京大学大学院学際情報学府学際情報学専攻博士課程単位取得退学。現在、立命館大学産業社会学部現代社会学科准教授。専門はメディア論、メディア技術史、文化社会学。著書に、『テレビが見世物だったころ初期テレビジョンの考古学』青弓社、2016、共著書に『メディア・リテラシーの諸相 表象・システム・ジャーナリズム』ミネルヴァ書房、2016、他がある。
送り手/受け手の区別が融解している代わりに、今や、開発者/利用者の乖離が問題であり、
その循環こそが模索されなければならない時代になったのかもしれません。
メディア・リテラシーという概念は果たしてその媒介になり得るのか。
スマホがメインフレームになろうとしている時代だからこそ、
メディア・リテラシーの有効性を問う必要があるのかもしれません。

〈ポスト真実〉…日本語の特性とジャーナリズムから考える

武田徹

たけだ・とおる
1958年東京都生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科修了。専門はメディア社会論、共同体論、産業社会論。在学中からジャーナリスト、評論家として活動。東京大学特任教授、恵泉女子学園大学教授を経て、現在、専修大学文学部人文ジャーナリズム学科教授。著書に、『なぜアマゾンは1円で本が売れるのか ネット時代のメディア戦争』新潮新書、2017、『日本ノンフィクション史 ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』中公新書、2017、『日本語とジャーナリズム』晶文社、2016、『流行人類学クロニクル』(サントリー学芸賞社会風俗部門賞)日経BP社、1999他がある。
「コミュニケーション万能論」こそが要注意で、
逆にすべてのニュースや情報も基本的にはフェイクであり得ると考えて、
じゃあどういう条件ならフェイクにならないのか、丁寧に論じていくことも大事かなと思っています。
それを、隠されている真実を探すというような本質主義で考えないで、
真実として最低限共有できるものを目指して漸進的に改良してゆく、
つまり、コミュニケーションを止めないで継続していくことにまずは価値をみたい。

われわれを取り巻く〈ポスト真実〉的世界

インターネットの登場とメディア環境の変容

 インターネットの商用サービスが始まってすでに20年以上が経ちました。これまで、ニュースは新聞やテレビ、ラジオを通じて知るものでしたが、今やインターネットという一つの空間の中で、取り扱われるものになりました。人々は、パソコンやケータイ(携帯電話)、スマホ(スマートフォン)で、いつでもどこでもニュースを知ることができるようになったのです。
 マスメディアの時代とのもっとも大きな違いは、なんといっても発信される情報量の多さでしょう。情報接触の機会が増え、情報発信のスピードも速くなり、それこそ瞬時に世界中から情報を入手できるようになり、一人ひとりが得られる情報量はマスメディアの時代とは比較できないほど膨大です。
 それだけではありません。人々は情報を受信するだけでなく、情報の発信者にもなり得るのです。インターネットとつながることで、受信者/発信者の境界がなくなり、誰もが自由に両者を行き来することが可能になったのです。ある場面では情報を消費する受信者であっても、別の場面では、情報を提供する発信者になることもあり得るということです。言い換えれば、インターネットの登場によって、メディアと市民の間の情報の流れが変わったのです。
 マスメディアの時代は、情報はいうなれば「報道機関(発信者)から読者・視聴者(受信者)へ」という一方向しかありませんでした。報道機関は、ニュースを発信し、読者・視聴者はそれを消費する。情報の供給側と受容側の違いが明確で、両者はそれぞれの立場を堅持していました。インターネットの時代になって、情報の流れが一方通行から双方向に変わると、発信者がある時は受信者へ、受信者もある時は発信者へと、その立場を交換することが可能になりました。「市民同士がマスコミ情報を共有したり、論評することが決定的な役割を果たすようになった」(松林薫『「ポスト真実」時代のネットニュースの読み方』)というわけです。
 しかもネットで配信される記事の大半に、SNSによる拡散機能やレスポンス機能がついているので、記事のリンクを仲間に知らせたり、感想を書き込んで記事と一緒に読んでもらったりすることも可能になりました。「これは、一般市民の評価や意見を、他の読者が記事と同時に消費するようになったことを意味します。言い換えれば、一般人のコメントが、記事という〈商品〉の一部に組み込まれるようになった」(同)というわけです。

なぜフェイクニュースが生まれるのか
 記事のコメント欄への書き込みやSNSでの情報発信によって、読者はコンテンツ作成の一部を担う記者と同じ立場に立つことになりますが、それはコンテンツの流通においても同様です。SNSの拡散機能やレスポンス機能によって、情報発信のみならず、情報の拡散も読者が担うようになる。そして、その反応が報道姿勢に直接的な影響を与えるようになったのです。
 これまで新聞では発行部数が、またテレビでは視聴率が、その報道に対する読者・視聴者の反応であり、影響力の指標となっていました。そのことの是非は措くとして、インターネットとつながることでニュースやそれを配信するメディアへの評価は、その記事へのアクセス数やPV(ページビュー)で決まるようになります。その記事への関心が高ければ、アクセス数は増大しSNSではより多く拡散します。
 マスメディアが強力な時代は、良くも悪くも、メディアが世論を動かしていました。マスメディアが情報を独占し、情報はマスメディアから一方的に流されるものでした。ところが、インターネットにつながることで、情報が双方向的に流れるようになり、それまでのメディアと世論の関係が崩れ始めます。メディアが世論に動かされるような事態が起こるのです。
 メディアを市民の側に開くという意味では、称揚される事態です。報道機関が果たしてきた役割を市民も担うことになるからで、メディアリテラシーの観点からも、それは評価されることでした。ところが、喜んでばかりはいられない事態が起こります。
 松林薫氏は、2016年は、フェイクニュースが国際社会を動かして時代として記憶されるかもしれないと言いました。英国がEUからの離脱(Brexit)を決めた2016年の6月の国民投票で、離脱派は同国が EUに払っている拠出金が週3億5000万ポンド(当時の為替レートで約480億円)にのぼると強調。EUから離脱すれば、このお金が国民医療サービスに回せるとキャンペーンを張り、その効果もあって離脱派は勝利したのです。
 離脱派の街宣カーにはこのスローガンが掲げられ、また、その写真やメッセージがネット上に広く拡散したといわれ、国民投票に大きな影響を与えたというのです。じつは、3億5000万ポンドという金額は正しくないという指摘があり、実際、EUから英国への分配金などもなくなるので、財源として考えると相殺されるという意見もありました。結局、離脱派は勝利の後、その事実を認めましたが、離脱派のフェイクすれすれの主張は、ネットやSNSなどで拡散され、正確な事実や正論をかき消してしまったのです。
 一方当初は泡沫候補と言われながら、2916年11月のアメリカ大統領選で、第45代大統領になったドナルド・トランプも、演説会やSNSで事実誤認や差別意識を多く含んだ発言を繰り返したと言われています。なかでもローマ法王がトランプ氏を支持したという、どう考えてもあり得そうもないデマが、少なくともトランプ支持者の間で検証されることもなく共有されたのです。
 こうした現象は、じつは日本国内でも広がりをみせています。「コスモ石油の爆発で有害物質の雨が降る」とか「動物園からライオンが逃げた」とか……。そのなかでも大きな話題となったのは、大手ネット企業DeNA(ディー・エヌ・エー)が、肩こりの原因が幽霊であるといった非科学的情報を大量に医療系キュレーション(まとめ)サイトのWELK(ウェルク)に掲載したことでした(藤代裕之『ネットメディア覇権戦争 偽ニュースはなぜ生まれたか』)。
 こうした不確実で、非科学的な情報、いわゆるデマをフェイクニュースと言いますが、じつはフェイクニュースは、現在も拡大し続けているようです。なぜフェイクニュースが広がるのか。先ほど言ったように、ニュースの発信と流通の仕方が変わったからです。ニュースは、これまでマスメディアである新聞やテレビが担ってきましたが、SNSなどのソーシャルメディアの登場で、誰もが簡単にニュースを発信できるようになり、また、ネットの普及によってパソコンやスマホでニュースを見たり読んだりするようになりました。じつは、そうしたメディア環境の変化がフェイクニュースを生み出していると考えられるのです。フェイクニュースこそ、デジタル社会の落とし子だと言えるでしょう。
 そこで今号は、インターネット登場以降のメディア環境の変容について、フェイクニュースあるいは〈ポスト真実〉を手がかりに考えます。

ポピュリズムと日本語の特性
 2016年を象徴する英単語として、オックスフォード英語辞典は〈POST-TRUTH(ポスト・トゥルース)〉という単語を選びました。「あえて意をくんで訳すならば、〈客観的事実が重要視されない時代〉という意味になるでしょうか。日本の社会や政治も、この〈POST-TRUTH 〉とは無関係ではない」どころか「私たちが普段接している情報は、少なからず〈POST-TRUTH 〉的な面を含んでいる」と言うのは東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授・西田亮介氏です。
 そこでまず〈ポスト真実〉がはびこる背景について、西田氏の専門である「情報と政治」を切り口に、ネットメディアとの関わりから解明してもらいます。そこでのキーワードはポピュリズムです。
 フェイクニュースを確信犯的に流す送り手は、ネットのリテラシーが低いと思われているけれども、それはまったくの誤解。むしろ彼らのリテラシーは一般人のそれよりも高い可能性がある。インターネットがベースとなる現代のメディア環境を考察するにあたって、メディアリテラシーの射程は、じつはかなり有効ではないか。とくに情報の送り手/受け手の区分がますます曖昧になった現代では、むしろ「送り手のメディア・リテラシー」に照準することで見えてくることは少なくない。そういう確信のもとに、「メディア・リテラシー」の更新を目論んでいるのが立命館大学産業社会学部准教授・飯田豊氏です。送り手/受け手の区分が融解した現代社会において、なおメディア・リテラシーを問う意味について言及していただきます。
 専修大学文学部人文ジャーナリズム学科教授・武田徹氏は、日本のジャーナリズムについての問題関心から、とりわけ日本語の構造とジャーナリズムの関係について研究されています。武田氏によれば、戦後日本のジャーナリズムの特徴は「無署名性言語」にあり、その具現化が一人称複数の「われわれ」です。「われわれ」という言葉は「汝- 汝」の二項関係によるものですが、その独特な送り手と受け手の共同体的関係が、スマホ以降のメディア環境に表出しているというのです。そして、フェイクニュースや〈ポスト真実〉の問題の核心は、日本語の特性との関係からこそ見えてくるというのです。最後に〈ポスト真実〉を踏まえたうえで、ジャーナリズムの未来について考察していただきます。

(佐藤真)

ネットのなかに真実はあるか

良いポピュリズムと悪いポピュリズム
 マスメディアから、インターネットを中心とするデジタルメディアに、メディアの力点が移ったことでもっとも大きく変わったのは、情報の発信量と受信頻度の高さです。かつては、家庭に配達される朝刊と夕方や夜に見るテレビでニュースを知りましたが、今やニュースを知るのは、もっぱらスマホやタブレット。通勤途中の車内や移動先でタイムラインに表示されるニュースを次々に読み飛ばしていきます。
 一見情報接触の機会が増えることは良いことのように思われます。接触回数が増えることで情報の相対化が進み、そこでの価値判断も多様になることが期待されるからです。しかし実際はむしろ情報の発信量と受信頻度の高さが大きな問題となっています。ネット環境に最適化していくとかえって情報の質は落ちていくと西田亮介氏は指摘しました。通常のウェブサイトはPV(ページビュー)を指標に、広告収入もPV数で決まります。ページ数を多くして何度もページ移動させればPVを稼ぐことができ、広告収入も大きくなります。そこで内容が伴わないページが量産されていくことになるというのです。
 しかも、ニュースの配信は、マスメディアの時代とは大きく異なり、インターネットのポータルサイトがその主流になりつつあります。なかでも、「まとめサイト」や「キュレーションサイト」が注目され、ニュースもそのなかのコンテンツの一つとして受容されるようになりました。
 「まとめサイト」や「キュレーションサイト」は、ネット上の多様で大量な情報群から関連するサイトをリストアップしたり順位付けしたりするもので、本来ネットユーザーのガイド役となるべきものです。しかし、昨年他からの盗用、単なるリライトや再編集、あるいはまったくのねつ造などのいわゆるフェイクニュースが「キュレーションサイト」に含まれていたことが明るみに出ました。ネットへの最適化を追求しすぎた結果だろうと西田氏は診断します。
 昨今ジャーナリズムの文脈で注目されているものにポピュリズムがあります。大衆迎合主義などと訳される政治姿勢ですが、西田氏は、フェイクニュースなどの〈ポスト真実〉に引きつけて、日本社会とポピュリズムの関係について警鐘を鳴らします。ポピュリズムはネットメディアとの相性がとても良いとしたうえで、次のように危惧しています。「社会の熱量が問題解決に向かうのであれば、そこに発揮されるポピュリズムは〈良い〉ポピュリズムである」と言える。「けれどもわれわれが問題の所在を的確に理解できなくなったり、それを他者と共有することができなくなると、まったく見当違いの方向に進み」、〈悪い〉ポピュリズムになる。日本の将来は、悪いポピュリズムの方へ向かっていくような気がすると言うのです。ポピュリズム的傾向を強めつつある日本社会の今後については、さらなる検討が必要でしょう。

送り手/受け手の非対称性の崩れとジャーナリズムの行方
 「フェイクニュースを確信犯的に流す送り手は、ネットのリテラシーが低いかといえばそんなことはなく、むしろ高いと言っていい。ネット詐欺に手を染める人もネットの特性を熟知しているはず」だからと飯田豊氏は言いました。昨今のメディア状況を正確に捉えるためには、情報の送り手/受け手、表現の生産者/消費者の境界が曖昧になっているという現状認識がまず必要でしょう。そのうえで、送り手になることの敷居が格段に下がり、アマチュアリズムの裾野が広がるなかで、むしろ「送り手のメディア・リテラシー」への力点移動が必要ではないかと言うのです。それは、現代社会における情報の送り手としてのアマチュアへの着目です。
 送り手と受け手の非対称性が崩れ、フラットな関係に再編成されてきたことで、情報の流れ方はまったく異なるものになりました。「アマチュア」という概念の見直しが喫緊の課題であり、新たな視点として開発者/利用者の乖離という問題枠組みから、メディア・リテラシーを底上げしていくことが肝要だと飯田氏は示唆しています。
 「送り手のメディア・リテラシー」は、現代のジャーナリズムを捉えるうえでも、新たな視点を提供します。武田徹氏は、「従来のマスメディアとパーソナルメディアの二分法の枠組みが、2000年代以降のソーシャルメディアの登場によって、三項対立的図式で考えなければならない状況になった」と言いました。一方、武田氏は、発信者と受信者が一つの共同体である「われわれ構造」に入ってしまうことの問題点を指摘します。「われわれ」は、発信者は受信者も同じ判断をするだろう「汝」として発信し、受信者も発信者が自分と同じ判断を下す「汝」と感じる、「汝-汝」の二項関係に包括されてしまうという。言い換えれば、これは一人称複数形で表現することであり、とりわけ日本語及び日本文化に顕著ではないかと言うのです。
 これまでのジャーナリズムでは「真実」は歴然と存在し、きちっと取材をすれば「真実」は伝わるという素朴実証主義的「コミュニケーション万能主義」( 武田徹) が支配的でした。しかし、すべてのニュースや情報も基本的にはフェイクであると考えるところから、議論を進めることもあり得るのではないか。隠されている真実を探すというような本質主義から離れ、最低限共有できる真実を目指し漸進的に追究すること。一人称複数形による表現がSNSというプラットフォームにおいて実践されているものと自覚する時、〈ポスト真実〉的世界のほころびがあらわになるのです。ただ、それは、新たな〈ポスト真実〉的世界の始まりかもしれません。

(佐藤真)

◎〈ポスト真実〉時代の政治・社会・大衆

「ポスト真実」時代のネットニュースの読み方 松林薫 晶文社 2017
〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生 ウェブにハックされた大統領選 池田純一 青土社 2017
ネットメディア覇権戦争 偽ニュースはなぜ生まれた 藤代裕之 光文社新書 2017
ネコがメディアを支配する ネットニュースに未来はあるのか 奥村倫弘 中公新書ラクレ 2017
ポピュリズム 世界を覆いつくす「魔物」の正体 藥師院仁志 新潮新書 2017
ポピュリズムとは何か J-W・ミュラー 板橋拓巳訳 岩波書店 2017
カウンター・デモクラシー 不信の時代の政治 P・ロザンヴァロン 嶋崎正樹訳 岩波書店 2017
雑誌『科学』2017年5月号 特集「〈真実〉の危機」 岩波書店 2017
雑誌『Journalism( ジャーナリズム)』2016年 8月号 特集「ネットニュースは進化を続けるか?」 朝日新聞社ジャーナリスト学校 2016
雑誌『Journalism( ジャーナリズム)』2016年 12月号 特集「世論はどう作られるのか」 朝日新聞社ジャーナリスト学校 2016
雑誌『現代思想』vol 45 -1 特集「トランプ以後の世界」青土社 2017
マーケティング化する民主主義 西田亮介 イースト新書 2016
ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か 水島治郎 中公新書 2016
メディアと自民党 西田亮介 角川新書 2015
ネット選挙 解禁がもたらす日本社会の変容 西田亮介 東洋経済新報社 2013
ヤフー・トピックスの作り方 奥村倫弘 光文社新書 2010
鏡の町 皮膚の町 新聞をめぐる奇妙な話 赤瀬川原平 筑摩書房 1976

◎メディア環境の変容とメディア・リテラシー

メディア・リテラシー教育 ソーシャルメディア時代の実践と学び 中橋雄編著 北樹出版 2017
メディア・リテラシーの諸相 表象・システム・ジャーナリズム 浪田陽子、飯田豊他 ミネルヴァ書房 2016
テレビが見世物だったころ 初期テレビジョンの考古学 飯田豊 青弓社 2016
メディア考古学 過去・現在・未来の対話のために E・フータモ 太田純貴訳 NTT 出版 2015
アーキテクチャの生態系 情報環境はいかに設計されてきたか 濱野智史 ちくま文庫 2015
メディア・リテラシー論 中橋雄 北樹出版 2014
メディア技術史 デジタル社会の系譜と行方 飯田豊編著 北樹出版 2013
最新Study Guide メディア・リテラシー 入門編 鈴木みどり編著 リベルタ出版 2013
メディア文化論 メディアを学ぶ人のための15話 吉見俊哉編 有斐閣アルマ 2012
メディアと日本人 変わりゆく日常 橋元良明 岩波新書 2011
送り手のメディアリテラシー 地域からみた放送の現在 黒田勇編著 世界思想社 2005
メディア・リテラシーの社会史 富山英彦 青弓社 2005
メディア・リテラシー 世界の現場から 菅谷明子 岩波新書 2000
メディア・リテラシー論 マスメディアを読み解く カナダオンタリオ省編著 FCT 訳 リベルタ出版 1992
メディア論 人間拡張の諸相 M・マクルーハン 栗原裕、河本仲聖訳 みすず書房 1987
グーテンベルクの銀河系 活字人間の形成 M・マクルーハン 森常治訳 みすず書房 1986

◎ジャーナリズムとソーシャルメディア

なぜアマゾンは1円で本が売れるのか ネット時代のメディア戦争 武田徹 新潮新書 2017
日本ノンフィクション史 ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで 武田徹 中公新書 2017
ツイッターの心理学: 情報環境と利用者行動 北村智、佐々木裕一他 誠信書房 2016
ソーシャルメディアと〈世論〉形成 遠藤薫 東京電機大学出版局 2016
日本語とジャーナリズム 武田徹 晶文社 2016
ネット炎上の研究 田中辰雄、山口真一 勁草書房 2016
ソーシャルメディア論:つながりを再設計する 藤代裕之 青弓社 2015
〈つながる/つながらない〉の社会学 個人化する時代のコミュニティのかたち 柄本三代子、小林由香他 弘文堂 2014
別のしかたで:ツイッター哲学 千葉雅也 河出書房新社 2014
ソーシャルメディアの何が気持ち悪いのか 香山リカ 朝日新書 2014
つながりっぱなしの日常を生きる ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの D・ボイド 野中モモ訳 草思社 2014
ソーシャルメディア中毒 つながりに溺れる人たち 髙橋暁子 幻冬舎 2014
デジタルネイティブの時代 なぜメールをせずに「つぶやく」のか 木村忠正 平凡社新書 2012
ケータイ化する日本語 モバイル時代の〝感じる〟〝伝える〟〝考える〟 佐藤健二 大修館書店 2012
日本的ソーシャルメディアの未来 濱野智史、佐々木博 技術評論社 2011
キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる 佐々木俊尚 ちくま新書 2011
ウェブ炎上 ネット群集の暴走と可能性 荻上チキ ちくま新書 2007

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