虚/実の交錯……相対主義への内在

千葉雅也

ちば・まさや
1978年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。パリ第10大学留学などを経て、現在、立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。専門は哲学、表象文化論。著書に、『意味がない無意味』河出書房新社、2018、『思弁的実在論と現代について 千葉雅也対談集』青土社、2018、『勉強の哲学 来るべきバカのために』文藝春秋、2017、『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』河出書房新社、2013、他がある。
僕が「分身」と表現することも、形式的に相手の立場に接近する儀礼的行為ということもできて、
それは言い換えれば、「虚」を実践することでもあるわけです。
ネット上の人々の振る舞いは、過剰なことを言ってみせたり、
人の注意を引くようなレトリックを使ったりして、多分に演劇的に見えますが、
最近はますます「虚」の遊びが乏しくなり、「実」の誇張ばかりになっているように思えます。
今僕は、ネット空間のなかにも儀礼的な空間を、部分的でもいいからつくろうと努力していますが、
やはりネット空間では、社交性を破壊する側面が強くあると感じないではいられません。

フィクション、現実を宙づりにする

久保昭博

くぼ・あきひろ
1973年千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科満期退学。パリ第3大学博士課程修了。現在、関西学院大学文学部文学言語学科教授。文学博士。専門は、文学理論、フランス文学。著書に『表象の傷 第一次世界大戦からみるフランス文学史』人文書院、2011、訳書に、『なぜフィクション? ごっこ遊びからバーチャルリアリティまで』ジャン=マリー・シェフェール著、慶應義塾大学出版会、2019、『地下鉄のザジ』レーモン・クノー著、水声社、2011、他がある。
フィクションが成立するためにはノンフィクションとしての事実、
あるいは現実があることが条件です。
言い換えれば、事実や現実の領域がなくなってしまったら、
フィクションの領域もなくなってしまう。
つまりフィクションは、事実あるいは現実と表裏一体なんです。
フィクションとは常に事実ないしは現実との相互作用のうちに存在し、
それによって規定される想像の領域であるわけで、
その意味では、今回の特集テーマに引きつけて、
虚実のあいだにあるものだと言えるのかもしれません。

亡霊としてのメディア……模倣と感染

石田英敬

いしだ・ひでたか
1953年千葉県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。人文科学博士。2019年3月末まで、東京大学大学院総合文化研究科教授および同大学院情報学環教授。専門は記号論、メディア論。著書に『新記号論 脳とメディアが出会うとき』ゲンロン、2019(東浩紀と共著)、『大人のためのメディア論講義』ちくま新書、2016、『自分と未来のつくり方―情報産業社会を生きる』岩波ジュニア新書、2010、編著書に『デジタル・スタディーズ』全3巻、東京大学出版会、2015 、『フーコー・コレクション』全6巻、筑摩書房、2006、他がある。
光を離れて、より実体のない数値やプログラムへと還元されていく今日のデジタルメディア環境では、
どこにもいないはずのプログラムとしての初音ミクが、
ネットワークの世界のいたるところでさまざまに多様な歌を歌い続けています。
あらゆるところにもう亡くなったはずのマイケル・ジャクソンがいるし、
一九七○年というはるか昔に解散し、
亡くなったメンバーもいるビートルズをもう一度リミックスするというように、
人をなかなか死なせてもくれなくなった。
日常のなかにごく普通にオバケがいる世界。
デジタルテクノロジーのメディアがあまねく世界を覆う現代は、
まさにデフォルト亡霊の時代だと言えるでしょう。

虚と実がブレンドする社会をどう捉えるか
虚実皮膜と舞台の外

人形浄瑠璃・歌舞伎の脚本作者である近松門左衛門(1653ー1724)は、「虚実皮膜論」という芸術論を著しています。ただ、本人が著したものではなく、近松と親交のあった穂積以貫が近松の聞き書きをしたとされていますが、近松の考えが十全に生かされていることは間違いないようです。「虚実皮膜論」は、近松の作品や作劇法を分析するうえで、重要な芸術論だといわれていますが、それは専門家のなかでの話で、一般には「虚実皮膜論」といわれても、ピンとくる人はそう多くはないでしょう。にもかかわらず、「虚実皮膜論」をあえて取り上げようと思ったのはそれなりの理由があります。「虚実皮膜論」は、虚構と現実、嘘と真実、本物と偽物、という今日的な話題に示唆を与え続けてきたからです。
 近世演劇研究という分野で、「虚実皮膜論」は「日本文芸史における虚構論の先駆」に位置付けられ、近世演劇研究にはとどまらない影響力をもち続けているといわれています。日本の伝統文化を考えるにあたって、「虚実皮膜論」は、格好のテキストだというのです。とくに、歌舞伎・能といった日本の伝統演劇とヨーロッパゆずりの近代演劇が、並立して発展してきたわが国において、その二種類の演劇がどのように互いを意識し受容してきたのかを考える時、「虚実皮膜論」は、一つの重要なメルクマールになるといいます。なぜならば、演劇における重要テーマの一つであるリアリズムの問題とかかわるからです。
 演劇が人間の身体表現である以上、身体をとりまく現実世界は、まさに人間にとっての現実であり、日常です。リアリズムは常に演劇と深いかかわりをもってきました。俗に様式美の典型と目される歌舞伎や能においても、その役者の演技がリアルであるかどうかが常に重要な評価基準の一つとなります。
 演劇においてリアルであるとはいかなることか、そもそもリアルとは何をいうのか。わが国では、「リアリズム演劇」という世界でも珍しいジャンルが存在します。リアリズムをどう捉えるか、演劇を含む文学表現の世界では、常に論争の的でした。単に舞台(のなか)上の問題ではなく、舞台の外の問題として認識されてきたからです。
 虚構という舞台と日常という現実。フィクションとリアリズムの関係と言い換えることもできますが、要するに、日本文化の根底に横たわるより大きな問題に接続する可能性をはらんでいるのです。


「うつり」という感染
 「虚実皮膜論」は、近松没後14年の元文3(1738)年に刊行された浄瑠璃の本文の注釈書『難波土産』(五巻)の第1巻の冒頭に「発端」として収録されています。
 発端は、浄瑠璃の来歴を小野於通から近松が新浄瑠璃をうちたてた事績に触れた後、近松没後までの状況を述べた部分に続き、近松の言説6項目が「◯」印を付して箇条書きのように記されています。虚実皮膜論は、その6番目の項目として登場します。そのもっとも著名な箇所を記します。
 「芸(げい)といふものは、実(じつ)と嘘(うそ)との皮膜(ひにく)の間にあるもの也」
「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に癒が有たもの也」と。
 公開されている現代語訳によると、「芸というものは、実と嘘との皮膜(ひにく=皮と肉)の間にあるもので、虚でありながら虚ではなく、実でありながら実ではない、そういうところになぐさみがあるものなのだ」という。
 近松は、ここで役者を引き合いに出して演劇論を展開しています。その前後の文脈から推測すると、次のように解釈できます。事実をリアルに表現しても芝居にはならない。虚構を前提としたうえで、リアリティ(実)を感じさせるのが芝居というものです。言い換えれば、虚構が表現された時、つまり現実化した時、虚構は虚構としてリアル(真実)になるというのです。そして、何より重要なのは、それが心のなぐさみになるということです。
 「虚実皮膜論」の解釈をめぐっては、いくつもの論文が発表されていますが、それらとは別に、いわゆる芸談として言葉を残している役者も何人かいます。その代表が女形の芳沢あやめで、近世文学の研究者東晴美氏によると、芳沢あやめは、「実」の対立項として、「虚」ではなく、「かぶき」をあげているといいます。
 「〈実〉の対立項として〈虚〉ではなく、〈かぶき〉をあげている。リアリティを〈創出〉している時点で歌舞伎は〈虚〉なのであり、〈正真〉をうつさない〈虚〉の事例をひきあいに出すまでもなく、虚が内在するかぶきと実が混じり合ってこそリアリティのある舞台が創出されるのである。
(…)このようなリアリティのある表現をするとき、近世においては、『難波土産』の項目③「よむ人のそれぞれの情によくうつらん事」にあるように〈うつり〉という用語を使う」⑴。
 「うつり」は表現者と受容者との暗黙の了解の虚を含み込んだリアリティだと東氏はいいます。舞台上の「虚」が、よくうつっているという感覚を表現者と観客が共有しえた時、その舞台上に実(リアリティ)が立ち上がるというのです。
 民俗学者の上原輝男氏は、「うつり」は「感染」であり、「芸におけるうつりとは、芸が芸において写すのではなく、芸が人(観客)に感染する感度において、芸の成立を認めている」と述べています⑴。つまり、うつりは、役者の身体が真実を写し取っているに留まらず、その芸を通して観客の「情」によく映し出されているかということです。舞台上で表出したいものが観客に感染することこそが「うつり」ではないか、と上原氏は問いかけます。
 近世における写実とは、虚である舞台上にリアリティをもたせるにあたって、役者が映し出すリアリティだけでなく、観客の情(心と言い換えてもよい)によく映し出される「うつり」のリアリティが求められます。この時に重要になってくるのが、「情」であり、役者は登場人物の情を社会的立場を踏まえて理解しようとするのです。そして、言うまでもなく、「このような、表現者による登場人物の情の理解が、(すなわち)観客の情を投影される身体表現が、近世の写実」であり、リアリズムという方法だというわけです。
 「虚実皮膜論」および役者の芸談は、写実について述べていますが、それはそのまま近現代演劇におけるリアリズムと読み替えることも可能です。「だからこそ、虚実皮膜論は、具体的な舞台表現の問題にとどまらず、矛盾に満ちた社会をどのように作品に反映するかという理念の問題にも及んで解釈され」ました。
「近松の言説は、伝統演劇が過去の遺物ではなく、現代に生きる古典として再生する装置として重要な役割を果たして」いるといえるのです⑴ 。


アウラの消滅がリアルを呼び込む
 「虚実皮膜論」を再考するにあたって、もう一つ補助線を引いてみようと思います。それは、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの重要な概念であるアウラ(aura)の導入です。ベンヤミンがこの概念を提示したのは「複製技術の時代における芸術作品」という1936年の論文でした。ベンヤミンは、「複製技術の進んだ時代のなかで、ほろびていくものは作品のアウラ」であり、「この(ほろびていく)プロセスこそ現代社会の特徴」だと論じたのです。アウラとは、人体から発せられる霊気のことで、転じて人物がもつある特有の雰囲気をいいます。ベンヤミンは、それを独自に解釈し、「ほんもの」性とか「いま」「ここに」しかない固有のものとして概念化しました。普段なにげなく、あの人には「オーラ」があるね、というように、「オーラ」という言葉を聞いたり使ったりしますが、アウラとはこのオーラのことで、要するに芸術作品のもつ唯一性、一回性のことです。
 ベンヤミンは、写真や映画といった複製技術の登場によって、こうした芸術作品の唯一性、一回性が雲散霧消したと断じました。しかし、誤解してはならないのは、ベンヤミンはそれをまったく嘆いてはいないということです。むしろ、そのことは芸術に新しい機能が加わったことであり、芸術作品を鑑賞するために都合が良いような新たな知覚変化をもたらしたと言ったのです。
 複製技術が生み出す一時性の反復は、オリジナル信仰を完膚なきまでに打ち砕きました。ただその過程で、複製・反復されるものに新たなアウラが宿ったというのです。増殖という時間性であり、拡張という空間性です。逆説的ではありますが、アウラの否定の先で、無限へと開かれる新たなアウラが生まれたのです。増殖と拡張に共通するもの。それこそが、リアルという現実に他なりません。リアルが新たなアウラとして再生したのです。


デフォルト亡霊が跋扈する時代
 今号は、虚実皮膜論を手掛かりに、現代におけるリアルについて考えます。
 リアルなコミュニケーションは、普通時間とともに忘却されるものです。それで、社会はうまく回っていた。ところが、ネット社会はそれを許さない。エビデンスとしてどんどん蓄積していき、ますます息苦しい社会になっていく。そこから脱却する道はあるのでしょうか。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授・千葉雅也氏に、虚実の反転を手がかりにご教示いただきます。
 フィクションとは、「共有された遊戯的偽装」であり、それが成立するためには、確たる現実が存在する必要があるという。事実や現実がやせ細った社会で、いかにして豊かなフィクションの花を咲かすことができるか。関西学院大学文学部言語学科教授・久保昭博氏にその方途を考察していただきます。
 オリジナルとコピーの関係が逆転したアナログ時代はアウラを消滅させた。ところが、デジタル時代は、人工的プログラム自体が降臨するという。アウラなき時代の新たなアウラの誕生。元東京大学大学院総合文化研究科教授でメディア論が専門の石田英敬氏に、模倣と感染を切り口に、デフォルト亡霊が闊歩する時代のメディア環境について考察していただきます。

(佐藤真)
引用・参考文献
(1)東晴美『リアリズムと近松門左衛門の虚実皮膜論』(『総研大文化科学研究』4号 2008 所収)
(2)ジャン=マリー・シェフェール『なぜフィクションか? ごっこ遊びからバーチャルリアリティまで』久保昭博訳(慶應義塾大学出版会 2019)
(3)石田英敬・東浩紀『新記号論 脳とメディアが出会うとき』(ゲンロン 2019)
(4)千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社 2018)

◎虚実皮膜・アウラ・表象

近松時代浄瑠璃の世界 韓京子 ぺりかん社 2019
近松浄瑠璃の成立 大橋正鋭 八木書店 2019
難波土産 発端 - 近松門左衛門の「虚実皮膜論」 穂積以貫、近松門左衛門 宝文堂 Kindle 版 2016
虚構の時代の果て 大澤真幸 ちくま学芸文庫 2009
「リアリズムと近松門左衛門の虚実皮膜論」 東晴美 『総研大文化科学研究』4 所収 総研大文化科学研究 2008
「複製技術時代の芸術作品」精読 多木浩二 岩波現代文庫 2000
今日の世界は演劇によって再現できるか B・ブレヒト 千田是也訳 白水社 新装版 1996
鏡の町皮膚の町 新聞をめぐる奇妙な話 赤瀬川原平 筑摩書房 1976
仮面の解釈学 坂部恵 東京大学出版会 1976
複製技術時代の芸術 W・ベンヤミン 編集解説佐々木基一 晶文社 1970
能芸論 戸井田道三 勁草書房 1965

◎皮膜・襞・内在

内在の哲学 カヴァイエス・ドゥルーズ・スピノザ 近藤和敬 青土社 2019
ドゥルーズの霊性 小泉義之 河出書房新社 2019
ファクトフルネス H・ロスリング、O・ロスリング、他 上杉周作、関美和訳 日経BP 2019
意味がない無意味 千葉雅也 河出書房新社 2018
思弁的実在論と現代について 千葉雅也対談集 千葉雅也 青土社 2018
亡霊のジレンマ 思弁的唯物論の展開 Q・メイヤスー 千葉雅也序 岡崎隆祐、熊谷健介、他訳 青土社 2018
有限性の後で 偶然性の必然性についての試論 Q・メイヤスー 千葉雅也、大橋完太郎、他訳 人文書院 2016
四方対象 オブジェクト指向存在論入門 G・ハーマン 岡崎隆祐、山下智弘、他訳 人文書院 2016
モノたちの宇宙 思弁的実在論とは何か S・シャヴィロ 上野俊哉訳 河出書房新社 2016
襞 ライプニッツとバロック G・ドゥルーズ 宇野邦一訳 河出書房新社 2015
動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学 千葉雅也 河出書房新社 2013
ドグマ人類学総説 西洋のドグマ的諸問題 P・ルジャンドル 西谷修、嘉戸一将、他訳 平凡社 2003

◎フィクション・現実・偽装

言語と行為 いかにして言葉でものごとを行うか J・L・オースティン 飯野勝己訳 講談社学術文庫 2019
なぜフィクションか? ごっこ遊びからバーチャルリアリティまで J・M・シェフェール 久保昭博訳 慶應義塾大学出版局 2019
詩学 アリストテレス 三浦洋訳 光文社古典文庫 2019
フィクションの哲学(改訂版) 清塚邦彦 勁草書房 2017
フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術 K・ウォルトン 田村均訳 名古屋大学出版会 2016
フィクション論への誘い 文学・歴史・遊び・人間 大浦康介編著 世界思想社 2013
表現と意味 J・R・サール 山田友幸監訳 誠信書房 2006
フィクションとディクション G・ジュネット 和泉涼一、尾河直哉訳 水声社 2004
フィクションの美学 西村清和 勁草書房 1993
遊びと人間 R・カイヨワ 多田道太郎、塚崎幹夫訳 講談社学術文庫 1990

◎メディア・模倣・記号

新記号論 脳とメディアが出会うとき 石田英敬・東浩紀 ゲンロン 2019
情動の社会学 ポストメディア時代における“ミクロ知覚“の探求 伊藤守 青土社 2017
模倣の法則(新装版) J- G・タルド 池田祥英、村瀬真保呂訳 河出書房新社 2016
ハイブリッド・リーディング 新しい読書と文字学 杉浦康平、石田英敬、他 新曜社 2016
大人のためのメディア論講義 石田英敬 ちくま新書 2016
新訳 一般言語学講義 F・d・ソシュール 町田健訳 研究社 2016
デジタル・スタディーズ 1~3 石田英敬、吉見俊哉、他 東京大学出版会 2015
メディアはマッサージである M・マクルーハン、Q・フィオーレ 門林岳史、加藤賢策訳 河出文庫 2015
〈脳と文明〉の暗号・言語・音楽・サルからヒトへ M・チャンギージー 中山宥訳 講談社 2013
エクリチュールと差異(新訳) J・デリダ 合田正人、谷口博史訳 法政大学出版局 2013
現代思想の教科書 石田英敬 ちくま学芸文庫 2010
フロイト全集1 1886-94 失語症 G・フロイト 兼本 浩祐、中村 靖子、他訳、岩波書店 2009
シネマ 1 運動イメージ G・ドゥルーズ 財津理、齋藤範訳 法政大学出版局 2008
シネマ 2 時間イメージ G・ドゥルーズ 宇野邦一、石原陽一郎、他訳 法政大学出版局 2006
明るい部屋 写真についての覚書(新装版) R・バルト 花輪光訳 みすず書房 1985
言葉と物 人文科学の考古学 M・フーコー 渡辺一民、佐々木明訳 新潮社 1974

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