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生命史の到達点としての老い

エンボディメントされる記憶

確実に到来する高齢社会を考える時、もとより社会制度や経済システムという観点からそれを問うことは重要である。しかし、同時に老いの価値や生きること/死ぬことの意味を問うような、内面的な議論にまで踏み込んで、高齢という現象をより普遍的な問題として捉え直していく必要性があることも忘れてはならない。「老いの哲学、老いの思想」が、今日、希求される意味もここにあると思われる。
誰もが高齢者となる(可能性のある)社会で、老いは自己の問題であると同時に、他者の問題でもある。老いる他者とは老いる自己にとって潜在する対象ではないか。身体という問題の中核に位置する潜在性の問題を、老いという生命現象に引きつけて考察しようと企図したのが今号の特集である。身体の潜在性の領域を主題化することは、自己に内在する他者の問題との遭遇を不可避にする。自己における他者性こそが老いのもう一つの核心部分であると考えられる。

細胞死と寿命

それぞれのインタビューを整理してみよう。
私たちのからだを構成する60兆の細胞には、死の実行装置があらかじめ組み込まれているという。この細胞死の実行装置は遺伝子の情報をもとに作動する。つまり、死が最初から細胞にプログラムされているのである。
田沼靖一氏は、再生系の細胞と非再生系の細胞では、その細胞死の方法に違いがあるのではないかと考え、アポトーシスとアポビオーシス、ネクローシスという三種類の細胞死の方法があると主張する。いずれにせよ、生命の連続性をある段階で自らが絶ち切ることは、細胞に自死のシステムがセッティングされていることを示している。細胞自身にセッティングされているこの自死のプログラムは、では何を示すのか。田沼氏は、これはもはや「遺伝子の夢」というほかないものであろうと言う。遺伝子が存続するために遺伝子をつくり直す。それは、いうならば次世代を残すために自己を積極的に消滅させることだ。その手段が有性生殖という高度な技術であるならば、それと構造的に一体となったこの細胞死のシステムこそ、生命の本質を表しているといえる。生命という連続性を保持することを目的にして、あえて個体としての連続性を断つ。そうであれば、田沼氏の言うように利己的という言い方はもはやできないであろう。
個体は、遺伝子といういわば設計図にもとづいてつくりあげられた制作物である。遺伝子を究明することとその制作物である個体を究明することは、重なるが同じではない。ドーキンスの利己的遺伝子とその容器としての個体という考え方は、この両者を同じだと見なすことから混乱を引き起こしてしまった。比喩的に言えば、遺伝子は設計図である以上個体の最終的な仕上がりイメージをもっているはずだ。しかし、設計図だけあっても建築物は建たない。部材や設備がなければ、建築が建たないのはあまりにも自明なことである。その意味でもドーキンスの利己的遺伝子は納得しにくい解釈であるが、田沼氏は、自ら死んで他に変わることを選択する遺伝子の存在を字義どおりに表現するならば、利己的というよりも利他的という方がふさわしいのではないかと提言する。
再生系の細胞死アポトーシスは、分裂寿命がほぼ60回ぐらいに決められているというのは興味深い指摘だ。分裂寿命について、インタビューでは触れられなかったことを補足しておこう。
分裂寿命は老化のメカニズムを解明する重要なしくみと考えられる。この事実はアメリカの老化研究の第一人者ヘイフリック(1928〜)によって発見されたことから、「ヘイフリック限界」と名付けられている。ヘイフリックの行った実験方法は、細胞培養によって細胞分裂がどの程度起こるかを調べたもので、無脊椎動物や植物では体細胞は無限に細胞分裂が起こるわけだが、ほ乳類の場合は一定回数で分裂が停止してしまう。これが「ヘイフリック限界」である。「ヘイフリック限界」は、分裂寿命と個体の寿命が相関することを示している。分裂寿命が約10のマウスの最大寿命は約3年、ウサギでは分裂寿命が約20で最大寿命は約10年、ヒトは分裂寿命が約50〜60で、最大寿命は約120年である。この相関関係から、ヒトの寿命の限界は120歳ぐらいだといわれている。
今世紀におけるヒトの余命の伸びは驚くべきものがあるが、最大寿命については「ヘイフリック限界」によって規定されている。医学の進歩で先進国のヒトの余命は一貫して伸びてきたが、分裂寿命は「ヘイフリック限界」によって決まってしまう。つまり、みんなが長生きをする(できる)時代になっても、死ぬ時期は決まっているということだ。どんなによい環境が与えられたとしても、個体の寿命それ自体を伸ばすことはできないということを「ヘイフリック限界」は示している。
生命が有限であることを前提としたうえで、寿命、加齢、老化、死という現象を再定義しておきたい。寿命とは今述べたように最大寿命のことを指し、種によってほぼ決定されている。また、加齢(aging)は、生物全体にわたって時間的経過を示すかなり広い現象を現す。老化(senescence)は、主にヒトの成人後の変化(特に生理現象の低下)を現す。死は、生命の最終現象のことである。私たちがここでいう老いとは、したがって生物的加齢を含めた老化する個体のことである。それは死をもって終了する。老いという問題を考える時に、細胞死の実態を避けて通ることはできない。なぜならば、加齢、老化、死の過程全体に細胞死は一貫してかかわり続けているからだ。細胞死からみれば、老いとは、身体の漸進的な崩壊の過程なのである。

生・老・病・死、身体技法、共殺

石田秀実氏の指摘する「壮年期幻想」ほど、私たちの老いに対する無意識をあからさまにする言葉はないのではないか。私たちは、まさに永遠の壮年に憑かれている存在なのかもしれない。不老不死の願望を笑い、過剰な健康への盲信に現代社会の病いを見て批判してきた者にとって、石田氏の言葉は不意打ちであった。「若くありたい」という気持ちをあえて拒否する意志は誰ももちあわせていないし、それどころか心理の奥底には、壮年期への強烈な恋慕が控えていることを自覚するばかりである。石田氏の批判の矛先は、まさしくその壮年期を恋慕しそれを普通と感じる私たちのその感受性に向けられている。
「生・老・病・死」について、『談』ではこれまで何回かとりあげてきた。病いの復権という文脈から、また近代医学を相対化するという視点から、人間を総合的に捉える方法の一つとして身体のライフサイクルに焦点を当てるべきではないかという指摘をしてきた。誕生から死へと向かう「時間性」に、生きる身体の連続性を見いだすことができるからである。
石田氏は、しかしそうしたいわば"現象学的"な身体観とは全くちがった角度からこの「生・老・病・死」の身体にまなざしを向ける。インタビューの中では、それを「尸解」という道教の概念で説明している。身体を溶解させつつもそこに残留する意識の枠、それさえも消滅させることによってあり続けること。言語化すると陳腐な表現になってしまうが、要するに"生な身体感覚"というようなものを一切捨ててもなおそこにあり続けるような身体、それが石田氏の見いだした身体である。
それは、馴致され理性の名のもとに透明性を獲得した近代の身体観からは、最も遠くにあるものだろう。それゆえ近代の産業社会では片隅に追いやられ、その姿を確認することもできないようなそういう身体である。言い換えれば、不完全なシステムともフラジャイルとも捉えられるような脆くて脆弱な身体。産業社会のシステムの外にあるような身体である。
「生・老・病・死」の基底にあるものは、実はそのような不完全なシステムとしての身体にほかならない。常に傷や病いや障害と共にあるような身体、それを当たり前な状態として生きることが、「生・老・病・死」という言葉の意味なのだ。そして、そう捉えた時に、身体は成長する子供のそれか、老いていく老人のそれでしかない。未成熟な身体と朽ち果てていく身体。壮年とはそのちょうど折り返し点のように一瞬間だけ存在する。その一瞬間に囚われ続けているのが、何を隠そう私たちなのである。石田氏の言葉を借りれば、それは近代理性によって肥大化した「幻の私」であり、もう一つの「身体の私」を忘却することによって「幻の私」は成り立っている。
そのように脆くて脆弱な「身体の私」は、変化し続ける。変化することが「身体の私」の大きな特徴である。いわば観念として普遍な(不動な)「幻の私」に対して、「身体の私」を決定づけているのは、まさしく変化、変容である。この変わっていくことこそ、「生・老・病・死」によって具現化された身体のありようなのだ。そして変化する「生身の私」を認識する時、私たちは今までモノとして対象化してきた自らの身体と世界の生身の現実に引きもどされることになる。私たちは他者の生を奪い、そればかりでなく自らの細胞をどんどん殺しながら、食いつ食われつの関係の中で生きている。すなわち、「共殺」という関係を内在的に引き受けざるをえない様態がこの「身体の私」であり、その意味で「生・老・病・死」とは、単なる脆弱でフラジャイルな状態としてのみ概念化されてはならない。常に生そのものと「身体の私」は拮抗し、死にさらされていることを厳しく受け入れているのである。だから、石田氏は「気功」や表層的なエコロジー思想には厳しい批判を浴びせる。石田氏の思想は決して安直なオリエンタリズムへの回帰ではないのだ。

老いという現実が「近代」を組み替える

木下康仁氏はまず近代批判から出発したのではないと留保したうえで、老いとケアの交錯する現場に立った時に、そこに立ちはだかったものがほかならぬ近代という壁であったと述懐する。それは、立場や階級を越えて、個人の意識や思考、社会のシステム全体を貫く壁として私たちの前に存在する。老いの問題を問い詰めていくと、必然的にこの岩盤のような近代の壁にぶつかることになるというのである。それは、空間であり時間であり関係であるような、私たちの日常性を成り立たせている概念枠に深く浸透しているものだ。
たとえばプライベートと呼ばれる空間は、個人に帰属する空間と考えられてきた。ではその個人とは何か。近代が誕生すると同時に発生したものであり、その意味では近代の産物にほかならない。個人とはあくまでも自立した主体であって、個として確立した存在である。近代を支える個人とは、単純化すれば理性的で五体満足な身体をもった主体=自我である。産業社会も国民国家も資本主義もこうした近代の個(主体)の集合体として構成されている。プライベートな空間は、まさにそれが局所化した場所なのだ。ここには他者による支えがなければ存立しないような個は、最初から存在しない。子供や老人は、近代の空間から巧妙に排除される。だから、そこに老いという現実が入り込んでくると、近代はとたんに揺らぎ始めるのだ。
ケアを必要とする個人がその空間に登場することによって、たとえばプライベートな空間は維持されなくなる。プライベートな空間を下支えてきた近代が露呈する。しかし、そもそも空間はアプリオリに存在するものではない。意識によってその大きさも奥行きもまた質も変わりうるものである。そのように変換しうるものが空間であるならば、そこで問題となるものは、むしろ私たちの意識の方であろう。つまり、ケアを必要とする個人がその空間に加わることによって、空間の意味が変換され、それは同時に近代という枠組みそのものに変更を要請する。その射程は、むしろ私たちの意識の内部に向けられている。木下氏は、それを単なる近代批判に終焉させない。老いという現実を自然的プロセスと捉え直すことで、それを他者の問題に完結させずに自己の老いに包摂させることで、連続的な共同体を模索するのである。他者の老いを自己の老いとするような、新たなコミュニティの創造。
近代的な自我を超えて存在するような個の存在様態、私たちはそれを木下氏にしたがってケア的人間観と呼ぼう。それは広井氏の提起する「人間の三世代モデル」とも共振するものである。

円環する時間と複数の時間、そして生命の意味

広井良典氏の提起する「人間の三世代モデル」は、生物学的に捉えられたヒトの老いを前提にしている。ヒトの高齢化社会とは、後生殖期が普遍化した社会であり、生物の中唯一ヒトによって起こったいわば生命史の到達点であるという。それゆえ、ヒトの高齢化社会は、ヒトをヒトたらしめているものであり、ヒトという生物の特徴であるから、高齢化社会を積極的に肯定すべきであるというのだ。そして、高齢化という現象を所与として受け入れたうえで、その急激な進行に対していくつかの具体的な対応策を立案している。「人間の三世代モデル」はその一つであり、特に近代において生産主体から排除されている、子供と老人に積極的な意味を与えようというのが、このモデルのユニークなところである。生物を生物たらしめている生殖行動の最も活発な期間がヒトにとっては壮年期にあたるが、その壮年期から逸脱した時間に積極的な価値をもたせようというのだ。しかも、その子供の時間と老人の時間は円環構造によって結び付けられる。
「人間の三世代モデル」は、近代の線的時間モデルへの根底的な異議申し立てとして理解されなければならない。最後の大澤氏と郡司氏の対談にも引き継がれる問題を含んでいると思われる。また老いを完全ではないがゆえにシステム全体にとって重要だとする指摘は、木下氏の近代批判と通底するものだ。「人間の三世代モデル」は、高齢化社会への具体的なビジョンである。「老いの哲学」はこのモデルを一つの土台として実践されていくことになるだろう。
広井氏の提起されたことでもう一つ指摘しておきたいのは、高齢者を障害概念から見直そうというコンセプトである。疾病と障害は一見別のものと思われているが、高齢化が進行し慢性疾患が中心となる社会においては、誰でもが障害者となりうる。障害が普遍化する社会として高齢化社会を捉えるべきであるというのが、広井氏の主張だ。ヒトを不完全なシステムとして見て、それを肯定的に受け入れたうえで、ケア的存在としてすくい出そうというのだ。この見方を、たとえば細胞死のプロセスと重ね合わせて考えてみると、きわめて示唆に富むアイディアだということがわかる。細胞死のプロセスとは、私たちの身体が日々少しずつ壊れていくことだ。その壊れていく過程を生命の一つの特徴と見なすこと。老いとは、あらかじめ決定されている不完全なシステムへの進行過程であり、それは始めからケアの対象として存在することを定められているのである。
大澤氏と郡司氏の対談は、必ずしも老いというテーマを中心課題として議論されてはいない。しかし、そこで何度か強調されている偶有的必然性という概念は、たとえば老いが不完全なシステムであり障害概念と結び付けられるという議論にそっくり重ね合わせることができる。障害概念の拡張は、機械論的な因果関係によって生命が連続していないことを一つの根拠にしうるし、またそれが徹底的に内的な経験であることによって、同質の問題領域を共有することになる。また、マクダガートの時間解釈をもとに大澤氏が示唆する「すでに、目下、未だ」の時間論は、そのままスライドさせることはできないにしても、広井氏の指摘する円環の時間、深層の時間と深いところで連関し合っていることは指摘できるだろう。生命の時間は、決して線的な時間ではない。それは時計の時間とは別の時間をもっていることであり、そうした生命特有の時間を探り出さない限り、生命の本質へは迫れないとするのが二人の発言から導き出される一つの結論だ。
もう一つ、大澤氏と郡司氏の対談が老いについて、決定的な示唆を与えているところがある。それは、他者性の問題についてである。クリプキの懐疑論と懐疑的解釈は、大澤氏、郡司氏によれば、生命の存在様式を考える方法それ自体を示唆するものだという。生命の本質は、その内部に他者性を包含することである。しかし、それは外部性としててでなく、徹底的に内的なものとして包含し/包含される。この他者とは、潜在性のことである。ここまで潜在性についてなんの留保もつけず述べてきたが、潜在性(virtual)とは要するに仮想された他者としての自己の身体のことである。つまり、自己にあってその自己性の内部にありながら、他者性をもつもの、実体をもたないが、確実にその他者の身体にすみついてるもの、乱暴な言い方をすれば、仮想現実の身体のことである。
なぜそれが老いの問題にかかわるのか。それは老いという過程そのものが自己にとっては仮想されたものであるからだ。仮想された老いをいわば追認するように、私たちは老いという現実を現実化していく。老いさらばえていくことは、不可逆な事態である。常に老いは未来からしかやって来ない。自己にとって一寸先でもそれが未来の状態であれば、仮想された現実にすぎない。ゆえに、老いという過程を生きる身体とは、仮想された現実である(未来)の身体を、いわば常に前倒しする形で生き直すことだといえる。
潜在性という言葉に込められている意味をこのように理解すると、他者の問題はまさに老いの問題であることがわかるであろう。前号の特集で、デリダがハイデガーのテキストから読みとった重要な一節「己のもとに携えている友の声を聞くこと」という言葉の分析を鵜飼哲氏が行っているが、この言葉の意味の根源にある友の声こそ、他者の声であり、それは未来からやってくる自己の声、つまり老いていく自己の前倒しされた声にほかならない。潜在性という言葉は、老いの問題領域を生命現象に架橋していく鍵となるのである。

広井良典氏は、ヒトの老いは生命の歴史にとっていわば到達点といっていい段階であると主張する。生命史の全く新しい段階をヒトは歩み始めた。「老いの哲学」、それは、自然科学と人文科学相互からの議論なくしては成り立ちえない理由もここにある。老いを考えることは、まさしく生命そのものを考察することにほかならない。

 <参考文献>
『想起のフィールド』』佐々木正人編、新曜社、1996
『現代思想の冒険者たち 28 デリダ』高橋哲哉、講談社、1998
『内部観測』郡司ペギオー幸夫、松野孝一郎他、青土社、1997
『アフォーダンス』佐々木正人、松野孝一郎他、青土社、1997

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