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匂いを嫌う社会、香りを好む社会
今号は、匂い・香りがテーマである。匂い・香りと深い関係をもつ五感、とりわけ嗅覚について考えてみたい。
匂い・香りと人類の関わりは遠く紀元前にまで遡ることができる。インド、中国、メソポタミア、エジプトのいわゆる四大文明は、いずれも香料を使用していたことがわかっているし、またその後の人類の歩みは、香料の開発と流通に明け暮れたというような一面があるように、匂い・香りをめぐって動いてきたということすらできるのである。ある時は匂い・香りが火種となって戦いが起こり、また匂い・香りの往来が国境をなくしていく。とりわけヨーロッパ文明にとって匂い・香りは、生活文化に深く溶け込んでいるために、庶民の暮らしをひもとく時の重要な要素となる。身体や感性が、歴史研究の俎上にのぼり、新たな視点を歴史に投げ返す時に、まさしく匂い・香りは格好のテーマ軸を与えてくれるのだ。
さて、そんな欧米人と比較して、日本人は匂い・香りについてあまりこだわりがないと言われている。どちらかというと無臭を好む民族であるとも評される。もちろん一般論としての「民族的」という表現は、かなりバイアスがかかっているので、あくまでもそういう傾向があるという程度かもしれない。ただ、香料や香水に関して豊かで奥深い歴史と伝統をもつヨーロッパ文明と比較して、香道という世界にも例をみないユニークな匂いの文化を保持しながらも、匂い・香りが庶民文化の中に入り込んで一つの文化をつくり上げるまでには至っていないことから見ても、私たちは匂い・香りにそれほど強い執着がなかったことはまちがいないだろう。
ところが、わが国でも昨今匂い・香りに対して関心が高まりつつある。ハーブやアロマテラピーがブームを呼び、また森林浴が注目されたり匂い・香りがマスコミで取り上げられることも多くなった。しかし、ここで指摘したいことは、そうした匂い・香りを求めるこだわりではない。その逆である。つまり、匂い・香りをなくす方向へのこだわりだ。無臭志向という言葉がある。いわゆる匂いを消したいという欲求だ。特に最近この無臭志向への傾斜が著しいように思われる。
清潔志向と結び付いて、この無臭志向はいまや私たちの意識の中へも深く入り込んでいる。匂い・香りを取り上げるにあたって、特にこの無臭化の問題に拘泥してみたい。なぜならば、それは身体とダイレクトに関わる問題だからである。
香りを愉しむ
まず最初に香りの愉しみについて考えてみたい。有史以来人類が、香りを自らの文化に取り入れてきたことは、周知の事実である。古代から香料は、むろん現代のようなエッセンシャル・オイルではなく、すべて天然のものであったという違いはあるにせよ、人類にとって重要な用途をもつ道具であった。重要な用途とは宗教の儀式である。『出エジプト記』には、エホバがモーゼに香料の説明とその調合方法を教えるくだりがある。そこでは自分のためにつくることは戒められ、あくまでも神に捧げるものとして使用しなさいと述べられている。香料のつくり方として書かれたものとしては、これが最も早いものだといわれているが、その最初の記述が宗教儀式を目的としていたことは、注目に値する。
そもそも香料、perfumeという言葉の語源は、per fume、つまり煙を通してという語から出たもので、芳香物質を燃やして出た香りを、神に捧げようと考えついたことから始まったことは、すでによく知られていることだ。自分たちの願いをかなえるために、馥郁たる芳香を祭壇から立ち昇らせて、天上界の神に喜びを与え、より大きな恩寵を得ようと古代の人々は考えたのであろう。エジプトの遺跡の壁には、祭神の前に香炉がつり下げられたようすを描いた壁画がある。古代エジプトでは、薫香を捧げることが重要な儀式と考えられていて、魂が香煙に乗って太陽神ラーへと導かれることを祈ったという。
ナイル川の流域のツタン・カーメンの墓から出土した香壷の一部に、香料の入った練り膏が発見されて、当時香料が実在し、香料に対する豊富な知識がストックされつつあったことが実証された。エジプト人は、宗教儀式以外にも香料の特性を活かす術を知っていたようだ。エジプト人が好んだ香料「キフイ」は、その香りが気持ちを和らげ安眠を誘うとされ、薫香として部屋の中で焚き、からだや衣服に染み込ませていたといわれている。現代でいえば、アロマテラピー効果を彼らは期待していたのかもしれない。
ともあれ、香料はギリシア、ローマ、中国大陸、アラビア諸国へと伝播し、香りを愉しむ文化は、香料の発展とともにその裾野を広げ、世界中でさまざまな人々によって愉しまれるようになったのである。
座談会では、匂い・香りの歴史をひもときながら、世界中に存在する匂い・香りの文化、そのコスモノジーについて紹介していただく。香水、ハーブ、香道、アロマテラピーといった具体的な匂い・香りの事象を手掛かりに、人々の香りへの偏愛を探り出してみたい。
ご出席いただいたのは、匂いの応用工学を専門にされる工業技術院電子技術総合研究所大阪ライフエレクトロニクス研究センター主任研究官の外池光雄氏、香りと生活との関わりを調査・研究されている共立女子短期大学教授(社会学)の児玉好信氏、そして、実際に香りをビジネスにしておられるパヒュームデザイナーの川上智子氏。理科と文科、また実務という三方向からの議論は、インターデシプリナリーな展開になるものと思われる。
匂いと性の関係
次に、匂い・香りを私たちはどう感覚しているのか、そのメカニズムについて考察する。特にここでは、フェロモンとの関連性に注目したい。
フェロモンとは、自分と同種の仲間にさまざまな反応を起こさせる物質のことである。特に動物の場合、発情期になるとフェロモンを分泌して、異性を引き寄せることで知られている。たとえば、カニのメスは、性的に成熟すると尿の中に強力な異性誘導物質を放出するが、これがフェロモンで、オスはこの物質を追っかけてお目当てのメスのところにやってくる。カイコのメスの蛾は、性的に成熟するとポンビコールというフェロモンを出すが、この匂いを求めてオスの蛾は何10キロも離れたところからメスのところへやって来るという。
では、ヒトの場合はどうだろうか。果たしてヒト・フェロモンは存在するのだろうか。これには、あるともないとも、また進化の過程で失ってしまったとか、諸説はさまざまである。ただ、ヒトの場合でも、性と嗅覚が深い関係にあることは認められている。女性は妊娠時に、匂いの感覚が変化することはよく知られているし、また、生理の時には、嗅覚が極端に敏感になったり、逆に鈍感になったりするといわれる。男性でも、事故などで嗅覚の機能が低下すると、男性ホルモンに変化が起こり、ヒゲの伸びが遅くなるという症状が確認されているという。ただ、概して女性の方が、匂いと性の結び付きは強いようだ。
動物から採れる天然香料の一つシベット(霊猫香)は、エチオピア、ギニア、セネガルに生息する霊猫の肛門近くにある分泌物から出るペースト状の物質であるが、かのクレオパトラは男を魅了するために、シベットをからだにすり込んでいたといわれている。シベットのフェロモン的効果を期待したのであろう。
ヒトにフェロモンは存在するのか。あるいは、匂いと性はどのように結び付くのか、ズバリ、生理学者におたずねした。お話をお聞きしたのは、浜松医科大学教授・高田明和氏。高田氏は、日本生理学会、臨床血液学会評議員を務める生理学・血液学の専門家である。人間のからだのもついろいろな特徴や不思議を、えっ?!
とびっくりするような例を引きながら、平易に解説する達人である。今回のインタビューでは、匂いとフェロモンの関係が、日米比較論、日本文化論へと発展する。
クサイは美味しい
三番目は、食べ物と匂いの関係を探ってみたい。私たちが食べ物を美味いまずいと判断する時、味覚が問題になっていると思われがちだが、実は嗅覚も深く関わっていることがある。たとえば、よく知られた例だが、オレンジジュースはオレンジの味がするからオレンジジュースであり、リンゴジュースはリンゴの味がするからリンゴジュースだと思っている。ところが、目をつむり鼻をつまんでオレンジジュースとリンゴジュースを飲み比べてみると、意外なことに見分けがつかなくなる。もちろん、目を開けてちゃんと見ればまちがうことはないのに、である。私たちは、オレンジジュースとリンゴジュースは、味が違うと思っているが、これは思い込みに過ぎない。実は匂い・香りが美味しさを決める要素になっている場合が、少なくないのだ。今ブームのワインもそうである。グラン・クニュ級のワインであっても、同じように鼻をつまんで飲んだら、その美味しさは激減することだろう。ワインの神髄には、味もさることながら、そのえも言われぬ香り(アロマとブーケ)の魅力がある。
さて、食べ物と匂いが抜き差しならぬ関係だとして、美味しいものがイコールいい匂い、いい香りだとは限らない。世の中には、面白いことにクサいけれども美味しいという食べ物が存在する。しかも、見渡してみると意外なほど多いのだ。くさや、納豆、鮒鮨(ふなずし)は、クサいけど美味しい食べ物の日本代表といったところだが、世界にはこれらと比較にならないようなとんでもなくクサい食べ物がある。そうした食べ物を食べ尽くしてきたのが、東京農業大学教授・小泉武夫氏である。
小泉氏は、発酵学を専門とする農学者であるが、フィールドワークと称して世界中の発酵食品を食べ歩いてきた強者(つわもの)学者である。今回の対談でも紹介されるはずのスウェーデンのシュールストレンミングという缶詰を試食する場面をTVで見たことがある。発酵が進んでパンパンに膨らんだ缶詰(これも相当に恐いものがあるが)から、爆発するような臭気が飛び出した瞬間、スタジオに居合わせたゲストの鼻は完全に曲がっていた。
小泉氏は、このほかにイヌイットの保存食キビャックやニュージーランドのチーズであるエピキュアーといった、想像を絶するクサい食べ物を経験してきたと言う。ここでは、小泉氏に古今東西のクサい食べ物を紹介していただきながら、明治大学名誉教授である中村雄二郎氏と話し合っていただく。中村雄二郎氏は、本誌no.56特集「音のからだ」で、「人間の喉の根源性へ」というテーマでインタビューを行っているが、今回も同様に、中村氏の問題意識である共通感覚との兼ね合いで食ベ物について言及していただく。中村氏はまた「臨床の知」という刺激的なコンセプトを提起している。人間存在の多面性に着目し、その現場=トポスに即した新しい知のあり方を構想しようというものだが、食べることとは、まさに臨床の知の具体的な対象であり、また、嗅覚というこれまで省みられることの少なかった感覚器官との連動性を探ることは、五感と身体の新たな再構築にもつながっていくものとなるだろう。
時代と共に変わる匂いのイメージ
四番目は、最初に述べた無臭志向についてである。無臭化という現象は、本当に日本人に特徴的なものなのだろうか。そうであるとしたら、いつから私たちは、無臭を希求するようになったのだろうか。あるいは、こう言い換えてもいいかもしれない。無臭という心性が、いつどのようして獲得されたのか、そして私たちはそれをどのような形で内面化していったのか。つまり、クサい匂いがあるというのではなく、匂いそのものをクサいと感じる、その感じ方それ自体が問題なのである。改めて私たちは、「感性の歴史」という視点から、匂いと身体、匂いと社会という関係を捉え直す必要があるのだ。
「面白いのは、現代人にとっては、どちらかといえば<匂い>が体臭のような自然のものを表現し、<香り>が香水など人工的なものを表す言葉として使われることが多いのと比較して、『源氏物語』ではこれが逆になっている、<薫>が自然の体臭の魅力であるのに対し、<匂>は人間の手によって作り出された香りの魅力を表現する言葉になっているところである。<…>匂宮の<匂い>は、どんなに焚き込めてもいつかは消えていくはかないものであり、しかし、そのはかなさゆえに一瞬の香りを追い求める人間の欲望をかき立てるものがある。しかし、薫中将の<香り>は、薫中将その人と共に消えることなく漂っている。<薫り>は、薫中将そのものであるといえる。それは人間がコントロールすることも、作り出すこともできないものとして存在している。人間の力を超えたカミの世界。あるいは魔界に通じるものである。」
引用が少し長くなったが、これは『匂いの力』の始めに登場する文章である。無臭化という現象を考えるにあたって、この指摘はきわめて示唆的だ。人間にとって「匂い」あるいは「香り」はあいまいなものとしてある。それらは容易に逆転しうるものとして存在するような、アンビュギュアスなものなのだ。そして人々は、その匂いの中に、何者かの存在を感じ取る。ある時は芳しい香りとしてのカミであり聖者であり、またある時はクサい存在として悪霊や魔物を見る。それは、どちらも同じ匂いのイメージがつくり出す未知なる世界であり、私たちの外側に広がる世界である。ここに、匂いのもつ特殊な心性が現れている。全く同種の匂いであっても、そのイメージするものは異なり、また常にそれは外部世界とのつながりにおいて私たちの眼前に現れるのである。もとより、著者が指摘するように、そのイメージする何者かは、時代と共に移り変わっていく。ある特定の匂いをもった存在が、聖性を強くもった神々しい存在として意識される時代もあれば、全く正反対に鬼のような存在として忌避される時代もある。逆の見方をすれば、匂いのイメージを探っていくと、それぞれの匂いのイメージからその時代に生きてきた人々の抱いた世界像を想像できるというわけだ。
では、匂いそのものを忌避し、無臭化を求める時代とはどのような時代なのだろうか。私たち現代人は匂いをどのようなイメージで捉えようとしているのか。『匂いの力』の著者八岩まどか氏にお聞きする。
匂いのないからだ、クサいからだ
無臭化を志向する背後には、自らの身体の匂いへの過剰な反応がある。自らの匂い、体臭が自分以外の人間にどのようなものとして感じられているか、その不安や怖れといったものが今日言われている無臭志向の、心的なレベルでの背景にあることは、これまでさまざまなところで指摘されてきたことだ。体臭が強い、ただそれだけの理由でその人の人格をも否定されるような場面を、筆者も目の当たりにして驚いた経験がある。体臭だけではない、口臭もあるし排便もある。汗臭いからだを他人に嗅がれることを嫌がり、自分の吐く息のゆくえや排便にさえ気を使う。自分の匂いが他人に嗅ガれ、クサいと言われることを私たちは極端なまでに恐怖しているのである。
しかし、よく考えてみれば、私たちのからだそのものが匂いの発生源だといえる。ウンチ、オシッコ、げっぷ、おなら、ゲロといったものはみな身体から出るものである。ほかにも鼻水や唾液、フケ、膿といったものも匂いをもっている。身体から出るこうした排泄物は、どれもいわゆる悪臭に該当するものばかりである。私たちの身体こそ、そもそも悪臭を撒き散らす源なのだ。
これまで私たちは、匂いを嗅ぐということばかりに捕らわれ過ぎていたのではないか。私たちは、「嗅ぐ」主体であると同時に、匂いを発する主体でもある。嗅がれることをどんなに怖れたところで、私たちの身体そのものがすでに匂いを発生する装置なのだ。しかもその多くが悪臭だとしたら……。
最後にこの悪臭の原器としての身体について考察してみよう。おたずねするのは高砂香料工業(株)で創香に従事されている鈴木隆氏である。鈴木氏は先頃『匂いの身体論』を上梓されたが、まさにそこでのテーマが「匂う身体」であった。人間は匂いを嗅ぐ者であると同時に、自らも匂いを発する「匂う」者でありる。人間の匂う一生を改めて考える必要がある、と鈴木氏は主張する。匂いをトラウマのごとく感じながら、その根絶に躍起となっている現代社会は、匂いを嗅ぐ鼻が匂いを放つ身体の部位の一つであることを忘れている。いや、そのことは十分認識されている。あえて意識的に遠ざけていると言い換えてもいいだろう。自分が匂う身体であることを日々感じながらも、それを必死になって隠そうとしている私たち。現代の無臭志向は、ある意味で最初からこうした逆説性を孕んでいる。
匂いを嗅ぐ身体から匂いを発する身体へ。この「匂う身体」こそ、鈴木氏が正確に指摘するように、これまでの身体論の枠組みから、みごとに抜け落ちていた視点だ。私たちは、鈴木氏と共に「匂う身体」へ思考の錨を降ろしてみたい。そしてそれは、既存の身体論の欠落部分になぜこの「匂う身体」があったのかということを逆に明らかにするだろう。「匂う身体」の裏側には、哲学から遠く離れた「日常」の世界が広がっていることを暗示している。
- <参考文献>
- 『エッセンシャルオイルの化学』亀岡弘、裳華房、1988
- 『においの化学』長谷川香料(株)編、裳華房、1988
- 『香の本』松榮堂広報室編、講談社、1986
- 『匂いの身体論』鈴木隆、八坂書房、1998
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