editor's note[after]

身体地理学、そして無為の共同体へ

ワインを飲む。ワインを感じる。そしてその印象を伝達することから始まるワイン固有のコミュニケーション世界。ワインのテイスティングとは、私たちからみればいわば現代の秘儀であり、そこで交わされる言葉も暗号に似た一種のジャーゴン(内輪言語)であろう。
もとより伊藤眞人氏は、そうした知的スノビズムを否定はしない。それどころかむしろそうした言説空間によって補完されているワインは、ある面ではワインの本質を表しているという。ワインがヨーロッパにあって社会的な産物としての位置を確立しているのは、まさに言説の網の目に組み込まれているという事実があるからだろう。ワインを包みこむ言説それ自体がワインそのものの存立を支えているのだ。ワインの物語とはワインの文化そのものである。だが、はたしてそれがワインを語ることになるのだろうか。
目の前にある、今コルクをぬかれたばかりのこの一本のワインについて語ること。言説の網目をなすワインは、確かにワインの表象である。言い換えればワイン一般の表象である。ワイン一般の表象である限りにおいて眼前にあるワインもワインであることには変わらない。しかし、ワイン一般の表象としてのワインは、今眼前にある「このワイン」を表象しているのだろうか。
ワインの物語とは、ワインについて物語である。ゆえに、ワインの文化は語れても、「このワイン」を語ることにはならないのだ。「このワイン」とは、端的に「このもの性」としてのワインのことである。「このワイン」は、ワインの言説とは無縁なかたちで存在する、まさしく「この」一本のワインなのである。

第二の舌、五感の混合体

そのことをもっともよく知っているのは、実は自分自身の舌なのである。自らの味覚が、「このワイン」の全てを覚知している。いや味覚にのみ限定してはならないだろう。それは、あらゆる感覚器官が交錯する身体の網目の上に立ち現われる。五感のすべてが絡み合う純粋経験。五感の混合体ともいえるような境位に、ワインのこの一本は立ち現われているはずなのだ。
「ワインをいかに表現するか」
そう考え、一歩踏み出した時に、これまでのワインの言説からは届かなかったある手ごたえを得ることができるかもしれない。伊藤眞人氏は、自分の印象を表現しようと試みた時に、人それぞれの表現が出てくるのであって、それこそがワインをまるごと感じることなのではないかという。言説によりかかった対象への接近は、言語を使うことで咀嚼し再構成するやりかたであって、対象そのものを掴むことにはならない。むしろ対象を把握しようという接近方法からではなく、それをどう表現しようかという方法へ切り替えることによって、ワインの言説ではなく、ワインそのものへ近づくことができるのではないかというのである。それはワインを言葉として感じるのではなく、ワインワインとしてを感じることだ。これは言い換えれば、ワイン一般ではなく、まさしく「このワイン」を感じることであろう。
私たちは、あらためて感覚の重要性に気づくべきであろう。この感覚の問題に哲学の側から切り込んだのがフランスの哲学者ミッシェル・セールである。偶然にもミッシェル・セールは、味覚、しかもその最良の材料としてワインを味わうことから感覚を解き明かしていく。
「私は味わう、それゆえに私の口が存在する。私は感じる、それゆえに一つの部位が生じる。空白で何もなかった場所に、感覚で捉えうるものが何か生じさせるわけだ」(『五感』ミシェル・セール)
感覚器官は最初からそこに存在するのではないとセールは言う。感覚は誕生するのである。それ以前には存在していなかったものが、接触や交差によって生まれるのである。見たり、聴いたり、触ったり、嗅いだり、味わったりすることによって、空白であった身体は甦る。虚ろであった体感は、とたんに生気を取り戻す。ミシェル・セールはそれを大胆にも第二の舌と呼ぶ。
「そして第二の舌の上に、揺れ動く混合の地図をおぼろげに描き出す。それは、多重で、生き生きとした複雑な地図であるが、第一の舌があれほど自慢している明晰で明快な概念より一層完璧である」
そう、それは身体に張り巡らされた第二の舌である。第二の舌は、何回でも生まれ変わる。未発達であるがゆえに、理性からは相手にされない。では、第一の舌とは何か。ミシェル・セールはそれは言説を操る舌のことだという。つまり、理性のことだ。第二の舌は、常に第一の舌に脅かされ、また第二の舌は、その性質どおり謙虚で未発達なため、第一の舌の覚醒の前では眠るほかない。しかし、第二の舌の中でも、その特徴を最も強くもつ味覚と嗅覚は、第一の舌が居眠りを始める頃目を開ける。セールは、このような第二の舌と第一の舌が反転する時があるという。それはまさにワインを口に含んだ瞬間だという。私たちは、ワインを口腔内に満たす時、私たちの口は言葉を失うであろう。なぜなら、私たちはその時言葉をしゃべることができないからだ。字義通り言葉を失うのである。これは、実に的を射た譬えだと思う。ワインを感じているその最中では、言語は眠るほかないのだ。それとは対照的に、ワインを感じている舌は目覚めている。口の中に拡がるアロマと液体が醸しだすワインのシンフォニーを、今まさに私の第二の舌が感じとっているはずである。ワインを感じること。それは、「このワイン」を経験することなのだ。
伊藤氏は、ワインの個性を的確に表す言葉よりも絵や音楽の方が言葉以上の何かを呼び覚ますという。セール流に言えば、第二の舌が誕生することだ。
「一瓶のワインは、感覚で捉えうるすべてのものを一挙に閉じ込めており、共通感覚を含みそれは尽きることがない」
セールのこの言葉は、ワインが縦横無尽に第二の舌を横断する飲み物であり、感覚は特定の部位に集約することなく第二の舌として身体に拡がっていることを示している。それは五感の混合体とまったく同形のものだろう。

ポジビリズムとの共振

氷の上に積み上げた生ガキを次々に口に放り込みながら飲むワインといえば、やはりシャブリに尽きる。白ワインとして最もよく知られるシャブリは、ブルゴーニュのシャブリ地域でつくられる。シャブリ地域は、内陸でありながらもカキの化石がたくさん発見されるような海洋性の石灰質を多く含む土壌である。しかし、地域的に見る限り葡萄栽培にとっては決して条件のいい土地ではない。日照時間も少なく、遅霜も発達しやすく石灰質が多いということはカルシウム分が多すぎることを意味する。そういう悪条件にもかかわらず、シャブリ地区は酸味の強いフレッシュな、一般に「キリッとした辛口」のシャブリという世界商品をつくりだした。なぜそんなことが可能なのか。安間宏見氏の謎解きが始まる。
ワインのもつ独特の味わいや香り、深みは、テロワールによってつくり出される。しかし、そのテロワールを発見したのは人間である。テロワールを見つけ出し、テロワールの秘密を解明し、テロワールを自分たちのものにすることによって、人間はさまざまなニュアンスをワインに与えてきたのだ。ワインは、テロワールという自然の力と人の知恵の合作によって生み出された創造物なのである。
安間氏はワインのバリエーションが生じる謎に、テロワールと人が合作したという意味で「人風土」という視点から接近した。著書『ワインの謎解き』では、さらに、ワインの価格の謎、ワインの味わいの謎についても言及している。これらの謎は相互に関連しているという。「人風土」が解読されるとほかの二つの謎も解けるのである。それを解く鍵が、太陽エネルギーと気温変動を組み合わせたあのエリア図(マトリックス)だ。この図を始めて見た時あまりにも明快すぎて、最初は半信半疑であった。しかし、このエリア図を参考にしながら、実際にフランス産ワインをAOCの産地別に飲んでみると、それぞれのワインの味わいが、この図の示すような特徴に分類できるので、正直驚いた。もちろん中には例外もあるが、それも安間氏が指摘するように、ミクロクリマというパラメーターを導入すれば、解明されてしまう。
ところで、安間氏も触れているが、フランス産のワインでは常にボルドーとブルゴーニュが対比される。ワインの個性という面で見ると、両者はまさに対照的である。近年ワインが世界商品となってからは、その対照的な個性の違いは、マーケティング戦略上の違いにも反映しているようだ。テロワールをことさらに強調するのは、ブルゴーニュである。有機農法やバイオダイナミクスまで導入しながら、土地と品種の力を引き出そうとする姿勢は、テロワール至上主義といってもいいかもしれない。それに対して、ボルドーには、テロワールそのものに懐疑的なシャトーがある。ボルドーの主要品種である赤ワインのカベルネ・ソーヴィニョンやメルロー、白ワインのソーヴィニョンやセミヨンは、今やニューワールド(アメリカ、オーストラリア、チリなど)の主要品種になっている。全く気象条件の異なる地域で、ボルドー並みの(それ以上の)品質をつくり出している事実は、もはやテロワールが過去のものとなったことを証明しているというわけだ。そもそもブルゴーニュが、赤ならピノ・ノワール、白ならシャルドネの単品種でつくられるように、かたくなにテノワールと品種の組み合わせにこだわり続けるのに対して、ボルドーが複数の品種を組み合わせてつくるところからもワインづくりに対する明確な違いが見て取れる。ついでにいっておくと、フランスワインの格付けは、ボルドーではシャトーに与えられるが、ブルゴーニュでは畑に与えられる。道一つ挟んでまったく品質の違うワインができるというテロワールの神話が現在でも生き続けているのである。
ともあれ、ワインづくりにおいて少なくともフランスでは、テロワールにこだわりつづけてきた。そして安間氏が主張するように、テロワールを発見しそれに手を加えていくことによって、葡萄から無限とも言えるワインのバリエーションを生み出してきたことは、まぎれもない事実なのである。
このテロワールと人為の関係について、editor's note beforeでも紹介したロジェ・ディオンはそれがフランスワインの大きな特徴であり、自然と人間の数千年にわたる相互作用の結果であると論じている。
「フランスのワインの歴史から私たちが得る教えの一つは、最適な気候条件に恵まれた最良の土壌を有していても、ぶどう畑の名声は、その所有者がワインの品質維持のために必要な努力と費用を惜しまないあいだだけしか続かない、ということである」 人間の不断の労働と創意工夫があって始めて現在のようなワインが生み出された。それはあたかもテロワールによって自然発生的に生み出されたように思われるが、土地の改良と投資がなければ、葡萄は簡単に死に絶えてしまう。それがどんなに自然発生的に見えても、かならず人間の営為が加わっているのである。葡萄畑とは、ロジェ・ディオンにとってはまさしく人為によって形成された風景なのである。このような自然に対する人間の働き掛けを重視する立場をフランス地理学では可能主義(★ポジピリズム)というのだそうだ(『ワインと風土』訳者福田育弘氏のあとがきより)自然地理と人文地理の関係を論じたヴィダル・ド・ラ・ブラーシュは、人間による自改変の可能性を重要なものとしてみなし、自然に対して人間が万能であるという硬直した「人間中心主義」ではなく、自然条件の拘束を認めつつ、人間の主体的な働き掛けの重要性を「可能性」として捉える立場が可能主義であるという。私たちは、そうしてできあがった農産物=ワインが、さらに実際に人間の口に入って五感を奮い立たせるというところまで含めて、この可能主義の立場ををさらに進めて、身体地理学と呼びたい誘惑にかられる。「この葡萄畑」が最終的に「この一本のワイン」へ至る過程のいっさいを記述すること。風土と人間の相互作用が身体に張り巡らされた五感を組み込みながら編み上げるタピストリー。それを緻密に探査する方法がおそらく私たちの企図する身体地理学であろう。であるならば、ワインこそその格好の素材となるはずだ。ワインには、葡萄畑の風景、すなわちテロワールと人間のつくり出す風景がすでに二重にも三重にも折り畳まれているのだから。

同じであり、同じでないもの

ワインを飲むこと、対談で福田育弘氏と横山幸雄氏は、それが音楽にきわめて似ている体験だと言う。両者に共通していることは、再現性があるにもかかわらずその体験、出会いが、常に一回性として経験されるということだ。演奏会場において演奏家は、いつも異なる環境におかれる。同じ会場で同じ曲が演奏されたとしても、一度として同じ演奏が行われることはない。常に既にその演奏はそれ以前の演奏と違ったものにならざるをえない。表現の中でとりわけ音楽が特権的でありえるのは、この一回性という特殊な経験に身をゆだねているからだ。ワインを飲むという経験も、まさにそれと同質のものだろう。お二人が言うように、同じ産地の同じ品種で、同じビンテージのボトルであっても、おそらく同じであるその二つのワインは異なるのだ。両者のコンディションが全く同じあることはほとんどありえないことであり、いやそれにもまして飲む側のコンディションが常に同じであるといことは原理的に不可能である。ワインは、そのちょっとした違いが、決定的な違いとして現われるのである。そこがまた、ワインの面白いところだろう。
工業型の食品、つまり加工食品は、同じメーカーの同じ製品であれば基本的には同じ味がするものである。同じであるということが、その食品の信頼性を得る条件でもある。たとえば、同じメーカーのつくるバーボンウィスキーを二本購入して同時に開けてみたら、味が違っていたとする。それは即、消費者苦情室行きになるだろう。ところが、ワインの場合は、消費者苦情室どころか、そうした違いが、ある場面ではプライオリティを得ることさえあるのだ。「複雑さ」や「変化」がワインを説明する際の常套句でもあることからもそれは明らかだろう。
この同じでありながら、同じでないというものがそのまま音楽についても当て嵌まる。音楽を聞くという経験は、それが全く同じ演奏であっても同じではない。厳密には同じ音を人間は再び聴くことができない以上、原理的には同じ演奏ということはありえないことなのだ。
『談』「no.56 特集音のからだ」で、そのことについて少したちいって考察したのでここでは省くが、この同じ(に見えそう)でありながら、同じでないという経験は、聴覚と味覚に共通するものである。あるいは嗅覚とも共通するかもしれない。いずれにせよ、ミッシェル・セールがいうように、そう感じるのは五感が一回一回生まれかわるものだからであろう。変化を変化と感じるような、複雑さを複雑さと感じるような新たな舌(二番目の)の誕生。多分に詩的な表現ではあるが、少なくとも味覚や聴覚、嗅覚の感じ方を示す言葉としては的を射ているように思う。

聖体拝領、民主主義、無頭人

ワインを注いで癒す者としてのディオニュソス。確かにディオニュソスの両義性は、ワインという飲み物の二重性をよく表現していると思う。土地からの恵みである葡萄がワインに姿を変える。時にそれは人々の心をかき乱し、強烈なエネルギーを引き出すことになる。そのエネルギーは、社会に活力を与えることもあれば、社会そのものを崩壊するようなカオティックなエネルギーにも変わる。覚醒と陶酔、生と死、光と闇がまさに同時に発生する状態。ディオニュソスと対立するように存在しているアポロンは、実は同じものの二つの顔だった。ワインのもつ二重性は、酩酊のメタファを借りることによりいっそう明確になる。ディオニソスの両義性こそ、実は私たち人間のありのままの姿なのだ。ワインを飲むことによって現われる姿こそ、まったき人間の本性なのである。
ところで、楠見千寿子氏が最後に指摘した民主主義の問題は、私たちの通常の理解とは逆であって興味深い指摘だ。民主制の根幹に狂乱がある。確かに歴史の端緒において祝祭と政治は同じものであった。祝祭を統御し、そのエネルギーを分配することが政治というシステムであった。だとすれば、理性によって成り立っていると思われている今日の政治空間に対して、ディオニュソス的なものを対立させることは可能かもしれない。民主制はそもそも自律する主体によって構築される制度である。ここでいう自律とは、字義通り自ら律することであり、英語で言えばオトノミー(autonomy)のことだ。オートマティックに通じるつまり自動(的)という意味である。操作主体、コントロールする主体がない「無頭」状態が自律である(自律という言葉から、すぐにも主体性を想起するのは、全くの誤読である)。自動的であるということは、自然に起こってしまうということであり、目的やその結果であるベネフィット(報酬)は最初から含意されていない。言い換えれば、身返りを期待しない徹頭徹尾ボランタリーな(意志なし)意志に基づいている。いわば無為の行為である。今流に言えば、NPOといったところか。
そうした無為の行為主体によって形成される民主制とは、どのようにイメージできるのだろうか。しかもその背後にあるのは酩酊のメタファであるとしたら。そこで思い出されるのが「無為の共同体」だ。ジャン=リュック・ナンシーというフランスの哲学者が著した同名の著作で主張されている中心概念が無為である。無為とは、無限の放棄に見返りもなくおのれを与えることだという。この無為の主体によって構成される共同体を、無為の共同体という。
ジャン=リュック・ナンシーの著作と歩調を合わせるように書かれたもう一つのテキスト「明かしえぬ共同体」の著者モーリス・ブランショは、この無限の放棄として無為を贈与と読み取り、バタイユの理論を借りながらさらにその考えを進め、いっさいを放擲し自ら雲散霧消してしまうような主体、いわば死者による民主主義を構想した。死すべきものは同時に不死であるという逆説に基づく主体によって原理付けられた民主制は、結果として共同体から内在するいっさいの目的を外へ追い出すことになる。なんの役にも立たない、しかし徹底的に民主的な共同体。
ジャン=リュック・ナンシーとブランショのこの無為の議論を、なぜ唐突に持ち出したかというと、一つは引き合いに出されたバタイユの理論が、まさしく酩酊と陶酔、恍惚のメタファに満ちたものだということだ。もう一つは、共同体という言葉の意味について、偶然にもワインとこの共同体が奇妙なリンケージをなしているからである。 エロティシズムの思想家として知られるバタイユは、聖なるものと性なるものとが一致する「恍惚」を、宗教の内在的な経験として書き直した。バタイユの言う「内的体験」は、神と極限において対面する一瞬間のことであるが、この心的強度を感覚の側から捉えれた状態が恍惚である。恍惚はそれ自体一種の交感であり、交通である。乱暴に言ってしまえば、エロス的な恍惚感と、神と向かい合うことで得られる一体感は、バタイユにとっては全く同質であり、両者はその瞬間「交感」によって奇しくも結合するのである。この「交感」を人為的に引き起こすことが祝祭である。祝祭の手段としてしばしば酒が利用されてきたのは、酒を飲むことによって「交感」しやすい状態をつくり出すためだ。つまり、自らを酩酊状態に置くことによって忘我にし、「交感」しやすい状態をつくり出すのである。祝祭に酒がつきものなのは、こうした「交感」の状態をスタンバイする手っ取り早い手段だからである。ようするにからだを水浸しにして感電しやすい状態にすることと同じである。この場合の水が、まさに聖なる水=酒であり、電流が神である。
実はこのバタイユの言う「交感」はフランス語でcommuniquerで、コミュニケーションcommunicationと語源を同じにするばかりではなく、共同体を意味するフランス語communauteや共産主義であるcommunisme とも近い言葉なのである。そしてさらに注目すべきは、聖体拝領を意味するcommunionもまた同じ語源をもつ言葉なのだ。聖体拝領とは山内志郎氏のインタビューに出てきた実体変化に基礎付けられたキリスト教の儀式である。この概念をめぐって神学的な論争が続いたことを山内氏は指摘しているが、キリスト教の聖体拝領が神との一体となり溶け合うことを象徴しているとすれば、共同体そのものが当初からそうした合一のイメージを含んでいたことになる。複数性が一体性のうちに融合消滅すること(西谷修)。融合消滅は、キリスト教にとってキリストの肉体と同一化すること、すなわち死者になることを示唆している。そして、死者であるキリストの肉体とは、まぎれもなく個別性をとして存在する「この人」なのだ。
聖体拝領の神学的意味について論じる余裕はないので一つだけ指摘しておくと、ワインを人間にもたらした神であるディオニュソスのシンボリズムとキリスト教の儀式の一つである聖体拝領は、根底の部分で深く結びついているということだ。それはまさに神という身体と一体になることであり、それは時に強烈な恍惚感を身体にもたらす。その手段としてもちいられてきたものが酒であるワインであったとして、ではそれがなぜ酩酊のメテファであったのか。そこにワインのもつ実はもっとも重要と思われる意味が隠されているように思われる。
眼前にあるワインが、所与としてある五感に働き掛けるものである「このワイン」である時、それを飲むことは徹底して固有の体験であることは先に述べたとおりである。「私は飲む I drink 」という言葉は、ウィトゲンシュタインに言わせれば、「私」という語の主体としての使用例であって、何ものも指示しない徹底的に私的な人称代名詞であるところの「私」である(ウィトゲンシュタイン『青色本』)。その意味では共約不可能なものである。つまり「このワイン」を覚知するのは、まさに「この私」であり、客体としてある私ではない。私がたった今美味しいと思いつつ飲んでいる「このワイン」は、「この私」の感覚に属するものであって、いうまでもなく誰もそれを覚知することはできない。仮に恋人や友人達と「このワイン」を一緒に飲んでいるとしても、私の美味しいと感ずる感覚は、私の感覚の内部から一歩も外に出ることはないのである。私の痛みが、決して私から切り取られることがないように、私の「美味しい」も、私から分離すること絶対にない。感覚はまさしく私そのものなのだ。
感覚としてある私は、ある意味で(意志なき)意志によって感覚している私という経験、というほかないものである。いわば無頭状態として現在を生きている。その行為を外側から眺めた時に、それは無頭状態であるがゆえに無為な行為として映るかもしれない。酩酊も同様だ。外から酩酊状態を眺めると、それは単なる酔を行っているようにしか見えないだろう。しかし、酔いは行うことではなく、ただ酔うだけである。無頭状態を生きているだけなのだ。
酩酊によって神との一体感を得ようとした中世の修道士と現代の私たちとが一致するできるのはただ一つ、ワインによって酩酊できるということである。この感覚が私において一致すること、これこそがディオニュソスがもたらしたワインの秘密ではなかろうか。
「それは、私のちのすべてを、頭のてっぺんから足の先までいっぱいに満たした。ワインは、われわれの内を循環する。そして一体となった身体がわれわれを循環する。ここに、われわれは一体となり、結ばれ、われわれはもはや全員一致の一つの身体をしかなさない。(…)各人が同じ聖杯から飲み、個体化の原理の放棄に至るまで飲み、各人は、姿を消して通路しか残らない。ただ一つの結び合った生体の中での循環。これは私の血である」
ミッシェル・セールのワインは血であり、それはディオニュソスの祝祭を甦らせようような無頭=アセファルによって結ばれる。「このワイン」が私の血である時、「この私」は神となる。ワインのシンボリズムの意味はこのことを示しているだけなのかもしれない。

 <参考文献>
『五感』ミッシェル・セール、米山親能訳、法政大学へ出版局、1991
『見えるものと見えないもの』M・メルロ=ポンティ、滝浦静雄、木田元訳、みすず書房、1998
『明かしえぬ共同体』モーリス・ブランショ、西谷修訳、ちくま学芸文庫、1997
『ワインと風土』ロジェ・ディオン、福田育弘訳、人文書院、1997
『ワインの文化史』ジャン=フランソワ・ゴーティエ、八木尚子訳、白水社、1998

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