editor's note[before]

パフォーマティヴィティとは何か

パフォーマティヴとは、ジョン・ラングショー・オースティンという言語学者が出した概念で、日本では「行為逐行的」と翻訳されている。言語がもつ役割は、ものごとの状態や事実を記述するだけではない。その言語を発したことによって、発話者自身がある行為を行っていることがある。オースティンは、そうした発話が行為の遂行を果たしている場合があることを明らかにしようとした。たとえば、「きみの後ろにクルマが来てるよ」という発話は、道路を歩いている人間の背後をクルマが走っている状態を記述しているように見える。しかし、ある場面においては、それは「危ない! ひかれるゾ!」という警告でもある。また、「明日会おうね」という発話は、「明日私はあなたと会うことを約束する」ということを考えている私の心の状態を記述しているのではなくて、発話することによって「約束する」という行為自体を逐行しているのである。オースティンは、このように約束や、警告、宣言などの文の機能が、記述を第一の目的としているのではなく、むしろある行為の逐行にあることを、コンスタティヴ(事実確認的)に対してパフォーマティヴと呼んだ。言語学の分野で、ふだん使用されている言語を分析する日常言語学派の一人として目覚ましい業績を遺したオースティンのその中心的概念である「パフォーマティヴ」を手掛かりとして、今号では人間と言葉の関わりを考えてみたい。


高まる言葉への関心

大野晋氏の『日本語練習帳』(岩波新書)が売れているという。7月21日付けの広告には、110万部突破と記されていた。これは新書としては驚異的な数字だ。大野晋氏といえば、日本語が南インドの古タミル語を起源とするという仮説を提起して言語と文明の系統関係に大胆に切り込んでいった国語学者である。大論争を巻き起こしたこの仮説の実証的裏付けを続ける一方で、大野氏は、「ハ」と「ガ」や敬語の使用方法などを通して日本語の文法についても研究を続けてこられた。その成果を活かしながら、言葉の技術の習得と、私たち自身がその技術をどのくらい使いこなしているかを、練習問題集の体裁で書かれたのが『日本語練習帳』である。いわば日本語を使用する人のためのトレーニングブックといったところだ。今、書店に出向くと、『日本語練習帳』がうず高く平積みされている光景を目にすることだろう。そして、その周囲には、同様に日本語関係や言葉を扱った本が並べられているはずである。日本語をテーマにして類書を集めたブックフェアが盛んに行われている。『日本語練習帳』が一つの引き金になったのだろうが、日本語や言葉に対する関心が高まっていることはまちがいないようだ。言葉や日本語の具体的な使われ方が問題になることも少なくない。たとえば、現在(99年7月31日)審議が行われている「国旗・国歌」法案に関連して、「君が代」の「君」が誰を表しているかということで議論伯仲した。また、通信傍受法(通称盗聴法)の対象が通信である場合、電子メールなどのデータ通信もその対象になるわけだが、そうであれば傍受という表現は適切かどうか、法案の言葉をめぐって議論は尽きない。そもそも法律の審議は、表現の解釈とその運用をめぐる議論である場合が多い。法律と言葉の関係は根深い。新聞やTV報道には、そうした本質的な問題へ切り込んだものもあった。法案を日本語や言葉の問題として捉え直し、現行の法律制度の限界を示唆しているのである。年末の「流行語大賞」の発表やら、「今年のキーワードは◯◯」といったように、言葉によって現代を表現することが一種の国民的行事になっている。また、「ムカつく」「キレる」の若者ことば、駅のホームのアナウンスを代表する騒音公害、まちの至るところで目にする標語の氾濫、さらにはマニュアル語や差別語の問題と、社会との関わりで言葉を問われることも多くなった。例に出したような言葉や情報の過剰なまでの氾濫、いわば言語のインフレーションが問題になる一方で、日本人のお父さんたちにみられるような一語文、一音文、いわゆる「メシ・フロ・ネル」に「オイ」「オー」「アー」といった言葉や情報の極端な萎縮、デフレーションも無視できない問題だ。この傾向は、今や大学生からローティーンにまで広がっているという。こうしたことが話題になるのは、ひとえに私たち日本人が、日本語や言葉の使用に関してかつてより敏感になっているからだろう。しかし、このことは同時に、それとは裏腹な現象をも暗示している。つまり日本語そのものが、私たちの間で変わり始めているその兆候だと見ることもできるからだ。


理論より現場への関心

こうした傾向が日本特有の問題かどうかはわからないが、ここで気がつくことは、その関心の向かい方である。言葉に対する関心は以前からあった。あとで述べるように、ある一時期言語学が一種のブームを巻き起こしたことがあった。しかしながら、今関心がもたれているのはそうした「言語」という大きな枠組みではない。実際に使用される場面やその効果あるいはスキルといったレベルでである。言語構造、言語システムといった理論的な関心よりも、ここで例に出したような、今私たちが使っている言葉そのものに対する興味である。そしてどうやらそうした傾向は、人間に関する学問分野においても顕著になりつつあるようだ。日本語や言葉の使用は、今では、人文科学や社会学といった個別の分野においても重要な関心事になってきているのである。70年代、80年代、いわゆる現代思想という領域では、言語に関する議論が盛んであった。現代思想という問題領域そのものが言語学のフィールドとピッタリと重なり合っていた時期さえあった。やがて言語学から記号学へとさらにフィールドを広げていく中で、現代思想と言語の結び付きはますます強く深くなっていった。ところが、今やそうした現代思想と「言語」の緊張関係は薄れつつある。繰り返すまでもなく、今問われているのは言葉の具体的な使われ方であり、その効果や結果である。言語の体系やパラダイムがどうしたというような議論を聞くことは、少なくとも思想や哲学の分野では少なくなってしまった。言語から言葉へ。そしてさらに日本語へ。この変化の背後に何があるのだろうか。私たちは、今一度70年代、80年代の思想状況を振り返ってみる必要がある。


人間諸科学と言語のモデル

80年代初頭、「ニューアカデミズム」を生む引き金となった浅田彰著『構造と力』のサブタイトルには、「記号論を超えて」と記されていた。ここで言われている構造とは、言うまでもなく構造主義の構造であると同時にポスト構造主義の構造であり、記号論とは言語を範としながらも、それを大幅に拡張した理論であった。構造主義とポスト構造主義、この考え方のモデルになったのが、言語の構造、体系である。よく知られているように、構造主義は、人類学者であるレヴィ=ストロースが言語学者であるロマン・ヤコブソンとの出会いによって誕生した。レヴィ=ストロースは、自らの研究課題である親族の関係を調査している時に、ヤコブソンの一般音法則の研究を知り、この考え方を全面的に取り入れて、『親族の基本構造』という著作を書き上げた。それまでさまざまな文化に発見されながら、その理由が解けないでいた近親相姦の禁忌を、婚姻規則との関係において、言語の構造論をヒントにして解き明かしたのである。レヴィ=ストロースはこの考えをさらに進めて、やはりあらゆる文化に散見される神話体系についても、同様に言語をモデルに解明した。この一連のレヴィ=ストロースの人類学上の研究成果をもって、構造主義は誕生としたといわれている。時を同じくして、ジャック・ラカンがソシュール以降の言語学を導入し、あまりにも有名な「無意識は一つの言語のように構造化されている」という言葉に象徴されるような、精神分析の構造主義化を推し進めた。また、ミッシェル・フーコーは、歴史と社会の分析を言語体系と表象空間の関連から行い、ルイ・アルチュセールはマルクス主義を、ロラン・バルトは文学を、ジャック・デリダは哲学を言語とのつながりにおいて探究していった。ジル・ドゥルーズも言語構造に備わったダイナミズムに着目し、独自の力の思想をつくり出した。もとより、彼らだけではなく人文科学の分野で数多くの研究者が構造主義の傘の下でさまざまな成果を上げていったが、彼らの思考の基礎にあったのは、常に言語のしくみであり体系であった。いわゆる68年前後にフランスを中心に沸騰した構造主義という新しい知のしくみは、文字どおり言語における構造、体系をもとに組み立てられたものであった。では構造主義とポスト構造主義とでは、何が違っていたのか。そして記号論とはどう結び付いていたのか。浅田彰氏に従えば、記号論は乗り超える対象でなければならなかった。だとすれば、構造主義、ポスト構造主義と記号論とはどこが異なっていたのか。


ポスト構造主義の登場と言語観の変容

実のところ構造主義とポスト構造主義の違いを説明するには限られた紙面では無理であるし、そのことに多くのページを割いている研究書もあるのでそちらをお読みいただきたいが、あえて述べるとすれば、構造という言葉の解釈にその混乱が生まれた原因があったように筆者は考えている。以前から何度か指摘しているように、構造言語学における構造という概念は、structure というよりは system に近い。structure というと建築の構造設計を思わせるように、柱やパネルによって構築された構造体を想像させる。しかし、言語における構造は、たとえば将棋やチェスのルールのようなもので、物理的な構築物といったニュアンスはない。むしろ、目に見えないがその制度を厳しく律しているものである。要素はリジッドで固定的なものであっても(それさえも厳密にはそう言い切れないのだが、この議論はインタビューの随所に登場するのでそちらを参照していただきたい)、その相互関係によって容易に変わりうるものであり、静態的ではなく動態的であり、部分的ではなく全体的なもの、そういうシステムが言語における構造である。制度という面から見れば、確かに不動であり強固なしくみをもっているが、ルールである以上必要があればどんどん組み変えていいものである。現に、スポーツのルールは構成員や場所や条件によって、さまざまに変わりうるものであることは私たちがよく知っているはずだ。そうしたことを前提にして、構造主義とポスト構造主義の関係をとりあえず次のように形式的に捉えることはできるだろう。構造を強調しすぎたがために(たとえば、実存主義への批判、マルクス主義史観への批判を通して)構造の制度面が露骨に前景化したものが構造主義である。逆に構造自らがもつ変換可能性の方を強調し、力動性を極端に前景化したものがポスト構造主義である。両者は、もともと連続したものなのである。では、記号論はどうか。ソシュールは、「言語学はやがて記号学の一部門になるだろう」と予告した。ところが、全く逆に、記号学こそが言語学の一部門と宣言したのがバルトであった。記号が先か、言語が先か、記号が言語に含まれる? 言語が記号に含まれる? こうした議論は、実は当時から繰り返し議論されていたことだ。さらに記号学と記号論を明確に分けて論じるべきであるという主張も出された。言語学と記号学、記号論との関係についても、一筋縄ではいかない複雑な関係にある。しし、ここでもあえて単純化すれば(そういう暴挙を許していただければ)、構造主義に全面的に従いながら、人間の思考、行動様式いっさいを記号作用のもとに再編成しようとしたのが記号学であり、その応用面、産出面を意味との関係を下敷きに深化させたのが記号論であり、その全体像の基礎づけにくみしたのが言語学であった。少なくとも、筆者はそう理解している。記号学、記号論共に、80年代後半にその関心はピークに達した。言語学は、言語学という固有の領域とは別に、今述べたような理由で思想や哲学といった現代思想との関わりの中で発展していった。人間の追及においてその関連する諸科学は、皆何らかの理由で言語と関わらざるをえなかったのである。逆に言えば、言語のしくみが解明されることによって、人間の思考や行動様式がある程度理解可能になるのではないかという強い期待感が人文科学側にはあったということだ。しかし、そうした期待感はその後急速に薄れていった。それはなぜだろうか。その疑問を解く鍵こそが、実は昨今の言語の使用面への関心にあるのではないだろうか。言語の理論や構造に対する関心から、言葉が話されている現場や話しているということに人々の関心が移行してきているのである。すなわちそれこそが言語学に対して人々がもつ関心が失われてきたという理由ではないかと考えられる。つまり、こういうことだ。私たちは言葉のしくみを知る前にすでに言葉を話している。人間にとって言葉がどの段階で獲得されるのか、これも言語学の尽きない大テーマである。だが何よりも、現にこうして話したり、話しを聞いたりすることができるということが不思議だ。現実に言葉を使用していることが、最も大きなナゾとして私たちの前に立ちはだかっているということに、改めて私たち自身が気づいたのである。私たちは、話をし、聞き、ある場合は文字によって言葉を伝え、文字を通してさまざまな事柄を知る。言葉の使用場面をさまざまに変えながら、何がしか言葉を操っている。言葉が使用されているその時、言葉はどのような意味をもっているのだろうか。そして操っているのであれば、私の何が操っているのか。それは私自身なのか。構造主義は確かに言語と人間科学を結び付ける役割を果たし、一定程度の成果を得ることができた。しかし、それはあくまでも言語を媒介にして人間に迫ることであった。人間は無意識という言語に操られている。しかし、私が知りたいのは、無意識そのものの方ではなかったか。なぜ言葉を私が使用してしまうのか。何よりもまず私が話す時に、なぜ日本語でなければならないのか。私が今話をしている、話を聞いているもの、その言葉のしくみこそが私が今知りたいことである。言葉を通して言葉に問いかけることとはそもそもどういう事態をいうのか。言語の理論面からの追及に代わって、言葉の使用へと人々の関心がシフトしてきた背景にあるのは、言葉の意味への傾斜ではないか。学問としての「意味論」だけへの関心というだけではなく、意味が生まれてくる場所としての、私の身体、私の発する言葉への関心。著しいメディア環境の変化を経て、人々はますます強くそうした言葉の意味に憑かれているように思われる。


 メディアの変容、
  再び問われる言葉というナゾ


私たちは、オースティンのパフォーマティヴという概念を一つの道具にして、それを手掛かりに言葉について考えていこうと思う。まず、最初に今世紀の言語学の動向を俯瞰する。ソシュールの打ち出した言語理論は、言語学のその後の方向性を決定してしまった。ソシュール革命といっても過 言ではない地殻変動。言語における構造の発見は、今世紀の言語観を根底から書き換えてしまったのだ。20世紀の言語学とはなんであったのか。そしてそこから出てきた構造主義の思想を改めて捉え直し、言語学と人間諸科学との関連性を考察する。お聞きするのは、言語学と哲学を専攻されている中央大学助教授
加賀野井秀一氏。次に、言語は変化するという立場に立って、言語が変わりうる可能性を考えてみたい。言語学をリードしてきた構造言語学。しかし、それは一面で言語の大きな特徴である変化という現象に対して歪めた見方を定着させてしまったという。20世紀言語学の陥穽を、言語学の内部に探ってみたいと思う。忘却されて久しいソビエト言語学、エスペラント語を手掛かりに、一橋大学名誉教授の田中克彦氏にお聞きする。意味の生成と言語はどのような関連性をもちうるのだろうか。冤罪に関わりながら、供述分析を通して虚偽の自白が生まれるプロセスを探るという注目すべき研究を行っているのが花園大学教授の浜田寿美男氏だ。ウソをつかせてしまう心理状態とはどういうものか、言葉の使用が自らを加害者に仕立て上げてしまう過程を探り、自白の構造に迫る。加えて、心理学の限界についても考察していただく。四番目は視点を少し変えて、言葉と信仰の関係を考えてみたい。宗教の魅力は、神・他者の内在と自己の超越にある。この一見非論理的に見える二つの展開が、実は合理的かつ論理的構造によって保証されていて、それこそが宗教の魅力であると喝破したのは、同志社大学教授の落合仁司氏である。しかも落合氏は、それを最も論理的な言語である数学によって証明してしまった。人々はなぜ宗教に引き寄せられるのか、言葉の使用との関係から考察する。オースティンのパフォーマティヴの考え方を批判することにより、逆説的にパフォーマティヴィティの可能性を示唆したデリダ。日本学術振興会特別研究員の東浩紀氏は、デリダ思想を徹底的に掘り下げて、全く新しいデリダ像を描き出した。東氏に従えば、最も難解だと目されていた80年代のデリダのエクリチュールの実践は、エピステーメの変革期の到来を予感させるメディア環境をいち早く先取りしたものであったという。言葉、そのパフォーマティヴィティへのシフトの背後にあるのは、メディア環境の地殻変動ではないか。今日の、言葉、電子メディア、エピステーメの関係について分析してもらう。


五人のインタビューを通して、私たちはまさに今使用される言葉のありように迫ってみたい。20世紀に入って、言語学についての非常に多くの新理論が確立されてきた。その中で、パフォーマティヴィティは言語の創造性を解明するための第一歩でもある。20世紀言語学の流れを俯瞰し、パフォーマティヴィティというものを考えていくことで、単に言語の学問というだけではなく、言語を含む表象、関連領域とのさまざまな結び付きが明らかになる。


▲return