![]() 流れる「見え」のシステム 固視と視線の跳躍 「〈遠近法〉は、視覚を固定してしまった。それは視覚にとってきわめて特殊なあり方である」 神崎繁氏がインタビューで繰り返し述べていたことは、「遠近法」における視点と空間の固定という問題であった。それは眼にとってきわめて不自然なことである。人間の眼は一点から見ているのではなく、常に複数の視点をもっている。エルンスト・マッハの疑問を待つまでもなく、それは私たちにとってはごく普通の感覚であろう。 実際人間の眼は常に移動している。神崎氏が指摘するように、本来見るということと行為は切り離すことはできないものだ。ものを見るためには動かなければならないし、また、動くためには見なければならない。このことは何も眼をもつ人間が移動する存在だという理由に留まらない。じつは、眼球そのものも常に動き続けているのだ。 眼球が決して静止することなく、動き続けているという事実は生理学が明らかにした。固視微動(視線の跳躍)と呼ばれている現象で、人間の場合一秒間に約三回跳躍するように、視線を移動させているという。それを際限なく繰り返している。つまり、眼は見たいものに視線を止めている状態と、次の移動先への跳躍を交互に繰り返し続ける。私たちが通常「見る」という行為は、生理学的に見れば、この固視と跳躍の両方をいうのである。 視覚における能動性。これは、旧来の視覚という枠組みからの自由を意味する。「遠近法」という視覚の枠組みは、プラトンに元凶があるのではなく、その事態を予測し、むしろそこから視覚を解放しようとした者こそプラトンではなかったか。神崎繁氏の「遠近法」批判は、ギリシャに起源をもつ西欧哲学に関する仮説というだけではない。本来私たちが常識としている眼の現実への回帰、視覚の陥穽への問い掛けでもあるのだ。 「表情」を見ること、「動く」こと 「感覚は欺かない。判断が欺くのだ」。ゲーテは、人間の感覚に無条件に信頼をおいてこう断言した。高橋義人氏が言うように、「表情」を見ることこそが、自然において「本質」を捉えることだからである。「表情」を見ること、ゲーテの言葉である「根本現象」は、フッサールの「本質直観」にそのまま接続する。ゲーテを西欧哲学における現象学の源泉として位置づけ直そうというこの考えは刺激的だ。よく知られているように、フッサールを創始とする現象学の基本概念である「志向性」は、主観-客観という古典的な二項対立による認識論上の枠組みに対して、関係概念として捉え直したところにある。客観的対象は感覚与件であり、また反対に主観は対象化作用であるとする古典的な客観と主観という対立軸に対して、それを関係性として読み直したうえで、その両義的な運動として「志向性」を捉えた。メルロ・ポンティの主張した身体性という概念も、この「志向性」という意識の全方位的機能の延長にある。フッサールの言う意識にしてもメルロ・ポンティの言う身体にしても、その根元にあるものはこの運動性・「動き」なのである。「私は見る」「私は動く」というフッサールの有名な「キネステーゼ(運動感覚)」という概念は、だから文字どおり主体が「動く」ことであると同時に、客観としての世界も動くということを意味しているのだ。そして、感覚とは、まさにそうした「動き」の中から、さらには「動き」の中へ生れてくるものである。要するに、感覚は、現象学においては単なる感覚与件として外部から与えられるものではなく、能動性と受動性の運動の関係として生成するものである。この考えは、カントによって体系づけられたはずの感覚論を大きく踏み超えることになる。そして、まさにその端緒にゲーテがいるというのだ。 これまでゲーテの「色彩論」は、ゲーテのほかの科学論文と比較していささか低く見積もられていた。形態学への関心とは対照的である(前田富士男「絵画の導きとしてのエネルギー・・クレーとゲーテ・再考」)。その要因の一つは、ニュートンの『光学』批判という面ばかりが前面に出すぎたせいではなかろうか。逆に、ニューエージ系の論者から再評価の声が上がったのも、その事情をよく示していると思われる。 しかし、改めて「根本現象」とのかかわりの中から見てみると、「色彩論」のもつ射程は驚くほど深いことがわかってくる。高橋義人氏が冒頭で述べているように、その近代科学批判は、一方で人間のもつ能力の可能性を讚える。感覚という領域があるということと、絶えず「動く」ことによってそれは感受されるということ。近代科学がまちがっていると決めつけているのではない。そこには「動く」ものはあっても、「動く」ことへの配慮が欠けている。「色」はこの「動く」ことによって、初めて捉えられるものだとゲーテは言うのである。 感覚と感覚対象の一致 この「動く」ことの重要性は、前田英樹氏のインタビューにおいても強調されている。セザンヌの絵画がほかの絵画表現と著しく異なるのは、この視覚の能動性に忠実だったところだという。絵画の歴史などではモネやルノアール、ドガなどと並んで印象派に含められる場合があるが、この視覚の能動性という観点から見ると、セザンヌは印象派とは明らかに一線を画す画家である。前田英樹氏は、印象派の中心的画家であったモネと比較して次のように言う。「モネが信じたのは純粋視覚の経験であり、セザンヌの信じたのは純粋感覚である」と。 ここでいうモネの視覚は知覚のことであって、知覚である以上知覚する主体と知覚される外界との分離が余儀なくされる。通常知覚と感覚は区別して考えることはあまりないのだが、セザンヌはそれを明確に切り離した。そして、モネの考える知覚の純粋性に対して、はっきりと感覚の優位を主張して、純粋感覚というものの領域へと踏み込んでいった。というのが前田英樹氏のセザンヌ解釈である。この純粋感覚は、眼の能動性から導出されるものだ。 この知覚と感覚をどう捉えるかということは、哲学の分野では常に議論になってきた。そもそも一八世紀後半に登場したロック、ヒューム、バークリーといういわゆるイギリス経験論の主題は知覚と感覚であったし、それを感性と悟性、またその二つを総合する超越論的構想力によってまとめ上げたのがカントであった。だが、いったんは統一されたかにみえたカントの図式においても、じつは感覚の問題は積み残されたままになっていた。詳細な検討は省くが、感覚をめぐっては、哲学でもいまだに議論が絶えないのである。そういう文脈を踏まえたうえで、改めてこのセザンヌの解釈に耳を傾けてみよう。たとえば、「知覚は私の身体の外にあるが、感覚は私の身体と共にある」と前田英樹氏は言う。「味」や「におい」は感覚対象であり、視覚にとっては「色」が感覚対象である。それらは、私の身体の中に、身体と共にある。ただ、ここで注意しなければならないことは、だからといってその感覚を、メルロ・ポンティの言う「生きられる身体」やアントナン・アルトーの「器官なき身体」と同じものと見なしてはならないということだ。前田氏があえてフランシス・ベーコンという二○世紀の具象絵画の極北に位置する画家と比較して、セザンヌを「身体なき感覚」という言い方で呼んだのは、感覚と感覚対象の一致が、物質がもつ「強度」を感ずるということだけを意味しているわけではない、ということを強調したかったためであろう。物質がもつ「強度」を感じる・・つまりそれが知覚経験であるが・・、それは、あくまでも身体の外にあるものを身体が感じていることである。そこには知覚によって知覚対象を感じるという経験がある。しかし、感覚と感覚対象の一致において、そうした経験はもはやどこかに消えてしまっているのではないか。つまり、感覚と感覚対象が一致する時、私の身体はもはやそれを感覚する位置にはいないということである。何かを食べていて「美味しい」と感じているまさにその瞬間、いい香りを嗅いでいて「いいにおい」と感じているその瞬間、私の身体はそれを感じている当のものであって、厳密にいうと感じているという身体はフッと消えてしまっている。誰でもがそう感じるのではないか。同じように、「ああ、きれいだな」と色を見て感じているその瞬間に、私の眼や身体はもうどこにも存在しない。それがここでいう感覚と感覚対象の一致ということなのだ。では、私の身体はその瞬間いったいどこに行ってしまったのか。 流れている世界 その疑問を解くヒントが、佐々木正人氏と畠山直哉氏の対談にある。佐々木正人氏には以前「アフォーダンスと反表象主義」(『談』no.54初出 後に『複雑性としての身体』河出書房新社に収録)というテーマでご登場をいただいた。ギブソンのキーワードの一つであるアフォーダンスを手掛かりに、身体と環境に関して独特な考えを提起した生態心理学についてじっくりお聞きした。今回の対談は、生態心理学という方法論を前提にして、その理論を写真表現の解釈に援用するとどうなるだろうかというアイディアから生れた。 畠山直哉氏の写真家としての活動は多岐にわたるが、ここでは、「ライムワークス」「blast」「drawing」「underground」と続く仕事に焦点を絞って話し合っていただいた。これらの一連の作品は、それぞれ独立していて制作上の一貫性はない。けれども、視覚という観点から見てみると共通するテーマを発見することができる。それは、冒頭、畠山氏自身が言っているように、人間の眼に見えている世界と写真というメディウムを媒介して見ることのできる世界との乖離と共通性を探るということだ。「ライムワークス」は、まさしく眼の「見え」を、写真というしくみに精確に置換する試みであった。「blast」は爆発という、通常人間の眼では知覚できない瞬間を写し出した。「drawing」は、カメラ・オブスキュラに入り込むことで、自らが写真機になってしまうという実験である。そして最近作の「underground」は、本来光を集めることによって成立する写真に抗して、光のない闇を撮るというものだ。畠山氏の動機はともかくとして、こうしてつなげてみるとその一連の作品が提起することは「見え」とは何かという、まさしく生態心理学が追求してきたテーマと重なっていることがわかるだろう。 視覚の原理には集中と分散の同時性があるということ。視覚には時間がないが写真には時間があるということ。視覚のインバリアントを探し出す行為全体が、視覚であるということ。そして、視覚が視覚となる組織化の法則とは何か、それを探し出すことから視覚表現の世界へようやく入り込むことができるということ。生態心理学ではもうおなじみの、だが既存の心理学、視覚論には十分にインパクトのある話が対談では交わされた。一つひとつ見当する余裕はないので、最初に断った感覚と感覚対象の一致についてここでは触れておきたい。 感覚と感覚対象が一致するという経験は、きわめて特殊な状況かもしれない。それは私たちの日常においてしばしば起こることではあるが、それを実際に感受することは難しいからである。そこで参考になるのが佐々木正人氏が言う「あらゆる場所に同時にいる」という考えだ。佐々木氏が名古屋を走るタクシーに乗って全部見えてしまうという体験を述べている。「あらゆる場所に同時にいる」という感じは、このような視覚体験を語ったものである。つまり、次々に眼は新たな「見え」を体験していく。たとえばクルマを運転していて、フロントウィンドウに現れる外の景色は、次々に自分の眼の前に現れては消えていく。フロントウィンドウの中心部で、はるか先にまだ見えずにいる世界がだんだん現れてきて、フロントウィンドウの周囲へ消えていく。無限の彼方から自分の眼の中心部ヘ向かって高速度で世界が飛び込んでくる感じ。私たちの「見え」を記述しようとするとこんなところではなかろうか。佐々木氏はあるところで、無限に層をなす画面の、いちばん手前にある画面が次々にめくれて、同時にその下に隠れていた世界が次々に現れるという表現で、この感じを伝えようとしていた。隠れていた世界がめくれながら次々に顔を出す。一瞬前まで見えていた世界は、もうどこにもない。しかし、それはまたどこかに隠れている世界でもある。そして、ここが最も重要なところなのだが、それは終わりがないということだ。それはずっと続く。流れるようにずっと続くだけなのである。その時、私の身体はどこにあるのか。その流れの中にある。だが、それは流れの中にあるだけで、実体をそこに見いだすことはできない。 生態心理学が、描き出した「見え」は、このような世界像だと思われる。ギブソンが環境や実在や持続という時に、彼の頭の中にあるそれらは、どれもこのような流れている環境であり、流れている実在であり、流れている持続である。身体をあえて想定する必要もない。しかし、それはいうまでもなく身体が存在しないということではない。身体は確かにある。確かにあるのだが、物理的な表象として現れてはこないような、そういう身体なのだ。この流れを「動き」と言い換えてみれば、それがまさに「見え」のシステムであることは一目瞭然であろう。 この「見え」の描写は、感覚という不思議な経験をうまく捉えているように思われる。感覚を感覚すること。しかし、それはせっかく手なずけたはずの自然を、もう一度野性の状態に戻してしまうことでもある。視覚的な流動という事態を基底に置くと、理性主義はたちまち崩壊の危機に立たされてしまう。 スーパーフラットというポストモダン社会 客観的な世界を理性によって統御する、おおまかにいえばヨーロッパにおける近代の精神の誕生は、理性による客観的世界、つまり、感性の封じ込めにあったといえるであろう。デカルトからカントヘとつながる近代合理主義の思想の骨格にあたる部分にあるものは、こうした理性主義である。だから、カントはイギリス経験論に芽生えた感覚論の萌芽を悟性へと吸収する必要があったのである。だが、繰り返すように、それは未完に終わる。むしろ感覚の領域が私たちの理性をも脅かすようになる。 そうした事態を取りまとめるために要請されたものが、「遠近法」なのである。世界を止め、自らも静止する。客観的世界を不動なものにして、静止した主観によって見尽くすことができるようにすること。「遠近法」とは、それを可能とするアルス(技法、表現)であった。 岡崎乾二郎氏の着目したところは、まさにこれまでの遠近法に関する議論の盲点であった。今では誰も疑わない透視図法の発明者とされるブルネレスキの考えが、じつはアルベルティによって誤読されたものだと指摘したからである。その指摘の余震は単にルネサンス美術史上に大幅な書き換えを迫っただけではなかった。ルネサンスの精神史上の意味や、また、そこから胚胎する近代の思想のフレームについても見直しを迫るのである。 岡崎氏の主張をこの文脈から読み替えると、ブルネレスキはそのような理性主義の立場から遠近法を考えたのではないということだ。事態はまったく逆である。もともと知覚には時間・空間を混乱させてしまうような錯乱性が備わっている。要するに、これまで言ってきた意味でいえば、感覚の感覚性が思考には備わっていて、それをむしろ称揚したのがブルネレスキだったというわけである。この図式はプラトンの逆説と奇妙にも類似している点は興味深い。プラトンが遠近法不在の中で遠近法からの自由を唱えたとすれば、ブルネレスキもまた遠近法という思考の枠組みそのものを使って、遠近法のしくみを崩壊させるという戦略に出たのである。 さて、現代はポストモダンの時代である。ポストモダンという言葉はすでに消費され尽くした感がある。しかし、東浩紀氏は、今だからこそポストモダン論を読み直す必要があると指摘する。その理由は、IT(情報流通)革命が加速度的に拡大深化する現代にあって、これまでのいかなる解読格子も役に立たないからだという。現代は、可視と不可視の世界が共通の基盤上に同等に成立する社会である。世界はどんどんヴィジュアルになっていく。しかし、それを駆動し集積する情報の世界は、データベース化しますます見えないものになっていく。そこでは、もはやいかなる意味でも対立軸を想定することは不可能である。なぜならば、どこにも対立する軸などないからである。いわばスーパーフラットな平面空間がだらだらと広がり、その一方でスペクタクルな可視的世界が花火のように現れては消えていく。そういう時代にあっては、視覚的なモデルそのものが用をなさない。視覚の変容という事態は、じつはこのように認識体系(エピステーメー)全体が大きく変わることであり、その変わった後にやってくる世界がいったいどのような世界か、まだ誰も想像すらできていないのである。 再び問う、視覚と脳と身体の関係 ともあれ、視覚の変容と共に視覚論も変わらざるをえないだろう。最後に視覚研究の今後の行方を下條信輔氏の議論にそって考えてみよう。下條氏は、ギブソンの考えがいまや脳科学の知見と結び付くことによって、視覚の理論は新たな局面を切り拓くことになるだろうと報告する。現代の脳科学は、この数十年で飛躍的に進み、その成果を無視して視覚を論じることは、ほとんど意味がないというのである。脳科学が認知科学やコンピュータ科学と築き上げた最新の視覚理論では、各モジュール間の統合メカニズムに今やその関心は移行している。この意味は、これまでの視覚が「なぜ見えるのか」というところに力点が置かれていたのに対して、「なぜ私にはこうとしか見えないのか」というところに変わってきたことを示しているというのである。つまりこういうことだ。現在の視覚研究は、そのメカニズムの解明から、視覚における「見え」のシステムの解明へと向かいつつある。今までの言い方でいえば、視覚をメカニズムという静態的なアプローチから捉えるのでなく、システムという動態的なアプローチから捉え直そうとしていることだ。視覚を流動的な「動く」こととして捉えられない限り、視覚の本質をつかみそこねることがわかってきたのである。だが、それは同時に、眼から脳への情報伝達がどのような形で起こっているのかという認知機能の解明が必須であることも示唆する。なぜなら、脳と身体は切り離しては捉えられないからだ。 こうして視覚研究は、今や意識という最後の領域へその触手を伸ばし始めているのである。意識の研究としての視覚論。このことは、視覚研究が感覚を問題にする時が来たことを示しているといえる。視覚論の新たな歩みが始まっている。 (佐藤真) |
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