editor's note[before]

「見え」のメカニズム、「見る」ことの意味

眼と写真機モデル

眼を説明する場合、よく言われることが写真機との類似である。眼と写真機の構造を比較してみると、確かによく似ている。だが、この類似関係は、眼について考える時にむしろ問題となることが少なくない。とりわけ視覚を問題にする場合には、しばしば障害となってきた。『眼は何を見ているか』(平凡社)で、視覚心理物理学の池田光男氏は、視覚研究において写真機が一つの基本的なモデルとなっていたことを論じている。視覚を考察するにあたって、まずこの写真機モデルと視覚の関係、またその限界について、池田光男氏の議論にそって概略しておこう。
眼が写真機に似ているというより、写真機が眼とよく似た構造をもっているという方が正確だ。眼の水晶体にあたるところが写真機のレンズにあたり、瞳は絞りにあたる。網膜は、フィルムであり、水晶体と網膜の間にあるゼリー状の硝子体は、写真機にとっては暗箱になる。眼は、水晶体の厚さを調節することで焦点を合わせる。近くを見る場合は膨らませ、遠くを見る場合は扁平させる。眼の場合は、このように水晶体の弾性によって焦点距離を合わせるわけだ。写真機では、ヘリコイドを前後に動かして焦点を合わせる。眼は非常に細かく動き回るので、その都度それに同期させて焦点を合わせる働きをもっているが、写真機にもこれと同じような機能が備わっている。手ぶれ防止装置がそれである。このように、確かに眼と写真機はよく類似している。
しかし、ではまったく同じかというと、相違点もある。たとえば、その代表は網膜のいわゆる不均一性だ。写真機の網膜にあたるのはフィルムだと言ったが、フィルムは均一に保たれていて、レンズから入った光はフィルムにむらなくあたる。ところが、網膜の場合はどの場所にも均一に光があたっているわけではない。網膜には、中心窩というくぼみが一箇所ある。網膜で最もよく見える(視力)箇所はこの中心窩という小さな場所だけである。そのほかの場所は、視力という観点から見る限り性能はあまりよくない。なぜこんなしくみなのかというと、網膜の表面に神経細胞が並んでいるからである。つまり、外から入ってきた光は、この神経細胞の束を越えて網膜に達するために、結像という観点からいえば決していい条件とはいえないのである。神経細胞は透明であるが、夾雑物であるには変わりがないので、結像にとっては不利である。そこで、網膜の一箇所だけ、そうした夾雑物のない場所がつくられているわけだ。中心窩がくぼんでいる理由は、神経細胞の束がそこだけ周囲にかき分けられていて、直接光をキャッチできるようになっているからである。
このように、写真機の場合と異なって、眼では網膜の中心窩に性能がかたよっている。これは、色覚でも同様である。網膜全体が色を同じように見ているのではなく、やはり中心窩で最もよく色が見える。中心窩から周囲にいくにしたがって色は鮮やかさを失い、網膜の端では、白だけしか見えない。この点でも、写真機とは大きく異なるところだ。
ともあれ、眼と写真機ではいくつかの相違点はあるものの、基本的な構造はきわめて似ている。少なくとも、外界から光をレンズ(水晶体)を介して取り込んで、それをフィルム(網膜)に結像させるまでの過程は、まったく同じだといってもよさそうである。この写真機モデルが問題になるのは、ではどこだろうか。
それは、結像・視覚情報そのものにある。写真の場合は、その撮影された写真を見る者がいる。人の眼を通してそれは見えるものになった。言い換えれば、見る者がいなければ、写真はただの画像にすぎない。同じことは眼の場合でもいえることで、網膜の結像はそのままでは単なる結像にすぎない。つまり、その結像を見る者が必要になるということだ。
そこで登場したのがホムンクルスである。脳の中にもう一人の小さい自分がいて網膜に映し出された画像を見ているという例の図である(拙文「脳は環境と身体の中にある」 八六-八九頁 『からだブックナビゲーション』所収 河出書房新社)。この図が奇妙なのは、そうやって網膜の画像を見る自分の頭の中に、つまり脳の中にもまたその画像を見ているさらに小さい自分がいることである。そうやってその構図は、無限に後退し続ける。要するに、どこまでいってもそれを見ているもう一人の自分が出てくるというわけである。
もちろん本当に小さな自分・小人(ホムンクルス)が脳の中に住んでいると考えたわけではなく、イメージにすぎないことはいうまでもない。ただ、写真機モデルで視覚というものを考えようとすると、このようなホムンクルスを想定せざるをえなくなるのである。

網膜と脳をつなぐ

眼は大脳のアネックスであるという。つまり、出先機関であり、眼がなければ大脳の視覚中枢は用をなさないとさえいわれている。それほど大脳にとって眼は重要な働きをしているのである。眼で見るということは、すなわち脳で見るということだ。その意味では、脳の中に小人を住まわせたことも理解できなくもない。ここで問われることは、眼から得た情報が脳へどのように伝わっているかということである。
網膜から大脳への視覚情報の伝達過程の解明は、脳神経科学の発達によって飛躍的に進んだ。脳科学の発展が、眼のメカニズムの解明から、脳のメカニズムの解明へと視覚の研究を大きくシフトさせていくことになったのである。それは、視覚研究が、生理光学、知覚心理学、眼科学という従来のアプローチから、認知科学の領域へと入り込んでいくことを意味していた。
とはいえ、視覚を考えるうえでの基本的なメカニズムにおいて、依然として写真機モデルが援用されているのもまた事実である。たとえばその一つが「内的スクリーン」理論だ。これは、視覚対象の認知過程において写真機モデルを拡張し、視神経からきた情報が、大脳の視覚領野にあたかもスクリーンのごとく並んだ細胞を刺激するというものである。見るということは、視覚対象をこのように刺激として体験するということだと考えられたのである(J. Frisby "Seeing" 1979)。この考えでは、視覚対象と大脳内の細胞の関係は、一対一対応である。写真機モデルあるいはそこから導出されるホムンクルスが、視覚を考えるうえでいかに根強いものであったかを物語るいい例だろう。
さて、視覚研究を脳のメカニズムへと広げた認知科学は、しかし、この二○年の間にさらに大きく前進した。そして、ついに写真機モデルを乗り越えていく考えを生み出すに至った。その嚆矢は、デヴィット・マーとその共同研究者たちによる視覚系とコンピュータによる人工知能研究との乗り入れである。この考えの特徴は、情報処理過程におけるモジュール設計の原則の必要性にある。モジュール設計とは、簡単に言うと、情報処理の過程は、各部分に分かれた小規模の処理過程が総合化されていくことであり、それぞれは独立していてほかに影響されないというものだ。コンピュータのプログラミングにおけるこの原則は、人間の認知過程においても当てはまり、そのモジュールの解明およびモジュール間の関係の究明が、ひいては視覚認識のメカニズムの解明につながるというのが、彼らの考えであった。そして、事実このモジュールとして認識過程を見るという考えは、その後の視覚研究を大きく変えていくことになったのである。というのは、それまで視覚がさまざまな機能をもっていることはわかっていたが、それはあくまでも視覚という一つの機能に集約できるものとして捉えられていた。写真機モデルが支配的だったのも、それが光を集めるという機能に視覚が限定されていたからであり、その意味では視覚は単一のメカニズムに還元されていたからこそであろう。ところが、このモジュールという考えは、まさしくそうした単一のメカニズムに対する軌道修正なのだ。つまり、視覚におけるさまざまな機能、たとえば、立体視と奥行き知覚、色の知覚、運動知覚といったものが、別々に機能していると考えるからである。網膜から入ってきた視覚情報が、大脳へ伝わっていく過程で、大脳の視覚認識を行うさまざまな領野に分散する。そのように散らばった視覚情報の断片が、もう一度統合される。ものを見て、行動するという私たちの知覚体験は、集められた情報をそれぞれの機能を伴った認識細胞に振り分け、それを目的にそって選択しもう一度組み合わせる、それを瞬く間に行う脳内過程だというわけである。
現在の視覚研究は、こうして眼の生理的な構造の解明から、脳とのかかわりの中で、認知機構のプロセスそのものの解明へと、その対象自体を広げつつあるということができるだろう。それは、視覚が、知覚・行動にカテゴライズされるようなものではなく、脳内過程と連動する認知のメカニズム、いわば身体の行動原理といったものと深く関係してくるような、より全体的な心的システムとして捉えられる必要があるということを示唆している。視覚研究は、心と身体の究明へと向かっていくという意味で、きわめて重要な位置に今や成りつつあるといっても言いすぎではないのである。

「見え」を成立させるシステムの全体的把握へ 

眼の生理学から脳科学へと視覚の研究が移行してきた現状をざっとたどってみた。視覚は単独の知覚メカニズムではなくて、心的システムを形成する重要な機能の一つであり、それは身体と深くかかわるものである。別の見方をすれば、感覚とも強い結び付きのある知覚・行動の現れでもあるのだ。
視覚のより全体的な把握という視覚研究の動向を踏まえたうえで、これまで提起されてきたいくつかの視覚論をもう一度俎上にのせるところから、改めて視覚の構造および視覚というシステムに迫ってみたい。
その方法として、今述べたようにいくつかの視覚論を再検討するところから始める。それから、旧来の視覚の写真機モデルを、実際の写真芸術とすりあわせることによって、その問題点を改めて洗い出す。また、視覚および視覚論が問題となるそのバックグラウンド自体について考察する。そして最後に、現在の視覚論が切り拓いた認知システムの最新成果について迫る。
まず、これまでの視覚に関する考え方の中で、ある意味では最も支配的であった「遠近法」について再考してみたい。「遠近法」とは、ここではヨーロッパ・ルネサンス期に確立された絵画技法である「透視図法」のことを指す。透視図法は、その言葉どおり、三次元立体の外界を透き通ったスクリーン(たとえばガラス板)を通してみることで、そのスクリーン上に二次元の像を表す方法だ。技法としてはきわめて単純だが、その特徴は、三次元立体の奥行きは、水平線に向かって画面に平行する線(平行線)として再現され、また高さは、水平線上に与えられた一ないし二点へ収斂する錐状線束として再現されるところにある。この簡単な絵画技法が、じつは絵画上の技術論を飛び越えて、その後の人間のものの見方に深い影響を与えることになる。いわば近代の認識体系を支配するような枠組みを遠近法は、われわれにもたらしたといわれる。この遠近法とその理論について二つの視点から検討する。最初は、遠近法を主に精神史とのかかわりから、その成立と影響関係について東京都立大学人文学部講師・神崎繁氏にお聞きする。インタビューと対談をはさんで、今度は具体的な空間とその表象を題材に、遠近法の思考がもたらした思想上の混乱について、美術家・美術批評家の岡崎乾二郎氏にお尋ねする。
次に、色について考えてみたい。色は光線についているのではなく、人間の感覚器官が感じるものだとしたのがニュートンであった。ニュートンは、光は客観に属し色は主観に属すとし、したがってそのままでは色は近代科学の対象にはならないとしたのである。この考え方に真っ向から反対したのが、ゲーテであった。ゲーテはニュートンによって確立された光学的色彩論に対して、感覚にもとづく色彩論、人間の眼を基準にする視覚論を唱えたという。近代科学の基礎として、また視覚の写真機モデルの基ともなったニュートン光学に正面から切り込んだ、このゲーテの「色彩論」について、京都大学大学院人間環境学研究科教授・高橋義人氏にお聞きする。
ゲーテの「色彩論」は、絵画の分野では印象派の誕生に大きな影響を与えたといわれている。印象派と歩調を合わせて登場したセザンヌは、印象派の問題圏をはるか超えて、感覚の絵画と呼べるような領域へと踏み込んでいった類い稀なる画家である。それは、視覚を知覚の呪縛から解き放し、感覚の側へと呼び込んだ現代の視覚論の先駆者として捉えることもできるだろう。このセザンヌの視覚論について立教大学文学部教授・前田英樹氏にお聞きする。
視覚は、果たして知覚だろうか感覚だろうか。心理学の分野では、一般的に知覚のメカニズムの一つとして視覚を捉えていた。知覚研究から出発して、従来の知覚メカニズムとしての視覚理論に大幅な修正・変更を求めたのがジェームス・ギブソンであった。ギブソンが創設した生態学的心理学(視覚論)は、視覚の写真機モデルを根底から覆し、新たな認知モデルとしての、知覚-行為系の視覚論への道を拓いたといわれる。
一方、写真の世界では、写真機それ自体のメカニズムが生み出す表現に対して、果敢なる挑戦が試みられている。いわば写真に対する自己言及的追求が行われているのだ。
ギブソンの紹介者であり、生態学的心理学を独自の方法論を交えながら追求する東京大学大学院情報学環教授・佐々木正人氏と写真表現という実践活動を軸に、視覚論の領域に踏み込んだ作品を数多く制作している写真家・畠山直哉氏のお二人に、現代の写真表現を生態心理学の観点とすり合わせながら議論していただく。
今さらいうまでもないことであるが、現代社会は視覚の時代である。視覚表現が、あらゆる領域に入り込んで、いわゆる視覚優位の文化を築き上げているといえる。そうした時代状況の中で、今、大きな変化が起こっている。IT革命ともいわれるデジタル革命である。視覚表現において急速に進行するデジタル化の波は、これまでのあらゆる視覚論を木っ端みじんにしてしまうような根源的な変革を意味している。にもかかわらず、このパラダイム・チェンジに意外に私たちは鈍感だ。私たちの認識体系すらも変えかねない現在の視覚環境の変容および視覚の変質について、気鋭の批評家でデリダの研究者でもある東浩紀氏にお尋ねする。
最後は、視覚論の今後の展望を概観する。現代の視覚心理学は生理学、光学理論、そして神経科学、コンピュータ科学、さらには量子論、オートポイエシスなどを吸収しながら、まったく新しい領域を形成しようとしている。それは、神経生態学と呼ばれる視覚・知覚を軸とする脳・認知科学の地平である。ギブソンの生態心理学は、ここでは意識・身体の理論として新たな視点から組み替えられようとしている。意識・身体の学としての視覚論へ。カリフォルニア工科大学生物学科教授・下條信輔氏にお尋ねする。 (佐藤真)


▲return