![]() 〈触〉の哲学、〈ふれる〉ものとの対話 応答特性の持つ意味 感覚器官の発生と歴史を見てみると、大まかにいえば、単純なシステムから複雑なシステムへの進化であった。たとえば、ゾウリムシはハンマーでからだの一部をたたかれると、そこから逃避しようとする反応を示すという。また、好みの温度帯に集合する性質も持っているという。同じ単細胞生物のミドリムシは、光をキャッチする眼点を持ち、光の方向へ集まる性質があるそうだ(『生命の精密機械』大沢文夫編)。単細胞生物には、すでに機械刺激、温度刺激、光刺激を受容する感覚システムが備わっているのである。それが多細胞生物になると、こうした体表面に散らばっていた感覚細胞同士が集まってくる。editor's note [before] で触れたように、感覚細胞同士が集合することによって、視覚や聴覚のようにまとまりを持った感覚器官へと発達進化するのである。 それを近接感覚から遠隔感覚への進化であると述べたのが解剖学者の三木成夫氏であった。(『談』no.53「食の哲学」)。近接感覚とは触覚と味覚をさし、遠隔感覚とは嗅覚、聴覚、視覚をさす。一般に下等動物は、自分の身の回りのできごとをからだ全体を使って受け取る。そのために感覚細胞がからだの隅々までちらばっていた。それらは、直接接触(近接)することによって感ずる感覚である。それに対して、高等動物では、自分のからだから遠くにあるできごとにも感ずるようになる。すなわち、自分のからだに直接接することなく、距離をおいても感ずる感覚(遠隔)である。身近なものからより遠くのものへ、生物の進化とは、感覚の拡張の歴史でもあった。 触覚の中でも自ら進んで情報を得る機能を特化させたのが無毛部である。有毛部が受動的であるのに対して、手のひらや足の裏などの無毛部は能動性を合わせ持っている。宮岡徹氏はインタビューの中で、この無毛部における研究が触覚に関する研究を大いに前進させたと指摘する。なかでも触覚を形成する四つのレセプターの機能特性が明らかになったことは大きい。たとえば、触覚の独自性だ。触覚は視覚や聴覚とは独立した感覚であり、視覚よりも微細な特徴を検出できる機能性を持っている。同じ体性感覚である自己受容感覚からも独立していて、ほかの感覚器官にも劣らない豊富な情報伝達を行っている可能性が見えてきたのである。 たとえば、その一つがパチニ小体(FAII )だ。パチニ小体はその特異なカプセルを持つことで、信号の増幅を行っている可能性があると宮岡徹氏は指摘する。ほんの小さな振動であっても、それを増幅させることによって検知する。とくに高周波数に関する感度が高いという。また、外界物のテクスチャーについては、それが細かいものであればマイスナー小体(FAI )が、また粗いものであればメルケル触盤(SAI )が関与している可能性が強いという。ふつう私たちは、モノの表面の性質を知る時に、触るのと同時に眼でよく見る。その場合にモノのテクスチャーの状態は、眼で見ることによって得ていると思い込んでいる。もちろん視覚は使っているのだが、じつはこの場合触覚からの情報が多く使われているのである。触覚が使われることによって、より正確なテクスチャー情報を得られるのである。視覚ではキャッチすることのできないような微細なテクスチャーの差異も、触覚は容易につかむことができるという。なぜそのようなことが可能なのだろうか。どうやら、触覚は視覚の情報処理とはちがう方法で、その差異を弁別し伝達しているらしい。たとえば、凹凸の振幅情報としてキャッチしている可能性が高いという。ただ、ここで注意しておきたいことは、それぞれのレセプターは単体で機能することもあるが、いくつか組み合わさったり、あるいは別の信号に変換されたりということがしばしば起こっていることだ。 この点についてインタビューとは別に、宮岡氏は著書の中で、ある実証的な実験を紹介しながら説明している。参考に補足しておこう。それは、電気的な微小刺激をレセプターに与えた時に、それが主観的感覚(実際に感ずる感覚)と一致するかどうかという実験だ。まず、金属微小電極を用いて、SAI に通じている神経線維のみに電気パルスを与えたとしよう。その時被験者は、あたかも水彩画用の柔らかな筆で皮膚を押すような感覚を得たという。単に電気的パルスを与えただけであるのに、被験者はそれを筆として感ずることができたというのである。もちろん、実際に手の皮膚を、たとえば鉛筆で押したとすれば、主観的感覚も同じように鉛筆で押されたように感じる。 なぜこういう現象が起こったかというと、実験ではSAI にだけ刺激を与えたからである。実際に鉛筆で刺激した時にはSAI 単体ではなく、さまざまなレセプターを同時に刺激している。複数のレセプターの相互作用が働くことで、たとえば鉛筆なら鉛筆の刺激として受容することができるのである。つまり、それぞれのレセプターは単独で情報を受容するのではなく、レセプター同士が複数組み合わさって処理する。刺激は、総合化されることによって、正しく認識されるのである。各レセプターは、独立しながらも、状況によっては相互作用や総合化を行っているというわけだ。 触覚は、また、同じ体性感覚である自己受容感覚とは別に独立して働くことも、実験によって証明されている。たとえば、ねじれ唇の錯覚というのがある。これは被験者に上唇は右に、下唇は左に動かしてもらい、いわゆるしかめっ面をつくってもらう。そして、鉛筆などまっすぐな棒を垂直にして、唇に同時に軽く当てると、垂直なはずが左に傾いたように感じられる。これは唇がゆがんでいるという自己受容感覚の情報が与えられても、触覚系の情報はそれを無視して常態にあるものとして触覚的定位がなされることを示唆しているという(「触覚による距離、運動、方向の知覚」東山篤規『触覚と痛み』所収)。 触覚は、視覚や聴覚とは別種の方法で外界の情報を受容している。触覚独自の情報処理システムをもっているわけだ。むしろそう考えると、触覚から得られる情報は、視覚や聴覚より劣るどころか、豊かですらあるともいえそうである。触覚研究のよりいっそうの進展が期待される。 口の中の情報宇宙、そしてリズムと振動 口腔粘膜は皮膚ではない。しかし、触覚のレセプターは口腔内に集中して点在する。そして私たちのからだは、そこからさまざまな情報を得ている。口の中は、いわば外部情報をキャッチする総合メディア・センターのような場所なのである。上田実氏は、からだの中でも口腔領域は感覚器官が集中している場所であることを紹介し、とくに咀嚼の重要性を指摘する。インタビューでは、咀嚼と感覚器官としての口の役割、また口腔粘膜を培養皮膚として利用する最新の医療事情についてお話いただいた。 考えてみると確かに口というのは驚くべき器官である。外界に存在するモノを、そのまま取り込んでしまうのはからだの中でも口だけである。口は、外界の物質とダイレクトにコンタクトするために穿たれたゲートである。視覚や聴覚も外界に開かれた器官である。しかし、それはあくまでも情報に対して開かれているわけで、言うまでもなく実際のモノを取り込むわけではない。しょせん情報は情報(こと)にすぎず、物質性(モノ)とは切り離されて存在するものである。眼や耳は、ほとんどの場合そうしたモノから離れた情報をキャッチする。そうやってみると鼻も情報に対して開かれた器官といえる。化学物質と実際に接触することによって機能する器官という意味では視覚や聴覚とはやや異なるものの、多くの場合それが気体に限られるわけで、やはりモノとはちがう。嗅覚もモノというよりは情報のために開かれた器官と見るべきだろう。 中国料理で食べない四つ足(動物)はない、食卓以外には・・。これは、中国人の旺盛な食欲を皮肉ったものだが、何も中国人に限らず、人間というものはあらゆるものを口に放り込んできた動物であることをこの格言は示唆している。一説によれば、口から取り入れるのと同じ食べ物を血液から行おうとすると、たちまち拒絶反応を起こし死亡してしまうらしい。生体は外部からの侵入者に対しては、二重三重の防御機構を持っている。皮膚は、そうした外界の異物から生体を守る役割がある。免疫機構も、生体防御として働くシステムである。普通、他人同士で皮膚移植を行うとほとんど例外なく拒絶反応があらわれるのは、免疫のシステムが皮膚には張りめぐらされているからである。皮膚それ自体に、自分とは異なる他者の皮膚をリジェクトするしくみが組み込まれているのだ。 ところが、口の場合はどうか。そうした防御機構が解除されたかのように働くのである。上田氏が培養皮膚として口腔粘膜の可能性に注目したのも、口腔粘膜が免疫寛容を生じる特質を持つからであった。口腔粘膜にそういう特質が備わったのは、おそらく口が絶えず外部からの侵入にさらされ続けている器官だからではないかと上田氏は推測する。普段は扁桃腺に代表されるような強い免疫機能をもつ。ところが、その反面それこそ食卓以外あらゆるモノを放り込んでも大丈夫なような寛容性を示すのである。この一見相反する機能を合わせ持つところに、口の秘密がある。 口は食べ物が通過する場所だから清潔なところだと私たちは信じ込んでいる。しかし、これはまったくの思いちがいだ。食べ物というのは外界のモノ= 異物であり、異物が入る場所という意味では清潔さが脅かされる場所なのである。事実口腔内には、常時三○○種類近い細菌がうようよしているし、唾液一ミリリットル中には約一億もの細菌が含まれているという。これらの細菌は口腔内に生息する限りは、口腔内の免疫機構によって疾患の発症に結び付くことはない。ところが、いったん口腔以外の場所に定着・増殖すると感染症を引き起こすことがあるという。上田氏は、肺炎の原因の多くが、口腔内の細菌によるものだと著書で指摘する。口腔内では免疫機構が強く働いているが、場面場面では免疫寛容が生じるようなしくみになっているのである。 口腔粘膜には触覚を始めとする各種のセンサーが張りめぐらされているが、味覚はその中でも最も重要なセンサーの一つである。口腔内でとくに発達した感覚器官である。味覚は嗅覚と強い関連性を持っている感覚であるが、口腔粘膜とのかかわりで見ると触覚との結び付きも強い。上田氏が強調するように、味覚や触覚が口腔内で発達したのは、咀嚼という機能が働いているからだ。咀嚼機能の特徴は、脳で形成された指令によってつくられるリズム運動である。その運動によって口腔内の感覚センサーが刺激されるという。咀嚼運動が行われなくなると生体に悪影響を及ぼし、さまざまな症状が引き起こされる原因となると上田氏は警告する。気になるのは咀嚼がリズム運動だということだ。リズム運動とは、まさしく繰り返しであり、連続する振動である。触覚や味覚を刺激する連続運動としての振動。触覚の情報処理の方法として振動が使われていることと合わせて考えてみるとこのリズム運動は示唆的だ。どうやら、触覚においては、リズムや振動という反復運動が何か重要なかぎを握っているように思われる。 「ことば」とモノの世界 以前、眼も耳も不自由ないわゆる盲・ろう二重障害者である女性の記録を読んだことがある。彼女は大変な努力をして鍼灸師として自立するのだが、彼女のコミュニケーションの方法はもっぱら手のひらで文字を読むことであった(自分の手のひらに、指で文字を書いてもらう)。ひらがな、カタカナ、ローマ字、数字は言うに及ばす、画数の多い難解な漢字もすらすらと読むことができたと報告している(『触覚の世界』小柳恭治)。彼女によれば、ひらがなやカタカナは読むのに時間がかかるが、漢字は速く読めてわかりやすく便利だという。彼女はまたいろいろなものを使って外界の情報を得ていた。その一つが部屋の柱にくくりつけられた扇風機で、来訪者が玄関のブザーを押すと、強烈なライトが点灯するのと同時に扇風機が回り出す。その風で寝ていてもお客さんが来たことがわかるというのである。まさに、彼女の生活にとって、触覚は外部情報獲得のためになくてはならない感覚なのだ。 盲人の人たちは、実際にどのような方法で外部の情報を入手し、また伝え合っているのだろうか。座談会では日常の生活を事例に語り合っていただいた。想像したとおり、やはり触覚はその窓口として大きな役割を担っていた。触覚だけを使っているわけではないこともわかった。弱視の高橋真樹氏にとっては光(覚)もその手掛かりの一つになる感覚だが、街灯が切れてしまった時に次の手段として携帯電話を利用したというのには驚いた。触覚ばかりではなく、ある時には、光や音もコミュニケーションの道具となることを象徴するようなエピソードである。 坂部明浩氏が言うように、点字はある意味で究極の口語、表音文字である。「東京タワー点字物語計画」は、そうした点字の持つしくみを巧みに引き出したイベントであった。「物語」を生きる時間と「ことば」を読む時間を同期させて、それ自体が「生きる」時間となるような体験。時間とは、まさしくリニアな体験そのものであるという当たり前の事実を逆手にとったところに、この試みのユニークさがあったように思う。 ただ、筆者には疑問に残るところもあった。「読む」という体験が時間的なものであることはまちがいない。けれども、「ことば」そのものを時間性に還元することには無理がないだろうか。手のひらに書かれた漢字を高速度で読む人もいる。その人にとってみれば、言葉は表意文字であることの方が便利である。もとより、先天盲の場合でいえば、「文字」以前に、「ことば」の習得そのものが壁となるだろう。「ことば」はリニアな構造を持っていることは言うまでもないことだ。しかし、「ことば」は記号でもあり、また図にもなりうる要素を持っている。「ことば」と「図」「絵」などのヴィジュアル表現との境界は、私たちが思っているほどには明確ではない。両者を厳密に分かつような理由も意味も私たちは持ち合わせていないのだ(「初速と暗号、マルチメディアとしてのデリダ」東浩紀『談』no.62 所収)。また、「ことば」が本当にコミュニケーションの手段として十分だろうかという疑問もある。言語によって、私たちはコミュニケーションを飛躍的に高めることができた。「ことば」の発明が、ヒトという生物をつくり出したとさえ言い切れるだろう。しかし、そう言い切ったとしても、やはり「ことば」は「ことば」としての限界がある。 点字が文字表現を完ぺきに代替できないのは、触覚が視覚表現である文字より劣るからではない。触覚表現や触覚のコミュニケーションと「ことば」によるコミュニケーションとが、そもそも一致していないからではないか。点字は「ことば」のシステムを真似ている、そのことが点字を逆に限界付けていると思えるのだ。視覚表現が「ことば」と一体となっているのは否定しがたい事実である。言い換えれば、「ことば」のシステムが、視覚のシステムあるいは聴覚のシステムとうまい具合に結合したのである。理由はわからないのだが、とにかく「ことば」と視覚的な世界が一対一で対応している環境ができ上がってしまった。「見えている世界」と「語る世界」の一致。外界を見えるものによって分けていくことと、「ことば」の分けるしくみが、奇しくもピッタリと重なったのである。 ところが、触覚や嗅覚もそうだが、「ことば」のシステムがうまく当てはまらない。たとえば、カシミアのマフラーを指先で触って得た時に感じるあの感触を、「ことば」で表現しようと思ってもなかなかうまい言葉が浮かんでこない。感触を伝える「ことば」には、オノマトペ(擬音語)が多いのも特徴だ。「スベスベ」「ツルツル」「ベトベト」「カサカサ」「ザラザラ」「ヌルヌル」というように挙げだしたらきりがないが、どの「ことば」も擬音的で繰り返しが多い。まさにリズムと反復によって、触覚は表現されている。 「ことば」と触覚の関係性をどう捉えるか。最後にお尋ねした鷲田清一氏にお聞きしたかったこともこの「ことば」と触覚のかかわりであった。「ことば」あるいは文字による支配。それはまた感覚のレベルで見ると、視覚の専制という近代の特徴を象徴する事態と重なり合う。フーコーの分析を俟つまでもなく、「ことば」のシステムが私たちの意識のすみずみまで浸透している近代という時代は、感覚においては視覚が優位に立った時代でもある。「ことば」と視覚の二つのシステムは補強しあいながら、私たちの意識の深部にまでその支配力を持つ。視覚の優位を疑うとすれば、それは同時に「ことば」の支配に対する異議申し立てでもあるだろう。 鷲田氏はインタビューの冒頭、まず感覚を各感覚器官に還元するこれまでの考え方に疑問を投げ掛ける。感覚が感覚同士で融合しあっていると捉える方がはるかに実態に近いのではないかというのだ。感覚同士が相互に浸透しあうような関係、つまり、シネステジーとして感覚そのものを捉え直すべきではないかというのが鷲田氏の主張だ。 シネステジーとは、日本語に訳すと共感覚のことで、近年哲学や心理学の分野で注目されている考え方である。感覚において五感の独立性よりも五感相互の共振性を強調する。また、理性主義に裏付けられた客観性よりも、自らの身体性(オルガン)を基盤に置いた主観性を大切にする。こうしたシネステジーの考え方は、結果として触覚性の復権を促すことになる。それまで、感覚器官として二次性質としてある意味でほかの感覚と比べて低く扱われてきた触覚に対して、シネステジーはほかの感覚と積極的に交じり合っていく感覚本来の可能性を見いだすのである。そしてそれは「ことば」に代表されるような、構造的なものの捉え方を疑う。ストラクチャーからテクスチャーへという流れには、触覚という「ことば」の構造を離れて成立するような共感覚への志向の移動が見られる。 視覚がなぜ「ことば」とこれほど強く結び付いたのか、その本当の理由はわからない。ただ、確実に言えることは、「ことば」と結合することによって視覚は人間の意識に直結することができたのだ。そして強固な視覚文化を近代に開花させることになった。それに対して、触覚は最後まで「ことば」と結び付くことがなかった。その結果、原始的という言い方にも甘んじなくてはならなかった。 しかし、「ことば」と結び付くことがなかったことが、かえって触覚にとって可能性を開くことになったのである。「ことば」の影響を受けずに独自に発達した情報処理機構が、いかにしてほかの感覚器官と協働し合うのか。それは、感覚というシステムそのものの究明にもつながるだろう。触覚を中心とするシネステジー。感覚同士の共振関係には、「ことば」を媒介しないもう一つの対話の可能性が潜んでいる。 (佐藤真) |
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