![]() 〈触〉の臨床とは何か。 からだ全体に広がる感覚 「触ったり」「触れたり」することを、私たちは日々どれだけ意識しているだろうか。外界の様子を知るために、まず触ってみるなどということはあまりない。あったとしても、無意識にやっていることがほとんどで、意識にのぼることは少ないだろう。外部からの情報は、眼や耳に頼っていることがほとんどだ。「触覚」に対する私たちの関心も、視覚や聴覚、味覚といった感覚に比べるとかなり低いものと思われる。 だが、いうまでもなく、ヒトにとって触覚はなくてはならない感覚の一つである。たとえば、手。ヒトにとって、手の働きは重要だ。ヒトの行う作業の大半は手を介して行われる。その際、手は必ず外界の事物と接触し触れることになるわけだから、「触ったり」「触れたり」することは、じつは日常生活において数限りなく起こっていることなのだ。 もちろん手だけではない。通勤・通学の満員車両で他人と接触することは日常茶飯起こることであるし、第一われわれは立って歩くわけだから、足の裏は常に地面と接触していなければならない。 日々の自分の行動を思い起こしてみよう。椅子に腰掛けようとする時には、椅子にまず手を触れて、背の部分を引き出し、おしりの位置をさだめて、腰を下ろす。原稿を書こうとする時には、ラップトップ式のコンピュータのふた(液晶部分)を手で開けて、スイッチを入れて、ソフトがたちあがったところで、両手の指を総動員して文字を入力する。椅子に座って文字を書くというただそれだけの行為の中に、すでに外界との接触の機会は溢れている。一連の作業は、どれ一つとっても外部の事物と接触することなしにその行為を遂行することはできないのだ。 そうやって改めて見直してみると、われわれは常に何かに「触り」「触れ」ている。手や足のみならず、からだのあらゆる場所は、外界にあるあらゆる事物と常に接触し続けているのである。 にもかかわらず、触覚はほかの感覚に比べて意識にのぼりにくい。それはなぜだろうか。触覚は、特別な感覚器官を持っていない。視覚ならば眼、聴覚ならば耳というように、視覚や聴覚は固有に発達した感覚器官を持っている。ところが、触覚の場合それに該当する器官はない。あるのはからだ全体に広がる皮膚感覚である。触覚は、ほかの感覚器官とは異なり、いわばからだそのものが一つの感覚器官なのだ。これは、ほかの感覚にはない大きな特徴である。とくに意識して捉えられることが少ないのは、このように皮膚の全体に広がる感覚だからだろう。 今号では、この触覚のメカニズムを通して、「触る」「触れる」という経験について考えてみようと思う。触覚は身体にとってどのような役割を果たしているのだろうか。触覚とは私たちにとって、どのような意味を持つ感覚なのだろうか。〈触〉の実態とそのシステムを探ることによって、感覚器官の錯綜体としての身体に迫ってみたい。 皮膚・皮膚感覚のしくみ 触覚は、からだ全体を被う皮膚と深いつながりのある感覚である。まず、皮膚のしくみについておおまかに述べておきたい。 皮膚は人間のからだの中で、最も大きな器官である。成人の場合でいうと、面積にして一・六〜一・八平方メートルあり、重さは三〜五キログラムに達する。皮膚はどの器官よりも成長が速く、常に新しく生まれ変わっている。これも皮膚の特徴の一つだ。 皮膚には五つの役割があるという。一つは、外部からの機械的な刺激や熱、化学的な障害からからだを保護すること。二つ目は、冒頭で述べたように、外界の状況を探査する感覚器官としての役割。三つ目は、体温の調整とその保持。四つ目は、外界から酸素を取り入れる呼吸作用。五つ目は、体内に生じた老廃物の放出である。 次に、皮膚を組織構造から見てみよう。いちばん外側から体内に向かって、表皮、真皮、皮下組織という三つの異なる組織から構成されている。外界から身を守るという目的から見ると、最も重要な働きをするのは上皮組織の表皮だ。表皮はケラチノサイト(角化細胞)からできていて、基底層から上方に押し出され、さらに表皮の上皮(外界との接触面)の最下層から最上層へと移動し、約四〜五○日で垢となってむけ落ちる。この細胞の入れ替わりをターンオーバーという。要するに、細胞がトコロテンのように内側から外側へ向かって押し出され、その途中で次第に乾燥し、表面に達した時には干からびてはげ落ちる。このターンオーバーを、皮膚は生涯繰り返すのである。 表皮の下にある真皮は、コラーゲンという線維組織で、別名膠原線維といわれる。いわゆる膠で、革製品は動物のこの部分をなめしたものである。 真皮の下にある皮下組織は、体内の内側の筋肉や骨と接する部分で、脂肪からできていて、皮膚にとってはクッションの役目をする。また、体温を保持するのも皮下組織の役割だ。 感覚器官としての皮膚感覚には、触覚、圧覚、温度感覚(温覚、冷覚)、痛覚がある。触覚と圧覚は、モノと接触したり、皮膚に圧力が加わった時に感知する感覚である。触覚と圧覚を分ける場合もあるが、感覚を感知する受容器のレベルでは両者の境界はあいまいである。したがって、両者を合わせて「触覚」と呼ぶ場合もある(「触覚とは何か」東山篤規『触覚と痛み』所収)。本稿では、東山氏の説に準じて、両者を合わせて「触覚」と呼ぶことにする。 温度感覚は、熱いもの、冷たいものに触れた時に感知するもの。また、痛覚は、たとえばトゲが刺さった時に痛いと感じるような、いわゆる痛みの感覚である。 自分の手足が今どのような位置にあるか、自分の手足がどのように動いているか、あるいは、自分の手足がどのように緊張しているか。私たちは、こうした感覚を知らず知らずに受け取っている。これらのからだに関する状態を知らせるのが自己受容感覚だ。この自己受容感覚と皮膚感覚を合わせて、体性感覚という。視覚や聴覚の機能が欠落した人間は少なくないが、体性感覚が欠落した人間というのはほとんどいないと考えられる(前出、東山)。その意味からいうと、体性感覚は人間にとってきわめて基礎的な感覚だといえる。 私たちのからだは、先に述べたように、外界からの刺激のちがいによってそれを受容する感覚が異なる。 これらの感覚刺激を受け止めるのは、視覚であれば視細胞、聴覚であれば聴細胞、においであれば嗅細胞であり、どれも細長い形状の細胞であることが共通している。これらを一括して感覚上皮細胞と呼んでいる(「感覚器のはなし」新島迪夫)。上皮というのは、からだの表面やからだの内部にある面、胃などの内臓の内側を被う組織のことである。 なぜ異なった感覚器官であるにもかかわらず、上皮細胞と呼ばれるのかというと、じつはこれらはいずれも発生において、同じ上皮細胞を起源に持つからである。つまり、いずれの感覚器官も、もとをただせば体表の上皮細胞という共通した細胞から、進化、発展したものなのである。視覚、聴覚、嗅覚、そして味覚も、そのもととなる感覚器官をかたちづくる細胞は、いずれもからだの表面にあった上皮細胞に由来する。上皮細胞がそれぞれ都合のよいような形に集合していった結果、独立した別個の感覚器官を形成したのである。これらの感覚器官に対して、上皮細胞が体表に散在したままの状態で残ったものが体性感覚である。体性感覚は、感覚受容のために特殊化された器官を持つことがなかった。その理由は簡単だ。持つ必要性がなかったからだという(前出、東山)。 触覚は、からだが何かに接触したことを知らせ、また接触した対象の形状や表面の様子、またそのコントロールのための情報を提供する。痛覚は、からだへの侵襲が起こったことを知らせる。温度感覚は、体温のバランスを知らせ、また接触した対象の熱伝導率などの情報をもたらす。これらは、生命の生存には不可欠の情報であり、体性感覚以外の感覚に代替することは不可能な独自性を持つ。そして、何よりもからだの全体に広く散在することの方が都合がよい感覚である。ただ、その散在の密度は一定ではなく、かなり偏りがある。手や口唇部ではほかの部位よりその受容器の密度はずっと高い。 模式的にいうと、視覚、聴覚、嗅覚、味覚が特殊化した形でそれぞれの情報処理装置を経由して脳へ情報が伝達されるのに対して、触覚などの体性感覚は、からだの表面である皮膚や粘膜に直接埋め込まれた神経終末からそのまま脳へ情報が伝わるのである。 感触を探る さて、機能という面から見ると触覚には次のような特徴があるという(前出、東山)。一つは刺激の強度に対する反応である。機械的な刺激が皮膚に与えられた時に、強い刺激に対しては大きな触覚が、また弱い刺激に対しては小さい触覚が生じる。ただ、皮膚圧には、強い刺激でも長く続くと次第に意識されなくなるといった「順応」の性質があり、また、同時に複数の刺激が与えられた時には、弱い刺激でもより弱い刺激は感じられなくなるという「対比」の性質がある。たとえば、ベルトを強く締めすぎてきついと感じたとする。ところが、しばらくそのままにしておくと、いつのまにかそれに慣れてしまって意識されなくなる。また、右腕を強くつねって痛みを感じたとする。その後で、今度は右手の腕をつねるのと同時に、左腕をそれよりもっと強くつねったとすると、左腕にしか痛みを感じなくなる。これらが、「順応」「対比」の例だ。刺激の強度に対する反応は、時間や条件によって変わるのである。 二つ目は、空間定位の働きである。たとえば、他人にからだのある部分をつねられたとする。どこをつねられたか、それをほぼ正確に言い当てることができる。あるいは、夏に夜道を歩いていて蚊に刺されたとしよう。暗くて視覚情報が得られなくても、刺された場所を同様に言い当てられるはずだ。これが空間定位の働きで、この機能は視覚や聴覚と独立して働いていることがわかる。 三つ目は、外界の対象の性質を知る働きである。触ることで、対象の湿性とか粘性とか弾性、つまり、それが湿っているか/乾いているか、ねばねばしているか/サラッとしているか、はずみやすいか/そうでないか、といった性質を知ることである。この機能も、視覚や聴覚を使わなくても、知ることができる。 これら触覚における機能の研究は、生理学の分野ですでに一九世紀から行われていた。なかでも、ウェーバー(Ernst.H.Weber)の研究はよく知られていて、とくに空間定位に関する知見は、その後の触覚研究に少なからぬ影響を与えたようである。皮膚感覚は、どの場所でも同じように感じられるのではなく、とりわけ刺激の強度や空間定位に関する感度は、からだの場所によってかなりばらつきがあるということを、ウェーバーは実験心理学的な方法で実証した。現在明らかになっている触覚刺激と感覚受容の関係における知見は、ウェーバーの研究に負うところが多い。 触覚は、触覚単独で感知される場合もあるが、痛覚や圧覚、温度感覚と複合化されて感じられることも多い。現代ではほぼ通念となりつつあるこうした考えも、今世紀の初頭までは一般化されていなかった。こうした触覚の複合感覚への理解を推し進めたのが、実験系心理学のティチナー(E.B.Titchener)である。ティチナーは、皮膚感覚において特殊な感覚である「くすぐったさ(擽感)」に注目し、それが単独の皮膚感覚ではなく、「かゆさ(痒感)」と同じように、圧覚や痛覚との相互関係で成り立つ感覚だという考えを提起した。ティチナーは、この考えをもとにして、感覚ピラミッドというダイアグラムを考案している。これは、「鈍い痛み」、「緊張」、「圧力」、「刺される痛み」の四点を底辺に、「くすぐったさ」を頂点とするピラミッド状の図だ。現在の研究から見ると不完全さは否めないものの、皮膚感覚のそれぞれの感覚が合成され複合化されることでつくり出される感覚として触覚を捉え直した意味は大きい。 わが国でも、触覚に対する優れた研究がいくつかある。その一つに吉田正昭氏の「表面触」の研究(一九六四年)がある。吉田氏は、暖かい/冷たい、堅い/軟らかい、粗い/滑らかな、濡れた/乾いた、重い/軽いといった対立軸をもうけて、紙、布、木、石、鉄といった二五種類の物質を、触覚的な観点から分類する研究を行っている。それによると、触覚のちがいは、たとえば金属性と繊維性では、比重、熱伝導、塑性、かたさ、面積によることが明らかになったという(「触覚の系統」吉田正昭)。吉田氏の研究は、触覚は、視覚や聴覚を介さないでも、独自にその対象の組成をある程度知ることができることを示唆している。 過去の研究により触覚に関して明らかになったことで、私たちにとって重要と思われることを挙げておこう。まず一つは、皮膚に広がる感覚領域のばらつきである。これは後に皮膚上の有毛部と無毛部における感度のちがい、それに伴う感覚受容器のちがいの発見へとつながっていく。同じ皮膚でも手や(とくに指)上唇(口唇部)は感受性において高いが、背中やふくらはぎは低い。手や上唇は毛のない(無毛部)皮膚であるのに対して、背中やふくらはぎは毛のある(有毛部)皮膚である。つまり、無毛部において触覚の感受性が強く働いているのである。もう一つは、何度も指摘しているように、皮膚感覚は皮膚感覚を構成するそれぞれの別個の感覚が独立して機能するよりも、複合化ないしは合成することによって得られる感覚だということだ。現代の触覚の研究は、だいたいにおいてこの二つの考えを基底に置いて進められていると考えていいだろう。 改めて〈触〉の感覚を問う 触覚を検討するにあたって、まず現代の触覚研究の動向を探ってみたい。お尋ねするのは、静岡理工科大学情報システム学科助教授の宮岡徹氏。触覚研究が、今、何を問題にし、どのようなことがわかってきたのかを俯瞰する。 触覚に関して、わかりやすくまとまった記述を読もうとすると、『感覚知覚心理学ハンドブック』(誠信書房、一九九四)がある。筆者も知覚研究に関する知見を参照する際に、これまで何度となく世話になっている。しかしながら、触覚研究は、精神物理学や神経生理学、認知心理学、脳科学などからのアプローチによって、近年飛躍的に進んだといわれている。とくに触覚受容器と情報伝達に関する研究のこの十年間の歩みは、これまでの研究を根底的に覆すほどだという。 『触覚と痛み』(ブレーン出版、二○○○)は、こうした触覚研究の最新の動向を伝えることを目的に書かれたと著者の代表者東山篤規氏は述べている。本書の中で、皮膚感覚における触覚受容器の研究について最新の研究成果を紹介しているのが宮岡徹氏である。宮岡氏によれば、触覚の生理的な神経機構の解明とは独立して、触覚の精神物理学の分野で振動刺激に対する皮膚感覚に関心がもたれ、数々の新たな発見が起こっているという。一九六○年代から始まったこうした動きは、今、生理学と改めて結び付くことによって、触覚のとりわけ触圧感覚について、一気に進展する可能性が出てきたというのだ。触覚における振動刺激との関連性。そもそも振動刺激とはどのようなものなのか。具体的な事例を元に解き明かしていただく。 ティッシュー・エンジニアリング(組織工学)という分野がある。生体組織を工学的な方法を用いてつくり出す技術のことだ。この分野で培養皮膚の研究に取り組んでおられるのが名古屋大学大学院医学研究科頭頚部感覚器外科学講座教授の上田実氏である。三年前、筆者も所属する文理シナジー学会のシンポジウム「生命倫理を考える」で、上田実氏は口腔粘膜を使用して培養した皮膚を熱傷の患者さんに移植し成果を上げているという報告を行った。今では、培養皮膚の研究を行うベンチャー企業も誕生し、本格的なティッシュー・エンジニアリングの時代を迎えつつある。しかし、シンポジウムでそれを初めて聞いたときは、まだ夢のような話のように思えたことを記憶している。わずか三年間で状況は一変したのである。上田氏は歯科医でもあり、その経験から口腔粘膜を培養皮膚に利用するというアイデアが生まれたのだという。口腔粘膜とは、いわば口の中の皮膚のようなものである。口腔粘膜の驚くべき特質を紹介していただきながら、口腔粘膜の触覚機能を中心に考察していただく。 昨年の一○月一四日に、「東京タワー点字物語計画…天の尺2000 」というイベントが開催された。これは、東京タワーの展望台へ至る外階段(五三一段)の階段の手すりのすべてに点字の物語を張り付け、視力障害者と晴眼者がそれに触れながら昇るというものであった。構築物、尺度、身体の関係。それを点字という「触ることば」を通して考えてみようというわけだ。このイベントの企画者の一人であるライターでプランナーである坂部明浩氏とこのイベントに参加された徳永和幸氏、高橋真樹氏に加わってもらい、視覚障害にとって触覚はどのような意味を持つのか、実体験を交えて話し合っていただく。 触覚は、視覚や聴覚を頼ることなく独立して働く。この意味は、たとえば布の表面を触ってみて得られるテクスチャーの感覚は、視覚を交えなくても得られる感覚だということだ。ただ、この場合テクスチャーの感覚には視覚的な要素が入り込んでいることは考えられる。逆に視覚は聴覚や触覚と独立して働くが、視覚に聴覚的要素や触覚的要素が入り込んでいることは十分にありうることだ。つまり、感覚は独立して機能するけれども、感覚が発動するただ中では、連動し共鳴することがありうるということである。大阪大学大学院文学研究科教授の鷲田清一氏は、かねてからそれぞれの感覚同士の連動、共鳴について言及されてきた。鷲田氏が主張する臨床哲学とは、「聴く」ことを重視する。「聴く」ことによって他者へと深くかかわっていこうとするわけだが、それはしばしば他者との交通の場をつくり出していくことになる。その交通の場では、感覚の連動、共鳴が大きな力となる。視覚は聴覚と連動し、聴覚も嗅覚と連動する。同様に触覚も、視覚や聴覚や嗅覚と連動し共鳴する。この独立しながらも互いに浸透し合うような関係、ここにこそ感覚の生々しい現場があるように思える。 私たちは、最後に、この触覚を例に感覚同士の連動、共鳴について考察する。臨床哲学による〈触〉への接近。それは、触覚の科学の最前線の知見と偶然にも接近することになる。 (佐藤真) |
|