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快楽、身体の不確実性への投企

物理的現象としての快楽

快楽それ自体は罪悪どころか、生きていくうえできわめて重要な役割を持っていて、人間にはなくてはならないものである。植島啓司氏が強調するようにそれを「悪」だとか「よくないもの」だとか「軽べつ」の対象とする考え方は、歪んだ倫理観から生まれたものにすぎない。とりわけ日本はその倫理観が強く働いている社会である。二十世紀が快楽の世紀だったとしたら、私たちの社会は大きく遅れをとってしまったことになる。快楽をポジティヴなものとして捉えるところから始めなければならない。
植島氏のインタビューは、今号の結論ともいえるものになった。あえて順番を変えて冒頭に植島氏の言葉を紹介したのは、そういう理由からだ。社会的存在としての人間にとって、快楽は強い倫理的制約を受ける。「快」はともかくとしても、そこに「楽」がついて「快楽」となると、厳しい制限を受けることになる。しかし、人間を生命として捉え直していれば、事情は異なる。ほかの四人のインタビューからもわかるように、生き物にとって快楽は、生きていくうえでなくてはならない重要なものなのだ。
「快楽」の重要さは、経験科学からも実証され始めている。今日の脳科学は、快楽と生命現象の深いつながりを裏づけるような事実を発見した。生田哲氏のインタビューから紹介しよう。
快楽は、人間にとってエンジンのような存在である。生きていくためにはなくてはならないものだ。しかし、エンジンがそうであるように、時にそれは暴走することもある。それをコントロールするのが大脳皮質の役割であり、人間はそのコントロール装置としての大脳皮質を発達させることで、快楽をうまく操れるようになった生き物である。快楽それ自体を否定するのはまったくの誤りである。むしろそれをうまく操縦して、楽しく生きることが私たち人間の目的でもある。生田氏は、快楽の持つ生物学的意味に触れながら、その積極的な活用を説く。快楽を追求して、大いに享受してこそ人間だというのである。生田氏がそう言い切るのも、快楽が経験科学的な分析によって十分に証明できるような現象だからだ。快楽は脳が生み出し、脳の内部で完結する物理的な現象である。
脳内現象としての快楽発生の機序は、脳科学の飛躍的発展によって急速に明らかになった。特に神経伝達の過程で電気シグナルがシナプスというすき間を伝わる時に、化学シグナルである脳内伝達物質によって行われることがわかった意味は大きい。神経の網状組織である脳内を電気シグナルのみに頼って伝わるとすれば、情報はまたたくまに均質化してしまうだろう。そこで、神経線維に「節」を設けてすき間を空け、電気シグナルをいったん化学シグナルに変えて伝わるようにする。その化学シグナルにバリエーションを持たすことによって、情報の種類を分けてこまかく分配するのである。
神経細胞とシナプスの関係は鉄道と荷物に喩えることができるだろう。神経細胞が鉄道の線路だとすれば、シナプスはそうした線路を分断する海のような存在だ。物流はそこで鉄道から船に変わる。そう捉えるとわかりやすいかもしれない。鉄道によって運ばれてきたさまざまな荷物は、いったん港で荷分けされる。種類別や用途別に分けられた荷物は、別々の貨物船に乗せられて出港する。海には別の鉄道から運ばれてきた貨物船も運行している。対岸に着いた貨物船から荷物は下ろされる。別の鉄道から運ばれてきた荷物などとまとめられながら再び貨車に積み込まれて、次の港に運ばれる。このように次々に分けられたりまとめられたりしながら鉄道と船を交互に使って荷物=情報は運ばれていく。
もちろん実際の神経回路網(ニューロン)はこんなに単純ではないが、電気シグナルが化学シグナルに変換されて伝わっていく様子はこんなイメージだと思われる。いずれにしても重要なことは、脳内伝達物質がかかわることで情報にさまざまな脚色が施されることだ。私たちの心の状態、精神状態はニューロンの情報の内容によって大きく作用される。それは、これらの脳内伝達物質の種類や量のちがいによるものである。そして、私たちのテーマである快楽、快感の発生もまさにこれらの脳内伝達物質の作用が深くかかわっているのだ。
脳内伝達物質には百種類以上あるというが、その中で精神を興奮させるものが、ノルアドレナリンやドーパミン、セロトニンである。神経細胞はシナプスでこれらの物質を受け取ると興奮状態になる。あたかもアクセルを踏みすぎたような状態がこれだ。反対にセロトニンが不足したり、ギャバを神経細胞が受け取ると精神は抑制される。これらはいわばブレーキにあたる。ギャバのような抑制性の伝達物質を大量に受け取るとブレーキがかかりすぎて気分は重くなる。
私たちが通常「平常心」でいられるのは、興奮性の脳内物質と抑制性の脳内物質がちょうどいいくらいに保たれているからである。言い換えれば、脳内物質がバランスしている状態を「平常心」と呼んでいるのである。脳内物質が過剰になったり少なすぎたりすると、精神はとたんに不安定な状態になる。
興奮性の脳内物質の中で、とりわけ「快」に働き掛けるのがドーパミンだ。「気持ちいい」と感じたり、「心地よく」感じたり、「満足した」と感じている時、神経細胞はドーパミンをたくさん受け取っているのである。生田氏によれば、こうした状態がすなわち快楽であり、それは「快感サーキット」をドーパミンがぐるぐる回っているからだという。脳科学では、主に報酬回路と呼ばれているが、生田氏は人間の場合快感や快楽が目的化されているので、その積極的な意味を強調して「快感サーキット」と名付けた。
快感や満足感の基本となるものは、食やセックスや睡眠である。これらは、人間が生きていくうえでなくてはならないものである。つまり「快感サーキット」をドーパミンがぐるぐる回っている状態は、人間にとって特別な状態ではなくて、きわめて当たり前のことにすぎない。むしろそれを得るために行う行動は、人をして幸福にさせるというのだ。快楽を何か悪いもののように見る考え方を、生田氏はきっぱりと否定する。ただ、そうした「内なる幸福」に対して、クスリなどによって得られる「外からの幸福」は「快感ドロボー」と呼び、それを安易に利用すると厳しい生物学的処罰を受けると警告する。
美味しいものを食べたり、好きな人と抱きあったり、昼日中までぐっすり眠ることは、人間の基本的な欲求である。罪悪どころか経験科学的に見てもその必要性は明らかだ。それが何か後ろめたいものと感じるとすれば、それは心理面の問題というよりは、社会の問題である。私たちが生きている社会が、それを悪いものとして規定しようとしているにすぎないのかもしれない。

情動系の暴走も人間の本性

動物がエサと同じように薬物を欲しがるようになるというショッキングな発見。スキナーの実験が示した「強化効果」が薬物にも適応するというこの発見は、今日の脳科学の発展を考えるとまさにエポックメイキングともいえる出来事だった。しかし、一九六○年代当時、その実験結果の重大さについて気がつく者は少なかったという。つまりそれが何を意味するのか、まだ見当さえつかなかったからである。
生田氏が取り上げた脳内伝達物質の発見は、神経細胞の構造が明らかになってきた段階で、シナプスで起こっていることが電気シグナルの伝達ではないということがわかったことによるものだった。そこでは化学的なやりとりが行われていたのである。そうであれば、必ずそこには情報を伝達するなんらかの物質が存在するはずだと予測することはごく自然なことだろう。そしてその仮説は見事に的中し、今では百種類以上の脳内伝達物質が発見されるに至ったというわけである。
廣中直行氏が述べている動物実験による「強化効果」の発見は、そうした脳内伝達物質の発見とは直接かかわりなく行われていたようだ。心理学のオペラント条件づけという行動実験を動物に適応したところが、エサだけではなくクスリの投与でも同じ結果が出てしまったのである。それまでは、麻薬中毒のようにクスリに「ハマる」のは、人間だけだと思われていたのが、じつはサルやラットでも、条件次第で同じようにクスリにハマってしまうことがわかったのだ。麻薬に溺れるのは意志の弱さによるものだという説がある。要するに心理面における脆弱さからつい麻薬に手を出してしまうというものである。この実験はこうした俗説が誤りであることを暴き出した。つまり、脳の中には、覚醒剤に似たような物質があって、それが放出されると、人間も動物も変わりなくハマってしまうというわけである。
さらに別の実験から、もう一つ大発見が生まれた。ラットが電気刺激でもハマってしまったのである。インタビューでも言われているように、これはたまたま電極の位置がはずれたために起こった偶然の産物ではあったが、ともかく、電気刺激によっても「強化効果」が起こることが明らかになったのである。このことは、脳の内部に「強化効果」を起こす場所があるということを示す。腹側被蓋野から側坐核に向かっている内側前脳束である。生田氏が「快感サーキット」と呼んだ報酬回路のことだ。そして、そこで電気刺激に反応したのは、ドーパミンを放出するドーパミン神経であった。
生田氏の話の主役はあくまでも脳内の伝達物質であり、それが「快感サーキット」を駆け回ることによって快楽は生まれるというものであった。一方、廣中氏によれば、ドーパミン神経をクスリを与えたり電気で刺激すると、人間やサル、ラットは一応に「ハマる」現象が見られる。つまり、人間だけではなくほかの動物も快感を感じることがあり、その意味では快感、快楽がこれまで考えられていたような心理的、哲学的概念ではないことがわかった。と同時に、そうした快感、快楽が、薬物や電気といった直接的な方法で脳に刺激を与えても起こりうることだということも明らかになったのである。
生田氏と廣中氏のインタビューは、ここで重なり合う。快感、快楽は、百パーセント脳内の出来事であるけれども、それが物理的現象である以上その物質を操作することによって、快感、快楽を人為的につくり出すことも不可能ではないということだ。ドーパミンという脳内伝達物質をコントロールすれば、私たちは快感、快楽を手に入れることができる。生田氏の言う「外からの幸福」は、廣中氏の話で言えばラットの電気刺激にあたるのである。
しかし、問題はその後である。注目したいのは、快感や快楽が脳内伝達物質の物理現象であるという点ではお二人の考えは共通しているにもかかわらず、そこから導き出される結論がまったく異なるからだ。繰り返すまでもなく、生田氏は、だから快感、快楽を得るために(それが幸福や喜びである以上)「快感サーキット」を大いに活性化させようと言う。そのためには、ドーパミンを放出させることが大切で、達成感や満足感を得るためにする努力がそれを可能にすると説く。
一方、廣中氏は、外部からの刺激がドーパミンを放出させ、快感、快楽を動物たちも得ているように(外部からは)観察できる。しかし、それは動物にとってほんとうに快感、快楽なのかどうか、はっきり言ってわからないと言うのである。外部刺激によって確実に情動は変化するが、果たしてそれが快/不快を表現しているとは言い切れないというのだ。しかもそれは動物だけでなく、人間においてもあてはまる。つまり、出力した表情(快感、快楽)と主観的経験が一致しているとは単純には言い切れないからである。そして、さらに驚くことに、廣中氏は次のようにも言う。快/不快は一種のラベリングで決まる。つまり、コンテキストに依存するというのである。自分の脳が感じているはずの快/不快は、周囲の状況によってつくり出されていて、本当のところはその正体すら自分ではわかっていないのかもしれない。何かにハマってしまうのは、情動系が暴走することであるが、それも人間の本性の一つである。アクセルやブレーキの効かないクルマもまた、十分に人間だというわけだ。廣中氏は、そこで「渇望」というキーワードを出す。生き物が「ハマる」のは、快感、快楽を得ている最中を言うというよりは、それをまさに「渇望」している状態を示しているのではないか。だとすれば、ドーパミンが放出している状態をもって快感、快楽と考えることは事態をあまりにも単純化しすぎている。そこではもっと複雑なことが起こっている可能性がある。今後の研究課題は、情動および認知のシステムがどうかかわっているかという究明にあるだろうと結論する。

「私」の快楽は、どこにあるか

渇望が、脳の設計図を書き換えている可能性も否定できない。ハマった人の脳は、ハマる前の脳と異なるとしたら、それは自分というものが変わってしまったことを示しているともいえる。自分のからだの中で起こってることをじつは当の本人もよくわかっていない。情動と認知のシステムが別々に働いていることによって、私たちは自分の情動がどういう形で表現されているのか、時にわからなくなり混乱すら感じる場合がある。
このことは、茂木健一郎氏の「クオリア」の概念に重ね合わせて見ると、より明確になるだろう。脳科学がニューロンの発火という事実に基づいて、どのように脳内現象を記述したとしても、それは「私」の頭の内部にある「心」の状態を説明したことにはならないという発言は、まさにこのことを言っているからだ。
脳の中に「クオリア」は確実に存在するし、それがあるから私たちは外部世界のありようを認識することができるわけだが、それが今、「私」が確実に感じているはずのものと一致しているかどうかとなると、まったく定かではないのである。茂木氏が強調するように、主観的体験こそ「心」が感じているありのままの姿だ。だが、それは脳科学が解明した認知のシステム、認識のメカニズムからは、どんなに考えても出てこないものでもある。今の脳科学の水準は、せいぜいそれが「クオリア」であるということしかわからない。情動と認知のシステムのクロストークの解明は、まさに脳科学をブレークスルーするためにはどうしても越えなければならないハードルだといえるだろう。
新宮一成氏は、フロイトの「快」原理に事寄せて、「平衡状態」の「快」と共に、言語の万能としての「快」があると述べた。「平衡状態」としての「快」は、ホメオスタシスと同義であるとみればわかりやすい。食欲も性欲も、その基本は生命の維持にあるのだから、その状態を可能なかぎり長引かせようとすることは自然なことであろうし、そのためにはできるだけ緊張を緩和する必要があるという理由も納得できる。アタラクシアこそ快楽の原則だとするエピクロスの考えはフロイトの思想に生き続けていて、今でも十分な説得力を持つ。しかし、言語の万能としての「快」となると容易には理解しにくい。緊張緩和どころか、反対に極度の緊張状態をも自らに強いることにもなるかもしれないのだから。どうしてそれが快感、快楽につながるというのだろうか。
ここに現れるのが「他者」という存在である。「他者」は常に私たちを脅かす存在として登場する。フロイトは夢の分析を通して、人間の「快」原理が言語と一体化していることを突き止めた。その最もわかりやすい例が、夢を見るということである。夢の中では、主体と言語はもはや切り離すことができないくらい深く融合しあっている。夢は言語となり、言語は夢となる。しかし、それは一方で、主体というもののありようをあいまいにしてしまうことにもつながる。夢の中で私たちは、「私」の存在を見失うことがしばしばある。夢の中で「私」と名のる「私」は、確実に「私」自身によって夢見られた存在だ。だから、もしも「私」がその夢の外へと出たいとすれば、まず夢からさめる必要がある。ところが、夢から覚めてしまえば、もうそこには夢の中にいた「私」はいなくなってしまう。そこにいるのは、夢を見ていたことを知っている「私」がいるにすぎない。
この構造は、新宮氏が主体と言語世界の二重構造として提示したものと同形であろう。言語によって構成された世界から出るためには、私たちは言語を使用せざるをえない。それは、私たちを再び言語世界に引き戻すことでもある。新宮氏が指摘するように、それは輪廻の関係を彷彿させる。
夢と「私」の関係も輪廻の関係として現れるが、その関係にくさびを入れるのが、ほかならぬ他者なのだ。言語と人間の関係が輪廻的である時、真理を保証する手だてを失う。「クラコビーとレンベルグ」の小話は、私たちが日常生活で取り結んでいる主体と言語の関係をみごとに暴き出した。どんなに自分の中にあるものが真理だとみえても、それは自分以外の人間にとってはまったく真理ではないのである。自分が仮にうそをついたとしても、そのうそが生涯誰にもバレなかったとすれば果たしてそれをうそといっていいのだろうか。当然逆もありうる。えん罪のように、無罪の人間がそれを証明する手段を奪われた時、真理は真理を証明することができない。とすれば、それは果たして真理なのか。「他者」の存在は、自分の真理、すなわち信念や確信を暴く存在として出現する。それゆえ不気味な存在ではあるが、他者がいることによって、逆説的にその真理が真理として保証される空間が確保される。主体の中で完結している真理を、疑うことによって主体ともども白日の下にさらけ出す。そのことによって逆に真理を保証する空間を見いだすのである。
フロイトの「快」原理のもう一つの役割は、この言語に覆いをかぶせることではないかと新宮氏は言う。「平衡状態」が言語を消滅させるいわば沈黙へ向かう「快」であるとすれば、言語の万能は、言語によって埋め尽くす「快」である。他者という不気味な存在が現れる世界をも覆い尽くしてしまうような「快」。新宮氏は、このもう一つの「快」が今後の研究課題であると言う。私たちもそれ以上のことはわからない。ただ、それは廣中氏が仮説的に述べた渇望のしくみとなんらかの関係があるようにも思われる。快感や快楽が、本質的にパラドキシカルなものをはらんでいる以上、両者を関係づけて考えることはあながちまちがいではなかろう。おそらく、そういう視点から考え直してみると、快感や快楽は私たちが考えているよりはるかに複雑なシステムとして立ち現れてくるはずだ。
植島啓司氏は、もう一つ重要なことは、快楽の本質がある種不確実性を受け入れることにあると言っている。快楽がからだの中ので出来事であることは十二分に了解できても、その正体を本当は私たちは知らないのかもしれない。しかし、それこそが快楽というものの実体なのではないだろうか。私たちは、そのわけのわからなさに向かって自らを投企していく。リスクをすすんで引き受けつつ、その得体のしれなさにむかってジャンプすること。それはまた植島氏がいうように、不気味な存在としての他者に、自らを委ねてしまうことでもある。

未知なるものへ向かって身を投じていくことは、じつは生命というものの大きな特徴なのだ。不確実な時間性を一回一回取り込みながら、常に偶有的な世界へと突き進んでいくものが、生命である。社会的存在としての個人の倫理性と生命現象に乖離していた快楽を、切り離して論じてはならない。むしろ、両者を同一のものとして考えることが必要なのだ。快楽は「いのち」の本質へ私たちを導く未知の扉だとすれば、私たちは勇気をもってその扉を開くべきではなかろうか。
(佐藤真)

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