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「いのち」にとって重要な快楽

快楽へのいざない

「快楽、喜び、陽気さ、幸せ、満足といったことは、ふつう生活の中心に位置づけられる。こういう感情は人にあらゆる点で意欲をもたらし、その効能は数え上げればきりがない」「快楽はどんな文化にも存在するし、誰にでもある自然な感情なのだ」。
ARISE(「楽しみ」を科学的に研究する国際的な科学者の会)のメンバーで精神生理学を専攻するジャン・スネル氏は、『快楽へのいざない』でこう述べ、快楽は、人生にとってきわめて重要なものだと結論づけている。
生きていくうえで大切な役割を持つはずの「快楽」であるが、改めてそれを定義してみようとすると、これがなかなか難しいことに気づく。時によって、また人によってもその捉え方はまちまちで、説明すること自体が容易ではないとスネル氏自身も述懐しているほどだ。しかも、今日そのイメージははなはだよろしくない。とかく「悪い」印象ばかりが強調される傾向にあり、快楽そのものが「罪悪」かのような論調で語られることすらある。「快楽」は、アディクト(中毒)するものであり、「ハマる」ものであり、「耽溺」するものである。それは、精神的にも肉体的にも「病む」ことを意味する。「過ぎたるは及ばざるがごとし」の喩えこそ、まさに快楽にあてはまるというわけである。
今号では、人間における快楽について、考えてみたい。快楽は、実のところ人間にとって大事なものなのか、それとも「良くない」ものなのか。快楽を生理や心理の分野だけではなく、脳科学や精神薬理学といった面から掘り起こすことで、そのメカニズムや意味について探ってみることにしよう。

性的イメージと結び付く快楽

出版物のデータベースから、快楽という書名で検索してみると、セックスや性的イメージとの関連を示唆するものが少なくない。しかも著者が女性の場合が多いという特徴がある。たとえば、『快楽であたしたちはできている』(安彦麻理絵著)は女性の立場からセックスの快感を扱ったものであるし、『快楽電流』(藤本由香里著)は、逆にセックスと快楽の無自覚な連合に批判の目を向ける。また、『快楽の技術』(斎藤綾子・伏見憲明著)では、男性/女性という垣根がなくなった現代のセックスのあり方を自らの経験に引きつけながらえぐり出す。たまたま目にとまった三冊ではあるが、それぞれ温度差はあるにしても、快楽という言葉をセックスの表象として捉えている点では共通している。
これまで、女性がセックスを享受し、しかも堂々と主張するなどということははばかられるような風潮があった。それだからかもしれないが、あえて「快楽」という補助線を引くことによって、セックスが享受される対象であることを再確認させたいという思惑が見受けられる。つまり、セックスを快楽の延長線上に置くことで、逆にセックスを自然な肉体的行為として見直し、ジェンダーを越えた共通項として捉えたいということなのだろう。セックスや性的イメージと快楽は、身体という媒介物を通してごく自然な形で交差するのだ。
快楽がこのようにセックスの表象として前景化してきたのは比較的新しいことではなかろうか。快楽が性的なイメージと結び付いて論じられることが少なくはないにしても、快楽がセックスのみに付随するものではないことはいうまでもないことだ。にもかかわらず、私たちの視線は、常にそれを同じ平面の上に重ねて見ようとする。
「快楽主義」という言葉がある。快楽を無制限に賞揚し自らの行動原理にしようという主張である。「快楽主義」を性的な快楽にアクセントを置いてその意義を論じたのが澁澤龍彦であった。フランス文学者が、あえて一般娯楽書(カッパブックス)という形態で『快楽主義の哲学』を発表したのは一九六五年であった。高度成長を謳歌し、右肩上がりで発展し続ける日本。戦後の経済成長期のまっただ中で遮二無二に働き続けるサラリーマンをあざ笑うかのように、「快楽」という言葉を前面に掲げ、「本能の赴くままに生きよ」と澁澤は本書を通してアジテーションしたのである。
澁澤龍彦といえば、マルキド・サドやシュルレアリスム、オカルティズム、あるいはジル・ド・レーやヘリオガバルスの紹介者として名を馳せた文学者である。いわゆる異端文化の研究で六○年代以降の文化に多大な影響力を持った知識人の一人だ。今でいえば、さしあたりサブカルのカリスマ的存在といったところだろう。その澁澤が「快楽主義」の核心部に置いて重要視したものが、ほかならぬセックスおよびセクシュアリティであった。
「あらゆる人間の快楽のうちで、エロチックな満足こそ、いちばん強度なものであり、かつ、いちばん根源的なものである」
澁澤は、『快楽主義の哲学』の中でわざわざ「性的快楽の研究」という一章を設けて、その重要性を提起した。セックスの快楽こそ、すべての快美感覚の中で最も圧倒的な満足感を与えてくれるもので、それは説明するまでもなく誰でもが知ってることだというのである。エロチシズム文学の傑作『悪徳の栄え』の翻訳者の面目躍如たる主張である。しかし、少し丁寧に読んでみるとわかることだが、そこでの澁澤の主眼は必ずしも単純なセックスの礼賛にあるわけではなかった。「乱交のユートピア」、「情死の美学」、「性感帯の拡大」といった扇情的なテーマが見出しに並んでいるけれども、そこに共通するものはエロスの解放だけではなかった。むしろ結論として導き出されているのは、アンチ・ヒューマニズムの思想である。随所で再三にわたってセックス、エロスを賞揚しておきながら、二十世紀の快楽主義はヒューマニズムではなく、アンチ・ヒューマニズムを志向すべきだと澁澤は結論するのである。
もっとも誤解されては困るのであえて注釈を加えておくと、ここでいわれるヒューマニズムはいわゆる一般的な意味での人間主義ではない。たぶんにピューリタニズム的な、西洋で醸成されてきた思想としてのヒューマニズムである。人間はかくあるべし、といいう理念のもとに概念化されたもので、生産、労働、進歩を第一義とする考え方だ。そうした倫理的な制約の枠内で、人間の解放が実現すると主張される。澁澤が標的としたのは、まさにそうしたヒューマニズムであった。澁澤のいう快楽の実践が、そうした人間主義と抵触することはいうまでもないだろう。セックスやエロスを謳歌することは、生産、労働、進歩という概念と真っ向から対立するからである。

快楽/禁欲の反対の一致

「快楽主義」なるものの起源をさかのぼっていくとエピクロスの哲学にいきあたる。ヘレニズムの時代、アリストテレスより少し遅れて登場してきたエピクロス学派は、ストア学派と並ぶ当時の二大潮流であったという。ゼノンやセネカを代表とするストア学派は、一般的に禁欲主義といわれるのに対して、エピクロスを開祖とするエピクロス派の思想は、快楽主義といわれる。
禁欲を旨とするストア学派と快楽を主張するエピクロス学派は一見対立しているように見える。両者は共に「自然に従って生きよ」という目的において一致しているのだが、一方は、その目的を果たすためには常に「禁欲的であれ」といい、他方は、そうであればこそ「快楽的であれ」という。
ストア学派にとって、自然に従うことは、一種の「緊張状態」を維持することである。緊張の維持のためには、常に理性的でなければならず、禁欲的に外界と接することによってのみそれが果たされるというのがストア派の主張するところである。それに対してエピクロス派は、自然に従うことは、むしろ「緊張緩和」をいうのであり、そのためには、常にリラックスしている必要があると主張する。動物や植物のように、雨風に耐えながらそうした外界の変化に自らを合わせていくこと。言い換えれば、「なるようになるさ」という生き方、これこそ緊張緩和の姿勢である。エピクロスはそれをアタラクシアという概念で呼んだ。このアタラクシアに達するために、それを求め続けることがエピクロスの言う快楽なのである。
禁欲主義と快楽主義。言葉尻だけ捉えれば正反対のように思われる二つの考え方であるが、その根にあるものは共通しているのである。どちらも自然と一体であることの意義を主張する。ストア学派とエピクロス学派は、緊張か緩和かというちがいはあるにせよ、自然に忠実であること、人間の本能や欲望に対して逆らわないというところでは一致しているのだ。
禁欲こそが最大の快楽である。そして、快楽の追求の果てにたどりつくのは、いわば欲を放棄した境地としての禁欲である。正反対の方向を目指す両者は、その究極の場面において結び付いてしまうのだ。
澁澤龍彦がセックスに快楽の本質を見いだしたのは、それが人間の本能や欲望に根差した表出行為だと考えたからであろう。しかしそれは、澁澤にとっては決して人間的な行為とは捉えられていない。むしろ一言で言えばアンチ・ヒューマン、反人間主義だという。それはなぜか。セックスの追求は、しばしば人間の限界をつきやぶり、人間を人間以上の存在にするからだというのだ。
性的な恍惚感は、時に人間を死の縁に導く。ジョルジュ・バタイユは、フロイトの考えを発展させて、性的なエネルギーが最大限噴出した瞬間、それは死と一体化したものになると考えた。澁澤も同様に、快楽において強度を持つセックスは、「小さな死」の瞬間を体現することだと考えた。バタイユの言うように「死にまで高められた欲求」こそがセックスの営みであり、快楽主義とはまさにその死への欲望を希求することにほかならないというのが澁澤の考えであった。そうであれば、ヒューマニズムが退けられるのは当然であろう。
澁澤龍彦が六○年代という時代に、あえて性的な意味での快楽という言葉に託して主張したかったことは、ヒューマニズムへの強烈な疑念であった。人間主義という衣を借りて、堂々とまかり通る資本主義という野蛮に対する一文学者のそれは抵抗であったのだろう。
「資本主義の世の中では、人間という概念は、もっぱら労働とか生産とかによってのみ規定され、ぼろぼろにすり切れて、あわれな形骸をさらして」いる。その結果、「いかに生きるか」ということばかりに一生懸命になる。私たちに今必要なのは、「いかに死ぬか」ではないか。快楽主義の徹底はやがて死という現実に直面する。しかし、それこそ人間にとっては、自然なありさまなのである。エピクロスのアタラクシアがストア派の禁欲の思想といみじくも接近するのも、自然と同一化すること、やがて来る死を普通の現象として受け入れる共通の基盤を持っているからだ。そしてこの思想は、ヒューマニズムへのラディカルなアンチテーゼとなる。なぜならば、ヒューマニズムこそ、人間を死なない機械として馴致し、身体の内部の現象である快楽から遠ざけ、目をそらせようとする当のものにほかならないからである。
快楽に対して、とりわけ日本は風当たりが強い。快楽を「悪」と見て敵視するようなところが確かに自分自身にもはっきりと認められる。その原因を儒教的な倫理観に見る識者もいる。また貝原益軒ゆずりの養生術がその起源だと主張する学者もいる。いずれにしても、まちがいなく言えることは、そうした快楽を敵視する見方は、労働することをとにかく金科玉条として捉え、遊んだり、怠けたり、さぼったりすることを戒めてきたことと軌を一にすることだ。労働に反すること、働く意欲をなくしてしまうこと、少なくともそういう意識や志向が少しでも働くようなものは、極力排されてきたのである。ヒューマニズムは、そうした志向をごく自然な形で受け入れさせるオブラートのような機能を持つ。私たちにとって何が「自然」な姿であるか。「人間として考えてみよう」とそれはささやくのである。生産、労働に従事すること、それは人間にとってアプリオリなものであって、それを疑うことはまさしく「人間」に反するというわけだ。戦後の日本にあって、快楽を謳歌することがアンチヒューマニズムに加担することになったのは以上の理由による。

快楽の科学/快楽論の諸相

私たちは、快楽を考察するにあたって、倫理的な制約から離れるために、純粋に経験科学の領域から接近することにする。特に、快楽について近年急速に進んだ脳科学からアプローチすることから始めよう。
「脳内には一○○○億もの神経細胞が詰まっている。そして神経細胞と神経細胞の間を伝達物質が通過する」「ヒトが快感、快楽、満足感に浸るとき、脳内では快感物質ドーパミンが大脳辺縁系をぐるぐるかけめぐっている」(『脳に効く快感のクスリ』)
たとえば、サッカーの日本代表の試合を観戦しに行ったとしよう。白熱した試合展開で観客はいやがおうでもヒートアップする。しかし、日本は善戦しながらも後半終了間際に痛い失点。日本は1点のビハインドのままあわやタイムアップというところで、相手のファールをさそってFKのビッグ・チャンスを得る。すでにロスタイム。このFKが命運を分けることになる。そして、キッカーは小野伸二。すべての観客の目がキックにくぎづけになったその時、右足から放たれたボールは大きな弧を描いてゴール左ポストをかすりながらネットへと吸い込まれていった。競技場は一転して巨大なカーニバル空間へと変わっていた。誰もがその奇跡の同点ゴールに酔いしれる……。
さて、この時私の頭の中はどうなっていたか。いうまでもなく、大脳皮質が大興奮状態になり、快感物質ドーパミンが脳内をぐるぐるかけまわっている状態が続いたのである。
脳をクルマにたとえるとドーパミンなどの興奮性の伝達物質はいわばアクセルのような働きをするという。この量が増加すると脳は興奮し、気分はスッキリ、明るく、意欲的になる。反対にブレーキ役の伝達物質も存在し、その代表ギャバが増えると気分は下がり、意欲もなくなる。つまり脳内の伝達物質のバランスによって、私たちの気分や感情はコントロールされているというわけだ。
脳科学は、快楽、快感などの情動について今日どのような知見を得ているのか。脳の興奮と抑制を調整する伝達物質のメカニズムについて探り、その働き、役割を考えてみよう。お尋ねしたのは、『脳に効く快感のクスリ』の著者で薬学博士の生田哲氏。生田氏は、イリノイ工科大学でDNAとたんぱく質をターゲットにドラッグデサインの研究を行ってきた。帰国後は、生命科学と脳機能のかかわりを中心に、精力的に執筆活動をされている。生田氏に、まず脳の構造を説明してもらい、そのうえで快楽というものがわれわれの脳の中でどのように発生するのかをお聞きする。
快楽は生理的(脳内)な興奮状態であることはまちがいないにしても、それが解明されたことによって快楽が説明しきれるとは言い切れないのではないか。快楽にはそれを快楽と認知させるためのコンテキスト(文脈)が必要である。とりわけ人間にとっては、そのコンテキストは重要だ。たとえば、最近話題になることの多い「ハマる」行動は、まさに快楽などの情動がコンテキストと深いかかわりを持っているところに原因があるらしい。
実験動物中央研究所、理化学研究所を経て、今年専修大学教授となった廣中直行氏は、快楽とアディクションのかかわりを研究する過程で、快楽がコンテキストに依存することに注目する。そしてアディクションよりも、快楽は渇望(craving)という概念として捉える方が正確ではないかと提起されている。渇望は、脳内物質の働きと認知機能を結び付ける新たなキー概念となりうる可能性をはらんでいる。この渇望を手掛かりにしながら、快楽、そして人間が「ハマる」謎についてお聞きする。
喜怒哀楽などの情動、また快感/不快感、好き/嫌いといった感情は、広く心の働きだと考えられている。では、「心」とは何か、それはいったいどこにあるのかという疑問を前にすると、とたんに答えに窮してしまう。「心」の問題は難問中の難問である。私たちの「心」のすべては、脳のニューロンの発火に伴って起こる「脳内現象」にすぎない。脳科学の現時点での最大の成果は、「心」のありかを明らかにしたことだ。しかし、それは「心」がなぜ喜怒哀楽や好き/嫌いを生み出すかという疑問に対しては、いまだに回答を持ちえないでいる。ニューロンの発火という事実は脳を経験科学の対象にしえた重要な発見ではあったが、それ以上の意味はない。今後脳科学が発展するには、「心」の究明が急務である。だが、そのためにはこれまでの脳科学の成果を白紙に戻す必要がありそうだ。
このいささかラディカルすぎる発言を当の脳科学の分野で言い続けているのがソニーコンピュータサイエンス研究所リサーチャー・茂木健一郎氏である。茂木氏は、脳科学の現状を冷静に見ながら、それが機能万能主義に陥っていることを危惧する。茂木氏は、それを打破する手掛かりとして「クオリア」という概念を提起している。「クオリア」とは脳が感じていることのすべてをあらわす概念だという。「心」を説明する「クオリア」の理論から、脳と情動、感情のかかわりを茂木健一郎氏にお聞きする。
二○世紀は「快楽」の世紀だった。おそらく、数百年後のひとびとはそう回想するにちがいない。われわれは働くために生きるのではなく、快楽のために生きている。こう言い切るのは関西大学文学部教授・植島啓司氏である。植島氏は、たばこ、酒、ギャンブル、セックスが個人の嗜好に属するかぎり何人もそれを管理できないと強調する。自らも、ギャンブラーとして競馬やカジノに足しげく通いながら、快楽を実践・追求する植島氏に、ここでは視点を変えて、快楽の文化、そのさまざまな様態についてお尋ねする。
快楽は「心」がつくり出すものである。脳科学の最新理論は、その「心」が脳の中にあることを明らかにした。では改めて問うが、快楽は「心」のどこにあるのだろうか。
フロイトの精神分析理論は、快楽が「心」のどこから生まれてくるのか、その解明のために考え出されたものだともいえる。フロイトにとって、快楽こそ最も重要なテーマであり、その解明にフロイトは生涯を捧げたといっても、決して言いすぎではないのである。フロイトは、快楽を求めることは、いのちを持つことと同じことだと考えた。それほど快楽は、人間にとってなくてはならないものなのだ。フロイトのこの考えをさらに深め、主体と生命のかかわりに切り込んでいったのがジャック・ラカンである。快楽の解明は、精神分析理論というフィルターを通して、ついに主体と他者、主体と世界という哲学的な課題へと接ぎ木されていくのである。快楽と生命、快楽と人間のかかわりについて、最後に京都大学大学院人間・環境学研究科教授・新宮一成氏にお聞きする。
(佐藤真)


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