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談 no.66 WEB版
 
特集:快楽と生命
 
Translated : Andrew Dewar
   
   
 
快楽の発生……「快楽サーキット」をめぐる脳内伝達物質

生田 哲
 Satoshi Ikuta
人間にとって快楽は非常に重要です。
それはヒトが快感を求めて生きているからです。
つまり、快感サーキットをドーパミンがぐるぐるとかけめぐる時に
私たちは満足感や幸福感を味わうことができるからです。
それは人間にとって普通の欲望にすぎませんし、
生きている限りそれはなくなるものではありません。
 
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Pleasure is extremely important to humans. This is because we seek out pleasure as a process of life. When dopamine goes around and around in our pleasure circuit, we are able to feel satisfied and happy. This is nothing more than an ordinary human desire, and one that will continue as long as we live.

いくた・さとし
1955年北海道函館市生まれ。
東京薬科大学大学院卒業。
アメリカで遺伝子の構造やドラッグデザインをテーマに研究生活を送る。
シティ・オブ・ホープ研究所やカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)などの博士研究員を経てイリノイ工科大学助教授(化学科)。
現在、 日本で最新科学にもとづいた著作の執筆を続けている。ph.D.作家。
著書に、『脳に効く快楽のクスリ』講談社α文庫、2000、『ゲノムビジネスの最新常識』1999、『〈最新〉ウイルスと感染のしくみ』いずれも日本実業出版社、1999、『脳と心をあやつる物質』講談社ブルーバックス、1999、他多数がある。

 

渇望(craving)……快/不快のサイクル運動

廣中直行 Naoyuki Hironaka
生存のための根本的な欲求がわれわれにはあって、
そこが阻害されるとたちどころに非常に強い渇望が生じるのです。
薬物依存にとっては、薬が欲しいという欲求はそういう欲求と同じになってくる。
つまり、生存のための欲求と見分けがつかないくらいの基本的な欲求になっているのです。
それが渇望であり、しかも人間の本性であるために、
クスリにハマった人をそこから救い出すのは容易ではありません。
 
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We have basic desires related to survival, and if they are frustrated, we soon develop an extremely strong craving for their object. This is basically the same process that makes addicts crave drugs. In other words, the craving becomes indistinguishable from other survival-related needs, and just as essential. This is how craving works, and because it is such a basic human instinct, it is very difficult to help people caught in drug addictions.

ひろなか・なおゆき
1956年山口県生まれ。
東京大学文学部心理学科卒業。
同大学大学院心理学専攻博士課程単位取得退学。
実験動物中央研究所、理化学研究所を経て、現在、専修大学文学部心理学科教授。医学博士。
著書に、『人はなぜハマるのか』岩波科学ライブラリー、2001、『メディアでまなぶ心理学』(共著)、有斐閣、1996、訳書に、『認知臨床心理学』(共訳)、東京大学出版会、1996。

 

心が感じる快楽……クオリア、志向性

茂木健一郎 Kenichiro Mogi
「赤いバラは好きだが黄色いバラは嫌い」ということを、ニューロンの発火で記述しても意味がありません。
ましてや、「私はあなたが好き」という現在ただいま起こっていることについては、まったく見当外れな解答にしかならない。人間の「心」を本気で究明しようと思うのなら、好き/嫌いのことが解明されなければならないはずで、「快楽」の研究が脳科学にとって重要なのもその問題に迫ろうとしているからなんです。
 
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"I love red roses, but I hate yellow ones." No matter how you try to describe this statement in terms of the firing of neurons, you will not succeed. And querying the present state described in the phrase "I love you" will produce a completely unexpected explanation. If you really want to investigate the human mind, the mechanism of liking and disliking must be fully understood. The reason that the study of pleasure is important to brain research is that it creates a means to approach this problem.

もぎ・けんいちろう
1962年東京生まれ。
東京大学理学部、法学部卒業。
同大学理学系大学院物理学専攻課程修了。
理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て、現在、ソニーコンピュータサイエンス研究所リサーチャー。東京工業大学客員助教授。理学博士。
著書に、『心が脳を感じるとき』講談社、1999、『生きて死ぬ私』徳間書店、1998、『脳とクオリア』日経サイエンス社、1997、他がある。

 

快楽のさまざま様態

植島啓司 Keiji Ueshima
自分の力でなんとかなる将棋よりも、究極はサイコロの丁半のような、 他者へと委ねられた快楽の世界へと入り込んでいく。 そちらへ行けば行くほど、気持ちは高まるのです。
つまり、快楽の極致とは、 自らの運命を誰かの手に委ねられるところにあるのだと思います。 そしてそれは快楽の本質でもあるのです。
 
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We may enter a world of pleasure, one less like a game of chess, in which we win or lose according to our own skill, than a desperate game of craps, in which the creation of our own pleasure is left to others. The farther we go into this world, the more excited we become. In other words, the culmination of pleasure is in placing our own fate in the hands of others. And that is a basic element of pleasure.

うえしま・けいじ
1947年東京都生まれ。
東京大学卒業。同大学大学院宗教学宗教学史科博士課程修了。シカゴ大学大学院留学。
現在、関西大学文学教授。宗教人類学専攻。
著書に、『快楽は悪か』朝日文庫、1999、『オデッサの誘惑』集英社、2000、『聖地の想像力』集英社新書、2000、他がある。

 

「快楽」はどこにあるか……精神分析が明かす「快」のありか

新宮一成 Kazushige Shingu
フロイトの考えた二種類の「快」はある意味で相反するものです。
刺激や緊張をうまく取り込むしくみとしての「平衡状態」は、沈黙へ向かうような「快」であり、言語の万能としての「快」は、逆に言語によって埋め尽くすような「快」です。
まったく別の位相をもつ「快」が、じつはコインの表裏のような関係としてあるのではないかというのが、フロイトの「快」のユニークなところであり、意外なことにこの考えは仏教に近いものです。
 
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In some sense, the two types of 'pleasure' described by Freud conflict with each other. The state of balance which skillfully incorporates stimulation and stress, creates a kind of pleasure inclined toward silence. At the same time, linguistic skill leads to a pleasure in the full use of language. These are two completely different types of pleasure, but the fact that they are like two sides of a coin demonstrates the uniqueness of Freud's interpretation of pleasure. And in a strange way, this interpretation seems very like Buddhist thought.

しんぐう・かずしげ
1950年大阪市生まれ。京都大学医学部卒業。
現在、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。精神医学専攻。
著書に、『夢分析』岩波新書、2000、『無意識の組曲』岩波書店、1997、『ラカンの精神分析』講談社新書、1995、他がある。

 

editor's note[before]


「いのち」にとって重要な快楽

快楽へのいざない

「快楽、喜び、陽気さ、幸せ、満足といったことは、ふつう生活の中心に位置づけられる。こういう感情は人にあらゆる点で意欲をもたらし、その効能は数え上げればきりがない」「快楽はどんな文化にも存在するし、誰にでもある自然な感情なのだ」。
ARISE(「楽しみ」を科学的に研究する国際的な科学者の会)のメンバーで精神生理学を専攻するジャン・スネル氏は、『快楽へのいざない』でこう述べ、快楽は、人生にとってきわめて重要なものだと結論づけている。
生きていくうえで大切な役割を持つはずの「快楽」であるが、改めてそれを定義してみようとすると、これがなかなか難しいことに気づく。時によって、また人によってもその捉え方はまちまちで、説明すること自体が容易ではないとスネル氏自身も述懐しているほどだ。しかも、今日そのイメージははなはだよろしくない。とかく「悪い」印象ばかりが強調される傾向にあり、快楽そのものが「罪悪」かのような論調で語られることすらある。「快楽」は、アディクト(中毒)するものであり、「ハマる」ものであり、「耽溺」するものである。それは、精神的にも肉体的にも「病む」ことを意味する。「過ぎたるは及ばざるがごとし」の喩えこそ、まさに快楽にあてはまるというわけである。
今号では、人間における快楽について、考えてみたい。快楽は、実のところ人間にとって大事なものなのか、それとも「良くない」ものなのか。快楽を生理や心理の分野だけではなく、脳科学や精神薬理学といった面から掘り起こすことで、そのメカニズムや意味について探ってみることにしよう。

性的イメージと結び付く快楽

出版物のデータベースから、快楽という書名で検索してみると、セックスや性的イメージとの関連を示唆するものが少なくない。しかも著者が女性の場合が多いという特徴がある。たとえば、『快楽であたしたちはできている』(安彦麻理絵著)は女性の立場からセックスの快感を扱ったものであるし、『快楽電流』(藤本由香里著)は、逆にセックスと快楽の無自覚な連合に批判の目を向ける。また、『快楽の技術』(斎藤綾子・伏見憲明著)では、男性/女性という垣根がなくなった現代のセックスのあり方を自らの経験に引きつけながらえぐり出す。たまたま目にとまった三冊ではあるが、それぞれ温度差はあるにしても、快楽という言葉をセックスの表象として捉えている点では共通している。
これまで、女性がセックスを享受し、しかも堂々と主張するなどということははばかられるような風潮があった。それだからかもしれないが、あえて「快楽」という補助線を引くことによって、セックスが享受される対象であることを再確認させたいという思惑が見受けられる。つまり、セックスを快楽の延長線上に置くことで、逆にセックスを自然な肉体的行為として見直し、ジェンダーを越えた共通項として捉えたいということなのだろう。セックスや性的イメージと快楽は、身体という媒介物を通してごく自然な形で交差するのだ。
快楽がこのようにセックスの表象として前景化してきたのは比較的新しいことではなかろうか。快楽が性的なイメージと結び付いて論じられることが少なくはないにしても、快楽がセックスのみに付随するものではないことはいうまでもないことだ。にもかかわらず、私たちの視線は、常にそれを同じ平面の上に重ねて見ようとする。
「快楽主義」という言葉がある。快楽を無制限に賞揚し自らの行動原理にしようという主張である。「快楽主義」を性的な快楽にアクセントを置いてその意義を論じたのが澁澤龍彦であった。フランス文学者が、あえて一般娯楽書(カッパブックス)という形態で『快楽主義の哲学』を発表したのは一九六五年であった。高度成長を謳歌し、右肩上がりで発展し続ける日本。戦後の経済成長期のまっただ中で遮二無二に働き続けるサラリーマンをあざ笑うかのように、「快楽」という言葉を前面に掲げ、「本能の赴くままに生きよ」と澁澤は本書を通してアジテーションしたのである。
澁澤龍彦といえば、マルキド・サドやシュルレアリスム、オカルティズム、あるいはジル・ド・レーやヘリオガバルスの紹介者として名を馳せた文学者である。いわゆる異端文化の研究で六○年代以降の文化に多大な影響力を持った知識人の一人だ。今でいえば、さしあたりサブカルのカリスマ的存在といったところだろう。その澁澤が「快楽主義」の核心部に置いて重要視したものが、ほかならぬセックスおよびセクシュアリティであった。
「あらゆる人間の快楽のうちで、エロチックな満足こそ、いちばん強度なものであり、かつ、いちばん根源的なものである」
澁澤は、『快楽主義の哲学』の中でわざわざ「性的快楽の研究」という一章を設けて、その重要性を提起した。セックスの快楽こそ、すべての快美感覚の中で最も圧倒的な満足感を与えてくれるもので、それは説明するまでもなく誰でもが知ってることだというのである。エロチシズム文学の傑作『悪徳の栄え』の翻訳者の面目躍如たる主張である。しかし、少し丁寧に読んでみるとわかることだが、そこでの澁澤の主眼は必ずしも単純なセックスの礼賛にあるわけではなかった。「乱交のユートピア」、「情死の美学」、「性感帯の拡大」といった扇情的なテーマが見出しに並んでいるけれども、そこに共通するものはエロスの解放だけではなかった。むしろ結論として導き出されているのは、アンチ・ヒューマニズムの思想である。随所で再三にわたってセックス、エロスを賞揚しておきながら、二十世紀の快楽主義はヒューマニズムではなく、アンチ・ヒューマニズムを志向すべきだと澁澤は結論するのである。
もっとも誤解されては困るのであえて注釈を加えておくと、ここでいわれるヒューマニズムはいわゆる一般的な意味での人間主義ではない。たぶんにピューリタニズム的な、西洋で醸成されてきた思想としてのヒューマニズムである。人間はかくあるべし、といいう理念のもとに概念化されたもので、生産、労働、進歩を第一義とする考え方だ。そうした倫理的な制約の枠内で、人間の解放が実現すると主張される。澁澤が標的としたのは、まさにそうしたヒューマニズムであった。澁澤のいう快楽の実践が、そうした人間主義と抵触することはいうまでもないだろう。セックスやエロスを謳歌することは、生産、労働、進歩という概念と真っ向から対立するからである。

快楽/禁欲の反対の一致

「快楽主義」なるものの起源をさかのぼっていくとエピクロスの哲学にいきあたる。ヘレニズムの時代、アリストテレスより少し遅れて登場してきたエピクロス学派は、ストア学派と並ぶ当時の二大潮流であったという。ゼノンやセネカを代表とするストア学派は、一般的に禁欲主義といわれるのに対して、エピクロスを開祖とするエピクロス派の思想は、快楽主義といわれる。
禁欲を旨とするストア学派と快楽を主張するエピクロス学派は一見対立しているように見える。両者は共に「自然に従って生きよ」という目的において一致しているのだが、一方は、その目的を果たすためには常に「禁欲的であれ」といい、他方は、そうであればこそ「快楽的であれ」という。
ストア学派にとって、自然に従うことは、一種の「緊張状態」を維持することである。緊張の維持のためには、常に理性的でなければならず、禁欲的に外界と接することによってのみそれが果たされるというのがストア派の主張するところである。それに対してエピクロス派は、自然に従うことは、むしろ「緊張緩和」をいうのであり、そのためには、常にリラックスしている必要があると主張する。動物や植物のように、雨風に耐えながらそうした外界の変化に自らを合わせていくこと。言い換えれば、「なるようになるさ」という生き方、これこそ緊張緩和の姿勢である。エピクロスはそれをアタラクシアという概念で呼んだ。このアタラクシアに達するために、それを求め続けることがエピクロスの言う快楽なのである。
禁欲主義と快楽主義。言葉尻だけ捉えれば正反対のように思われる二つの考え方であるが、その根にあるものは共通しているのである。どちらも自然と一体であることの意義を主張する。ストア学派とエピクロス学派は、緊張か緩和かというちがいはあるにせよ、自然に忠実であること、人間の本能や欲望に対して逆らわないというところでは一致しているのだ。
禁欲こそが最大の快楽である。そして、快楽の追求の果てにたどりつくのは、いわば欲を放棄した境地としての禁欲である。正反対の方向を目指す両者は、その究極の場面において結び付いてしまうのだ。
澁澤龍彦がセックスに快楽の本質を見いだしたのは、それが人間の本能や欲望に根差した表出行為だと考えたからであろう。しかしそれは、澁澤にとっては決して人間的な行為とは捉えられていない。むしろ一言で言えばアンチ・ヒューマン、反人間主義だという。それはなぜか。セックスの追求は、しばしば人間の限界をつきやぶり、人間を人間以上の存在にするからだというのだ。
性的な恍惚感は、時に人間を死の縁に導く。ジョルジュ・バタイユは、フロイトの考えを発展させて、性的なエネルギーが最大限噴出した瞬間、それは死と一体化したものになると考えた。澁澤も同様に、快楽において強度を持つセックスは、「小さな死」の瞬間を体現することだと考えた。バタイユの言うように「死にまで高められた欲求」こそがセックスの営みであり、快楽主義とはまさにその死への欲望を希求することにほかならないというのが澁澤の考えであった。そうであれば、ヒューマニズムが退けられるのは当然であろう。
澁澤龍彦が六○年代という時代に、あえて性的な意味での快楽という言葉に託して主張したかったことは、ヒューマニズムへの強烈な疑念であった。人間主義という衣を借りて、堂々とまかり通る資本主義という野蛮に対する一文学者のそれは抵抗であったのだろう。
「資本主義の世の中では、人間という概念は、もっぱら労働とか生産とかによってのみ規定され、ぼろぼろにすり切れて、あわれな形骸をさらして」いる。その結果、「いかに生きるか」ということばかりに一生懸命になる。私たちに今必要なのは、「いかに死ぬか」ではないか。快楽主義の徹底はやがて死という現実に直面する。しかし、それこそ人間にとっては、自然なありさまなのである。エピクロスのアタラクシアがストア派の禁欲の思想といみじくも接近するのも、自然と同一化すること、やがて来る死を普通の現象として受け入れる共通の基盤を持っているからだ。そしてこの思想は、ヒューマニズムへのラディカルなアンチテーゼとなる。なぜならば、ヒューマニズムこそ、人間を死なない機械として馴致し、身体の内部の現象である快楽から遠ざけ、目をそらせようとする当のものにほかならないからである。
快楽に対して、とりわけ日本は風当たりが強い。快楽を「悪」と見て敵視するようなところが確かに自分自身にもはっきりと認められる。その原因を儒教的な倫理観に見る識者もいる。また貝原益軒ゆずりの養生術がその起源だと主張する学者もいる。いずれにしても、まちがいなく言えることは、そうした快楽を敵視する見方は、労働することをとにかく金科玉条として捉え、遊んだり、怠けたり、さぼったりすることを戒めてきたことと軌を一にすることだ。労働に反すること、働く意欲をなくしてしまうこと、少なくともそういう意識や志向が少しでも働くようなものは、極力排されてきたのである。ヒューマニズムは、そうした志向をごく自然な形で受け入れさせるオブラートのような機能を持つ。私たちにとって何が「自然」な姿であるか。「人間として考えてみよう」とそれはささやくのである。生産、労働に従事すること、それは人間にとってアプリオリなものであって、それを疑うことはまさしく「人間」に反するというわけだ。戦後の日本にあって、快楽を謳歌することがアンチヒューマニズムに加担することになったのは以上の理由による。

快楽の科学/快楽論の諸相

私たちは、快楽を考察するにあたって、倫理的な制約から離れるために、純粋に経験科学の領域から接近することにする。特に、快楽について近年急速に進んだ脳科学からアプローチすることから始めよう。
「脳内には一○○○億もの神経細胞が詰まっている。そして神経細胞と神経細胞の間を伝達物質が通過する」「ヒトが快感、快楽、満足感に浸るとき、脳内では快感物質ドーパミンが大脳辺縁系をぐるぐるかけめぐっている」(『脳に効く快感のクスリ』)
たとえば、サッカーの日本代表の試合を観戦しに行ったとしよう。白熱した試合展開で観客はいやがおうでもヒートアップする。しかし、日本は善戦しながらも後半終了間際に痛い失点。日本は1点のビハインドのままあわやタイムアップというところで、相手のファールをさそってFKのビッグ・チャンスを得る。すでにロスタイム。このFKが命運を分けることになる。そして、キッカーは小野伸二。すべての観客の目がキックにくぎづけになったその時、右足から放たれたボールは大きな弧を描いてゴール左ポストをかすりながらネットへと吸い込まれていった。競技場は一転して巨大なカーニバル空間へと変わっていた。誰もがその奇跡の同点ゴールに酔いしれる……。
さて、この時私の頭の中はどうなっていたか。いうまでもなく、大脳皮質が大興奮状態になり、快感物質ドーパミンが脳内をぐるぐるかけまわっている状態が続いたのである。
脳をクルマにたとえるとドーパミンなどの興奮性の伝達物質はいわばアクセルのような働きをするという。この量が増加すると脳は興奮し、気分はスッキリ、明るく、意欲的になる。反対にブレーキ役の伝達物質も存在し、その代表ギャバが増えると気分は下がり、意欲もなくなる。つまり脳内の伝達物質のバランスによって、私たちの気分や感情はコントロールされているというわけだ。
脳科学は、快楽、快感などの情動について今日どのような知見を得ているのか。脳の興奮と抑制を調整する伝達物質のメカニズムについて探り、その働き、役割を考えてみよう。お尋ねしたのは、『脳に効く快感のクスリ』の著者で薬学博士の生田哲氏。生田氏は、イリノイ工科大学でDNAとたんぱく質をターゲットにドラッグデサインの研究を行ってきた。帰国後は、生命科学と脳機能のかかわりを中心に、精力的に執筆活動をされている。生田氏に、まず脳の構造を説明してもらい、そのうえで快楽というものがわれわれの脳の中でどのように発生するのかをお聞きする。
快楽は生理的(脳内)な興奮状態であることはまちがいないにしても、それが解明されたことによって快楽が説明しきれるとは言い切れないのではないか。快楽にはそれを快楽と認知させるためのコンテキスト(文脈)が必要である。とりわけ人間にとっては、そのコンテキストは重要だ。たとえば、最近話題になることの多い「ハマる」行動は、まさに快楽などの情動がコンテキストと深いかかわりを持っているところに原因があるらしい。
実験動物中央研究所、理化学研究所を経て、今年専修大学教授となった廣中直行氏は、快楽とアディクションのかかわりを研究する過程で、快楽がコンテキストに依存することに注目する。そしてアディクションよりも、快楽は渇望(craving)という概念として捉える方が正確ではないかと提起されている。渇望は、脳内物質の働きと認知機能を結び付ける新たなキー概念となりうる可能性をはらんでいる。この渇望を手掛かりにしながら、快楽、そして人間が「ハマる」謎についてお聞きする。
喜怒哀楽などの情動、また快感/不快感、好き/嫌いといった感情は、広く心の働きだと考えられている。では、「心」とは何か、それはいったいどこにあるのかという疑問を前にすると、とたんに答えに窮してしまう。「心」の問題は難問中の難問である。私たちの「心」のすべては、脳のニューロンの発火に伴って起こる「脳内現象」にすぎない。脳科学の現時点での最大の成果は、「心」のありかを明らかにしたことだ。しかし、それは「心」がなぜ喜怒哀楽や好き/嫌いを生み出すかという疑問に対しては、いまだに回答を持ちえないでいる。ニューロンの発火という事実は脳を経験科学の対象にしえた重要な発見ではあったが、それ以上の意味はない。今後脳科学が発展するには、「心」の究明が急務である。だが、そのためにはこれまでの脳科学の成果を白紙に戻す必要がありそうだ。
このいささかラディカルすぎる発言を当の脳科学の分野で言い続けているのがソニーコンピュータサイエンス研究所リサーチャー・茂木健一郎氏である。茂木氏は、脳科学の現状を冷静に見ながら、それが機能万能主義に陥っていることを危惧する。茂木氏は、それを打破する手掛かりとして「クオリア」という概念を提起している。「クオリア」とは脳が感じていることのすべてをあらわす概念だという。「心」を説明する「クオリア」の理論から、脳と情動、感情のかかわりを茂木健一郎氏にお聞きする。
二○世紀は「快楽」の世紀だった。おそらく、数百年後のひとびとはそう回想するにちがいない。われわれは働くために生きるのではなく、快楽のために生きている。こう言い切るのは関西大学文学部教授・植島啓司氏である。植島氏は、たばこ、酒、ギャンブル、セックスが個人の嗜好に属するかぎり何人もそれを管理できないと強調する。自らも、ギャンブラーとして競馬やカジノに足しげく通いながら、快楽を実践・追求する植島氏に、ここでは視点を変えて、快楽の文化、そのさまざまな様態についてお尋ねする。
快楽は「心」がつくり出すものである。脳科学の最新理論は、その「心」が脳の中にあることを明らかにした。では改めて問うが、快楽は「心」のどこにあるのだろうか。
フロイトの精神分析理論は、快楽が「心」のどこから生まれてくるのか、その解明のために考え出されたものだともいえる。フロイトにとって、快楽こそ最も重要なテーマであり、その解明にフロイトは生涯を捧げたといっても、決して言いすぎではないのである。フロイトは、快楽を求めることは、いのちを持つことと同じことだと考えた。それほど快楽は、人間にとってなくてはならないものなのだ。フロイトのこの考えをさらに深め、主体と生命のかかわりに切り込んでいったのがジャック・ラカンである。快楽の解明は、精神分析理論というフィルターを通して、ついに主体と他者、主体と世界という哲学的な課題へと接ぎ木されていくのである。快楽と生命、快楽と人間のかかわりについて、最後に京都大学大学院人間・環境学研究科教授・新宮一成氏にお聞きする。
(佐藤真)

 

editor's note[after]


快楽、身体の不確実性への投企

物理的現象としての快楽

快楽それ自体は罪悪どころか、生きていくうえできわめて重要な役割を持っていて、人間にはなくてはならないものである。植島啓司氏が強調するようにそれを「悪」だとか「よくないもの」だとか「軽べつ」の対象とする考え方は、歪んだ倫理観から生まれたものにすぎない。とりわけ日本はその倫理観が強く働いている社会である。二十世紀が快楽の世紀だったとしたら、私たちの社会は大きく遅れをとってしまったことになる。快楽をポジティヴなものとして捉えるところから始めなければならない。
植島氏のインタビューは、今号の結論ともいえるものになった。あえて順番を変えて冒頭に植島氏の言葉を紹介したのは、そういう理由からだ。社会的存在としての人間にとって、快楽は強い倫理的制約を受ける。「快」はともかくとしても、そこに「楽」がついて「快楽」となると、厳しい制限を受けることになる。しかし、人間を生命として捉え直していれば、事情は異なる。ほかの四人のインタビューからもわかるように、生き物にとって快楽は、生きていくうえでなくてはならない重要なものなのだ。
「快楽」の重要さは、経験科学からも実証され始めている。今日の脳科学は、快楽と生命現象の深いつながりを裏づけるような事実を発見した。生田哲氏のインタビューから紹介しよう。
快楽は、人間にとってエンジンのような存在である。生きていくためにはなくてはならないものだ。しかし、エンジンがそうであるように、時にそれは暴走することもある。それをコントロールするのが大脳皮質の役割であり、人間はそのコントロール装置としての大脳皮質を発達させることで、快楽をうまく操れるようになった生き物である。快楽それ自体を否定するのはまったくの誤りである。むしろそれをうまく操縦して、楽しく生きることが私たち人間の目的でもある。生田氏は、快楽の持つ生物学的意味に触れながら、その積極的な活用を説く。快楽を追求して、大いに享受してこそ人間だというのである。生田氏がそう言い切るのも、快楽が経験科学的な分析によって十分に証明できるような現象だからだ。快楽は脳が生み出し、脳の内部で完結する物理的な現象である。
脳内現象としての快楽発生の機序は、脳科学の飛躍的発展によって急速に明らかになった。特に神経伝達の過程で電気シグナルがシナプスというすき間を伝わる時に、化学シグナルである脳内伝達物質によって行われることがわかった意味は大きい。神経の網状組織である脳内を電気シグナルのみに頼って伝わるとすれば、情報はまたたくまに均質化してしまうだろう。そこで、神経線維に「節」を設けてすき間を空け、電気シグナルをいったん化学シグナルに変えて伝わるようにする。その化学シグナルにバリエーションを持たすことによって、情報の種類を分けてこまかく分配するのである。
神経細胞とシナプスの関係は鉄道と荷物に喩えることができるだろう。神経細胞が鉄道の線路だとすれば、シナプスはそうした線路を分断する海のような存在だ。物流はそこで鉄道から船に変わる。そう捉えるとわかりやすいかもしれない。鉄道によって運ばれてきたさまざまな荷物は、いったん港で荷分けされる。種類別や用途別に分けられた荷物は、別々の貨物船に乗せられて出港する。海には別の鉄道から運ばれてきた貨物船も運行している。対岸に着いた貨物船から荷物は下ろされる。別の鉄道から運ばれてきた荷物などとまとめられながら再び貨車に積み込まれて、次の港に運ばれる。このように次々に分けられたりまとめられたりしながら鉄道と船を交互に使って荷物=情報は運ばれていく。
もちろん実際の神経回路網(ニューロン)はこんなに単純ではないが、電気シグナルが化学シグナルに変換されて伝わっていく様子はこんなイメージだと思われる。いずれにしても重要なことは、脳内伝達物質がかかわることで情報にさまざまな脚色が施されることだ。私たちの心の状態、精神状態はニューロンの情報の内容によって大きく作用される。それは、これらの脳内伝達物質の種類や量のちがいによるものである。そして、私たちのテーマである快楽、快感の発生もまさにこれらの脳内伝達物質の作用が深くかかわっているのだ。
脳内伝達物質には百種類以上あるというが、その中で精神を興奮させるものが、ノルアドレナリンやドーパミン、セロトニンである。神経細胞はシナプスでこれらの物質を受け取ると興奮状態になる。あたかもアクセルを踏みすぎたような状態がこれだ。反対にセロトニンが不足したり、ギャバを神経細胞が受け取ると精神は抑制される。これらはいわばブレーキにあたる。ギャバのような抑制性の伝達物質を大量に受け取るとブレーキがかかりすぎて気分は重くなる。
私たちが通常「平常心」でいられるのは、興奮性の脳内物質と抑制性の脳内物質がちょうどいいくらいに保たれているからである。言い換えれば、脳内物質がバランスしている状態を「平常心」と呼んでいるのである。脳内物質が過剰になったり少なすぎたりすると、精神はとたんに不安定な状態になる。
興奮性の脳内物質の中で、とりわけ「快」に働き掛けるのがドーパミンだ。「気持ちいい」と感じたり、「心地よく」感じたり、「満足した」と感じている時、神経細胞はドーパミンをたくさん受け取っているのである。生田氏によれば、こうした状態がすなわち快楽であり、それは「快感サーキット」をドーパミンがぐるぐる回っているからだという。脳科学では、主に報酬回路と呼ばれているが、生田氏は人間の場合快感や快楽が目的化されているので、その積極的な意味を強調して「快感サーキット」と名付けた。
快感や満足感の基本となるものは、食やセックスや睡眠である。これらは、人間が生きていくうえでなくてはならないものである。つまり「快感サーキット」をドーパミンがぐるぐる回っている状態は、人間にとって特別な状態ではなくて、きわめて当たり前のことにすぎない。むしろそれを得るために行う行動は、人をして幸福にさせるというのだ。快楽を何か悪いもののように見る考え方を、生田氏はきっぱりと否定する。ただ、そうした「内なる幸福」に対して、クスリなどによって得られる「外からの幸福」は「快感ドロボー」と呼び、それを安易に利用すると厳しい生物学的処罰を受けると警告する。
美味しいものを食べたり、好きな人と抱きあったり、昼日中までぐっすり眠ることは、人間の基本的な欲求である。罪悪どころか経験科学的に見てもその必要性は明らかだ。それが何か後ろめたいものと感じるとすれば、それは心理面の問題というよりは、社会の問題である。私たちが生きている社会が、それを悪いものとして規定しようとしているにすぎないのかもしれない。

情動系の暴走も人間の本性

動物がエサと同じように薬物を欲しがるようになるというショッキングな発見。スキナーの実験が示した「強化効果」が薬物にも適応するというこの発見は、今日の脳科学の発展を考えるとまさにエポックメイキングともいえる出来事だった。しかし、一九六○年代当時、その実験結果の重大さについて気がつく者は少なかったという。つまりそれが何を意味するのか、まだ見当さえつかなかったからである。
生田氏が取り上げた脳内伝達物質の発見は、神経細胞の構造が明らかになってきた段階で、シナプスで起こっていることが電気シグナルの伝達ではないということがわかったことによるものだった。そこでは化学的なやりとりが行われていたのである。そうであれば、必ずそこには情報を伝達するなんらかの物質が存在するはずだと予測することはごく自然なことだろう。そしてその仮説は見事に的中し、今では百種類以上の脳内伝達物質が発見されるに至ったというわけである。
廣中直行氏が述べている動物実験による「強化効果」の発見は、そうした脳内伝達物質の発見とは直接かかわりなく行われていたようだ。心理学のオペラント条件づけという行動実験を動物に適応したところが、エサだけではなくクスリの投与でも同じ結果が出てしまったのである。それまでは、麻薬中毒のようにクスリに「ハマる」のは、人間だけだと思われていたのが、じつはサルやラットでも、条件次第で同じようにクスリにハマってしまうことがわかったのだ。麻薬に溺れるのは意志の弱さによるものだという説がある。要するに心理面における脆弱さからつい麻薬に手を出してしまうというものである。この実験はこうした俗説が誤りであることを暴き出した。つまり、脳の中には、覚醒剤に似たような物質があって、それが放出されると、人間も動物も変わりなくハマってしまうというわけである。
さらに別の実験から、もう一つ大発見が生まれた。ラットが電気刺激でもハマってしまったのである。インタビューでも言われているように、これはたまたま電極の位置がはずれたために起こった偶然の産物ではあったが、ともかく、電気刺激によっても「強化効果」が起こることが明らかになったのである。このことは、脳の内部に「強化効果」を起こす場所があるということを示す。腹側被蓋野から側坐核に向かっている内側前脳束である。生田氏が「快感サーキット」と呼んだ報酬回路のことだ。そして、そこで電気刺激に反応したのは、ドーパミンを放出するドーパミン神経であった。
生田氏の話の主役はあくまでも脳内の伝達物質であり、それが「快感サーキット」を駆け回ることによって快楽は生まれるというものであった。一方、廣中氏によれば、ドーパミン神経をクスリを与えたり電気で刺激すると、人間やサル、ラットは一応に「ハマる」現象が見られる。つまり、人間だけではなくほかの動物も快感を感じることがあり、その意味では快感、快楽がこれまで考えられていたような心理的、哲学的概念ではないことがわかった。と同時に、そうした快感、快楽が、薬物や電気といった直接的な方法で脳に刺激を与えても起こりうることだということも明らかになったのである。
生田氏と廣中氏のインタビューは、ここで重なり合う。快感、快楽は、百パーセント脳内の出来事であるけれども、それが物理的現象である以上その物質を操作することによって、快感、快楽を人為的につくり出すことも不可能ではないということだ。ドーパミンという脳内伝達物質をコントロールすれば、私たちは快感、快楽を手に入れることができる。生田氏の言う「外からの幸福」は、廣中氏の話で言えばラットの電気刺激にあたるのである。
しかし、問題はその後である。注目したいのは、快感や快楽が脳内伝達物質の物理現象であるという点ではお二人の考えは共通しているにもかかわらず、そこから導き出される結論がまったく異なるからだ。繰り返すまでもなく、生田氏は、だから快感、快楽を得るために(それが幸福や喜びである以上)「快感サーキット」を大いに活性化させようと言う。そのためには、ドーパミンを放出させることが大切で、達成感や満足感を得るためにする努力がそれを可能にすると説く。
一方、廣中氏は、外部からの刺激がドーパミンを放出させ、快感、快楽を動物たちも得ているように(外部からは)観察できる。しかし、それは動物にとってほんとうに快感、快楽なのかどうか、はっきり言ってわからないと言うのである。外部刺激によって確実に情動は変化するが、果たしてそれが快/不快を表現しているとは言い切れないというのだ。しかもそれは動物だけでなく、人間においてもあてはまる。つまり、出力した表情(快感、快楽)と主観的経験が一致しているとは単純には言い切れないからである。そして、さらに驚くことに、廣中氏は次のようにも言う。快/不快は一種のラベリングで決まる。つまり、コンテキストに依存するというのである。自分の脳が感じているはずの快/不快は、周囲の状況によってつくり出されていて、本当のところはその正体すら自分ではわかっていないのかもしれない。何かにハマってしまうのは、情動系が暴走することであるが、それも人間の本性の一つである。アクセルやブレーキの効かないクルマもまた、十分に人間だというわけだ。廣中氏は、そこで「渇望」というキーワードを出す。生き物が「ハマる」のは、快感、快楽を得ている最中を言うというよりは、それをまさに「渇望」している状態を示しているのではないか。だとすれば、ドーパミンが放出している状態をもって快感、快楽と考えることは事態をあまりにも単純化しすぎている。そこではもっと複雑なことが起こっている可能性がある。今後の研究課題は、情動および認知のシステムがどうかかわっているかという究明にあるだろうと結論する。

「私」の快楽は、どこにあるか

渇望が、脳の設計図を書き換えている可能性も否定できない。ハマった人の脳は、ハマる前の脳と異なるとしたら、それは自分というものが変わってしまったことを示しているともいえる。自分のからだの中で起こってることをじつは当の本人もよくわかっていない。情動と認知のシステムが別々に働いていることによって、私たちは自分の情動がどういう形で表現されているのか、時にわからなくなり混乱すら感じる場合がある。
このことは、茂木健一郎氏の「クオリア」の概念に重ね合わせて見ると、より明確になるだろう。脳科学がニューロンの発火という事実に基づいて、どのように脳内現象を記述したとしても、それは「私」の頭の内部にある「心」の状態を説明したことにはならないという発言は、まさにこのことを言っているからだ。
脳の中に「クオリア」は確実に存在するし、それがあるから私たちは外部世界のありようを認識することができるわけだが、それが今、「私」が確実に感じているはずのものと一致しているかどうかとなると、まったく定かではないのである。茂木氏が強調するように、主観的体験こそ「心」が感じているありのままの姿だ。だが、それは脳科学が解明した認知のシステム、認識のメカニズムからは、どんなに考えても出てこないものでもある。今の脳科学の水準は、せいぜいそれが「クオリア」であるということしかわからない。情動と認知のシステムのクロストークの解明は、まさに脳科学をブレークスルーするためにはどうしても越えなければならないハードルだといえるだろう。
新宮一成氏は、フロイトの「快」原理に事寄せて、「平衡状態」の「快」と共に、言語の万能としての「快」があると述べた。「平衡状態」としての「快」は、ホメオスタシスと同義であるとみればわかりやすい。食欲も性欲も、その基本は生命の維持にあるのだから、その状態を可能なかぎり長引かせようとすることは自然なことであろうし、そのためにはできるだけ緊張を緩和する必要があるという理由も納得できる。アタラクシアこそ快楽の原則だとするエピクロスの考えはフロイトの思想に生き続けていて、今でも十分な説得力を持つ。しかし、言語の万能としての「快」となると容易には理解しにくい。緊張緩和どころか、反対に極度の緊張状態をも自らに強いることにもなるかもしれないのだから。どうしてそれが快感、快楽につながるというのだろうか。
ここに現れるのが「他者」という存在である。「他者」は常に私たちを脅かす存在として登場する。フロイトは夢の分析を通して、人間の「快」原理が言語と一体化していることを突き止めた。その最もわかりやすい例が、夢を見るということである。夢の中では、主体と言語はもはや切り離すことができないくらい深く融合しあっている。夢は言語となり、言語は夢となる。しかし、それは一方で、主体というもののありようをあいまいにしてしまうことにもつながる。夢の中で私たちは、「私」の存在を見失うことがしばしばある。夢の中で「私」と名のる「私」は、確実に「私」自身によって夢見られた存在だ。だから、もしも「私」がその夢の外へと出たいとすれば、まず夢からさめる必要がある。ところが、夢から覚めてしまえば、もうそこには夢の中にいた「私」はいなくなってしまう。そこにいるのは、夢を見ていたことを知っている「私」がいるにすぎない。
この構造は、新宮氏が主体と言語世界の二重構造として提示したものと同形であろう。言語によって構成された世界から出るためには、私たちは言語を使用せざるをえない。それは、私たちを再び言語世界に引き戻すことでもある。新宮氏が指摘するように、それは輪廻の関係を彷彿させる。
夢と「私」の関係も輪廻の関係として現れるが、その関係にくさびを入れるのが、ほかならぬ他者なのだ。言語と人間の関係が輪廻的である時、真理を保証する手だてを失う。「クラコビーとレンベルグ」の小話は、私たちが日常生活で取り結んでいる主体と言語の関係をみごとに暴き出した。どんなに自分の中にあるものが真理だとみえても、それは自分以外の人間にとってはまったく真理ではないのである。自分が仮にうそをついたとしても、そのうそが生涯誰にもバレなかったとすれば果たしてそれをうそといっていいのだろうか。当然逆もありうる。えん罪のように、無罪の人間がそれを証明する手段を奪われた時、真理は真理を証明することができない。とすれば、それは果たして真理なのか。「他者」の存在は、自分の真理、すなわち信念や確信を暴く存在として出現する。それゆえ不気味な存在ではあるが、他者がいることによって、逆説的にその真理が真理として保証される空間が確保される。主体の中で完結している真理を、疑うことによって主体ともども白日の下にさらけ出す。そのことによって逆に真理を保証する空間を見いだすのである。
フロイトの「快」原理のもう一つの役割は、この言語に覆いをかぶせることではないかと新宮氏は言う。「平衡状態」が言語を消滅させるいわば沈黙へ向かう「快」であるとすれば、言語の万能は、言語によって埋め尽くす「快」である。他者という不気味な存在が現れる世界をも覆い尽くしてしまうような「快」。新宮氏は、このもう一つの「快」が今後の研究課題であると言う。私たちもそれ以上のことはわからない。ただ、それは廣中氏が仮説的に述べた渇望のしくみとなんらかの関係があるようにも思われる。快感や快楽が、本質的にパラドキシカルなものをはらんでいる以上、両者を関係づけて考えることはあながちまちがいではなかろう。おそらく、そういう視点から考え直してみると、快感や快楽は私たちが考えているよりはるかに複雑なシステムとして立ち現れてくるはずだ。
植島啓司氏は、もう一つ重要なことは、快楽の本質がある種不確実性を受け入れることにあると言っている。快楽がからだの中ので出来事であることは十二分に了解できても、その正体を本当は私たちは知らないのかもしれない。しかし、それこそが快楽というものの実体なのではないだろうか。私たちは、そのわけのわからなさに向かって自らを投企していく。リスクをすすんで引き受けつつ、その得体のしれなさにむかってジャンプすること。それはまた植島氏がいうように、不気味な存在としての他者に、自らを委ねてしまうことでもある。

未知なるものへ向かって身を投じていくことは、じつは生命というものの大きな特徴なのだ。不確実な時間性を一回一回取り込みながら、常に偶有的な世界へと突き進んでいくものが、生命である。社会的存在としての個人の倫理性と生命現象に乖離していた快楽を、切り離して論じてはならない。むしろ、両者を同一のものとして考えることが必要なのだ。快楽は「いのち」の本質へ私たちを導く未知の扉だとすれば、私たちは勇気をもってその扉を開くべきではなかろうか。
(佐藤真)

 
   editor's note[before]
 


快楽とは何か

『快楽のいざない』ジャン・スネル たばこ総合研究センター訳 
山愛書院 1999
『ストレスと快楽』D・W・ウォーバートン、ほか編著 上里一郎監訳 
金剛出版 1999
『快楽は悪か』植島啓司 朝日文庫 1999
『快楽主義の哲学』澁澤龍彦 文春文庫 1996

快楽と脳内伝達物質

『脳に効く快楽のクスリ』生田哲 講談社α文庫 2000
『脳と心をあやつる物質』生田哲 講談社ブルーバックス 1999
『快楽する脳』大島清 勁文社 1998
『快楽物質エンドルフィン』J・デイビス 安田宏訳 青土社 1997
『快楽進化論』大島清 角川書店 1994
『脳と性欲』大島清 共立出版 1989

アデクション、渇望

『人はなぜハマるのか』廣中直行 岩波科学ライブラリー 2001
『薬ミシュラン』相田くひをほか 太田出版 2001
『快楽』梶原千遠 文芸春秋 2001
『依存症』信田さよ子 文春新書 2000
『薬物依存研究の最前線』加藤信・鈴木勉ほか編著 
星和書店 1999
『アディクションアプローチ』信田さよ子 医学書院 1999
『依存症溺れる心の不思議』白川教人・長尾博司 
河出書房新社 1999
『依存症(アディクション)』なだいなだほか編著 中央法規出 1998
『アルコホリズムの社会学』野口裕二 日本評論社 1996
『アディクション』アルコール問題全国市民協会編 
アスクヒューマンケア 1995

脳、心、クオリア

『脳と心の正体』平野丈夫 東京化学同人 2001
『脳と心の地形図』R・カーター 藤井留美訳 原書房 1999
『心が脳を感じるとき』茂木健一郎 講談社 1999
『生きて死ぬ私』茂木健一郎 徳間書店、1998
『脳とクオリア』茂木健一郎 日経サイエンス社 1997 
『脳と心の進化論』沢口俊之 日本評論社 1996
『脳と心を考える』伊藤正男 紀伊国屋書店 1993

快楽、精神分析、転移

『精神分析入門』 1.2 フロイト 懸田克躬訳 
中公クラシックス 2001
『精神分析の四基本概念』J=A・ミレール編 
小出浩之・新宮一成ほか訳 岩波書店 2000
『夢分析』新宮一成 岩波新書 2000
『無意識の組曲』新宮一成 岩波書店 1997
『快楽の転移』S・ジジェク 青土社 1996
『ラカンの精神分析』新宮一成 講談社新書 1995

養生訓の身体論

『「健康」の日本史』北澤一利 平凡社新書 2000
『身体/生命』市野川容孝 岩波書店 2000
『週間朝日百科日本の歴史97』朝日新聞社編 
朝日新聞社 1988
『性の歴史』 1.2.3 M・フーコー 田村俶、渡辺守章訳 
新潮社 1986

セックスの快/不快

『快楽であたしたちはできている』安彦麻理絵 光文社 2000
『快感のいらない女たち』酒井あゆみ 講談社 2000
『オデッサの誘惑』植島啓司 集英社 2000
『快楽電流』藤本由香里 河出書房新社 1999
『快感をたくらむ女たち』コスモポリタン編集部編 集英社 1998
『快楽の技術』斎藤綾子・伏見憲明 河出文庫 1997
『快楽身体の未来形』秋田昌美 青弓社 1993<