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リスク社会と「常識」の有効性

リスク論のフレームワーク

リスク学は、リスクの調査、分析、研究をするだけではなく、リスクから身を守り、リスクを最小限度に抑えるための戦略、方策を勘案するものであり、その意味では実践的かつ応用的な科学である。したがって、リスク学は、リスクの軽減、未然防止、回避・避難、補償などの対応策を構想し、評価するいわゆるリスク・マネジメントにその重点が置かれることになる。
リスク・マネジメントの指標となるものがリスク評価である。リスク評価の方法には、定量的評価、疫学的評価、動物実験を基礎にした評価、生物学的モニタリング評価があり、主に健康リスクの評価に応用され発展してきた。そこでは、論理の合理性とそれを実証する追試が必要であり、その実験結果を補うに十分なデータの蓄積が求められる。リスク学とは、その対象がどんなに不確実なものであっても、科学的であることをまず第一とするのである。そこで重要になってくるのが、リスク評価の正確な伝え方だ。単にリスクについての情報だけではなく、リスク回避を最終的な目的とするリスク評価が、的確に伝達される必要がある。これをリスク学では、リスク・コミュニケーションと呼んでいる。
リスク情報が開示され多くの合意を得るためには、利害関係や政治・権力構造の影響を受けることなく、リスク評価を共有し、情報交換と意見調整がなされなければならない。リスク評価をもとにしたこの相互作用過程、リスク・コミュニケーションがいかに障害なくスムーズに行われるか、リスク・マネジメントにとっては必須課題である。だが、今日発生しているリスク評価を巡る当事者間の齟齬の多くは、このリスク・コミュニケーションに起因しているのも事実なのだ。

専門家対市民という対立の構図を越えて

現代のリスク論は新しい学問の方向づけを示唆しているように見えて、じつは科学者や科学行政のための知的な道具になり下がってはいないか。旧態依然としたパターナリズムから、現代のリスク論はまだ一歩も出ていない。金森修氏は、初っ端からリスク論に対して厳しい評価を下した。
金森氏が問題にするのは、現代の技術がもたらす特殊な危険性に対して産業サイドと市民サイドが対立している場面で、中立さを根拠づけるために持ち出されるリスク論が、産業サイドに有利に働く場合が少なくないということなのだ。一般的に、科学とは実証的なデータの積み重ねによって得られる客観的知見と理解するとして、その客観性が必ずしも中立的であるとは限らず、ある特定の立場に有利に働く場合があるということを金森氏は懸念するのである。
金森氏は、インタビューでリスク論について主に三つの点について言及している。簡単に整理してみよう。一つは、顕示選好論と表現選好論、二つ目は、リスク&ベネフィット・アナリシス(もしくはコスト&ベネフィット・アナリシス)、三つ目は、功利主義である。最初の顕示選好論と表現選好論は、リスクを客観的に定量化する試みであり、また、同様にその受容可能さを定量化することによって制御可能なものにしうる方法をいう。二つ目のリスク&ベネフィット・アナリシスも、定量化という意味ではほぼ同じ考え方で、リスクの受容をベネフィットとの関係から数量的に把握するというものである。三つ目の功利主義は、前者二つに共通する定量化という方法が、個人の便益に先んじて社会の便益を優先させることに、より重点が置かれていることを指摘している。
たとえば、リスクの定量化に関しては、よく知られているものに生涯発がんリスク10のマイナス6乗〜10のマイナス5乗というのがある。今日の社会経済状況の下では、発がんリスクゼロ、つまり暴露ゼロということはありえないとしたうえで、発がん物質に対してどの程度なら許容することができるかということを数値で示したものだ。10のマイナス6乗という数値は、一生の間に一○○万人中一人ががんになるようなリスクであり、10のマイナス5乗とは、一○万人中一人ががんになるリスクのことである。
では、この数値はどのように算出されたのであろうか。中西準子氏が『環境リスク論』で述べているので紹介しておきたい。1、まず主に動物実験で暴露量(経口、経皮、吸入などの経路により体内に入る化学物質の総量)と発がん率との関係を求める。動物実験が可能な範囲は、発がん率が10のマイナス1乗(10分の1)程度の高暴露で、この結果を基にして、2、低暴露での暴露量と発がん率との関係を推定する。そしてある化学物質を使った時の暴露量、その影響を受ける人の数を推定、または実測し、2で求めた結果を使い、個人の受けるリスクの大きさ(発がん率)、集団としてのリスクの大きさ(がんにかかる人の数)を求める。10のマイナス6乗という数値は、アメリカの規制当局(環境保護庁、食品医薬局、労働安全健康局など)が出したもので、どの程度の妥当性があるかについてはあえて問わないと断りながらも、中西氏は今の科学の水準(一九九五年)ではこれ以上は正確にできないと述べている。
もう一つ、リスク&ベネフィットに関してチョンシー・スターが出している結論も紹介しておこう。スターはいくつかの行動とそれに伴うリスクと比較して次のような結論に達したという。すなわち、リスクの受容はほぼベネフィットの三乗に比例する。仮にベネフィットが二倍になれば八倍のリスクが受容され、ベネフィットが三倍になれば二七倍になる。つまり、ベネフィットが増大すれば、リスク受容は急激に高まるというのである。また、自発的なリスクの受容は、非自発的なリスクの受容の一○○○倍であるともいう。たとえば、スキーをするという自発的なリスクは、食品防腐剤の入った食品をとるといった非自発的なリスクの一○○○倍あっても、それは受容されるというのである。
リスク論は、最初に述べたように実践的かつ応用的科学である以上、リスク評価がその鍵を握っている。そのためには、リスク評価の精度を上げることが当面の目標となるのは当然といえば当然のことだ。しかし、評価の向上が単なる数値の精度を上げることだけに向かっているとすれば、それは本末転倒であると見られてもしかたがないであろう。金森氏が疑念を持つのは、まさにそこのところだ。数値の持つ科学性をどれだけ練り上げていったところで、いったいそれが誰のために役に立つのかということなのである。
生涯発がんリスクが10のマイナス6乗〜10のマイナス5乗ということは、指標としては必要であるし、その数値があるからこそリスク・マネジメントは可能になる。自発的なリスクか非自発的なリスクか、とりあえずその割合を量によって比較できることは悪くはないだろう。ただ、その数値がいったい誰に利益をもたらし、誰の利益を奪うことになるのか、そのことを考えに入れずに議論をしたところで、それは単なる数字以上の意味はない。むしろ重要なのは、数値の精度よりも、数値の公共性ではないか。金森氏は、そこで公共性という視点に立ったうえで、判断の健全さが大事だと提言する。
公共性というものは、「公」/「私」の使い分けからもわかるように、日本ではやや特殊なニュアンスを持って理解されている概念である。単純に市民サイドの利益を反映するものとして理解すると誤ってしまう恐れがある。この議論は、山岸俊男氏のインタビューともかかわることなので後に譲るとして、ここでは字義どおり市民の自発的言説と理解したうえで、金森氏がそれをむしろ普通の人が持っている「常識」に接続させているところに注目したい。
「常識」という言葉は、これまでどちらかというと保守的な要素を持った言葉として受け取られていた面が強かったように思われる。しかし、金森氏はそれが多様な意見の中で議論され、練り上げられてきた安定点だという。つまり、さまざまな意見の揺れ動きの中からしだいに共通する考えへ向かう中で形成されていくのが「常識」だというのである。その意味で決して保守的なものではなく、むしろ当初から力動性を内在した概念だともいえるというのだ。
専門家と一般市民という対立関係を立てて、どちらがより多くの情報を持ち、どちらの判断力が正しいかを競うといったステロタイプな議論は、安易なパターナリズムに陥る危険性をはらんでいる。それは市民サイドにも甘えという形で同様の危険性をもたらす。この安直な構図を抜け出すためには、「常識」が手掛かりになるというのである。じつは、専門家といえども、同じものを食べて同じ暮らしをしているという意味では、一般市民と変わるところはない。しかも、未来に起こることに対しての予測となると、専門家の認識も一般市民の認識もほとんど変わりがない。だとすればある種の直観、つまり、生活の中で培われてきた経験や認識に基づく判断の方が有効なのではないか、というのが金森氏の意見である。ある時間を経て得られる経験や認識には、個人を越えて無数の他者の経験や施策が入り込んでいる。さまざまな人間たちの履歴が書き込まれている。それゆえ、「常識」にはそれなりの重みがあるというわけだ。リスク論が誰に利益をもたらすのか、「常識」という観点からもう一度捉え直してみるということは確かに必要なことかもしれない。それは、同時にリスク論の限界を明確にすることにもつながってくる。

リスクを積極的にとる社会は本当にいい社会なのか

日本社会は、今後、まちがいなくリスクをとる社会に変わっていくだろう。私たちは、常にリスクと向き合いながら、その緊張関係の中で生きていくことが強いられるようになる。それはもはや不可避なことではあるが、しかし、だからといってそうした社会が私たちに幸福をもたらすとは限らない。いやむしろ、一寸先は闇だと覚悟しながら生きていくことは、これまで以上に多くの苦悩を抱えることになるだろう。
暗黙の内に認め合っていた「安心」の構造が、今、急速に崩壊しつつある。戦後の繁栄の拠り所となっていた二つの柱、年功序列制と終身雇用制が崩れることは、日本社会のたがが外れることを意味するのだ。それは、私たちが想像する以上の影響をもたらしはじめている。
たとえば、先ほど出た公共性という概念は、ヨーロッパの近代社会では一般的に明確な定義付けがなされていた。ハバーマスの「公共性の構造転換」が端的に示しているように、それは市民社会を源泉とする文字どおり自発的で一定程度の自由度を持った言説の場として認知されている。ある意味で絶対的な関係性として公共性は保たれているのである。けれども、日本の場合公共性という概念はきわめてあいまいなものとして捉えられてきた。「公」と「私」の関係を例にしてみるだけでも容易にわかることだ。日本において公共性を考える場合、それは「公」ということになるが、「公」と「私」の関係は、ヨーロッパのように絶対的な関係では捉えられていなくて、常に相対的である。簡単に言うと、「公」/「私」は、入れ子的な関係で連続しているといえる。
たとえば、企業組織で見てみると、会社と社員は「公」/「私」の関係である。しかし、取引先との関係でいうと、わが社が「私」になり取引先は「公」になる。一方、業界という観点から見ると、その企業が所属している業界が「私」になり、それ以外の業界は「公」となる。ところが、国際化の取引となると、日本が「私」になり、諸外国は「公」となる。では、個人の場合はどうだろうか。自分が勤める企業は「公」であり、自分の家族は「私」となる。この関係をごっちゃにすると公私混同と見なされ非難を浴びることになる。このように挙げ出したらきりがないが、要するに「公」/「私」は場面場面で揺れ動くのである。正確にいえば、常によりメタレベルなものが「公」になり、それとの対比で「私」が規定されるという構造になっているのだ。
リスクを積極的にとること、山岸俊男氏の言葉で言えば「腹を括る」ことは、こうした「公」/「私」の相対化がもはや通じなくなることを意味している。あいまいに入れ子的に変化する「公」/「私」の関係が維持されている限り、「腹を括る」ことにそれほど強い意義は見いだせない。しかし、「公」/「私」の関係がはっきりしていて大きく変わらない場合には、腹を括らなければならない場面が常に出てくる。もとより、日本社会に特徴的な「公」/「私」の関係が崩れていくことを嘆いているわけではない。山岸氏が「安心社会」からの離脱を嘆いていないのと同じ理由で、筆者も日本的な慣習が崩れていくことを不可避とする「信頼社会」の到来を当然のものと考える。ただ、そうした社会が私たちを生きやすくするかどうかとは別だということである。
ところで、山岸氏の発言の中でクォーター・システムについて触れているが、これはリスクの議論にとっても非常に重要な観点だと思われる。たまごが先か鶏が先か、こうした循環構造は社会システムのさまざまな箇所に現れる。差別の場面のほかにもジェンダーを考える時や経済を考える時、あるいは意識や身体というものを問題にする時にもこの関係が表出する。自己参入とか自己相似ともいわれるもので、この関係は自らが外に出る以外に解決のしようがないものなのだが、原理的にそれはできないようになっている。リスク論では、リスク論という立論を打ち立てた瞬間にもうリスクゼロということはありえない構造になり、それはリスク論の立論に入ることを意味する。言い換えれば、リスク論がリスクをつくり出しているというわけだ。こうした循環の構造を断ち切るためには、循環の構造それ自体を循環の構造としてそのまま提起する以外にない。差別をなくすためには差別をなくすことが最も有効なのである。差別がなぜいけないか。それはそれが差別だからであり、差別をなくすためには差別をなくす以外の方法はない。つまり、差別をなくすという実行が唯一差別をなくすことであり、それは差別という現実を変えてしまうことである。
こうした同義反復的な構造は、次に述べる健康リスクにじつは典型的に見られることでもある。

「私」の健康と「社会」の健康

健康リスクという言葉はきわめて振幅の大きい言葉である。とはいえ、はっきりしていることは、リスクは健康を脅かすものだという共通の認識である。健康を脅かし続けるリスクという観念。健康とリスクはこの一点において結合する。しかも、やっかいなことに、自らのからだを容器にして両者は堅く結び付いてしまっているのだ。本来は、別の表情を持つはずの個人と社会が、身体では離れがたく組み合っている。健康リスクを考察するために、リスクそれ自体を成り立たせているパラダイムへと下降する必要があると考えたのは、リスクを形づけているある強力な観念(枠組み)が健康というあいまいな概念によって、逆に下支えされているように思えたからである。リスクの枠組み自体が、健康の観念を表象するような構造になっているのである。健康が先かリスクが先か、ここに見られるのは典型的な循環の構造だ。
ところで、リスク認知には幅があり、しかもその幅はさらに拡大傾向にあることも指摘しておく必要があるだろう。リスク評価と個人個人が考えるリスクにも大きな開きがある。ほとんど別物と言ってもいいと指摘する識者もいるほどだ(吉川肇子『リスクとつきあう』)。たとえば、リスクの専門家と一般の人々では危険だと感じるものが異なるという研究結果がある(スロビック「Perception of risk」, Science, 1987)。この調査によると、一般の女性は、原子力が最も危険で、次いで自動車、銃と続く。ところが、専門家が最も危険と感じるものは自動車で、原子力はずっと下がって二○位と低い。スロビックによれば、専門家は、リスクの客観的期待値(被害の大きさ×生起確率)によって、危険の順位を考えるのに対して、一般の人々は、そうした期待値によらないで危険の順位を考えているためだと解釈されている。つまり、専門家がリスクを考える場合、それは個人を含む集団、社会が想定されている。だから客観的期待値がその判断の基準になる。一方、一般の人々にとっての危険の度合いは、あくまでも自分の問題として捉えられている。客観的期待値よりも、自分がそれをどう感じているかを優先させる。これはリスク評価とリスク認知が必ずしも一致しないということを示している。また、リスク認知にとってリスク・コミュニケーションが大きな要素になっているということを表しているともいえる。リスク認知にとって情報の伝達方法がきわめて重要だということである。
健康リスクは、さまざまな考えが入り込んでいて、とても一筋縄では捉えきれるものではない。何よりもまず、健康それ自体のイメージがあいまいなことだ。健康が、個人によってバラバラなイメージで捉えられているとしたら、健康リスクとはどういう意味を持つのだろうか。リスク評価の正確さを問う以前に、リスクの言説こそが問われなければならないだろう。リスクとは、誰のリスクなのか。「私」という個人のリスクなのか、それとも、「私」を含む不特定多数の集合による「社会」のリスクなのか。どちらに比重を置いているかによって、健康リスクの意味は大きく変わってしまう。専門家が社会を念頭において健康リスクをうんぬんするのと、個人が自分のからだを念頭において健康リスクをいうのでは、そもそも意味が異なるのである。
北澤一利氏によれば、構造と機能を注視するヨーロッパゆずりの生理学的身体観は、やがて身体を西洋医学化していく。そして、西洋医学化された身体が最も合理的に活動する状態から括り直し、その理想化された身体を健康という観念に集約したのである。理想的な身体、健康にとっては、健康を阻害するものはすべてリスクとなる。裏を返せば、リスクを減らすことが健康により近づくことなのだ。構造と機能が明らかな以上、健康に近づくことはそれほど難しくない。自己の努力次第で改善できるからである。
健康が個人のレベルに留まっている分にはまだそれほど大きな問題にはならない(ともいえないのだが、それは松原洋子氏のところで触れる)。問題は、それが個人を越えて拡大解釈されているところにある。つまり、健康という観念が、不特定多数の集合である社会の理想として捉えられているところに問題があるのだ。個人の健康の議論が、いつのまにか社会の健康の議論にすり替わってしまっている。リスク論では、それが個人にとって危険なものなのか、個人を含む集団、社会にとっての危険なものなのかでは、意味がそもそもちがうのに、である。

一回限りの「生」にリスク論はなじむのか

「転ばぬ先の杖」を支えているのは、極端な理性信仰である。理想郷を夢見て、人間の理性に一○○パーセントの信頼をおき、その実現化をめざす。彼らには一点の曇りもない。なぜならば、彼らを突き動かしているのは善意にほかならないからだ。美しい花園を実現化するためにやっているにすぎず後ろ暗いものなどあるはずがないのである。優生思想とはユートピア思想の一種であり、近代が生み出した科学的な技術であった。今日、優生思想をまともに称揚する人間はほとんどいないといっていいだろう。人間の考え出したおぞましい知恵とみなされて、まともに取り上げられることすら少なくなっている。
一方、健康への関心は世代性別を問わず依然として大変に高い。理想的な健康をめざして、人々は日々その研鑽に躍起になっている。「健康日本21」は、重い病気にかからないといった消極的なアプローチからより進んで、病気にならないからだづくりをめざしている。誰にも世話をかけないような健康生活、すなわち「生活の質」を維持し続けることが目標だ。「生活の質」とは、病気や障害を持たないことである。「健康日本21」の根底にあるものは、前倒し的な理想郷の実現なのである。すなわち、ここで求められているものも「転ばぬ先の杖」の実現化なのだ。
私たちの健康への関心には、驚くべきことにおぞましいものと思われているはずの優生思想と同質のものが流れているのである。健康を健康リスクの回避として捉える限り、必ず理想のからだがイメージされることになる。では、理想のからだとは何か。そうした理想のからだを壊したり弱めたりするもののない五体満足なからだのことである。したがって、五体満足なからだにマイナス要因となるものは、ただちに健康リスクのリストに載せられる。
松原洋子氏は、そうした未来に起こるかもしれないことを予測してあらかじめ手を討つことが、そもそも「生きている」という現実にはなじまないのではないかというのである。「生きている」ということは、すでに運を天に任せていることで、不条理は最初から私たちの「生」と共にある。しかし、ここにも逆説が入り混んでいることを松原氏は見逃さない。一回しかない「生」は、だからこそナマモノとしての価値を強く持つ。ナマモノのメカニズムが解明されたあかつきには、再生医療という新たなテクノロジーが介入する。それは、理想のからだの実現化という夢を一挙に現実のものとする。本当に健康リスクのないからだをつくることが可能になるかもしれないからだ。この瞬間に、健康の観念は完全に優生思想と一体化することになるだろう。
私たちは、ここで改めてリスク論の根拠となる不確実性を問題にしなければならない。小島寛之氏は、確率には頻度主義的な確率と人の信念や覚悟のような心理状態を確率化しようというものと二種類あるという。リスク論は、単純にいえば不確実性としての危険を、確率的につかまえることで形式的に必然化させる手段であるが、そうであれば、二とおりあるということになる。小島氏が紹介するベイズ統計学は、この二種類の確率の中間あたりに位置するものだという。
ファイナンスの世界で盛んに喧伝されるリスクは、ヘッジの対象であるだけではなく予想以上の収益を生み出すチャンスでもある。だからこそ、いかにリスクを的確に予想するか、つまり確率の度合いを高めることに奔走するのだ。経済活動は生き物のような振る舞いをするという意味では、頻度主義的なアプローチでてなずけるにはしょせん限界がある。心理的な要因も影響する場合が少なくない。ベイズ統計学が復活してきたのは、経済活動というものがこのようにナマモノの世界ときわめて近い性質を持っていると理解されるようになったからであろう。事実、有能な経済学者を集めても、ナマモノの世界ゆえに飼いならすことはできずに破綻したヘッジファンドもあったくらいだ。一寸先は闇という意味では、人間の「生」とそう変わらないのかもしれない。
小島氏は、経済活動の一つの特徴としてそれが一回きりの現象だから予想が難しいのだろうという。何回か実験したのちにおおよその予測を立てるといったことが、もともとできないのが経済という世界なのだ。このような絶対確実なことが存在しない世界、ストカスティック(不確実的)な世界を相手にするには、リスク論でも手に負えないのである。一度しか起きないことというのは、もはや時間そのものと一体化した現象だからであり、ある意味では数値化も制御も不可能に近い事態だといえる。
「人の死」をエンドポイントに置くのがリスク論であれば、健康を維持し続けることがリスク論の当面の目的となる。健康リスクという概念は、まさにリスク論の根幹に位置する。しかし、確率現象としてそれを押さえ込むには、それはあまりにも不確実すぎるのだ。なぜならば、「生」とは、一個の生物にとってはたった一回しか起こらないことだからである。「生きている」ということの意味を、一度しか起こらない出来事の連続として捉える限り、未来の「生」を予測するということが、いかに困難なことかおのずと了解されるだろう。
リスクのパラダイムは、根源的に一つのパラドックスを抱えている。この循環論的な逆説から、もしも抜け出すことができるとすれば、それは一回しか生起しない「生」という事態をそのまま受け入れることではなかろうか。健康にとってリスクになりうるものは沢山ある。あらゆるものが、リスク予備軍として控えている。しかし、逆に見れば、リスクに関する決定は、常に別様でもあり得たということでもある。一つの決定は、またほかの決定可能性を示唆する。その意味で、ルーマンが言うようにリスク処理は、偶有的(コンティンゲント)であり、それは人々が培ってきたコミュニケーションのネットワークに常に/すでに織り込まれているものなのだ。おそらくわたしたちが長い間「常識」と呼んできたものは、そうしたコミュニケーションの一つなのではなかろうか。リスク論を考察するにあたって、「常識」の持つ意味を再吟味する必要があるだろう。(佐藤真)



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