談 no.67 WEB版
 
特集:リスクのパラダイム
 
Translated: Andrew Dewar
表紙撮影: 伊奈英次
本文ポートレイト撮影: 伊奈英次 鈴木理策 坂本政十賜
   
   
 
生命とリスク……科学技術とリスク論

金森 修 Osamu Kanamori
生命とリスク……科学技術とリスク論
すべてにおいて判断できる冷静な科学者と無知蒙昧な一般大衆、 そういう対立図式が常に見え隠れしているんですね。知的な判断にしても政策決定にしても それができるのは科学者や行政、権力側で、一般大衆はただだまってその教えにしたがっていればいい、
こういう旧態依然のパターナリズム (paternalism) から一歩も出ていないんです。 現代のリスク論は、新しい学問の方向づけを示唆しているように見えて、 じつは科学者や科学行政の現状維持のための知的な道具になりさがっている、 こういうと言いすぎでしょうか。
 
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Life and Risk ……Science, Technology, and Risk Theory
by Osamu Kanamori
Cool and collected scientists who can make educated decisions about anything, and an ignorant general public - we can see hints of this dichotomy everywhere. The only people who are able to make intelligent decisions and create policy are scientists and administrators, people with authority, and the general public should quietly do what they are told - this same old paternalism hasn't shifted an inch. Modern risk theory seems to suggest a new direction for scholarship, but in fact I might not be overstating it to say this theory has been reduced to an intellectual tool for scientists and scientific administrators eager to maintain the status quo.

かなもり・おさむ
1954年札幌市生まれ。
東京大学大学院博士課程満期退学。
パリ第1大学哲学博士号取得。 筑波大学助教授、東京水産大学教授を経て、現在、東京大学大学院教育学研究科助教授。
著書に、『サイエンス・ウォーズ』東京大学出版局、2000、『現代思想の冒険者たち バシュラール 』講談社、1996、『フランス科学認識論の系譜』勁草書房、1994、他がある。

 

リスク社会の条件

山岸俊男
 Toshio Yamagishi
年功序列制、終身雇用制の中で生活してきた私たちは、 これまで意思決定の必要に迫られる機会は少なかったはずです。しかし、外部の機会を選択し、 新たな生き方を追求していくためには、その場その場で決断を強いられることになります。 意思決定をするということは、とりもなおさずリスクをとるか/とらないかを決める、 つまり「腹を括る」かどうかということです。腹を括れずにズルズルと意思決定を引き延ばせば、 それだけ事態は悪い方へ向かうかもしれない。そういうことが、私たちの身の回りで、今、 起こり始めている。そうしたリスク社会が、今や現実のものになっているんです。
 
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Conditions for a Risk Society by Toshio Yamagishi
Because we have been living in a society that systemizes seniority and life-long employment, we have rarely been in situations where we had to make decisions for ourselves. But if we want to choose outside opportunities and live new lifestyles, we are forced to make decisions at every stage. And making decisions essentially boils down to choosing to accept or avoid risk. In other words, bracing oneself for what may come. Waffling and putting off decisions may only lead to the situation getting worse. This is already beginning to happen all around us. In this sense we have already become a risk society.

やまぎし・としお
1948年名古屋市生まれ。
一橋大学大学院社会学修士課程修了。
現在、北海道大学大学院文学研究科教授。
著書に、『心でっかちな日本人 』日本経済新聞社、2002、『信頼の構造』東京大学出版局、1998、『安心社会から信頼社会へ』中公新書、1999、他がある。

 

理想化された「健康」……身体とリスク管理

北澤一利 Kazutoshi Kitazawa
生理学的な身体観は身体の普遍的な真実を表すものではなくて、 ある主観的な見方です。 その意味では、中国医学と本質的には変わりはない。 現代は、生理学的な身体観を普遍として受け入れて、 これにもとづいて制度や実践を設計していこうとする時代であるにすぎないのです。 生理学的な見方が絶対的なものではないことを改めて確認すべきだと思います。 そのために身体を相対化してみるということが必要なんじゃないでしょうか。
 
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Idealizing "Health" ……Risk Management and the Body
by Kazutoshi Kitazawa
A physiological image of the body does not represent an absolute truth, but rather a subjective view. In this sense, physiology is no different in essentials from eastern medicine. It is simply that we are living in an age which makes universals out of physiological images of the body, and then tries to create systems and base medical practice on those universals. I think we need to reconfirm that there are no absolutes in physiology. That's why I think we need to look at the body in a relative way.

きたざわ・かずとし
1963年静岡県生まれ。
筑波大学大学院体育研究科修士課程修了。
現在、北海道教育大学釧路校助教授。
著書に、『「健康」の日本史』平凡社新書、2000、がある。

 

医療のリスク論……QOLとは何か

松原洋子 Yoko Matsubara
社会システムはいい加減ということを許しません。 だから、リスク回避を当然のものと考えるわけですが、 個人というレベルではそれをいい加減にやり過ごすことも許されるんです。 この厳密でないことこそが、けっこう大事なんじゃないかと思う。 逆に社会システムにおけるリスク・マネッジメントの発想を内面化してしまうと、 生きたり産んだり育てたりがかえって難しくなるのではないでしょうか。 たとえば、出生前診断の普及にはそうした危険性が潜んでいると思います。
 
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Risk Theory and Medical Treatment
…… Quality of Life Considerations
by Yoko Matsubara
Societal systems do not allow sloppiness. So it is natural to think about risk avoidance. At the individual level it is possible to get along without confronting risk. I think this imprecision is important in itself. On the other hand, internalizing societal ideas of risk management would make it difficult or impossible for individuals to feel safe in daily life, or having babies, or bringing them up. For example, the spread of pre-natal checkups involves this kind of risk. Knowing too much about the risks involved in pregnancy might make people wary of having children.

まつばら・ようこ
1958年東京都生れ。
お茶の水女子大学大学院博士課程修了。
三菱化学生命科学研究所特別研究員を経て、現在、立命館大学産業社会学部教授。
共著書に、『優生学と人間社会』講談社現代新書、2000、『健康とジェンダー』明石書店、2000がある。

 

自己責任とは何か……リスクを売買する社会の中での個人

小島寛之 Hiroyuki Kojima
リスクをとる社会、というのにも合成の誤謬があります。 リスクを売買する市場が発達すればヘッジ手段が多様になって便利になるというけれど、 リスクというのはいってみれば不発弾みたいなものです。爆発する危険性は たえず社会のどこかに残留しているんです。抱えている人が時々刻々と変わっているにすぎません。
リスクが社会から消えてなくなってしまうなんていうことはないわけです。 リスクヘッジできるからデリバティブは素晴らしいという言い方は個人に対しては正しいのですが、 社会に対してはまったく正しくないんですよ。
 
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What is Personal Responsibility?
… The Individual in a Society that Trades in Risk
by Hiroyuki Kojima
There is a compound fallacy in a society that takes risks. It is said that development of a market that deals in risk leads to a variety of hedge options, which make it useful to society, but one should consider risk a kind of unexploded bomb. Society must always live with the danger that it might explode at any moment. The danger does not go away ム only the people dealing with it change, from moment to moment. There is no way that risk is going to disappear from society. In the case of individuals one can say that derivatives are great because it is possible to hedge risk, but this is not the case for society as a whole.

こじま・ひろゆき
1958年東京都生まれ。
東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。
現在、帝京大学経済学部環境ビジネス学科講師。
著書に、 『サイバー経済学』集英社新書、2001、『ゼロから学ぶ微分積分』講談社、2001、『ミステリーな算数』小峰書店、1999、『数学オリンピック問題に学ぶ 現代数学』講談社ブルーバックス、1995、他がある。

 


[特別企画 写真] 監視

伊奈英次

 

editor's note[before]


確率としての健康問題

私たちは、リスクに囲まれている

朝起きてから寝るまで、私たちはリスクに囲まれて生活をしている。いや、寝ている間も何が起こるかわからないから、正確には二四時間すべてリスクと共に生きているというべきだろう。とはいえ、日常生活において常にリスクを意識しているわけではない。朝歯を磨く時に、水道の水に劇薬が混入しているとは思わないだろうし、朝の通勤電車が脱線するとは思わないだろう。昼食に食べたステーキが狂牛病の疑いのあるビーフだとは思わないだろうし、ましてや、時々起こるひどい頭痛の原因がケータイ電話の電磁波のせいだとは、おそらく思っていないだろう。
リスクを一つひとつ挙げ出したらきりがないほど、私たちの周囲にはリスクが満ちあふれている。はっきり危険だとわかっているものもあれば、まだ危険性が指摘されているだけで、明確な因果関係が立証されていないリスクもある。逃れることが不可避な自然災害もあれば、人為的な事故や過失もある。危険度の幅もかすり傷程度のものから死に至るものまで千差万別。にもかかわらず、そんなたくさんの危険と隣り合わせに暮らしているという実感はない。もっとも、それらを意識しまいと努力しているわけでもない。単に忘れているか、無視しているだけなのだ。意識すれば至るところにあり、意識しなければどこにも見当たらないもの。その意味でリスクは「時間」ときわめて似た性質を持っている。
ところで、健康にも同じところがある。健康とは病気ではない状態のことで、健康な人間ほど、からだのことを普段意識しないものだ。からだに不調を感じる時に、普段自分が健康であったことを思い知らされるのである。
リスクへの関心が高まっている。都市型大地震や核燃料製造工場の臨界事故といったいわゆる災害ばかりでなく、狂牛病やダイオキシン汚染、薬害エイズ、金融危機といったものまで含めると、このところ大きな災いが続いている。そうしたことも要因となって、リスクへの関心につながっているのだろう。安全が当たり前と考えられてきた私たちの生活が、じつは危険や災いに常に曝されているということを意識せざるをえなくなってきたのだ。健康も同じ。単に病気になったら治療すればよいという考えではいつまでたっても病気は減らない。病気にかからないために、普段から健康に気をつけようという考え方に変わってきた。生活習慣病という言葉が端的に示しているように、健康を維持するためには、普段の生活をよくすることがまず大切だというのが昨今の健康問題のメルクマールである。
リスクと健康。両者に共通するものは、普段の、日常の、毎日の生活にもっと気を遣おうということだ。「災害は忘れたころにやってくる」からこそ、忘れないようにしよう。「病気になってから健康のありがたさを知る」のでは遅い、いつも健康であるように日々努力しよう。もしも、災いを被ることがあったら、また、病気になることがあったら、普段の努力が足りなかったと自覚しよう。やや大げさに表現すると、今日のリスクと健康のメッセージはこういうことになると思う。リスクへの関心と健康ニーズの高まり。両者は同じ基盤の上に成り立っているといえる。

リスク概念の定義とその目差すもの

今号では、リスクと健康について考えてみたい。両者が拠って立つところの基盤、共通するパラダイムとは何か、とくにからだとのかかわりから掘り下げてみたいと思う。
健康リスクという言葉がある。健康を維持していく時に阻害要因となるものをいう。そもそもリスクが、生命や財産の安全を脅かすものである以上、健康の阻害要因と考えられるのは当たり前のことだ。リスクとは、広義に捉えれば、健康を脅かすものすべてをいう。
ここで改めてリスクの定義をおさらいしておこう。 「リスクは、人間の生命や経済活動にとって、望ましくない事象の発生の不確実さの程度およびその結果の大きさの程度」(『リスク学事典』)とされる。「望ましくない事象」が発生した時に、その過程、結果が「不確実性」を持っていて、それに対して的確な判断と対応を行うという人間側のレスポンスが含意されている。単にリスクは危険(hazard)という意味だけではなくて、その危険に対して「人間社会の対応」の必要性も包含されている。つまり、危険ではない=安全な状態を追求しつつも、常に危険がゼロであることはない、という前提に立ってその危険を認識するということが、リスクの基本なのだ。リスクゼロということはありえない、というところから出発した概念である以上、必然的にその考えは能動性を持つことになる。
「従来の考え方、ある基準があってそれ以上なら安全で、それを超えると危険であるという二分法的な考えを否定するところから始まる。リスクには、安全がない。リスク論とは、安全領域がない危険性とわれわれはどうつきあうかという科学である」(中西準子)以上、危険性を数値化し、評価し、制御していくことがリスク論の使命となる。 そうなると、制御する「望ましくない事象」をもう少し具体的にいう必要が出てくる。中西氏によれば、リスクとは「どうしても避けたいこと」の発生確率であり、「どうしても避けたいこと」とは、「人の死」だという。つまり、「人の死」をエンドポイントに置いて、その基準点から発生確率を算出し、評価を与え、具体的な方策を講じることが、すなわちリスク・マネジメントということになるのである。要するに、数値化することによって危険の度合いを見極めようというわけだ。
健康においてエンドポイントとなるのは、やはり「人の死」だろう。健康リスクという考え方のベースにも、同様に「人の死」からどのくらい安全かという確率が大きな指標となる。人間の命を数値化することの是非はここでは問わない。というか、リスク論は最初からそこから議論を積み上げているので、もともと功利的(数値的)である以外にない考えなのである。
からだをリスクの対象として捉える。現代の健康論はそれをさらに徹底化させる方向に向かっている。健康の尺度は、数値化され確率としてプロットされる。ある種のあいまいさを確率として囲い込む。この方法は、科学技術一般に共通するものだ。そのことをあえてここで議論はしない。問題は、からだの状態を表現する健康が、確率として囲い込まれることが、何を意味するのかということである。健康問題としてのリスク論の射程にあるものは、科学とからだの新たな関係なのだ。

科学技術とリスク論

私たちは、まずリスク論の科学性について検討するところから始めてみたい。お尋ねしたのは、東京大学大学院教育学研究科助教授・金森修氏。金森氏は、フランス系の認識論哲学を中心に、生物学や医学がどのような過程を経て発芽し育っていったかを詳細に検討するところから、生命科学と近代の関係を洗い出すという仕事を長年続けてこられた研究者である。したがって、その研究の中心となる時代は一九世紀から二○世紀であった。しかし、金森氏の名前がジャーナリズムに頻繁に登場するようになったのは、現代のしかもほんの数年前に起こったスキャンダラスな事件がきっかけだった。それは、「サイエンス・ウォーズ」とその後呼ばれることになる、科学と「科学論」との、科学者と科学批判者との間で交わされた大論争のことである。そもそもの発端は、九○年代の中頃に「科学論」の研究者が中心になった科学批判にあった。文化多元主義を背景にポストモダニズム、フェミニズム、環境保護運動が高まりを見せる中で、それまで社会から自律していると目されていた科学それ自体への批判が顕在化し、広くは教育界全体を巻き込む論争へと発展していった。金森氏は、当初からこの論争に深い関心を寄せて、その経緯や背景、その後の展開について紹介する論文やエッセイを著してきた。 「サイエンス・ウォーズ」が、それまでもなかったわけではない科学批判の枠を越えて、ジャーナリズムも巻き込んで広がっていったのは、そうした「科学論」に対して科学者側から激烈な反批判が加えられ、しかもきわめてトリッキーな方法によってそれが遂行されたからである。ごく簡単に素描すると、理論物理学者アラン・ソーカルが「科学論」批判への「科学論」側の反批判を、「科学論」に傾斜する雑誌の特集に寄稿したうえで、後にそれがまったくのパロディであったことを暴露したというものだ。つまり、科学批判の急先鋒である「科学論」の言説が、いかに浅薄な知識しかなく、自然科学用語の濫用と誤用に満ちているかを、パロディという形式をとることにより、逆に証明するという手の込んだ方法で示したのであった。「サイエンス・ウォーズ」とは一言で言えば、「科学技術サイドが、科学論者の相対主義的、反実在的、非実証主義的傾向の強い議論に業を煮やし、古典的な実在論や実証主義の規範の再認識を旗揚げしながら激しく批判した反攻と、それを取り巻く賛否両論の論争」(金森修)であり、結果的には、九○年代に勢いづいた文化多元主義と同じ根を持つ現代「科学論」への強力なカウンターパンチとなったのである。
「サイエンス・ウォーズ」は日本の論壇にも飛び火する。オウムの一連の事件、もんじゅの事故などの背景には、科学者や技術者の責任が厳しく問われることがない日本の科学政策の甘さがあり、科学者集団の倫理性を正すということから火が付いた議論は、やがて、「的はずれの科学叩き」に終始する「科学論」批判へと急旋回していった。まさにそれは、規模こそ小さいものの紛れもない日本版「サイエンス・ウォーズ」であった。
「サイエンス・ウォーズ」の詳細は金森氏の労作『サイエンス・ウォーズ』(東京大学出版会)に譲るとして、注目したいのは「サイエンス・ウォーズ」が投げ掛けた問題の一つ、「科学論」と文化多元主義との関係だ。文化多元主義あるいは相対主義と言い換えてもいいかもしれないが、知識が社会の状況依存的関係を拭いきれないということを主張する「科学論」者は、同様に科学もすでに社会に埋め込まれた形でしか存在しえないことを強調した。それは、現代の科学技術が、純粋に未来の進歩発展に貢献しているということが幻想であるという認識だけにとどまらず、いまや高度の政治的意思決定や政策に大きな影響力を持っていることを、改めて科学者に認識させようという意図が込められていたのである。「科学論」が、なぜ相対主義を強調するのか。それは「科学・技術が浸透しつくした現代では、未決着の科学論争やリスクを伴う技術の利用が、政治的意思決定や、健康や環境を大きく左右するからだ。そうした場面では、ある専門領域で確立された知識や技術ですら、その状況依存性とそれに伴う妥当性の限界や不確実性が露になる」(平川秀幸)。 「科学論」のバッククラッシュ的な様相を呈して終焉したかに見えた「サイエンス・ウォーズ」の論争であるが、別の視点から見れば、現状肯定的な言説に与する科学技術への「科学論」側からの批判に抗して、「リスク論」を担保にした科学側からの反批判ともとれるのである。「サイエンス・ウォーズ」を、科学技術のリスク論的回収とその展開を準備した科学側からの応答と了解すれば、この論争のもう一つの重要な側面が見えてくるように思われる。重要な側面とは何か。一言でいえば、科学技術とはそもそも誰のためのものか、誰に利益をもたらすのかということだ。科学の側であれ「科学論」の側であれ、いずれの言説もこのきわめて単純な疑問へと送り返されることになり、リスク論の評価も、ここで二つに分かれる。
そこで、「サイエンス・ウォーズ」をつぶさに検討してこられた金森修氏に、科学技術および科学政策との関係からリスクを論じていただく。さらに、そのうえで科学技術と主体の言語の関係について考察していただく。

リスク社会としての日本

積極的にリスクをとる社会とは、いかなる姿をしているのだろうか。日常生活の中に潜むリスクをいかに解消していくか、私たちの生活とは、とりもなおさずリスク回避の行為の集合でもある。次に視点を変えて、主体と社会のかかわりから、リスクを考えてみたい。
「特定の相手だけとの付き合いを通して社会的不確実性を縮小し安心を求める集団主義的行動原理によって築かれてきた日本社会は、いわゆる〈信頼社会〉ではなく〈安心社会〉であった」という。たとえば、日本の都市がこれまで比較的安全であったのは、社会の基盤が強固な相互信頼によってつくられていたからではなく、相互拘束関係という「機会費用」を支払うことで「安心社会」を生み出していたからである。
しかし、今日の日本が直面しているのは、この「安心社会」がすでに過去のものになりつつあることだ。社会的不確実性を前提として適切なリスクを負うことによって他者との関係を形成する、いわばリスク・テイキングに基づく「信頼社会」へとシフトすることが、今日本に求められているのである。
社会心理学の立場から、「安心社会」から「信頼社会」へのシフトという視点から日本社会について研究されているのが北海道大学大学院文学研究科教授・山岸俊男氏である。「水と安全はただ」と形容された日本社会が、今、多くの危険や災いに曝されているが、もとより災害だけではなく、社会システムあるいは人間関係もさまざまな危険と隣り合わせになっているのである。これまでの日本は、それを「機会費用」で賄ってきた。「機会費用」とは、ある行動に投資した費用や時間を別の行動に投資した場合に得られる利益のことで、今やこの「機会費用」が急激に上昇しているというのだ。「機会費用」が増える中で、具体的にどのように「信頼社会」を築いていけばいいのだろうか。リスクを不可避のものとして、それを内在的に受け入れる方法から「リスク社会」の条件を検討する。

導入された健康概念

今号のテーマの中心である健康リスクについて、二つの視点から考察する。一つは、健康概念の形成から、もう一つは、医療とのかかわりから。
健康という概念は、私たち日本人がもとから持っていたものだろうか。もしも新しい概念であれば、私たちはいつそれを自分たちのものにしたのだろうか。そして、今、私たちは、それをからだにとっての「理想」として認識するようになっているが、果たしてそこには、どのような契機があったのだろうか。
この疑問に答えてくれる研究があった。『「健康」の日本史』(平凡社新書)である。
「一八世紀の後半から江戸時代のおわりにかけて、日本では西洋医学の積極的な移入が行われました。健康は、この新しい西洋医学の基礎的な学問である解剖学や生理学と一緒に日本に入ってきた言葉です」
「道徳的な尺度にもとづく養生術の文化から、生理学的な尺度にもとづく健康法の文化へ。日本人はその変化を柔軟に受けとめ、実践しました」
そして、その変化に大きく貢献したものがラジオ体操だったというのである。日本人のために考案されたラジオ体操は、体格向上と連帯感を高め、生理的に異常でないことが社会(国家)に道徳的に貢献することだということを国民の意識に根づかせたのであるという。日本人は、養生術から「健康法」へとからだの管理方法を大きく変化させてきたが、その一つの契機となったのが体操であったというのだ。ただ、その体操もまた西洋医学によって再統合された「生理的な身体」という視点がなければ、日本人には根づかなかったという。日本人は健康概念を西洋医学という受け皿と一緒に手に入れたのである。
この著者北海道教育大学釧路校助教授・北澤一利氏と共に、日本人と健康、からだづくりと健康のかかわりについてその鍵となった西洋医学との関係から考えてみたい。

「完全に」「良好」な状態

健康の定義として最もよく知られているものにWHOの定義がある。一九四六年に世界保健憲章前文として出されたものだが、それによると、「単に疾病がないとか虚弱でないというばかりではなく、肉体的、精神的、社会的に完全に良好な状態である」ことが健康だという。約半世紀たった今日でもこの定義は有効である。とくに医療において健康が問われる時、まずWHOのこの定義を基礎において各論が展開する。しかし、肉体が精神が社会的に完全に良好な状態とは、果たしてどういう状態をいうのであろうか。とくに、「完全に」という語意が含まれていることで、この「良好」という意味はますます際立ってくる。
「完全に」「良好」な状態を字義どおり徹底化させることによって、健康な子どもを産ませようとするのが「優生学」であった。今では拒否反応の方がはるかに強いと思われる「優生学」という言葉も、健康という概念と重ね合わせてみると、不思議に反りが合うのである。「優生学」という言葉からただちにナチズムを思い浮かべる人も少なくないと思われる。しかし、私たちが日頃なにげなく使用している健康は、じつは「優生学」が目差しているものと本質的に同一なものなのである。そして、「健康リスク」もまた、「優生学」とは微妙にバランスする概念でもある。健康なからだは、ある意味で「優生学」を内面化し、それを実現させることでもあるのかもしれない。「健康リスク」の問題を、ここでは「優生学」を反面教師と捉えて考察しようと思う。お尋ねしたのは、立命館大学産業社会学部教授・松原洋子氏である。

リスク論と自己責任の論理

リスクとは、本来「完全」とはきわめて相性の悪い関係にある。最初に述べたように、ゼロリスクを最終目標に設けることは原理的には可能であるし、リスク論においてはそれは理想状態でもある。しかし、現実的にゼロリスクはありえない。だからこそ私たちは、リスク論という概念枠をあえて設けようとするのである。それは確率という形でリスクを囲い込み、形式的にゼロリスクを可能にさせるためでもある。
最後に私たちは、リスクと個人の関係について考えてみたいと思う。リスクを確率化社会の中での不確実性と確実性の交換という観点から捉え、リスクをとることと自己責任のかかわりについて考察する。帝京大学経済学部環境ビジネス科講師・小島寛之氏にお聞きする。 (佐藤真)


 

editor's note[after]


リスク社会と「常識」の有効性

リスク論のフレームワーク

リスク学は、リスクの調査、分析、研究をするだけではなく、リスクから身を守り、リスクを最小限度に抑えるための戦略、方策を勘案するものであり、その意味では実践的かつ応用的な科学である。したがって、リスク学は、リスクの軽減、未然防止、回避・避難、補償などの対応策を構想し、評価するいわゆるリスク・マネジメントにその重点が置かれることになる。
リスク・マネジメントの指標となるものがリスク評価である。リスク評価の方法には、定量的評価、疫学的評価、動物実験を基礎にした評価、生物学的モニタリング評価があり、主に健康リスクの評価に応用され発展してきた。そこでは、論理の合理性とそれを実証する追試が必要であり、その実験結果を補うに十分なデータの蓄積が求められる。リスク学とは、その対象がどんなに不確実なものであっても、科学的であることをまず第一とするのである。そこで重要になってくるのが、リスク評価の正確な伝え方だ。単にリスクについての情報だけではなく、リスク回避を最終的な目的とするリスク評価が、的確に伝達される必要がある。これをリスク学では、リスク・コミュニケーションと呼んでいる。
リスク情報が開示され多くの合意を得るためには、利害関係や政治・権力構造の影響を受けることなく、リスク評価を共有し、情報交換と意見調整がなされなければならない。リスク評価をもとにしたこの相互作用過程、リスク・コミュニケーションがいかに障害なくスムーズに行われるか、リスク・マネジメントにとっては必須課題である。だが、今日発生しているリスク評価を巡る当事者間の齟齬の多くは、このリスク・コミュニケーションに起因しているのも事実なのだ。

専門家対市民という対立の構図を越えて

現代のリスク論は新しい学問の方向づけを示唆しているように見えて、じつは科学者や科学行政のための知的な道具になり下がってはいないか。旧態依然としたパターナリズムから、現代のリスク論はまだ一歩も出ていない。金森修氏は、初っ端からリスク論に対して厳しい評価を下した。
金森氏が問題にするのは、現代の技術がもたらす特殊な危険性に対して産業サイドと市民サイドが対立している場面で、中立さを根拠づけるために持ち出されるリスク論が、産業サイドに有利に働く場合が少なくないということなのだ。一般的に、科学とは実証的なデータの積み重ねによって得られる客観的知見と理解するとして、その客観性が必ずしも中立的であるとは限らず、ある特定の立場に有利に働く場合があるということを金森氏は懸念するのである。
金森氏は、インタビューでリスク論について主に三つの点について言及している。簡単に整理してみよう。一つは、顕示選好論と表現選好論、二つ目は、リスク&ベネフィット・アナリシス(もしくはコスト&ベネフィット・アナリシス)、三つ目は、功利主義である。最初の顕示選好論と表現選好論は、リスクを客観的に定量化する試みであり、また、同様にその受容可能さを定量化することによって制御可能なものにしうる方法をいう。二つ目のリスク&ベネフィット・アナリシスも、定量化という意味ではほぼ同じ考え方で、リスクの受容をベネフィットとの関係から数量的に把握するというものである。三つ目の功利主義は、前者二つに共通する定量化という方法が、個人の便益に先んじて社会の便益を優先させることに、より重点が置かれていることを指摘している。
たとえば、リスクの定量化に関しては、よく知られているものに生涯発がんリスク10のマイナス6乗〜10のマイナス5乗というのがある。今日の社会経済状況の下では、発がんリスクゼロ、つまり暴露ゼロということはありえないとしたうえで、発がん物質に対してどの程度なら許容することができるかということを数値で示したものだ。10のマイナス6乗という数値は、一生の間に一○○万人中一人ががんになるようなリスクであり、10のマイナス5乗とは、一○万人中一人ががんになるリスクのことである。
では、この数値はどのように算出されたのであろうか。中西準子氏が『環境リスク論』で述べているので紹介しておきたい。1、まず主に動物実験で暴露量(経口、経皮、吸入などの経路により体内に入る化学物質の総量)と発がん率との関係を求める。動物実験が可能な範囲は、発がん率が10のマイナス1乗(10分の1)程度の高暴露で、この結果を基にして、2、低暴露での暴露量と発がん率との関係を推定する。そしてある化学物質を使った時の暴露量、その影響を受ける人の数を推定、または実測し、2で求めた結果を使い、個人の受けるリスクの大きさ(発がん率)、集団としてのリスクの大きさ(がんにかかる人の数)を求める。10のマイナス6乗という数値は、アメリカの規制当局(環境保護庁、食品医薬局、労働安全健康局など)が出したもので、どの程度の妥当性があるかについてはあえて問わないと断りながらも、中西氏は今の科学の水準(一九九五年)ではこれ以上は正確にできないと述べている。
もう一つ、リスク&ベネフィットに関してチョンシー・スターが出している結論も紹介しておこう。スターはいくつかの行動とそれに伴うリスクと比較して次のような結論に達したという。すなわち、リスクの受容はほぼベネフィットの三乗に比例する。仮にベネフィットが二倍になれば八倍のリスクが受容され、ベネフィットが三倍になれば二七倍になる。つまり、ベネフィットが増大すれば、リスク受容は急激に高まるというのである。また、自発的なリスクの受容は、非自発的なリスクの受容の一○○○倍であるともいう。たとえば、スキーをするという自発的なリスクは、食品防腐剤の入った食品をとるといった非自発的なリスクの一○○○倍あっても、それは受容されるというのである。
リスク論は、最初に述べたように実践的かつ応用的科学である以上、リスク評価がその鍵を握っている。そのためには、リスク評価の精度を上げることが当面の目標となるのは当然といえば当然のことだ。しかし、評価の向上が単なる数値の精度を上げることだけに向かっているとすれば、それは本末転倒であると見られてもしかたがないであろう。金森氏が疑念を持つのは、まさにそこのところだ。数値の持つ科学性をどれだけ練り上げていったところで、いったいそれが誰のために役に立つのかということなのである。
生涯発がんリスクが10のマイナス6乗〜10のマイナス5乗ということは、指標としては必要であるし、その数値があるからこそリスク・マネジメントは可能になる。自発的なリスクか非自発的なリスクか、とりあえずその割合を量によって比較できることは悪くはないだろう。ただ、その数値がいったい誰に利益をもたらし、誰の利益を奪うことになるのか、そのことを考えに入れずに議論をしたところで、それは単なる数字以上の意味はない。むしろ重要なのは、数値の精度よりも、数値の公共性ではないか。金森氏は、そこで公共性という視点に立ったうえで、判断の健全さが大事だと提言する。
公共性というものは、「公」/「私」の使い分けからもわかるように、日本ではやや特殊なニュアンスを持って理解されている概念である。単純に市民サイドの利益を反映するものとして理解すると誤ってしまう恐れがある。この議論は、山岸俊男氏のインタビューともかかわることなので後に譲るとして、ここでは字義どおり市民の自発的言説と理解したうえで、金森氏がそれをむしろ普通の人が持っている「常識」に接続させているところに注目したい。
「常識」という言葉は、これまでどちらかというと保守的な要素を持った言葉として受け取られていた面が強かったように思われる。しかし、金森氏はそれが多様な意見の中で議論され、練り上げられてきた安定点だという。つまり、さまざまな意見の揺れ動きの中からしだいに共通する考えへ向かう中で形成されていくのが「常識」だというのである。その意味で決して保守的なものではなく、むしろ当初から力動性を内在した概念だともいえるというのだ。
専門家と一般市民という対立関係を立てて、どちらがより多くの情報を持ち、どちらの判断力が正しいかを競うといったステロタイプな議論は、安易なパターナリズムに陥る危険性をはらんでいる。それは市民サイドにも甘えという形で同様の危険性をもたらす。この安直な構図を抜け出すためには、「常識」が手掛かりになるというのである。じつは、専門家といえども、同じものを食べて同じ暮らしをしているという意味では、一般市民と変わるところはない。しかも、未来に起こることに対しての予測となると、専門家の認識も一般市民の認識もほとんど変わりがない。だとすればある種の直観、つまり、生活の中で培われてきた経験や認識に基づく判断の方が有効なのではないか、というのが金森氏の意見である。ある時間を経て得られる経験や認識には、個人を越えて無数の他者の経験や施策が入り込んでいる。さまざまな人間たちの履歴が書き込まれている。それゆえ、「常識」にはそれなりの重みがあるというわけだ。リスク論が誰に利益をもたらすのか、「常識」という観点からもう一度捉え直してみるということは確かに必要なことかもしれない。それは、同時にリスク論の限界を明確にすることにもつながってくる。

リスクを積極的にとる社会は本当にいい社会なのか

日本社会は、今後、まちがいなくリスクをとる社会に変わっていくだろう。私たちは、常にリスクと向き合いながら、その緊張関係の中で生きていくことが強いられるようになる。それはもはや不可避なことではあるが、しかし、だからといってそうした社会が私たちに幸福をもたらすとは限らない。いやむしろ、一寸先は闇だと覚悟しながら生きていくことは、これまで以上に多くの苦悩を抱えることになるだろう。
暗黙の内に認め合っていた「安心」の構造が、今、急速に崩壊しつつある。戦後の繁栄の拠り所となっていた二つの柱、年功序列制と終身雇用制が崩れることは、日本社会のたがが外れることを意味するのだ。それは、私たちが想像する以上の影響をもたらしはじめている。
たとえば、先ほど出た公共性という概念は、ヨーロッパの近代社会では一般的に明確な定義付けがなされていた。ハバーマスの「公共性の構造転換」が端的に示しているように、それは市民社会を源泉とする文字どおり自発的で一定程度の自由度を持った言説の場として認知されている。ある意味で絶対的な関係性として公共性は保たれているのである。けれども、日本の場合公共性という概念はきわめてあいまいなものとして捉えられてきた。「公」と「私」の関係を例にしてみるだけでも容易にわかることだ。日本において公共性を考える場合、それは「公」ということになるが、「公」と「私」の関係は、ヨーロッパのように絶対的な関係では捉えられていなくて、常に相対的である。簡単に言うと、「公」/「私」は、入れ子的な関係で連続しているといえる。
たとえば、企業組織で見てみると、会社と社員は「公」/「私」の関係である。しかし、取引先との関係でいうと、わが社が「私」になり取引先は「公」になる。一方、業界という観点から見ると、その企業が所属している業界が「私」になり、それ以外の業界は「公」となる。ところが、国際化の取引となると、日本が「私」になり、諸外国は「公」となる。では、個人の場合はどうだろうか。自分が勤める企業は「公」であり、自分の家族は「私」となる。この関係をごっちゃにすると公私混同と見なされ非難を浴びることになる。このように挙げ出したらきりがないが、要するに「公」/「私」は場面場面で揺れ動くのである。正確にいえば、常によりメタレベルなものが「公」になり、それとの対比で「私」が規定されるという構造になっているのだ。
リスクを積極的にとること、山岸俊男氏の言葉で言えば「腹を括る」ことは、こうした「公」/「私」の相対化がもはや通じなくなることを意味している。あいまいに入れ子的に変化する「公」/「私」の関係が維持されている限り、「腹を括る」ことにそれほど強い意義は見いだせない。しかし、「公」/「私」の関係がはっきりしていて大きく変わらない場合には、腹を括らなければならない場面が常に出てくる。もとより、日本社会に特徴的な「公」/「私」の関係が崩れていくことを嘆いているわけではない。山岸氏が「安心社会」からの離脱を嘆いていないのと同じ理由で、筆者も日本的な慣習が崩れていくことを不可避とする「信頼社会」の到来を当然のものと考える。ただ、そうした社会が私たちを生きやすくするかどうかとは別だということである。
ところで、山岸氏の発言の中でクォーター・システムについて触れているが、これはリスクの議論にとっても非常に重要な観点だと思われる。たまごが先か鶏が先か、こうした循環構造は社会システムのさまざまな箇所に現れる。差別の場面のほかにもジェンダーを考える時や経済を考える時、あるいは意識や身体というものを問題にする時にもこの関係が表出する。自己参入とか自己相似ともいわれるもので、この関係は自らが外に出る以外に解決のしようがないものなのだが、原理的にそれはできないようになっている。リスク論では、リスク論という立論を打ち立てた瞬間にもうリスクゼロということはありえない構造になり、それはリスク論の立論に入ることを意味する。言い換えれば、リスク論がリスクをつくり出しているというわけだ。こうした循環の構造を断ち切るためには、循環の構造それ自体を循環の構造としてそのまま提起する以外にない。差別をなくすためには差別をなくすことが最も有効なのである。差別がなぜいけないか。それはそれが差別だからであり、差別をなくすためには差別をなくす以外の方法はない。つまり、差別をなくすという実行が唯一差別をなくすことであり、それは差別という現実を変えてしまうことである。
こうした同義反復的な構造は、次に述べる健康リスクにじつは典型的に見られることでもある。

私」の健康と「社会」の健康

健康リスクという言葉はきわめて振幅の大きい言葉である。とはいえ、はっきりしていることは、リスクは健康を脅かすものだという共通の認識である。健康を脅かし続けるリスクという観念。健康とリスクはこの一点において結合する。しかも、やっかいなことに、自らのからだを容器にして両者は堅く結び付いてしまっているのだ。本来は、別の表情を持つはずの個人と社会が、身体では離れがたく組み合っている。健康リスクを考察するために、リスクそれ自体を成り立たせているパラダイムへと下降する必要があると考えたのは、リスクを形づけているある強力な観念(枠組み)が健康というあいまいな概念によって、逆に下支えされているように思えたからである。リスクの枠組み自体が、健康の観念を表象するような構造になっているのである。健康が先かリスクが先か、ここに見られるのは典型的な循環の構造だ。
ところで、リスク認知には幅があり、しかもその幅はさらに拡大傾向にあることも指摘しておく必要があるだろう。リスク評価と個人個人が考えるリスクにも大きな開きがある。ほとんど別物と言ってもいいと指摘する識者もいるほどだ(吉川肇子『リスクとつきあう』)。たとえば、リスクの専門家と一般の人々では危険だと感じるものが異なるという研究結果がある(スロビック「Perception of risk」, Science, 1987)。この調査によると、一般の女性は、原子力が最も危険で、次いで自動車、銃と続く。ところが、専門家が最も危険と感じるものは自動車で、原子力はずっと下がって二○位と低い。スロビックによれば、専門家は、リスクの客観的期待値(被害の大きさ×生起確率)によって、危険の順位を考えるのに対して、一般の人々は、そうした期待値によらないで危険の順位を考えているためだと解釈されている。つまり、専門家がリスクを考える場合、それは個人を含む集団、社会が想定されている。だから客観的期待値がその判断の基準になる。一方、一般の人々にとっての危険の度合いは、あくまでも自分の問題として捉えられている。客観的期待値よりも、自分がそれをどう感じているかを優先させる。これはリスク評価とリスク認知が必ずしも一致しないということを示している。また、リスク認知にとってリスク・コミュニケーションが大きな要素になっているということを表しているともいえる。リスク認知にとって情報の伝達方法がきわめて重要だということである。
健康リスクは、さまざまな考えが入り込んでいて、とても一筋縄では捉えきれるものではない。何よりもまず、健康それ自体のイメージがあいまいなことだ。健康が、個人によってバラバラなイメージで捉えられているとしたら、健康リスクとはどういう意味を持つのだろうか。リスク評価の正確さを問う以前に、リスクの言説こそが問われなければならないだろう。リスクとは、誰のリスクなのか。「私」という個人のリスクなのか、それとも、「私」を含む不特定多数の集合による「社会」のリスクなのか。どちらに比重を置いているかによって、健康リスクの意味は大きく変わってしまう。専門家が社会を念頭において健康リスクをうんぬんするのと、個人が自分のからだを念頭において健康リスクをいうのでは、そもそも意味が異なるのである。
北澤一利氏によれば、構造と機能を注視するヨーロッパゆずりの生理学的身体観は、やがて身体を西洋医学化していく。そして、西洋医学化された身体が最も合理的に活動する状態から括り直し、その理想化された身体を健康という観念に集約したのである。理想的な身体、健康にとっては、健康を阻害するものはすべてリスクとなる。裏を返せば、リスクを減らすことが健康により近づくことなのだ。構造と機能が明らかな以上、健康に近づくことはそれほど難しくない。自己の努力次第で改善できるからである。
健康が個人のレベルに留まっている分にはまだそれほど大きな問題にはならない(ともいえないのだが、それは松原洋子氏のところで触れる)。問題は、それが個人を越えて拡大解釈されているところにある。つまり、健康という観念が、不特定多数の集合である社会の理想として捉えられているところに問題があるのだ。個人の健康の議論が、いつのまにか社会の健康の議論にすり替わってしまっている。リスク論では、それが個人にとって危険なものなのか、個人を含む集団、社会にとっての危険なものなのかでは、意味がそもそもちがうのに、である。

一回限りの「生」にリスク論はなじむのか

「転ばぬ先の杖」を支えているのは、極端な理性信仰である。理想郷を夢見て、人間の理性に一○○パーセントの信頼をおき、その実現化をめざす。彼らには一点の曇りもない。なぜならば、彼らを突き動かしているのは善意にほかならないからだ。美しい花園を実現化するためにやっているにすぎず後ろ暗いものなどあるはずがないのである。優生思想とはユートピア思想の一種であり、近代が生み出した科学的な技術であった。今日、優生思想をまともに称揚する人間はほとんどいないといっていいだろう。人間の考え出したおぞましい知恵とみなされて、まともに取り上げられることすら少なくなっている。
一方、健康への関心は世代性別を問わず依然として大変に高い。理想的な健康をめざして、人々は日々その研鑽に躍起になっている。「健康日本21」は、重い病気にかからないといった消極的なアプローチからより進んで、病気にならないからだづくりをめざしている。誰にも世話をかけないような健康生活、すなわち「生活の質」を維持し続けることが目標だ。「生活の質」とは、病気や障害を持たないことである。「健康日本21」の根底にあるものは、前倒し的な理想郷の実現なのである。すなわち、ここで求められているものも「転ばぬ先の杖」の実現化なのだ。
私たちの健康への関心には、驚くべきことにおぞましいものと思われているはずの優生思想と同質のものが流れているのである。健康を健康リスクの回避として捉える限り、必ず理想のからだがイメージされることになる。では、理想のからだとは何か。そうした理想のからだを壊したり弱めたりするもののない五体満足なからだのことである。したがって、五体満足なからだにマイナス要因となるものは、ただちに健康リスクのリストに載せられる。
松原洋子氏は、そうした未来に起こるかもしれないことを予測してあらかじめ手を討つことが、そもそも「生きている」という現実にはなじまないのではないかというのである。「生きている」ということは、すでに運を天に任せていることで、不条理は最初から私たちの「生」と共にある。しかし、ここにも逆説が入り混んでいることを松原氏は見逃さない。一回しかない「生」は、だからこそナマモノとしての価値を強く持つ。ナマモノのメカニズムが解明されたあかつきには、再生医療という新たなテクノロジーが介入する。それは、理想のからだの実現化という夢を一挙に現実のものとする。本当に健康リスクのないからだをつくることが可能になるかもしれないからだ。この瞬間に、健康の観念は完全に優生思想と一体化することになるだろう。
私たちは、ここで改めてリスク論の根拠となる不確実性を問題にしなければならない。小島寛之氏は、確率には頻度主義的な確率と人の信念や覚悟のような心理状態を確率化しようというものと二種類あるという。リスク論は、単純にいえば不確実性としての危険を、確率的につかまえることで形式的に必然化させる手段であるが、そうであれば、二とおりあるということになる。小島氏が紹介するベイズ統計学は、この二種類の確率の中間あたりに位置するものだという。
ファイナンスの世界で盛んに喧伝されるリスクは、ヘッジの対象であるだけではなく予想以上の収益を生み出すチャンスでもある。だからこそ、いかにリスクを的確に予想するか、つまり確率の度合いを高めることに奔走するのだ。経済活動は生き物のような振る舞いをするという意味では、頻度主義的なアプローチでてなずけるにはしょせん限界がある。心理的な要因も影響する場合が少なくない。ベイズ統計学が復活してきたのは、経済活動というものがこのようにナマモノの世界ときわめて近い性質を持っていると理解されるようになったからであろう。事実、有能な経済学者を集めても、ナマモノの世界ゆえに飼いならすことはできずに破綻したヘッジファンドもあったくらいだ。一寸先は闇という意味では、人間の「生」とそう変わらないのかもしれない。
小島氏は、経済活動の一つの特徴としてそれが一回きりの現象だから予想が難しいのだろうという。何回か実験したのちにおおよその予測を立てるといったことが、もともとできないのが経済という世界なのだ。このような絶対確実なことが存在しない世界、ストカスティック(不確実的)な世界を相手にするには、リスク論でも手に負えないのである。一度しか起きないことというのは、もはや時間そのものと一体化した現象だからであり、ある意味では数値化も制御も不可能に近い事態だといえる。
「人の死」をエンドポイントに置くのがリスク論であれば、健康を維持し続けることがリスク論の当面の目的となる。健康リスクという概念は、まさにリスク論の根幹に位置する。しかし、確率現象としてそれを押さえ込むには、それはあまりにも不確実すぎるのだ。なぜならば、「生」とは、一個の生物にとってはたった一回しか起こらないことだからである。「生きている」ということの意味を、一度しか起こらない出来事の連続として捉える限り、未来の「生」を予測するということが、いかに困難なことかおのずと了解されるだろう。
リスクのパラダイムは、根源的に一つのパラドックスを抱えている。この循環論的な逆説から、もしも抜け出すことができるとすれば、それは一回しか生起しない「生」という事態をそのまま受け入れることではなかろうか。健康にとってリスクになりうるものは沢山ある。あらゆるものが、リスク予備軍として控えている。しかし、逆に見れば、リスクに関する決定は、常に別様でもあり得たということでもある。一つの決定は、またほかの決定可能性を示唆する。その意味で、ルーマンが言うようにリスク処理は、偶有的(コンティンゲント)であり、それは人々が培ってきたコミュニケーションのネットワークに常に/すでに織り込まれているものなのだ。おそらくわたしたちが長い間「常識」と呼んできたものは、そうしたコミュニケーションの一つなのではなかろうか。リスク論を考察するにあたって、「常識」の持つ意味を再吟味する必要があるだろう。(佐藤真)


 
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リスクとリスク論

『ここにいてはいけない』内藤誼人 角川書店 2002
『図解 リスクのしくみ』石井至 東洋経済新報社 2002
『リスクマネジメントの理論と展開』南方哲也 晃洋書房 2001
『リスクセンス』J・F・ロス 佐光紀子訳 集英社 2001
『リスクマネジメント読本』「看護管理」編 医学書院 2001
『リスクアセスメント』N・W・ハースト 花井荘輔訳 丸善 2000
『リスク学事典』日本リスク研究学会編 TBSブリタニカ 2000
『「リスク」の教科書』A・アールバック 沢木あさみ訳 花風社 2001
『狂牛病』中村靖彦 岩波新書 2001
『サイエンス・ウォーズ』金森修 東京大学出版局 2000
『リスクとつきあう』吉川肇子 有斐閣 2000
『リスクテイカー』川端裕人 文芸春秋 1999
『リスク・コミュニケーション』吉川 肇子 福村出版 1999
『リスク解析学入門』D.M.カーメン編集 中田俊彦訳
シュプリンガー・フェアラーク東京 1999
『リスク対リスク』J・D・グラハム編 菅原努監訳 昭和堂 1998
『目に見えない危険』河野修一郎 みすず書房 1998
『だからあなたは信用できない』牛場靖彦 読売新聞社 1998
『リスク』P・バーンスタイン 青山護訳 日本経済新聞社 1998
『リスク再考』倉都康行 シグマベイスキャピタル 1998
『リスクの経済学』酒井泰弘 有斐閣 1996
『環境リスク論』中西準子 岩波書店 1995
『保険文化』水島一也編著 千倉書房 1995 
『リスク心理学入門』岡本浩一 サイエンス社 1992

リスクのパラドックス

『リスク』土方透編著 新泉社 2002
雑誌『情況』2002年1.2月号「特集 科学技術とリスク」情況出版 2002
雑誌『現代思想』2000年1月号「特集 確率化する社会」青土社 2000
『侵入者 いま〈生命〉はどこに?』
J-L ナンシー 西谷修訳編 以文社 2000
『安全学』村上陽一郎 青土社 1998

健康のトラウマ

雑誌『現代思想』2000年9月号「特集 健康とは何か」青土社 2002
雑誌『Newton増刊号』5月号
「特集 からだの通信簿」ニュートンプレス 2002
雑誌『環』2001年vol7「特集 歴史として身体」藤原書店 2001
『『健康と医療の社会学』山崎喜比古編 東京大学出版会 2001
「健康」の日本史』北澤一利 平凡社新書 2000
『生活習慣病にならない方法』日野原重明 女子栄養大学出版部 2000
『健康論の誘惑』佐藤純一ほか 文化書房博文社 2000
『健康とジェンダー』原ひろ子・根村直美編著 明石書店 2000
特集アスペクト62『ニッポン健康法大全』アスペクト 1999
『週間朝日百科日本の歴史97』朝日新聞社編 朝日新聞社 1988
『医療の原点』中川米造 岩波書店 1996
『医学の不確実性』中川米造 日本評論社 1996
『病い論の現在形』小林昌廣 青弓社 1992
『健康と病のエピステーメー』柿本昭人 ミネルヴァ書房 1991
『健康という幻想』R・デュボス 田多井吉ノ助訳 紀伊国屋書店 1977
『臨床医学の誕生』M・フーコー 神谷美恵子訳 みすず書房1969

身体の再生、改造

雑誌『現代思想』2002年2月号
「特集 先端医療……資源化する人体」青土社 2002
別冊宝島Real019『操作・再生される人体』宝島社 2002
雑誌『Newton』2002年5月号
「特集 人類200歳時代」ニュートンプレス 2002
『優生学と人間社会』米本昌平・松原洋子ほか 講談社現代新書 2000
『身体/生命』市野川容孝 岩波書店 2000
『人体改造』寺園慎一 日本放送出版協会 2001
『人体再生』立花隆 中央公論新社 2000
『生命操作事典』生命操作事典編集委員会 緑風社 1998

リスクをとる社会

『心でっかちな日本人』山岸俊男 日本経済新聞社 2002
『サイバー経済学』小島寛之 集英社新書 2001
AERA MOOK『新心理学がわかる[現場から]』朝日新聞社 2000
『金融工学とは何か』刈屋武昭 岩波書店 2000
『不確実性と人類の未来』O・ジアリーニ、W・R・スタヘル著
佐々木建監訳 柴田清・中田俊彦訳 日科技連出版社 2000
『安心社会から信頼社会へ』山岸俊男 中公新書 1999
『信頼の構造』山岸俊男 東京大学出版局 1998