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談 no.68 WEB版
 
特集:こころとからだのエコロジー
 
表紙:O JUN  ポートレイト撮影:鈴木 理策
   
   
 
こころとからだをつなぐ免疫機能……顆粒球とリンパ球から見た人間

安保徹
Toru Abo
こころとからだをつなぐものはなんですかという質問に対しては、私ははっきりと自律神経だと答えています。確かに、これまで医学は明快に答えてこなかったのは事実です。というかちゃんと答えられなかったのは、研究が足りなかったからですが。だから私は調べて見たんです。そうしたらいろいろ新しいことがわかってきた。そして、とくに自律神経系が大切な役目を果たしていることがわかったわけです。

あぼ・とおる
1947年青森県生まれ。東北大学医学部卒業。現在、新潟大学大学院医歯学総合研究科教授。著書に、『ガンは自分で治せる』マキノ出版、2002、『医療が病いをつくる』岩波書店、2001、『絵でわかる免疫』講談社、2001、『未来免疫学』インターメディカル、1997、がある。

 

脳は腸を/腸は脳を

福土審 Shin Fukudo
過敏性腸症候群の患者さんたちが何に苦痛を感じているかというと、 まず、自分が健康であるという全体的健康観と、それを実感できる精神的な健康観が持てないことなのです。そういった感情がQOLを非常に低下させている。そもそも消化管というのは、とても古い臓器です。脳のかなり古い部分とおそらく密接に結び付いていて、自分が元気だという感覚、 要するに情動の深い部分に強い影響を与えてしまうらしいですね。

ふくど・しん
1958年生まれ。東北大学医学部医学科卒業。医学博士。心身医学、行動医学専攻。現在、東北大学大学院医学系研究科人間行動学教授。共著書に、『シリーズ21世紀の健康と医生物学5 こころとからだ』、昭和堂、2002、主要論文に、「過敏性腸症候群の異常な脳腸ストレス反応」J ClinGastroenterol 17:133-141,1993、「CRH負荷に対する過敏性腸症候群の消化管運動」Gut 42 845-849,1998、ほかがある。

 

性の多様性……性同一性障害から考える

山内俊雄 Toshio Yamauchi
男/女の間というのははっきりと分かれるものではなくて、グラディエーションがあるものなんですね。女の人でもある種の男よりも能力が高い人はいるし、空間認知力に優れている人もいる。つまり、二分法で簡単に分けることはできないわけで、そこのところは勘違いしてはいけない。確かに、生物学的な特徴はあるけれど、実際の社会の中では、さまざまな因子が働いていて、男だから、女だから、というふうに簡単に分けられないということを認識する必要があります。

やまうち・としお
1937年長野県生まれ。北海道大学医学部卒業。現在、埼玉医科大学教授、同大学副学長。著書に、『性同一性障害の基礎と臨床』新興医学出版、2001、『性の境界』岩波科学ライブラリー74、岩波書店、2000、『性転換は許されるのか--性同一性障害と性のあり方』明石書店、1999、編著書に、『心の家庭医学』保険同人社、1999、ほかがある。

 

今、「こころ」で何が起こっているのか……解離性同一性障害とひきこもりを例に考える

斎藤環 Tamaki Saito
多重人格のキャラにはファミリーネームがない。それについて、私なりの仮説があります。これはいわゆる固有名に対する抵抗ではないかと。つまり固有で単一の主体だとトラウマを一手に引き受けるには重すぎる。固有で単一の自分が破壊されてしまったら後がない。とりあえずそれを防ぐためにその緩衝材としていくつかの人格を捏造する。それが多重人格という戦略なんです。

さいとう・たまき
1961年岩手県生まれ。筑波大学医学専門学群卒業(環境生態学)。医学博士。現在、爽風会佐々木病院精神科診療部長。また、青少年健康センターで「実践的ひきこもり講座」ならびに「ひきもり家族会」を主宰。専門は、思春期・青年期の精神病理、および病跡学。著書に、『博士の奇妙な思春期』日本評論社、2003、『若者のすべて』PHPエディターズ・グループ、2001、『戦闘美少女の精神分析』太田出版、2000、『社会的ひきこもり』PHP新書、1998、『文脈病』青土社、1998、ほかがある。

 

精神・社会・環境……ガタリの「三つのエコロジー」再考

杉村昌昭 Masaaki Sugimura
ガタリは、三つのエコロジーを接合させて、エコゾフィーという言葉で表現しました。
エコゾフィーとは、エコロジーという環境の生態を考える学問の流れと、フィロゾフィー、 つまり哲学とを組み合わせた造語です。あえて訳すとすると「環境=生態的哲学」とでもいえるかと思います。
あらゆる生態、環境の生態に加えて社会の生態、心の生態を組み合わせて考えなければならないという意味が 込められているわけで、まさしくそれは今まで述べてきた三つのエコロジーに対応する考え方です。

すぎむら・まさあき
1945年静岡県生まれ。名古屋大学文学部仏文科修士課程修了。現在、竜谷大学教授。著書に、『漂流する戦後』1998、『資本主義と横断性』1995、共にインパクト出版会、訳書に、『三つのエコロジー(新装版)』F.ガタリ、大村書店、1997、『分子革命』F.ガタリ、法政大学出版局、1988、ほか多数。また、近々A.ネグリ『生政治的自伝』作品社より刊行予定。

 

editor's note[before]


「こころの病い」の時代とエコロジー


こころの周辺で何かが起こり始めている。

 PTSD、ADHD、LD、DID、GID、CS、IBS。今、聞きなれないこうした横文字が、新聞やTV、雑誌を賑わせている。これらはそれぞれ、心的外傷後ストレス障害、注意欠陥多動性障害、学習障害、解離性同一性障害、性同一性障害、化学物質過敏性障害、過敏性腸症候群の頭文字をとったものであるが、いずれも「こころ」と深いつながりをもつ。もちろん、ひきこもりやトラウマ、自傷行為、パニック障害、思春期拒食症といった言葉はすでに何年も前からメデイアに頻繁に登場している。また、必ずしもこころだけに還元できないものかもしれないが、ドメスティック・バイオレンス、マインドコントロール、アダルト・チルドレン、児童虐待、さらには癒しといったものまで加えれば、おそらく私たちは毎日これらの言葉を目にしているのではないだろうか。
 こころへの関心が高まっていることは確かだろう。文化庁長官にユング心理学の学者が就任する時代である。聞くところによれば、現代の人気職業の上位に臨床心理士を挙げる若者が多いという。まさに、現代は「こころ」の時代なのだ。ただ、それは言うまでもなく、病気や社会問題を伴うようなネガティヴな意味での「こころ」である。だから、正確には、「こころの病い」の時代というべきであろう。
 こころの周辺で何かが起こり始めている。それは、こころをとりまく環境が大きく変わりつつあることを示しているのではないだろうか。現代のこころの置かれている状況を、今号は「エコロジー」という観点から捉えてみようと思う。

見直される心身医学

 従来、こころを扱う科学は心理学であった。心理学は言葉からのアプローチと、行動からのアプローチと大きく二通りの方法でこころについて考えてきたといえる。前者は言語とこころの中身とのかかわりを探るという意味では、こころそのものに直接関与しようというものである。一方、後者は、こころのありようを外部から眺めるものである。人間の行動はこころの表象であるという認識にもとづいて、こころにいわば間接的に迫ろうというものだ。言うまでもなく、前者は精神分析であり、後者は行動主義である。
 こうした二つの視点に対して、こころは脳にあるという立場で考えるのが認知心理学だ。認知心理学は、こころの働きに照準を合わせて、脳機能のメカニズムとしてこころを捉えようというものである。この立場を押し進めたものが脳機能還元主義で、いっさいのこころの現象は、脳内過程によって生み出されるというものだ。
 ところで、こころを考える時に、こころだけを対象にしていては限界がある。というのも、こころはからだと一体になっているからだ。からだからこころを分離してはこころの実態には迫れない。思えば、言語(発話)は喉や呼吸器官を使うという意味でからだなくしてはありえないものであるし、行動の表象はからだの表象とイコールである。いわんや脳は臓器の一つであり、からだそのものだ。つまり、心理学はこころそのものを対象にしているといいながら、そのじつからだも射程に含まれていたと考えても間違いではない。間違いではないのだが、なぜかからだについて心理学は深く言及することはなかったように思われる(からだを真正面から取り上げたのは生態心理学が最初である)。
 こころとからだを切り離してしまったのは医学であるという反省を出発点として、誕生したのが心身医学だ。日本では心療内科という名前がつけられているが、医学の側からこういう考えが生まれてきたことに注意したい。こころとからだは二つで一つという前提のもとにこころをからだとの相関で捉えようという発想は、医学の一分野として生まれてきたのである。心身医学が扱う中心は、自立神経系、内分泌系、免疫系などの生体調節機構である。とくに、ストレスとの関係でそれぞれの生体調節機構がどう働くかがその研究対象になっている。ストレスというゆがみが及ぼす功罪を考えるのである。つまり、心身医学はこころをからだとのつながりの中で、ストレスとのダイナミックな関係として考察するのである。心身医学は、言い換えればこころとからだの生体=生態環境の科学なのだ。
 冒頭に挙げた現代のこころの病いに共通するのは、奇しくも自立神経系や内分泌系、免疫系などの生体調節機構と深く連動する病気が多いことに読者は気づかれるだろう。その理由を探ることも今号の特集の一つの目的ではあるが、それはひとまず措くとしても、現代のこころの問題が、からだとの深いつながりをもっていることに大きな特徴があることは確認しておきたい。

免疫、自然治癒の力

 あなたは「顆粒球人間」か、それとも「リンパ球人間」か。そんなコピーが表紙を飾っている『未来免疫学』(インターメディカル)という本に出会った。胃潰瘍やがんになりやすい人、ストレスやおなかの空いている時、あるいはからっと晴れた日、人は交感神経が優位になって顆粒球が多くなる。また、花粉症やアトピーになりやすい人、ゆったりとした性格の人、満腹時、あるいは雨がそぼ降るほの暗い日、人は副交感神経優位になってリンパ球が多くなる。交感神経緊張状態にある人は「顆粒球人間」で、逆に副交感神経が働いている状態にある人は「リンパ球人間」。両者のバランスから人間を捉え直せるのでないか、というのが本書の内容であった。
 この本の著者安保徹氏は、免疫学の専門家だ。安保氏は、免疫機構を研究していく中で、免疫の働きを担う白血球が顆粒球とリンパ球からなることをつきとめた。そして、その割合が自立神経系と同調し、絶えず変化していることを科学的に明らかにしたのである。顆粒球が多くなっている人を「顆粒球人間」、逆にリンパ球が多くなっている人を「リンパ球人間」と二種類に分けてみる。すると、その人のからだが今どんな状態にあるかよく理解できるようになるという。おおよそどっちのタイプに属するか人間を二通りに分けることもできるが、一人の人間でも「顆粒球人間」になったり「リンパ球人間」になったりする。人間とは、その両者をリズミカルにいったりきたりする存在であり、それはまた人間という生きものの面白いところだという。
 安保徹氏は、この考えをさらに進めて、病気の原因とは何かという問題に踏み込んだ本を著した。それが、『医療が病をつくる』(岩波書店)で、ここでは現代の病気の八割近くは、広い意味でのストレスや薬剤の使用法の間違いから起こっているという考えを示した。ストレスの持続は交感神経を緊張状態にする。交感神経緊張状態は、顆粒球増多を招き、病気を発症させる引き金となる。したがって、まずストレスを取り除くことが治療の第一歩になるという。それには、顆粒球とリンパ球の拮抗関係、そのメカニズムを理解したうえで、個体の持つ組織修復能をうまく導き出すことにあるというのである。
 これまでの免疫学はその発生機序やメカニズムにばかり研究が進んでしまったために、生体を修復するという機能の研究がおろそかになってしまった。本来重要と思われるのはむしろこっちで、何もいたずらに難しく考える必要はなく、白血球の働きをきちっとおさえることから免疫の仕組みを考えればよい。それをあえて新しい未来の免疫学と呼ぶとすると、それは「こころとからだをつなぐ免疫学」なのだというのだ。
 私たちは、「こころとからだのエコロジー」を、免疫学の最新の研究を探るところから始めてみたい。もちろん、お尋ねするのは、『未来免疫学』『医療が病をつくる』の著者新潟大学大学院医歯学総合研究科教授・安保徹先生である。テーマはズバリ「こころとからだをつなぐ免疫機能……顆粒球とリンパ球から見た人間」。免疫力を見直しその修復能を高めれば、不治の病いといわれるがんにも対抗できるという。免疫という精妙なシステムを、「こころとからだをつなぐ」自然治癒力という観点から捉え直してみたい。

ストレスを主因とする過敏性腸症候群

 極度の便秘や激しい下痢に悩む若い女性が多いといわれる。とくに会社や学校に行く日、あるいは月曜日の朝にそうした症状が出やすい。最近では、同じ症状を訴える男性も目立ってきたといわれる。ところが、レントゲンや内視鏡の検査をしても、潰瘍や炎症、ポリープといった病変は見当たらない。そのため「がんや潰瘍はないので放っておいても大丈夫」「死ぬような病気ではないので心配はいらない」と医者に言われ、悩み続けている。こうした腹痛、便秘、下痢の異常を訴える患者さんのおよそ二割は、IBS=過敏性腸症候群だといわれる。消化管の機能性疾患の一つだが、これまではっきりとした病態が示されないために、まともに取りあげられずにきたのである。しかし、何度もトイレに駆け込まなければならなかったり、腹痛で仕事もろくに手に付かない、また、熟睡できないなどの抑うつ傾向の患者さんも少なくなく、QOLの著しい低下を招いているということで、にわかに関心が高まってきた。
 過敏性腸症候群の特徴の一つは、不安やストレスによって症状が出やすいことだ。脳が不安や精神的ストレスを受けると自律神経を介して胃や腸に情報が伝わり、運動異常を引き起こす。過敏性腸症候群はストレスを主因とする心身症なのである。
 ところで、腸は脳と脊髄から独立していることを特徴としている。私たちが寝ている時、あるいは麻酔をかけられて寝かせられている時でも、腸は確実に働き続けている。交通事故にあって脊髄損傷を起したり、いわゆる脳死の状態であっても腸はその動きをやめない。「腸は自律能をもっている」という意味で「腸は小さな脳である」という(藤田恒夫著『腸は考える』岩波新書)。
 過敏性腸症候群の患者さんは、健常者と比較して大腸に知覚過敏が起きているということを検証しているのが東北大学大学院医学系研究科人間行動学教授・福土審氏である。福土氏の研究によれば、脳と腸の間では情報のやり取りがあり、脳から腸へのシグナルだけではなく、反対に腸から脳へのシグナルもあるということがわかった。この相互関係を「脳腸相関」と呼び、過敏性腸症候群の発症の仕組みを明らかにしようというのだ。福土審氏に、こころとからだの結び付きを脳と小さな脳である腸の相関、「脳腸相関」を手掛かりに探っていただく。

生物学的性と自己意識としての性の食い違い

 私たちは、男と女のどちらかに属している。少なくともこれまではそう考えてきたし、それについて疑うなどということはなかったはずだ。自分が男であるか女であるかは、自明である。履歴書やパスポートの性別欄に男/女のどちらかを書き込むことに躊躇するなどという事態が起ころうとは考えてもみなかったのである。もちろん、両性具有や半陰陽ということがないわけではなく、そうしたことが存在することは知られていた。しかし、それはあくまでも例外的なことには違いなく、ほとんどの人は間違いなくどちらかの性に帰属している。
ところが、性には生物学的な性のほかに、自己意識・自己認知としてのもう一つの性があるのだ。しかも、生物学的な性には外内性器の違いのほかに、脳内の性差があって、外内性器の差異と脳内の性差が一致しない場合があるという。発生生物学、内分泌学の立場から、性そのものが可塑的なものだということも明らかになった。つまり、性には、からだの性とこころの性があり、両者は必ずしも一致しないということがわかってきたのである。
 生物学的性別=セックスと性の自己意識・自己認知であるジェンダーが一致しない、こうした性の同一性が障害されている場合を「GID=性同一性障害」という。生物学的性に違和感をもち、自己意識・自己認知としての性の方がしっくりいく。そういう場合、自らの生物学的性を受け入れることができず、そのために身体の性別を変えたいと彼ら/彼女たちは希望する。このようなものを性同一性障害というのである。
 「性同一性障害」はそれまで自明とされていた男女という性差に対して大いなる疑問を突きつけた。ヒトにとって男であること、女であることはどういう意味を持つのか。あるいは、「男らしい」、「女らしい」とは何を意味するのか。さらには、ヒトにとっての性行為は、生物の生殖と同じなのか違うのか……。これまでの性の固定概念は、「性同一性障害」をきっかけに崩れ始めた。
 一九九六年、埼玉医科大学の倫理委員会が性同一性障害を医学的治療対象と認め、治療の一つの手段として、性転換手術を含む手術療法も正当な医療行為であるという判断を下した。この決定がいかに画期的なものであったかは、その後の反響の大きさからもうかがえる。医学の領域で性の多様性が真剣に議論される道が開かれたのである。
 こころとからだは、性という視点からみる限り決して一義的な関係では捉えることはできないのだ。性の自己意識・自己認知とは何か、それはこころとからだの自己意識・自己認知とどうかかわるのだろうか。埼玉医科大学倫理委員会の委員長として、性転換手術の実施に道を開いた埼玉医科大学副学長・山内俊雄教授におうかがいする。

ポストモダンと解離現象

 男女のどちらかの性をもつということがもはや自明ではなくなる。同じようなことが、じつは自分の存在においても起こり始めているとしたら……。解離性障害を簡単に言うと、「私は私」「自分は自分」という一貫性が感じられなくなり、自分がいる現実もリアリティを失ってしまうような状態になることだ。自分は、あるまとまりと連続性をもった存在であるというということが確信できなくなり、昨日の私と今日の私、あるいはAさんと話している私とBさんと話している私はまったくの別人のように思えてしまう。現実感が希薄になって、自分と現実、自分と身体、さらには、自分自身が分離されて自分と自分の間にあたかも膜のようなものができたとように感じられる。つまり、「私」という存在自体の自明性がゆらぎ、あいまいなものになってしまうのだ。
 こうした解離性障害がさらに進んだ状態が多重人格で、自分そのものが複数化してしまう。自分の中に、Aという自分とBという自分がいる。Aは、Bというもう一人の自分のことを知らない。ところが、しばしば自分はBになり、その時は、もちろんAという自分の存在を知らない。これは個人の中に二人の人格がいる例だが、多重人格には数人、時には数十人という人格が現れる場合も稀ではないという。
 唐突にさまざまな人格が現れる。柔和で、いかにも人に好かれそうな女性が、突然会話の途中に話し相手に罵声をあびせる。形相は一転し邪心のかたまりのような表情になって、ののしり続ける。ところが、それもつかの間、急に男性のような野太い声で自分はある著名なスポーツ選手などと言い始める。これは、あるドキュメンタリー番組に登場した多重人格者の例であるが、こんな奇妙なことが起こるのである。しかも、多重人格を含む解離性障害は、ここ十年で猛烈な数で増えているというのだ。
 あるアメリカの報告では、多重人格の診断は七○年代までの五○年間にわずか一二例を数えるにすぎなかったが、八六年には約六○○○例に膨れあがり、現在では人口の一%が潜在的な患者だというのである。もちろん、これは日本においても例外ではなく、同様に九○年代から患者数は激増しているという。たとえば、神戸の連続児童殺傷事件の少年、西鉄高速バス乗っ取り事件、奈良の看護婦による毒物混入事件などの精神鑑定で、「離人症などを主体とする解離性障害」の診断名が下されたことは記憶に新しい。
 「多重人格現象こそが、ポストモダンの想像的戯画にほかならない。」
 多重人格を含む解離性障害は、九○年代以降のいわゆるポストモダンの状況を忠実に反映した現象だと述べたのは精神科医の斎藤環氏である。八○年代にもてはやされたフランス現代思想に「n個の自我」という概念があったが、解離性障害はまさにそれを実現化したものではないかという。しかも多重人格の交代人格は、いわゆる「キャラ立ち」的なニュアンスを強く感じさせるという意味でもきわめて九○年代的だというのだ。
 そこで、この不思議で奇妙なこころの病いについて、斎藤環氏にお聞きする。


二一世紀のエコロジー思想


 「地球という惑星は、いま、激烈な科学技術による変容を経験しているのだが、ちょうどそれに見合うかたちで恐るべきエコロジー的アンバランスの現象が生じている。このエコロジー的アンバランスは、適当な治療がほどこされないならば、ついに地上における生命の存続をおびやかすものになるだろう。」
 思想家であり精神分析医であったフェリックス・ガタリは、『三つのエコロジー』という著作の冒頭でこう述べたうえで、現代の地球的な生態学的な危機に対して、自然環境の悪化を食い止めるためだけではダメで、社会的かつ精神的な生態学が必要だと説いた。ガタリはこれを新しいエコロジーと呼び、来るべき二一世紀の変革のための思想であると宣言した。
 ガタリは、エコロジーには三つあるという。一つは環境エコロジー、二つめは社会的なエコロジー、そして三つめが精神的なエコロジー。ふだん私たちは、狭義のエコロジーである環境エコロジーのみをエコロジーと呼んでいるけれども、じつは三つのエコロジーが相互補完的に関係しあっているとガタリは指摘した。ガタリはそれをエコゾフィーという美的--倫理的な課題として展開することが、わたしたちの生の実践であると主張したのである。
 こころとからだは一体となってエコロジカルな生態環境を形成している。しかし、今、それは至るところで軋みを起こし始めている。とりわけこころは、からだとのつながりを失い、不安や喪失、苦痛にあえいでいる。私たちは、そうした現代の状況をこころの危機と考え、改めて生態環境という観点に立ち返ってみるところからこころの問題、さらにはからだの問題を考えてみようと思う。
 最後に私たちは、この来たるべき二一世紀のエコロジー思想--------こころとからだ、その周囲を取り囲む外部環境をも一体とみる--------に耳を傾けてみたい。お尋ねするのは、『三つのエコロジー』の翻訳者でガタリと親交のあった竜谷大学教授・杉村昌昭氏である。 (佐藤真)




 

editor's note[after]


渾沌/秩序の両方に開かれたこころとからだ

すべてはバランスから


 こころとからだをつなぐもの。それは自律神経である。自律神経という神経ネットワークによって、無意識のレベルでこころとからだは調整されている。神経の中では古い部類に入る自律神経は、それゆえ人間にとっては基盤となるような大事な機能を担っている。人間は生物進化の頂点に立っているが、自律神経という無意識のシステムによって支配されているという意味では、下等動物となんら変わりがないのだ。
 人間は大脳皮質を爆発的に発達させた。そのためか、思考や行動、判断といったものの一切合切が脳の情報処理によって行われているように思われているようだが、これは単純な誤謬である。人間においてもほかの生きものと同様に、大脳皮質に頼らない情報経路をもっている。まさに脳から自律(=オートノミー)した神経なのである。
 自律神経は、交感神経系と副交感神経系の二つからなる。この二種類の自律神経は相互に関係していて、どちらか一方が独立して働くということはない。つまり、交感神経が活発化する時には、副交感神経の活動は抑えられる。逆に、副交感神経が活発化する時には、交感神経の活動は抑制される。自律神経は常に両者の相互作用によって活動しているのである。
 白血球がこの二つの自律神経の支配下にあるという事実を発見したのが安保徹氏だ。白血球は免疫機能を担う細胞で、病気やけがをした時に活躍する。その生体防御機構である白血球が、じつは交感神経と副交感神経の強い影響下にあるということを安保氏は突きとめたのである。
 白血球は、赤血球と同じように体内を動き回る細胞である。白血球は、マクロファージ、顆粒球、リンパ球の三つからなり、細菌類やウイルスが進入するとその場所まで行って攻撃を加える。体内を循環することによって、常に生体を監視し続けているわけだ。ところが、自律神経の支配を受けている白血球が、逆に自律神経を支配する場合がある。安保氏は、「働きすぎ、飲みすぎ、こころの悩み」に共通するものは、交感神経の絶えざる緊張だという。白血球の顆粒球が増加すると、その死骸が活性酸素を多量にまき散らすことになる。それが、からだの組織や細胞を破壊する。つまり、自律神経が逆に白血球によって支配されてしまう。これが極端に進んだ場合に起こるのががんである。
 顆粒球、リンパ球の量で、その人のおおまかな体調を予想することができるという。
 「正常の人の平均値は顆粒球が約六○%、リンパ球が約三五%。それが、交感神経優位にある人の場合は、顆粒球が約七○%、リンパ球が約二五%。一方、副交感神経優位の人は、顆粒球が約四五%、リンパ球が約五○%となる。そして、この関係は、その人の体調とも相関します。交感神経優位の時になる症状には、肩こり、腰痛、便秘、食欲不振、高血圧、痔、歯槽膿漏、不眠などです。一方、副交感神経優位の時になる症状は、鼻水が出る、からだがかゆい、蕁麻疹、元気が出ない、アレルギー疾患などです。」
 ムリして働きすぎると顆粒球が増加する。歯槽膿漏や痔、腰痛は顆粒球が増えることで起こる病気だ。反対に、リラックスしすぎると蕁麻疹や花粉症などの、アレルギー疾患が起こる。どちらに傾きすぎてもいけないわけで、重要なのはそのバランスである。けがをして傷口が発熱し赤く腫れあがるのは、血流を増やし組織を修復する生体反応である。自ら必死で治そうとしているのだから、消炎鎮痛剤を使うのは逆効果、根本的な治療にはならない。こういう発想こそ、安保氏の考えの真骨頂である。
 安保氏の主張する「原因療法」とは、簡単に言えば、自律神経が本来もっているメカニズムを使って、病気を治すことである。バランスが崩れるから病気になる。ならば、反対にバランスをとり戻してやれば回復するはずだ。安保徹氏は無能唱元氏との共著『免疫学問答』(河出書房新社)で、がんでさえもバランスをとり戻せれば治ると主張する。がんにならないためには、「いつもニコニコ副交感」の状態になることをこころ掛けようという。もっとも、副交感神経優位に傾きすぎてもよくないことは言うまでもない。「こころを鍛える」ことによって、副交感神経支配の生き方に傾きすぎないようにすることも大事だ。
 安保氏が「こころを鍛える」と言っても、彼自身強調するように、決して精神論的な視点からそう言っているわけではない。これはれっきとした科学的知見にのっとった主張なのである。こころとからだをつなぐもの、それを「自律神経とはっきりいわなければダメ」だと安保氏が強調するのも、まさしくこの考えがサイエンスだと確信されているからだ。


ヒトの「元気」はどこからくるのか


 内臓感覚の重要性。『談』では以前「内臓感覚の復権」というテーマで座談会を行ったことがある(『談』no.53特集食の哲学……ガストロノマディズム、一九九六)。故三木成夫氏の解剖学的内臓論を「内臓感覚」という視点からもう一度掘り下げてみようという意図で行われた。三木成夫氏は、動物器官と植物器官という対立軸を立てて、脳と内臓・心臓の対立と矛盾を見据えたうえで、前者が後者を支配してきたところに近代の倒錯性の根源を見た。そして、その優位関係の逆転の意味を独自の進化論的発想から説いた。この座談会は、私たちに、植物器官、内臓系をベースにした新しい身体観の必要性を強く促した。
 福土審氏の研究は、脳が消化管をコントロールしていると考えられてきた従来の考え方に対して、消化管が脳をコントロールしていることを示そうというものだ。もとより、どちらが先か後かということではなくて、消化管と脳は相関関係をもっているという事実を明らかにしようとしているのである。三木氏の内臓感覚への傾斜は解剖学的裏付けによるものではあったけれども、それはいささか直観的すぎた。それに対して、福土氏の知見はあくまでも実験によって得られたものである。しかも、興味深いのは、バロスタットという機器を使用して、消化管の運動と知覚の測定をしていることだ。これまで難しかった被験者の感じている内臓知覚を、バロスタットによって直接測定できるようになったのである。その結果どんなことがわかったか。
 これまでたぶんに個人の「気分」の問題と考えられていたIBSの患者さんは、実際に腸の知覚が敏感であることが了解されたのである。つまり、IBSの患者さんはストレスによって症状を感じるのは単に神経質だからであり、「症状を気にしなければいい」と医者に言われ続けてきたのだが、じつは神経が細かいといった気持ちの問題ではなく、実際に腸が敏感に反応していることが立証されたわけである。
 IBSの病態の特徴は、一つにストレスによって発症・憎悪することがあげられる。となると、次に問題となってくるのは、ストレスによって発症・憎悪することと腸の知覚過敏がどう関連しているかである。
 「IBS患者の場合、健常者に比べると、CRHによって誘発される消化管の運動の程度が非常に強く、またCRHの負荷に対する副腎皮質ホルモン刺激ホルモン(ACTH)の反応性も高いのです。つまり、CRHという物質によって、ストレスによる消化管運動の変化と心理的な異常は説明できそうです。」
 つまり、なぜ人は消化管刺激によって不快感をもつのか、ストレスとの関連で深くかかわる物質があることが解明できるかもしれないということだ。それが特定できれば、ストレス、脳、消化器の関係はより明確になるだろう。そうすると、次のような疑問も生まれてくる。消化管に不快を感じない時は調子のいい時なのではないか||。
 「QOLの調査によれば、IBSの患者さんたちが何に苦痛を感じているかというと、まず、自分が健康であるという全体的健康観と、それを実感できる精神的な健康観がもてないことなのです。そういった感情がQOLを非常に低下させている。そもそも消化管というのは、とても古い臓器です。脳のかなり古い部分とおそらく密接に結び付いていて、自分が元気だという感覚、要するに情動の深い部分に強い影響を与えてしまうらしい。」
 私たちは、おなかの調子がいい時、「元気」と感じるのかもしれない。まさしく、「快便快食は元気のしるし」なのだろう。内臓感覚はそのままQOLと直結しているのであれば、それはそのままこころの問題でもあるのだ。こころの「元気」はどこからくるのか、それはおなかからやってくる。

パンドラの箱を開けてしまった私たち

 「性同一性障害の問題が注目されるようになってよかったなと思うのは、少なくとも自分自身についてもそうでしたが、これまで性欲とか性行為とかそういうことでしか性という問題を考えてこなかった中で、性にはもっと違う面があるということを皆が認識したり、議論したりし始めたという点です。」
 性同一性障害を医学的治療対象と認めた決定は、単に医療行為としての性転換手術の可能性へ道を開いただけではなかった。山内俊雄氏が指摘するように、性そのものが広がりをもったものであり、人間にとって深い問題を孕んでいる事実を私たちに投げ掛けたのである。性の問題というと、性の指向や行為にばかり関心が集まる。しかし、そもそも性とはどういうものか、あるいは、なぜ男/女という違いが存在するのかといった根本的な問題がある。とりわけ、性差は性そのものを決定づけている重要な要素であると同時に、社会を成り立たせている大きな柱でもある。そうした性差が、性の問題として議論の対象になる道を開いたことは大きな一歩なのである。
 「性器の異常や性欲対象の異常といった問題は扱っていましたが、ジェンダーというのは性の問題からまったく欠落していたんですよ。だから、そういう問題を投げ掛けることができた、という意味では非常に画期的だったといえるんじゃないでしょうか。」
 ジェンダーを性の問題として捉え直す。このことは、私たちが考える以上に大きな意味をもつ。なぜならば、ジェンダーというとこれまでは「ジェンダー研究」とか「フェミニズム論」といったように、どちらかというと社会学的な観点から捉えられてきた。ジェンダーを性の問題として、さらには、医学の対象として考えるということはほとんどなかったという。
ここで、ジェンダーという言葉の使い方について補足しておきたい。山内氏は著書『性の境界』(岩波科学ライブラリー)の中で、ジェンダーには三つの使い方があるという。一つは、「性の自己意識・自己認知」。インタビューで言われているのはもっぱらこの意味で、自分の性別を男/女であると感じたり、男/女と認めたりすることである。「心理的・社会的性」と呼ぶこともある。二つめは、生物学的性別のことで、形態や機能のうえから区別できる雌雄をいう。とくに生物学では、「性的二型」と呼ぶこともある。三つめがいわゆる「社会学的・文化的に形づくられた性別」。これは、男/女が異なる性として人為的・社会的につくられるというだけでなく、男性優位の形でつくられ、位置づけられるという意味ももっている。すなわち、最初から性差別的な視点が包含されている。したがって、生物学的性別は不変であるが、社会的につくられたジェンダーは変わりうるものという認識があり、そういう観点から議論されているのが「ジェンダー研究」や「フェミニズム論」である。注意しておきたいのはこの第三の立場だ。生物学的性別は不変であると言ったが、この立場の中には、生物学的性別の基盤となる生物学、あるいは生物学を含む自然科学それ自体が男性優位の概念枠を形成していると主張する研究者もいるからだ。「性的二型」そのものがすでにそうした色眼鏡によって潤色されたものであるというのである。自然科学は男によってつくられたものである限り、実証的データであってもその概念枠からは逃れられないという意味で性差別的であるというわけだ。もちろん、ここではこれ以上立ち入らないが、ジェンダー論の射程には、批判の矛先をこうした科学そのものに向けているものもあることは付け加えておきたい。
 性分化は、遺伝子的レベルのほかに、発生学的レベル、性ホルモンの代謝による内分泌的レベルという段階を経て起こる。その意味では性分化は可塑的であり、ボタンのちょっとした掛け違いで男/女の区別はゆらいでしまう。生物学的性別は不変のものという考えは、からだを扱う本業の医学においてすら、すでに過去のものとなりつつあるのだ。
 「男/女の間というのははっきりと分かれるものではなくて、グラディエーションをもったもの」だとすれば、改めて問われるのは、「いったい男らしさとか女らしさとはなんだろう」ということだろう。「ジェンダーは何か人間存在の核であるとさえ思える。」
 そうであれば、私たちはどのように性を決定するのだろうか。「性の自己意識・自己認知」という問題領域は、脳死問題とも共通するところがある。性の自己意識あるいは自己認識という場合の、自己とはいったいどこにあるのか、あるいは何を指すのか。単純にして最大の難問がこの「自己」というもののありようだ。デカルトの懐疑に始まって哲学はこの「自己」との格闘に明け暮れてきた。そして、今、自明とされてきた男/女という問題までもデカルトの懐疑の対象となったということだろうか。性同一性障害とはパンドラの箱なのかもしれない。パンドラの箱を開けてしまった私たちはいったいどこへ向かおうとしているのか。

解離すらできない「ひきこもり」

自己の存在を厳密に確認することができない。何も難しいことを言おうとしているわけではなくて、「自分とは何か」というしごく単純な問いかけをしているにすぎない。たとえば、私、俺、僕…、どう呼んでもいいのだが、この私、俺、僕は何を指しているのだろうか。自分のからだ?  頭の中身? 自分のこころ? それとも……? たとえば、スポーツの最中、無我夢中で熱中している時、自分とはからだのことだと感じているのではないか。あるいは、熱心にあることを勉強している時、まぎれもなく自分とは脳の活動だと思っているだろう。また、恋愛をして相手のことしか考えられない時、自分とは恋をしている「こころ」の状態のことだと思っているのではないだろうか。自分とは何か、この確認すべき自己そのものが、じつはある時、ある場面で容易に変わるのである。
 同じことが、人格でもいえる。自分が何者であるか答えることは、想像するほど容易くない。たとえば、日中会社にいる時、私は仕事をしている人である。しかし、帰宅途中に同僚といっぱい飲んでいる時は、はめをはずしてふざけている単なるオヤジ。また、家に帰れば、子どもの前で威厳をはなつ父親に変身する。TPOによって人格を変える、あるいは使い分けるのは、普通誰でもやることだろう。仕事している時も、外で飲んでいる時も、家族といる時も、まったく変わらない人格でいる人間がいるとしたら、むしろそっちの方が変だ。同様に、「昨日の私」と「今日の私」は違う。「舌の根も乾かないうちによくもぬけぬけと……」とからかわれたとしても、そもそも同じであるという根拠がないのだからしかたがない。私たちはこれまで暗黙裏に自らのうちに自己同一性を認めてきた。しかし、この自己同一性、アイデンティティというものが単なる思い込みの産物だという可能性は高い。解離現象はそのことを突きつけているのだとすれば、「同一性」を自明とする私たちの概念枠への挑戦ともいえる。
 ところで、解離とひきこもりの関係について、斎藤環氏は次のように言っている。
 「ひきこもりというのは、基本的には柔軟に解離できなかった人間が、強いて物理的に自分を解離するための最後の方策だという面もあると思う。」
 十分に解離できないという状況では、ひきこもりという最後のカードに頼るほかないというのである。「コミュニカティヴな人は解離の方へ行き、コミュニカティヴじゃない人はひきこもってしまう。コミュニケーションを一つの軸にすると、その違いがはっきりします。」
 確かに、ケータイはその意味でシンボリックなツールだといえるだろう。ある意味で、解離しなければ使いこなせない道具の一つだという指摘は示唆的である。eメールにしてもゲームにしても共通するのは、ケータイと同じようにある種の解離をアプリオリなものとして成立するメディアだということだ。たとえば、出会い系サイトにアクセスしている人の中には、年齢や性格を偽っている者は少なくないという。実際に会ってみたら、性別さえも違っていたという冗談のような話は山ほどある。ゲームやアニメ、コスプレといったいわゆるサブカル、オタク系文化は、解離と紙一重の関係にあるといっていいかもしれない。ただ、斎藤氏が指摘するように、「解離性同一性障害は女性が多く、ひきこもりは圧倒的に男性」という非対称性は確かにあって、コミケに二次創作ものを出展したり、コスプレに熱中するのは、圧倒的にヤオイ系が多いといわれている。いくつもキャラをとっかえひっかえしながら生きていくような、あえて誤解を恐れずにいえばこういったプチ解離的人格は、ある意味したたかさでもある。それができないゆえにひきこもるのだとしたら、ひきこもりの病理は相当に根が深いものだと言わざるをえない。
 斎藤氏の発言でもう一つ注目したいのは、「こころ」と「からだ」に関する次のような指摘だ。
 「身体がどんどん抽象化されていって、いくらでも操作可能なもの、一種の概念のような扱いを受ける傾向が出てきている。」一方、「こころの方は逆に身体化の方向に向かっている感じがします。(…)こころが分割可能なもの、切ったり分けたりすることができるもの、そういうイメージができてしまったために簡単に解離できてしまうのではないでしょうか。」
 今や、こころは実体をもった物質のように扱われ、逆に、からだはあやふやでアモルフ(不定形)なものとしてイメージされている。こころとからだのこの倒錯した関係は、デジタルメディアの介在によって、よりはっきりしと形で現われてきているように思われる。こころとからだという常識的な対立図式が用をなさないのであれば、私たちはこころとからだの新たな概念枠を早急につくり出す必要がありそうだ。

カオスモーズのただ中へ

 統合(失調症)こそグローバリゼーションと密接な関係があり、統合はいわば分裂することの可能性を断っていくことである。むしろ、必要なのは分裂であり分裂することを前提とした新たな主観性のつくり直しである||。
 杉村昌昭氏の解釈するガタリの思想は、ガタリ本人が語る以上にラディカルであり、きわめて刺激に富むものとなった。たとえば、統合失調症よりも分裂失調症と呼ぶべきではないかという提言に象徴されるように、概念をつくりかえるためには造語による記号化作用も不可避な戦略と考えるガタリとは、根元の部分でしっかりとかみあっているように思われる。分裂(schizes)と主観性(subjectivite)を軸に練り上げられる社会変革のプログラムは、まさに「帝国」の時代にふさわしい脱領土化と生成変化の戦略知だ。私たちは、改めてガタリの先進性に驚きつつも、それが多くの思想家に受け継がれて、あらたな果実を生んでいるという事実を素直に喜びたい。
 さて、杉村昌昭氏のインタビューはほかの四人のインタビューと異なっているような印象を持たれるかもしれない。四人の先生がみな医療を専門にしているのに対して、杉村氏は哲学・社会思想の専門家であるという立場の違いもあるが、その主張自体にある種の隔たりを感じられた読者もおられたのではないかと思われる。分裂や漏出、異質性の称賛は、こころとからだの奥深いバランスや密接な相関を認めようという主張とは、確かに違和感があるかもしれない。斎藤氏が最後に述べた多重化する主体を声高に主張するポストモダニストという批判は、明らかにドゥルーズやガタリを念頭に置いている。
 しかし、そうした微細な概念上の違いはあるとしても、ガタリの思想は本質的に人間の多様性を認め、その解放を目指すものであるかぎり、同じ人間を対象とする医学の考えと矛盾することがないのは言うまでもないことだ。事実ガタリは、精神分析医としてラボルト精神病院で実際に臨床にあたっていたわけだし、病んだこころを回復させるのには、豊かな自然環境が必要だということも十分に自覚していた。表現こそ過激に聞こえるけれども、こころとからだのつながりを求めるという意味では、いずれの考えともリンクし合う思想なのだ。
 こころとからだがバランスよく調整されるには、外部環境とのつながりが無視できない。病気の原因がストレスによるものである場合は、そのストレスを取り除くことがまず先決だろう。からだが被っているストレスに気づき、ストレスからからだを解放すること。一方、ストレスを生み出す外部環境も変えていかなければならない。やはり、必要なのはストレスを生み出す社会構造を変革していくことだ。では、社会構造の変革は、どのように行われるのか。
 「その時に重要になってくるのが、精神の問題です。(…)一つは人間の心理の動きにかかわること。もう一つの意味は、人間のものの見方、感じ方です。」
 ガタリはエコロジーの問題にこの精神の問題を接合したのである。ものの見方や感じ方を変えることが、環境や社会を変えることと同様に重要なことだとガタリは言ったのである。この考えを私たちのこれまでの議論に置き換えてみると、次のようになるだろう。
 からだが変わることは社会が変わることであり、それはこころも変わることである。いや、ガタリの実践思想に則して言うならば、もっと積極的に言う必要がある。すなわち、からだを変えることによって社会を変える。そして、自らのこころも変える。ガタリの三つのエコロジーは、こころ-からだ-社会(環境)がネットワークのようなつながりをもって共に変わっていくことである。こころ-からだ-社会は常に変わり続けるものなのだ。
 「個人という存在そのものが無数のエレメントからなる複合体だとして、それぞれのエレメントがそれぞれのしかたで結び付く。そしてその結合がどんどん増殖していくことによって、個人という人格とはまったく別の次元を切り開く。そういうかたちでつくり出される主観性というものがあり、それをガタリは個人的かつ集合的な主観性というふうに概念化したのです。そして、そうした主観性によって形成される網状的なシステムがほかならぬリゾームだったのです。」
 分裂と主観性による実践のプログラムは、こうして「構築的な動きと異質性への分岐、そしてその混じり合いという二重三重の動きが無限に生成変化するところに、世界の未来(…)エコゾフィー」が実現する。
 「それは同時に分岐への始まりでもあリ、動態的なものなんです。常に動きつつ生れ、結合と分岐の両方の可能性に開かれていく。その意味で、エコゾフィーはカオスモーズ的な状況のただ中で発生し、変化していくものなんです。」

 「こころの病い」の時代は、こころそのものに大きな変化をもたらそうとしている。私たちは、それをむしろ新たな変革の兆しとして受け止めて、こころとからだ、そして社会を結び付けるための新しいきっかけとしたい。こころとからだのエコロジー。それは、常にカオスを孕むという意味では危機であるが、しかし、コスモスの兆しをも孕んでいるという意味では未来への可能性をもっている。そもそもエコロジーとはそうした渾沌と秩序の両方に開かれた思想なのだ。 (佐藤真)

 
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◎科学論の現在
科学論の現在 金森修、中島秀人編著 勁草書房 2002
科学革命の現在史 中山茂、吉岡斉編著 学陽書房 2002
現代科学論 井山弘幸、金森修 新曜社 2000
サイエンス・ウォーズ 金森修 東京大学出版会 2000
知の欺瞞 アラン・ソーカル、ジャン・A・ブリクモン 田崎春明ほか訳 岩波書店 2000
科学の現在を問う 村上陽一郎 講談社現代新書 2000
知の総合化への思考法 高辻正基 東海大学出版会 2000
科学史事始 渡辺正雄 南窓社 2000
科学を考える 岡田猛ほか 北大路書房 1999
ロバート・フック 中島秀人 朝日新聞社 1996
科学論入門 佐々木力 岩波書店 1996
フランス科学認識論の系譜 金森修 勁草書房 1994
岩波講座現代思想 10 科学論 新田義弘編 岩波書店 1994
科学論 戸坂潤 青木書店 1989
科学論の展開 A・F・チャルマーズ 高田紀代志ほか訳 恒星社厚生園 1985
科学論序説 H・I・ブラウン 野家啓一ほか訳 培風館 1985


◎顆粒球人間とリンパ球人間

疫学問答 安保徹、無能唱元 河出書房新社 2002
ガンは自分で治せる 安保徹 マキノ出版 2002
医療が病いをつくる 安保徹 岩波書店 2001
絵でわかる免疫 安保徹 講談社 2001
ガンはここまで治せる! 福田稔 マキノ出版 2001
未来免疫学 安保徹 インターメディカル 1997
◎こころ・内臓・からだ
シリーズ21世紀の健康と医生物学 1〜5 体質研究会シリーズ編集、菅原努シリーズ監修 昭和堂 2002
内臓が生みだす心 西原克成 NHKブックス 2002
内臓のはたらきと子どものこころ 三木成夫 築地書館 1995
こころとからだ 中国古代における身体の思想  石田秀実 中国書店 1995
生命形態学序説 三木成夫 うぶすな書房 1992
腸を考える 藤田恒夫 岩波新書 1991
胎児の世界 三木成夫 中央公論社 1983

◎性のグラディエーション

多様な「性」がわかる本  伊藤悟、虎井まさ衛編著 高文研 2002
性同一性障害の基礎と臨床 山内俊雄編 新興医学出版社 2001
こころとからだの性科学 深津亮 星和書店 2001
私の体は神様がイタズラで造った 池田稔 悠飛社 2001
性同一性障害と法律 石原明、大島俊之編著 晃洋書房 2001
性を司る脳とホルモン 山内兄人、新井康允編著 コロナ社 2001
脳が決める男と女 サイモン・ルベイ 新井康允訳 文光堂 2000
性の境界 山内俊雄 岩波科学ライブラリー 2000
臨床精神医学講座 摂食障害・性障害 松下正明編 中山書店 2000
トランスジェンダーの時代 虎井まさ衛 十月舎 2000
性同一性障害 吉永みち子 集英社新書 2000
性転換手術は許されるのか 山内俊雄  明石書店 1999
性同一性障害はオモシロイ 佐倉智美 現代書館 1999
わたしが最後にドレスを着たとき ダフネ・ショリンスキー、ジェーン・メレディス・アダムス 脇山真木訳 大和書房 1999
脳の性差 新井康允 共立出版 1999
男脳と女脳こんなに違う 新井康允 KAWADE夢新書 1997

◎ジェンダー・トラブル


ジェンダーは科学を変える!?  ロンダ・シービンガー 小川真里子、東川佐枝美ほか訳 工作舎 2002
愛について アイデンティティと欲望の政治学 竹村和子 岩波書店 2002
ジェンダー化される身体 荻野美穂 勁草書房 2002
ジェンダー秩序 江原由美子 勁草書房 2001
ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの撹乱 ジュディス・バトラー 竹村和子訳 青土社 1999
◎解離現象/多重人格
多重人格者の心の内側の世界 バリー・M・コーエン、エスター・ギラーほか編著 安克昌ほか訳 作品社 2003
[雑誌]大航海 no.42 特集ゲーム 新書館 2002
世界がどんなになろうとも役立つ心のキーワード 香山リカ 晶文社 2002
多重化するリアル 香山リカ 広済堂出版 2001
若者のすべて 斎藤環 PHPエディターズ・グループ 2001
文脈病 斎藤環 青土社 2001
解離 若年期における病理と治療  フランク・W・パトナム 中井久夫訳 みすず書房 2001
多重人格性障害  その診断と治療 フランク・W・パトナム 安克昌、中井久夫ほか訳 岩崎学術出版社 2000
宮崎勤精神鑑定書 滝野隆浩 講談社 2000
[雑誌]ユリイカ 4月号 特集多重人格と文学 青土社 2000
24人のビリー・ミリガン 上下  ダニエル・キイス 堀内静子訳 早川書房 1999
多重人格者として生きる キャメロン・ウエスト 堀内静子訳 早川書房 1999
多重人格障害 その精神生理学的研究  フランク・W・パトナムほか 笠原敏雄編 春秋社 1999
わたしの中にいる他人たち 町沢静夫 創樹社 1999
純子と摩樹子ふたりの多重人格者 滝野隆浩 講談社 1998
〈心的外傷/多重人格〉論文集 星和書店 1998
多重人格者の真実 服部雄一 講談社 1998
多重人格 和田秀樹 講談社現代新書 1998
記憶を書きかえる 多重人格と心のメカニズム イアン・ハッキング 北沢格訳 早川書房 1998
「私」が、私でない人たち ラルフ・アリソン、テッド・シュワルツ 藤田真利子訳 作品社 1997
解離性障害 精神医学レビューNo.22 中谷陽二編 ライフ・サイエンス 1997
心の傷を癒すということ  安克昌 作品社 1996
私という他人 多重人格の精神病理 H・M・クレックレー、C・H・セグペン 川口正吉訳 講談社+α文庫 1996
踏みにじられた魂  私は多重人格だった… ジョーン・フランシス・ケイシー 竹内和世訳 白揚社 1994
[雑誌]イマーゴ 3月号 特集多重人格 青土社 1993

◎ひきこもりの諸相


「ひきこもり」救出マニュアル 斎藤環 PHP研究所 2002
ひきこもる思春期 斎藤環編 星和書店 2002
ひきこもり  高木俊介編 批評社 2002
「ひきこもり」だった僕から 上山和樹 講談社 2001
ひきこもりカルテ 内田千代子 法研 2001
ひきこもり/不登校の処方箋  牟田武生 オクムラ書店 2001
ひきこもりケースの家族援助 近藤直司編著 金剛出版 2001
ひきこもりの家族関係 田中千穂子 講談社+α新書 2001
激論!ひきこもり 工藤定次、斎藤環 ポット出版 2001
ひきこもり・不登校からの自立 荒井裕司 マガジンハウス 2000
社会的ひきこもり 斎藤環 PHP新書 1998
ひきこもり 「対話する関係」をとり戻すために  田中千穂子 サイエンス社 1996

◎トラウマと社会


トラウマ映画の心理学 森茂起 新水社 2002
トラウマ 藤沢敏雄編 批評社 2002
トラウマティック・ストレス ベセル・A・ヴァン・デア・コルク、アレキサンダー・C・マクファーレンほか 西沢哲訳 誠信書房 2001
トラウマの心理学 小西聖子 日本放送出版会 2001
PTSDの医療人類学  アラン・ヤング 中井久夫ほか訳 みすず書房 2001
トラウマをかかえた子どもたち D・M・ドノヴァン、D・マッキンタイア 西沢哲訳 誠信書房 2000
トラウマから回復するために 諸沢英道編 講談社 1999
トラウマの臨床心理学 西沢哲 金剛出版 1999
心的外傷と回復  ジュディス・L・ハーマン 中井久夫訳 みすず書房 1999

◎エコゾフィー・主観性・グローバリゼーション

帝国 アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート 水嶋一憲ほか訳 以文社 2003
〈徹底討論〉グローバリゼーション スーザン・ジョージ、マーティン・ウルフ 杉村昌昭訳 作品社 
ジョゼ・ボヴェ ジョゼ・ボヴェ、ポ ール・アリエスほか 杉村昌昭訳 柘植書房新社 2002
WTO徹底批判! スーザン・ジョージ 作品社 2002
反グローバリゼーション民衆運動 ATTACA編 杉村昌昭訳 柘植書房新社 2001
〈横断性〉から〈カオスモーズ〉へ フェリックス・ガタリほか 杉村昌昭訳 大村書店 2001
物のまなざし ジャン=クレ・マルタン 杉村昌昭、村沢真保呂訳 大村書店 2001
政治から記号まで フェリックス・ガタリ、粉川哲夫ほか インパクト出版会 2000
精神の管理社会をどう超えるか? フェリックス・ガタリ、ジャン・ウリほか 杉村昌昭編訳・解説 松籟社 2000
精神の生態学 グレゴリー・ベイトソン 佐藤良明訳 新思索社 2000
未来への帰還 トニ・ネグリ 杉村昌昭訳 インパクト出版会 1999
構成的権力 アントニオ・ネグリ 杉村昌昭訳 松籟社 1999
三つのエコロジー(新装版) フェリックス・ガタリ 杉村昌昭訳 大村書店 1997
精神と記号 フェリックス・ガタリ 杉村昌昭訳 法政大学出版局 1996
闘走機械 フェリックス・ガタリ 杉村昌昭訳 松籟社 1996
資本主義と横断性 杉村昌昭 インパクト出版会 1995
政治と精神分析 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ 杉村昌昭訳 法政大学出版局 1994
精神分析と横断性 フェリックス・ガタリ 杉村昌昭訳 法政大学出版局 1994
漂流する戦後 杉村昌昭 インパクト出版会 1988
分子革命 フェリックス・ガタリ 杉村昌昭訳 法政大学出版局 1988