談 no.69 WEB版
 
特集:神を演じる科学……知と進化
 
表紙:O JUN  本文ポートレイト撮影:伊奈英次、鈴木 理策
   
   
 
環境問題を科学はどう伝えているか……ダイオキシン神話を例に

渡辺正
Tadashi Watanabe
「リスク・ゼロというものはない」という感性がないのが問題ですね。僕らの吸ってる空気には、1ccに数千個から1万個くらい、ダイオキシンの分子が入っているわけです。1回息を吸うと、500ccくらい吸うから、500万個。鉛はカドミウムや水銀と並ぶ毒性金属ですが、どんなに空気のきれいな山奥にいても、1回空気を吸うと、50億個ほど鉛の原子を吸い込みます。さらに言えば、どんなにきれいな米も、1粒に1兆個くらいカドミウム原子を含んでいます。それでも特別な害がないのは、摂取量が危険ラインを越さないからです。

わたなべ・ただし
1948年鳥取県生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程単位取得退学。工学博士。現在、東京大学生産技術研究所教授。生体機能化学。共著書に、『ダイオキシン 神話の終焉』日本評論社、2003、『遺伝子組換え食品:どこが心配なのですか』丸善、2002、『天然モノは安全なのか?:有機野菜やハーブもあぶない』丸善、2003、ほかがある。
 

知は失敗したか…… 今改めて問われる科学技術と社会の境界

松本三和夫 Miwao Matsumoto
専門家集団対非専門家集団、あるいはプロ対素人、そういう対立の構図でこれまで科学技術の問題は捉えられてきた。 しかし、本当の問題はむしろその時に前提となる「社会」ではないか。科学技術に対置する形でこれが「社会」である、あるいは「社会の総意」であるというような言い方で語られることがありますが、それこそがじつは大きな問題を含んでいるのではないか。 果たしてそこで言われている、イメージされている「社会」とはどういうものなのか、それを特定する必要があるんじゃないかと思うんです。

まつもと・みわお
1953年福岡県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。社会学博士(東京大学)。東京大学助教授、オックスフォード大学セントアントニーズカレッジ上級客員研究員などを経て、現在、東京大学大学院人文社会系研究科教授。科学技術の社会学。著書に、『知の失敗と社会』岩波書店、2002、『科学技術社会学の理論』木鐸社、1998、『船の科学技術革命と産業社会』同文館、1995、ほかがある。

 

素人感覚を取り戻す……「安全」から「安心」の医療へ

柘植あづみ Azumi Tsuge
誰が遺伝子組み換え食品に対する一般の無理解の問題を指摘しているかというと、企業であったり、科学者や技術者なわけです。その人たちが、遺伝子組み換え食品が受け入れられないのは、一般の人たちが無知だからだ、だから啓蒙しようという状況になってる。医学でも同じなんですね。「遺伝子治療なんかして大丈夫なの?」とか「臓器移植しても大丈夫なの?」と一般の人たちが思う時に、それは素人さんが無知だからいけないんだと、常にそういう姿勢が出てくる。だけど、無知だからというのは科学者の立場からそう見えたとしても、逆に科学者が社会というもの、文化というものを理解していないことを示していると思うんですね。

つげ・あづみ
1960年三重県生まれ。お茶の水女子大学大学院博士後期課程退学、学術博士。現在、明治学院大学社会学部教授。医療人類学、医療社会論。 著書に、『文化としての生殖技術−不妊治療にたずさわる医師の語り』松籟社、1999、(2000年度山川菊栄賞受賞)、共著書に、『健康とジェンダー』明石書店、2000、『出産前後の環境』昭和堂、1999、ほか。論文には、「女性の人権としてのリプロダクティブ・ヘルス/ライツ」『国立婦人教育会館研究紀要』第4号所収、2000、「生殖技術と女性の身体の間」『思想』2月号、所収、2000、ほかがある。

 

宇宙、神の姿の変容

池内了 Satoru Ikeuchi
世の中は還元主義から複雑系へ、スタティックからダイナミックへ、という流れになってきています。しかし、相変わらず、ロジスティック方程式にしても、なんでこんなうまいものがあるのかはわからない。だからこそ、そういうものを用意した神というものを想定してもいいんじゃないか。僕はこの世の中に美しい方程式があること自体うれしいし、それを神様の仕業と言ってもいいじゃないかと思っています。

いけうち・さとる
1944年兵庫県生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了。現在、名古屋大学大学院理学研究科教授。宇宙物理学専攻。著書に、『物理学と神』集英社新書、2002、『科学は今どうなっているの?』晶文社、2001、『観測的宇宙論』東大出版会、1997、ほか多数。星間物質のチムニー構造、爆発仮説にもとづく銀河形成論など論文110編。

 

科学はなぜ嫌われるのか……科学哲学の復興

高橋昌一郎 Shouichiro Takahashi
科学対反科学に限らず、人間が二人以上いれば意見の違いは必ず生じます。
科学哲学などと言うと難しそうに聞こえますが、その基本にあるのは他者理解、科学も反科学も非科学も含めて、 自分以外の人々の考え方や生き方をどのように理解するのかということです。
相手と意見が違うことを楽しんでほしいわけです。大切なのは、意見が違うという結論ではなくて、 なぜ意見が違ってくるのか、その理由を議論することだと私は考えています。
そして、「なぜ科学を選ぶべきなのか」を問い続けること、それが科学哲学であり、 現代のわれわれに最も必要なことだろうと思います。

たかはし・しょういちろう
1959年大分県生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修士課程修了。現在、國學院大學文学部教授。論理学、哲学。著書に、『科学哲学のすすめ』丸善、2002、『ゲーデルの哲学』講談社現代新書、1999、ほかがある。

 

editor's note[before]


科学は賽子(サイコロ)を振るか


数値としての「地球環境問題」

2002年12月1日、99年に議員立法で成立した「ダイオキシン類対策特別措置法」(以下ダイオキシン法と略記)が施行された。ゴミ焼却炉から出るダイオキシンの量をそれまでの8分の1〜80分の1に下げることが義務づけられた。そのために、従来の焼却炉から「広域高温連続焼却炉」に更新せざるをえなくなるが、その設置費用は1基数百億円といわれている。 ダイオキシンの毒性はサリンの2倍、青酸カリの1000倍。強い発ガン性があり、新生児や乳児のアトピーを増やし、その「環境ホルモン」作用が生物をメス化させる。そうした恐ろしいダイオキシンが、塩素系プラスチックの焼却から発生するという。99年に産廃銀座と呼ばれていた所沢市で野菜に基準値の何十倍ものダイオキシンが含まれているというテレビ報道がなされ、新生児の死亡率がごみ焼却炉の増加と共に増えているという市民団体の告発もあって、ダイオキシン=ゴミ焼却炉発生説に関心が集中した。ゴミ焼却炉こそ諸悪の根源である。成立から3年後、「ダイオキシン法」は本格的に適用されることになった。 「ダイオキシン法」によって、それまで使用されていた全国のゴミ焼却炉の大半は使えなくなり、10年以内にダイオキシンをゼロに近づけるための新しい高温焼却炉への変更が義務づけられた。たとえば、東京23区内で建て替え新設などダイオキシン対策に必要とされる費用は、なんと1千億円を越えるという。まさに桁外れな数字だ(全国では40兆円と見積もられている!)。そんな空前絶後の事態が、「サリンの2倍、青酸カリの1000倍」という言葉に端を発しているとしたら、きわめて象徴的なことだといえる。私たちがというか国家が、この一つの数値を巡って翻弄されたといってもいいからである。  ダイオキシン問題は日本に特有な現象であったが(後のインタビュー記事を参照)、ダイオキシンも含めて、私たちにとって、今、最も重要な問題が「環境問題」だとされている。地球温暖化、酸性雨、エネルギー・資源の枯渇、環境ホルモン……、これらの言葉を聞かない日はない。「環境問題」は一国で解決できるものではない、国を越えた緊急課題であるという点でそれは「地球環境問題」なのである。 「地球環境問題」の専門家の主張は、主に次のようなものだ。今や、地球も人間もボロボロである。地球もろともわれわれの築き上げた文明は崩壊するかもしれない。われわれに問われているのは、まずこうした人間の暮らしを脅かす「地球環境問題」の早期解決にある。こうした緊急課題に、先進諸国、発展途上国の変わりなく、地球レベルで全力をあげてその対策をこうじなければならない。  なぜそれが緊急の課題なのか。たとえば、次のデータを見てもらいたい。いわく、化石燃料の使用量(年間)は、石炭、石油、天然ガスを合わせると79億万t、1秒間に大型トラック63台分が使用される[★1]。それは、年間65億5300万tの炭素排出になり、その結果、地表の平均気温が引き上げられ、たとえばグリーンランドの氷河は毎年510億立方メートル溶け出す。これは琵琶湖の容積の約1・9倍にあたる[★2]。あるいは、世界の天然林は90年代の10年間に1億6100万ヘクタールが消失した。これは、1時間でセントラルパークが5つ分なくなる計算になる[★3]。また、地球に生息する生物種は最大で1億種と言われているが、主に熱帯雨林の破壊が原因で1年間に7万3000種が絶滅している。じつに、1時間に8種の生き物が地球から姿を消していることになる[★4]……。 「地球環境問題」には常に数値(データ)がついて回る。そのおおかたが、私たちを恐れさせるに十分な情報だ。環境は確実に悪化しているではないか! その実態を裏付ける(とされる)データが一緒に提示されると、危機感はリアリティに変わる。明日にも地球はおしまいになるかもしれない、これは何かすべきだ、こうした数値を見せられれば誰でもそう思うだろう。数値には、われわれの思考や行動を方向づける力があるようだ。数字の力は絶大である。

PUSの「欠如モデル」とベネフィットの関係

 今号のタイトルは「神を演じる科学」。今日の科学は、かつての神がそうであったような、全知全能のごとく振る舞う位置に立ってはいないか。もしそうであるとすれば、今や私たちは、そうした現代の神の前にただひれふす存在に成り下がっているかもしれない。次々と送りだされる御託宣をありがたく頂戴し、それを無条件に受け入れ享受するだけの立場に、である。そこにある構図は、まさにかつての神と一般者のそれであろう。しかし、現代社会にあってこの関係は決して健全なものとはいえないはずだ。改めて科学というものの存在を問い直す必要があるのではないか。そのうえで、科学(神)と一般者(社会)、あるいは専門家(プロ)と非専門家(素人)の関係を再構築したい、簡単に言えばこれが今回の趣旨でありテーマである。
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  たとえば、今日、数量的なデータ、数値といったものは、そうした御託宣の代表ではないか。私たちはデータや数値を吟味することなく、そこにかぶせられたメッセージだけを受け入れる傾向にある。非専門家と専門家を対置し、後者から前者へと科学知識が一方的に流れ、前者はそれをただ受け入れるだけ。こういう捉え方は「欠如モデル」として科学論、科学社会論の分野ですでに80年代に問題視されていた(杉山滋郎「科学教育」『科学論の現在』所収)。一般市民の科学理解力(public
understanding of science=PUS)不足、あるいは 科学の素養(Science literacy:読み書き能力)の低下をいかに克服するか、イギリスやアメリカでは、活発な議論が交わされていたという。わが国で昨今かまびすしく言われる「科学離れ」が、先進諸国の間でも危惧されていたわけだ。しかし、こうした議論は往々にして短絡した結論を導き出す。「素人のPUSが空っぽのバケツであれば、PUSを高めるには、科学知識をどんどん注ぎ込めばよい」と。要するに足りないなら増やしてやればよいというわけだ。事実、わが国の議論もこの傾向がないわけではなく、単純に理数系の授業数を増やそうという話でお茶を濁しているようである。<br>
  問題の本質を明らかにしなければならない。私たちがかくもそうした数値に翻弄され、あるいはその数値から導出される結果を安直に受け入れてしまうのはなぜか。その理由を探る必要がある。それは、おそらく、私たち自身の科学に対するイメージ、もしくは科学理解の基底をなす科学という「観念」それ自体にあると考えられる。あえて仰々しく神などという言葉を引っ張り出してきた理由も、じつはここにある。今日の科学の言説は私たちの観念をも操作する神の手を持っている。言い換えれば、科学は観念化されているのだ。そんなことを今更言われてもと思われるかもしれない。科学が私たちの思考そのものを深く規定している、そういう指摘は件のパラダイム論でさんざん指摘されてきたことである。もちろんそうなのだが、今あえてそのことを取り上げる必要があると考えるのは、そうした科学の観念化という事態が私たちの想像を越えて急激な勢いで進行しているように感じられるからである。たとえば、ある学者が現代社会を称して「動物化」と呼んだ。理性を失って行動する現代人を批判的に捉えたといわれるが、事実は逆であろう。「パスできるような理性はさっさとパスして、工学的に反応しよう。第一その方がずっと効率的だ」、おそらく、実態はこっちの方がはるかに近いのではないか。つまり、「動物化」とは、人間として退化しているどころか、むしろ、効率を優先するきわめて合理的な主体へと改変する進化ではないかと思われるのだ(もちろん、理性不在の進化という意味だが)。 <br>
 「神を演ずる」という言葉は、単に私たちを支配する強力な力をもつという意味だけで使ったわけではない。それが十分観念化することによって、私たちの思考は円滑になる、そういう存在になっているということだ。科学は私たちにとって常にベネフィットであり続ける。そうであるがゆえに、科学は神を演じ続けるのである。なぜならば、十分な観念化は、見方を換えれば、もう観念ですらないということだ。つまり、科学(的思考)はその時点ですでに放棄されているのと同じ状態なのである。

つくられたダイオキシン神話?

 地球環境は本当に悪化の一途をたどっているのだろうか。地球環境問題にはこれまで常識と考えられていることがいくつかある。私たちは地球温暖化、酸性雨、エネルギー・資源の枯渇、環境ホルモンなどをいわゆる「定説」としてほとんど鵜呑みにしてきた。専門家が言うことであるし、それを裏付けるデータもちゃんとあるのだから、間違いはないはずだと。それらの「定説」をさして疑うこともなく受け入れてきたのだ。ところが、ここにきてそうした「定説」に疑問を投げ掛ける声が上がりはじめた。 
  たとえば、地球温暖化。地球が温暖化していることは確実だとしても、それはどのくらいのスパンでそうなっているのか、地球温暖化が進行しているという議論の前提条件は何か。そもそも過去100年の間に二酸化炭素による温暖化の事実はあるのだろうか。専門家の中には、その因果関係に疑問をもつ者も少なくないという。地球温暖化の主因だとされる二酸化炭素は、現時点ではシロともクロともいえないらしい。 
  あるいは、もっと怪しいのが酸性雨の問題。酸性雨が森林を殺しているとセンセーショナルに語られたが、この10年ほどの研究で、森林枯死の原因の多くは酸性雨ではなく、クルマの排ガスから出る窒素酸化物の生むオキシダントが原因ではないかといわれるようになった。確かに今では酸性雨を口にする専門家はめっきり少なくなった。理科の教科書からも、酸性雨の文字は消えつつあるという。 
  同様にマスコミなどによって衝撃的に書き立てられ、私たちを恐怖に陥れた「ダイオキシン問題」もじつはつくられた神話である可能性が強いといわれる。ダイオキシンの有毒性を示すデータを間違って解釈され、ダイオキシンにはそもそもそれほど毒性はないというのである。日本でとくに騒がれた「ダイオキシン問題」は、科学的に見てどうかという議論というよりは政治・経済の問題である。ダイオキシン法までつくられてしまった裏には、地球環境問題とは本来なんのかかわりもない、産業界の利害関係が潜んでいるのではないかというのだ。 
  冒頭述べたように、私たちは数値というものを過信しすぎているのかもしれない。その最たる例が「地球環境問題」である。その数値の意味をきちっと知ることなく、その示された数字に一喜一憂する。そこにあるのは、科学への畏敬というよりは、科学(的思考)の放棄ではなかろうか。 
  世に言われる「定説」にとらわれることなく、科学的な目で今日の地球環境問題を見直してみよう。そういう視点から地球環境問題を改めて考え直そうと始まったのが『地球と人間の環境を考える』(日本評論社)というシリーズである。その編者の一人である東京大学生産技術研究所教授・渡辺正氏は、そのシリーズの一冊として共著で『ダイオキシン 神話の終焉』を著した。ここで渡辺氏らが主張するのは、ダイオキシン問題は「つくられた神話」ではなかったかということだ。渡辺氏らは、公表されているデータをいわゆる化学の常識にあてはめて解読するわけだが、そこで気づかされるのは、いかに私たちがデータの数字(数値)だけしかみていないかということだ。その意味を正しく理解していないのである。科学という目でそれを見ていない。「ダイオキシン問題」も「地球環境問題」も、そこに盲点が潜んでいる。 
  今号では、まずこの科学的データである数値というものに注目してみたい。数値やデータを理解するとはどういうことなのか。また、数値やデータにまどわされることなく事実を把握することは、私たち非専門家に果たして可能なのだろうか。「ダイオキシン騒動」(渡辺正氏)を例にしながら、そのもつ意味を検討し、科学を標榜する数値やデータについて考えてみたいと思う。お尋ねするのは、もちろん渡辺正氏そのひとである。

「構造災」という新たな問題設定

 そもそも「地球環境問題」は、人為的な問題といえるのだろうか。地球温暖化が人為的に排出された二酸化炭素が原因でないとしたら、それは単なる自然現象であり地球における物理現象の一つにすぎないといえなくもない。「地球環境問題」は、人間を原因とする問題なのか、それとも地球自身が抱える問題なのか。見方の違いによって、結論も対策もまったく変わってくる。 
  「地球環境問題」はヒューマンスケールをはるかに上回るできごとである。にもかかわらず、私たちの日常生活と密接に関係している。そこにある種のわかりにくさと混乱がある。 
  「BSE(いわゆる狂牛病)は、まだしも誰にでも問題の様子がみえやすい」が、「地球温暖化問題、成層圏オゾン層破壊問題、環境ホルモン問題、核廃棄物処理問題、GM(遺伝子組み換え)作物の安全性というような例になると、問題の様子を自分の眼でみて身近に感じる機会ははるかに少なくなる。にもかかわらず、問題の深刻さはBSEに勝るとも劣らない」。そういう問題が日常化すると、私たちはかえって「手近なステレオタイプによる判断という、事実上の思考停止状態」に陥る。そして、「科学技術にかかわる問題はとにかく理科出身者にまかせておくが無難」という思考回路、行動回路に至る。こう指摘するのは、東京大学大学院人文科学系教授・松本三和夫氏である。 
  松本氏は、『年報 科学・技術・社会』の共編著者として、主に科学・技術と社会のかかわりについて研究、発言をされてきたお一人である。松本氏は、1998年から99年にかけてイギリスに滞在されたが、ちょうどBSEのヒトへの感染が問題になった時期と重なり、そのことも一つのきっかけになって、科学・技術と社会の関係について考察した著書を上梓された。『知の失敗と社会』(岩波書店)と題された一冊は、科学・技術にかかわる社会問題について、社会の側がそれをどう受け止めてきたかという視点から掘り下げている。そこで問題提起されているのが、今述べた「思考停止」状態についてだ。 松本氏は次のように言う。現代の科学・技術の問題の多くは、理科系、文科系問わず、有力な解明、解決を見出しているかどうかは不明である。にもかかわらず、「解明、解決を謳う多様な言説が百家争鳴の観を呈し」、結果われわれ非専門家=素人は、そうした問題にかかわる言説を信じなくなり、ついにはそれについて考えるのを放棄してしまう。つまり、思考停止状態が生まれているというのである。数値やデータを見せられて臆してしまうという以前に、ヒューマンスケールでは捉えられない問題については、すでに私たち素人集団は腰がひけているというわけだ。しかし、松本氏は、それを言説を受け入れる社会(素人集団)の問題へ単純に還元するということはしない。むしろ、現代の科学・技術のフレーム(性格)に着目する。それが従来の観点からはくくれない問題になっていることを書名にあるように「失敗」という言葉から解き明かそうとするのである。 
  たとえば、今日の災害や事故に多くは、天災とも人災ともいえないものである。むしろその両方が絡み合ったような災害や事故が多い。しかし、不利益を被る人は歴然と存在する。そういうたぐいの問題は、既存の科学・技術のフレームをあてはめて「失敗」と捉えてしまうと事態を見誤ってしまうと指摘する。私たちが無意識に見てとる「成功/失敗」といった二分法にこそ問題の本質があるのではないか。そこで松本氏はそうした現代の災害を「構造災」と言い直し、これまでのフレームから脱却し、新たな「知」のあり方を提案する。 
  私たちが陥っているとされる「思考停止」状態について、社会という視点を通して考察する。お尋ねするのは『知の失敗と社会』の著者松本三和夫氏。松本氏の提案する新たな「知」に注目することは、専門家/非専門家というフレーム自体を問い直すことになるだろう。

崇め敬われる「医療」

 専門家/非専門家というフレームを暗黙裏に認め、専門家は意見し、私たち非専門家はそれを御拝聴する、こういう一方通行が歴然と存在するのが医療という現場である。「欠如モデル」の最も典型的なモデルを医者と患者の関係に見ることに疑問はないだろう。専門家自身が科学を「神」と見なす。先に指摘したことが、医療という現場ではなんの疑いもなく日常行われている。「患者さんの苦しみを取り除くことをまずいちばんに考える」。医者の誰でもそれを口にするし、患者の誰もがそれを望んでいる。医者が神なのではない。医療が神の座に鎮座ましますのだ。医療こそ、現代では私たちが問題にしている神そのものとしてあるといっていい。 
  とはいえ、いざ病気になれば、それが重ければ重いほど、やはり頼るのは医者である。「神にもすがりたい」という言葉どおり、私たちは身近な神、医療にその救いを求める。ところが、本来病気でもないのにそうした気持ちで医療機関にかかる場合もある。その一つが不妊治療だ。不妊というのは、身体的痛みや不調が連続して起こるわけではないので、字義どおりの意味で解釈する限り病気ではない。ある年齢になって、パートナーと結婚し、子供ができる。これは普通のことと思われているが、当たり前ではないし、そういう生き方を選択する必要もない。子供がいないということは身体的にみてもなんら問題ではない。セックスをしたからといって子供ができるとは限らないし、現に避妊も普通に行われている。なのに、子供ができないという理由で不妊治療を求める夫婦は多いのである。 
  昨今の先端医療技術の進歩は、生殖医療技術を更新させ、不妊治療の門戸を広げたことも拍車をかける。そして、不妊の解決手段を医療に求めるのである。なぜ私たちは、そのことに疑問をもたないのか。それこそ私たちが、医療を神と崇めている何よりもの証拠ではなかろうか。 
  賞賛ばかりではなく、批判も多い今日の先端医療技術が、なぜ次々と開発され応用されていくのか、また、議論を巻き起こしながらも社会に受容されていく理由はなぜか。そうした先端医療の問題が、最もあざやかな形で表れているのが不妊治療である。 
  産婦人科医と患者への聞き取り調査を中心に、その発展と受容のプロセスを追うことから、今日われわれが医療に期待し、医療に求めているものをあぶり出そうとした試みがある。明治学院大学社会学部社会学科教授・柘植あづみ氏の研究だ。その研究は、のちに『文化としての生殖技術』(松籟社)という形で結実をみた。柘植氏は、著書の冒頭次のように言う。「子どもを生むということは、身体的/生理的な現象である以上に、文化的/社会的現象である。(…)生殖医療技術がもたらしたとされる〈問題〉の多くが、文化や社会の価値と密接に関わっているからである」。 
  「欠如モデル」の背景にあるものは、言うまでもなく文化や社会(の価値観)である。医者の治療への過信、患者の医者もしくは医療技術に対する信望。その両者を媒介するものこそ、私たちが暗黙裏に認める医療=神という存在ではないか。私たちは、柘植あづみ氏に不妊治療を事例にしながら、医者と患者の関係を、媒介する神という視点から考察する。

レトリックとしての神、メタファとしての神

 科学は、いや少なくとも科学者は、神など信じていないはずである。彼らが信じ求めるのは法則であり普遍性である。自然から神を追放した張本人こそ科学者である……。と、ずっと思っていたのだが、これは筆者の単なる思い込みにすぎなかったことを示唆する著作に出会った。『物理学と神』(集英社新書)がそれで、著者の池内了氏は、現役の宇宙物理学者である。池内氏は、自然の謎に立ち向かう科学者が神の手助けを得ようとはしないけれども、そこで見つかった自然の法則が美しければ美しいほど、それを神の御技と考える科学者はいるというのである。そもそも西洋世界に端を発する近代科学は、聖書のほかに自然を書物とみなし、その作者もまた神であった。したがって、自然を研究する科学は、神の意図を理解する作業であった。つまり、科学の黎明期からすでに神と科学は親和性をもっていたというわけである。では、現代ではどうか。量子力学、複雑性科学、カオスと科学の最先端はいよいよ神とは無縁な方向へ突き進んでいるように思えるのだが、さにあらず、神はやはり存在する。アインシュタインにとっては賽子を振らないからこそ神であったが、いまや神こそが率先して賽子遊びに熱中している。池内氏いわく、神は姿形を変えながら、科学と寄り添いながら何度でも復活するという。ある意味で自然科学こそ、神と共に発展してきた当のものにほかならないというのだ。 
  もとより、ここでいう神は宗教上の神とは異なることはいうまでもない。いわば神という観念のことであろう。専門家と称する科学者も、じつは観念としての神を手放してはいないのである。そのことは何を意味しているのだろうか。 
  「未知の法則を求めて、闇を手探りしている物理学者の営みは、信仰者が姿露ならぬ神をアレコレ空想するのと似ていないでもない。物理学者は、〈かくあるはず〉の法則、〈かくあれかし〉の法則を求め、信仰者は〈かくあるはず〉の神、〈かくあれかし〉の神を想像している」のだとしたら、私たちが科学を畏れる必要などないのである。素人集団である社会が見ているものと科学者が見ているものは、案外近いものなのかもしれない。もしくは見ているものは同じでも、それを語る言葉(観念)が違うだけとも考えられる。名古屋大学大学院理学研究科教授・池内了氏に、神と科学の不即不離の関係をお聞きする。

科学に欠けているのは哲学


 聖書が自然を語る言葉であるとしたら、科学もまた自然を語るもう一つの言葉である。科学は私たちの見ている自然を科学の言葉で表現し直しているにすぎない。すなわち、科学とは自然の「重ね描き」である。こう言ってのけたのが哲学者の大森荘蔵氏であった。私が目の前にある卓上スタンドを「見ている」時、科学はそれをどう語るか。物理的ライト、それからの反射、発射電磁波、眼球レンズの屈折、網膜での吸収、視神経内のイオン電位パルスの変調、シナプスでのアセチルコリン、大脳皮質細胞での電気化学的変化の生起などである。これらの言葉を使って、科学は世界を描写したと考える。確かに、科学は世界を描写した。しかし、科学が描写できるのは、私が卓上スタンドを見る時に、私のからだの内外で生起している自然科学的事象であって、それが「私が卓上スタンドを見る」ことではない。「自然科学は、この私のなまの経験に、その自然科学的描写を重ねて描くのであって、このなまの経験を描くのではなく、また描くこともできない」(大森荘蔵著「科学の地形と哲学」『物と心』所収)。 
  私たちは、もう一度科学の意味を問う必要がある。科学とはわれわれにとってどのような意味を持つのか。それは本当に私たちにとって必要なものなのか。神か神でないかという問いの前に、科学そのものの存在理由を問いただすことが必要なのではなかろうか。 
  「科学を視野に入れない哲学も、哲学を視野に入れない科学も、もはや成立しないことは明らかだろう。現代社会において、もっとも深刻に問われているのが、人類の達成してきた〈科学〉そのものの意味なのである」そして、「〈科学者である以前に一人の人間である〉という意味を追求することが〈科学哲学〉の最大の課題」(『科学哲学のすすめ』)である。 
  科学は神を演じているのか。たとえそうであれ、私たちは、まずその科学が今日私たちにとっていかなる意味をもつのか、そのことを真摯に問うことから始めるべきであろう。
 最後にお尋ねするのは、『科学哲学のすすめ』の著者國學院大學文学部教授・高橋昌一郎氏である。今こそ必要なのは、「科学哲学」であると強く主張する若き哲学者である。     (佐藤真)




 

editor's note[after]


私たちは、なぜ科学を選ぶのか。

若すぎる科学、科学者の役割


 「環境の分野は、科学としてまだ若すぎるんですよ」。開口いちばん渡辺正氏の口から飛び出したのはこんな言葉だった。生まれてまだ半世紀もたたない科学であれば、いろいろな解釈が出てきて当然である。新しい発見だってまだまだあるだろう。時には勇み足になって、間違った見方をすることもあるかもしれない。どれもこれも、結局のところこの科学がいまだ発展途上にあるゆえのことなのだ。その意味ではダイオキシン問題もほかの環境問題と同じである。しかし、ダイオキシンがほかの地球環境問題と一線を画すのは、そのシロ/クロがまだはっきりしない段階で、法律にまでなってしまったことである。そして、国民に厖大なつけ(財政負担)をおしつける結果になった。ダイオキシンは、科学でのきちっとした議論を経ずに、一気に社会の問題になった。そこに、ダイオキシン問題の看過できない理由がある。
  『ダイオキシン 神話の終焉』は、発売と同時に大きな波紋を広げた。にもかかわらず、新聞や活字メディアが比較的好意的だったのは、一つには、利権構造と環境行政が結び付いているところを暴き出したことが大きい。ダイオキシンをネタにした環境スキャンダルだとはっきりと指摘した識者もいた。ただ、この本が環境問題に関心をもつ人びとやメデイアにも好意的に受け入れられた最大の理由は、やはりダイオキシンに関する情報がきちっと紹介されていたからだろう。「ダイオキシンが心配ないなんて、とうてい信じられない」とかたく信じる人々に、とにかく理解できるように努力したという渡辺氏の言葉どおり、具体的な数字をたよりに懇切丁寧に説明がされている。「サリンの二倍!」に象徴されるようなダイオキシン禍がいかにうそまやかしであったか、それこそ素人にも十分理解できる書き方になっているのだ。
 ダイオキシン騒動についての渡辺正氏の見解をインタビューと著書からまとめてみよう。
 ・私たちが摂取するダイオキシン類の95%は食品からくるもの。ダイオキシンに弱いモルモットのデータをヒトにあてはめてみると人生10回分(820年)ほどの食事を「イッキ食い」しない限り、ダイオキシンが半数致死量に達することはない。そんなことは現実にありえないので、急性毒性を問題にするのは見当違い。「サリンの2倍、青酸カリの1000倍」は的外れな脅し文句。
 ・日本の環境を汚染するダイオキシンの大半は、過去の農薬が原因。ダイオキシンを問題にするなら残留農薬を問題にすべきで、焼却炉や塩素系プラスチック悪玉説はまったくの見当違い。
 ・環境ホルモン作用のような慢性毒性説も間違い。ここ30年ほどヒトのダイオキシン摂取量も体内濃度も減少している。昨今「増えてきた疾患」の原因とは考えられない。そもそもダイオキシンはがんを促進させる作用はあっても単独でがん細胞を芽生えさせる発がん物質ではない。それどころか、「制がん作用」があるという研究すらある。
 ・ダイオキシンは、ngやpgといった大変小さな重さの単位を使う。こうした単位の物質を検出し測定できるようになったのはひとえに感度の高い分析装置ができたことによるもの。その意味でダイオキシン問題とは、先端分析技術が産み落とした鬼っ子であるともいえる。
 ・以上のことから、ダイオキシンは普通の暮らしをしている限り何も心配ない。知恵や金をもっとリスクの高い発がん物質やクルマの排ガスの研究にあてるべきである。
 ・意味のないダイオキシン法を見直し、望むらくは廃止すべきである。
渡辺氏は、ダイオキシンの専門家ではない。しかし、専門家でないからこそダイオキシンの問題のおかしさを指摘できたという。専門家は本当のことをわかっていたとしても、それを言うことができなかったのではないかと言うのだ。そこには環境問題特有の力学が働いているという。
 「大物の研究者は前言を翻したくないし、メディアも撤回したがらなくて、違うとわかったら黙ってしまうだけ」。また、行政側からすると、環境ホルモンにしろダイオキシンにしろ、新しい仕事と捉えている。そうすると新しい組織を作り、新しい名目で予算を取り分配することになる。役人の仕事は、どれだけの予算の仕事を動かすかで業績を評価されるから。そういう力学の中から出てきたのが今回の「ダイオキシン騒動」だったと渡辺氏は指摘する。メディアやテレビ報道が煽りたてたとしてマスコミの責任だと批判する人も多いが、科学者自身の責任も免れないというのである。
  「研究者がまず言うべきは、その数字が基準値に対してどのくらいなのかということ。安全係数をかけた数字なので基準値というのは好きではないが、やはり、危ないかどうかという判断ができる材料を一緒に提供しないと、普通の人は絶対にわからない」。
  ngやpgという単位がどのくらいの数値なのか、それを伝えるのはメディアというよりは、科学者自身ではないか。その数値の意味を正確に知っているのは、ほかならぬ科学者たちだからだ。もとより、このことは環境問題に限ったことではないだろう。科学者が市民に対して、事実だけでなくそのもつ意味や背景を正確に伝えること。それは、今日の科学報道のすべてに言えることだろう。科学者のマインドが問われているのである。


「リスク・ゼロ」はありえない


 さて、渡辺氏の発言でもう一つ印象に残った言葉がある。「リスク・ゼロなどありえない」という発言だ。「危険なものは絶対にない」というわけには土台いかないのである。そもそも「絶対」というものがない。そういう気持ちを日頃から私たちはもっていないといけないという指摘である。「リスクは可能な限り避けたいが、ゼロにはならない」ということは、リスク論ではしばしば問題になることである。リスクという概念には単なる危険を意味するだけではなく、危険を前提としたうえでそれをいかに軽減するかという危険への対応も含意されている(『リスク学辞典』参照)。「リスク・ゼロなどありえない」という感性をもつということは、考えてみれば当たり前のことだろう。だが、そうだとすれば、私たちは常になんらかの危険にさらされているということにもなる。それがどんなにささいなことであっても、それがリスクだといえばリスクになる。確かに「いくらなんでもそんなことはないだろう」と思われることが、現に次々に起こっている。超高層ビルが旅客機に直撃されるということも、幼児が12歳の少年にビルから突き落とされることも、普段なんの疑いもなく飲んでいた牛乳で食中毒を起すことも、どれもこれもリスクである。しかも、今ではそのリスクに遭う確率までしっかり表示されていたりするのである。すべって転んで死ぬ確率は3万分の1だとか、仕事で死ぬ危険は100人に1人だとか、ネットがらみで犯罪に遭う確率は10万分の1だとか、ただ寝ているだけでさえ650分の1の確率でなんらかの事故に遭うというように(内藤誼人著『ここにいてはいけない』)。
 リスクは結局のところ確率にすぎない。それが自発的な行為によってもたらされることだろうと、いわゆる自然災害といわれるものや予期せぬ事故だろうと、しょせんは確率なのだ。注意しようがしまいが、遭うときには遭う。こうして普通に生きているということ自体が、ある意味では何分の1かのリスクをかいくぐってきた結果にすぎない。こうした見方を推し進めると、人生そのものがすでに偶然性の所産だということにもなる。「リスク・ゼロ」ではないということは、極論すれば自分というものの存在自体が偶然的なものにすぎないことを認識することでもある。
 こうしたリスク論の拡張は、ばかげた考えのように聞こえるだろうか。それがばかげているというのならば、たとえば、自然災害と人為的な事故の違いを明確に言えなければならない。ここからは自然災害、ここからは人間が関与した事故というように。しかし、そんな区分けは現実的には無理だろう。
 「リスク・ゼロ」でないならば、すべてにリスクが免れないと仮定して、リスクがあるかないかを評価するような軸が必要である。そういうことを議論できるような、旧来の枠を超えた新たな視点が必要になってくるということなのだ。

公共的「知」をどうつくるか

 松本三和夫氏が「構造災」という言葉をつくったのは、まさしく今言ったような新たな視点を導入するためであった。「リスク・ゼロ」がありえない現状では、天災か人災かというような分け方はできない。言い換えれば、天と人の間の社会構造、その仕組みから起こる災害の方が圧倒的に多いのである。そうした「構造災」を前にした時、これまでのような「知」で対応することは難しい。つまり、こちら側の「知」のあり方もつくり変える必要がある。「もっと広い意味での知性、知恵やある種の良識や暗黙知も含めたような知のあり方」が求められてくるというのである。「構造災」としかいいようのない事故が発生した場面では、それを科学や技術による失敗にしたり、市場の失敗にしたり、あるいは政府の施策の失敗として片づけてしまうことはできない。そのように失敗を一元化してしまったら、「構造災」という現代の災害の本質はますます見えにくくなってしまう。そこで、暗黙知を含めたこれまでの知性がうまく作動しなくなったことを、「知の失敗」として捉え直そうというのである。
 問題は、科学技術を支えている「知」のあり方にあるのだ。松本氏の議論を整理しよう。
 科学技術の社会問題というのは、科学技術に直接関与していない万人に影響を及ぼす。いわゆる公共の問題として取り組まないと、いつまでも同じ型の問題「知の失敗」が繰り返されることになる。科学、技術、社会のインターフェイスの構造を変えていかなければならない。
 ところで、巨大技術というのは、いったんある軌道を走り始めると方向転換がしにくい「経路依存性」をもっている。そこで常にその問題に対して自己言及できる仕組みが必要になってくる。一方、科学技術や社会にはそれぞれ虚と実の面があるが、科学技術、社会共々お互いの虚と実を把握しきっていない。そのために同じ型の問題を再生産してしまう。その構造を螺旋構造としてモデル化すると、科学技術と社会の界面には必ず盲点があり、そこから問題が発生することがわかる。このモデルは、また、従来の成功/失敗の二分法に対して、成功/失敗を一種の傾きとして見る見方を提起する。
 真の問題は「社会」の定義にあるのではないか。「民意」とか「社会の総意」とか言われる時の「社会」のイメージとは何か。科学技術は「社会」をどう見ているかがいちばんの問題だ。社会は一枚岩ではない。社会は、多様な行為者間の複雑なダイナミズムによって形成されている。それをどう見るかである。松本氏は、社会を官、産、学、民の四つのセクターに類型化し、それを軸に捉え直そうと提案する。この視点は公共性の概念にも更新を迫ることになる。公共性をどのセクターにも担保できるようにするためである。
 おそらく、松本氏がここでいうセクター論が「知の失敗」を回避する新たな「知」なのだろう。この新たな「知」の特徴は「知の失敗」の「知」と、ではどこが違うのか。筆者は次のように解釈する。
 これまでの科学、技術(伝統的)は実証主義に重きを置き、真偽を明らかにすることを目的としてきた。たとえば、発見、発明の何が成功で何が失敗かを見きわめる判断も科学、技術が担ってきた。それが可能なのはその対象がすでに「終わっている」科学や技術だからだ。最終結果が明らかになっているものに対しては、科学、技術は評価を下すことができる。しかし、先ほどの螺旋モデルが対象とするような、現在動いている「進行中」の科学は、正しいか正しくないかという判断すら難しい。成功/失敗の傾きが次々に変化する状態である。そういうダイナミックに変化し続ける科学、技術に対して、旧来の科学、技術の評価基準(静態的な)を採用することはできない。それを無理に使用すると「知の失敗」が発生する。「活動中の科学」(science in action/B.Latour)には、新しい「知」としての科学、技術の評価(動態的な)が必要になる。こうした構造的な変化=知の地殻変動を理解する方法として、たとえば、言語学に登場したパフォーマティヴィティの理論が参考になると筆者は考える。
 言語には、ものごとの状態や事実を記述する役割だけではなく、その言語が発せられたことによって発話者自身がある行為を行うという役割ももっている。それをコンスタティヴ(事実確認的)な言語に対して、パフォーマティヴ(行為遂行的)な言語と呼んでいる。パフォーマティヴィティへの展開は、人間の言語活動を考える時に、事実を確認するために言語を使うことと同じくらい、いやむしろそれ以上に行為遂行的な使用の方が多いという現状があったからだ。つまり、生きた言語を研究するためには、生きた言語学が必須だったのである。いったん生きた言語に視点を向けると、言語だけを対象にするわけにはいかなくなる。それを使用する人間や人間の集団としての社会、そこで交わされるコミュニケーションさえもその対象になる。パフォーマティヴィティへとシフトした結果、言語学は言語学という閉じた領域から必然的にその外部へ自らの領域を広げざるをえなくなったのである。言語学はパフォーマティヴィティへとシフトすることで言語学という枠そのものを拡張したのである(このあたりの事情については『談』no.62「パフォーマティヴィティの言語へ」参照)。
 松本氏のセクター論を活かすためには、科学、技術を評価し(評価される)「社会」を再定義する必要がある。それは、言語学の展開が示したのと同じ理由による。知が扱う科学、技術は、まさに「進行中」、「活動中」の科学、技術だからだ。科学、技術、社会は、いまや一つのシステムを形成している。三者は、互いに影響しあいながら活動し発展する。「知の失敗」、そしてそれを回避するような新たな「知」も、この拡張された社会システムの関係から発生するのである。

「安全」をとるか「安心」をとるか

 柘植あづみ氏は、インタビューの冒頭イヌイットの人たちの出産の話を紹介した。要約してみよう。
 カナダの州政府がイヌイットの人たちの妊産婦死亡率と乳幼児死亡率を下げるために、それまでコミュニティの中で行われていたお産を、都市の大病院で出産するように推進していった。設備の整った病院での出産はさぞかし彼女たちを喜ばせただろうと医療者側も州政府も思っていたのだが、反応は意外なものだった。イヌイットの女性たちは、こんな不安で嫌な体験はもうこりごりだというのである。コミュニティでの出産には、(設備こそ粗末かもしれないが)家族や近所の人びとがみんな集まってきてくれる。みんなが出産の無事を祈ってくれる中で子どもを産むことができた。ところが、病院での出産は、医療関係者が立ち会うだけで、産まれてしまえば(子供と二人だけで)病院に残され、それも24時間後には退院させられてしまう。こんな出産のどこが安心なのかというのが彼女たちの感想だったのだ。
医療者や科学者側の考える「安心」と、患者や消費者側の感じる「安心」には、大きな認識のズレがある。医者は、「安全」であることが患者に心地よさや安心感をもたらすと考える。ところが、患者が求めていたのは、そうした「安全」への配慮よりも「安心」感であった。「安全」よりも「安心」。「安全」はリスクの問題だが、「安心」はこころの問題。ここに埋めがたいズレが生じているというのである。
 この「安全」か「安心」かという認識の違いは、従来の科学者/一般人という図式の欠陥を埋めるような視点を提供してくれるように思われる。一方に知識があって他方に知識がないといった、いわゆる「欠如モデル」に代表される専門家/非専門家、プロ/素人の関係は、知識のあるなしが問題で、知識が増えればその差は埋められると単純に考える。つまり、両者を分けるのは知識の量であるというわけだ。
 しかし、「安全」か「安心」かという認識の違いは、そうした知識量とはまったく異なることを起因としている。たとえば、医者が「安全」の理由をどんなに並べたところで、患者の「安心」感は得られないだろう。そもそも求められているものが異なるのだ。イヌイットの女性が出産時に最も必要としていたのは、清潔な環境や緊急時の備えでも、いわんや正確な分娩技術でもなかった。彼女らは、そこで出産を見守ってくれる、共に祝ってくれるそういう人々の感情、愛情が欲しかったのである。こう言うといかにも陳腐に聞こえるかもしれない。しかし、よくよく考えてみると、ここには本質的な問題が横たわっていることに気づく。
 彼女らが出産の場面で欲しかったものは「安全」といういわゆる「セキュリティ」ではない。「安心」というある意味ではセキュリティとは無縁の、場合によってはなんの保証にもならない単なる「気持ち」であった。これは何を意味しているのか。出産は女性にとって大きなリスクである。場合によっては死ぬこともあるし、また生まれてくる赤ちゃんにも同様のリスクはある。しかし、彼女らは、そうしたリスクを軽減するはずの病院よりも自分たちの暮らすコミュニティでの出産をより強く望んだ。リスクがあるかないかは、その場面で見る限り、あまり重要なファクターではない。それよりもメンタルな部分での「安心」を望むのである。医療者側はしきりにアカウンタビリティを強調するだろう。医者も一人の人間であるのだから、患者の立場に立つことはできるし、その立場から患者に接することはできる。だが、柘植氏も述べているように、患者の立場で話を始めた時にも、医者は医者であることをやめることはできない。患者と同じ視線でものを見れば、医者も患者の求めているものがわかると良く言われるが、そういう視点で見られるようになったとしても、医療という「めがね」をはずすことはできないのである。その「めがね」を外したら、その時から医者は医者でなくなる。当たり前のことだ。
 ちょうどこれとまったく同じことが不妊治療という場面でも起こっている。柘植氏は言う。「医者の意図とは別に、医者は選択肢を提示しているつもりでも、受け取る側が医者が説明するという行為にメッセージを読み取ろうとする」。しかし、これは選択肢とはいえないだろう。「〈検査は安心をもたらす〉と言われる。ほとんどの人が検査で何の異常も見つからずに、出産も無事にすんでいくから。それは嘘ではない。だが、残りの1割、もしくは1%の人たちが、その結果に混乱し、〈私はどうしたらいいんだろう。家族に相談しても、どうしていいかわからない〉という状態になった。そういう人たちの不安をかえって高めてしまったことに、医療者なりほかの99%の人たちが、どういうふうに想像力を働かせることができるのか」。多分、できないだろう。そして、99%の無事にすんだ人びとにとっても。つまり、ここで言われる「安心」は、リスクにかかわるものだからだ。「安心」をもたらすとはいえ、リスク・ゼロはありえない。そうであれば、確率的に安全か安全じゃないかということ以外の意味はない。そのリスクをより少なく見積もるか多く見積もるか、その選択をするのはほかでもない出産を控えた女性だ。より正確に言えば、他に還元できないその一人の「女性」なのである。だから、その一人の「女性」に医者が意思決定の材料として医学的知識を提供したところで、ほとんど意味がない。それどころか、そうした知識は、ますますその一人の「女性」の選択を困難にさせ、かえって「不安」にさせるだけなのだ。
 イヌイットの女性に与えようとした「安全」は、言うまでもなくこの場面で言えば医学的知識と同類のものである。イヌイットの女性はそれを拒否した。しかし、今まさに出生前検査を受けようか迷っているその一人の「女性」は、それを拒否できるだろうか。おそらくできないだろう。なぜならば、リスクを回避するかもしれないという意味での「安全」への期待があるからだ。つまり、ここでは、感情や愛情としての「安心」よりも、リスクを見積もることのできる「安全」が求められている。イヌイットの出産と一見似たような状況にありながら、そこから導き出される解は、まったく逆なのである。
 いずれにしても、こうした選択に、結局のところ科学はほとんど貢献していない。その選択決定に影響力をもっているのは、文化や価値観である。「それは自然だ」という認識においてさえも、人々は科学よりも文化や共同体が共有するような価値観で捉える。社会の支配力の方がはるかに強いのである。

科学にわからないこと、科学だからわからないこと

 「アインシュタインが、確率でしか電子の挙動が予言できない量子論を批判して、〈神はサイコロ遊びをしない〉と述べた。量子論も実験を通じて検証するしかないが、すべての実験を行うことが不可能な以上、その理論の真偽を決める完全な証明は不可能。そこでアインシュタインはどうしたか、神に仮託してそれを拒んだ。それに対して、ボーアは〈なぜ、神の意図がわかるのか?〉と反論し、微視的世界は確率論的な理論で過不足なく説明できるのだから、サイコロ遊びが好きな神を受け入れればいいと言った。どちらも、それぞれ自分に都合のよい神のイメージを抱いて」いるのである。うまくいけばいったで神をもち出し、それがまだ未知であれば、またそこに神を見る。審美観における神と、証明できない「なぜ」における神。結局のところ、物理学者は神を葬るどころか、神と付かず離れずして一緒に科学を発展させてきたのだ。そして、今や、その神は、八百万の神よろしく、変幻自在に姿形を変えることのできる存在になった。つまり、現代の神は、「なんでもあり(anything goes)」の神なのである。
 もっともここで言う神は、あくまでも人間がつくった神である。いわば観念としての神である。だからこそ、なんにでも変わることができるし、人間の方が変われば、それと一緒に神も変わると池内了氏は言う。「科学者はなんでも知ってるという〈人間原理〉こそ、科学者の傲慢であり」、それを主張したい科学者が少なくないのも事実。しかし、現に科学はいまだ解明されていないものを五万ともっている。まだまだわからないことだらけである。であれば、「そのわからないことを神と考えても、いっこうにかまわないのではないか」と池内氏は言う。なぜならば、それは観念なのだから。要するに、それは「あたま」の中から生まれ「あたま」の中にあるものだからだ。ある法則が発見されたとしても、それがなぜそうなっているのかということについては、じつは科学は何も答えていない。ただ「そうなっている」と言っているにすぎない。
 池内氏の冒頭の発言は、大森荘蔵氏が言う「重ね描き」と同じことを言っているのだろう(editor's note before参照)。私たちは、なまの世界を前にして、それを科学的発見という言葉で言い換えているにすぎないのである。だからこそ、そこに神が現れる。なまの世界、なまの経験とは、今自分が生きて感じているそのすべてのことである。今自分が生きていて感じていること、大森荘蔵氏流に言えば、まさしくそれが観念である。つまり、「あたま」の中で起こっていること、感じていること。もとより、ここで言う「あたま」は、脳内の情報処理機能のことを言っているのではない。ふだん「こころ」と呼んでいるようなもの。そうした「こころ」が感じていること、「こころ」の働きを、ここでは観念と表している。
 科学者といえども科学から神を追放することができなかったのは、それが「重ね描き」にすぎないということを科学者自身が薄々わかっていたからではなかろうか。科学的発見が科学者の「あたま」に宿った時のことを、科学者は「Ahaの瞬間」と呼ぶ。まさに、それは天から降りてくるような感じだと科学者たちは言う(「Ahaの瞬間」『AI ジャーナル』)。科学者はその瞬間、その発見を観念として認知し、それを神と呼ぶのである。しかし、その科学にもついに「わからないこと」があるということがわかる瞬間がやってきた。観念という神もついに自らを放擲せざるをえない発見。それがゲーデルの「不完全性定理」であった。神は、この発見によって、神自身が神であることを放棄したのである。言い換えれば、観念はこの時から、「なんでもあり」の観念になったのである。

それでもなお「科学を選ぶ」意味とは何か


 高橋昌一郎氏は、昨今の科学離れよりも、科学嫌いが増えていることが不思議でしょうがなかったと言う。そして、その謎を探りながら、科学が失いかけていたものが哲学であり、科学における哲学の復興を訴えた。著書『科学哲学のすすめ』は、その意味であとがきにあるように、科学を社会学的に考察しようというものではなく、あくまでも科学における哲学的思考の復権にアクセントを置いている。最後に高橋氏をお尋ねした理由もそこにあった。科学と社会の界面を考察してきたが、じつは科学の内部にその争点があるということが見えてきたからである。つまり、科学自体が、これまでのような姿形をしていないとしたら、それは科学にとってどのような事情によるものなのか。あるいは、神としての科学がついにそれを放棄してしまったという事実をどう理解すべきなのか。それは、社会の問題である以上に、科学自身の問題である。私たちが考察しなければならないのは、科学そのものではないかと考えたからである。
 「今日いわゆる文化人を見渡してみると、大多数が何らかの意味で〈反科学〉を主張しているのではないかと思える。なぜこれほどまでに科学は嫌われるのか」。「原子力開発や遺伝子工学の廃止を求め、臓器移植や動物実験の禁止を訴え、西洋医学や精神医学に不信感をもち、有機栽培や自然食品を好み、環境保護運動やフェミニズム運動に賛同し、ヨガや気功を実践し、超自然現象や神秘主義に憧れ、星占いや宗教に基盤を置いて生活をしている人……。実際に周囲を見渡してみると、少なくとも部分的にこのような傾向をもつ〈文化人」〉あるいは〈知識人〉は少なくない」。
 こういう傾向が強く見られるのは、科学的知識がないからというわけでもなさそうだ。むしろ、科学的教養をもつがゆえに、反科学を標榜する知識人は多いのである。それはなぜだろうか。科学が神であることを放棄したことも、そうした潮流をつくりだした原因の一つだと思われる。神自身がそれまでの神の座を降りてしまったのだ。池内氏が言うギャンブルにうつつを抜かす神の登場である。もはや、科学は万能の知を主張することができなくなった。知が知でなくなったのである。その歴史的な事件の首謀者こそクルト・ゲーデルそのひとであった。
 ゲーデルの「不完全性定理」の発見は、科学を科学としてあらしめる根拠を科学そのものから奪い取ってしまったのである。科学は「不完全性定理」の発見によって、その存在理由を失ったのだ。「科学を厳密に表現しようとすると、数学を使わなければならない」が、「じつは数学というシステムの中にも〈不完全性〉があることがわかっ」たのである。しかも、「ゲーデルが導いた〈不完全性定理〉は、(科学を最も根本のところで基礎付ける)数学の世界においても、〈真理〉と〈証明〉が完全には一致しないという結論を示してしまった。しかも、それだけでは終わらない。ゲーデルは、一般の数学システムSに対して、真であるにもかかわらずそのシステム内部では証明できない命題Gを、Sの内部に構成する方法を示し」てしまった。つまり、「不完全性定理」は、論理的に完全なシステムはこの世界に存在しないことを判明してしまったのである。理性主義の象徴としての科学は、この時点で崩壊した。ファイヤアーベントがいみじくも言ったように、私たちの進むべき道はアナーキズムしかないのだろうか。「なんでもあり」という、その意味ではあらゆる考えが相対的な価値しかもたない、反科学でさえもが科学と正当に対峙しうる世界。じつは、現代とは、すでに科学を必要としない社会になりつつあるのかもしれない。
 私たちは、本当に科学を必要としないのだろうか。反科学は本当に科学を葬り去ってしまったのだろうか……。
 いや、だからこそ、今、科学をもう一度議論の俎上に登らせようと高橋氏は提言する。まず、その手始めにとにかく議論をすることだと言う。それも哲学的な議論でなければならない。「今、科学はどうなっているのか、科学にどういう意味があるのか、科学とはわれわれに何をもたらすのか、科学者にこそ科学哲学の議論をしてほしい」。要するに「もっと議論を」である。
 「科学も反科学も非科学も含めて、自分以外の人々の考え方や生き方をどのように理解するのかということ」。「大切なのは、意見が違うという結論ではなくて、なぜ意見が違ってくるのか、その理由を議論することだと」思う。そして、何よりも「なぜ科学を選ぶべきなのか」を問い続けること、それが科学哲学であり、現代のわれわれに最も必要なことではなかろうか。 

  科学技術の進展は、やがて人々から科学(的思考)の必要性を失わせることになるという(Shamos,Morris H."The Myth of Scientific Literacy")。テレビであれ携帯電話であれ、またコンピュータでさえも私たちはその仕組み、システムを知らなくても使いこなすことができる。その仕組みやシステムを考えなくても、それらは使われることによって私たちにベネフィットを提供する。科学(的思考)は、そうした技術および技術の産物にとってはむしろじゃまである。観念である科学は、十分にいきわたった時、観念であることを忘れさせるだろう。今日、科学は、私たちにとって思考の対象でも、思考の道具でもない。思考の結果ですらないかもしれない。そのような科学が失効した時代に、それでもなお「科学を選ぶ」としたら、それはどのような動機によるものなのか。そして、そこにどんな意味があるのだろうか。科学哲学が深刻に問われなければならない理由は、まさにその問いの中にある。科学とは何かと問うこと。それは、科学を放棄した後にいまだに残る観念、つまり、自分自身の、自分の「あたま」の中にある「知」を問い直すことなのではなかろうか。 (佐藤真)

 
   editor's note[before]
 


◎科学論の現在
科学論の現在 金森修、中島秀人編著 勁草書房 2002
科学革命の現在史 中山茂、吉岡斉編著 学陽書房 2002
現代科学論 井山弘幸、金森修 新曜社 2000
サイエンス・ウォーズ 金森修 東京大学出版会 2000
知の欺瞞 アラン・ソーカル、ジャン・A・ブリクモン 田崎春明ほか訳 岩波書店 2000
科学の現在を問う 村上陽一郎 講談社現代新書 2000
知の総合化への思考法 高辻正基 東海大学出版会 2000
科学史事始 渡辺正雄 南窓社 2000
科学を考える 岡田猛ほか 北大路書房 1999
ロバート・フック 中島秀人 朝日新聞社 1996
科学論入門 佐々木力 岩波書店 1996
フランス科学認識論の系譜 金森修 勁草書房 1994
岩波講座現代思想 10 科学論 新田義弘編 岩波書店 1994
科学論 戸坂潤 青木書店 1989
科学論の展開 A・F・チャルマーズ 高田紀代志ほか訳 恒星社厚生園 1985
科学論序説 H・I・ブラウン 野家啓一ほか訳 培風館 1985


◎科学哲学の復興

疑似科学と科学の哲学 伊勢田哲治 名古屋大学出版会 2003
科学はいかにつくられたか 落合洋文 ナカニシヤ出版 2003
科学的認識と帰納的推論 宮地正卓 日本図書センター 2003
科学を読む愉しみ 池内了 洋泉社 2003
科学哲学のすすめ 高橋昌一郎 丸善 2002
科学哲学 坂本百大、野本和幸編 北樹出版 2002
批判的合理主義 1.2 ポパー哲学研究会編 未来社 2002
科学知と人間理解 高橋準二 新泉社 2002
近代科学と聖俗革命(新版) 村上陽一郎 新曜社 2002
科学の大発見はなぜ生まれたか ヨセフ・アガシ 立花希一訳 講談社ブルーバックス 2002
科学を育む 黒田玲子 中央公論新社 2002
科学計量学の挑戦 L・ライデスドルフ  藤垣裕子ほか訳 玉川大学出版部 2001
科学が問われている ソーシャル・エピステモロジー  スティーヴ・フラー 小林伝司ほか訳 産業図書 2000
批判的合理主義の思想 蔭山泰 未来社 2000
科学の終焉(おわり) ジョン・ホーガン 筒井康隆監修 竹内薫訳 徳間書店 2000
科学認識論 ガストン・バシュラール ドミニック・ルクール編 竹内良知訳 白水社 2000
科学から哲学へ 佐藤徹 春秋社 2000
科学と科学者のはなし 寺田寅彦 池内了編 岩波書店 2000
逆立ちしたフランケンシュタイン 新戸雅章 筑摩書房 2000
ゲーデルの哲学 高橋昌一郎 講談社現代新書 1999
大森荘蔵著作集 第4巻 物と心 岩波書店 1999
哲学の最前線 富田恭彦 講談社現代新書 1998
科学哲学者柏木達彦の多忙な夏 富恭彦 ナカニシヤ出版 1997
哲学、女、唄、そして… P・K・ファイヤアーベント 村上陽一郎訳 産業図書 1997
現代思想の冒険者たち 14 ポパー 小河原誠 講談社 1997
科学哲学 小林道夫 産業図書 1996
クワインと現代アメリカ哲学 富田恭彦 世界思想社 1994
科学の解釈学 野家啓一 新曜社 1993
方法への挑戦 P・K・ファイヤアーベント 村上陽一郎ほか訳 新曜社 1981
科学と哲学の界面 大森荘蔵、伊東俊太郎編著 朝日出版社 1981
科学的発見の論理 上下 カール・R・ポパー 大内義一ほか訳 厚星社厚生閣 1980
科学革命の構造 トマス・クーン 中山茂訳 みすず書房 1971

◎科学・技術・社会の境界

専門知と公共性 藤垣裕子 東京大学出版会 2003
サイエンス・コミュニケーション 科学を伝える人の理論と実践 S・ストックルマイヤーほか編著 佐々木勝浩ほか訳 丸善プラネット 丸善株式会社出版事業部(発売) 2003
科学の社会史 上下 広重徹 岩波書店 〜2003
年報 科学・技術・社会 科学・技術と社会の会 弘学出版 〜2002
知の失敗と社会 松本三和夫 岩波書店 2002
橋はなぜ落ちたか ヘンリー・ペトロスキー 中島秀人、綾野博之訳 朝日新聞社 2002
科学者の新しい役割 吉川弘之 岩波書店 2002
公共哲学 8 科学技術と公共性 佐々木毅編 東京大学出版会 2002
科学者の不正行為 山崎茂明 丸善 2002
科学・環境・生命を読む 情況出版編集部編 情況出版 2002
科学は今どうなっているの? 池内了 晶文社 2001
科学者の将来 佐藤文隆 岩波書店 2001
失敗学のすすめ 畑村洋太郎 講談社 2000
鯨と原子炉 ラングトン・ウィナー 吉岡斉ほか訳 紀伊国屋書店 2000
科学技術と現代政治 佐々木力 筑摩書房 2000
原子力の社会史 吉岡斉 朝日新聞社 1999
科学技術社会学の理論 松本三和夫 木鐸社 1998
現代社会と知の創造 マイケル・ギボンス 小林信一監訳 丸善 1997

◎環境問題を科学する


環境危機をあおってはいけない ビヨルン・ロンボルグ 山形浩生訳 文藝春秋 2003
ダイオキシン 神話の終焉(おわり) 渡辺正、林俊郎 日本評論社 2003
地球温暖化 伊藤公紀 日本評論社 2003
続 環境と健康 安井至 丸善 2003
酸性雨 畠山史郎 日本評論社 2003
リサイクル 安井至 日本評論社 2003
環境と健康 安井至 丸善 2002
新石油文明論 槌田敦 農山漁村文化協会 2002
化学物質ウラの裏 森をからしたのは誰だ ジョン・エムズリー 渡辺正訳 丸善 1999
ダイオキシン情報の虚構 林俊郎 健友館 1999
エコロジー神話の功罪 槌田敦 ほたる出版 1998
逆説・化学物質 あなたの常識に挑戦する ジョン・エムズリー 渡辺正訳 丸善 1996
環境リスク論 中西準子 岩波書店 1995

◎生殖技術、不妊、ジェンダー


ジェンダーで読む健康/セクシュアリティ 根村直美編著 明石書店 2003
バイオエシックスの諸相 根村直美 創英社 三省堂書店(発売) 2001
健康とジェンダー 原ひろ子、根村直美編著 明石書店 2000
セックス・イン・ザ・フューチャ ロビン・ベイカー 村上彩訳 紀伊国屋書店 2000
文化としての生殖技術 柘植あづみ 松籟社 1999
生殖技術とジェンダー 江原由美子 勁草書房 1996
つくられる生殖神話 浅井美智子、柘植あづみ編 制作同人社 サイエンスハウス(発売) 1995
不妊とゆれる女たち お茶の水女子大学生命倫理研究会 学陽書房 1992
不妊と向きあう 宮淑子 教育資料出版会 1992

◎医療人類学の視点


小児がん病棟の子どもたち 医療人類学の視点から  田代順 青弓社 2003
医療人類学 アン・マッケロイ、パトリシア・タウンゼント 杉田聡ほか訳 大修館書店 1995
医療人類学入門 波平恵美子 朝日新聞社 1994
病むことの文化 波平恵美子 海鳴社 1990
医療人類学 G・M・フォスター、B・G・アンダーソン 中川米造監訳 リブロポート 1987
日本人の病気観 大貫恵美子 岩波書店 1985
病気と治療の文化人類学 波平恵美子  海鳴社 1984

◎科学と宗教


科学と宗教 A・E・マクグラス 稲垣久和訳 教文館 2003
科学史からキリスト教をみる 村上陽一郎 創文社 2003
〈癒す知〉の系譜 島薗進 吉川弘文館 2003
脳はいかにして〈神〉を見るか アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリほか 茂木健一郎監訳 木村俊雄訳 PHPエディターズ ・ グループ PHP研究所(発売) 2003
物理学と神 池内了 集英社 2002
科学者は神を信じられるか ジョン・ポーキングホーン 小野寺一清訳 講談社 2001