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科学は賽子(サイコロ)を振るか

数値としての「地球環境問題」

 2002年12月1日、99年に議員立法で成立した「ダイオキシン類対策特別措置法」(以下ダイオキシン法と略記)が施行された。ゴミ焼却炉から出るダイオキシンの量をそれまでの8分の1〜80分の1に下げることが義務づけられた。そのために、従来の焼却炉から「広域高温連続焼却炉」に更新せざるをえなくなるが、その設置費用は1基数百億円といわれている。  
 ダイオキシンの毒性はサリンの2倍、青酸カリの1000倍。強い発ガン性があり、新生児や乳児のアトピーを増やし、その「環境ホルモン」作用が生物をメス化させる。そうした恐ろしいダイオキシンが、塩素系プラスチックの焼却から発生するという。99年に産廃銀座と呼ばれていた所沢市で野菜に基準値の何十倍ものダイオキシンが含まれているというテレビ報道がなされ、新生児の死亡率がごみ焼却炉の増加と共に増えているという市民団体の告発もあって、ダイオキシン=ゴミ焼却炉発生説に関心が集中した。ゴミ焼却炉こそ諸悪の根源である。成立から3年後、「ダイオキシン法」は本格的に適用されることになった。  
 「ダイオキシン法」によって、それまで使用されていた全国のゴミ焼却炉の大半は使えなくなり、10年以内にダイオキシンをゼロに近づけるための新しい高温焼却炉への変更が義務づけられた。たとえば、東京23区内で建て替え新設などダイオキシン対策に必要とされる費用は、なんと1千億円を越えるという。まさに桁外れな数字だ(全国では40兆円と見積もられている!)。そんな空前絶後の事態が、「サリンの2倍、青酸カリの1000倍」という言葉に端を発しているとしたら、きわめて象徴的なことだといえる。私たちがというか国家が、この一つの数値を巡って翻弄されたといってもいいからである。 
  ダイオキシン問題は日本に特有な現象であったが(後のインタビュー記事を参照)、ダイオキシンも含めて、私たちにとって、今、最も重要な問題が「環境問題」だとされている。地球温暖化、酸性雨、エネルギー・資源の枯渇、環境ホルモン……、これらの言葉を聞かない日はない。「環境問題」は一国で解決できるものではない、国を越えた緊急課題であるという点でそれは「地球環境問題」なのである。  
  「地球環境問題」の専門家の主張は、主に次のようなものだ。今や、地球も人間もボロボロである。地球もろともわれわれの築き上げた文明は崩壊するかもしれない。われわれに問われているのは、まずこうした人間の暮らしを脅かす「地球環境問題」の早期解決にある。こうした緊急課題に、先進諸国、発展途上国の変わりなく、地球レベルで全力をあげてその対策をこうじなければならない。 
  なぜそれが緊急の課題なのか。たとえば、次のデータを見てもらいたい。いわく、化石燃料の使用量(年間)は、石炭、石油、天然ガスを合わせると79億万t、1秒間に大型トラック63台分が使用される[★1]。それは、年間65億5300万tの炭素排出になり、その結果、地表の平均気温が引き上げられ、たとえばグリーンランドの氷河は毎年510億立方メートル溶け出す。これは琵琶湖の容積の約1・9倍にあたる[★2]。あるいは、世界の天然林は90年代の10年間に1億6100万ヘクタールが消失した。これは、1時間でセントラルパークが5つ分なくなる計算になる[★3]。また、地球に生息する生物種は最大で1億種と言われているが、主に熱帯雨林の破壊が原因で1年間に7万3000種が絶滅している。じつに、1時間に8種の生き物が地球から姿を消していることになる[★4]……。
  「地球環境問題」には常に数値(データ)がついて回る。そのおおかたが、私たちを恐れさせるに十分な情報だ。環境は確実に悪化しているではないか! その実態を裏付ける(とされる)データが一緒に提示されると、危機感はリアリティに変わる。明日にも地球はおしまいになるかもしれない、これは何かすべきだ、こうした数値を見せられれば誰でもそう思うだろう。数値には、われわれの思考や行動を方向づける力があるようだ。数字の力は絶大である。

PUSの「欠如モデル」とベネフィットの関係

 今号のタイトルは「神を演じる科学」。今日の科学は、かつての神がそうであったような、全知全能のごとく振る舞う位置に立ってはいないか。もしそうであるとすれば、今や私たちは、そうした現代の神の前にただひれふす存在に成り下がっているかもしれない。次々と送りだされる御託宣をありがたく頂戴し、それを無条件に受け入れ享受するだけの立場に、である。そこにある構図は、まさにかつての神と一般者のそれであろう。しかし、現代社会にあってこの関係は決して健全なものとはいえないはずだ。改めて科学というものの存在を問い直す必要があるのではないか。そのうえで、科学(神)と一般者(社会)、あるいは専門家(プロ)と非専門家(素人)の関係を再構築したい、簡単に言えばこれが今回の趣旨でありテーマである。  
  たとえば、今日、数量的なデータ、数値といったものは、そうした御託宣の代表ではないか。私たちはデータや数値を吟味することなく、そこにかぶせられたメッセージだけを受け入れる傾向にある。非専門家と専門家を対置し、後者から前者へと科学知識が一方的に流れ、前者はそれをただ受け入れるだけ。こういう捉え方は「欠如モデル」として科学論、科学社会論の分野ですでに80年代に問題視されていた(杉山滋郎「科学教育」『科学論の現在』所収)。一般市民の科学理解力(public understanding of science=PUS)不足、あるいは 科学の素養(Science literacy:読み書き能力)の低下をいかに克服するか、イギリスやアメリカでは、活発な議論が交わされていたという。わが国で昨今かまびすしく言われる「科学離れ」が、先進諸国の間でも危惧されていたわけだ。しかし、こうした議論は往々にして短絡した結論を導き出す。「素人のPUSが空っぽのバケツであれば、PUSを高めるには、科学知識をどんどん注ぎ込めばよい」と。要するに足りないなら増やしてやればよいというわけだ。事実、わが国の議論もこの傾向がないわけではなく、単純に理数系の授業数を増やそうという話でお茶を濁しているようである。
  問題の本質を明らかにしなければならない。私たちがかくもそうした数値に翻弄され、あるいはその数値から導出される結果を安直に受け入れてしまうのはなぜか。その理由を探る必要がある。それは、おそらく、私たち自身の科学に対するイメージ、もしくは科学理解の基底をなす科学という「観念」それ自体にあると考えられる。あえて仰々しく神などという言葉を引っ張り出してきた理由も、じつはここにある。今日の科学の言説は私たちの観念をも操作する神の手を持っている。言い換えれば、科学は観念化されているのだ。そんなことを今更言われてもと思われるかもしれない。科学が私たちの思考そのものを深く規定している、そういう指摘は件のパラダイム論でさんざん指摘されてきたことである。もちろんそうなのだが、今あえてそのことを取り上げる必要があると考えるのは、そうした科学の観念化という事態が私たちの想像を越えて急激な勢いで進行しているように感じられるからである。たとえば、ある学者が現代社会を称して「動物化」と呼んだ。理性を失って行動する現代人を批判的に捉えたといわれるが、事実は逆であろう。「パスできるような理性はさっさとパスして、工学的に反応しよう。第一その方がずっと効率的だ」、おそらく、実態はこっちの方がはるかに近いのではないか。つまり、「動物化」とは、人間として退化しているどころか、むしろ、効率を優先するきわめて合理的な主体へと改変する進化ではないかと思われるのだ(もちろん、理性不在の進化という意味だが)。 
 「神を演ずる」という言葉は、単に私たちを支配する強力な力をもつという意味だけで使ったわけではない。それが十分観念化することによって、私たちの思考は円滑になる、そういう存在になっているということだ。科学は私たちにとって常にベネフィットであり続ける。そうであるがゆえに、科学は神を演じ続けるのである。なぜならば、十分な観念化は、見方を換えれば、もう観念ですらないということだ。つまり、科学(的思考)はその時点ですでに放棄されているのと同じ状態なのである。

つくられたダイオキシン神話?


 地球環境は本当に悪化の一途をたどっているのだろうか。地球環境問題にはこれまで常識と考えられていることがいくつかある。私たちは地球温暖化、酸性雨、エネルギー・資源の枯渇、環境ホルモンなどをいわゆる「定説」としてほとんど鵜呑みにしてきた。専門家が言うことであるし、それを裏付けるデータもちゃんとあるのだから、間違いはないはずだと。それらの「定説」をさして疑うこともなく受け入れてきたのだ。ところが、ここにきてそうした「定説」に疑問を投げ掛ける声が上がりはじめた。 
 
たとえば、地球温暖化。地球が温暖化していることは確実だとしても、それはどのくらいのスパンでそうなっているのか、地球温暖化が進行しているという議論の前提条件は何か。そもそも過去100年の間に二酸化炭素による温暖化の事実はあるのだろうか。専門家の中には、その因果関係に疑問をもつ者も少なくないという。地球温暖化の主因だとされる二酸化炭素は、現時点ではシロともクロともいえないらしい。 
  あるいは、もっと怪しいのが酸性雨の問題。酸性雨が森林を殺しているとセンセーショナルに語られたが、この10年ほどの研究で、森林枯死の原因の多くは酸性雨ではなく、クルマの排ガスから出る窒素酸化物の生むオキシダントが原因ではないかといわれるようになった。確かに今では酸性雨を口にする専門家はめっきり少なくなった。理科の教科書からも、酸性雨の文字は消えつつあるという。 
  同様にマスコミなどによって衝撃的に書き立てられ、私たちを恐怖に陥れた「ダイオキシン問題」もじつはつくられた神話である可能性が強いといわれる。ダイオキシンの有毒性を示すデータを間違って解釈され、ダイオキシンにはそもそもそれほど毒性はないというのである。日本でとくに騒がれた「ダイオキシン問題」は、科学的に見てどうかという議論というよりは政治・経済の問題である。ダイオキシン法までつくられてしまった裏には、地球環境問題とは本来なんのかかわりもない、産業界の利害関係が潜んでいるのではないかというのだ。 
  冒頭述べたように、私たちは数値というものを過信しすぎているのかもしれない。その最たる例が「地球環境問題」である。その数値の意味をきちっと知ることなく、その示された数字に一喜一憂する。そこにあるのは、科学への畏敬というよりは、科学(的思考)の放棄ではなかろうか。 
  世に言われる「定説」にとらわれることなく、科学的な目で今日の地球環境問題を見直してみよう。そういう視点から地球環境問題を改めて考え直そうと始まったのが『地球と人間の環境を考える』(日本評論社)というシリーズである。その編者の一人である東京大学生産技術研究所教授・渡辺正氏は、そのシリーズの一冊として共著で『ダイオキシン 神話の終焉』を著した。ここで渡辺氏らが主張するのは、ダイオキシン問題は「つくられた神話」ではなかったかということだ。渡辺氏らは、公表されているデータをいわゆる化学の常識にあてはめて解読するわけだが、そこで気づかされるのは、いかに私たちがデータの数字(数値)だけしかみていないかということだ。その意味を正しく理解していないのである。科学という目でそれを見ていない。「ダイオキシン問題」も「地球環境問題」も、そこに盲点が潜んでいる。 
  今号では、まずこの科学的データである数値というものに注目してみたい。数値やデータを理解するとはどういうことなのか。また、数値やデータにまどわされることなく事実を把握することは、私たち非専門家に果たして可能なのだろうか。「ダイオキシン騒動」(渡辺正氏)を例にしながら、そのもつ意味を検討し、科学を標榜する数値やデータについて考えてみたいと思う。お尋ねするのは、もちろん渡辺正氏そのひとである。

「構造災」という新たな問題設定

 そもそも「地球環境問題」は、人為的な問題といえるのだろうか。地球温暖化が人為的に排出された二酸化炭素が原因でないとしたら、それは単なる自然現象であり地球における物理現象の一つにすぎないといえなくもない。「地球環境問題」は、人間を原因とする問題なのか、それとも地球自身が抱える問題なのか。見方の違いによって、結論も対策もまったく変わってくる。 
  「地球環境問題」はヒューマンスケールをはるかに上回るできごとである。にもかかわらず、私たちの日常生活と密接に関係している。そこにある種のわかりにくさと混乱がある。 
  「BSE(いわゆる狂牛病)は、まだしも誰にでも問題の様子がみえやすい」が、「地球温暖化問題、成層圏オゾン層破壊問題、環境ホルモン問題、核廃棄物処理問題、GM(遺伝子組み換え)作物の安全性というような例になると、問題の様子を自分の眼でみて身近に感じる機会ははるかに少なくなる。にもかかわらず、問題の深刻さはBSEに勝るとも劣らない」。そういう問題が日常化すると、私たちはかえって「手近なステレオタイプによる判断という、事実上の思考停止状態」に陥る。そして、「科学技術にかかわる問題はとにかく理科出身者にまかせておくが無難」という思考回路、行動回路に至る。こう指摘するのは、東京大学大学院人文科学系教授・松本三和夫氏である。 
  松本氏は、『年報 科学・技術・社会』の共編著者として、主に科学・技術と社会のかかわりについて研究、発言をされてきたお一人である。松本氏は、1998年から99年にかけてイギリスに滞在されたが、ちょうどBSEのヒトへの感染が問題になった時期と重なり、そのことも一つのきっかけになって、科学・技術と社会の関係について考察した著書を上梓された。『知の失敗と社会』(岩波書店)と題された一冊は、科学・技術にかかわる社会問題について、社会の側がそれをどう受け止めてきたかという視点から掘り下げている。そこで問題提起されているのが、今述べた「思考停止」状態についてだ。 松本氏は次のように言う。現代の科学・技術の問題の多くは、理科系、文科系問わず、有力な解明、解決を見出しているかどうかは不明である。にもかかわらず、「解明、解決を謳う多様な言説が百家争鳴の観を呈し」、結果われわれ非専門家=素人は、そうした問題にかかわる言説を信じなくなり、ついにはそれについて考えるのを放棄してしまう。つまり、思考停止状態が生まれているというのである。数値やデータを見せられて臆してしまうという以前に、ヒューマンスケールでは捉えられない問題については、すでに私たち素人集団は腰がひけているというわけだ。しかし、松本氏は、それを言説を受け入れる社会(素人集団)の問題へ単純に還元するということはしない。むしろ、現代の科学・技術のフレーム(性格)に着目する。それが従来の観点からはくくれない問題になっていることを書名にあるように「失敗」という言葉から解き明かそうとするのである。 
  たとえば、今日の災害や事故に多くは、天災とも人災ともいえないものである。むしろその両方が絡み合ったような災害や事故が多い。しかし、不利益を被る人は歴然と存在する。そういうたぐいの問題は、既存の科学・技術のフレームをあてはめて「失敗」と捉えてしまうと事態を見誤ってしまうと指摘する。私たちが無意識に見てとる「成功/失敗」といった二分法にこそ問題の本質があるのではないか。そこで松本氏はそうした現代の災害を「構造災」と言い直し、これまでのフレームから脱却し、新たな「知」のあり方を提案する。 
  私たちが陥っているとされる「思考停止」状態について、社会という視点を通して考察する。お尋ねするのは『知の失敗と社会』の著者松本三和夫氏。松本氏の提案する新たな「知」に注目することは、専門家/非専門家というフレーム自体を問い直すことになるだろう。

崇め敬われる「医療」

 専門家/非専門家というフレームを暗黙裏に認め、専門家は意見し、私たち非専門家はそれを御拝聴する、こういう一方通行が歴然と存在するのが医療という現場である。「欠如モデル」の最も典型的なモデルを医者と患者の関係に見ることに疑問はないだろう。専門家自身が科学を「神」と見なす。先に指摘したことが、医療という現場ではなんの疑いもなく日常行われている。「患者さんの苦しみを取り除くことをまずいちばんに考える」。医者の誰でもそれを口にするし、患者の誰もがそれを望んでいる。医者が神なのではない。医療が神の座に鎮座ましますのだ。医療こそ、現代では私たちが問題にしている神そのものとしてあるといっていい。 
  とはいえ、いざ病気になれば、それが重ければ重いほど、やはり頼るのは医者である。「神にもすがりたい」という言葉どおり、私たちは身近な神、医療にその救いを求める。ところが、本来病気でもないのにそうした気持ちで医療機関にかかる場合もある。その一つが不妊治療だ。不妊というのは、身体的痛みや不調が連続して起こるわけではないので、字義どおりの意味で解釈する限り病気ではない。ある年齢になって、パートナーと結婚し、子供ができる。これは普通のことと思われているが、当たり前ではないし、そういう生き方を選択する必要もない。子供がいないということは身体的にみてもなんら問題ではない。セックスをしたからといって子供ができるとは限らないし、現に避妊も普通に行われている。なのに、子供ができないという理由で不妊治療を求める夫婦は多いのである。 
  昨今の先端医療技術の進歩は、生殖医療技術を更新させ、不妊治療の門戸を広げたことも拍車をかける。そして、不妊の解決手段を医療に求めるのである。なぜ私たちは、そのことに疑問をもたないのか。それこそ私たちが、医療を神と崇めている何よりもの証拠ではなかろうか。 
  賞賛ばかりではなく、批判も多い今日の先端医療技術が、なぜ次々と開発され応用されていくのか、また、議論を巻き起こしながらも社会に受容されていく理由はなぜか。そうした先端医療の問題が、最もあざやかな形で表れているのが不妊治療である。 
  産婦人科医と患者への聞き取り調査を中心に、その発展と受容のプロセスを追うことから、今日われわれが医療に期待し、医療に求めているものをあぶり出そうとした試みがある。明治学院大学社会学部社会学科教授・柘植あづみ氏の研究だ。その研究は、のちに『文化としての生殖技術』(松籟社)という形で結実をみた。柘植氏は、著書の冒頭次のように言う。「子どもを生むということは、身体的/生理的な現象である以上に、文化的/社会的現象である。(…)生殖医療技術がもたらしたとされる〈問題〉の多くが、文化や社会の価値と密接に関わっているからである」。 
  「欠如モデル」の背景にあるものは、言うまでもなく文化や社会(の価値観)である。医者の治療への過信、患者の医者もしくは医療技術に対する信望。その両者を媒介するものこそ、私たちが暗黙裏に認める医療=神という存在ではないか。私たちは、柘植あづみ氏に不妊治療を事例にしながら、医者と患者の関係を、媒介する神という視点から考察する。

レトリックとしての神、メタファとしての神

 科学は、いや少なくとも科学者は、神など信じていないはずである。彼らが信じ求めるのは法則であり普遍性である。自然から神を追放した張本人こそ科学者である……。と、ずっと思っていたのだが、これは筆者の単なる思い込みにすぎなかったことを示唆する著作に出会った。『物理学と神』(集英社新書)がそれで、著者の池内了氏は、現役の宇宙物理学者である。池内氏は、自然の謎に立ち向かう科学者が神の手助けを得ようとはしないけれども、そこで見つかった自然の法則が美しければ美しいほど、それを神の御技と考える科学者はいるというのである。そもそも西洋世界に端を発する近代科学は、聖書のほかに自然を書物とみなし、その作者もまた神であった。したがって、自然を研究する科学は、神の意図を理解する作業であった。つまり、科学の黎明期からすでに神と科学は親和性をもっていたというわけである。では、現代ではどうか。量子力学、複雑性科学、カオスと科学の最先端はいよいよ神とは無縁な方向へ突き進んでいるように思えるのだが、さにあらず、神はやはり存在する。アインシュタインにとっては賽子を振らないからこそ神であったが、いまや神こそが率先して賽子遊びに熱中している。池内氏いわく、神は姿形を変えながら、科学と寄り添いながら何度でも復活するという。ある意味で自然科学こそ、神と共に発展してきた当のものにほかならないというのだ。 
  もとより、ここでいう神は宗教上の神とは異なることはいうまでもない。いわば神という観念のことであろう。専門家と称する科学者も、じつは観念としての神を手放してはいないのである。そのことは何を意味しているのだろうか。 
  「未知の法則を求めて、闇を手探りしている物理学者の営みは、信仰者が姿露ならぬ神をアレコレ空想するのと似ていないでもない。物理学者は、〈かくあるはず〉の法則、〈かくあれかし〉の法則を求め、信仰者は〈かくあるはず〉の神、〈かくあれかし〉の神を想像している」のだとしたら、私たちが科学を畏れる必要などないのである。素人集団である社会が見ているものと科学者が見ているものは、案外近いものなのかもしれない。もしくは見ているものは同じでも、それを語る言葉(観念)が違うだけとも考えられる。名古屋大学大学院理学研究科教授・池内了氏に、神と科学の不即不離の関係をお聞きする。

科学に欠けているのは哲学


 聖書が自然を語る言葉であるとしたら、科学もまた自然を語るもう一つの言葉である。科学は私たちの見ている自然を科学の言葉で表現し直しているにすぎない。すなわち、科学とは自然の「重ね描き」である。こう言ってのけたのが哲学者の大森荘蔵氏であった。私が目の前にある卓上スタンドを「見ている」時、科学はそれをどう語るか。物理的ライト、それからの反射、発射電磁波、眼球レンズの屈折、網膜での吸収、視神経内のイオン電位パルスの変調、シナプスでのアセチルコリン、大脳皮質細胞での電気化学的変化の生起などである。これらの言葉を使って、科学は世界を描写したと考える。確かに、科学は世界を描写した。しかし、科学が描写できるのは、私が卓上スタンドを見る時に、私のからだの内外で生起している自然科学的事象であって、それが「私が卓上スタンドを見る」ことではない。「自然科学は、この私のなまの経験に、その自然科学的描写を重ねて描くのであって、このなまの経験を描くのではなく、また描くこともできない」(大森荘蔵著「科学の地形と哲学」『物と心』所収)。 
  私たちは、もう一度科学の意味を問う必要がある。科学とはわれわれにとってどのような意味を持つのか。それは本当に私たちにとって必要なものなのか。神か神でないかという問いの前に、科学そのものの存在理由を問いただすことが必要なのではなかろうか。 
  「科学を視野に入れない哲学も、哲学を視野に入れない科学も、もはや成立しないことは明らかだろう。現代社会において、もっとも深刻に問われているのが、人類の達成してきた〈科学〉そのものの意味なのである」そして、「〈科学者である以前に一人の人間である〉という意味を追求することが〈科学哲学〉の最大の課題」(『科学哲学のすすめ』)である。 
  科学は神を演じているのか。たとえそうであれ、私たちは、まずその科学が今日私たちにとっていかなる意味をもつのか、そのことを真摯に問うことから始めるべきであろう。
 最後にお尋ねするのは、『科学哲学のすすめ』の著者國學院大學文学部教授・高橋昌一郎氏である。今こそ必要なのは、「科学哲学」であると強く主張する若き哲学者である。(佐藤真)

[★1、2、3]『地球環境データブック 2002-2003』、
[★4]http://www.erc.pref.fukui.jp/unep/action/、いずれも『一秒の世界』 ダイヤモンド社、2003、より

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