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私たちは本当に「自由」なのだろうか

「自由」を確かめる

  私たちは、「自由」という言葉を普段なんのためらいもなく使用している。「自由」という言葉の使用方法を詳細に検証するなどということはしないだろう。それほど「自由」は、ごくありふれた言葉であり、特段問題にならない概念である。しかし、改めて考えてみると、「自由」という言葉の守備範囲はかなり広いことがわかる。たとえば、表現の自由、思想の自由、宗教の自由ということを私たちは主張する。他方、自由経済、自由市場という言葉を使ったり、フリーライターとかフィギュアスケートの「フリー演技」という使い方もある。文脈はそれぞれ異なっているが、これらはすべて私たちが、なんらかの強制や規則に縛られていないという意味で使っている例としては同じである。
 しかし、社会や権力や伝統による強制や規則から逃れるというばかりが「自由」という意味ではない。「〈自由意志にもとづく安楽死の選択〉とか、〈子供を産むか産まないかを決定する自由〉、あるいは〈芸術創造における自由な精神の発露〉などという時の自由には、外からの強制が存在しないという側面よりも」、自分自身で自分の在り方を選択する、あるいは自ら責任を引き受けるといった側面が強く表れている(伊藤邦武「自由」〈『哲学の木』所収〉)。つまり、強制、規則から逃れるのではなくて、自分で考え、自分で決定し、自分で行為する意味をもつのである。政治哲学者であるアイザイア・バーリンは、前者を「〜からの自由」という意味で「消極的自由」と言い、後者は「〜への自由」という意味で「積極的自由」と名付け、両者を明確に区別した(『自由論』みすず書房)。
 私たちが、普段何気なく使用している「自由」という言葉には、じつはこの両者が混然一体となっている場合が少なくないのだ。強制の不在という意味で使ったつもりが、いつのまにか自己決定という意味になっていたり、その逆の場合があったり、厳密に使い分けられているわけではない。
 昨今、「それは、自由のはきちがいだぞ」、「自由の濫用だ」という批判をよく耳にする。そう諭されると「そうだ、何ごとにも規範が必要だ」などと急に襟を正さなければと思ったりするのだが、よくよく考えてみると、これは今言った前者の側面と後者の側面が入り交じって使われていることから起こる混乱ともいえる。「自由」という意味のあいまいさが、その原因の一つになっているのである。たとえば、「モラルに訴えても埒が明かないから、ルールを定めて厳しく規制しよう」ということが、今、さまざまな場面で起こっている。その度に議論や論争が起こる。議論や論争をすることが無駄だというのではないが、そもそも「〈自由〉という概念そのものがそれほど一貫した、単一の内容をもった概念であるとはいえない」(前出)とすれば、モラルかルールかという二者択一の議論も、検討を要するだろう。今一度「自由」という言葉の意味を、しっかりと考えてみる必要があるのではないかと思うのである。
 今号は、この「自由」という言葉を掘り下げてみることにする。

「自由」の背理

 次の文章を読んでいただきたい。
 「(…)現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ」。
 大澤真幸氏の「〈自由〉の条件」(『群像』所収)から引いたものだが、大澤氏によれば、私たちは規範的な制限を少しずつ取り除いていって、許容されうる行為や体験の領域を著しく拡大させてきたという。その結果、「自由の未曾有の繁栄」を手に入れることができた。なるほど、現代社会とは「自由」を謳歌している社会である。ところが、そう述べたすぐ後で次のように言うのである。
 「だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる」。
 一方では、行為に対する許容度は著しく高まっているのに、他方では、同じ領域に属する行為に対する規制が急速に増大しているというのである。つまり、こういうことだ。一方ではすべてのことが許されているかのように見えるけれども、他方では、これまで疑うことすらなかったような当然の行為、すなわち「私的領域」に属する行為が規制の対象になり始めた。行為に対する規制緩和と規制の締めつけが、同じ領域内で同時に起こっているというのである。
 規範をめぐって相反する二つのベクトルが重なり合うのである。大澤氏の言葉を借りれば、「極限において一致してしまう」。現代社会においては、「自由」の繁栄がそのまま「自由」を生きることの難しさへと直結してしまうのである。こうした「自由」が置かれている状況を、大澤氏は「自由の困難」と呼ぶ。
 大澤真幸氏は、京都大学大学院人間・環境学研究科助教授である。『談』では、すでに数回登場していただいた。大澤氏は、近年「自由」について精力的に研究をされていて、とくにここで述べられているように、「自由の困難」、「自由」の孕む背理について言及されている。
 私たちは、現代社会における「自由」の現れ方の一つとして、「自由の困難」に注目してみたい。
 かつてエーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』(東京創元新社)の中で、消極的自由を手に入れると、自由を堪えがたい重荷と考えるようになり、かえって権力への服従を求めるようになると警告した。今、同質の事態がより深刻さを増して現出しているように思われる。私たちは、なんの不自由もなく、一見「自由」を満喫しているかのように生活をしている。にもかかわらず、こころの底から解放感を感じることがない。むしろ、多くの人たちは閉塞感すら抱いているのではなかろうか。大澤氏の考えに従えば、それはどうやら「自由」という概念そのものが、ある種の背理をもっているからであり、「自由」が深刻な困難を抱えているからだという。この困難とは何か、なぜ現代において顕著になってきたのだろうか。さしあたって、私たちはこの「自由」の背理を議論の俎上に載せてみたいと思う。

暴走する脳

 『談』no.66号でインタビューをさせていただいた廣中直行氏は、昨年、『快楽の脳科学 「いい気持ち」はどこから生まれるか』(NHKブックス)と『やめたくてもやめられない脳 依存症の行動と心理』(ちくま新書)の二冊をほぼ同時期に上梓された。前者は、快楽という感情がなぜ起こるのかを、また後者は、ヒトがハマってしまうのはなぜかを、解き明かすという内容であった。クスリやゲームやセックスに耽溺し、あるいは賭事や買い物やケータイにハマってしまうのはなぜか。脳内メカニズムにその答えが隠されていた。やめたくてもやめられなくなり、どうにも止まらなくなってしまうのは、ほかならぬ脳それ自体に原因があるというのだ。しかも、興味深いことに、脳が低次脳と高次脳の二つから成り立っていることから起こる、これは一種の「脳の暴走」なのだという。脳の暴走? 私たちは、これまで暴走を制御しコントロールする役目を担っているのが脳だと思い込んでいた。ところが、制御機能をもっているはずの脳自体が、自ら暴走してしまうということがあるというのである。
 これまで脳の機能という場合、高次脳にばかり関心がもたれていた。ここでいう高次脳とは、主に新皮質のことを指す。ものごとを学んだり、言語を使ったり、論理を組み立てたりといった、いわゆる「精神的」機能を担う部分である。生物の中で唯一人間だけがこの部分を発達させることができたため、最も「人間らしい脳」と見なされている部分だ。
 だが、いうまでもなく脳は新皮質だけでできているわけではない。というよりも、新皮質は脳の機能の中でも最も新しくできた部分である。生物としての原始的な脳が中心部にまずあって、それを新皮質が被う構造になっている。その原始的な脳が低次脳である。脳幹から大脳辺縁系までを低次脳に含める。驚いたり、食べたり飲んだりとか、子孫をつくるとか、あるいは、好き嫌いを判断したりするのが低次脳の役割だ。いわゆる「動物的」機能を担っている部分である。脳は通常この二つの機能が組み合わさって働いているのである。たとえば、感覚や運動は、高次脳と低次脳の両方を使っていることがわかっている。
 高次脳の制御力が弱まると低次脳の活動が表に出てくるという。つまり、「精神的」機能=理性によって抑え込まれていた「動物的」機能が、時に前面に現れてくることがあるという。そのいい例が飲酒して起こることだ。おおざっぱに言うと、アルコールの作用で、大脳皮質の働きが抑制される。そのため、逆に低次脳の機能が活発に働くことができるようになり、その結果陽気になったり多弁になったりするのである。アルコールの麻酔作用が、低次脳を働きやすくするわけだ。これを低次脳の暴走と捉えることができるというのである。
 しかし、この逆もある。生物としての土台をつくる低次脳の任務は生存である。生きて子孫を残すための機能を司るのが低次脳である。ところが、高次脳の調整機能に狂いが生じると、低次脳の働きを脅かすことが起こる。たとえば、自殺はその代表であろう。生きたい(生存)という努力をする低次脳の働きを、高次脳が抑え込んでしまう。これは、高次脳の暴走と考えられる。廣中氏は、大脳皮質が異様に膨れ上がり、宗教や政治、哲学といった余剰産物をつくり出してしまったのは、すべて高次脳の暴走の結果ではないかという。
 じつは、「快楽」についても、ここでいう高次脳、低次脳の働きが深く入り込んでいることがわかってきた。私たちは「理知的な動物であるが、豊かな喜怒哀楽をもち、たえず気持ちのゆらぎを感じながら生きている動物」である。こういう快の感情=快楽がどこから生まれてくるのかというと、まさに高次脳、低次脳の働きが作用しているのである。時にそれは、暴走を許すことにもなり、快は一転して不快に変わることがある。高次脳/低次脳が混然一体となっていることにより、快が生まれたり不快が生まれたりするわけだ。
 もちろん、繰り返すまでもなく脳の働きはどれをとっても低次脳だけ、高次脳だけで完結しているわけではない。廣中氏も本の中で注意を促しているように、この分類は脳の活動を整理するために持ち出された概念である。分けて見ることで、「快楽」などの「こころ」の機能がはっきりしてくる。そこにこの分類の意義があるのだ。
 そこで、こうした最新の脳科学の知見を「自由」の問題群とすり合わせてみることにする。自由を謳歌することと、「快」を感じることは深い関係がある。そうだとすれば、大澤氏が「自由の困難」と呼ぶ事態の発生の要因は、こうした脳の暴走とかかわっているのではないかという仮説が成り立つ。人間の「動物化」という問題ともこの議論は当然重なってくるはずである。ここでは、大澤氏と廣中氏にこの仮説をもとに討論していただく。

リバタリアニズムは何を問題にするのか

 生物学者である池田清彦氏によれば、「人が生きることは、欲望を解放すること」だという(『正しく生きるとはどういうことか』新潮OH!文庫)。つまり、欲望が満たされた時に、人は生きている喜びを感じることができる。私たちが「自由」を求めるのは、まさにこの喜びを感じたいからであろう。「自由」とは、言い換えれば、欲望を解放することでもある。しかし、人々の欲望はさまざまで、時には欲望を解放するために手段を選ばなくなる恐れがある。たとえば、犯罪を犯すとか、場合によっては人殺しをすることもある。そこで、欲望を調停するための道具をつくり出した。道徳や倫理や法律がそれだ。道徳や倫理は、必然的に社会の構成員たる個々人に求められるものだが、法律は個々人の集合である共同体が定めるものである。平たく言えば、前者はマナーに類するものであり、後者はルールにあたる。
 私たちの多くは、国家内で暮らしている。通常「国家」とは、領土、国民、統治権(主権)という三つの要素からなる。ところで、国家は必要悪とする考えがある。国家は必然的に強大な権力を独占し、その領土内の人々の自由を制限するからである。それでも「国家」が必要なのは、「国家」は個人の自由な活動を保護し実現するために必要な制度であるからだ。「国家」あるいは個々人にとって、最も大きな力をもつのが法律である。個々人の利益(権利)が正当な形で保証されるために、法律=ルールは制定されるが、「国家」もまたこのルールの下にあるという関係になっている。しかし、そうは言っても「国家」は肥大化する恐れをもっている。個々人の利益(権利)を最優先するためには、「国家」が果たすべき機能は最小に抑えなければならない。そこで、昨今政治思想、社会哲学の世界で注目されるようになってきたのがリバタリアニズムである。
 日本語では「自由至上主義」あるいは「自由放任主義」とも訳されるが、旧来の自由主義、リベラリズムとの違いを明確化するために、今はリバタリアニズムとそのまま表記されることが多いようだ。
 先に紹介した池田清彦氏はリバタリアンを自認する一人であるが、一橋大学大学院法学研究科教授・森村進氏は、リバタリアニズムをコスモポリタンな自由主義的帝国と位置づけて、リバタリアンの考えるユニークな「国家」観を紹介している。それは、「いかなる政治的決定も個人の基本的秩序を侵害できない(…)自由主義的法秩序の維持と最小限の公共財と社会保障の提供という中立的な任務以外になんら独自の目的を持たない」、また民族の歴史とも結び付かないような「国家」だという(『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』講談社現代新書)。簡単に言えば、個人の自由と経済的な自由を至上とし、国家など権力を極力排除する立場だといえるだろう。リバタリアニズムを押し進めると、裁判の民営化、課税の最小限化、さらには、法から自由な婚姻制度の確立なども主張できるというのである。
 この一見極端にも聞こえる新たな自由の空間について、リバタリアニズムの考えを手掛かりに主に「国家」との関係から考察する。お尋ねするのは森村進氏である。

すべての個人の自由は両立しうるか

 個々人の自由を最大限に確保するために、国家の機能を最小限にする。だが、そもそも個々人の自由とはいかなるものか。個々人の自由をなぜ最優先しなければならないのだろうか。今一度私たちは、個人の自由の必然性について考えてみる必要があるのではないか。それは、「自由」が成り立つ基盤を問い直すことであり、リベラリズムという思想への問い掛けでもある。
 「各人は自分の欲求、意図を実現すべく行為すると想定されるが、その途上でさまざまな障害、制約にぶつかることがある。そのような障害、制約の中にはほかの個人たちの存在、それら個人たちのめいめいの欲求、意図の実現に向けての行為もまた含まれる。そして、逆に当の個人の存在、その欲求、意図の実現を目指す行為もまた、他の個人たちの欲求に、意図の実現にとって障害、制約となることがある。つまり、すべての個人の自由が同時に両立する保証はない」。
 明治学院大学社会学部助教授・稲葉振一郎氏はこう述べた後で、リベラリズムを次のように定義する。
 「自由主義(liberalism)とは、すべての個人の自由ができる限りかつ平等に両立することを、つまり、それを可能にするような道徳を各個人に示し、それを支える制度を構築することを目指す思想である。しかしこの〈すべての個人の自由のできる限りの両立〉を具体的にどのように解釈するか、そもそも個人の〈自由〉をどう解釈するか、によって幾通りもの〈自由主義〉がありうるし現にある」と。
 稲葉振一郎氏は、著書『リベラリズムの存在証明』で、リベラリズムとは、最も簡単に言いうるとすればそれは魂の擁護ではないかという。それも、一人のではない、他者のも含めたものとして――。
 「個人を、それが単に唯一無二の存在であるからではなく、魂を備えた存在であるからこそ、その尊厳を第一義的に優先する立場として、私はリベラルな立場を理解している。(…)他の魂こそ、それを備えたものこそが〈他者〉なのであり、ハンナ・アーレントの表現を借りれば、互いに根底的に違うという一点においてのみ同種のものである魂たちの尊厳をそれとして支持する限りにおいて、私はリベラルな立場にコミットするのである」。
 「自由」とは、この場合他者と共にある、他者と共在する存在の在り方、それ自体なのである。それが「魂」という言葉に託された意味ではないか。
 そうした他者の魂の擁護という視点を視野に入れた時に、「最小福祉国家」の構想が生まれる。稲葉振一郎氏にズバリ、リベラリズムの存在理由を解き明かしていただく。

「人間は自由だ」は虚構?

 私たちは、「自由」を考える時に、なんの疑いもなく「自由な主体」という言葉を口にしてしまうことがある。「自由」と感じるのはほかならぬ自分自身であると。だが、「自由な主体」、自由な自分とはそもそもどういうものを言うのか。案外そのことをきちっと考えてみたことがなかったのではないか。
 「我々が、通常、〈自発性〉〈自立性〉〈主体性〉などといっているのは、文字通りの意味で、純粋に〈他者〉から自由になっている状態ではなく、〈状態Aは状態Bよりも、他者Pの影響から自由である〉というかなり限定的なものでしかない。従って、何を基準とする〈自発性〉〈自立性〉〈主体性〉なのか、はっきりと文脈を限定しなければ、意味をなさないはずである」(『「不自由」論――「何でも自己決定」の限界』ちくま新書)。
 たとえば、金沢大学法学部助教授・仲正昌樹氏はこう切り出して、次のように結論づける。
「〈自発性〉〈自立性〉〈主体性〉など、人間の〈自由〉に関わる〈基本的〉な概念は、各人のうちに〈自然=自発的に〉生じてくるという西欧近代を支えてきた〈神話〉に内在する矛盾である。〈主体〉という概念自体が、ヨーロッパ近代が生みだしたものではなかったか。〈自由〉を考えることは、すなわち近代社会がつくり出した主体を問い直すことにつながる」と。
 仲正氏によれば、"自由な主体性"を、すべての人間に普遍的に備わっている共通項であるかのように考え、そうした「自由な主体間の普遍的な合意」によって成り立っているのが市民社会と信じられてきたが、じつはそれはフィクションであるということが露呈されつつあるという。それが、「ポスト・モダン」状況だというのである。
 「ポスト・モダン」状況――。大澤真幸氏が「自由の困難」ということを問題にするのも、現代社会が否応なくポスト・モダンと呼ぶような新たな段階を迎えているからにほかならない。私たちは改めて、こうしたポスト・モダンという位相の中で、「自由」を見据えてみる必要がありそうだ。「自由」を議論する前提として、無自覚に口に出してしまう「主体性」。それがどういうものか、本当にそれはフィクションなのだろうか。そうであるとしたら、そもそも「自由」という概念機序それ自体を建て直さなければならなくなる。インタビューの最後に、仲正昌樹氏にこの問題をぶつけてみたいと思う。 (佐藤真)


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