談 no.71 WEB版
 
特集:匿名性と野蛮
 
表紙:岡崎乾二郎 本文ポートレイト撮影: 鈴木理策
   
 
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(対談) 斎藤環×北田暁大

匿名化するメディアからメディア化する匿名性へ

……2ちゃんねる、Blog、チャットのディスクール

斎藤環 Tamaki Saito
欲望をギリギリまで切り詰めていくと、やはり固有なものでありたいという欲望は消えないと思うんです。言い換えれば、完全な匿名性に堪え得る人間は、私の考えではいないと思う。完全な匿名性というのは、欲望もない、欲望が消滅してしまうということですから。「2ちゃんねる」が一見なんでもありの空間に見えながらも、「荒し」や「フレーミング」が考えられるほどには多くないのは、そうした欲望が残されているからじゃないだろうか。
さいとう・たまき
1961年、岩手県生まれ。筑波大学医学専門学群卒業(環境生態学)。医学博士。現在、爽風会佐々木病院精神科診療部長(1987年より勤務)。また,青少年健康センターで「実践的ひきこもり講座」ならびに「ひきこもり家族会」を主宰。専門は思春期・青年期の精神病理、および病跡学。著書に『フレーム憑き』青土社、2004、『心理学化する社会』PHPエディターズ・グループ、2003、『戦闘美少女の精神分析』太田出版、2000、『社会的ひきこもり』PHP新書、1998、『文脈病』青土社、1998、他がある。
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北田暁大 Akihiro Kitada
Blogや「2ちゃんねる」以降の「はてな」的なコミュニケーションというのは、ある意味で第二世代システム論的だと思うんですよ。自己組織性ですね。そこでは、システムに外在する環境としての「私」という存在が前提とされているように思う。しかし「2ちゃんねる」的な空間、 「2ちゃんねる」的なコミュニケーションには--これは匿名性の話に関連してくることですが--「私」といいますか、 自意識をもった「私」みたいなものが常に消去されていくようなメカニズムがあるんじゃないか。
きただ・あきひろ
1971年神奈川県生まれ。東京大学人文社会系研究科博士課程単位取得後退学。現在、東京大学大学院情報学環助教授。著書に、『〈意味〉への抗い』せりか書房、2004、『責任と正義』勁草書房、2003、『広告都市・東京』廣済堂出版、2002、『広告の誕生』岩波書店、2000、他がある。
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ゾーエー、ビオス、匿名性

小泉義之 Yoshiyuki Koizumi

現在は、生-政治と近代政治が奇怪な混合物をつくり出しているために、 いろいろなことが見えにくくむつかしくなっています。 こんな時だからこそ、私たちは、ゾーエーに立ち返り、ゾーエーからビオスを立ち上げる必要があります。 フーコーが晩年になって、家畜に配慮する生-政治に対抗すべく、 生存の美学、生存の技法、自己に対する配慮ということで探究しようとしていたのは、そのようなことだったと思う。
こいずみ・よしゆき
1954年、札幌市生まれ。東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻博士課程退学。現在、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。著書に『レヴィナス――何のために生きるのか』日本放送出版協会、2003、『生殖の哲学』河出書房新社、2003、『ドゥルーズの哲学』講談社現代新書、2000、また、論文に、「受肉の善用のための知識」『現代思想』30-13、青土社、2003、「生殖技術の善用のために」『神奈川大学評論』47、2004、他がある。

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匿名性……ナルシシズムの防衛

酒井隆史 Takashi Sakai

「迷惑」の論理の充満は、日本社会が同時にはらみもっていた多様な襞--「対抗世間」となり得た--を解体させる動きと軌を一にしています。決して日本社会の衰退を食い止めるものではない、 日本社会がはらみもっていた驚くほど多様な襞を最終的に解体させるものであり、 その動きに伴って現れたものでしかなく、むしろ衰退の証なのだと考えます。 僕は問いを転換すべきだと思います。いかに「迷惑」をかけないかではなく、 むしろ「迷惑」をどのようにかけ合うのかをお互いで問い続け考え続けることが重要だと思っているわけです。
さかい・たかし
1965年、熊本県生まれ。早稲田大学文学研究科博士課程満期退学。現在、大阪女子大学専任講師。著書に『暴力の哲学』河出書房新社、2004、『自由論--現在性の系譜学』青土社、2001、共訳書に、『〈帝国〉』ハート・ネグリ、以文社、2003、『否定的なもののもとへの残留』S・ジジェク 太田出版、1998、他がある。
 

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匿名性の意味を問い直す

巨大匿名掲示板

 P2Pのファイル交換ソフト・Winnyの作者が著作権法違反幇助の疑いで逮捕されたことなどにより、IT(情報技術)における匿名性に、関心が集まっています。匿名性の問題を考える時に、ITの進展がもたらしたネット環境を無視することはできなくなったということでしょう。言い換えれば、インターネットによって外部との常時接続が当たり前になったことが、私たちに匿名性への関心を改めて惹起させることになったということです。今号では、匿名性について考えます。  
 「2ちゃんねる」という匿名掲示板があります。一日あたりのアクセス数は時によって一○○万を超えることもあるという巨大な掲示板です。インターネット視聴率調査「Japan Access Rating」の「年間ランキング(二○○二年版)」(株式会社アイ・エス・ティ)によると、「2ちゃんねる」のドメインごとのアクセス量は全体で四位、コミュニティ掲示板系では第一位、また、検索サイトgoogleとYahoo! JAPANが同年に発表した日本国内の検索キーワードでも第一位です。
 「2ちゃんねる」には、さまざまなジャンルが、カテゴリー別に分類されていて、その数四○以上。また、掲示板が四○○以上、スレッド(掲示板=板のトップページに現れる話題)はざっと六○○○以上、トップページから消えているスレッドを含めると一六万六○○○以上あるといいます。「2ちゃんねる」はまさにお化けのようなサイトです(*1)。
 誰でも手軽に新しくスレッドを立ち上げることができ、ユーザー同士障害を意識することなく自由に意見を言い合える。時事問題からビジネス、趣味や娯楽、果てはアイドルや風俗まで、とにかくありとあらゆる話題が二四時間休みなく書き込まれる。「2ちゃんねる」の最大の魅力は、なんといってもこの匿名で書き込めるというところにあります。
 「2ちゃんねる」が立ち上げられたのは一九九九年五月。そのちょうど一年後に西鉄バスジャック事件が起きましたが、「2ちゃんねる」はこの事件をきっかけにして、世間の注目を集めるようになりました。というのも、犯人が「2ちゃんねる」に犯罪予告を書き込んでいたことがわかったからです。「ネオむぎ茶」という奇妙なハンドルネームもさることながら、それが匿名の掲示板であったことが注目されたのです。日頃ネットと関わりの少ない層にも「2ちゃんねる」は強い印象を与えました。
 「2ちゃんねる」の最大の特徴である匿名性は、しかし、一方で市民に強い不信感を抱かすことにもなりました。たとえば、ストーカーや不審者の匿名性が、より強い恐怖感をつくり出すように、匿名性には好ましくないイメージもつきまとう。匿名性という言葉から、犯罪との関連を連想する人もいるでしょう。
 西鉄バスジャック事件がきっかけで認知度が高まったように、その匿名性を犯罪と結び付けて見ようとする風潮もありました。実際、「2ちゃんねる」では、その後犯罪予告騒動や企業の内部告発、名誉棄損で管理者が敗訴するといったことが起きます。システム上の変更が加えられて、現在では、匿名掲示板とは謳ってはいるものの、完全な匿名性が守られているわけではないと言われています。

匿名性の功罪


 「2ちゃんねる」の言動は、今や一般のメディアも注目しています。もともとマスコミが取り上げることのないようなネタの集積所が「2ちゃんねる」でした。ところが、マスコミが情報のリソースとして「2ちゃんねる」を使用し始めているのです。たとえば、「麹町電脳観測所」(雑誌『諸君!』)というコラムがあります。話題のネタを「2ちゃんねる」のスレッドの書き込みから引用し、それにコメントを付け加えるというものです。こうなるとマスメディア対「2ちゃんねる」という構図、また、マス報道に対する自由な匿名の発言の場「2ちゃんねる」という位置付けも一筋縄ではいかなくなります。
 匿名性を考察するにあたって、まずこの「2ちゃんねる」をとりあげます。
 昨年、雑誌『世界』(11月号)に掲載された「嗤う日本のナショナリズム」が話題になりました。社会学者の北田暁大氏が、「2ちゃんねる」について論じたものです。九○年代の終わりに「2ちゃんねる」が浮上してきたことと若者のコミュニケーションの構造的変容の関わりを探り、現代の若者に見られる「つながり」指向を明らかにしたものです。北田氏はこの「つながり」指向が、手段ではなく目的になっていることに注目します。何かを積極的に論じることよりも、とにかく「つながっていたい」と彼(彼女)らは強く思う。この「つながり」=「接続指向」は、ネット環境のみならずあらゆる場面に見ることができますし、匿名性への願望とも符牒し合います。
 『談』no.68でインタビューさせていただいた斎藤環氏も「2ちゃんねる」におけるコミュニケーションに注目しています。雑誌『Inter communication』(no.48)の連載「メディアは存在しない7 メディアのオートポイエーシス(前編)」では、北田暁大氏の論文を引き「2ちゃんねる」について主にBlogとの比較で論じています。Blogとは、Weblogのことで、簡単に言うと日記形式のウェブサイトのこと。わが国でもBlogは急速に普及していますが、なぜか日本人はBlogよりも「2ちゃんねる」により親しみを感じていると斎藤氏は見ています。そしてその理由を、匿名性に関する親和性、態度の違いから生まれてきているのではないかと言います。やはり、そのカギは「つながり」指向にあるのでは、と斎藤氏は推測します。
 そこで、北田暁大氏と斎藤環氏に、「2ちゃんねる」、Blog、さらにネット環境におけるコミュニケーションとしては無視できないチャットについて、匿名性と関連させて話し合っていただきます。

身体と匿名性


 カミングアウトという言葉があります。もともとは「若い女性が社交界入り」をするという意味でしたが、現在では、「自分が、同性愛者、エイズ、ガンといった少数派の立場、主義であることを公にすること」という意味で使われる場合が多いようです。少数派に属することによる差別・偏見をなくすために、自ら隠していたことを進んで露にする。言い換えれば、プライバシーをあえて公表することで、それが隠す必要のないものということを他者に了解させることだと言えます。
 プライバシー(privacy)は「私事、私生活、または私的な生活」のこと。自らの匿名性が露になる時、私たちはプライバシーが侵害されたと感じます。カミングアウトは、逆に自ら匿名であることを放棄する。つまり、他者による侵害も拒否しないということを、公にすることです。
 もう一○年以上も前のことになりますが、TV司会者の逸見正孝氏が自らガンであると告白して、大きな反響を呼びました。逸見氏はTVカメラに向かって、ガンと闘うと宣言しました。逸見氏は、自らのプライバシーを公表したのです。しかし、その数ヵ月後、皮肉にもTVは逸見氏がガンとの闘いに敗れたことを告げることになりました。
 逸見氏の行動を当時メディアはカミングアウトと言いました。彼は、ガンという(隠していた)プライバシーをあえて公表したからです。しかし、自らの身体がガンに蝕まれていて、それと戦うということを、プライバシーというのでしょうか。知られていないはずの自らの肉体の秘密を露にしたという意味では、確かにプライバシーの領域に属することです。しかし、それを敵とすること、つまり、自分の戦う相手だと宣言することは、もはやそれが自らの肉体ではないものとして捉えられたことを意味しているとはいえないでしょうか。病気になることと、病気であると宣言すること。この両者の間には、超えられない深い溝が存在しているのではないかと思うのです。そんなことを考えていた時に、次のような言葉に出会いました。
 「遺伝子情報や肉体の残りものがはたしてプライバシーの領域か否かという議論は的を外します。生まれながらの肉体、病んだ肉体、死にゆく肉体は、人格的心理的主体が破綻し失調するところで出現してくるからです。だから、主体論すべてを捨て、まったく別のアプローチを編み出」さないといけない。(*2)
  立命館大学大学院先端総合学術研究科教授・小泉義之氏はこう述べて、「主体を語らず肉体を語ること」が重要なのだと言うのです。
 「病気を宣告されるだけで、あるいは、ビオスから脱落しかけている人間を見るだけで、ビオスの厚みを食い破るゾーエーを垣間見て恐怖する。そこで(…)恐怖を心理的で社会的な不安に転化し、生-政治や生命倫理や社会構築主義にすがって、ビオスの穴を隠そうとする。あるいは、ビオスの穴をセキュリティ・ホールと称して、リスク社会のビオスを捏造する」(*3)。
 ゾーエーとビオスは、イタリアの政治哲学者ジョルジョ・アガンベンの概念で、簡単に言うとゾーエーは生物的身体、ビオスは政治的身体を意味します。私たちの身体は、ゾーエーとビオスという二つの層によって管理されているというのがアガンベンの考えですが、小泉氏はアガンベンの考えを使いながら、政治的身体という覆いを食い破って表れる生物的身体そのものが病気の身体だと言うのです。そうであるとすれば、病気を語ることは何を意味するのでしょうか。ゾーエーを語ることなのか、ビオスを語ることなのか。病気になることと匿名性の問題が、ここには横たわっています。小泉氏に、身体を切り口に、病気になることと病気を語ること、匿名性とプライバシーの関わりについてお聞きします。

「ゼロ・トレランス政策」と匿名性  

 一説によれば、東京都の監視カメラの数はおよそ二○○万台。新宿駅と池袋駅周辺だけでみても七○○台以上設置されていると言われています。最近、渋谷センター街に設置されたドーム型監視カメラは、三六○度回転する全方位型で、撮影された画像は、渋谷警察署と警視庁本部の生活安全総務課に送信され、二四時間体制でモニター監視され、録画記録されているといいます。地下鉄やJR駅構内、商店街やコンビニ、ファミリーレストランにも監視カメラの設置が進んでいます。私たちの生活は、今や、監視カメラによって包囲されているのです。
 監視カメラ導入の理由の第一に挙げられるのは犯罪発生率の増加です。犯罪やテロから市民を守るため、監視カメラは必要だというわけです。実際、東京都が提出した「東京都安全・安心まちづくり条例案」では、「犯罪の防止に配慮した環境の整備」として、警察の指導にしたがって都内全域に、監視カメラの網の目を張りめぐらすことが定められています。しかし、セキュリティ管理が目的とはいえ、「犯罪の未然防止」という考え方は、根本的な問題を孕んでいます。
 「都市が無秩序である場合に、犯罪は起こるべくして起こる。犯罪を未然に防ぐためには、犯罪を生む恐れのある芽をいち早く摘み取る必要がある」。「近年の犯罪学の領野でもっとも影響力をもった論文」にジョージ・ケリングの「割れた窓」理論があります。その趣旨は、犯罪の予防にあります。そして、この論文を下敷きに実行に移したものが「ゼロ・トレランス政策」でした。「ゼロ・トレランス政策」とは、警察による予防的取り締まりを徹底させることによって秩序を維持する都市政策であり、九○年代のニューヨークに導入され一定の成果を得ました。
 大阪女子大学専任講師・酒井隆史氏は著書『自由論--現在性の系譜学』(青土社)でこの「ゼロ・トレランス政策」について、次のように報告しています。
 「街路でのちょっとした秩序を乱す行為や粗暴な行為(incivilities)にたいして寛容であってはならない。そんなささいな振る舞いを街路から一掃し、攻撃性のある〈物乞い(beggars)〉、ホームレス、〈売春婦〉、酔っぱらいなどに処罰を与えねばならないし、それが街の安全性に必須である。〈犯罪は無秩序の帰着点〉なのだから。(…)犯罪と無秩序はここでなだらかな連続線を描くのだが、この発想が〈ゼロ・トレランス政策〉に多大な影響を与えることになる」。
 犯罪から身を守るためには、寛容であってはならない。そのためには、監視の手をゆるめてはならない。無秩序や混乱と犯罪が少しでも関係するのであれば、ただちに秩序を回復すること。「ゼロ・トレランス政策」の思想は、言い換えれば、都市の秩序を乱す恐れのある匿名的なもの一切を払拭することだといえます。
 わが国で急増する監視カメラが見ているものは、ほかならぬ匿名的な存在ではないでしょうか。酒井隆史氏に、「ゼロ・トレランス政策」を糸口に、都市と匿名性の関係についてお伺いします。 (佐藤真)

*1 大阪大学大学院経済研究科・松村真宏ほか「2ちゃんねる研究所改訂版」(2002)http://www2.econ.osaka-ac.jp/~matumura/pukiwiki.php?%A3%B2%A4%C1%A4%E3%A4%F3%A4%CD%A4%E B%B8%A6%B5%E6%20%B2%FE%C4%FB%C8%C7
*2 小泉義之「戦争機械を発明するために 『千のプラトー』の読み方・使い方」雑誌『情況』3-4-11号所収 *3 小泉義之「不安のビオス、恐怖のゾーエー」雑誌『ユリイカ』36-7月号所収   

 

 

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寛容さと自由の空間

「2ちゃんねる」化する社会

 匿名性について考える時に、「2ちゃんねる」は格好の事例になります。「2ちゃんねる」のディスクールそれ自体が、私たちが日頃感じている「匿名性」のありようを、かなりの程度表しているように思えるからです。確かにそれは、特異なものかもしれません。しかし、私たちは、匿名であることによって始めて成り立つ言葉の回路のようなものを「2ちゃんねる」に見つけ出したことは間違いないでしょう。「2ちゃんねる」に対する向きあい方を掘り下げてみることによって、私たちの「匿名性」に対する認識、あるいはそのイメージを掴むことができるのではないか。対談では、Blogとの比較を通して、考えてみました。
 昨年の後半ぐらいから、Blogが爆発的な普及拡大を見せています(『談』も6月からBlogを始めました)。しかし、掲示板として完全に市民権を得ているアメリカと比較してみると、わが国のBlogの位置付けは異なるようです。それは、Web環境が、アメリカとはかなり異なった形で発展したことと無縁ではありません。北田暁大氏が指摘しているように、日本では、まず日記サイトが起こり、その後、「2ちゃんねる」ができて、次にBlogが生まれたように、欧米における展開とは全く違った発展の仕方をしました。それは、パソコン通信を端緒として始まったわが国のWeb環境の違いでもあります。
 Blogの成り立ちや位置付けの違いを、社会的背景の違い、あるいは言葉に関する重み付けの違い、また、Web環境そのものの違いに見出す、いわゆる比較文化論的なアプローチは、すでにいくつかのメディアで行われてきました。対談では、両者の違いを、コミュニケーションそれ自体の違いに見出します。そのカギがまさしく「匿名性」にあるのです。
 「Blogのようにキャラクター性をもちながらも匿名性を維持するという場合の匿名性と〈2ちゃんねる〉の〈名無しさん〉的な匿名性とでは、自ずと匿名性ということの意味も違ってくるんじゃないかと思う」。北田暁大氏は、Blogと「2ちゃんねる」では、匿名性の意味が異なりそれは両者のコミュニケーションの違いから生まれてくるのではないかと言い、次のような仮説を提起します。
 「〈2ちゃんねる〉というのはオートポイエティックなコミュニケーションの空間で、コンテクストそれ自体もコミュニケーションの進行とあいまってつくり出される。(…)オートポイエーシスの論理が、経験的な次元で純粋な形ででき上がったものが〈2ちゃんねる〉」。それに対して「Blogや〈はてな〉的なコミュニケーションというのは、ある意味で第二世代システム論的」ではないだろうか。そして、「2ちゃんねる」が、入力も出力もないいわば閉鎖系としてのコミュニケーション空間であるのに対して、Blogは、内と外のやりとりのある開放系であり、自己組織性である。ゆえに、Blogでは、「外在する環境としての〈私〉という存在が前提とされている」けれども、「〈2ちゃんねる〉的なコミュニケーションには、自意識をもった〈私〉みたいなものが常に消去されていくようなメカニズムがある」と北田氏は言います。
 オートポイエーシスの考え方から言えば、第二世代システム論の後に出てくるのがオートポイエーシスですから、〈2ちゃんねる〉の方がBlogの後に出てくるものということになります。斉藤環氏はその解釈に同意しながら、その考えを匿名性に引きつけて、そういう差異をもちつつも、欲望という面では両者には共通性があると言います。つまり、書き込みに対しては、Blogの欲望も「2ちゃんねる」の欲望も、共に固有性を志向する意味では同じだというのです。ただし、前者は「理性的な記述可能な主体として自分をアイデンティファイしていく方向」へ、後者は「記述されない主体に自らをアイデンティファイする方向」へという違いがあり、それはコミュニケーションにとっては決定的な違いをつくり出します。
 北田氏は、Blogが自己の固有性を残すものであるのに対して、「2ちゃんねる」は、記述不可能な固有性、シンギュラリティへの希求を生み出していくと言います。その結果、コンテクストだけが再生産され続けるような、まさにオートポイエティックなコミュニケーション空間が形成されているというわけです。そして、興味深いことに、私たちの実世界でのコミュニケーション空間が、今やここに見るような「2ちゃんねる」的な、オートポイエティックでコンテクスト再生産型のものになりつつあると示唆するのです。
 社会が「2ちゃんねる」化する? もしそうであるとしたら、私たちの存在自体が、記述不可能な固有性(匿名性としての)へと向かおうとしていると言えるかもしれません。Blogの欲望から「2ちゃんねる」の欲望のある種決定的とも言える異同。それは、近代の主体の異同ではないでしょうか。

生老病死と匿名的存在
 

  記述不可能な固有性とは、これまでの近代の主体概念とは異質な、新たな主体の出現を想起させます。それは、小泉義之氏の議論に引き継がれます。
 小泉氏は、フーコーの「生-政治」という概念を手掛かりに、近代民主政治が、生命に関わる政治、生物としての人間、肉体としての人間に関わる政治、「生-政治」の次元にスライドしていることに注意を向けます。「生-政治」は、これまでの近代民主政治のシステムと根本的に異なるものですが、その典型が福祉社会なのでこれまでまともな批判がなされることはほとんどありませんでした。小泉氏の発言を整理してみましょう。
 「近代民主政治は、個別的な肉体的差異を乗り越えた、普遍的で中立的な政治を旨としています。その主体は、平等な権利主体であり、生物としての意味はありません。そこにあるものは、肉体的な差異を捨象された無臭無色の人格です」。生老病死など経験しないかのような主体を、近代民主政治は想定していたのです。そしてそれはある程度達成されました。
 それに対して、近代民主政治とは逆に、「生-政治」は生命、人間、肉体というものに強い関心をもちます。「人間をケアし、健康・病気・出生数・死亡数のコントロール、衛生管理、感染症対策を直接の政治課題とします。生-政治は、近代政治と根本的に対立するものなのです」。
 「生-政治」は、それまでの近代政治が達成したものをことごとく覆そうとします。今、政治というものを問題にするならば、従来のような近代民主政治の枠内で考えるという図式をまず捨てる必要がある。そうでなければ、「生-政治」という事態を捉えそこねるからです。
 ところで、ジョルジョ・アガンベンは、「生-政治」の立場からゾーエーとビオスという二分法で分析しました。アガンベンによれば、「〈生-政治〉は、ゾーエーとビオスを切り離し、ゾーエーを排除して包囲」してしまう。そのことによって逆にビオスに対して権力性を貫徹する政治が、「生-政治」だと言うのです。「ゾーエーには〈生命の尊厳〉があるので、〈大切に扱い、生かし、無駄死にさせない〉というのが〈生-政治〉です。しかし、この思想は、「聖性が尊厳に置き換わっただけの、ホモ・サケルの現代版にすぎません。加えて、ゲノム解析によって、人間の遺伝子レベルの情報がすべてデータベース化されようとしています」が、これは「生-政治」が分子レベルにおいてもゾーエーに介入し始めたことを示しています。
 匿名の対義語を固有名と理解すると、固有名論は近代国民国家の枠内のもので、「固有名は基本的に人格を指示します」。しかし、「生-政治」においては、「固有名は基本的に人格ではなく肉体を指示します」。だから、たとえばカミングアウトは、ビオスにおいては得失をもたらすけれども、ゾーエーにはなんの影響も及ぼさないと言うのです。
 そこで、小泉氏は次のように主張します。「私は、固有名が無意味になるゾーエー、否応なしに匿名化されるゾーエーにおいて、ある一つの別のビオスを立ち上げることが、新しい生-政治として追及されるべきだと考えます。(…)一言でいえば、ゾーエーの力、つまりは、生命の力、これを活かす」のも「生-政治」だと言うのです。
 匿名性というものに、小泉氏は可能性(限定的ではありますが)を見ようとしています。それは、「生-政治」という新たな次元において選択できる方法の一つであることを示唆しているからです。

匿名性とナルシシズム

 ところで、小泉氏は、最後に現代の監視社会について次のように言いました。
 「監視は、市民の自由を侵害しているどころか、市民に疚しくない良心を与えている。それだけでなく、見かけの違う人間に煩わされずに振る舞う自由を与えている。監視は、良き市民の自由の量を増やしているのです。そしてそのことで、監視は、市民から見て怪しげな人間の自由を奪っているのです。この自由の不当な配分こそが批判されるべき」だと。
 この自由の不当な配分、不公平な配置を、現実に政策の中で実行されたのが「ゼロ・トレランス政策」だったと言えます。
 アメリカで大成功を収めた「ゼロ・トレランス政策」が、今日本の都市で実行されようとしています。監視カメラが増殖し、街路を見回る警察官の数も心なしか増えたようにも思えます。テロや犯罪から市民を守るためという目的を否定する声はありません。都市のセキュリティ管理は、市民にとっての共通の願いである、と言うのが施行者の言い分です。
 しかし、酒井隆史氏が冒頭述べたように、起こってもいない犯罪を起こる可能性があるという理由で逮捕・拘束することは、そもそも近代法では考えられないことです。違反行為を冒していなければ、たとえそれが秩序を乱す行為と認められたとしても、その人間を拘束してはならないというのが近代法の原則です。今、着々と実行されつつある「ゼロ・トレランス政策」は、まさにその意味で近代法の原則そのものを逸脱する政策なのです。
 酒井氏は、そうしたことが平然と行われ始めている要因を析出します。その一つが、私たちのうちに巣喰い始めた不寛容さです。八○年代から徐々に形づくられてきた不寛容さは、今日明瞭な形をもって表面化してきました。「ゼロ・トレランス政策」は、そうした一連の流れの中から出てきたものなのです。
 では、なぜそうした不寛容さが私たちの内部から出てくるに至ったのでしょうか。酒井氏の仮説はこうです。「生活保守主義とその背後にあるナルシシズムが防衛的に働いた」時、それは先鋭化し、不寛容さとなって現れてくる、というわけです。酒井氏によれば、匿名性に身を委ねようとするのは、ナルシシズムを高めるためだという。つまり、「自らの防御のために、ひたすら匿名であろうとする。そしてそれは、防御を破ろうとする要素に対する攻撃性や残忍性と裏腹です。それを、僕はナルシシズムと言ってみた」のです。匿名性とは、いわば「生活保守主義」を防衛するための隠れみのだというわけです。私たちは、今、匿名性を称揚するのではなく、逆に不寛容さと共にぬぐい捨てる必要がある、酒井氏の発言はそう理解できそうです。
 酒井氏は、そうした不寛容さが露骨に攻撃性を帯びた現代に対して一つのユニークな提案をします。「迷惑」の奨めです。「〈迷惑〉をかけない社会というのは、見方を変えれば他者のいない社会です。〈迷惑〉がきわめて恐ろしいすべてを規制する言葉になるのは、この言葉がはらみもつそうした〈存在論的〉次元のためです。〈迷惑〉はつきつめれば、人間の存在そのものに否が応でもつきまとうものです」。だからこそ、「〈迷惑〉をかけないかではなく、むしろ〈迷惑〉をどのようにかけ合うのかをお互いで問い続け考え続けることが重要だと思っているわけです」。
 匿名性のディスクール、それはオートポイエティックな言説戦略ともいえます。また、匿名性は、「生-政治」という新たな次元を開くための一つの方法でもあります。一方、匿名性は、私たちが容易に逃げ込むことを許すナルシシズムそのものでもあるのです。匿名性が語るこの多様な意味は何を示しているのでしょうか。
 ある場面では、私たちは否応なしに匿名的な存在であることを強いられます。しかし、その一方で、匿名であることが原理的に不可能な状況が進行していることも事実です。この相反する二つの力のせめぎあいの中に私たちはいるのです。
 現代社会を単に複雑な社会とだけ規定して暢気に構えているうちに、私たちを取り巻く環境は著しい変化を遂げています。とりわけ、メディア・生命・社会という位相において起こっていることは象徴的です。そこでは、セキュリティと個人情報(プライバシー)の管理が厳しく求められながらも、それとは全く逆に、私たちは「剥き出しの生」であることを余儀なくされようとしているからです。「匿名性」という概念を、今、改めて問い直す必要があります。私たち自身の存在様式が問われているからです。  (佐藤真)

 
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情報・自由・匿名性

〈意味〉への抗い 北田暁大 せりか書房 2004
フレーム憑き 斎藤環 青土社 2004
心理学化する社会 斎藤環 PHPエディターズ・グループ 2003
コモンズ ネット上の所有権強化は技術革新を殺す R・レッシグ 山形浩生訳 翔泳社 2002
暴走するインターネット ネット社会に何が起きているか 鈴木謙介 イーストプレス 2002
広告都市・東京 北田暁大 廣済堂出版 2002
郵便的不安たち#東浩紀 朝日文庫 2002
2典 2ちゃんねる辞典 2典プロジェクト ブッキング 2002
2ちゃんねる中毒 ハッカー・ジャパン編集部編 白夜書房 2002
CODE インターネットの合法・違法・プライバシー R・レッシグ 山形浩生訳 翔泳社 2001
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 東浩紀 講談社現代新書 2001
2ちゃんねる宣言 挑発するメディア 井上トシユキほか 文芸春秋 2001
不過視なものの世界 東浩紀 朝日新聞社 2000
犯罪報道とメディアの良心 匿名報道と揺らぐ実名原則 浅野健一 第三書館 1997

◎都市と監視社会


監視と密告のアメリカ J・レッデン 田中宇監訳 成甲書房 2004
監視カメラ社会 もうプライバシーは存在しない 江下雅之 講談社+α新書 2004
路上に自由を  監視カメラ徹底批判 小倉利丸編著 インパクト出版会 2003
住基ネットと監視社会 田島泰彦ほか編著 日本評論社 2003
小泉改革と監視社会 斎藤貴男 岩波ブックレット 2002
監視社会 D・ライアン 河村一郎訳 青土社 2002
監視社会とプライバシー 小倉利丸編著 インパクト出版会 2001
警察監視国家と市民生活  組織犯罪対策法をぶっつぶせ!!  足立昌勝ほか 白順社 1999
監視ゲーム プライヴァシーの終焉 W・ボガード 田畑暁生訳 アスペクト 1998
電子検問システムを暴く 浜島望著 技術と人間 1998
警察の盗撮・監視術 日本的管理国家と技術 浜島望著 技術と人間 1994
情報操作 歪められた真実 R・ディーコン 小関哲哉訳 時事通信社 1988

◎プライバシー、個人情報保護


解説&批判個人情報保護法 プライバシーと表現の自由を守るために 田島泰彦ほか編著 明石書店 2003
プライバシーがなくなる日 住基ネットと個人情報保護法 日本弁護士連合会編 明石書店 2003
個人情報保護法と人権  プライバシーと表現の自由をどう守るか 田島泰彦編著 明石書店 2003
あなたの個人情報が危ない!  プライバシー保護とメディア規制 桜井よしこ編著 小学館 2002
プライバシーのドラマトゥルギー フィクション・秘密・個人の神話  阪本俊生 世界思想社 1999
プライバシー・クライシス 斎藤貴男 文春新書 1999
プライバシーVSマスメディア 事例が語る新しい人権 村上孝止 学陽書房 1996
プライバシーの社会学 相互行為・自己・プライバシー  片桐雅隆 世界思想社 1996

◎権力、空間、公共性

暴力の哲学 酒井隆史 河出書房新社 2004
絶望禁止!  斎藤貴男 日本評論社 2004
魂の労働 渋谷望 青土社 2003
スペクタクルの社会 G・ドゥボール 木下誠訳 ちくま学芸文庫 2003
文化=政治 New cultural‐political movements in the age of globalization  毛利嘉孝 月曜社 2003
スペクタクルの社会についての注解 G・ドゥボール 木下誠訳 現代思潮社 2002
自由論--現在性の系譜学 酒井隆史 青土社 2001
要塞都市LA  M・デイヴィス 村山敏勝ほか訳 青土社 2001
ホームレス/現代社会/福祉国家 「生きていく場所」をめぐって  岩田正美 明石書店 2000
空間の生産 アンリ・ルフェーヴル 斎藤日出治訳 青木書店 2000
公共性の喪失 リチャード・セネット 北山克彦ほか訳 晶文社 1991

◎ゾーエー/ビオスの生-政治


自己のテクノロジー フーコー・セミナーの記録 M・フーコーほか著 田村俶訳ほか 岩波現代文庫 2004
開かれ 人間と動物 G・アガンベン 岡田温司ほか訳 平凡社 2004
フーコー講義集成 5、11 M・フーコー 広瀬浩司ほか訳 筑摩書房 〜2004
ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生 G・アガンベン 高桑和巳訳 以文社 2003
ネグリ 生政治(ビオポリティーク)的自伝 帰還 A・ネグリ 杉村昌昭訳  作品社 2003 
中味のない人間 G・アガンベン 岡田温司ほか訳 人文書院 2002
フーコー思考集成 1〜10 M・フーコー 小林康夫ほか編訳 筑摩書房 〜2002
アウシュヴィッツの残りのもの アルシーヴと証人 G・アガンベン 上村忠男ほか訳 月曜社 2001
人権の彼方に 政治哲学ノート G・アガンベン 高桑和巳訳 以文社 2000
スタンツェ 西洋文化における言葉とイメージ G・アガンベン 岡田温司訳 ありな書房 1998
ベンヤミン・コレクション 1、2、3 浅井健二郎ほか訳 ちくま学芸文庫 〜1997
人間の条件 ハンナ・アーレント 志水速雄訳  ちくま学芸文庫 1994
暴力批判論 ベンヤミン 野村修訳 岩波文庫 1994
同性愛と生存の美学 M・フーコー 増田一夫訳 1987 
性の歴史 1〜3 M・フーコー 田村俶訳ほか 新潮社 1987 

◎生命倫理、福祉社会の逆説

生命倫理の再生に向けて 展望と課題  西日本生命倫理研究会編 青弓社 2004
生殖の哲学 小泉義之 河出書房新社 2003
クローン人間の倫理 上村芳郎 みすず書房 2003
生命倫理への招待 塩野寛 南山堂 2003
人は死んではならない 小松美彦ほか 春秋社 2002
市場原理と弱肉強食の福祉への道 「構造改革」は日本の福祉をどこに導くか 浅井春夫著 あけび書房 2002
生命倫理とは何か 市野川容孝編著 平凡社 2002
ヒトはいつ人になるのか 生命倫理から人格へ 村松聡 日本評論社 2001
生と死の振り子 生命倫理とは何か 高橋祥友 日本評論社 2001
生殖医学と生命倫理 長島隆ほか編著 太陽出版 2001
新自由主義と非福祉国家への道 社会福祉基礎構造改革のねらいとゆくえ 浅井春夫 あけび書房 2000 
黄昏の哲学 脳死臓器移植・原発・ダイオキシン  小松美彦 河出書房新社 2000

◎寛容と他者との共生

寛容について M・ウォルツァー 大川正彦訳 みすず書房 2004
人を殺せと言われれば、殺すのか 斎藤貴男 太陽企画出版 2004
「非国民」のすすめ 斎藤貴男 筑摩書房 2004
責任と正義 リベラリズムの居場所 北田暁大 勁草書房 2003
普遍の再生 井上達夫  岩波書店 2003
正義論/自由論 寛容の時代へ 土屋恵一郎著 岩波現代文庫 2002
理解できない他者と理解されない自己 寛容の社会理論  数土直紀 勁草書房 2001
寛容性 中川喜代子 明石書店 2000
共生の作法 会話としての正義 井上達夫 創文社 1986

◎ドゥルーズ、ガタリ、レヴィナス再考

狂人の二つの体制 1983-1995 G・ドゥルーズ 宇野邦一ほか訳 河出書房新社 2004
狂人の二つの体制 1975-1982 G・ドゥルーズ 宇野邦一ほか訳 河出書房新社 2004
レヴィナス 何のために生きるのか 小泉義之 日本放送出版協会 2003
批評と臨床 G・ドゥルーズ 守中高明ほか訳 河出書房新社 2002
スピノザ G・ドゥルーズ 鈴木雅大訳 平凡社ライブラリー 2002
〈横断性〉から〈カオスモーズ〉へ F・ガタリほか 杉村昌昭訳 大村書店 2001
他性と超越 E・レヴィナス 合田正人訳 法政大学出版局 2001
経験論と経験論と主体性 ヒュームにおける人間的自然についての試論 G・ドゥルーズ 木田元ほか訳 河出書房新社 2000
政治から記号まで F・ガタリ、粉川哲夫ほか インパクト出版会 2000
精神の管理社会をどう超えるか? F・ガタリ、G・ウリほか 杉村昌昭編訳・解説 松籟社 2000
フーコー G・ドゥルーズ 宇野邦一ほか訳 河出書房新社 2000
ドゥルーズの哲学 小泉義之 講談社現代新書 2000
存在の彼方へ  E・レヴィナス 合田正人訳 講談社学術文庫 1999
レヴィナス・コレクション E・レヴィナス 合田正人訳 筑摩学芸文庫 1999
ニーチェ G・ドゥルーズ 湯浅博雄訳 筑摩書房 ちくま学芸文庫 1998
観念に到来する神について E・レヴィナス 内田樹訳 国文社 1997
歴史の不測 E・レヴィナス 合田正人ほか訳 法政大学出版局 1997
外の主体 E・レヴィナス 合田正人ほか訳 みすず書房 1997
哲学とは何か G・ドゥルーズ、F・ガタリ 財津理訳 河出書房新社 1997
記号と事件 1972-1990年の対話 G・ドゥルーズ 宮林寛訳 河出書房新社 1996
政治と精神分析 G.ドゥルーズ、F.ガタリ 杉村昌昭訳 法政大学出版局 1994
千のプラトー 資本主義と分裂症 G.ドゥルーズ、F.ガタリ 宇野邦一ほか訳 河出書房新社 1994
われわれのあいだで 《他者に向けて思考すること》をめぐる試論  E・レヴィナス 合田正人訳 法政大学出版局 1993
全体性と無限 E・レヴィナス 合田正人訳 国文社 1989
実存から実存者へ E・レヴィナス 西谷修訳 朝日出版社 1987
時間と他者 E・レヴィナス 原田佳彦訳 法政大学出版局 1986