[最新号]談 no.73 WEB版
 
特集:「いのち」のディレンマ
 
表紙:岡崎乾二郎 本文ポートレイト撮影:鈴木理策 
   
 
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いのち、自然のスピリチュアリティ


広井良典 Yoshinori Hiroi

日本人にとって自然というのは単なる物理的な存在ではなく、スピリチュアルとでも呼ばざるをえないような何かをもっていると。 スピリチュアリティという言葉は、キリスト教的な抽象的な概念としていわれることが多い。しかし、日本人はスピリチュアリティを具体的な自然と結び付けて理解してきたのではないか。このように自然の具体的な事物の中に生や死を超えた何らかの意味を見いだすような捉え方を「自然のスピリチュアリティ」と呼びたいのです。
ひろい・よしのり
1961年岡山県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(相関社会科学専攻)。1986年から96年まで厚生省勤務(この間、MIT大学院留学)、96年千葉大学法経学部助教授を経て、現在、千葉大学法経学部教授。著書に、『脱「ア」入欧 アメリカは本当に自由の国か』NTT出版、2004、『生命の政治学 福祉国家・エコロジー・生命倫理』岩波書店、2003、『定常型社会 新しい「豊かさ」の構想』岩波新書、2001、『死生観を問いなおす』ちくま新書、2001、『ケア学 越境するケアへ』医学書院、2000、他がある。 

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いのちと自分のからだ

熊野純彦 Sumihiko Kumano

生命が贈与であるとして、この贈与には、少なくともこの私に生を与えるという理由が端的に欠けています。 生命の贈与には、ほかならない「この私」に贈与するという、いわば「宛先」の選択が欠落しているわけです。 生命はなぜか私に送り届けられ、贈られている。生命とは、その限りで、常に「誤配」である他ないのです。 私にとって私の生命は、こうして、正当性を欠いた所有、奇妙な贈与に基づく所有であるというしかない。
くまの・すみひこ 
1958年、神奈川県生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。北海道大学、東北大学を経て、現在、東京大学文学部助教授。倫理学専攻。著書に、『戦後思想の一断面 哲学者廣松渉の軌跡』ナカニシヤ出版、2004、『差異と隔たり 他なるものへの倫理』岩波書店、2003、『レヴィナス入門』ちくま新書、1999、『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』岩波書店、1999、他がある。
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いのち……守らなければならないものは何か

小松美彦 Yoshihiko Komatsu

無惨な状態や変わり果てた姿であっても、その者を「あなた」「おまえ」と眼差せられ、呼ばされてしまうところに 「人間の尊厳」がそのつど生じるのです。そして、われわれに「あなた」「おまえ」と呼ばせてしまう「何か」こそが、 「いのち」なのだと思います。われわれが「いのち」に感覚的に呼応した時、目の前の存在に「人間の尊厳」が立ち現れるのです。 つまり、眼差し、指を指しているまさにその瞬間の感覚こそが、「いのち」=「人間の尊厳」の体感なのではないでしょうか。
こまつ・よしひこ
1955年東京生まれ。東京大学教養学部基礎科学科卒業。東京大学大学院理学系研究科・科学史科基礎論博士課程単位取得退学。現在、東京海洋大学海洋科学部海洋政策文化学科教授。著書に、『脳死・臓器移植の本当の話』PHP新書、2004、『自己決定権は幻想である』洋泉社新書、2004、『対論 人は死んではならない』春秋社、2002、『死は共鳴する―脳死・臓器移植の深みへ』勁草書房、1996、他がある
 

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ヒト、生きもの、いのち

生命体と「いのち」の関係

 人間を生物学ではヒトという。ヒトという言葉には、「生きもの」としての存在の意味が込められている。人間はヒトであることから逃れることはできない。  
 先端医療は「からだ」を詳細に分析し、今や「からだ」は新たな資源だという。また、生命科学は、ゲノム解析を完了し、次なる目標は分子間相互作用だという。脳科学は神経系統や脳内化学物質のメカニズムを明らかにして、いよいよ人間の知性究明に踏み込んでいく時が来たと鼻息が荒い。科学・技術の進歩発展によって、人間は相当程度明らかになったと自然科学者は口を揃えて言うだろう。人間という実体が科学によって知り尽くされる日が来るのも、もはや時間の問題だというわけだ。
 人間は、他の生物と同様に細胞の集合体である。この細胞の集合を生物学では生命体という。実体とは、この生命体という意味だ。科学・技術は人間の生命体としての側面を明らかにした。そのことは、しかし、ヒトとしての人間を解明したことにはならない。なぜならば、このヒトという言葉に込められている「生きもの」とは、すなわち「いのち」をもっているということだからだ。言うまでもなく、「いのち」は、自然科学の言葉ではない。「こころ」と同じように、むしろ自然科学の言葉の外側、より正確に言えば、自然科学を含む「自然」に棲息する言葉である。「いのち」は、自然と科学の言説の間で、いかにもあやうい存在だが、このあやうさこそ「いのち」の本性でもあるのだ。
 ヒトとしての側面に立ち返ることは、「いのち」を授かったこと、すなわち「生きもの」であるということを自覚することでもある。だが、そもそも「生きもの」とはどういうものをいうのか。「いのち」を考えることは、言うならばこの「生きもの」とは何かについて究明することでもある。
 今、私たちは、「いのち」をどう考え、どう捉えるべきなのだろうか。「いのち」をもった存在としての「生きもの」、ヒトについて、じっくりと腰を据えて考えてみたい。今号からしばらくの間、「いのち」、また「いのち」の周辺、「いのち」にまつわる事柄を探っていこうと思う。

「いのち」の政治学  

 「いのち」に値段はつけられるか。こんな問いかけから「いのち」の考察を始めてみたい。これは、いささかセンセーショナルな問いかけではある。だが、保険の見積りや請求の場面では、「いのち」に値段をつけることはごく普通に行われている。「いのち」の対価を計算することは可能なのだ。
 「いのち」というものが今日の社会の中でどう扱われているか、お金との関係で見るとわかりやすい。たとえば、医療保障、医療保険制度との関わりでいえば、「いのち」は即、国民経済、とりわけ国の財源と深く結び付いていることがわかる。「いのち」を、まず社会保障制度や福祉、あるいは税金の問題から考えてみることにしよう。
 少子高齢化、経済の低迷で将来への不安が増しているが、そうした背景もあって公的年金や医療、福祉といった社会保障制度への国民の関心は非常に高い。生活不安を解消すべきはずの社会保障が、かえって生活不安を助長させ、高齢者や障害者の生存権さえ危うくさせているとか、あるいは現行の医療保険制度はさまざまな制度が分立しているため負担と給付が異なり、実質的な格差につながっているとか、制度そのものに不満をもつ者は多い。社会的な不平等感が拡大するなか、要するに「いのち」の値段が公正に計られていないのではないかという疑念があるからだろう。なかでも年金問題は、老後の保障、つまり死ぬまでの「いのち」の保障を金銭の額に換算するわけだから、単純に理解しやすいのかもしれない。まさしく、「私のいのちはおいくらですか」ということだ。
 昨年、年金改革をめぐる議論が活発に行われた。そんな中、社会保障の全体像をめぐる議論が不足しているとし、社会保障の基本的な方向をまず考えていくことが先決ではないかと提言した方がおられた。千葉大学法経学部教授・広井良典氏である。言われてみれば確かにそうかもしれない。年金問題だけを切り離して論じようとすること自体そもそもおかしいというわけだ。
 広井氏によれば、議論の前提として、日本の社会保障の規模は先進諸国の中でアメリカと並んで最も低い水準にあるという事実確認がまず必要だという。そして、日本がこうした低い社会保障給付でやってこれたのは、かいつまんで言えば、「カイシャ」や家族が「見えない社会保障」としての機能を果たしてきたこと、公共事業が「職の提供を通じて」事実上生活保障を代替する役割を担ってきたこと、この二つが効いていたからだというのである。しかし、低成長が構造化し、また「カイシャ」や家族の流動化が進行する中では、「共同体」に依存するこれまでのやり方は成り立たなくなり、公的な社会保障の再編成や強化がきわめて重要な課題となってくるという。そうした状況では、医療・福祉重点型の社会保障にこそ軸足を置くべきではないかと主張する。その理由は、医療や福祉は、リスクの予測が困難でかつその個人差が大きいからだ。こうした分野は、公的な保障をしっかり行うことが求められる。これに対して、年金は老後の生活費の保障である。「いのち」の値段がつけにくいのが、医療や福祉の分野であり、だからこそむしろ公的な保障を強化すべきだという論理である。そして、人生にとっての終盤より、その前半にこそ社会保障が重要である。なぜならば、機会の平等と社会保障はセットにして初めて有効性をもちうるからだという。
 広井良典氏は、近著『生命の政治学』で、「生命」ということを中心的なコンセプトにすえて、これからの時代の社会構想やその基礎となる枠組みを明らかにすることを目的とする議論を展開している。社会保障、環境政策、生命倫理が対象となる領域だ。すなわち、「生命」=「Life」=「生活」と捉えれば、それが三つの領域を横断するコンセプトであることは、容易に理解できるだろうというのである。改めて言うまでもなく、この「生命」=「Life」は、「いのち」のことでもある。
 広井良典氏は、『談』no.59「老いの哲学」で、一度ご登場いただいた。急速に進む高齢化の中で、老いという事実を肯定したうえで、新たな高齢社会のヴィジョンを描くという主旨だった。広井氏に改めて「いのち」について、社会保障、福祉という観点からお話をお伺いする。今回のインタビューは、その意味では「老いの哲学」の続きでもある。ヒトという存在を「いのち」という観点から捉え直し、老いだけではなく、その誕生までさかのぼって考える。ヒトのケアのあり方、高齢社会のケアというものが今回の中心的なテーマとなるはずだからだ。

自分の身体を自由にできるのか

 ところで、私の「いのち」はいったいどこにあるのだろうか。ふと、そんな疑問がわいた。私がヒトである以上、私は「いのち」をもった存在である。「いのち」をもつだって? 「いのち」はもつものなのか。「いのち」をもった存在として生まれてきたという事実をとりあえず真実として受け止めよう。だが、そうだとしたら、私の「いのち」は、私にとっては所有物なのか。つまり、「いのち」は私が生まれて初めてもつことになるものなのか。これは、なかなかやっかいな問題である。
 そんな疑問をもちながら、「いのち」とからだのつながりについて逡巡していたら、こんな文章に出会った。少々長いが引用してみる。
 「あなたに、高校に通う娘がいたとしよう。ナミエというその娘は、日焼けサロンできれいに灼きあげた肌に、茶色に染めあげた髪を長くのばしている。  何もしなくても一番きれいなときなのに、とあなたは普段から思っている。それでも、娘にうるさがられることを半ば恐れ、娘の〈自由〉を尊重する親であることを半ば気どって、とりたてて何も言わない。
 ナミエがあるとき、タトゥー(入れ墨)をいれて帰ってきた。ブラウスから見えかくれする図柄はアゲハチョウで、可愛いと言えば言えないこともない。あなたが少しだけ顔をひきつらせていると、ナミエは、こともなげに、〈ピアスもしてるよ、見る?〉と言った。  耳のピアスには気づいていた。聞けば、耳朶から始まって、下腹部にいたるまで、いまでは八カ所にあけているという。
 あなたは、たまらず言うかも知れない。〈少しは自分を大切にしなさい。〉ナミエは不思議そうな顔をして、訊きかえす。〈なんで? だって、自分のからだだよ。誰に迷惑もかけるわけじゃなし。わたしもう大人だよ。〉子どもの〈自由〉を尊重する〈民主的〉な親であろうとするあなたは、ここで手をあげるわけにはいかない。(…)あなたは、娘を説得することができるだろうか」。
 これは、『モラル・アポリア 道徳のディレンマ』(ナカニシア出版)に収録された熊野純彦氏の「自分の身体を自由にできるか」という論文の冒頭に登場する文章である。熊野氏は、「人は自分の身体を自由に処理する権利をもつ」というテーゼに対して「自分の身体の処理にも、無制限な自由が許されているわけではない」というアンチテーゼを立てて、議論を展開していく。
 熊野氏がここで着目するのは、このテーゼ/アンチテーゼには共通の前提があるということだ。それは、「自分が自分の身体を所有している」ということである。つまり、娘の立場も親の立場も、結局のところ身体を所有物として見なすところから始めている点では、変わりがない。しかし、本当にそうなのか。むしろ、事態はこうではないか。「人間である他者に対しては、私の身体が〈私〉なのではないか」と。熊野氏はこう問うたうえで、この考えは近代にあっては、乗り越えがたい発想としてあり、市民社会を裏打ちする思想そのものと手を携えている思考の枠取りですらあるという。そして、とりあえずの結論としてこう言うのである。「私が〈私〉であることに気づいたとき、私はすでに身体を携えていた。私が生まれてきたこと、私の身体がやがて老いてゆき、病いを得ること、そして私がいつか死んでゆくであろうこと、これらの事柄は、むしろ、私の生の動かしがたい条件である」と。
 私が私の身体を所有しているという表現には居心地の悪さがあると熊野氏は言う。私が私の「いのち」を所有しているという表現にも同じような感じをもつ。「いのち」をもつといっても間違いではないのだろうが、にもかかわらずある種の不自然さがどうしてもつきまとう。私は「いのち」をもっている、というよりも、私が「いのち」そのものなのではないか。「いのち」が私であると。だが、果たして本当にそう言いきれるのだろうか。
 「いのち」と身体、「いのち」と私の関係について、東京大学文学部助教授・熊野純彦氏にお聞きする。

脳死者は生きている


 「いのちのリレー」という言葉がある。臓器移植に際して臓器がドナーからレシピエントに提供されることを、ある時から「いのちのリレー」と表現するようになった。たとえば、心臓移植の場合、手術に数千万円から一億円という経費がかかる。個人が負担できるような金額ではないので、ボランティアの人たちが街頭に出て募金を集めることになるわけだが、その際「いのちのリレー」という言葉があたかも呪文のような効力をもつ。「いのちのリレー」という言葉は、ボランティアの必死の訴えをみごとに代弁してくれる。たくさんの善意に支えられてレシピエントは大事な「いのち」を受け取る。脳死者の死は決して無駄ではなかった。ドナーの「いのち」は、レシピエントの「いのち」へとリレーされて、ずっと生き続けるのである。めでたしめでたし、というわけだ。
 むろん、ボランティアの善意を偽善にすぎないなどと言いたいわけではないし、その善意にウソはないと思いたい。ただ、「いのちのリレー」という言葉には、ある決定的な欠落があることを忘れてはならない。「いのちのリレー」という言葉が交わされる場面に現れるのは常にレシピエントの側だけだ。なぜかドナーという存在が現れることはない。レシピエントに向けられる感情と同じものが、ドナーに向けられてもいいはずなのに、どういうわけかその対象にドナーは顔を出さないのである。
 善意がなぜドナーに向けられることがないのか。その理由は簡単だ。ドナーとなって臓器を提供した者、脳死者はすでに死んでいるからである。しかも、臓器を摘出されてしまった脳死者は、すでに人間と呼ぶにはあまりにも変わり果ててしまっている。ドナーとなった脳死者は、その意味でもう人間とは見なされないのかもしれない。しかし、脳死者は本当に死んでいるのか。「臓器移植法」によって、脳死をもって人の死とされた。けれども、この問題にじつはまだ決着はついていないのである。
 以上は、東京海洋大学海洋学部海洋政策文化学科教授・小松美彦氏の意見を要約し、筆者なりに解釈したものだ。小松氏は、昨年、「脳死者は生きている」という衝撃的な論文を発表した。小松氏は、脳死者には意識がある蓋然性が高いこと、「ラザロ徴候」という体動が確認されること、心停止まで所要時間が数年という長い例があること、脳死=人の死とするのには無理があること、の四点を論拠に、脳死者は生きている可能性が高いことを、この論文で主張した。小松氏は、科学哲学、生命倫理の立場から、これまで脳死・臓器移植のもつ危険性を一貫して批判し続けてきたお一人である。そういう立場から、『談』no.71「匿名性と野蛮」収録の小泉義之氏のインタビュー「ゾーエー、ビオス、匿名性」の発言に対してもコメントしている。小泉氏は、脳死者の生を自明なこととしたうえでなお脳死・臓器移植を推進していることに対して、「脳死者の生」をいくら言ってみても意味がないというが、脳死・臓器移植の専門家には届いても、他の分野の人間にはそれは十分に有効的ではないかと指摘する。問題は、むしろ、脳死を自明とする論理、それを正当化しようとする権力にあるという批判である。
 「いのち」とは何か、今それを話題にしようとする時、避けて通れないのはここで議論されている脳死・臓器移植の問題だ。最後に、小松美彦氏に脳死・臓器移植の関連から「いのち、守らなければならないものは何か」というテーマでお聞きする。                    (佐藤 真)

 

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ただ「生きている」ことのかけがえのなさ

アメリカニズム、メディカライズ社会を相対化する

 政治哲学の議論を、生命というコンセプトから読み直す。広井良典氏のこの刺激的な読解を、今回のインタビューではさらに一歩進めて、新たな社会構想の提案へと展開してしていただいた。ここでの広井氏の発言は、ここ数回『談』誌上で展開してきた「自由」と「公共性」の議論を引き継ぐものである。
 広井氏の議論を整理してみよう。広井氏は、今回大きく三つの事柄について述べられた。一つは、「いのち」を社会の中に位置付けるために、その座標軸を政治哲学の三つの潮流から捉え直すというものである。二番目は、日本人の死生観の変容とスピリチュアリティの回復について。そして三番目が、来るべき未来像としての定常型社会への期待である。
 まず、政治哲学における潮流と「いのち」の関係について。広井氏はこれまでの政治哲学、政治的立場に関する理解に混乱があったとして、それを次のように整理する。アメリカの場合、日本で紹介されているように「保守vsリベラル」という対立軸がある。実質的には前者が共和党で後者が民主党。右か左かという見方をすれば、右--保守--共和党、左--リベラル--民主党という対応関係になる。ところが、ヨーロッパの場合は、保守vsリベラルという関係をこの図式で捉えると間違ってしまう。ヨーロッパの場合は、保守主義、リベラリズム(自由主義)に対立する社会民主主義という対立軸になっているからだ。右/左という図式で言い直すと、右がキリスト教民主同盟や保守党に代表されるリベラリズムないし保守主義、左が社会民主党や労働党に代表される社会民主主義という布置関係になる。アメリカとヨーロッパのこの政治的立場の最も重要な相違点は、リベラリズムの位置付けが全く逆になることだ。しかも、その意味も異なる。リベラリズムは、文字どおり、自立した個人、あるいは個人の自由な活動に価値を置くという考え方で、市場経済とストレートに結び付く。まさにアメリカに代表されるように、すべてに値段をつけ、すべてを市場の中に引きずり込んでいくものというのが、ヨーロッパにおけるリベラリズムの理解である。この枠組みの中では「いのち」といえども当然値段がつくという立場になる。アメリカにおいては、こうしたリベラリズムの思想は、保守主義と対立するものと捉えられている。伝統的価値を重んじたり、小さな政府を主張する保守主義に対して、アメリカでは平等志向をもち大きな政府を主張する立場がリベラリズムである。ところが、ヨーロッパでは、リベラリズムは保守主義と同じ右の位置にある。小さな政府を主張し市場主義を打ち出すのがリベラリズムであり、それは大きな政府や社会の平等を志向する社会民主主義と対立するのである。
 「日本は経済も政治もアカデミズムも圧倒的にアメリカの影響が強」く、「リベラルという言葉もアメリカの用法をそのまま鵜呑みにして使われてしまう。アメリカで言われるリベラルは本来の意味の自由主義ではない。むしろ積極的に社会保障をやって平等を実現しようとするような姿を含んでいる」。保守主義の方がかえって市場主義的傾向をもっているように見えるという。「ヨーロッパでは逆に、リベラリズムは右。なぜこの違いが生じるかというと、そのさらに左に社会民主主義があるから。社会保障や平等という価値を実現しようとするのは社会民主主義。基本的に、社会民主主義は高福祉・高負担の大きな政府を目指し、反対に自由主義は低福祉・低負担の小さな政府を指向するという図式」になると広井氏は言う。
 広井氏は、「いのち」に値段をつける市場主義と「いのち」を市場主義から守る立場としての社会民主主義という新たな対立軸を置いたうえで、「自由主義の自立した個人という存在をいったん経由」させて、「もう一度コミュニティ的なもの、あるいは自然とのかかわりを回復」させようと提案する。これを「離陸と着陸」という言葉で表現する。
 ここでぜひとも強調しておきたいのは、日本におけるリベラリズムの解釈の混乱は、アメリカが日本に対して影響力をもちすぎていることに起因しているということだ。アメリカニズムは、他にも日本社会にさまざまな弊害をもたらしている。たとえば、アメリカ人の極端ともいえるバイオメディシン信仰。広井氏が指摘するように、アメリカほどメディカライズされた社会はないという。教育や個人の行動、果ては犯罪までも医学的な問題と論じられる。健康脅迫に取りつかれているようにすら見えるアメリカ人は、科学の力=医療によって健康をコントロールできると確信しているようだ。アメリカ社会の強い影響下にある日本にもこうした傾向が出始めている。その一つに、たばこと健康の関係がある。異様なまでの禁煙志向は、バイオメディシン信仰の表れでもある。アメリカがくしゃみをすれば日本は風邪をひくと言われているように、アメリカの影響力は甚大だ。日本人の禁煙志向にもその影響が見て取れる。アメリカのバイオメディシン信仰と禁煙志向の強いつながり。また、その日本への影響について、今後、政治哲学との関連も含めて綿密な研究が必要であろう。

定常型社会と新しい死生観

 自然のスピリチュアリティを回復させようというのは、リベラリズムにおける「いのち」の市場化、その現代社会への浸透という文脈からみると、きわめてユニークな提言といえる。とくにその根拠を「原・神道的」世界観に求めようとするところに、広井氏の考えのオリジナリティが感じれる。ここで注目したいのは、日本人の死生観に関連させて、このA「原・神道的」な層を他の二つ、すなわちB「仏教的」な層とC「唯物論的」な層と分けていることだ。たとえば神道の影響力の強い社会、仏教の影響力の強い社会、近代社会と仮に三つの社会層を想定すると、一般的な考えでは神道、仏教的な社会と近代社会の間に境界線を引くと思われる。アジアの思想かヨーロッパの思想かどちらにその基礎を置くかという違いでもあるが、歴史的な受容の時期と比較しても、この分類はある程度の妥当性をもつ。しかし、広井氏は、こうした従来の考えとは違って、BとCを一緒にして、むしろAとBCの間に境界線を引く。その理由はこうだ。死のイメージが、Aでは具象的なのに対して、Bではそれは抽象的なものになり、さらにCでは、無として理解されるようになる。あるいは、生死の関係で見ると、Aでは生と死が連続的で一体性をもっていたのに対して、Bでは(並列的に)二極化し、Cに至っては、生は有に、死は無に解消されてしまう。具体的でフィジカルな「生」に対して、「死」は抽象的、理念的な無として捉えるのが近代の死生観である。その背景には自然との連続性を絶ち切る、反自然の考えが横たわっているというのである。
 広井氏が最近提唱する「定常型社会」の根底にあるのは、ここでいう自然との連続性の回復であり、それを自然のスピリチュアリティと表現したのである。したがって、最初に述べた政治哲学との関わりでいうと、それはリベラリズムとの対立を意味する。リベラリズム=市場主義に対抗する形で保守主義と社会民主主義・エコロジズムが共同戦線を形成しつつあるという広井氏の現状認識を認めたうえで、その構図にあてはめると、自然との連続性を希求する「定常型社会」は、アメリカニズムからの脱却、さらにいうと反アメリカ主義に基づく新たな世界観だということになる。そして、この中心に置かれコンセプトが、生命、あるいは「いのち」というものなのだ。

受動性に彩られた存在

 生命、「いのち」を自然との連続性として捉える。それは、言い換えれば、生命、「いのち」を誕生から死までの「生物的一生」に限定して捉えるという発想から脱却することを意味する。「誕生」以前、あるいは「死」以降まで「生」という時間を押し広げていこうという発想である。「生物的一生」とは、そうした押し広げられた時間としての「生」の一部として把握されることになる。興味深いことに、この「生物的一生」の前と後、つまり「誕生」前後と「死」前後は、ヒトにとって自立して生きることができない状態の時だ。自分一人で能動的に生きることが不可能なのがこの時期なのである。その期間、私たちの「生」は他のヒトの「生」に委ねられ、それ以外に自らの「生」を更新することできない。「いのち」を自然との連続性として捉え直すと、「いのち」というものが、その端緒から決して自立したものではなく、またその終わりにおいても自立とは無縁の存在だということがわかる。
 自立とは無縁の存在、このことは直ちに、次のことを意味する。「私の身体とは受動性に彩られた存在」であると。  熊野純彦氏は、「生老病死」という仏教の言葉に触れて、私たちの身体が避けがたく受動的なものだと言った。生まれて老いて病に倒れて死ぬ、そのどの場面をとっても、ヒトは救いがたく受動的だ。そして、そのことが身体ということの意味なのだと熊野氏は言うのである。
 「生まれてきた時、私は単に泣きわめき、排泄物を垂れ流しているだけの存在だった。私が幼い時は、病気やけがは保護者たちの関心事であり、その処置は庇護者たちが決定したはず」だ。「やがて、年老いて、身体を自ら動かすこともままならないようになった時、私の身体は、また別の介護者たちの手に委ねられる。そして死を迎える。身体はもう一度他者たちの手でぬぐい浄められて、棺に納められることにな」る。「〈私の身体〉と呼ばれているものを、生-死をへだてる時-間の中で、生まれてから死んでいくまでの時の広がりに則して考えてみるならば、私の身体は、少しも私に〈固有〉なものではない、ということがわかって」くる。つまり、「身体というのは、それを能動的に所有する対象である以前に、受動性に彩られた存在」そのものなのである。
 熊野氏にお聞きしたかったのは、「身体所有論の居心地の悪さはどこからきているのか」ということだった。普段何げなく、私は〈いのち〉をもつというけれども、この言い方はおかしくないか、という疑問である。熊野氏は、ロック以来の身体所有論およびそれと一緒に論じられる労働所有論はじつは大変折り合いが悪く、ひいては「いのち」を所有するというのも、じつは相当におかしな言い方だというのだ。熊野氏はこう言う。
 「自分の所有物だとする前提に立てば、身体は自分のものではないということになってしまう」。なぜか。「自分の身体は、自分では全くつくれないものだから。自分の身体をつくるということに、自分は何も寄与していない。気がついた時には、もう自分という身体ができてしまっている。自分で何かを選んでつくったり、加工したりということは一切ないままに、もうすでに、ひとは身体として生きてしまっている」。そうだとすると、この私の「いのち」は「私自身」ではないのか。
 「〈いのちあるもの〉は、みな自らを生み出すのではなく、ただ単に生まれてくる。ひとは自分に生命を与えるのではなく、他者たちから〈いのち〉を分かち与えられるにすぎない。私は、気づいた時にはひたすら生を享受してい」る。「〈生まれる〉という自動詞は、たぶんふつうの受動態の表現では届かない、どのようにしても逃れがたい受動性、生の基底にある受動性を表現しているものだと思」う。「生の始まりは、他者からの贈与に由来する。すなわち、生命という、所有の始まりは、贈与だろうと思う」。
 「いのち」それは、私にとって贈与である。しかし、奇妙なのは、この贈与には「この私」に贈与されるという理由が決定的に欠けている。常に誤配である他ないのが、生命の、「いのち」の贈与の特徴であり、最大の謎である。しかし、誤配であるがゆえに、交換というエコノミー一般から外部的であり続ける。「いのち」が交換の対象になりえない、別言すれば、「いのち」を消費し破壊することができない(禁忌の)対象としてあり続けるのは、まさにそれが誤配としての贈与であるからに他ならない。宛先が欠落した、交換されない贈与、それは現前しない贈与のことでもある。「いのち」はもつものではない。ある時気がつくとそこにそうしてある。それは謎であると同時に、「いのち」の本性を最も的確に言い当てていることでもあるのだ。

「生きている」ことの途方もない不思議

 小松美彦氏は、「いのち」の謎について、また別の観点から言及された。「いのち」、それは不断の「自己超出」だというのである。小松氏の論旨をまとめてみよう。

 「いのち」を考えるにあたって科学的生命観の他に人生論的生命観がある。自然科学によって明らかになった生命現象と、「いのち」と呼んでいるものは別ものである。人生論的生命観は、ここでいう「いのち」に肉薄するものである。たとえば、まんが『あしたのジョー』は人生論的生命観を示す重要な作品である。『あしたのジョー』は、「いのち」が「何かに向かって突き進む」ものと捉えられていて、それは「いのち」の本質を示すものだ。ところで、「人間の尊厳」という言葉がある。この概念の起源はギリシアまでさかのぼれるが、その後変容を遂げ、今はかつての意味とは全く異なる、中枢神経とか理性を象徴するものとして捉えられてしまっている。脳死者や植物状態の人間には、「人間の尊厳」が存在しないとし、尊厳死なる言葉が生まれた。尊厳死は、臓器移植を行いやすくする方便になっている。しかし、「人間の尊厳」とは、すべての人間に存在するものではないか。つまり、「いのち」があるものには「人間の尊厳」がある。「いのち」とは、「あなた」「おまえ」と呼ばされてしまうその瞬間に立ち現われるものであり、それこそが「人間の尊厳」である。
 「人間の尊厳」をめぐるこのねじれの原因は、生物的生命より理性的生命をより上位にみるところから生まれる。しかし、生物的生命こそ、「いのち」ではないか。別言すれば、生物的生命とは「自己超出」のことであり、「何かに向かって突き進む」ことである。あらゆる生きものは「現在の自分を乗り越えていく不断の過程」と概念化できるが、これが「自己超出」という意味に他ならない。脳死が人の死に当たらないのは、脳死者も「自己超出」をしているからだ。フーコーは、それまでの生に対する眼差しが死に反転したのは生理学者ビシャによると言った。しかし、これは誤読ではないか。むしろ、ビシャは、生命を絶えず死に対抗し、死を乗り越えるべく闘い続けるところに見ていたのではないか。すなわち、「自己超出」をそこに見出していたのではないか。
 フーコーが「生--権力」と呼んだ事態が確実に現実化しつつある中で、「生きるに値しない者」とは、脳死者、三ヵ月以上の持続性植物状態の患者、末期がん患者、長期の闘病生活を続けた老人、さらに精神障害者、知的障害者、遺伝性の疾患を抱えている人々である。その人為的な廃棄の方途こそ、「臓器移植法」であり「尊厳死法」であり「健康増進法」である。着目すべきなのは「自己決定権」によって各人が自主的に死の中へ廃棄されるように仕向けられているところだ。今、「守らなければならないものは何か」、それは絶えることなく自己超出を続ける「いのち」そのものである。
 「いのち」とは、生物的生命と呼んできたものであり、アガンベンの言葉を借りれば、ゾーエーのことである。小松氏によれば、この生物的生命、ゾーエーこそ徹底的に考え抜かなくてはいけないものなのだという。私たちはその生物的生命、ゾーエーの「死」に対して抵抗し続ける必要がある。それが「いのち」を守ることで、「いのち」を考えることに他ならないと小松氏は指摘する。

 「いのち」とは、自然との連続であり、交換されない贈与であり、逃れられない受動的存在である。常に/既に「いのち」はかけがえのない存在として私たちの前に横たわっている。その「いのち」は、特段強調するようなものでもないし、強烈な個性があるわけでもない。ただの「いのち」にすぎない。
 「いのち」とはまさに、そのようなものなのだ。それはある意味では、日常に埋め込まれた、日常そのものとしてあるような、ありふれた存在である。だが、だからこそ、私たちは、「いのち」を凝視し、最後の最後までその行く末を見守り続けなければならない。「生きもの」としての「いのち」。「私」「あなた」という固有名をもつヒトという存在。しかし、それは、途方もなく不思議な存在でもあるのだ。ただ「生きている」こと。すべてはこの言葉の中に隠されている。            (佐藤 真)

 
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◎生命科学と社会

いのちの平等論  現代の優生思想に抗して  竹内章郎 岩波書店 2005
生命倫理ハンドブック 生命科学の倫理的、法的、社会的問題 菱山豊他 築地書館 2003
クローン人間 粥川準二 光文社新書 2003
生命科学の近現代史 広野喜幸他編 勁草書房 2002
「いのち」と「人間」の哲学 生命科学との対話を軸に  宮地正卓 北樹出版 2002
科学・環境・生命を読む 情況出版編集部編 情況出版 2002
すべてのいのちが愛おしい 生命科学者から孫への手紙  柳沢佳子編 PHPエディターグループ発行 PHP研究所発売 2002
生殖革命と法 生命科学の発展と倫理  藤川忠弘 総合研究開発機構編 日本経済評論社 2002
生命科学と倫理 21世紀のいのちを考える 関西学院大学キリスト教と文化研究センター編 関西学院大学出版 2001
身体/生命 市野川容孝 岩波書店 2000
「いのち」とはなにか 生命科学への招待 柳沢佳子 講談社学術文庫 2000
優生学と人間社会 生命科学の世紀はどこへ向かうのか  米本昌平他 講談社現代新書 2000
生命科学者ノート 中村佳子 岩波現代文庫 2000
生命科学と生命 知識と世論のはざま A・アトラン 中沢紀雄他訳 国文社 1996
生命科学 中村佳子 講談社学術文庫 1996

◎自然のスピリチュアリティ

スピリチュアリティの社会学  現代世界の宗教性の探求 伊藤雅之他編 世界書院 2004
神道のスピリチュアリティ 鎌田東二 作品社 2003
スピリチュアリティの現在  宗教・倫理・心理の観点  湯浅泰雄 人文書院 2003
生命の政治学 広井良典 岩波書店 2003
死生観を問い直す 広井良典 ちくま新書 2001
神道の逆襲 管野覚明 講談社現代新書 2001
定常型社会 新しい「豊かさ」の構想  広井良典 岩波新書 2001
霊性の時代 これからの精神のかたち 加藤清他 春秋社 2001
神道とは何か 自然の霊性を感じて生きる  鎌田東二 PHP新書 2000 

◎脳死・臓器移植の臨界

脳死・臓器移植の本当の話 小松美彦 PHP新書 2004
脳死と臓器移植の医療人類学 M・ロック 坂川雅子訳 みすず書房 2004
脳死とは何か 基本的な理解を深めるために 竹内一夫 講談社ブルーバックス 2004
検証! 「脳死」臓器移植 「脳死」臓器移植による人権侵害監視委員会大阪・「脳死」臓器移植に反対する関西市民の会編 さいろ社 2002 脳死・臓器移植、何が問題か 「死ぬ権利と生命の価値」論を軸に  篠原睦治 現代書館 2001
生命学に何ができるか 脳死・フェミニズム・優生思想  森岡正博 勁草書房 2001
脳死判定ハンドブック イラストでわかる法的・医学的基礎知識と実施の手順 唐沢秀治 羊土社 2001
脳死判定・臓器移植マニュアル 臓器移植制度研究会監修 日本医事新報社 2001
脳死移植はどこへ行く? 向井承子 晶文社 2001
脳死と臓器移植法  中島みち 文春新書 2000
脳死の人 生命学の視点から 森岡正博 法蔵館 2000
脳死・臓器移植拒否宣言 臓器提供の美名のもとに捨てられる命  山口研一郎他 主婦の友社発行 角川書店発売 2000
脳死は本当に人の死か 梅原猛 PHP研究所 2000
脳死移植 いまこそ考えるべきこと 高知新聞社会部「脳死移植」取材班著 河出書房新社 2000
脳死・移植の行方 額田勲編 かもがわブックレット 1999
生きててもええやん 「脳死」を拒んだ若者たち 頭部外傷や病気による後遺症を持つ若者と家族の会編 せせらぎ出版 1999
臓器移植 生命重視型社会の実現のために 野本亀久夫 ダイヤモンド社 1999
死は共鳴する 脳死・臓器移植の深みへ 小松美彦 勁草書房 1996

◎先端医療と生命倫理

生命倫理学入門 今井道夫 産業図書 2005
医療情報と生命倫理 越智貢他 太陽出版 2005
自己決定権は幻想である 小松美彦 洋泉社新書 2004
生命倫理の再生に向けて 展望と課題 西日本生命倫理研究会編 青弓社 2004
生命倫理への招待 塩野寛 南山堂 2003
生命倫理をみつめて 医療社会学者の半世紀  R・C・フォックス 中野真紀子訳 みすず書房 2003
生命倫理事典 近藤均他編 太陽出版社 2002
生命倫理とは何か 市野川容孝編 平凡社 2002
生命を語る視座 先端医療が問いかけること 村上陽一郎 NTT出版 2002
人・資源化へ危険な坂道 ヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療 福本英子 現代書館 2002
生命倫理の基本原則とインフォームド・コンセント 森川功 じほう 2002
ヒトはいつ人になるのか 生命倫理から人格へ 村松聡 日本評論社 2001
生と死の振り子 生命倫理とは何か  高橋祥友 日本評論社 2001
生殖医学と生命倫理 長島隆他編 太陽出版 2001
先端医療のルール 人体利用はどこまで許されるのか  島次郎 講談社現代新書 2002
先端医療革命 米本昌平 中公新書 1988

◎所有の倫理

所有という神話 市場経済の倫理学  大庭健 岩波書店 2004
唯物論研究年誌 第7号 所有をめぐる〈私〉と〈公共〉 唯物論研究協会編 唯物論研究協会発行 青木書店発売 2002
「所有権」の誕生 加藤雅信 三省堂 2001 
所有のエチカ 大庭健他編 ナカニシア出版 2000 
貨幣空間 中正昌樹 情況出版 2000
私的所有論 立岩真也 勁草書房 1997
ロック所有論の再生 森村進 有斐閣 1997
人格と行為 鷲田清一 昭和堂 1995
ノージック 所有・正義・最小国家  J・ウルフ 森村進他訳 勁草書房 1994
所有の歴史 本義にも転義にも J・アタリ 山内昶訳 法政大学出版局 1994
所有と物象化 マルクスの経済学批判における所有論の展開  浅見克彦 世界書院 1986
所有論の歴史 蛯原良一 世界書院 1986
カントの社会思想  所有・国家・社会 知念英行 新評論 1981
市民政府論 J・ロック 鵜飼信成訳 岩波文庫 1968

◎レヴィナス、身体、受動性

アデュー エマニュエル・レヴィナスへ  J・デリダ 藤本一勇訳 岩波書店 2004
レヴィナス 何のために生きるのか 小泉義之 日本放送出版協会 2003
レヴィナスを読む 合田正人 日本放送出版協会 2003
差異と隔たり 熊野純彦 岩波書店 2003
レヴィナスと愛の現象学 内田樹 せりか書房 2001
レヴィナスの倫理 「顔」と形而上学のはざまで 佐藤義之 勁草書房 2000
力と他者 レヴィナスに 齋藤慶典 勁草書房 2000
レヴィナス 移ろいゆくものへの視線  熊野純彦 岩波書店 1999
レヴィナス入門 熊野純彦 ちくま新書 1999
レヴィナス・コレクション 合田正人編訳 ちくま学芸文庫 1999
レヴィナスの思想 合田正人 弘文堂 1988
現代思想の冒険者たち 16 レヴィナス 法--外な思想 港道隆 講談社 1997
観念に到来する神について E・レヴィナス 内田樹訳  国文社 1997
時間と他者  E・レヴィナス 港道隆 講談社 1997
外の主体 E・レヴィナス 合田正人訳  みすず書房 1997
レヴィナスを読む S・マルカ 内田樹訳  国文社 1996
実存の発見 フッサールとハイデッガーと共に E・レヴィナス 佐藤真理人他訳  法政大学出版局 1996
実存から実存者へ  E・レヴィナス 西谷修訳  講談社学術文庫 1996
神・死・時間 E・レヴィナス 合田正人他訳  法政大学出版局 1994
われわれのあいだで 〈他者に向けて思考すること〉 をめぐる試論 E・レヴィナス 合田正人他訳  法政大学出版局 1993
レヴィナス序説 C・デイヴィス 内田樹訳  国文社 1991 
暴力と聖性 レヴィナスは語る E・レヴィナス/F・ポワリエ 内田樹訳  国文社 1991
フッサール現象学の直感理論 E・レヴィナス 佐藤真理人他訳  法政大学出版局 1991
存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ E・レヴィナス 合田正人訳 朝日出版社 1990
神の痕跡 ハイデガーとレヴィナス 岩田靖夫 岩波書店 1990
他者のユマニスム E・レヴィナス 小林康夫訳  書肆風の薔薇 1990
全体性と無限 E・レヴィナス 合田正人訳  国文社 1989
困難な自由 ユダヤ教についての試論 E・レヴィナス 内田樹訳  国文社 1985
倫理と無限 E・レヴィナス 原田佳彦訳  朝日出版社 1985

◎贈与の哲学

贈与の謎 M・ゴドリエ 山内昶訳 法政大学出版局 2000
交易する人間(ホモ・コムニカンス) 贈与と交換の人間学  今村仁司 講談社選書メチエ 2000
呪術・科学・宗教・神話 マリノフスキー 宮武公夫他訳 人文書院 1997
岩波講座現代社会学 17 贈与と市場の社会学 井上俊他編 岩波書店 1996
贈与交換の人類学 伊藤幹治 筑摩書房 1995
象徴としての身体 コスモロジーの研究 M・ダグラス 江河徹他訳 紀伊国屋書店 1983