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[最新号]談 no.76 WEB版
 
特集:情動回路…感情、身体、管理
 
表紙:牛腸茂雄 本文ポートレイト撮影:鈴木理策
   
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(対談) 河本英夫×十川幸司

「情動の回路……精神分析とシステム現象学」

河本英夫 Hideo Kawamoto
言葉を与えようとすると、こうした漠然とした広がりをもってしまうのですが、にもかかわらず現実性を成立させる注意の働きの場面で、おそらく情動や感情が関与していると考えられます。 世界が輪郭をもつ際に、一般に世界に線を引いてみる。 この線を引く活動によって、まさにそれと同時に現実性が出現する。この線を引く行為に情動や感情がおそらく不可分に関わっている。
かわもと・ひでお
1953年鳥取県生まれ。東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。現在、東洋大学文学部教授。著書に、『システム現象学 オートポイエーシスの第四領域』新曜社、2006、『メタモルフォーゼ オートポイエーシスの核心』青土社、2002、『オートポイエーシス2001』新曜社、2000、他がある。

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十川幸司 Kouji Togawa
現在の情動の特質ということであれば、情動が他者へと向かわずに、自己の内部で自足する傾向にあるということでしょう。 情動はそもそも自己を他者へと開くものなのに、それが自閉的に機能するようになっている。そのため、たとえば以前、他者との情動的関係が悩みの中心だった時代につくり出された 幾つかの情動は継承されずに、 消滅してしまったような印象を受けます。
とがわ・こうじ
1959年香川県生まれ。山口大学医学部卒業。現在、精神分析家、精神科医。著書に、『思考のフロンティア 精神分析』岩波書店、2003、『精神分析への抵抗 ジャック・ラカンの経験と論理』青土社、2000、共訳書に、『フロイト&ラカン事典』弘文堂、1997、他がある。
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「喜び」とアソシエーションの理論……スピノザの「情動」、触発、コナトゥス 

浅野俊哉 Toshiya Asano
社会思想とか政治哲学で考える必要のある問題は一個しかないんじゃないかと思うんです。 それは結局のところ「私たちが活動力を十全に展開するにはどうしたらよいか。 すなわち〈喜び〉の感情を少しでも多くの人々が、少しでも大きく味わうようになるような、 そういう仕組みをつくるにはどうしたらいいか」、この問題だけなんですね。 スピノザは、そして私もそうなんですが、「情動」こそ政治思想の最初にして最後の問題なんじゃないかと思っているんです。
あさの・としや
1962年水戸市生まれ。慶応義塾大学文学部卒業。筑波大学大学院哲学・思想研究科博士課程単位取得満期退学。現在、関東学院大学法学部教授、同大学院法学研究科教授。哲学・社会思想史専攻。著書に、『スピノザ 共同性のポリティクス』洛北出版、2006、共訳書に、M・ハート『ドゥルーズの哲学』、法政大学出版局、1996、他がある。
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〈対談〉 酒井隆史×松本潤一郎

「情動の政治学……身体は何を欲しているのか」

酒井隆史 Takashi Sakai
ドゥルーズ=ガタリは、コミュニケーションというものがいいとは 決して言わなかった。これはおそらくコントロール権力の分析と 相関しているように思われるのです。コントロール権力において、 コミュニケーションはマッスミの表現を用いるならば、 統治が人々の神経システムに信号を介して 直接に接続する回路と化していて、 恐怖や不安を伝達する道具にすぎなくなっている。
さかい・たかし
1965年熊本県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、大阪府立大学人間社会学部助教授。著書に、『暴力の哲学』河出書房新社、2004、『自由論』青土社、2001、訳書に、『ミシェル・フーコー』S・ミルズ、青土社、2006、他がある。
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松本潤一郎 Junichiro Matsumoto
人間の本性としてのその偏りを制限しないかたちで うまく機能させていく装置がある。それが「制度」だと ドゥルーズは言う。契約論のリアリティのなさを、制度という概念を 導入することによって考え直すわけです。快楽を批判し、 欲望あるいは情念を展開させてゆく装置が、ドゥルーズのここで言う 制度です。情念は制度の数だけ存在しうる。 制度と情念ないし欲望は相互に支えあい、互いに触発しあい、変化を 促すもの。逆に快楽は自明視されたリアリティを補填するものです。
まつもと・じゅんいちろう
1974年東京生まれ。立教大学大学院フランス文学研究科後期博士課程在籍。現在、リヨン第三大学言語学部日本語学科講師。共著書に、『ドゥルーズ 生成変化のサブマリン』哲学の現代を読む 2 白水社、2005、共訳書に、『倫理 〈悪〉の意識についての試論』A・バディウ、河出書房新社、2004、『聖パウロ』A・バディウ、河出書房新社、2004、他がある。
 

editor's note[before]


情動機能とは何か


 五年ほど前のことです。ある企業からの依頼で人間の心的機能に着目した研究プロジェクトを立ち上げました。ヒトは、いつ、どんな場面で、愉しいと感じるのでしょうか。心底「愉しい」と感じているのは、いったいどういう時か。そのメカニズムが解明できれば、商品開発に活かせるかもしれない。そんな期待をもって研究会はスタートしました。『談』に登場していただいた何人かの先生にもご参加いただき、心理学、脳科学、生理学、哲学といった学問領域を超えて、毎回活発な意見交換がなされました。その研究会の座長を務められた松本元氏(理化学研究所脳科学研究センター・ディレクター[二○○三年に逝去])は、プロジェクトを立ち上げるにあたり次のように宣言しています。
 「脳は、生存という生物にとって最も根源的な欲求のために、自らを設定し、設定した目標を達成するための仕組みをつくることを目的とする身体器官である。この目的を果たすための戦略として、脳はある重要な機能をもつに至った。それが情動である」。こうして、「EI(emotional interaction)フォーラム」、すなわちヒトの情動(emotion)機能に焦点をあてた研究会は始まりました。
 研究会は一年で終了しましたが、目を転じてみれば、さまざまな分野で「情動」への関心が高まりを見せ始めていました。心理学、脳科学、生理学だけではなく、哲学や現代思想、社会哲学といった分野からも情動機能に注目が集まっていたのです。情動機能の特殊性を鑑みるにそれは当然のことでしょう。情動解明に横断的な探索が求められるのだとしたら、われわれの試みはその先鞭をつけたことになります。情動は、ヒトの生存、その根幹に影響をもつものです。その機能の究明が、今、本格的に始まろうとしています。今号では、「情動機能」に焦点を当てて、身体及び社会との関わりから考察します。

「知・情・意」と情動の関係

 精神病理学者で近年カオス論、システム論から情動にアプローチしているL・チオンピは、著書『基盤としての情動』で次のように記しています。
 「情動が思考や行動に影響をおよぼしているということは、とてもありふれた事実なのですが、しかしこれまで、こうした情動の影響というものは〈純粋思考〉や〈合理的行為〉にとっては妨害因子であって、したがってできる限り排除したほうがよいということになっていました」。
 なぜ情動機能が妨害因子などという不名誉な称号を与えられてしまったのでしょうか。情動と認知の関わり、感情と論理の関係といったものが、心理学や生物学の分野で、これまで別々に取り扱われていたからだとチオンピは言います。情動・感情と思考の間になんらかの相互作用があることは薄々わかっていながらも、それを総合的に扱う術がなかった。情動という現象は方法論的にあるいは定義すること自体に難しさがあったのではないか。観察される現象を明確に捉えきれていないことは承知のうえで、科学は一方的に情動機能を排除、無視する方法をとってきた。その結果、一面的な知性中心の情動理解が幅をきかせることになったとチオンピは言います。
 脳科学の進展そのものにも原因があったと指摘する研究者もいます。
 「脳は〈こころの司令塔〉と呼ばれ、脳のはたらきを解明することが人間の精神や文明の究極的な理解に通じると考えられてきた。(…)これまでに脳科学とコンピュータシミュレーションの技術が合体して著しい成果を上げてきた領域は、たとえば記憶や連想の問題、われわれはいかにものを見ているのかというような認知の問題、正解や間違いを手がかりにしていかに課題に上達していくかという学習の問題などであった」(廣中直行『快楽の脳科学』)。合理的で巧みに演算する「知能の脳」にばかり目を向けて、人間を動かすどろどろとした原動力のようなものには焦点があてられてこなかったというのです。
 九○年代、大脳新皮質は脳科学のフロンティアでした。認知機能の解明こそが使命であるという考えで脳科学全体が進んでいたのです。聴覚・言語・記憶を扱う側頭葉、行動のプラン・プログラム、人格の統御にかかわる前頭葉、体性感覚の頭頂葉、視覚の後頭葉が大脳新皮質で、廣中氏はそれを「高次脳」と呼び、脳科学そのものが関心の大半を「高次脳」に向けてきたというのです。そうした脳科学の流れの中では、「愉しい」とか「嬉しい」とか「悲しい」といったものはどこか泥臭い印象をもちます。人間の喜怒哀楽のようなものは、「高次脳」との比較でいえば「低次脳」(廣中氏)に属し、脳研究の中心にはなりにくいテーマだったというわけです。
 ところで、「知・情・意」という言葉があります。「こころ」とは何かという場合、一般的にそれは知・情・意からなると考えられてきました。知・情・意は、本来並列関係にあります。どれかが上位に立つというものではなくて、三つの概念は、相互に重なり合いながら、横並びの関係にあるというのが本来の姿だと思われます。ところが、こころとは何かという究極的な課題に対して、こころとは脳ではないかという考えが出てきました。ヨーロッパ近代の思想の強い影響力の下で、そう考えられるようになると、知・情・意の関係も微妙に変化します。認知・記憶・創造といった「知」が「情」や「意」を統御するといった構図に置き換えられて理解されるようになるのです。脳科学に見たような一種の理性主義がこころの中にも入り込んでくる。こうして、理性が感情を抑えるといった一般的なイメージが形成されます。情や意は、知の下にあるようなイメージがいつのまにか定着してしまった。
 ところが、近年当の脳科学の分野で変化が起きています。大脳新皮質の研究からさらに踏み込んで、大脳辺縁系や脳幹といった脳の内側の構造や機能に探求の目が向き始めた。廣中氏のいう「低次脳」に関心が及び始めたのです。冒頭紹介したプロジェクトは、まさにそうした脳科学の変化の胎動をいち早くキャッチして立ち上げられたものでした。この脳科学の地殻変動ともいえる変化は、こころの見方に対しても大きな変更を迫ります。松本元氏は、この事情をこんな言い方で表現しています。
 「知・情・意は互いに並列ではなく、階層化され相互に連関し、情が受け容れられ意欲が高まり、知が働くと考えられる。脳では、〈情〉・〈意〉がマスター(主人)で「知」はスレーブ(従僕)であるとみなすことができよう」(『情と意の脳科学』)。
 従来の見方とは逆に、情によって意欲が高まり、知が創造され働く。情動の科学的解明にこそ脳の最も根本的な課題があるというわけです。脳の「こころ」とは、情動であり、それは生きる「意欲」の基である。情動を含む「低次脳」の研究が、今後脳科学の最もホットなテーマになっていくだろうと廣中氏も予想しています。じつは、脳科学、神経生物学からの影響を受けて、心理学の領域でも新たな動きが起こっています。情動や感情と認知の相互作用に対する関心が高まってきているのです。心理学が観察できる表面的な行動だけを見てきた行動主義から袂を分かって、脳機能に接近していったことを心理学の「認知論的転回」だとすれば、今起こりつつあるのは第二の転回、言うなれば「情動論的転回」であると指摘する研究者も出てきました。

情動とは何か

 「情動論的転回」とは具体的にどういうものか、それを説明する前に、哲学や心理学では情動をどう定義していたか、ざっと見ておきましょう。
 ここまで情動という言葉をなんの留保も付けずに使ってきましたが、日本語で情動という場合、感情や情緒、情感、気分といった似かよった言葉がいくつもあってその違いはあいまいです。その点英語では、はっきりとした使い方の違いがあります。たとえば、emotion。motionとつくことから動きをもったものというニュアンスがあって、この言葉に情動という訳語を与えています。それに対してfeelingは、ingがつくことからもわかるように、瞬間的・皮膚感覚的な側面をもっているようで、こちらを感情と訳しているようです(松本桂樹『心理学入門』)。他にeffectは情感、moodは気分、passionは情熱、sentimentは情操といった同種の言葉がありますが、これらは感情の中に含まれると考えて差し支えないでしょう。整理しますと、心理学では、喜怒哀楽のような主に身体性を伴う、一過性のこころの作用が情動、身体的な変化は少なく快-不快の次元で捉えられるものが感情と考えられているようです。
 さて、哲学において最初に正面から情動を俎上にのせたのは誰か。それはデカルトだと言われています。デカルトは『情念論』で「こころ」は「脳」とは異なり、物質的実体のないもので、「こころ」が松果体を介して「脳」をコントロールすると考えました。デカルトにとって、ヒトの身体は脳も含めて単なる機械にすぎません。その意味では動物と同じですが、ヒトの場合にはこころがあり、それが動物と分かつところです。デカルトによれば、感情(情動)は次のように描写されます。たとえば、危険から逃れるという行動は、感覚受容器から来た感覚信号が脳で意識の介入なしに評価し、松果体を経由して機械的に自動反応を起こす。一方、反応は松果体を伝わってこころと連絡し、感情(情動)を体験する。デカルトの立場は心身二元論でしたが、松果体(という不思議な物質)を通じて両者はつながっていたのです。脳の一部である松果体をインタフェイスにして、感覚刺激を情動として体験する。現代科学における情動論の萌芽を私たちはそこに見出すことができます。情動モデルの基本をつくり出したという意味で、デカルトは情動研究の源泉と考えられているのです。
 デカルトから約二○○年後、心理学の父といわれるウィリアム・ジェームスがカール・ランゲと共に情動に関する新たな知見を提唱しました。彼らは、デカルトの考えを踏襲しながらも、感覚及び運動神経の大脳皮質局在説などを根拠にして、情動体験は脳で起こることを主張したのです。「刺激によって誘発された身体の生理的変化(情動表出)を認知することにより情動体験が生じる」。要するに、生理的・身体的な反応が情動に先行するとしたのです。たとえば、強盗にナイフを突きつけられて、「恐ろしいから心臓がドキドキし身体が硬直する」のではなく、「心臓がドキドキし硬直するから恐ろしい」と感じる。これが情動の末梢起源説で、情動体験は情動表出の結果生じるものとジェームス=ランゲは主張しました。
 この理論に対して、ウォルター・キャノンは情動の中枢起源説(一九二七年)を唱え、真っ向から反対しました。キャノンによれば、末梢反応、つまり情動表出が情動体験の発生に必ずしも必要ではなく、また両者が一致するとは限らない。身体が反応する以前に恐怖を感じていて、身体反応は大脳皮質と視床下部の両方に伝わると主張しました。
 両者の論争は、情動研究の発展に大いに寄与しました。廣中直行氏によれば、前者は怒りや恐れ、喜びなどに特化した身体反応が直に「高次脳」に伝わるという説であり、後者は情動が「低次脳」の内部でつくられるという説。両者は情動に対する二つの立場を示しているように見えますが、じつは見ているものそのものが違っていたと廣中氏は指摘しています。つまり、情動体験と情動表出のどちらにウェイトを置くかという根本的な違いをあらわしているというわけです。
 その後情動の研究は、情動体験と情動表出の違いをあいまいにしたまま進んでいきますが、六○年代になってスタンレー・シャクターが認知的視点を導入して新たな情動モデルを提唱します。「情動は身体の生理的変化にも、また、状況の認知的評価にも影響を受ける」というもので、情動の二要因起源説として知られる理論です。簡単に言うと、情動反応を受け止めた低次脳は高次脳と直接結ばれていないために、生理的興奮(情動の内容)が怒りなのか喜びなのかわからない。そういう場合には高次脳が周囲の状況から推測して「自分は怒っている」とか「喜んでいる」と判断する。言い換えると、本当はよくわからない身体反応に対して、高次脳が勝手にラベルを貼るというわけです。シャクターは、キャノンの説ではなく、ジェームスらの末梢起源説を批判的に継承したと考えられますが、いくつかの難点もあって、未だに検証実験が行われているようです。しかしながら、シャクターの理論は、情動体験における認知過程の関与の可能性、また情動表出の脳内機構とのつながりに見通しをつけたということで大きな意味をもっていると思われます。この時点ではまだ心理学と脳科学は別個に進んでいましたが、いずれお互いがお互いを必要とする時代がかならずくるはずだ、そんな予感を感じさせる何かがシャクターの情動モデルにはありました。

情動の脳科学

 以上三つの理論を紹介しながら、大まかではありますが心理学の分野で情動がどのように捉えられていたかを俯瞰しました。ところで、心理学はその後関連する諸科学との関係を深めながら、新たな領域を開拓し始めていきます。なかでも、脳科学との連携により、知覚や記憶、意思決定、行動といった脳の高次機能と意識の関わりを探る研究に関心が集まります。人間の思考とは何か、言語活動とは人間にとってどのような意味をもつのか、いわゆる認知心理学が脚光を浴びます。心理学もいよいよ「高次脳」の究明へと向かい始める。これが先程言いました心理学の認知論的転回です。
 心理学における情動論的転回は、まず脳科学とのコラボレーションによって起こった認知論的転回を経て、九○年代後半から始まります。その立役者がジョセフ・ルドゥーとアントニオ・R・ダマシオです。ジョセフ・ルドゥーは、情動を単なる心理的状態として捉えてきた従来の心理学を批判し、情動は脳・神経系の生物学的機能であるという立場から、それが脳内メカニズムと密接な関係をもつことを明らかにしました。分子生物学の手法を持ち込んだことで脳科学に大きな影響を与えたとされるルドゥーですが、情動機能の解明にも生物学的視点が重要であることを強調しています。脳の内部に「単一の情動部門は存在しない、情動とはただのラベルに過ぎない」と喝破したのです。とくに情動が勝手に生起してしまう現象に着目し、自律性こそ情動の最も重要な機能であることを明らかにし、情動をシステムと捉えるという視点を導入しました。ここにルドゥーの先見性があります。なぜならば、この考えは脳内メカニズムのシステム論的展開への道を拓いたことになり、脳科学それ自体にも大きな認識論的な変更を迫ることになったからです。
 一方、アントニオ・R・ダマシオは、脳に損傷のある患者の神経活動を画像診断技術を使って研究している神経学者です。ダマシオは「脳だけではこころは生まれない」という立場から、脳と身体の連関を強調します。ダマシオの名を一躍有名にしたのが「ソマティック・マーカー仮説」です。これまで、意思決定には大脳新皮質の認知機能がその役目を果たしていると考えられていましたが、身体が反応し最適な意思決定を行う場合があることを発見し、推論と意思決定は身体に支えられているとする「ソマティック・マーカー仮説」を打ち出したのです。さらにダマシオは、情動、感情の相互作用を認めたうえで、身体が生命調節機能によってこころとつながっていることを提唱し、そのアイデアの源流をスピノザに求めたのです。スピノザこそ、情動と感情の哲学者であり、情動と感情が人間の生きる意味に根拠を与えているという考えを、脳科学の立場から初めて言及しました。スピノザは情動・感情との関わりから生命の自己保存という考えを打ち出し、それは脳科学の知見とまさに一致するというのです。

 今号では、三つの切り口から情動機能について考えてみましょう。まず、情動体験と情動表出を軸に、最新の脳科学の知見を踏まえながら、情動のシステム論的展開の可能性について論じていただきます。精神分析にシステム論を導入し独自の理論へと発展させている精神分析医の十川幸司氏とオートポイエーシス論に現象学を接続させて新たなシステムの機構を構想する東洋大学教授・河本英夫氏に、情動システムの生成を入り口にして対談してもらいます。
 二番目は、スピノザ哲学における情動・感情の意味について。とりわけ自己保存という問題系に分け入り、その類い稀なる思想を関東学院大学教授・浅野俊哉氏にお話しいただきます。
 三番目は、情動機能と心的コントロールの関係について。「生-政治」からさらに進んで、人間を情動次元において管理するコントロール権力が顕在化しつつあります。ドゥルーズが正しく予言したように、情動への介入は快楽技術そのものの管理を示唆し、全く新しい権力システムの出現を意味するものだと考えられます。この最もアクチュアルな問題に大阪府立大学人間社会学部助教授・酒井隆史氏とリヨン第三大学言語学部日本語学科講師・松本潤一郎氏に語り合っていただきます。       (佐藤真)

 

editor's note[after]

情動の政治へ

 情動を脳との関連で捉え直すことによって、新たな知見が生まれています。たとえば、情動は自ら作動して、それ自体を表現する。「自己表現」と呼んでいいような局面が、情動にはあることが確認されています。ここに見られるものは、近年、システム論が切り拓こうとしているオートポイエーティックな機構そのものだといえます。このオートポイエーシスとしての情動機能をどう評価し理論化していくのか、河本英夫氏と十川幸司氏の対談のポイントの一つは、そこにありました。

調整機構としての情動、コミュニケィティヴな情動

 情動は、オートポイエーシスときわめて親和性の高い機構です。オートポイエーシスの自己産出に非常に近い振る舞いをします。事実、現象学では、理由なく作動する面を強調し、情動や感情は自己産出的な系で捉えようとしていました。自己産出、言い換えればそれ自体で新たなものになっていく系は、動くための理由をもつ必要がありません。理由なしに自己を産出し続けるのがオートポイエーシスです。情動は、したがってオートポイエーシスだと考えられていました。十川幸司氏も、当初はそのように考えていたようですが、情動や感情にはある種の強弱の変動があるといいます。河本氏は著書『システム現象学』で次のように言っています。「(…)かりに自己と呼べるものがあるにしても、連続的に産出されるような自己ではなく、作動への気づきが調整の働きのために区分した自己である」。
 対談の後半で、河本氏が「気づき」についていくつかのエピソードを交えながら詳細に述べておられるのは、それが情動機能と密接な関わりをもっているからだけではありません。「気づき」は、まさに情動というシステムを決定するものであると同時に、情動機能を更新(複雑化)させる重要な要因でもあるからなのです。「情動は自ら作動して、それ自体は自己表現する。ところが不快なものを避け、快を求める場面では、まるで外界の事物が情動にとってなんであるかを知っているように作動する。自己作動する情動の本性にとってありえないことが起きてしまう」。つまり、情動機能は、一見するとオートポイエーシス系に見えるけれども、そこからさらに一段上がったシステムと考えられるというのです。 十川氏は、情動が情動を産出するという考えには無理があり再考したいと考えていた時に、河本氏から、情動はオートポイエーシス系の作動ではなく、複合運動系あるいは調整系の作動ではないかという指摘を受けたと述べておられます。情動回路のこの調整機構こそ、河本氏が強調する「気づき」なのです。
 「何かが起こる、その手前のところに現実性そのものが成立するんです。ここに働いている情動や感情、そのような形でしか今の自分を出現させることができないようなそういう現実。ここに働いているのが情動や感情だとすれば、これはビオンのいう〈注意〉のことでしょう。ただ、僕が〈気づき〉と言っているのは、内感的な意味です」。感情が動いている状態、その時何か自分の中に緊張感があるなと気がつく。内感の中の活動領域に変化が生じる。その変化の感じ、感じ取りが「気づき」なのです。
 「気づき」とはいうなれば自らの経験が形成される、そのことに自らが気づくことです。自分の情動、感情、そのあり方が変化したということに気づくこと。重要なのは、その変化であり、変化し続けることに気づき続けることです。そして、精神分析の場面では、その「気づき」が医者/患者の治療関係そのものを変えていくことになるというのです。
 精神分析には、特有の転移関係というものがあります。患者が過去に自分にとって重要だった人物に対してもった感情を、治療者に対して向けるようになる現象をいいますが、たとえば、情動機能はこの医者/患者の関係に深く関わってきます。情動の大きな特徴は、それが他者に直接伝わってしまうことです。怒り、愛、悲しみといったものは、意識しなくても自然に伝わってしまう。では、情動機能のもつこのコミュニケィティヴな側面に、「気づき」はどう関わってくるのでしょうか。十川氏によれば、ビオンは、「情動によって、自己は他者へと開かれ、他者と連結するという局面に注目しています。欲動は自己内部で閉じているのに対し、情動は他者へと開かれている。それゆえ、情動は他者と共にどう生きるかという倫理的な問いを提起しているとも言えます」。ところが、自己を他者へと開くはずの情動機能が、今日他者へと向かわずに、自己の内部で自足する傾向にある。十川氏は、たとえばその典型をオタク文化に読み取り、独自の情動を形成していながら、本来もっている自己を変容していく力にはなっていないと分析します。それはともかくとして、「気づき」が自ら自律する局面と、他者へと開く局面の両者に関わり、連合させていくものであるとすれば、「気づき」を明らかにすることが情動機能の作動システムの解明につながるのです。

イメージ生成と記憶、情動の回路

 十川氏は、もう一つ情動の作動する局面にビオンが着目したことに注意を向けます。ビオンは、認知系の作動をすると同時に運動系の作動もしている二重作動(河本英夫)の典型を情動に見ていたというのです(しかもシステム論など知らずに)。河本氏が最近関わっている認知運動療法も、認知と運動という全く質の異なる系が継続し連結する二重作動を契機とする身体機能の再生療法ですが、じつはこの二重作動が「気づき」と深いレベルで関連しあっていることがわかってきたのです。河本氏が特段に関心を抱く「イメージ」という領域は、まさにこの「気づき」と身体的経験をつなぎとめる回路であり、それはまた情動機能とも作動領域を共有するものです。
 新たな経験に踏み込んだ時、多くの場合それは身体動作を伴っているといいます。そこに言語は介入しなくてダイレクトにイメージに連接している。だから、「あっわかった!」というあの感じは、言語による認識ではないのです。それゆえに、その「わかった」という感じは、長く意識に留まることはありません。身体に構造化されると消滅してしまうものなのです。上手くなるということは、構造化させて消滅化させることの別の表現です。ここで問題となっていることは何か。上手に身体化された時には、既にそのプロセスは捨て去られてしまっているということです。つまり、次に何かをする時には、「この感じ」をもう一度始めからつくり出さなければならない。経験を経験し直さなければならないわけです。そこで、注目したのがイメージです。記憶について河本氏は、「意味記憶」、「エピソード記憶」の他に第三の記憶があるのではないかと示唆します。それは、この言語を介さない直接イメージにつながるものを記憶するデバイスが別にあるはずだという直感です。そして、それがまさに情動と深くつながる回路なのではないかというわけです。「気づき」は、こうして「イメージ」と「記憶」をつなぎとめる情動の重要な機能の一つにおさまるのです。今後、情動機能研究にとって、「気づき」とイメージ生成との関わりが大きなポイントになると考えられます。
 ところで、昨今急増しているうつ病に関して、薬物投与の実態に触れてその危険性が十川氏から指摘されました。私たちもこのことには十分注意を払う必要があります。一言コメントしておきましょう。疾病概念の拡大とメディカライゼーションの関係については、『談』no. 74号の佐藤純一氏と野村一夫氏の対談でも取り上げました。治療医学の公衆衛生化という文脈の中で、生活習慣病という病気でない病気がいかなる形でつくり出されていくかが明らかにされました。そうした現状を、リスク概念の導入によるメディカライゼーションと捉え批判的に検討したわけですが、精神医学の分野で現在進行している事態は、さらに根の深い問題を孕んでいます。というのは、十川氏が危惧するように、好む好まざるにかかわらずそれが直接人々のこころの内部に入り込み、コントロールを可能にするからです。「社会学者のホックシールドは、サービス産業などで自己の感情の管理が求められ、それが〈商品〉化され、〈売られて〉いる状況を、〈感情労働〉という概念を使って論じましたが、今、精神医学を巻き込んで起きていることは、薬物を用いたもっと身体レベルでの感情、情動の管理です」。情動をコントロールする。それは端的に「生-権力」以降の新たな権力装置の登場を意味します。私たちは、この新たな権力、「コントロール権力」の存在についてしっかりと把握しておくことが必要でしょう。最後の酒井隆史氏と松本潤一郎氏の対談で、この問題について論じています。最後にもう一度触れましょう。

コナトゥス、喜びの情動

 脳神経科学の立場からスピノザ哲学の復活に寄与したダマシオの基本的な立場は、人間における身体の重要性を強調したことです。脳をもたない身体だけの生物はいるけれども、身体をもたない脳だけの生物はいません。どの生物よりも脳を発達させた人間においてもそれは全く同様で、むしろ人間は脳と身体がうまくつなぎあうことで高度な生命調節を可能にしているというのです。さらに情動の発生を生物進化から捉え直し、情動と感情は独自の回路を発達させましたが、その働き方は同時であると言いました。そして、この独創的なアイデアこそ、スピノザの哲学から拝借したものであると表明したのでした。
 バールーフ・デ・スピノザ。この異例の哲学者について、じつは『談』では過去に二回取り上げています。一つは、故竹内良知氏に「スピノザ哲学 その力の存在学について」というテーマで、「能産性」、「自然成長性」、「無媒介性」をキーワードにドゥルーズとネグリのスピノザ論を参照しながらその異例性について。もう一つは鷲田小彌太氏に「大衆という自然」というテーマで、スピノザの民主主義論について。今回三度目になりましたが、スピノザ哲学の革新性に改めて驚きました。浅野俊哉氏がいみじくもおっしゃったように、まさにスピノザは「情動」にとりつかれた哲学者です。理性で政治は動かない、情動こそ政治を動かす「活動力」そのものです。浅野俊哉氏のインタビューの要点を整理してみましょう。
 スピノザの「情動=affectus」は、身体的なものを含み込んだプロセスであり、身体の活動力を増大/減少、促進/阻害する身体の変様のことです。スピノザにとって「喜び」はこの情動の表出が無媒介的に「ある」ことをいいます。スピノザ哲学の中心的概念にあるのが「コナトゥス=conatus」ですが、これは「活動力」であり「力」であり「自存力」です。すなわち、喜びを十全に実現することがコナトゥスだということになります。
 ところで、スピノザは人間の理性は情動・感情の前に無力であり、社会は情動の相互作用で成り立っていると確信していました。そして、社会機構の一切は情動ないし欲望を配分する装置として存在するとスピノザは考えたのです。スピノザにとっての民主政体とは、「喜び」をより多く実現するための、したがって「運動」である他ないものでした。そのために、政治体制としてそれを実現することはしょせん不可能であり、その試みは挫折します。しかし、スピノザは、その思想を『エチカ』で全面展開します。あらゆる境界と排除を突破する共同性=associationの哲学を企てるのです。
 浅野氏がスピノザ哲学に読み込んだものは、「喜びの政治学」であり「喜びの生理学」の必要性です。結局のところ「活動力を十全に展開するにはどうしたらよいか。すなわち〈喜び〉の感情を少しでも多くの人々が、少しでも大きく味わうようになるような仕組みをつくるにはどうしたらいいか」この問題を突き詰めることが唯一の社会思想の課題だと浅野氏は断定します。「生-権力」論、「生-政治」は、私たちを出口なしの状況に追い込んでいきますが、その突破口はじつは「情動」にあるのです。
 スピノザ、この異例な哲学者から学ぶもの、それは、自分の無意識と意識の層が乖離していない、突き抜けるような自信ではないか。それは絶対的な「自己肯定」の思想です。ネグリは、スピノザ哲学を「時間なき哲学」と言いました。何度でも甦ることができるからであり、私たちは常にそこに新しい概念を探り出すことができるのです。

身体の両義性、情動の政治へ

 スピノザは、「情動」に政治の本質を見ました。ところが、グローバル経済が猛威を振るう中で、今や資本の側がこの情動に強い関心を寄せています。それと同調するように、コントロール権力がそのターゲットにしているのがまさしく情動なのです。
 酒井隆史氏は対談の冒頭で次のように問題提起をしました。「情動労働は、まさにその潜在性そのものがターゲットとなっている。ネグリたちが感情労働ではなく情動労働を問題にする理由は、資本が狙っているのがまさにこの潜在性だからです」。「権力は情動に直接働きかけることをますます重視し」、「権力による情動のダイレクトなコントロールという側面が、規律というパラダイムに対して優位に立ち、厳密に言えば、規律という長い歴史をもつ権力のパラダイムに変容をもたらし」ています。つまり、従来の規律権力と違って新たに出てきたコントロール権力は、直接「情動」に、言い換えれば潜在性の領域に対して、意図的に介入する方法をとるようになってきたというのです。
 酒井氏は、ブライアン・マッスミの議論を参照しながら、このような状況が生まれてきた背景には、九・一一以降のセキュリティを共通の政治課題とする世界情勢があると指摘します。今日、政治空間において求められているのは、経験的事実より情動的事実であり、分析や検討、議論に有する無駄な時間ではなく、逡巡なき「雷のような」決断です。恐怖は、身体の能力を容易に無力化させます。コントロール権力は、情動に直接作用することで身体の力というものを、どんどん低く見積もっていくように仕向けるのです。マッスミによれば、それこそが情動の政治の効果だというのです。結果、「溜飲を下げる」という出来事が政治の動力になってしまう。
 松本潤一郎氏は、ドゥルーズの情動解釈を紹介します。ドゥルーズは情動を道徳や反道徳では動かないものを指していて、それらとは無関係に存在する判断に関わるものとみていたというのです。ところが、「溜飲を下げる」というのは明らかに既成の価値観に乗っかってしまっている。情動とは違うレベルの、むしろ感情に近いレベルのものではないかと問いかけます。また、ドゥルーズの「潜在性/現働態」の概念を取り出してきて、潜在性の領域に直接働きかけても、それは可能性が現実化するのとはそもそもレベルの異なる問題だとして、やはり情動の捉え方の違いに疑義をただします。
 お二人は、ドゥルーズの快楽批判の意味をめぐって、非常に有意義な議論を展開していくのですが、ここではやはりテーマである情動に限定して、最後のコミュニケーションの問題に関してのみ触れておきましょう。
 酒井氏は、コントロール権力がターゲットとする情動の領域が恐怖や不安を伝達する神経システムと重なり合っていることに注目します。コミュニケーションの果たす役割は、コントロール権力の下では、その意図とは別に、むしろ恐怖や不安をダイレクトに伝えるだけに奉仕してしまう。思い切ってコミュニケーションを切断し、逆に別の情動の回路をつくり出すことを考える方が有効なのではないかと示唆します。松本氏もそれを受けて、コミュニケーションを断つことは、とりあえず恐怖の源泉から自由になることであり、スピノザ的な意味での感情からの解放、あるいは恐怖の源泉を分解することにはなるだろうと言います。

 資本もまた資本への抵抗も今や同じ身体という同一の場に狙いを定めています。両義的な場としてそこにあり続ける情動機能。私たちはそこにスピノザ的な意味での喜びを見出すことができるのでしょうか。じつは、その可能性はそれがシステムであるというところにすでに埋め込まれているのだとしたら……。調整機構としての情動という視点には、コントロール権力を逃れていくような、いくつもの回路があらかじめ仕掛けられているのです。さしあたっては、情動回路の二重作動がそれにあたると考えられます。そのことに私たちは早く「気づく」べきなのでしょう。すでにそれはとっくに動き出しているのですから。 (佐藤真)

 
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◎システム現象学、システム論的精神分析
システム現象学 オートポイエーシスの第四領域 河本英夫 青土社 2006
基盤としての情動 フラクタル感情論理の構想 L・チオンピ 山岸洋他訳 学樹書院 2005
思考のフロンティア 精神分析 十川幸司 岩波書店 2003
メタモルフォーゼ オートポイエーシスの核心 河本英夫 青土社 2002
精神分析への抵抗 ジャック・ラカンの経験と論理 十川幸司 青土社 2000
精神分析の方法2 セブンサーヴァンツ W・R・ビオン 福本修訳 法政大学出版局 1999
精神医学 複雑性の科学と現代思想 L・チオンピ他 青土社 1998 
ビオンとの対話 そして最後の四つの論文 W・R・ビオン 祖父江典人訳 金剛出版 1998
感情論理 L・チオンピ 松本雅彦他訳 学樹書院 1996
オートポイエーシス 第三世代システム 河本英夫 青土社 1995

◎ドゥルーズ、管理社会、潜在性
アンチ・オイディプス 上下 G・ドゥルーズ 宇野邦一訳 河出文庫 2006
ドゥルーズ C・コールブルック 國分功一郎訳 青土社 2006
ドゥルーズ 生成変化のサブマリン 松本潤一郎・大山載吉 白水社 2005
ドゥルーズ KAWADE道の手帖 河出書房新社 2005
批評と臨床 G・ドゥルーズ 守中高明他訳 河出書房新社 2002
フーコー G・ドゥルーズ 宇野邦一他訳 河出書房新社 2000
哲学とは何か G・ドゥルーズ、F・ガタリ 財津理訳 河出書房新社 1997
記号と事件 1972-1990年の対話 G・ドゥルーズ 宮林寛訳 河出書房新社 1996
千のプラトー 資本主義と分裂症  G・ドゥルーズ、F・ガタリ 宇野邦一他訳 河出書房新社 1994

◎情動のポリティクス
雑誌 VOL 01 萱野稔人他編著 以文社 2006
心脳コントロール社会 小森陽一 ちくま新書 2006
マルチチュード 〈帝国〉時代の戦争と民主主義 上下 A・ネグリ、M・ハート 幾島幸子訳 NHKブックス 2005
国家とはなにか 萱野稔人 以文社 2005
わたしたちの脳をどうするか ニューロサイエンスとグローバル資本主義 C・マラゴー 桑田光平他訳 春秋社 2005
暴力の哲学 酒井隆史 河出書房新社 2004
マルチチュードの文法 現代的な生活形式を分析するために P・ヴィルノ 廣瀬純訳 月曜社 2004
帝国 A・ネグリ、M・ハート 水嶋一憲ほか訳 以文社 2003
ネグリ 生政治(ビオポリティーク)的自伝 帰還 A・ネグリ 杉村昌昭訳  作品社 2003 
スペクタクルの社会 G・ドゥボール 木下誠訳 ちくま学芸文庫 2003
自由論 酒井隆史 青土社 2001
自由の新たな空間 闘争機械 F・ガタリ 丹生谷貴志  朝日出版社 1985

◎知、情、意の脳科学
感じる情動・学ぶ感情 感情学序説 福田正治 ナカニシヤ出版 2006
記憶と情動の科学 「忘れにくい記憶」の作られ方 J・L・マッガウ 大石高生他訳 講談社ブルーバックス 2006
感情 D・エヴァンス 遠藤利彦訳 岩波書店 2005
情動と音楽 音楽と心はいかにして出会うのか 國安愛子 音楽之友社 2005
シナプスが人格をつくる 脳細胞から自己の総体へ J・ルドゥー 谷垣暁美訳 みすず書房 2004
無意識の脳 自己意識の脳 身体の情動と感情の神秘 A・R・ダマシオ 田中三彦訳 講談社 2003 
エモーショナル・ブレイン 情動の脳科学 J・ルドゥー 松本元他訳 東京大学出版会 2003
快楽の脳科学 「いい気持ち」はどこから生まれるか 廣中直行 NHKブックス 2003
情と意の脳科学 人とは何か 松本元編著 培風館 2002
生存する脳 心と脳と身体の神秘 A・R・ダマシオ 田中三彦訳 講談社 2000
感情の科学 心理学は感情をどこまで理解できたか R・R・コーネリアス 斉藤勇訳 誠信書房 1999
愛は脳を活性化する 松本元 岩波科学ライブラリー 1996

◎スピノザ、情動の哲学
スピノザ 共同性のポリティクス 浅野俊哉 洛北出版 2006
ヴィゴツキー著『最後の手稿』情動の理論 心身をめぐるデカルト、スピノザとの対話 神谷栄司他訳 三学出版 2006
近代西欧社会哲学の精髄 ヘーゲル、マルクスからスピノザへ 鷲田小弥太 彩流社 2006
感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ A・R・ダマシオ 田中三彦訳 ダイヤモンド社 2005
スピノザ 実践の哲学 G・ドゥルーズ 鈴木雅大訳 平凡社ライブラリー 2002
ヘーゲルかスピノザか P・マシュレ 鈴木一策他訳 新評論 1998
国家論 B・d・スピノザ 畑中尚志訳 岩波文庫 1976
エチカ 倫理学 上下 B・d・スピノザ 畑中尚志訳 岩波文庫 1975