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[最新号]談 no.79 WEB版
 
特集:〈祝祭〉する身体---陶酔と暴力のはざまで
 
表紙:木原千春 本文ポートレイト撮影:秋山由樹
   
   
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祝祭としてのスポーツ

清水諭
Satoshi Shimizu
身体の奥底にある理性では捉えることのできない未知の力のようなもの。即興的、偶発的な身体そのものを、 われわれはスポーツに目撃するわけです。私たちが普段知っている身体が、その瞬間全く別のものに変容する。 言説を越えて存在する身体性が、われわれの前にガーンと差し出されるという感じでしょうか。 やはり、この感覚は大きいですよ。

しみず・さとし 1960年東京都生まれ。筑波大学大学院博士課程体育科学研究科修了。現在、筑波大学大学院人間総合科学研究科准教授。著書に、『甲子園野球のアルケオロジー スポーツの「物語」・メディア・身体文化』新評論、1998、編著書に、『現代スポーツのパースペクティブ』大修館書店、2006、『オリンピックスタディーズ 複数の経験・複数の政治』せりか書房、2004、他がある。
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スポーツと暴力……思考のパラダイム・シフトに向けて

稲垣正浩 Masahiro Inagaki
私たちは、今、生身の身体の半分を失いつつあるのです。
だから、忘却の彼方に置き忘れつつある身体を取り戻す努力こそが求められているのです。
つまり、生きるということと直結する身体のありようを模索することこそが、今、必要なのです。
そして、そういう身体の実現につながる新たなスポーツ文化の出現こそが待望されている。
私が言うところのスポーツの始原に立ち返れ、というのはそういうことです。

いながき・まさひろ 1938年愛知県生まれ。東京教育大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。愛知教育大学助教授、大阪大学助教授、奈良教育大学教授を経て、現在、日本体育大学大学院教授。スポーツ史専攻。著書に、『イギリス文学のなかにスポーツ文化を読む』2006、『〈スポーツする身体〉を考える』2005、『身体論-スポーツ学的アプローチ』2006、以上すべて叢文社、他がある。
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カーニヴァルの身体……非合理性、死、美意識

冨田晃 Akira Tomita
カーニヴァルや祭りは非合理がその本質です。 合理/非合理のバランスがとれている社会では、カーニヴァルや祭りも重要な意味をもってくるわけですが、 合理性が勝る社会では、非合理の出る幕はありません。 そして、合理が勝る世界では、生きることも、あまり意味がないのです。

とみた・あきら
1963年浜松市生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科修了。東京工業大学社会理工学研究科博士課程単位取得満期退学。カリブ海トリニダード・トバゴのカーニヴァル、中米ホンジュラスのガリフナ人社会、ニューヨークの黒人社会をフィールドワーク。現在、弘前大学教育学部准教授。文化人類学者・写真家・アーティスト。著書に、写真集『ガリフナ こころのうた』現代企画室、1995、『祝祭と暴力 スティールパンとカーニヴァルの文化政治』二宮書店、2005、他がある。
 

editor's note[before]


祝祭のトポス、カーニヴァルの身体


 十分に生きる、あるいはその瞬間に完全に没入している状態、心理学者M・チクセントミハイは、それを「フロー」という概念から解き明かしました。フロー(flow)とは、自己目的的、かつ全人的に一つの行為に没入している時に感じる包括的感覚のことです(1)。「この特異でダイナミックな状態」=フローを「遊び」と関連付けて、まさに今/ここで愉しいと感じている時に人はフローを経験し、それは深い喜びを伴う、というのが前号(no.78)特集「遊び/愉しみのコミュニケーション」の一つの結論でした。今号では、愉しみ=喜びを感じている「フロー」を身体の内在的な経験として、主に「祝祭」という観点から改めて問い直してみたいと思います。
 祝祭とは、その字のごとく祝い・祭りのことですが、ここでは祝祭に典型的に現れる「カーニヴァル性」に拘泥しつつ、一時的に出現する身体の特殊な様態、位相、圏域を取り上げます。
 カーニヴァルとは、イースター(復活祭)の前の四○日間(四旬節)に先立つ行事=謝肉祭のことで、肉を断ち、懺悔を行う前に、飽食にあけくれ、どんちゃん騒ぎにうつつをぬかすことを言います(2)。ヨーロッパの農事暦に関わる冬から春にかけての季節祭にその源流を求めることができますが、中世の時代に仮装行列や見世物を伴う民衆的な祝祭に変貌しました。ラテンアメリカ諸国ではそれにアフロ文化の伝統が合体し、ブラジルのリオのカーニヴァルやトリニダード・トバゴのカーニヴァル、コロンビアのバランキアに見られるように、死と再生の祭礼という意味合いを強くもつ祝祭へと発展、進化していきました(3)。
 よく知られているようにロシアの文芸評論家ミハイル・バフチンは『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』において、カーニヴァル性について詳細な考察を行っています。バフチンはその中で、カーニヴァルとは、さまざまな祝祭、儀式、様式の総称であり、「自由で無遠慮な人間同士の接触」「常軌の逸脱」「ちぐはぐな組み合わせ」「卑俗化」という四つのカテゴリーが存在し、人々はそれらを組み合わせながら、ある限定された時間・空間を生きるもの、と定義しました。もっとも、バフチンの関心は、カーニヴァルそのものではなく、むしろカーニヴァルに生き続けている特異な身体性にありました。道化芝居やサーカスという形態に残り続けることになるある種のグロテスク、価値転倒のイデア、飽食の賛美、快楽への陶酔。バフチンは、そこに民俗性に根ざした自発的・即興的な身体性を発見し、カーニヴァルこそそうした身体性が最も発揮される場、「祝祭のトポス」であると分析したのでした。
 今日、バフチンの発見した祝祭のトポス、自発的で即興的な創造性があふれる身体はどこにあるのでしょうか。もとより、今述べたカーニヴァルには、たとえそれが消費社会の中で換骨奪胎されたとしても、バフチン的身体というものは未だ健在です。しかし、私たちはあえてそうした身体性を現代のスポーツの中に探り出そうと思います。
 自らを限界ぎりぎりまで追い込み、また、驚異的なスキルによって肉体の極限を表現するアスリートたち。彼らの競技、演技もさることながら、それを見る観客たちの参加でスタジアムは熱狂と歓喜の渦に包み込まれます。スタジアムの中は、アスリート、スタッフ、観客が一体となった非日常的な空間です。それはもはや一個の「スポーツする身体」(4)といっても過言ではないでしょう。今福龍太氏はカーニヴァルから本来のカーニヴァル性=カーニヴァレスクが失われて久しいと嘆いています(5)。しかし、私たちはそのカーニヴァレスクが、スタジアムの中に出現していることを確認するのです。祝祭のトポスとしてのカーニヴァレスク的感性は、「スポーツする身体」として復活ののろしをあげているといえるのかもしれません。

祝祭の起源としてのスポーツ

 そんなわけで、オリンピックなどのメガ・スポーツ競技を現代の祝祭の最も世俗化した形態とみなすことは、それほど突飛なことではないでしょう。数週間の間、世界中を熱狂させるこの世界最大のスポーツ・イベントこそ、国境を越えて存在する二一世紀の祝祭のトポスなのです。
 スポーツそのものがこの半世紀の間に大きく変わりました。とりわけオリンピックは、その規模、内容、質ともに驚異的な変貌を遂げたといえます。二○○四年のアテネ五輪は、約一万一○○○人の競技者によって二八競技三○一種目が行われ、チケット販売数は三六○万枚、テレビ視聴者数は全世界で延べ三九億人に上り、二○○○年のシドニー五輪の三六億人を超えて史上最多だったと報告されています。また、サッカーワールドカップもその巨大さでは、オリンピックをはるかに凌ぎます。二○○六年のサッカーワールドカップドイツ大会の観客動員数は三三○万人、テレビ観戦者数は、延べ約三○○億人だったといわれています(6)。オリンピックとサッカーワールドカップは、まさしく世界中の国民を取り込み熱狂させるビッグ・イベント、現代の祝祭空間だということに異論はないでしょう。
 近代オリンピック競技の起源とされる「オリュンピア祭」は、紀元前七七六年に再興され、紀元後三九三年まで一一○○年以上もの間、神々に捧げる祭典として民衆に支持されてきたものです。ギリシアがローマの属州となり、宗教もキリスト教に変わっていきましたが、その当初はゼウスの神殿を祀るオリュンピアの聖域の中で行われる純粋な「神事儀礼」でした。すなわち、「古代ギリシアの神話的コスモロジーのもとで、主神ゼウスを中心とする多くの神々に捧げられた神事儀礼として行われてきたのがオリンピック競技だった」(7)のです。
 ですから、いわゆる競争などの競技種目の他に、即興で詩をつくったり、演奏や歌なども含まれていて、肉体的な力を競うだけではない総合的な祝祭として捉えられていました(8)。スポーツは、そうした総合的な競技祭の一つとして進化してきたといえるわけで、その意味でもスポーツはその起源から祝祭を形づける重要な要素であったのです。

「スポーツ行動」論はスポーツを記述できるか

 ところで、スポーツを議論する場合に、日常用語としてスポーツの具体的な行動場面やプレー状況を指す言葉としては、「スポーツ活動」が用いられていましたが、近年のスポーツを対象とした人類学的、あるいは社会学的な研究レベルにおいては、「〈文化としてのスポーツ〉に関する理論構築を企図した〈スポーツ行動〉という用語がよく用いられる」(9)といいます。それは、スポーツを社会的・文化的により意義のあるものとして捉えたいという志向、また、単なる個人的・孤立的現象としてスポーツは存在しないという方法論上の問題、さらには、文化人類学などの文化理論によって基礎付けられた「文化としてのスポーツ」を、哲学、心理学といった精神文化の一つとしてみなしたい、といった思惑が働いているからです。つまり、「スポーツ活動」といった言葉からは、その背後にある社会的、文化的文脈、言い換えればスポーツを成り立たせているディスクールまで読み取るのは困難であるし、そもそも「スポーツ活動」論自体が、機能主義的、機械論的人間観に強く拘束されて生まれてきたという背景があるからです。そうした「スポーツ活動」論の限界を見きわめたうえで、スポーツが成立する文化の枠組みを視野に入れながら、スポーツ自体の存立基盤を問う。そういう理論的構築を目指して「スポーツ行動」という概念枠が提示されたのです。
 「スポーツ行動」という視点に立ってスポーツ文化を掘り下げてみる。スポーツ医学を筆頭にスポーツ社会学、広義のスポーツ文化論は、「スポーツ行動」論を意識しつつも、結果的には「スポーツ活動」への言及に終始し、「スポーツ行動」がまさにその中心課題とする「精神文化」へまでは及んでいない、確かにそうした批判もあるでしょう。一方、「スポーツ行動」という視点でみると、社会的・文化的体系の基盤にある「相互行為」という一面が見えてくることも確かです。相互行為に注目すると、これまでとかくアスリート個人に還元しがちな狭義のスポーツ観を相対化することが可能になります。それは、「スポーツ活動」論では捉えにくい身体性の問題があぶり出されてくることを意味します。とはいえ、そこで捉えられた身体の「行為」が、どのような機能と特徴をもち、どのようなメカニズムで作動しているのか、その実態解明にまでは手が届いていません。スポーツの「精神文化」に切り込むためには、「スポーツ行動」の行為者(アスリートだけでなくスポーツに関わる人々すべて)の内的体験を記述しうる理論が必要なのです。スタジアムの中のスポーツする身体は、いったい何をやっているのか。この「行為」そのもののありようを言葉にすることができないところに、「スポーツ活動」論の限界がありました。
 「フロー理論」は、まさにその限界を乗り越える理論装置として登場しました。「フロー」という概念がこれまでのスポーツの記述言語と大きく異なる点は、この「行為」そのものへの眼差しにあります。「行為」自体をまるごと受け入れ、その「行為」の連続体として身体を捉え直すこと。身体が「行為」する連続体とみなすところに「フロー理論」の大きな特徴があります。そして「フロー理論」が一種の現象学でもあるというゆえんもここにあります。「フロー」は、今日の「スポーツ行動」論の欠落部分を埋め、「スポーツ行動」論を「スポーツする身体」の学へ、すなわち、精神文化へと導く強力な概念であることを確認しておきましょう。


フロー体験とスポーツ

 チクセントミハイは、人間の行動のうちに常識と相いれない行動が存在することに注目し、それを「自己目的的」(オートテリック)な行動と名付けました。私たちは、日常生活においてきわめて功利的な原則に従って行動しています。そのような行動では、行動の目的が当の本人に自覚されているだけではなく、その目的に適合する手段も選択されているとチクセントミハイは言います(10)。
 たとえば、出勤するために電車に乗るとしましょう。なぜ私たちは電車に乗るのか。それは、労力を最小にするために、それに見合ったモビリティを選択し、その結果ある路線(電車)が選ばれる。日常生活とは、すべからくこうした行動の連鎖から成り立っています。そして、そのことを私たちはほとんどの場合、疑問にすら感じていないのです。日常性とは、こうした行動の連鎖、行為の連続として存在します。別言すれば、行動の連鎖、行為の連続体が、私たちの日常というものであり、生活という実態なのです。
 ところが不思議なことに、こうした行動の連鎖に相反する行動が存在するのです。それらの行動にあっては、「目的-手段」という合理的な関係を逸脱していて、そのような枠組みでは捉えることができないといいます。「コストとベネフィットのバランスを考慮に入れる限りつりあうはずがない。ロック・クライミングに代表される一連の行動は功利的原則を超えた、活動それ自体を目的にする行動と考えられる」(11)。そして、スポーツこそこのような行動の典型であるというのです。
 スポーツとは、本質的に「遊び」の特徴をもっていて、実生活においてはなんの利益にも貢献しない身体的な能力の優越性を競うという、きわめて不可解な行動をいいます。スポーツにおける優劣は、日常生活に関わるあらゆる価値観とは全く無縁であり、そうであるがゆえに、無類の面白さを私たちにもたらすのです。「役にはたたないが、ないとさびしいもの」(岡田美智男/『談』no.78インタビュー)の典型、ホイジンガやカイヨワが「遊び」に見出した「無為の行為」の最もティピカルなモデルを、私たちはスポーツに発見できるのです。

「スポーツする身体」の逆説

 「〈フロー〉と呼ばれる楽しさや喜びの感情は、行為に伴う意識の内容であるが、行為は刺激に対する反応と考えられることもでき(行為の「刺激-反応」図式と呼ばれる)、また目標を達成するための手段の選択と操作の過程とみることもでき(行為の「目標-手段」図式と呼ばれる)、さらには行為主体(人間)と行為客体(環境)との相互作用とみることもできる(行為の「主体-客体」図式と呼ばれる)。フロー理論は、これらの三種の図式すべてを含んでいる」。「フロー理論はその出自自体が〈行為の理論〉なのである」(12)。
 「行為」の連鎖、連続が身体の日常性を示しているとすれば、それと全く反対の「無為の行為」が遊びであり、スポーツはその一つの現れだとチクセントミハイは言いました。そして、「行為」の連鎖であれ「無為の行為」の連鎖であれ、その経験を「フロー」として感じとっている時、それは「刺激-反応」、「目標-手段」、「主体-客体」といった二極間の一種の情報のやりとりとみることができるというのが、「フロー理論」のもう一つの特徴ではないか、と言うのです。
 「フロー理論」を一つの情報論的システム理論としてみる。前号で小川純生氏は「情報負荷をシンプル化させたり、複雑化させたりすることによって、個人は、個人の最適情報負荷を求めている」(13)と言い、その最適情報負荷の維持が長ければ長いほど、面白さは持続すると言いました。その文脈で捉えるならば、「フロー」とは、情報負荷状態を最適に保つためのコントロールでありかつその結果として得られるものということになります。
 情報論的システム理論を粗く解釈すれば、情報負荷状態がとにかく最適に維持されていれば、その当事者に「フロー」がもたらされることになります。ところが、ことはそう単純にはいきません。なぜならば、それがシステムである以上、そこにフィードバックが掛かってくるからです。チクセントミハイ自身もそのことには非常に慎重で、「フロー」を構成する条件の一つに、この「フィードバック」を挙げて、「フィードフォワードとフィードバックの過程が明瞭かつ滑らかに循環するならば、そこにフィードフォワードとフィードバックが連続するフロー・ループが生まれる」(14)と言っています。
 問題を整理してみましょう。「フロー」は、果たして、「目的-手段」的合理性を逸脱した時に得られる、いわば超日常的な状態なのか。それとも、全く逆に、合理性が敏速にかつ徹底化された時にも得られるものなのか。つまり、日常と非日常のどちらにおいて、より多くの「フロー」が得られるのか。
 「(祭りのような)集合的沸騰の経験は個人を単に現実の集団的抑圧から解放するカオス的儀礼に内在する心理的解放のみを意味しているわけではない。祭礼の乱痴気騒ぎやカーニバルにみられるような、俗なる構造から区別される未分化な平等性を実現する局面=コミュニタス(communitas)は、〈生理的に継承された衝動が文化的抑制から解放されてつくる単なる所産ではない。むしろそれは、合理的、決断力、記憶力など社会での生活経験と共に発達する人間に特有な能力の所産〉(15)なのである。つまり、ここでのカオスは、確かに集団的秩序に対立するが、それは「個人を集団から解放することによって集団以前の状態に引き戻すのではなく、むしろ集団以後の状態--集団的な経験へと連れ出すもの(16)」(17)である。
 祝祭としての身体、その内的体験へ入っていくためには、まずこの問いに目鼻をつけておかなければなりません。

 チクセントミハイのこの議論を念頭におきながら、今号では三つの方向から「フロー」経験、生きる身体について考えます。
 まず、第一にスポーツ観戦における熱狂について。筑波大学大学院人間総合科学研究科准教授でスポーツ社会学がご専攻の清水諭氏にお尋ねします。身体の文化的社会的な構築について、権力編成のメカニズムからご研究をされている清水諭氏は、とりわけスポーツというカルチャーの表象に関心をもっておられます。アスリートが自らつくりだし、さらには、スポーツ観戦する観客を巻き込む「熱狂」について、ズバリ「祝祭する身体」という視点から掘り下げてもらいます。
 「スポーツする身体」とは何か。じつは、この命題は、日本体育大学大学院スポーツ文科系教授・稲垣正浩氏のご著書から拝借したものです。稲垣氏は、身体の知の体系として「スポーツ学」の必要性を説き、それは「スポーツする身体」というテーマに収束すると述べておられます。
 トップアスリートたちのほとんどが体験するという「私の身体が私の身体であって私の身体ではなくなる」瞬間。それは、バタイユの言うエクスターズ(extase)、あるいは禅僧が座禅を通して得る「恍惚」と同じものではないかと稲垣氏は言います。夢中になってスポーツをしている時、私の身体は外部へと開かれているはずです。しかし、それは同時に暴力というものを招き入れる場に身を晒すことでもあるのです。スポーツとはもしかすると暴力ではないか。あるいは、暴力こそスポーツの源泉ではないか。暴力という概念をその根源にまで遡って問い質すこと。稲垣正浩氏にスポーツの中に内在する暴力についてお聞きします。
 暴力は、祝祭とも深い関係をもっています。現代の祝祭空間には、暴力が渦巻いている。弘前大学教育学部准教授で写真家でもある冨田晃氏は、トリニダード・トバゴで生まれたスティールパンとカーニヴァルという二つの文化装置を手掛かりに、トリニダード・トバゴの黒人社会に切り込みました。そこで、目にしたものは、一見正反対と思われてきた祭りと暴力が同居する現実です。暴力への欲望を内包しながら快楽へと昇華する「祝祭」。まさに、そこにあるのは身体の二重性ではないか。カーニヴァルという切り口から、改めて身体の祝祭性について考察します。  (佐藤真)



引用・参考文献
(1) M・チクセントミハイ『楽しみの社会学』今村浩明訳、新思索社、2000
(2) 中牧弘允「序」中牧弘允編『陶酔する文化 中南米の宗教と社会』平凡社、1992
(3) 冨田晃『祝祭と暴力 スティールパンとカーニヴァルの文化政治』二宮書店、2005
(4),(7) 稲垣正浩『〈スポーツする身体〉を考える』叢文社、2005
(5) 今福龍太「カーニヴァルとカーニヴァレスク」『陶酔する文化』所収、平凡社、1992
(6) 高橋豪仁「メガ・イベントの諸問題」『現代スポーツのパースペクティブ』菊幸一他編著、大修館書店、2006
(8) 楠見千鶴子『ギリシアの古代オリンピック』講談社、2004
(9),(17) 菊幸一「スポーツ行動としてのフロー理論の可能性」『フロー理論の展開』今村浩明、浅川希洋志編、世界思想社、2003
(10),(11) 亀山佳明「フロー経験と身心合一」『フロー理論の展開』今村浩明、浅川希洋志編、世界思想社、2003
(12),(14) 今村浩明「フロー理論のこれから」『フロー理論の展開』今村浩明、浅川希洋志編、世界思想社、2003
(13) 小川純生「面白さに関わる直前情報の影響-遊び概念と情報負荷-」2006
(15) V・ターナー『儀礼の過程』冨倉光雄訳、思索社、1976
(16) 上野千鶴子『構造主義の冒険』勁草書房、1985

 

 

editor's note[after]

生と死、その非合理なるもの

スポーツする身体の政治性

 遊びそのものが祝祭と切っては切れない関係にあるならば、その遊びを起源とするスポーツもまた祝祭といっていいでしょう。そして、スポーツ競技が行われるスタジアムは、現代における祝祭の空間ということになります。祝祭を一つの契機として、日常とは異なる非日常の空間をつくり出します。そこでは、あらゆることが転倒させられたり否定されたりということがしばしば起こります。祝祭が政治性をもつのは、まさにこのように既成の価値観がひっくり返されるようなことが発生するからなのです。アスリートのパフォーマンスを凝視し、場面によっては激烈にそのアスリートにアイデンティファイする観客。自分の内面に潜んでいたナショナリティ、ローカリティといった民族感情や、ジェンダー、セクシュアリティといった性意識が、声を張り上げて応援するのと同期するように噴出する。そういう瞬間を、スタジアムへ一度でも足を運んだことのある人ならば必ず経験するはずです。私たちはスタジアムという祝祭の空間で、アスリートと一体化するのです。そこに出現するのは、まさしく「スポーツする身体」です。
 清水諭氏は、スポーツを観ること、あるいはファンであることが、すでに政治的な行為だとしたうえで、そこに身体と権力編成のアクチュアルな実践を見出します。
 「私たちの身体とその文化は、アクチュアルな身体の実践とビジュアル化されたカルチャー(映像と物語)との混淆、およびその記憶化を踏まえて、どのような意味を社会的に付与され、獲得してきたのだろうか。つまり、身体とその文化を拠り所にして、どのような権力編成と作用のプロセスが生起してきたのか。そもそもスポーツとは、同時代のこうした力関係のなかで生み出され、さまざまな力の作用を複雑かつ重層的に内包しながら、生成変化してきたのではないか。
 このようにスポーツを問い直すことこそが、身体とその文化をめぐる権力編成のプロセスをアクチュアルな身体の実践とビジュアル化されたカルチャーとの混淆、およびその記憶化を踏まえながら、明らかにすることになるのだ」(1)。
 しかし、だからといってアスリートにアイデンティファイすることが、そのままナショナリストの身体へと生成変化するというものではありません。その過程では、さまざまな力が作動し、だからこそそれ自体を身体との権力編成とみるわけです。スタジアムはショートカットの場所ではなく、むしろ諸力が絡み合いながら拮抗し融合する、一種の力のネットワークと捉えた方が正確だろうと思われます。
 その諸力の編成に深く介在するのがコマーシャリズムであり、メディア産業です。スポーツの祝祭性をむしろ極端なまで増幅しているのはメディア産業です。メディアはスポーツを「文化産業へと練り上げていく。文化産業がスポーツのもっている力を飲み込みながらグローバル化し、さまざまに形を変えて、ある時はローカリズムとして、あるいはナショナリズムという姿で現れると。文化産業化が著しく進行、拡大したことによって、政治的な意味そのものも変容している」というわけです。祝祭としてのスポーツが単純な二項図式に陥ることがないのは、文化産業化が著しく進んだためだとしたら、なんとも皮肉なことだといわざるを得ません。アスリートにアイデンティファイしていたはずが、気がつくとナショナリズムやローカリズムにアイデンティファイしていた。しかし、それも決して長くは続かず、再びアスリートに、チームへと心酔していく。その終わりなき循環こそ、自分の内部=「スポーツする身体」で起こっていることなのです。
 「民族、人種、ナショナリティを強烈に意識化させるのがスポーツだとすれば、そうした差異や境界を越えていくような新たな意識を生み出すのもまたスポーツに他ならない」。つまり、「境界線を引くのも、またそれを越えていく力を生み出すのも同じスポーツ」なのです。スポーツとは政治そのものであると同時に、その政治をも越えていくようなトポロジカルな平面だと考えるべきでしょう。

即興、偶発、祝祭

 とはいえ、スポーツの魅力はやはりアスリートの身体が生み出すパフォーマンスにあることは言うまでもありません。「スポーツは日常では考えられない身振りやフォーム、すなわち身体技法が現れるものです」。この身体のパフォーマンスを通じて「日常的には考えられない解釈と思考が出現」し、そのことがひいては私たちを非日常的世界へと向かわせるのです。
 「身体の奥底にある理性では捉えることのできない未知の力のようなもの。即興的、偶発的な身体そのものを、われわれは目撃するわけです。私たちが普段知っている身体が、その瞬間全く別のものに変容する。身体とはかくも美しく、またその内部には理詰めでは決して到達できないような何かがある」。清水氏が言うように、それはまさに「言説を越えて存在する身体性が、われわれの前にガーンと差し出されるという感じ」なのでしょう。理性を押しのけて噴出する非理性としての「力」。アスリートたちの一瞬の身体技芸を見てしまった時、私の身体は間違いなくその技芸に陶酔しきっているのです。
 この陶酔の感覚こそ、チクセントミハイの「フロー」と共通するものです。「全人的に行為に没入しているときに感じる包括的感覚」である「フロー」が、この時は理性に抗うように身体を貫いていく。そして、それは融解体験を私たちにもたらすのです。融解体験とは、自己と外界を隔てている境界が喪失し、自己と外界とが浸透し合う体験を言います。非理性的位相に立たされると、私たちは、個が周囲の世界や対象と溶け合い一体化し、自らを全体的なものとして感じるようになる。それが「フロー」にシフトした瞬間です。さらに興味深いことが起こります。「スポーツの試合で観客が身振りや声を合わせて集合的な応援を行う時、いわばその集団が一つの身体となっており、意識は個人の身体の水準から集団の水準まで拡大されている。この集団の範囲は、地球、国家、民族、などであり、スポーツの応援で得られる一体感によって、自分の属する集団の範囲が意識化される」(2)というのです。清水氏の言う回路とは、おそらく「フロー体験」を共有する時に発生する非理性の力ではないでしょうか。そしてその回路がつながった時に、身体はスタジアム全体に、すなわち「スポーツする身体」へと拡張するのでしょう。
 清水氏の発言でもう一つ気になったのが「愉しみを基盤とする集合」という言葉です。「スポーツする身体」の回路を通して、感情、情動による共同体が生まれつつあるというのです。利害関係でもなく地縁関係とも異なる新たな集合体。あえていえば、祝祭的な要素を強くもつ愉しみを基盤にしたつながり。『談』no.76特集「情動回路」で浅野俊哉氏は、スピノザの哲学に触れて、スピノザは「人間の理性は情動・感情の前に無力であり、社会は情動の相互作用で成り立つ」と確信していたと言いました(3)。そして、社会機構の一切は情動ないし欲望を配分する装置として存在するとスピノザは考えていたというのです。スピノザは、情動・感情に政治なるものを、さらに言えば「喜びの政治学」を見ていたというわけです。
 清水氏のいう「新たな集合体」を、この「喜びの政治学」に関連付けてみると、スポーツのもつ政治性がじつはこの「愉しみ」の問題とむしろ強い関係性をもっていることが見えてくるのです。スピノザにとっての「喜び」の源泉は「コナトゥス(conatus)」です。浅野氏によれば、コナトゥスは活動力であり、自存力だといいます。すなわち、端的にそれは「力」なのです。喜びを十全に実現することが、つまり、「力」を発揮することが、イコール「コナトゥス」だということになります。スポーツが政治である理由は何もその言説性、物語性、あるいはパフォーマンスにあるだけではありません。もともとスポーツというもの自体が、「コナトゥス」として、より正確に言えば「コナトゥス」の実現としてあるからなのです。スポーツにおける政治性と情動・感情の共同体というのは、「コナトゥス」という概念を軸におくと、コインの裏表の関係になるのです。

スポーツの根源にあるもの

 スポーツと暴力の関係について。清水諭氏もインタビューの前半でそのことについて触れていました。「分類と排除が強烈な形で現れるのがスポーツです。それは暴力ですらあると言えます。身体と身体が激しくぶつかり合うという暴力性が興奮を呼び熱狂を生むとすれば、それはまた政治的な暴力への陶酔でもあるのです」。
 暴力とは何か、そして、何よりも、スポーツの根源にあるものは、暴力ではないか。稲垣正浩氏のインタビューは、スポーツとは暴力であるという仮説から始まりました。まず暴力という概念について、暴力論の古典ソレルの『暴力論』とベンヤミンの『暴力批判論』を引きながら、それが日本語の「暴力」から受けるイメージとは違って、むしろきわめて肯定的な意味をもっていることが明らかにされました。簡単に言ってしまうと、「人間を人間たらしめている一番根源的な情熱」がソレルの言うバイオレンスなのです。一方ベンヤミンは、暴力は法と正義の関係を描くことであり、法秩序にとって暴力は手段であると言います。ここから実定法と自然法の関係を見て暴力を再定義し、それを歴史哲学あるいは倫理の問題として解き明かしていきます。そこから得られる結論は、ソレルのそれとほぼ重なるように、暴力は両義性をもっているということでした。
 稲垣氏にとってなぜ暴力が問題なのでしょうか。稲垣氏は、一貫して近代スポーツが拠り所としている近代論理を批判し続けてきました。稲垣氏の論旨を整理しておきましょう。
 近代論理とは、一言で言えば理性中心主義の考え方です。理性中心主義とは、「理性によってコントロールされる人間を理想としてかかげ、本能や情動や衝動というものを封じ込む(抑圧・排除する)ことをもって良しとする」(4)考え方です。そして、この近代論理=理性中心主義に基づいて近代社会の制度や法律や組織が構築されてきたのです。近代スポーツは、まさしくこの近代論理と足並みを揃える形で生まれたスポーツ文化でした。この近代のスポーツ文化が、では何をやったかというと、その理性中心主義を最優先することで、徹底的に「暴力」を排除してきたのです。その象徴が「ルール」です。「ルール」は新たな「暴力」装置となって、本来暴力と見なされていなかったものを暴力に仕立て上げ、スポーツの中から排除してしまった。たとえば、サッカーワールドカップドイツ大会での「ジダンの頭突き」(じつは、あれこそサッカー史上最も美しいヘディングだった)。あれを「頭突き」と見なし、彼をピッチから追い出してしまった。これこそ現代の「ルール」が、暴力装置以外の何ものでもないことを象徴する事件でした。
 ヨーロッパ近代は、「自由競争」の理念を第一優先として実行に移した時代です。この考え方がスポーツの世界にももち込まれ、いわゆる「競争原理」を加熱させ、過剰に機能してしまった。その行き着く先が「優勝劣敗主義」です。近代スポーツとは、まさしくこの「優勝劣敗主義」を根幹にして発展してきたもので、この論理は「戦争」の論理とぴったり重なります。
 もう一つヨーロッパ近代の文化が推し進めたものに「他者否定」があります。というよりも、「文化」そのものが自然を否定し、他者否定することによって成立しているのです。この「他者否定」の論理は、言うまでもなく「優勝劣敗主義」と連動するし、この論理は最終的には戦争を肯定する考え方に通底していきます。
 ヨーロッパ近代は、身体においても徹底的に理性中心主義を押し通しました。理性によってコントロールされる「身体」とは、別言すれば「自己完結する身体」のことです。すなわち、「閉じられた身体」です。「自己完結」した、他者の口出しを許さない身体、これがヨーロッパ近代の求めた「主体的」な身体だったのです。
 「近代スポーツ」とは、こうしたヨーロッパ近代をベースにしてつくりあげられてきたものなのです。その結果、今日のスポーツ文化は、非常に偏ったものになってしまった。稲垣氏はそこで、改めてスポーツの始原に立ち返ろうと提言します。ヨーロッパ近代の理性中心主義の限界を暴き、「競争原理」から「共生の原理」へ、「他者否定」から「他者肯定」へ、そして「閉じられた身体」から「開かれた身体」へと、私たちの思考を転換すること。稲垣氏は、その一つの手掛かりを暴力に見出すのです。人間存在そのものがすでに「暴力」であるとすれば、スポーツの始原にもこの暴力が存在するはずです。スポーツに内在する暴力に気付き、スポーツの暴力について思考することが、ひるがえって人間について、また身体について考えることにつながるというわけです。

「したたかな健全さ」としての身体

 カーニヴァル、あるいは祝祭においても暴力はつきものです。ただ、暴力のもつ意味合いは、根本的に異なります。祝祭における暴力は、より大きな暴力に対する対抗手段としてつくりあげられてきたという側面をもっています。それは自らの「生」を全うするための手段であり、祝祭という戦術の道具立ての一つにすぎません。
 より強固で、より巨大な世界システムの、グローバリゼーションという暴力。その不可視の暴力に抗するために、民衆はカーニヴァルという方法を使って、一時的に社会に揺さぶりをかける。騒音や派手な装飾と共に強烈なリズム、トランシーな踊り、卑猥で常軌を逸した言動、それらがカオスのごとく渦巻く喧騒にあって、暴力もその有効な装置として機能させているというわけです。言うまでもなく、祝祭か暴力かという二分法は意味をもちません。祝祭であろうが暴力であろうが、「生」を昂揚させる激烈な「力」のみが求められているわけですから。そもそも、祝祭はその端緒から非合理なものの代表として人々に認知されてきました。問われているのは単純に「力」であり、人をいかに陶酔させられるかという「想像力」です。
 冨田晃氏は、インタビューの中で次のように言います。「カーニヴァルや祭りは非合理がその本質です。合理/非合理のバランスがとれている社会では、カーニヴァルや祭りも重要な意味をもってくるわけですが、合理性が勝る社会では、非合理の出る幕はありません。そして、合理が勝る世界では、生きることも、あまり意味がないのです」。「生きるべくして死ぬか、死んだように生きていくか、そのどちらか」しかないとしたら、とりあえず「そのあいまいさの中で生きていく他ない」。そうであれば、むしろその非合理性に賭けてみる。それを可能にするものが「想像力」であり、「力」なのではないでしょうか。
 その時に基準となるのが身体なのです。「身体感覚というのは基本」であるけれども、それは「合理性一辺倒ではどうにもならない」ものです。「しかし、人はいつかは死ぬというどうしようもない事実にそれは直結しているので、一見非合理に見えても、本質をちゃんと突いている」のです。生きるべくして死ぬか、死んだように生きていくか、そのあいまいさの中で生きる他ないとしたら、「それを自覚的に生きていくこと、それをぼくは〈したたかな健全さ〉と呼んでいます」。

 「祝祭する身体」を「スポーツする身体」、またその根源にある暴力との関係から考察してきました。どうやら、そこで明らかになってきたことは、身体そのものが誕生から死へと向かう過程において、常に「合理/非合理」が揺れ動く「あいまいさ」の中に置かれているという事実です。改めてチクセントミハイの問いを思い出してみましょう。最適な「フロー」が得られるのは、合理性を逸脱した超日常的な状態(=非合理)なのか、合理性が徹底化された状態なのか。残念ながらその明確な答えを得ることはできませんでした。しかし、確実に言えることは、身体があるということです。生きる身体がそこにあるという決定的な事実を前提にして、その身体の力能にまかせて生きること。身体の可能性に賭けながら、同時に身体こそが越えられない最後の砦であることを、私たちは深いレベルで自覚することです。それは、陶酔の中に暴力性を発見することであり、逆に暴力の中に陶酔を見出すことでもあるのです。私たちは、まさにそのトポロジカルな平面に、「祝祭する身体」のありようを発見するのです。(佐藤真)


引用・参考文献
(1) 清水 諭「スポーツを問い直す」『現代スポーツのパースペクティブ』菊幸一他編著、大修館書店、2006
(2) 高橋豪仁「メガ・イベントの諸問題」『現代スポーツのパースペクティブ』菊幸一他編著、大修館書店、2006
(3) 浅野俊哉「〈喜び〉とアソシエーションの理論……スピノザの情動、触発、コナトゥス」『談』no.76特集「情動回路」、TASC、2006
(4) 稲垣正浩「ニュースポーツとはなにか」日本体育大学大学院体育科学研究科スポーツ文化・社会科学系 稲垣研究室 紀要、第七号、2006
 
 
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フロー、陶酔、カーニヴァレスク
祝祭と暴力 スティールパンとカーニヴァルの文化政治 冨田晃 二宮書店 2005
フロー理論の展開 M・チクセントミハイ 今村浩明・浅川希洋志編 世界思想社 2003
熱帯の祭りと宴 石橋純 つげ書房新社 2002
アンデス奇祭紀行 鈴木智子 青弓社 2002
南仏ロマンの謝肉祭(カルナヴァル) 叛乱の想像力 エマニュエル・ル・ロワ・ラデュル 蔵持不三也訳 ありな書房 2002
楽しみの社会学 改題新装版 M・チクセントミハイ 今村浩明訳 新思索社 2000
フロー体験 喜びの現象学 M・チクセントミハイ 今村浩明訳 世界思想社 1996
エロチシズム G・バタイユ 坂井健訳 ちくま学芸文庫 1996 
フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化 M・バフチン 川端香男里訳 せりか書房 1995
天使のささやき 宗教・陶酔・不思議の研究 植島啓司 人文書院 1993
陶酔する文化 中牧弘允編 中南米の宗教と社会 平凡社 1992
陶酔論 W・ベンヤミン 飯吉光夫訳 晶文社 1992 
祝祭の構図 ブリューゲル・カルナヴァル・民衆文化 エマニュエル・ル・ロワ・ラデュル 蔵持不三也訳 ありな書房 1984

◎ スポーツ・スタディーズ
現代スポーツのパースペクティブ 清水諭他編著 大修館書店 2006
越境するスポーツ グローバリゼーションとローカリティ 高津勝他編 創文企画 2006
イギリス文学の中にスポーツ文化を読む 稲垣正浩 叢文社 2006
近代スポーツ文化とはなにか 西山哲郎 世界思想社 2006
女子マネージャーの誕生とメディア スポーツ文化におけるジェンダー形成 高井昌吏 ミネルヴァ書房 2005
オリンピックスタディーズ 複数の経験・複数の政治 清水諭編 せりか書房 2004
スポーツ倫理を問う 友添秀則他著 大修館書店 2000
スポーツ文化を学ぶ人のために 井上俊他著 世界思想社 1999
甲子園野球のアルケオロジー スポーツの「物語」・メディア・身体文化 清水諭 新評論 1998
スポーツの汀 今福龍太 紀伊国屋書店 1997
スポーツ文化の変容 多様化と画一化の文化秩序 杉本厚夫 世界思想社 1995
空から女が降ってくる スポーツ文化の誕生 富山太佳夫 岩波書店 1993

◎ 「スポーツする身体」
紀要 IPHIGENEIA 1〜7 日本体育大学大学院体育科学研究科スポーツ文化・社会科学系 稲垣研究室 〜2007
雑誌 スポーツ評論 1〜16 中村敏雄責任編集 創文企画 〜2007
身体論 スポーツ学的アプローチ 稲垣正浩 叢文社 2006 
〈スポーツする身体〉を考える 稲垣正浩 叢文社 2002
スポーツ文化の〈現在〉を探る 稲垣正浩編著 叢文社 2002
身体文化のイマジネーション デンマークにおける「身体の知」 H・アイヒベルク 清水諭訳 新評論 1997
フットボールの新世紀 美と快楽の身体 今福龍太 廣済堂出版 2001

◎ 脱自・他者・暴力
バタイユの迷宮 吉田裕 書肆山田 2007
真理の帝国 産業的ドグマ空間入門 P・ルジャンドル 西谷修他訳 人文書院 2006
カネと暴力の系譜学 萱野稔人 河出書房新社 2006
実存から実存者へ E・レヴィナス 西谷修訳 ちくま学芸文庫 2005
バタイユ入門 坂井健 ちくま新書 2004
暴力の哲学 酒井隆史 河出書房新社 2004
ドグマ人類学総説 西洋のドグマ的諸問題 P・ルジャンドル 嘉戸一将他訳 平凡社 2003
無為の共同体 哲学を問い直す分有の思考 J=L・ナンシー 西谷修訳 以文社 2001
非-知 閉じざる思考 新訂増補 G・バタイユ 西谷修訳 平凡社ライブラリー 1999
レヴィナス・コレクション E・レヴィナス 合田正人訳 ちくま学芸文庫 1999
内的体験 無神学大全 G・バタイユ 出口裕弘訳 平凡社ライブラリー 1998 
明かしえぬ共同体 M・ブランショ 西谷修訳 ちくま学芸文庫 1997
共同-体(コルプス) J=L・ナンシー 大西雅一朗訳 松籟社 1996
暴力批判論 他十篇 W・ベンヤミン 野村修編訳 岩波文庫 1994
人間と聖なるもの R・カイヨワ 塚原史他訳 せりか書房 1994
ニーチェについて G・バタイユ 坂井健訳 現代思潮社 1992
暴力論 上下 G・ソレル 木下半治訳 岩波文庫 1965(第3刷改版発行)