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[最新号]談 no.81 WEB版
 
特集:〈共に在る〉哲学
 
表紙:勝本みつる 本文ポートレイト撮影:新井卓
   
   
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どのように〈共に在る〉のか……双対図式から見た「共在感覚」

木村大治 Daiji Kimura

「共存」とか「共生」という言葉は、かなり理想化されています。そういう美しいコミュニケーションもあるけれど、人と人が一緒にいる限り、いがみ合いもすれば、無視し合うこともある。そういう関係も含んだうえでの「一緒にいる」という感覚。それぞれの人たちの、それぞれのコミュニケーションの形があるはずで、それを、共存、共生とは別に「共在」と呼んだのです。

きむら・だいじ
1960年愛媛県生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科准教授。人類学専攻。著書に、『共在感覚--アフリカの二つの社会における言語的相互行為から』京都大学学術出版会、2003、主要論文に、「フィールドにおける会話データの収録と分析」『講座・社会言語科学 第6巻 方法』所収、ひつじ書房、2006、「道具性の起源」『人間性の起源と進化』所収、昭和堂、2003、他。
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病いが形づくられる時、ケアは共に始まっている

西村ユミ Yumi Nishimura
何かをする前にからだが緊張感をもち始めているといった方がいい気がして、共に在る身体が、共に在ることによって、共に在る状態をつくっている、ということではないか。それは人間同士の温かい交流とかそういうふうに意味付けられることではなくて、それ以前に、近くにいる、傍らにいるという状態が、共に在るという構えをつくってしまっている、ということだと思うんですね。

にしむら・ゆみ
1968年愛知県生まれ。日本赤十字看護大学大学院看護学研究科博士後期課程修了。現在、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター准教授。専門は看護学。著書に、『交流する身体 〈ケア〉を捉えなおす』NHKブックス、2007、『語りかける身体--看護ケアの現象学』ゆみる出版、2001、他。
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「こころ」は環境と共にある……「自分探し」という不毛を超えて

河野哲也 Tetsuya Kouno
アフォーダンスというのは、私が環境に働きかけるその時に、環境はどう反応するか、その変化の瞬間を問うんです。
主観/客観の区別がなくなる瞬間のことですね。だから、それは個々人と環境との関わりに応じて多様である他ないんです。
私たちの世界は、私たちの身体の外側に、まさしく見えているそこに存在していて、
私たちとの関わりの中で無限に豊かで多様な側面を見せるのです。

こうの・てつや
1963年東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、玉川大学文学部人間学科准教授。哲学専攻。著書に『善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学』講談社選書メチエ、2007、『〈心〉はからだの外にある 「エコロジカルな私」の哲学』NHKブックス、2006、『環境に拡がる心 生態学的哲学の展望』勁草書房、2005、他。

 

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「共存」、「共生」から「共在」へ

現実化するゼロ・トレランス

 「ゼロ・トレランス」に関心が高まっています。「ゼロ・トレランス」とは、文字どおり不寛容の徹底化ということで、ここ数年、社会の管理・統御技術としてアメリカで注目されている概念です。犯罪学者のジョック・ヤング氏によれば、「市民道徳に反する行為を絶対に許さず、しつこい物乞いや押し売り、浮浪者、酔っぱらい、娼婦を厳しく取り締まり、街中から逸脱者や無秩序を一掃すること」であり(1)、そのターゲットは、コミュニティに置かれています。
 「ゼロ・トレランス」の発想源に、「割れた窓(broken window)」理論があると酒井隆史氏は指摘しました(2)。道徳的な乱れ、ルール違反、秩序の乱れがやがて大きな犯罪につながっていく。割れた窓はまさにその徴候であるというわけです。わが国でも導入される日は近いだろうと酒井氏は危惧していましたが、じつは「ゼロ・トレランス」もしくはそれに近似した政策が、次々と現実化しているのです。たとえば、学校の「いじめ」対策として「ゼロ・トレランス」で対応しようという声があがっているといいます(3)。「服装や言葉の乱れなど」はレベル一〜二、「喫煙」はレベル三、悪質な暴力行為はレベル四〜五とし、それぞれ担任、生徒指導部長、教頭、校長というように、レベルによって細かく対応している学校が出てきているというのです。また、文部科学省も強い関心を示し、一昨年まとめられた報告書には「ゼロ・トレランス方式の調査研究」が盛り込まれていたといいます。
 ヤング氏は、包摂型社会から排除型社会へという流れは、世界的な傾向であると述べています。その背景に、犯罪の凶悪化、増加といった理由だけではなく、社会全体の衰退、失業者の増大、コミュニティの崩壊、伝統的家族の解体、他者への尊敬の念の喪失、社会病理の蔓延をヤング氏は挙げていますが、その他に、社会そのものの流動化が起因しているという指摘もあります。いわゆる共同体の崩壊がその最も大きな原因だというのです。

「共生」の二つの源泉

 ところで、近年、「共生」という言葉が、さまざまな文脈で使われるようになりました。「人間と自然の共生」、「他民族・他文化の共生」、「障害者との共生」、「男女の共生」等々。今日、価値観の多様化がいわれ、旧来の発想に変わる新しい価値が求められるようになり、その一つとして「共生」という発想が出てきたのです。自他の融合である共同体への回帰ではなく、他者の存在を認め、他者との対立、緊張関係を受け入れながら新たな関係を創造しようという営為が、「共生」です(4)
 「共に生きる」を原義とする「共生」には、生態学用語のシンビオシス(symbiosis)と社会思想に由来するコンヴィヴィアリティ(conviviality)の二つの源泉があります。シンビオシスは、さらに両者共に利益のある関係が広義の意味での共生だとすれば、関係はなく単に空間を共有している「共存」、一方のみが利益を得る「寄生」に分けられます。コンヴィヴィアリティは日常的には宴という意味しかありませんが、イヴァン・イリイチなどがそれに「開放性」、「異質な者の許容」、「参加者によるルールの遵守」といった含意をもたせたことで、より能動性のある概念になりました。
 シンビオシスとコンヴィヴィアリティには、異質な存在、自分にとって都合の悪い存在に対する「許容」という共通点があります。今日、「共生」が新たな価値体系の重要な構成要素足り得ている理由は、まさにここにあるといえます(5)。しかし、その「許容」には対立、差異、多様性は含まれているものの、それへの同化は含まれていません。言い換えれば、「共生」は、あくまでも異なるものと「共に生きる」ことであり、そのための権利と承認要求です。種としての類縁性、相利共生は「共に生きる」ことの条件なのです。したがって、根源的な他者に対しては、かえって門戸を閉ざしてしまう。いわゆる原理主義に対しては排他的で、また、条件次第では、ある種の寛容さとも対立します。

「共在感覚」の射程

 寛容さを失った社会の中で、いかにして他者(根源的な)を理解し受け入れていくか。そんなことを考えていた時に、「共在感覚」という聞きなれない言葉をタイトルに据えたテキストに出会いました。
 「村の中ほどの広場で、男が叫んでいる。ヒットラーの演説を思わせる、はげしい身振りだ。どうにも収まりのつかない鬱憤を投げ出しているかのように見える。私は、尋常ではないものを感じて家の外へ飛び出す。何か大きな事件が起きたのではないか。しかし村内にはわずかな人影が見えるだけだ。安楽椅子に腰掛けてハンティングネットの縄をなう老人、差しかけ小屋で鍋を火にかける女。日常生活は、何も聞こえていないかのように続いている」。
 アフリカ・ザイールの熱帯雨林に住む農耕民ボンガンドの村に滞在した著者が、その「特異な発話」を体験した時の印象です。私たちの常識からすると特異に聞こえる発話は、ボンガンドの村では「ボナンゴ」と呼ばれていました。「ボナンゴ」は、その語り手だけを見ていると、大声で聴衆を相手にしているような「演説」のように聞こえます。ところが、聞き手に注目すると、その「演説」に耳を傾ける人はおろか、村の中に誰もいないということもあるのです。「ボナンゴ」をしている最中にその人の横を通り過ぎる場面に遭遇したこともあるそうですが、語り手の存在がまるで透明人間ででもあるかのように、無視してさっさと行ってしまったそうです。その後著者は、ザイールで調査を続けている間、この、「ボナンゴ」を何度も聞き、ボンガンドの村ではそれが日常的に行われていることを知ったのです。
 著者は、ザイールの調査の後、カメルーンに赴き、狩猟採集民であるバカ・ピグミーの人々と出会います。そして、ここでは、ボンガンドとは全く異なる発話の様子を体験することになりました。この二つの社会を貫くものは何か。著者はそれを「共在感覚」と名付けたのです。
 「人と人が共にある、そのやり方がいかに多様でありうるか。アフリカのフィールドで人々と生活を共にしながら、私は身にしみてそのことを感じた。共にある態度、身構え、そういったことを呼ぶのに、ここでは〈共在感覚〉ということばを用いてみたい。私が本書で示そうとしているのは、共在感覚のさまざまなあり方、そしてその面白さである」。
 共存ではなく、また共生でもない「共在」。この「共在」という言い方に注目してみたい。文化人類学のフィールドワークから得られた「共在感覚」。この記述を通して見えてくるものとは何か。おそらく、人々の関わり、つながり、切れながらも、共にあることへと向けられるある志向性ではないでしょうか。「共在」という言葉から、他者との新たな関係を考えることができそうです。そこで、『共在感覚--アフリカの二つの社会における言語的相互行為から』の著者、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科准教授・木村大治氏に、ズバリ「共在感覚」についてお聞きします。

「交流する」身体の地平

 ケアということばがあります。広くは世話や気配りのことですが、主に医療の領域では、看護とか介護という意味で使われています。看護や介護をすることは、他者へ手を差し伸べることであり、他者への働きかけそのものです。ケアはその意味で、共にあることを強く意識しているといえます。共にあることから出発するケアですが、一般的に〈病い〉の後に営まれるものと受け止められていました。ケアは、つねに〈病い〉の後からついてくるものという暗黙の了承がありました。しかし本当にそうでしょうか。ケアは、〈病い〉と共にすでに始まっているのではないか。ケアについて、改めてこう問いかけたのが、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター准教授・西村ユミ氏です。
 西村ユミ氏は、神経内科病棟で看護師として働いていました。神経内科病棟には、徐々に全身の筋力を失い、しまいには自力で呼吸することさえ困難になっていく患者や、自分の意志に反して勝手に動く身体とうまく付き合っていかなければならない患者、あるいは、脳梗塞などの脳血管障害を発症した患者など、その多くは、言語を音声で表現する言語コミュニケーションが困難な状態だったというのです。中には、気管切開により、また、人工呼吸器を付けるために、言葉を発するすべを失った人、脳の言語中枢に障害を受けたため、声を出すこと自体が困難な患者すらいたのです。神経内科病棟の看護師たちは、こうした患者たちの、はっきりした言葉や身振りで表現することのできない訴えを受け止めることから看護を始めていたというのです。
 医療の領域では、いわゆる植物状態の患者は、自分自身や自分を取り巻く環境を認識できず、他者と関係することは不可能であると定義されています。しかし、実際に彼らと接している看護師や医師の多くは、この定義では理解できないような「患者の力」を目の当たりにしているといいます。なぜそのようなことが可能なのか。それは、そこに「身体」があるからだというのです。植物状態の患者と看護師との関わりをつなぐものこそ身体に他ならない。身体がそこにあることで両者は意思疎通が可能になるのだろうというのです。
 西村氏は、看護師であった時の経験に基づいて、ある看護学生が、「病い」にどう遭遇し、そこでどのような経験をし、それをどう表現しているか、その具体的経験を記述するという試みを始めました。患者の傍らで経験している者の声に耳を傾け、その作業を通して、他者の病いや苦しみに手を差し伸べること自体の意味をそこでは問い直そうとしたのです。
 「病むものはその経験を共有する人を欲する。つまり、〈病むこと〉は他の人びとともにある。病む者という〈他者〉の身近に身を置く医療者の経験は、病い自体、あるいは病いという出来事をともにつくりあげているといえるであろう」。
 「病い」は、病む当事者にのみ経験されているものではなく、その傍らで「病むこと」に触れている者にも同等に経験されている出来事ではないか。西村氏は、「病い」という経験は、ケアという営みと対になって、手を差し伸べようとする者の行為と共につくられるものだという確信を得るのです。つまり、「病い」が形づけられることとケアの営みが始まることは、同じ出来事の二つの現れだというのです。
 他者と共にある私とケアとの関わり、その結び目としての身体について、西村ユミ氏にお聞きします。

「自分探し」という不毛を超えて

 人間の行動の原因はその人の内面にあります。だから、行動を変えるには、その人のこころを変えなければならない。社会現象を社会や環境からではなく個々人の性格や内面から理解しようとし、また、「共感」「ふれあい」「自己実現」といった言葉で解決を図ろうとします。「自分探し」という言葉に象徴されるようなこうした考えが、今われわれの周囲にはびこっていないでしょうか。自分の行動に関わる問題が生じた時に、常に自分の内面へと注意が向き、自分のアイデンティティを問い直し、自分の性格や意識、心的内容こそを改変しようとする傾向をもっているとしたら、それは「心理主義」という罠に落ちている、そう指摘するのは玉川大学文学部人間学科准教授・河野哲也氏です。本来は、社会的・政治的であるはずの問題を、個人の問題へとすり替えるのは典型的な政治的プロバガンダだと河野氏は厳しく批判します。
 河野氏は、『〈心〉はからだの外にある 「エコロジカルな私」の哲学』(NHKブックス)で次のような例を出して心理主義、さらには心理主義的道徳観の限界を提示しています。
 以前、少年による残酷な犯罪が続いた時に、「なぜ人を殺すことは悪いのか」という問いを発した青年に対して、知識人はまともに答えることができなかったということがありました。河野氏によれば、それこそが心理主義の陥穽を表しているというのです。「人を殺してはいけない」という道徳律は、参加者同士の取り決めであり取引であり、相互的な呼びかけです。殺人の禁止(その理由)を人間行為の相互性にではなく、自分のこころの中に探すということ自体が異常なことではないかというのです。この考え方において、忘却されているのは「他人の存在」であり、「身体性」ではないか。人の死とは抽象的な概念ではなく、具体的な事実です。すなわち、私たちにとっての死とは、何よりも死体のことなのです。道徳や倫理の最終的根拠は、生きた身体が殺人によって死体になるという事実です。つまり、身体がそこにあるということです。
 河野氏は、われわれの身体は環境の中に埋め込まれていて、「こころ」の活動も周囲の環境から切り離してはあり得ないとするギブソンの生態学的心理学を拠り所に、「私とは何か」、「内面とは何か」、「他人とは何か」という課題を捉え直そうとします。言い換えれば、自己と他者の関わりについて、生態学的心理学の観点から答えようというわけです。
 そこで、最後にこのエコロジカルな身体の理論を、「共在感覚」へと架橋することで、「共に在る」哲学、その可能性を河野哲也氏にお聞きします。(佐藤真)


引用・参考文献
1.ジョック・ヤング『排除型社会--後期近代における犯罪・雇用・差異』青木秀男訳、洛北出版、2007
2.酒井隆史「匿名性……ナルシズムの防衛」『談』no.71所収、TASC、2004
3.香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』講談社現代新書、2007
4.井上達夫『共生の作法』創文社、1986
5.廣野喜幸「共生」の項『事典 哲学の木』講談社、2002


 

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「共」から「在」へ

二つの社会、二つの「共在感覚」

 共在とは、無視や沈黙、あるいはいがみ合いも含んだうえでのコミュニケーションの在り方であると木村大治氏は言いました。共存や共生に理想を見出すのはいいとしても、まず、そこに一緒に「在る」ということが前提ではないか。同一の大地に「共」に「在る」ことを確認すること。人々の行為は、そこから立ち上がるのです。
 木村氏の発言を整理してみましょう。木村氏はボンガンドとバカ・ピグミーというアフリカの二つの社会を、主に相互行為論の視点から考察しました。まず、ボンガンドについて。木村氏は、ボンガンドを「声に満ちた村」と言いました。まるでラジオをかけっぱなしにしているように、常に誰かがおしゃべりをしているような空間だというのです。その肉声は、また非常に広範囲に伝わり、ブロードキャストのようだとも言いました。そして、その発話を四つの形式に分類したうえで、その一つである「大声であり、なおかつ相手を特定しない」発話に注目し、それを「投擲的発話」と名付けました。発話者は、無責任に発話を「投げ放し」、聞き手もそれを承知で、その発話に関与しない。私たちの社会では常識と思われる「話す/聞く」という「会話」とは、相当にかけ離れた言語コミュニケーションが、ボンガンドでは普通に行われているというのです。
 このような発話の構えは、ボンガンドの人々の日常的な行為と深く関わっていることを、木村氏は彼らの挨拶の仕方に発見します。挨拶を「しない/する」を分ける「挨拶境界」は、親密さや親族といった社会的関係からではなく、単に住んでいるところが「近い/遠い」という物理的距離によって決まるという。近くに住んでいる人とは挨拶をしないが、逆に離れたところに住んでいる人とは挨拶をする。つまり、近くに住んでいる人は、日頃顔を合わせることがなくても近くに住んでいるという理由によりすでに出会っている、と彼らは考えているというのです。だから、挨拶はしない。反対に、どんなに親しくしていても、遠くに住んでいる限り挨拶を交わす関係になる。挨拶を「しない/する」は、ちょうど彼らの発話が「聞こえる/聞こえない」の境と重なり合う。その領域の「内縁/外縁」を分かつ「挨拶境界」は、日本人の日常的な感覚からみるとかなり遠くにあります。このことから、共にあるという感覚は、かなりの幅が認められるというのです。
 木村氏は、バカ・ピグミーの社会をフィールド・ワークすることで、その考えを確かなものにします。バカ・ピグミーの発話には、複数の人々が同時に発話する「重複」と、いったん発話が途絶えるとそれが長い間続く「沈黙」が見られます。「重複」にしろ「沈黙」にしても、それが複数の人々の「同調」あるいは「共鳴」という形で起こるというところにバカ・ピグミーの発話の特徴を見出します。この発話における「重複」、「沈黙」の「同調」あるいは「共鳴」は、彼らの他者に対する身構え方に共通するものです。彼らは、多くの場合他者に対しては静かに身構えている。それは、他者の「同調」、「共鳴」をじっと待ち続けているようにも見えるからです。このように、ボンガンドとバカ・ピグミー、二つの社会を比較することから、「共在感覚」はそれぞれの社会、文化に固有のもので、一見自明のように思われますが、それ自体多様性をもっていることがわかったのです。

文化的構築物としての「共在感覚」

 木村氏は、この「共在感覚」を手掛かりにして、人々のコミュニケーションの問題に踏み込んでいきます。「共在感覚」をベースにして新たなコミュニケーション・モデルを提示しようというのです。これまでコミュニケーション・モデルとしては、シャノンの通信回路モデルがよく知られていました。メッセージの送り手と受け手がいて、両者は同じコードを共有することで、そのメッセージを伝達し合うというものです。木村氏は、このモデルには、そもそも相互行為という観点がないというのです。一方的かつ一回限りの信号(メッセージ)の伝達について理論化したものであり、その意味ではコミュニケーションというものを、きわめて限定しているというのです。一方、相互行為をいかにして記述するかという試みは、すでにさまざまな領域で行われてきましたが、これはという成果は未だあがっていないようです。木村氏はあえてその記述し難さ(記述逸脱性)にチャレンジしたのです。その手掛かりの一つがまさに「共在感覚」だというわけです。
 ボンガンドとバカ・ピグミーにおいてコミュニケーションの仕方は違っていても、その基盤には「共在感覚」があるということでした。筆者の理解では、地としての「共在感覚」の上に図としての相互行為が乗っかっている感じです。コミュニケーションとは、粗っぽく描写すれば、「共在感覚」を地として起こっている相互行為(図)、そういう図と地の構造になると思われます。別言すれば、あるものごとに対する身構え方(ゲシュタルト)です。その身構え方が、「共在感覚」であり、相互行為は、その身構え方の結果として現れるものです。一方は放り出し/聞き流す「投擲的発話」という形で現れ、もう一方は、「同調」あるいは「共鳴」が起こるのを静かに待つ態度として現れる--。そう捉えたうえで、木村氏は、「相互予期」と「共在の枠」という考えを出し、それを「双対性」という自然科学の概念で解き明かそうとします。この理論仮説は、示唆に富むものですが、より詳細な検討が必要にも思われます。
 ところで、『談』no. 78号「〈愉しみ〉」としての身体」で、岡田美智男氏は遊びとコミュニケーションに触れながら、こんな言い方をしました。われわれは会話の中で、「どうなってしまうかわからない」という不安に駆られながらも、一種の「投機的な行為(エントラスティング)」を行っているという。なぜそんなことをするのか。それは、「たぶんそれを支えてくれる」「大地(グラウンディング)」があると認知しているからだろうというのです。そして、人間の行為というものは、このエントラスティングとグラウンディングの関係の中で生まれているのではないか、と岡田氏は問い掛けました。
 改めてこの発言を読み直してみると、このグラウンディングと「共在感覚」の類似性に気付きます。つまり、「共在感覚」こそ、グラウンディングに当たるのではないかと思うのです。グラウンディングとは、ある意味で信頼であり不安を解消してくれる当のものです。グラウンディングがあるからこそ、私たちは投擲的行為を行うことができ、また他者に身を投げ出すことができるのです。大地という共通基盤がある(はず)という期待があるからそれが可能になるのです。もちろん、「共在感覚」は期待とは違うでしょう。しかし、「在る」ということを、「共」に認知していること。言い換えれば、「在る」の分有こそ「共在」という感覚であり、それはほとんど確信に近い信頼ではないでしょうか。他者に対して、私たちは常に受動的存在でしかない。だが、それゆえに他者に、身を委ねることをよしとする感覚が励起するのです。木村氏が最後に述べたように、「共在感覚」とはそれ自体きわめて洗練された文化的構築物なのかもしれません。であるとすれば、共生、共存を問う以上に、私たちは「共在」という意味を咀嚼し直す必要があるように思うのです。

構える身体、もしくは相互予期の場

 木村大治氏は、「相互予期」という言葉を使って、それが身構えができている状態でありコミュニケーションはまさにそこから発生すると言いました。木村氏の卓抜した比喩を借りれば、ケータイの「待ち受け」画面になっている状態こそ「相互予期」だというのです。そして、その「相互予期」が「一緒」にいる感覚をつくり出しているのではないかと言いました。
 地下鉄に乗っていたお年寄りがバランスを崩そうとした瞬間、そこに居合わせた乗客の誰もが、すでに動く準備を始めていた、と西村ユミ氏が報告する時、そこに現出する身構える身体とは、まさに、木村氏の言う「相互予期」と同質のものだと思われます。私たちは、身体を媒介にして、これから発生する事態に対して、いわば「待ち受け」画面のように待機している、この状態を西村氏は身構える身体と表現したのです。「共に在る身体が、共に在ることによって、共に在る状態をつくっている」とすれば、西村氏の捉える身体とは、その端緒から「共在感覚」へと開かれている身体のことだということになります。
 身構える身体あるいは共に在る身体。この身体観は、これまでの「病い」に対する先入見を軽く打ち砕いてしまいます。ここに、西村氏の身体観の革新性があるのです。たとえば、病人という言葉があります。〈今・ここ〉で患っている一人の患者を私たちは病人と呼びます。そう呼んだ時、「病い」はその患者の個体のうちに還元されてしまうでしょう。旧来どおりの「病気/健康」という二分法によって、患者とそうでない人間がきれいに分離されてしまうのです。しかし、言うまでもなく、「病い」をそのように峻別するなどということは不可能です。私たちが「病い」と出会う時、すでに手を差し伸べているのではないか。そこにいる人が「病い」であろうとなかろうと、その人の前に立つ時、私たちはすでに「病い」という場所を共有しているのではないか。西村氏はそう言って、「私たちは、そのようにして、身体と共に〈病い〉を形づくっている」と続けるのです。「〈病い〉は私たちを執拗に引き寄せもするし、押し戻しもするし、その傍らに立ちすくませる。この志向性は、私たち人間が根源的に抱えている〈病むこと〉への態度であって、共に〈病い〉を形づくることの現れ」ではないか。そして、「この〈病い〉に押し戻されつつ、引き寄せられるという、その私たちの身体感覚や姿勢、態度の中に、〈ケア〉の始まりの第一歩がある」と言うのです。
 以前、広井良典氏から「ケアとしての科学」という言葉を聞きました〈「いのち、自然のスピリチュアリティ」『談』no. 73号所収〉。「科学としてのケア」というのはよくある話ですが、そうではなく、科学がケアの方にすり寄り、いわばケアとの相互作用によって初めて科学が成り立つような科学自体のパラダイムチェンジが起こっていると言うのです。ケアとは決して後追い的なものではなく、科学においてもケアから始まるものもあるという意見でした。西村氏も同様に、「ケア」は「病い」の後からやってくるという従来の見方を取らず、むしろ「ケア」は「病い」と共に始まっていると言うのです。さらに、「ケア」をするという言い方すらも退けます。「ケア」は「相手に促されて」始まるものであり、その意味で最初から他者との関わりなくしてはあり得ないものだというのです。他者に導かれて「ケア」が始動する時、すでに「病い」は身体と共に在るというわけです。身体という言葉自体が、実践的な言葉であり、能動性と置き換え可能な概念であるとすれば、西村氏の考えに、「共在感覚」のケア論への応用を見たような気がしました。

主/客がなくなる時、多様性の無限

 河野哲也氏は、冒頭著作に触れて、「福祉や教育におけるノーマライゼーションの原理について、エコロジカル・アプローチから一つの提案」をしたかったと言いました。個人を社会に合わせるのではなく、社会の方をさまざまな個人のニーズに合わせて設計し直すことがノーマライゼーションの意味であるとすれば、ギブソンの生態心理学、とりわけその中心となる概念、アフォーダンスが理論的根拠となり得るというわけです。ギブソンによれば、人間は環境の中に立脚し、埋め込まれた存在であり、そのさまざまな身体的・心理的な活動は、周囲の自然的・人工的・社会的な環境から切り離されてはあり得ず、生命の活動は、それが適切に機能するためにそれぞれのニッチを必要としています。人間のどのような能力も一定のニッチにおいて初めて可能となるというのが、生態心理学の基本的シェーマなのです。そこから発展したアフォーダンスの最も革新的なところは、それが直接知覚という考えを敷延した理論だということです。ニッチはアフォーダンスの集合体ですが、そのアフォーダンスには、価値や意味が環境中に実在しているという主張が込められているというのです。
 生態学的立場では、「心的能力」と呼ばれているものは、私たちの身体的活動と環境のニッチとの相互性の中で初めて成り立つと考えられます。この意味において、こころは私たちの内部にあるものではなくて、むしろ、環境の中に拡散して存在している。つまり、自己とは、あくまで環境に立脚し、自然的・人間的・社会的環境との相互作用の中で成立する、徹底的に身体的な存在なのです。そして、ここからアフォーダンス理論の核心ともいえる結論が導き出されます。アフォーダンスに依拠すれば、主観/客観の区別はなくなってしまう。それは、個々人と環境との関わりに応じて多様である他ないものです。
 西村ユミ氏の考えにしたがえば、身体の身構えが「共在感覚」であり、その中心に身体があるということでした。アフォーダンスは、その身体を「外」へと開くのです。その理論的架橋によって、私たちは「共在感覚」をエコロジカルな社会デザインの方法論に回収することができるのです。
 河野氏は最後に言いました。「私たちの世界は、私たちの身体の外側に、まさしく見えているそこに存在していて、私たちとの関わりの中で無限に豊かで多様な側面を見せる」と。「共」に「在る」ことの意味は、この「在る」にこそ込められている。「共在感覚」から見える世界には、ただそこに「在る」、しかし無限に多様な人々がいるという事実なのです。 (佐藤真)
 

 
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◎アフォーダンス、環境、実在
善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学 河野哲也 講談社選書メチエ 2007
包まれるヒト 〈環境〉の存在論 佐々木正人編 岩波書店 2007
〈心〉はからだの外にある 「エコロジカルな私」の哲学 河野哲也 NHKブックス 2006 
伝記ジェームスギブソン 知覚理論の革命 佐々木正人他訳 勁草書房 2006
アフォーダンスの発見 ジェームス・ギブソンとともに E・J・ギブソン 佐々木正人他訳 岩波書店 2006
環境に拡がる心 生態学的哲学の展望 河野哲也 勁草書房 2005
生態心理学の構想 アフォーダンスのルーツと先端 佐々木正人他訳 東京大学出版会 2005
アフォーダンスの認知意味論 生態心理学から見た文法理論 本多啓 東京大学出版会 2005
ダーウィン的方法 運動からアフォーダンスへ 佐々木正人 岩波書店 2005
直接知覚論の根拠 ギブソン心理学論集 J・J・ギブソン 境敦史他訳 勁草書房 2004
ギブソン心理学の核心 境敦史他 勁草書房 2002
アフォーダンスと行為 佐々木正人他 金子書房 2001
知覚は終わらない アフォーダンスへの招待 佐々木正人 青土社 2000
アフォーダンスの心理学 生態心理学への道 E・S・リード 細田直哉他訳 新曜社 2000
魂から心へ E・S・リード 村田純一他訳 青土社 2000
ギブソンの生態学的心理学 その哲学的・科学指摘背景 T・J・ロンバート 古崎敬他訳 勁草書房 2000
アフォーダンス・新しい認知の理論 佐々木正人 岩波書店 1994
生態学的視覚論 J・J・ギブソン 古崎敬他訳 サイエンス社 1985

◎共在感覚、コミュニケーション、人類学
講座・社会言語科学 第6巻 方法 木村大治他 ひつじ書房 2006
共在感覚 アフリカの二つの社会における言語的相互行為から 木村大治 京都大学学術出版会 2003
人間性の起源と進化 西田正規他編 昭和堂 2003
コミュニケーションの自然誌 谷泰編 新曜社 1997
コミュニケーションとしての身体2 野村雅一他編 大修館書店 1996
身体の人類学 カラハリ狩猟採集民グウィの日常行動 菅原和孝 河出書房新社 1993

◎病い、ケア、身体
交流する身体 〈ケア〉を捉えなおす 西村ユミ NHKブックス 2007 
身体をめぐるレッスン3 脈打つ身体 石川准編著 岩波書店 2007
身体の文化史 病・官能・感覚 小倉孝誠 中央公論新社 2006
べナー看護ケアの臨床知 行動しつつ考えること P・べナー他 井上智子他訳 医学書院 2005
べナー看護論 新訳版 初心者から達人へ P・べナー 井部俊子監訳 医学書院 2005
講義・身体の現象学 B・ヴァルデンフェルス 山口一郎他監訳 知泉書館 2004
コード・ブルー 外科研修医 緊急コール A・ガワンデ 小田嶋由美子 医学評論社 2004 
人あかり 死のそばで 徳永進 ゆみる出版 2004 
ケアの向こう側 看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾 D・F・チャンプリス 浅野祐子訳 日本看護協会出版会 2002
語りかける身体 看護ケアの現象学 西村ユミ ゆみる出版 2001
感情と看護 人とのかかわりを職業とすることの意味 武井麻子 医学書院 2001
感情労働としての看護 P・スミスI 武井麻子他監訳 ゆみる書房 2000
べナー/ルーベル現象学的人間論と看護 P・べナー,J・ルーベル 難波卓志訳 医学書院 1999
知覚とことば 現象学とエコロジカル・リアリズムへの誘い 長滝祥司 ナカニシア出版 1999
ボディ・サイレント 病いと障害の人類学 R・F・マーフィー 辻信一訳 新宿書房 1997
病いの語り 慢性の病いをめぐる臨床人類学 A・クラインマン 江口重幸他訳 誠心書房 1996 
からだの知恵に聴く 人間尊重の医療を求めて A・W・フランク 井上哲彰訳 日本教文社 1996 
ワトソン看護学 人間科学とヒューマンケア J・ワトソン 稲岡文昭他訳 医学書院 1992
病院でつくられる死 「死」と「死につつあること」の社会学 D・サドナウ 岩田啓靖他訳 せりか書房 1992
見えるものと見えないもの M・メルロ=ポンティ 滝浦静雄他訳 みすず書房 1989
死のアウェアネス理論と看護 死の認識と終末期ケア B・G・グレイザー&A・L・ストラウス 木下康仁訳 医学書院 1988
ケアの本質 生きることの意味 M・メイヤロフ 田村真他訳 ゆみる出版 1987
病むひとのこころ看護のこころ 駒松仁子 ゆみる出版 1983
現象学的心理学の系譜 A・ジオルジ 早坂泰次郎監訳 勁草書房 1981
メルロー=ポンティの現象学的哲学 R・C・クワント 滝浦静雄他訳 国文社 1976
行動の構造 M・メルロ=ポンティ 滝浦静雄他訳 みすず書房 1974
知覚の現象学1.2 M・メルロ=ポンティ 竹内芳郎他訳 みすず書房 1974
シーニュ M・メルロ=ポンティ 滝浦静雄他訳 みすず書房 1969
目と精神 M・メルロ=ポンティ 滝浦静雄他訳 みすず書房 1966