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[最新号]談 no.84 WEB版
 
特集:真逆のセキュリティ!?
 
表紙:齋藤芽生 本文ポートレイト撮影:新井卓
   
    
 

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<民意>の暴走……生命の重みが、生存への配慮を軽くする

芹沢一也
せりざわ・かずや 1968年東京都生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在、慶應義塾大学、京都造形芸術大学にて非常勤講師。知の交流スペース「SYNODOS」代表。専門は近代日本思想史、現代社会論。著書に、『暴走するセキュリティ』洋泉社新書、2009、『狂気と犯罪 なぜ日本は世界一の精神病国となったのか』講談社+α新書、2005、『〈法〉から解放される権力』新曜社、2001、 他。

女性や子供といった弱者の生命を暴力から守るという、
それ自体、 文句のつけようのない志向が強まり続けています。
ところが他方で、セーフティネットが崩壊すると共に、
社会的な弱者へ転落する可能性が日々増しているにもかかわらず、
そうした社会的な弱者の生存を守ろうという志向は弱まるばかりです。
これが現代日本社会で起こっている、あるいはセキュリティ社会のパラドクスです。

 
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環境管理社会であえてアーキテクチャを活用する方法

濱野智史
はまの・さとし
1980年千葉県生まれ。慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。専門は、情報社会論。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター研究員を経て、現在、株式会社日本技芸リサーチャー。著書に、『アーキテクチャの生態系 情報環境はいかに設計されてきたか』NTT出版、2008。主な論文に、「ニコニコ動画の生成力」『思想地図』vol.2所収、日本放送出版協会、2008、「なぜKは〈2ちゃんねる〉ではなく、〈Mega-View〉に書き込んだのか?」『アキハバラ発〈00年代〉への問い』所収、岩波書店、2008、他。

アーキテクチャは決して不可知ではなく、
むしろその設計はある程度普遍的に記述可能で、
共有可能であるということが、これからの探求すべき課題なのかもしれません。
そしてこれこそが、いささか議論は誇大妄想的に飛躍してしまいますが、
今後アーキテクチャ的管理が広がっていく状況に対応する、
ある種の政治的言語の基礎になるのかもしれないとすら思うんです。

 


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賽の一振り……無限を含んだ自己が跳躍する時

檜垣立哉
1964年埼玉県生まれ。東京大学大学院博士課程中途退学。現在、大阪大学大学院人間科学研究科准教授。専攻は哲学、現代思想。著書に、『ドゥルーズ入門』ちくま新書、2009、『賭博/偶然の哲学』河出書房新社、2008、『生と権力の哲学』ちくま新書、2006、『生命と現実』木村敏との共著、河出書房新社、2006、『西田幾多郎の生命哲学』講談社現代新書、2005、他 。

あらゆるリスク社会的な現実は、飛躍する現在という、
自己再帰的なものの現実的基盤を、 実際にはあてにしているわけですが、
場合によっては、快という情動を生むことも織り込み済みです。
身体的資源が賭けであること、環境的事態が賭けであること、
自然史的・文化史的な現在のあり方が賭けであること。
賭けの概念によってしか、現在がリアルであることはつかまえられないはずです。
なぜなら、それが自然なるものへの信だからです。

 

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リスク/セキュリティという図式の意味するもの

安全から安全+安心へ

 最近、安全・安心という言葉をよく耳にします。「安全」は客観的な判断が基準になりますが、「安心」の方は、主観的な判断が基調になります。たとえば、食べものでは成分表示、賞味期限といった食品表示が義務付けられていて、加工食品はもとより生鮮食品も消費者が購入するに当たって、その内容を正確に知り得るための情報を提供することになっています。食べものとして問題がある/なしを科学的に評価し、問題がないことが立証されれば、安全な食品と認定されるわけです。「安全」とは、科学的な裏付けによる保証といったところでしょうか。
  一方、「安心」は、「こころ」という字がついているように、個人のこころ、つまり、主観が大きなウェイトを占めます。安心も安全同様に、社会との関わりのなかで確保されるものですが、安心は、自分自身の判断に大きく依存しているといえます。まず自分自身が納得すること。納得という前提のうえに安心は生まれます。言い換えれば、そのもの(生産者、販売者や組織を含む)との信頼関係が重要視され、信頼が得られたと納得した時に、人々は安心を手に入れることができるのです。したがって、安全で安心できる食べもの、あるいは安全・安心のまちづくりという場合は、単に安全性が確保されていればいいというものではなくて、不安や疑念、脅威を打ち消すだけの強い信頼関係が担保されている必要があるわけです。
  雇用不安、健康被害、食品偽装、金融危機、凶悪犯罪、振り込み詐欺、コンピュータ犯罪……、安全・安心を脅かすものにはさまざまなものがあります。ある研究機関が行ったヒアリング調査によれば、「健康問題」(大分類)という項目で安全・安心を脅かす要因として、がん、生活習慣病、アレルギー、心の病気、遺伝性疾患などの「病気」、感染症、乳幼児の突然死といった「子供の健康問題」、身体機能の低下、認知症などの「老化」、薬害、説明責任不履行などの「医療事故」が挙げられ、異物混入、遺伝子組み換え食品問題、添加物、残留農薬、原産地表示有無などの「食品問題」まで含めると、50以上の小項目が抽出できた、とあります(1)。この調査では、大分類として他に、「犯罪」「事故」「自然災害」「戦争」「サイバー空間の問題」「社会生活上の問題」「経済問題」「政治・行政の問題」「環境・エネルギー問題」が挙げられていて、そのそれぞれにたくさん(無数といっていいほど)の「脅かす要因」が列挙されています。私たちの生活は、日々こうした数多くの脅威に曝され続けているとこの調査はほのめかしているようです。
  安全・安心に耳目が集まるのは、言うまでもなく人々が安全・安心を脅かされていると思い込んでいるからでしょう。安全は十分に確保されているとわかっていても、安心できない。つまり、科学的な指標によって安全が確保されているとわかっていても、信頼がなければ安心できないのです。主観的に納得できた時、人々は、初めて安心を得ることができるのです。
  安全・安心を脅かす要因を仮に「リスク」と言い換えてみましょう。リスクとは、簡単に言えば、安全・安心を脅かす事象の発生の確率とその結果の大きさです。リスクの度合いで、人々は安全・安心を値踏みします。まず、リスクを見つけ出すこと。そして、リスクを最小限に抑えられれば、発生の確率は小さくなります。そうすることによって、少なくとも不安は幾分か希釈されるように思います。その発生防止、被害防止に加えて、発生後の応急対応、被害軽減の復旧対策を含めた総合的な対策が講じられれば、安全だけでなく安心も手にすることができるのです。
  リスクを極小化し、安全・安心の状態を長期間にわたって維持し続けること。その有力な方法が「セキュリティ」なのです。今号では、このセキュリティという概念を手掛かりにしながら、安全・安心とリスクの関係、また、安全・安心によって守られるものと社会との関わりについて考えてみたいと思います。

セキュリティとは何か

 昨年、「SP」というテレビドラマが評判になりました。岡田准一扮する警護官がテロリストらから要人を守るという金城一紀原作のドラマですが、このSPとはsecurity policeのこと、つまり要人警護を専門にする警察官のことです。セキュリティは、ここで言う警護の他に、安全、無事、保護などの意味がありますが、日本では主にコンピュータ関連(IT)の分野で知られるようになりました。IT分野で使われる場合は、「安全に仕事や生活をするための、いろんな取り組みや仕組み」と理解しておけばいいようです(2)。すなわち、要人の警護もATMのキャッシュカードの暗証番号もメールのパスワードも、「安全な生活」を維持するための道具という意味では、等しくセキュリティなのです。
  セキュリティの語源は、ラテン語であるsecura=se-(~から離れて)+cura(care、心配)で、言葉の原義に従うならば心配のない状態を表します。安全という意味に加えて「心配がない」、すなわち、「不安がない」という意味もあり、「安心」という意味も含まれているということになります。つまり、セキュリティは、「安全・安心」の状態が確保されていると理解して間違いなさそうです。しかし、ここで注意しておかなければならないのは、あくまでも「安全な状態」が保たれるということで、「安全な状態」を示す概念ではないということです。つまり、セキュリティ=安全、というわけではないのです。
  セキュリティという言葉がIT分野で広く認知されるようになったと言いましたが、実際この言葉が日本で最初に使われたのは、「情報セキュリティ」という言葉としてでした。1990年代、インターネットの普及と共にIT環境は、急速に拡大・整備されていきましたが、情報セキュリティという言葉はまさにそうした状況と呼応するように、浸透していったのです。
  2002年にOECD(経済協力開発機構)が「情報システム及びネットワークのセキュリティのためのガイドライン—セキュリティ文化の普及に向けて」を策定しました。OECDは、そこでインターネットの世界的な普及を背景に、ネットワークへの参加者全員へのセキュリティ文化の浸透の重要性を指摘しています。「セキュリティ文化」を導入・普及させることで、セキュリティ意識を向上させようという狙いがありました。これと歩調を合わせるように、日本でも2003年に「情報セキュリティ総合戦略」(経済産業省)が発表されて、情報資産の安全性を確保する手段として情報セキュリティという概念が喧伝されたのです(3)。
  情報セキュリティとは、「情報資産の管理におけるさまざまな攻撃などの脅威から情報資産を守り、その安全性を確保すること」であり、その守るにふさわしい情報資産には、「機密性(confidentiality)」、「完全性(integrity)」、「可用性(availability)」の三つがあるとOECDのガイドラインは、提唱しています。そして、情報セキュリティが失われた(侵害)時、この三つのいずれかが損なわれ、損害が発生する可能性があると指摘しました。
  セキュリティが失われるとは、どういうことをいうのでしょうか。たとえば、機密性の喪失とは、情報を不当に見られることを言います。つまり、インターネットに接続されているメールサーバのパスワードや個人情報が不当にもち出されるような事態を想定しているわけです。完全性の喪失とは、情報を不当に改ざんされたり破壊されたりすることを言い、可用性の喪失とは、第三者の不当な利用によって本来の利用者がデータやコンピュータ資源が使えなくなってしまうことを言います(4)。この三つの喪失の頭文字をとって「情報のCIA」と呼ぶこともあるようですが、ここで重要なのは、この情報のCIAを確保することが、セキュリティを維持することにつながるという点です。逆に言えば、情報のCIAが確保されない状態になった時、セキュリティは失われるというのです。要するに、セキュリティの対立概念がリスクであり、セキュリティとリスクは強い関連性をもつというわけです

リスクの軽減がセキュリティを向上させる

 この指摘は、セキュリティ概念にとって、さらにはIT環境にとって重要な意味をもちます。というのは、情報資産にはリスクがあるということを意味しているからです。そのことを説明する前に、リスクとは何か、もう少し詳しくみてみる必要があります。リスクとは、確率概念だと言いましたが、では、リスクを構成しているものはなんでしょうか。一般的には、リスクは次の三つの要素に分けられると言います。一、資産。二、脅威。三、脆弱性。一の資産は、「生活や仕事をしていくうえで必要な資源」という意味です。情報資産というのも同じ意味です。簡単に言ってしまえば、私たちが守るべきもののことです。資産というと有形のものを思い浮かべるかもしれませんが、実体のない資産というのもあります。個人情報とか人間関係とかコミュニティといった無形のものも、その人の生活に必要なものであれば、資産と見なすことができます。言い換えれば、有形無形を問わず、こうした資産があるから、それを守る必要が出てくるのです。リスクの構成要素の二番目は、脅威です。資産は、常に脅威に曝されています。もちろん、意味も価値もない資産というものも原理的には存在します。しかし、それはもはや守るべき資産とはいえません。構成要素の三つ目は、脆弱性、つまり弱点です。守るべき資産があり、それを狙う脅威があって、その脅威に対して脆弱である場合、リスクが顕在化(現実化)するというわけです。
 今言ったリスクの顕在化を、岡崎裕史氏は、たとえばこんな事例で説明しています。コンピュータ(資産)がある。そのコンピュータを狙うウィルス(脅威)がある。ところが、ウィルス対策ソフト(脆弱性)がない。その結果、リスクが現実化する。中心にあるのは資産です。資産は常に脅威に曝されています。しかし、脅威があるだけでは危険な状態とはいえません。資産と脅威と脅威がつけ込むすき、つまり、これが脆弱性ですが、それらがぴったりと重なってしまった地点で危険な状態、すなわち、リスクが顕在化するというのです。であるならば、逆に、この三つの要素が重ならなければリスクは顕在化しないということです(潜在的には存在しますが)。岡崎氏によれば、セキュリティ対策とは、まさにこの三要素を揃わないようにする活動のことだというのです。具体的には、そのうちの一つを消してしまえばいい。要するに、消滅させることで、三要素を揃わなくさせればいいというわけです。とはいえ、資産を消すということはあり得ません。なぜならば、それは守るべき当のものだからです。また、脅威を消すということも現実的にはほとんどムリでしょう。となれば、できることはただ一つ、脆弱性がない状態を維持することです。そして、現在のセキュリティ対策とは、この脆弱性を減少させることにつきると岡崎氏は結論付けます。
 セキュリティが「安全に仕事をするためのいろいろな仕組み」だとすると、リスクとは、まさに「安全を脅かすもの」です。セキュリティを高めることは、リスクを軽減することになり、逆にリスクが高くなれば、セキュリティは弱まります。セキュリティとリスクの関係を見ると、明らかにリスクを減らすことの方が容易であり、それがセキュリティを高めることになるということがわかります。なぜならば、セキュリティを高めるということは、リスクの三要素のうちの脅威をなくす方法にあたるからです。私たちの周囲には無数といっていいほどの脅威があります。それを根絶することはムリです。それよりも、その資産の、つまり守るべきものの脆弱性に照準をしぼって、そのリスクを減らすことに尽力を傾ける方がはるかに得策だということです。

 セキュリティを考えるにあたって、冒頭で述べた「安全・安心」に注目します。「水と安全はタダ」と言われた日本。その日本の安全が危うくなっているといわれています。日本の安全神話は崩壊したという考えが、いまや常識になろうとしています。しかし、本当にそうなのでしょうか。世間で言われていることとは逆に、統計で見る限り、殺人件数は減り続け、昔も今も、日本は安全大国であると断言する有識者は少なくありません。安全であっても、安心でいられない、むしろ、問題はそう思い込む「こころ」の方にあるのではないか。そして、悪いことに、そうした「体感不安」は、やがて相互不信を招き、自ら疑心暗鬼社会を形成していく。過剰なセキュリティへの関心が、脅威の抹消を夢想し、やがて守るべき資産である人間の生存を脅かそうとしている。こうした日本社会の現状について、「SYNODOS」代表で、近代日本思想史、現代社会論が専門の芹沢一也氏に、セキュリティ意識が醸成する新たな選別と排除の構造についてお聞きします。
 セキュリティ概念は、ITの進展と共に普及しました。セキュリティとリスクは、たとえばネット社会にとって、その端緒から深く関係し合い、いまだにいくつもの課題を抱えています。そうした状況のなかで、アーキテクチャという概念が注目され始めています。ある意味で、それは、ウェブ空間に自生する新たな公共空間を構築するベースとなるようなものだといえます。
 ウェブ空間を一つの生態系とみなして、アーキテクチャの解読から、新たに生まれつつある疑似的公共空間の意味を研究しているのが株式会社日本技芸リサーチャーの濱野智史氏です。そこで、アーキテクチャの進化という観点から、ウェブ空間のなかで始まっているセキュリティ概念の変容についてお聞きします。
 リスク管理化された社会は、リスクの回収や結果の評価がそもそも不可能であることを前提にしながら、しかし逆説的に、「自己責任」なるものを倒錯的に主張するものだといいます。自己が自己であることに何にも支えられていないのに、逆にそこでは何にも支えられていない自己の行為が、そこでの不安を隠蔽したいかのようにすべての機軸になり、逆に強く自己責任を語りたがる。リスク社会では、自己再帰性そのものの典型的な病理状態が現れると。こう主張するのは、大阪大学大学院人間科学研究科准教授で哲学を専攻する檜垣立哉氏です。セキュリティとリスクの関係は、私たちが普通に考えているのとちがって、完全に倒立しているというのです。最後にセキュリティとリスクの倒立関係、すなわち真逆を向いているセキュリティについて、檜垣氏に考察していただきます。 (佐藤真)



引用・参考文献
(1) 「安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会」報告書、2004
(2) 岡崎裕史『セキュリティはなぜ破られるのか』講談社ブルーバックス、2006
(3) 杉野隆「セキュリティ文化と信頼概念についての考察」国士舘大学情報科学センター、2005
(4) 佐々木良一『ITリスクの考え方』岩波新書、2008

 

 

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破られるセキュリティ

 女性や子供といった弱者の生命を暴力から守りたい。そういう志向が社会のなかから立ち上がってきていることは、望ましいことであり、それ自体なんら文句のつけようのないことです。一方、セーフティネットに綻びが生じている現在、生存そのものが脅かされている社会的な弱者が、日増しにその数を増しています。生存への配慮が今ほど求められている時代はないのです。ところが、そうした社会的な弱者の生存を守ろうという志向は、あろうことか逆に弱まっているというのです。誰もが社会的な弱者へ転落する可能性が日々増しているにもかかわらず、ここに見られるのは、社会的な弱者のあからさまな選別です。守られるべき命と、そうでない命——。
 セキュリティとは、「安全に生活をするための仕組み」であるはずなのに、逆に、そのセキュリティによって「安全な生活」が奪われるという皮肉な事態が進行している。「安全・安心」の掛け声が大きくなればなるほど、「安全・安心」ではない状態へと追いやられる人々。尊ばれる生命と生そのものから引きずり下ろされる人々。一方で生命の重みに敏感になればなるほど、他方で生存への配慮が後退していく。この構図から見えてくるのは、セキュリティの逆説です。
 しかもそこにはさらにいびつな側面が露呈している、と芹沢一也氏は言います。「生活世界の喪失を補償しようとするセキュリティは、それを実践する過程で一種の快楽を生み出しています。たとえば、防犯パトロールに勤しむ住民たちは、そうした実践に参加することによって、生きがいや人とのつながりといった、とても具体的な生の充実感を手にすることができる。嬉々として防犯パトロールに従事する住民たちは、防犯を軸に生成するコミュニティのうちに生きている」という。そして、「その愉悦に満ちた振る舞いが、結果として弱者を排除していく」ことになるのです。
 善意と快楽が、弱者を切り捨てていく。しかし、その善意に裏打ちされた行為、それがもたらす愉悦が、永遠に続く保証はどこにもない。もしかすると、もうすでに、「外部」の住人の烙印を押されているかもしれない。その瞬間、自らの命は、生存への配慮が枯渇した不毛地帯へと放り出される。「内部」の人間に決定的に欠けているもの、それは、「内部」と「外部」を分ける境界線が、じつはそれほど強固なものではないという当たり前の事実です。
 芹沢氏は、セキュリティという言葉で言われていることの、本質を抉り出したといえます。「安全に仕事や生活をするための、いろんな取り組みや仕組み」であるはずのセキュリティは、一部の社会的な弱者から仕事や生活を奪い取る装置として確実に機能していることを、教えてくれました。何よりも問題なのは、そうした装置を待望し、ある場面ではより強化しようと望んでいるのが、他ならぬ私たち自身だということです。旧来の、仕向けるもの/仕向けられるもの、権力を行使するもの/行使されるもの、という対立軸はもはや消滅しつつある。あえて言えば、そう仕向け、行使しようとしている側は私たちの方であって、権力も国家も警察も、それを愚直に実行しているだけなのかもしれません。フーコーの言葉をまつまでもなく、権力は下からやってくるのです。

暴走する〈民意〉とリスク/セキュリティの悪循環

 芹沢氏は、世間に流布する「治安悪化」言説が、実態とかけ離れたものであるという事実を紹介します。インタビューでは直接言及していませんが、ここでの議論の前提となっているので、この場を借りて捕捉しましょう。
 安全神話は崩壊した、「水と安全はタダ」という日本はすでに過去のものになった、こうした言説が広がり始め、現実的に監視カメラの導入、住民パトロールの強化、さらには司法における厳罰化が、2000年前後から急速に進みました。その根拠の一つにされたのが、少年犯罪が凶悪化し急増しているという報告です。ところが、驚くことに統計を見る限りそういう事実は全くなく、むしろそうした論調とは逆に、殺人事件は一貫して減り続け、その他の重大事件も増えていない。数字が示しているのは、凶悪化どころか、殺人もしない、強姦もしなくなっている少年たちの実像でした。
 この間の動向をつぶさに見ていくと、少年たちや精神障害者たちに変化が起こったのではなく、むしろ変わったのは社会の側ではなかったか、と芹沢氏は言います。その象徴が、インタビューでも強調されている犯罪被害者の登場です。90年代後半、犯罪被害者が表舞台に登場することによって、社会の少年や精神障害者への見方が変わったのです。その結果何が起こったか。インタビューにあるように、厳罰による社会からの排除というトレンドが形成されてしまったのです。
 芹沢氏がここで問題にするのは、単にそうした統計的事実と実態のずれだけではありません。最初に言ったように、そうした言説をいわゆる普通の人々がむしろ積極的に受容し、再生産する側にまわったということです。芹沢氏はそれを、〈民意〉の暴走と呼びました。そして、この文脈においてセキュリティがリスクと結び付くのです。
 セキュリティの強化や厳罰化を望んでいるのは、他ならぬ市民です。そうした市民の意思をくみ取る形で権力が編成されていく。市民が一番求めていることは、犯罪被害にあうリスクをゼロにすることです。しかし、リスク・コントロールとは、リスクをある範囲内に抑えるのが目的で、ゼロ・リスクを目指しているわけではありません。そして、そのコントロールは、為政者や専門家によるマクロな操作によってのみ可能となるものです。ところが、〈民意〉が強くなることによって、市民の側に、つまりミクロのところまで降りてくると、このゼロ・リスクが現実の目標として浮上してくるのです。ゼロ・リスクを望む市民の意思が、それまでプロフェッショナルに独占されてきた法制度を侵食し、その結果、厳罰化に向けた法制度へとどんどん変わっていったというのです。つまり、現在の厳罰化の流れの背景には、〈民意〉のポリティクスが働いているというわけです。
 市民にとってリスクは、確率ではなく個人的な出来事です。安全という保証が得られれば良しというのではなく、望まれるのは安心感です。セキュリティは、安全という意味だけではなく、不安のない状態が保たれるという意味もあります。その不安のない状態こそ、リスクがゼロになる極点ですが、しかしそれは、原理的に不可能です。beforeで指摘したとおり、セキュリティはあくまでもそれが保たれるようにするということであって、安全、安心それ自体ではないからです。
 芹沢氏の発言で、もう一つ重要だと思われるのが、生命を守ることが排除の根拠になるというロジックです。セキュリティという装置が、生存から生命へ、その照準を移行させていると芹沢氏は警告します。そのことは何を意味しているのでしょうか。この生存から生命へという移行は、アガンベンの分類を援用するならば、ゾーエーからビオスへの視点の移動ではないかと思います。ゾーエーとビオスは、蝶ネクタイのように絡み合っているといわれるように、一筋縄ではいかない概念です。両者は、同じ生命と訳されることもあれば、ゾーエーを自然的生命、ビオスを精神的生命と訳し分ける場合もあります。哲学者の小泉義之氏は「生きるに値しない生命」と言った時の「生きる」がビオスで「生命」がゾーエーと言っています(『談』no.74)。この分け方でみると、セキュリティが照準にしているものはビオスであり、排除の対象へと押しやられようとしているのがゾーエーということになります。今、日本の社会で起こっていることは、ビオスを守るためにゾーエーが排除されるという事態です。
 「生きる」=ビオスは、文化を生み出し、人格を形成する精神活動です。それに対して、「生」=ゾーエーは、生理的肉体であり、資源となる身体そのものです。フーコーによれば、生政治が関心をもつのは、むしろゾーエーであり、統治の対象としてその力能に注目するのもゾーエーの方だといいます。本来であれば、リスクを軽減する対象は生存の方なのです。生存させるためにこそセキュリティが使われなければならない。
 だとすれば、今の社会は、明らかにフーコーの言う生政治に逆行している。それが何を意味するのか。守るべきは資産であり、セキュリティはその資産を守る手段です。しかし、事態は逆を向いていて、そのためにかえってリスクが肥大する。そして、それはさらなるセキュリティの強化を要請することになります。リスクとセキュリティのいたちごっこともいえる悪循環。救いようのない負の循環が、やがて社会を覆い尽くしていく。なんのためのセキュリティか。私たちはもう一度、リスクとセキュリティの関係を精確に把握する必要があるのです。

社会に内在するアーキテクチャ

 研究者の多くがアーキテクチャの管理法を危険視するのに対して、「いちいち価値観やルールを内面化する必要がない」「人を無意識のうちに操作できる」といった特徴を、むしろ肯定的に捉えて、積極的に活用しようと提言するのが濱野智史氏です。なぜそういえるのか。それは、現代のウェブ空間が、自生する秩序ともいえる生態系の様相を呈しているからだというのです。そこで、アーキテクチャに照準を合せることは、リスクとなる脆弱性を減少させる最良の方法となるのではないかという仮説をもって、濱野氏にお話をうかがいました。
 濱野氏のインタビューの論点は、次の三つに集約できると思われます。一つは、情報社会論においてアーキテクチャ論はいかなる意味をもつのか。二つ目は、情報社会の展開を生物進化の過程、すなわち生態系として捉える意味。三つ目は、アーキテクチャ論の現実世界への応用。
 情報社会論としての意味は、濱野氏が冒頭述べているように、現在のこの分野の分断状況を整理するためには、アーキテクチャが有力な概念になり得るのではないかという見通しです。レッシグによって提唱された社会秩序の操作方法の一つであるアーキテクチャは、情報技術のベースとなる基本的な設計手法です。アーキテクチャに定位することによって、別々に論じられている現在の情報社会論に一種の串を刺すことができるというわけです。つまり、情報社会論を議論するためのプラットホームをつくることによって、共通の議論ができるようになるというのです。アーキテクチャの設計そのものを分析対象にすること。しかしそれがなぜ、新しい管理技術である環境管理型権力の解明につながるのでしょうか。
 それは次のポイントである生態系としてのウェブ空間という問題に引き継がれます。情報社会の特徴の一つは、その発展のしかたが進歩ではなく生物進化のそれに類似しているという点です。これまでの技術の歴史は、進歩の歴史でした。ありうべき理想形に向かってひたすら走り続ける。進歩とは、「いい方向」へ向かうことであり、少しでも「よくない」と評価されれば、それは進歩ではなく、退歩=退化とみなされてしまう。それは、ある意味で技術の宿命でもありました。ところが、情報技術に限っては、この進歩史観があてはまらないのです。情報技術には、常に偶然がつきまとい、その偶然によって全体が編成されていく。情報技術の決して長くはない歴史を繙いて見ればわかります。進化どころか明らかに退化と思われることが頻繁に起こっている。突然変異や系統発生と思えるような現象すら見られます。情報技術の歴史は、生物進化のプロセスとしてみた方が実態に即しているのです。その観点から情報社会を捉え直してみると、そこに現出しているのはまさしく一つの生態系だったというわけです。
 ウェブ空間に日々刻々登場する新たなウェブサービス。一見なんの脈絡もなさそうなサービスが、じつは共通の出自をもつなどということが起こるのも、ウェブ空間が生態系としてこの世界に生息しているからなのです。その生態系全体を設計、デザインしているもの。それがアーキテクチャだというわけです。アーキテクチャの分析は、したがって、このウェブ空間を成り立たせている駆動原理=リビングフォースそのものの解明になる。しかも、面白いことに生態系全体を秩序づけているのもアーキテクチャなのです。生物においては、多様性(複雑さ)と系統という二つの軸が共在しているわけですが、情報社会においても同様です。一見正反対に見える相が、重なり合うようにして一つの大きな流れをつくり出していく。重要なのは、それがアーキテクチャという一つの駆動原理を基に、起こっていることです。
 このことの意味は、三つ目の論点である現実世界への応用につながります。つまり、私たちの生活する世界は、多様さと秩序が複雑に絡み合いながら自生する生物世界そのものです。社会とはその意味で生態系なのです。この社会を成り立たせているものとはなんでしょうか。その根幹にあるもの。社会を秩序づけながらも、時に激しく混乱させるもの。それは何か。情報社会においては、アーキテクチャがそれでした。だとすれば、私たちの生活する社会においても、このアーキテクチャにあたるものがあるはずです。アーキテクチャを分析することが、社会の究明にもつながるというのは、そういう意味なのです。
 アーキテクチャのプロセスを踏まえたうえで、いかにしてその生態系に介入することができるか。監視化・セキュリティ化が否応なく進行する現状において、アーキテクチャの自主的進化の観点を差し込むことが、今後、必要になってくるのです。セキュリティを考えるにあたって、アーキテクチャに注目する理由がここにあるわけです。

セキュリティの内部観測

 「私であることは、こうした偶然性のなかに、あらかじめいかんともし難く取り込まれています。それに対して何かをなしうる位相もあるでしょう。しかし、同時に多くの部分については何もなしえない。私という存在が、もともとこうした計り知れない偶然を受け入れることから成立しているということを押さえておく必要があります。私は身体であり、それはとりもなおさず受動性としてあるという意味は、こういうことです」
 檜垣立哉氏のこの発言は、セキュリティ概念に内包する逆説を説明するみごとな回答だと思います。檜垣氏のインタビューを簡単に整理してみましょう。
 私とは、まずもって自然的な身体です。自然であるということは、受動的にしか関わることができないということであり、つねに偶然を引き受ける他ないという存在だということを示しています。別言すれば、リスク確率の空間に生きているということです。にもかかわらず、そうでないかのような主体をつくりあげて、そうした偶然性を隠蔽してしまう。科学技術の発展は、そうした主体の仮構をよりいっそう強固なものにし、かつてなら運命とあきらめていた出来事も、主体の責任下におかれてしまう。
 そこで何が起こったか。私自身がリスクであったはずが、リスクは私の外にあるものとして捉えるようになったのです。その結果、他者、外部、世界がリスクになってしまった。私の内部にリスクがあるということは、リスクと共に生きることです。セキュリティとは、この文脈でいえば、リスクを自らがコントロールすることを意味していたわけです。そもそもそれは最初から不可能なものを管理する方法だった。フーコーの統治とは、その意味においてこのセキュリティのことを指していたわけです。セキュリティとは不可能性の可能性であり、そのことにおいて両義的な概念として認識されていたのです。ところが、近代の主体は、リスクを外部化させてしまった。その結果、セキュリティは、リスクのコントロール可能な装置として見なされてしまった。
 人はなぜ賭けるのか。それは、まさにこの不可能性の可能性こそが、身体のありようそのものだからです。そして、それゆえに、社会はそれを隠蔽しようとする。重要なのは、リスクあるいは無限としての脅威が、私という有限性のなかに最初からあったものだということです。現代の社会で起こっていることは、それが私の外に飛び出して、私自身の脅威になってしまったことです。リスク/セキュリティという不毛な戦いが、こうして始まったのです。
 檜垣氏の議論は、リスクとセキュリティのまさに内部観測といえる分析だと思います。
 beforeで述べたように、リスクの資産、脅威、脆弱性という三つの要素は、檜垣氏の論脈によれば、「外」にあるものです。内と外を分けたことによって、リスクというものが脅威となって私たちの前に立ちはだかることとなったのです。そうではなく、リスクとはそもそも私という身体の、こういってよければ属性にすぎないのです。セキュリティが破られることが問題なのではない。セキュリティとはその端緒から破られるものなのです。破られることによって、私自身が外へと開かれる。その契機となるものが、他ならぬセキュリティなのです。セキュリティとは、私たちの生存を維持するために破られ続ける当のものにすぎないのです。 (佐藤真)


 
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◎フーコーの思想、生-権力から統治性へ
ミシェル・フーコー講義集成〈8〉 生政治の誕生 慎改康之訳 筑摩書房 2008
フーコーの後で 統治性・セキュリティ・闘争 芹沢一也他編 慶応義塾大学出版会 2007
生と権力の哲学 檜垣立哉 ちくま新書 2006
フーコー・コレクション〈6〉 生政治・統治 小林康夫他編 ちくま学芸文庫 2006
自己のテクノロジー フーコー・セミナーの記録 M・フーコー他 田村俶他訳 岩波現代文庫 2004
フーコーの穴 統計学と統治の現在 重田園江 木鐸社 2003
ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生 G・アガンベン 高桑和巳訳 以文社 2003
アウシュビッツの残り物 アルシーヴと証人 G・アガンベン 上村忠男他訳 月曜社 2001
フーコーの権力論と自由論 その政治哲学的構成  関良徳 勁草書房 2001
フーコー G・ドゥルーズ 宇野邦一他訳 河出書房新社 2000
権力の系譜学 フーコー以後の政治理論に向けて 杉田敦 岩波書店 1998
性の歴史 1~3 M・フーコー 田村俶他訳 新潮社 1987

◎偶然性、賭け、運命
賭博/偶然の哲学 檜垣立哉 河出書房新社 2008
賭ける魂 植島啓司 講談社現代新書 2008
偶然のチカラ 植島啓司 集英社新書 2007
偶然と驚きの哲学 九鬼哲学入門文選 九鬼周造 書肆心水 2007
生命と現実 木村敏との対話 木村敏、檜垣立哉 河出書房新社 2006
偶然性の精神病理 木村敏 岩波現代文庫 2002
偶然性と運命 木田元 岩波新書 2001
九鬼周造全集 第二巻  偶然性の問題 岩波書店 1982

◎◎狂気、犯罪、ホラーハウス社会
ホラーハウス社会 法を犯した「少年」と「異常者」たち 芹沢一也 講談社+α新書 2006
狂気と犯罪 なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか 芹沢一也 講談社+α新書 2005
安全神話崩壊のパラドックス 河合幹雄 岩波書店 2004
精神医療と心神喪失者等医療観察法 町野朔編 有斐閣 2004
過防備都市 五十嵐太郎 中公新書ラクレ 2004
わが子を被害者にも加害者にもしない 藤井誠二 徳間書店 2003
犯罪と精神医療 野田正彰 岩波現代文庫 2002
日本精神科医療史 岡田靖雄 医学書院 2002
〈法〉から解放される権力 芹沢一也 新曜社 2001
少年の「罪と罰」論 宮崎哲哉他 春秋社 2001
少年犯罪 鮎川潤 平凡社新書 2001
「脱社会化」と少年犯罪 宮台真司他 創出版 2001

アーキテクチャと環境管理社会
アーキテクチャの生態系 情報環境はいかに設計されてきたか 濱野智史 NTT出版 2008
思想地図 vol.2 特集・ジェネレーション 東浩紀他編 日本放送出版協会 2008
思想地図 vol.1 特集・日本 東浩紀他編 日本放送出版協会 2008
インフォコモンズ 佐々木俊尚 講談社 2008
Googleを支える技術 西田圭介 技術評論社 2008
ゲーム的リアリズムの誕生 東浩紀 講談社現代新書 2007
ウェブ炎上 荻上チキ ちくま新書 2007
2ちゃんねるはなぜ潰れないのか? 西村博之 扶桑社新書 2007
CODE VERSION2.0 L・レッシグ 山形浩生訳 翔泳社 2007
グーグル 佐々木俊尚 文春新書 2006
暴走するインターネット 鈴木謙介 イーストプレス 2002
コモンズ L・レッシグ 山形浩生訳 翔泳社 2002
動物化するポストモダン 東浩紀 講談社現代新書 2001
CODE インターネットの合法、違法、プライバシー L・レッシグ 山形浩生他訳 翔泳社 2001

◎リスク社会、自己再帰性、セキュリティ
暴走するセキュリティ 芹沢一也 洋泉社新書 2009
自由とは何か 監視社会と「個人」の消滅 大屋雄裕 ちくま新書 2007
世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 U・ベック 島村賢一訳 平凡社 2003
リスク論のルーマン N・ルーマン 小松丈晃訳 勁草書房 2003
監視社会 D・ライアン 川村一郎訳 青土社 2002
危険社会 U・ベック 東廉他訳 法政大学出版局 1998
近代とはいかなる時代か? モダニティの帰結 A・ギデンズ 松尾精文他訳 而立書房 1993