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[最新号]談 no.85 WEB版
 
特集:生存の条件
 
表紙:齋藤芽生 本文ポートレイト撮影:すべて秋山由樹
   
    
 

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「生存」、潜在能力アプローチから考える。

後藤玲子
ごとう・れいこ
1958年東京都生まれ。一橋大学大学院経済研究科博士課程修了。経済学博士。社会保障研究所(現国立社会保障・人口問題研究所)研究員を経て、現在、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。著書に『正義の経済哲学--ロールズとセン』東洋経済新報社、2002、『福祉と正義』A・センとの共著、東京大学出版会、2008、『アマルティア・セン--経済学と倫理学』鈴村興太郎との共著、実教出版、2001、他 。

そのポジションに立てばこう見えるのも当然だ、
という互いの了解を形づくっていく、というのがアマルティア・センの考えなんです。
そこには、あるポジションに特有な共同幻想に本人たちが気付いていく、 あるいは、
あるポジションに特別の権利を付与することの妥当性が了解されていくプロセスも含まれます。
ある種の見え方のルールのようなものが共有されていくプロセスが、
公共性という意味ではないかと思っているんです。

 
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「労働と賃金に分離」の前で資本主義は沈黙するか。

萱野稔人
かやの・としひと
1970年愛知県生まれ。パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。哲学博士(パリ大学)。現在、津田塾大学国際関係学科准教授。哲学・社会思想。著書に、『権力の読みかた』青土社、2007、『カネと暴力の系譜学』河出書房新社、2006、『国家とはなにか』以文社、2005、他。

「社会における〈暴力への権利〉の源泉」をカネによって、
つまり〈富への権利〉によって手にいれることができるか。
カネは〈富への権利〉である以上、
市場に出ていて価格のついているものならすべて買うことができます。
しかし、「〈暴力への権利〉の源泉」だけは買えないのです。

 


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この世界における別の生……霊性・革命・芸術

佐々木中
ささき・あたる
1973年青森県生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文社会研究系基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野博士課程修了。博士(文学)。現在、立教大学ほか兼任講師。哲学、現代思想、理論宗教学専攻。著書に『夜戦と永遠』以文社、2008、翻訳(共訳)に『ドグマ人類学 西洋のドグマ的諸問題』P・ルジャンドル、平凡社、2003、他。

様式化されない生などありません、しかし同時に、様式化され尽くしてしまう生もない。
そして「生存そのもの」も、そこから事後的に遡行することで見出される何かであるにすぎない。
剥き出しの生があって、それが形式化されて固定化する。
その調教のプロセスがある。そう考えるのは過ちです。
そうではなく、ただひたすら調教のプロセスがあって、
その結果として形式化された生と非形式的な生が同時に浮上する、こともある、ということです。
あるのは永遠の調教のプロセスだけです。

 

editor's note[before]

生存の条件を問うことは、最低限の生き方を問うことではない

 金融危機に端を発する世界経済の急速な悪化によって、先進諸国では新たな貧困が問題になっています。貧困の拡大・変質は、すでにバブル崩壊後の日本では、他の先進諸国に先んじて顕著になっていましたが、今回の金融危機は、さらにそれに拍車をかけるものとなりました。
  セーフティネットという概念があります。生活や雇用を支える最終的な安全網のことです。ところが、今回の不況は、このセーフティネットが機能不全に陥っていることをはからずも露呈させてしまったのです。セーフティネットが機能していない、それは、端的に生存権が脅かされているということです。ただ普通に生きること、言い換えれば、生存すること自体が、日本ではままならなくなっているのです。
  今号では「生存」について考えてみましょう。生存とはそもそも何を意味するのか。そして、その条件とは何か。生きることとは、可能性へ開かれていること。そう捉え直してみることから、改めて人間における生存の意味を問うてみたいと思います 。

現代の貧困

 もはや、誰も貧困を無視することはできなくなりました。つい数年前まで「貧困は解決した」ものと思われていましたが、いまやそこかしこに貧困が顔を出しています。解決どころか拡大し、新たな貧困すら生まれているのです。なかでも注目すべきは、若年層の貧困率が増大していることです。
 OECD(経済協力開発機構)が昨年末に発表した報告書『Job for Youth-Japan』によれば、日本の15~24歳の失業率は2002年の9.9%から2007年には7.7%へと低下したものの、2007年の15~24歳の長期失業率は10年前の18%から21%へと上昇、若年就業率も41.5%と依然として10年前の水準を下回り、OECD平均の43.6%より下回っている。つまり、若年層の五人に一人は12ヵ月以上仕事を見つけられない状態にあるというのです。
 わが国の社会保障は、人生の後半に集中するという特徴をもっています。大まかに言うと、現役世代は、企業や家族で面倒をみて、人生の後半は社会が支えるという構造になっています。若い世代は自己責任でやれという考えが基本にあるので、もともとこの層を社会が支えるという発想がない。若年層の貧困の増大という事態は、その意味でわが国の社会保障制度の弱点を如実に示しているのです。そして、支えがないということは、言うまでもなく生存に関わる問題に直結します。セーフティネットが不十分な状態のなかで、雇用の保証すらない。それが現代の若者たちが置かれているリアルな現実なのです。
 では、なぜ日本で貧困が拡大しているのでしょうか。五つの要因が考えられるといいます。一、収入源が限られている高齢者の増加。二、他に働く人や一緒に生活する人がいないため、生活費の増加や収入の減少を補う手段がない単身者世帯の増加。三、グローバル経済の進展による製造業の弱体化。四、技術や知識の市場価値が上昇するIT化社会のなかでの未熟練労働者の賃金低下。五、それに伴い顕在化していった非正規労働者やワーキングプアの増加などです(1)。これらの要因からわかることは、日本で起こっている貧困は、先進国共通の問題であると共に、高度成長期を経て、バブルの崩壊、長期的な景気の低迷がもたらした日本経済に特徴的な現象であるということです。
 ここ十数年間の日本経済をエコノミストたちは「失われた10年」と呼んでいます。グローバル経済の展開によって、日本の製造業は国際競争力を失い、工場の海外移転が相次ぎました。その結果として、高卒生を正規労働者として吸収してきた地方での雇用の場が失われ、卒業無業やフリーターが増加するという事態を生んでいると指摘するのは経済学者の駒村康平氏です。駒村氏によれば、地方の製造業の消滅は、卒業時に安定した職場を紹介するという「教育と職業の橋渡し」的な高校の役割を奪い、その結果、戦後続いてきた中流階級の再生産の仕組み自体が壊されてしまったというのです。
 国内の製造業の空洞化の一方で、大きく発展したのがサービス産業です。サービス産業は、消費者ニーズに柔軟に対応するために、より柔軟性をもたせた働き方を求めるようになりました。それを受けるように、それまで専門的な職業に限定されていた派遣が、他の労働でも可能なように規制緩和が進められました。その結果、今日、大きな問題となっている「ワーキングプア」を大量に生み出す結果になったのです。また、IT化の進展も高卒などには不利に働き、高学歴者の賃金と比較するとずっと低い労働環境が形成されてしまいました。
 今、言ったように、デフレ、低成長、グローバル経済による価格引き下げ圧力、サービス産業の拡大、ITの普及といった日本経済の急激な環境変化を受けて、95年に日経連(現・日本経団連)は『新時代の「日本的経営」』というレポートを発表します。そのなかで、「雇用ポートフォリオ」という考え方が出されました。労働者を「長期蓄積能力活用型」、「高度専門能力活用型」、「雇用柔軟型」の三つに類型化するもので、経済状況に合わせて柔軟に雇用調整ができるようにしようという提案です。じつのところ、幹部候補生の正社員と、スキルがあって企業を渡り歩くスペシャリストと、雇用の調整弁としての使い捨て型の労働者に分けて、都合よく使うことができる労働者を増やそうというのがホンネだったというのです(3)。これが、昨今問題となっている九九年の労働者派遣法の改正、さらには2003年の製造業派遣の解禁につながっていったわけです。
 産業のさまざまな分野で行われた規制緩和、柔軟に対応できる雇用環境の再構築、さらには、法人税、累進課税の減税。バブル経済以後の長期不況からの脱却を謳って始められた改革(改悪?)は、その意図とは裏腹に、結果的に「格差社会」を生み出してしまった。そして、言うまでもなく格差は、貧困へとダイレクトにつながっていくことになるのです。

格差と貧困の違い

 所得格差の拡大と貧困の拡大は、しかしながらその意味するところが違います。所得格差の拡大は、高所得者と低所得者の所得の差が広がるということであり、他方、貧困の拡大は、貧困基準以下の所得で生活が成り立たないような人々が増加することをいい、その含意は大きく異なります。つまり、貧困率の上昇の方が、格差の拡大よりずっと深刻な問題であり、格差縮小よりも貧困の解決の方が優先されるベきなのです(1)。
 社会福祉学の岩田正美氏も同様の見方をしています。その理由として、格差は、基本的にそこに「ある」ことを示すだけで済むことですが、貧困はそうはいかない。貧困は、人々のある生活状態を「あってはならない」と社会が価値判断することで、「発見」されるものだからだというのです(2)。したがって、貧困の解決は、その具体策を社会に迫っていくものとなります。
 また、貧困という問題を考える時には、この「あってはならない」という判断をめぐる議論が大事だともいいます。つまり、何を「あってはならない」状態と考えるか、根気よく議論をしていくべきだというのです。さらにもう一つの問題として、貧困がどのような人々の間で起こっているのかを正確に把握する必要があるということです。日本は、それを検証するためのデータがないために、生活保護の保護世帯数の増加ばかりが取り沙汰されますが、たとえば、貧困が一時的なものなのか、固定化したものなのかによって、その対応は異なったものになるといいます。そして、早急の策が必要なのは、固定化した貧困の方であると岩田氏は主張します。
 ところで、イギリスで貧困と都市との関わりを調査したシーボーム・ラウントリーは、貧困がライフサイクルと関係することを発見しました。ラウントリーによれば、特別な技能をもたない労働者の場合、失業しなくても人生で三回貧困に陥る危険があるというのです。一回目は、自分が子供時代、二回目は、結婚して自分の子供を育てている時代、三回目は、子供が独立し、自分がリタイヤした高齢期です。一回目、二回目はいずれも子供の扶養費が拡大して生活費を圧迫する時期であり、三回目は子供が独立し、自分は労働市場からリタイヤし、収入そのものが途絶えるか低下する時期にあたります。
 ラウントリーのライフサイクル・モデルは、貧困に陥る危険性が、劣悪な雇用・労働条件からだけではなく、普通に生活している場合でも、扶養期や高齢期においては貧困に陥る可能性のあることを示唆したことで、注目されました。このライフサイクル・モデルは、年金や児童手当などの社会保障制度づくり、また生命保険会社のライフプランにも活用されました。ラウントリーの見出した貧困は、その意味で20世紀的な、近代社会が生み出す貧困だったといえます。貧困の予防策を講じることを前提とした国家の構想、すなわち福祉国家は、ラウントリーのこの考えをベースにしています。
 冒頭、言いましたように、バブル崩壊とその後の金融危機は、世界経済を大きく変えることになりましたが、それは新たな貧困を生み出すことになりました。日本の場合は若年層の貧困がその一つです。ラウントリーのモデルは、あくまでも近代社会、とりわけ工業社会の労働者のライフスタイルを想定したもので、そのモデルを基礎にして福祉国家が構想されたわけですが、新たな貧困の登場は、福祉国家の限界を示すことになったのです。言い換えれば、現代の貧困問題は、これまでの福祉国家モデルでは立ちいかない側面をもっているということです。
 昨今、所得などの経済的な尺度だけでは見えない新たな貧困を、「剥奪」とか「社会的排除(social exclusion)」という言い方で社会的に定義づけようという考えが出てきました。「剥奪」とは、一般に人々が使えるはずのモノやサービスが利用できないことをいい、「社会的排除」は、モノやサービスに加え人間関係も失い社会的に孤立した状態になることをいいます。
 「今日起きている貧困の問題は、実は金銭を保証して解決できるような単純なものではなく、この剥奪・社会的排除が加わった複雑な様相を呈したものとなってい」て、「ホームレス、アルコール中毒、多重債務、孤独死といった現象は貧困問題と併発して起こっているが、ある意味で貧困をきっかけに、剥奪や社会的排除が起こり、さらに問題が深刻化していったことを示している」(駒村康平)のではないかというのです。

機能不全に陥っているセーフティネット

80年代以降に登場してきた新たな貧困も含めて、最終的な支えがセーフティネットです。一般に、一段目の雇用の領域でうまくいかなくても、企業に雇われている場合は、二段目の雇用保険や健康保険の「正規労働者向けの社会保険のネット」があり、さらには、三段目の国民健康保険や生活保護といった公的扶助の「最終的なネット」がある三層構造になっています。この重層的構造をもったセーフティネットが、じつは、現在穴だらけになっているというのです。一段目の雇用が減り、二段目の社会保険の幅は狭まり、ついには最後の支えである公的扶助による援助の水準が低下している。セーフティネットそのものが、まともに機能しなくなっているわけです。
 たとえば、こんなデータがあります。生活保護を受給できるはずの世帯のうち、実際に需給している世帯の割合を示す数値に捕捉率がありますが、捕捉率でみると、日本は約二割程度といわれています(アメリカ約七割、イギリス約九割)。しかも、最近の研究では、この数値はますます低下しているといいます。つまり、五人のうち四人はこのネットからこぼれ落ちる計算です。一方、全人口/世帯に対する受給者/世帯の割合を保護率といいますが、この保護率と捕捉率を合わせると、なんと100世帯中、10世帯が生活保護基準以下の生活をしていて、実際に保護を受けることができているのはたったの二世帯、というのです。この数字を見る限り、わが国のセーフティネットは、機能不全に陥っていると考えて間違いないと指摘する識者もいます(4)。
 貧困状態を測るモノサシ「貧困水準」には、「絶対的貧困水準」と「相対的貧困水準」の二つの考えがありますが、前者は「人が〈生存する〉のに最低必要な所得水準」で、人間が生存するのに必要なカロリー量に基づき数値的・客観的に設定したものです。先ほど言ったラウントリーも、栄養科学=必要カロリー摂取量基準を使って科学的な「生存費用」を算定できると言っています。ラウントリーは、「単なる肉体的能率を保持するために必要な最小限度の支出」を人間の生存の費用と考えました。すなわち、少なくとも「ぎりぎりの水準」をカロリーという数値的表現によって提示することは、価値判断をもち込むことなく生存費用が得られるという利点があると考えたわけです(2)。
 それに対して後者は、社会の一般的な生活を送っている人の生活水準に比較して、一定水準、たとえば一般的な生活水準の50%、あるいは60%程度の生活水準を保証するというものです。現在の日本の生活保護制度が定める貧困水準は、この〈相対的水準〉に基づいています(1)。ラウントリーに言わせれば、まさにその相対的というところが、問題だと言うに違いありません。実際日本の経済界の一部にも「“真の貧困基準”とは死ぬか生きるかのぎりぎりの水準を基準とするのがよく、政府の保証もその程度でよい」という意見もあるようです(1)。

最低限度の生活とは何か

 「1. すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
  2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
 これは、日本国憲法第二十五条による生存権の規定です。われわれ日本国民は、「最低限度の生活」を営む権利がある。そして、国家はその向上に努めなければいけないというのです。この「最低限度の生活」とは、ラウントリーのいう「ぎりぎりの水準」のことなのでしょうか。それとも、生活保護制度に定められた〈相対的水準〉に準拠して、その時代時代の経済状況に合わせつつ営まれる暮らしのことなのでしょうか。
 セーフティネットが機能不全を起こしている根拠として、生活保護が受けられるにも関わらず、実際の受給者がわずか二割にすぎないと言いました。絶対的な貧困であれ、相対的な貧困であれ、この生存権の規定と照らし合わせてみると、最低限度の生活ですら、われわれは営むことができなくなりつつあるということになります。しかし、それにしても「最低限度」とはどういう意味なのでしょうか。社会学者の立岩真也氏は「〈最低限〉を保証さえすればそれで〈上がり〉ということではないのだという視点を保っておく必要がある」と言っています(5)。ここでの文脈に引きつけるならば、生存が保証されればとりあえずいいということではなく、まさしくその条件とは何かを問う視点をもち続けることが重要だということになるでしょう。生存を問うことは、その生存を規定する条件を問うことと同義なのです。  アイザイア・バーリンは自由には積極的自由と消極的自由があると分類して、自由の平等な保証は、消極的自由に限定すべきだと主張しました。それに対して、インドの経済学者アマルティア・センは、むしろ積極的自由の概念に着目します。センによれば、自由とは「本人が価値をおく理由のある生を生きられる」ことを意味し、「自己にも他者にもその理由をつまびらかにしながら、ある生を価値あるものとして選び取っていくという個人の主体的かつ社会的な営みが、実質的に可能であることを意味する」というのです。
 立命館大学大学院先端総合学術研究科教授・後藤玲子氏は、「このような広義の自由を人々に平等に保障すること、そのために必要な制度的な諸条件の整備--生存を支える物質的手段の保障から個人の主体的な生を支える社会的諸関係や精神的・文化的諸手段を整えることまで--を的(object)とした」として、センの経済学において、「自由」がキー概念になると指摘します。経済システムの分析・評価・構築にあたっては、広義の意味での自由の保障--意思・利益・評価主体である個人を尊重すること--を外的視点として明示的に導入すること。センの経済学の中心にある社会的選択理論&潜在能力アプローチの重要性は、まさにその「自由」の概念にあるというのです。
 人間における生存とはどういう意味をもつのか、アマルティア・センのキーワードの一つである「潜在能力アプローチ」を導きの糸に、後藤玲子氏に考察していただきます。
 カネには交換とは別の起源と機能があると津田塾大学国際関係学科准教授・萱野稔人氏は著書で指摘しています。奪うものと奪われるものがあり、奪う側が権利関係を無理やり組み立てて、労働の成果、すなわちカネを吸い上げていく。つまり交換は、資本主義を生み出さないというのである。カネは交換のためにあるのではなく、むしろ、国家の徴収ないし収奪のためにこそあるというのです。
 たとえば、ベーシック・インカムが提起するのは、ここの問題に関わってくるといいます。労働と賃金のつながりを切断しようとするのが現代の資本主義だとすれば、ベーシック・インカムはまさにその関係を逆転しようとします。働かなくたってカネはもらってもいい、ベーシック・インカムは、労働と賃金が連動していないという資本主義社会の現実を、全く裏返しの形で暴き出します。
 賃労働ではない労働によって支えられている資本主義。生存と労働の関係が根本から崩れたところに発生する生存の危機について、萱野稔人氏に考察していたただきます。
 「フーコー自身が語るとおり生存の美学や自己への配慮は〈胸糞が悪くなるもの〉であり、それ自体は革命や抵抗を保証しない」といいます。そして、「生存の美学」は「政治性」を拭い去られた「霊性」の一ヴァージョンでしかないとすら言うのは、立教大学他で講師をされている佐々木中氏です。
 ラカンの「余剰享楽」という既存の枠内で「ない」ものを「ある」として掠め取る機制を壊乱するアンスクリプションとしての「女性の享楽」、ルジャンドルの社会体を措定するテクストの書き換えによって発生するある種の神話、そしてフーコーがイラン革命に幻視した統治性に抗する汚辱にまみれた身体における「戦いの響き」としての政治的霊性……。この三つの概念が、相互に反復しつつ私たちを「生存」の際へと連れ出すのです。
 「すべてについてすべてを」語ろうとする社会批評家と「一つについてすべてを」語ろうとする専門家の書き方は、結局のところ同じファルス的な欲望に根ざしていると言い切る佐々木中氏に、あえて、今日語りうる「生存」とは何か、その条件について論じていただきます。(佐藤真)


引用・参考文献
(1)駒村康平『大貧困社会』角川SSC新書、2009
(2)岩田正美『現代の貧困 ワーキングプア/ホームレス/生活保護』ちくま新書、2007
(3)雨宮処林凛他著『脱「貧困」への政治』岩波ブックレット、2009
(4)山森亮『ベーシック・インカム入門 無条件給付の基本所得を考える』光文社新書、2009
(5)立岩真也他『生存権 いまを生きるあなたに』同成社、2009

 

 

editor's note[after]

キュニコス派的生、あるいは終りなき戦い

 アマルティア・センは、『貧困と飢餓』(岩波書店)のなかで、飢饉の原因について、詳細な分析を行っています。飢餓や飢饉の真の原因は何か、その防止はいかにして可能か、センは、権原という概念を援用して、この問題に挑みました。世界各地で起こった大規模な飢饉、その原因のほとんどは食料の供給不足にあるとするのがそれまでの一般的な解釈でした。それに対して、センは全く異なる見解を示したのです。飢饉は、権原(entitlement=食料など生活必需品について正当な理由で手に入れ、自由に使える能力)がなんらかの理由によって損なわれた状態におかれた時に発生する。そして、それはたいていの場合自然災害ではなく、民主主義の欠如などの政治的原因によることの方が多いと言ったのです。
 センは、権原が損なわれている状態を「剥奪」と呼び、それは人間が人間として生きるために必要な最低限の基本的人権が侵害されている状態のことだと言いました。そして、飢饉や飢餓をなくすには、「それに苦しんでいる人たち自身が〈飢饉根絶の受益者であるだけではなく、重要な意味で、その主要な行為者となるべき〉であり、私たちもまた、それらの人たちを〈単に長い間苦しんできた受難者としてではなく、積極的なして見ること〉が大切」であると示唆しました(1)。生存の条件とは、したがってセンにとっては、まず権原が損なわれていない状態を指すのです。権原が壊されていないか、もしもそれが破壊されているとしたら、どのような形で破壊されているのか、そのことを把握することから始めようとセンは問いかけたのです。
 生存の条件について、まずアマルティア・センの思想を手掛かりに考察しました。後藤玲子氏のインタビューを整理してみましょう。
 センは、厚生経済学の立場から、福祉に軸足を置きつつ、生産と消費の両面を見据えて分配の問題に取り組みました。センが、そこで拠り所にしたのが社会選択理論です。社会選択理論とは、人々の好みや価値判断が社会のなかでどのように形成されるかを研究するものですが、センは、さらに踏み込んで、個々人の好みや価値判断がどのように形成されるか、その一人ひとりの形成プロセスにまで遡って見ようとしたのです。そうすることで、初めて個々人の具体的な選好が明らかになり、その選好を可能とする条件が明示化されるからです。
 本人の厚生を高めるような選好であっても、それが社会的通念に適応しながら形成されたものであった場合、その選好は自ずと狭められたものになっている可能性があります。つまり、合理的な選好であっても、対象となる財の範囲が限られていれば、その選好は必然的に狭められてしまうからです。たとえば、飢餓や飢饉の発生は、ある特定の集団において、合法的・合理的に取得できる財の範囲が極端に狭められたことが原因だったというのです。
 センは、権原という概念を使って、改めて飢餓や飢饉について分析します。私的所有制のもとでは、四つの権原――交易に基づく権原、生産に基づく権原、労働所有に基づく権原、継承と転移に基づく権原――が関係しあって一つのネットワークを構成しているというのです。われわれの世界とは、いくつかの「正当な理由で手に入れ、自由に使える能力」のネットワークによってつくり出された空間です。言い換えれば、経済活動とは、この四つの所有形態の組み合わせのことなのです。そして、飢餓や飢饉は、この権原の組み合わせがもたらした帰結にすぎない。権原それ自体が破壊されている、もしくはそのネットワークに混乱が生じている。であるならば、権原の組み合わせ、連なりについて、より精確な分析が必要になってくるというわけです。
 そこで、センは、潜在能力アプローチという考えを提案します。潜在能力(capability)アプローチとは、財やサービスなどの資源のもつ「特性」を利用して達成可能となるさまざまな行い(doings)や在りよう(beings)の組み合わせ(functionings)のことです。すなわち、「人が善い生活や善い人生を送るために、どのような状態(beings)にありたいのか、そしてどのような行動(doings)をとりたいのかを結び付けることから生じる機能(functionings)の集合」・が潜在能力アプローチなのです。この潜在能力アプローチに基づいて、人々の生き方や生活、さらには人の福利=善い生活(well-being)を実現しようとセンは考えました。
 社会選択理論の議論に当てはめてみると、こういう言い方になるでしょう。人々がもっている習慣的な選好や効用ではなく、常識的・標準的に考えられているベーシック・ニーズでもなく、私たちが生きていくうえでどういう行いや在りようが当たり前に保証されなければいけないのか、それをあくまでも公共的な討議の中で議論し、そこから今必要なニーズを発見していく。そのバックアップになる理論が潜在能力アプローチだというわけです。
 ここで注意したいのは、どういう在りようが今達成されているかということだけではなく、どういう行い在りようの可能性が、その人において開かれているかを問うていることです。センは、著書で潜在能力とは何か具体例を出して挙げています。それは、「よい栄養状態にあること」、「健康な状態を保つこと」、「幸福であること」、「自分を誇りに思うこと」、また「人前で恥ずかしがらずに話ができること」などがあると言っています・。要するに、その人が、今、何を欲し、何をしたいのか。そして、それが実現できる状態をもつくり出すこと、すなわち、その「可能性」に重点が置かれているのです。
 センがバーリンの言う消極的自由より積極的自由を推すのも、また、生活保護法に必要即応の原則が含まれていることに後藤氏が注目するのも、それが可能性へ開かれているからでしょう。別言すれば、今は実現していないけれども、将来必ず実現させるであろう能力に、自らが開かれていることを潜在能力アプローチという概念は含意しているのです。

自分にとって価値ある生とは何か

 後藤玲子氏は、この議論との関連で、近年話題になっているベーシック・インカムに関心を寄せています。ベーシック・インカムは、新しい社会保障の考え方でその最大の特徴は、「無条件給付」にあります。低所得者も高所得者も、働く者も働かない者も大人も子供も全く分け隔てなく、一律に同額を給付しようという政策です。さらに、それが個人単位で給付されるというところが、これまでの家計(家庭)中心の給付と大きく違うところです。後藤氏は、この無条件給付に注目します。自由な選択の機会が保証されているという意味で、面白い考え方だというのです。労働以外に売るものがない場合、劣悪な労働環境でも最終的にはそれを受け入れざるを得ない。ベーシック・インカムの考えによれば、その仕事がイヤならやめて、改めて考え直すことができる点がいいというわけです。そして、その延長で「働いて提供することができるなら、そうしなさい、困窮しているなら、受給しなさい」という、生活保護の理解、新しい活用の仕方を提言します。じつは、日本国憲法の生存権は、まさにこの両面を保証しているという点でユニークだというのです。
 そこで改めて問題となってくるのは「公共性」です。後藤氏は、そこでとても面白い考えを披露されました。公共性とは、一つの「観点=viewpoint」ではないかというのです。個人、集団、組織、共同体が、それぞれの立場において採用することのできる観点であり、それゆえ常に可変性をもっている。たとえば、センはそれをポジションに応じた客観性という言い方で表現しています。高齢者であれば高齢者の、障害者であれば障害者のアイデンティティがある。そうしたそれぞれの思惑が綯い交ぜになっているのが私たちの世界であるとすれば、その立ち位置によって、ポジションによって、見方は変わってきます。もちろん変わっていいわけで、そうした見方の違いをお互いに了解しながら判断していく。そこに公共性が見出せるというわけです。そのプロセス、合意形成それ自体が公共性ではないか。その見え方を共有するプロセス、言い換えれば、一種のルールのようなものかと後藤氏は言うのです。ルールである以上従わざるを得ないわけですが、だからといって普遍的なものではありません。ルールは、その本性上常に可変可能です。いつでも変えられるというところにこそ、公共性の存在意義があるというのです。
 公共に従うということは、利他的であるということではないのです。むしろ、自己の目的や価値観、選好というものを大事にしてほしい。それは、決して他者を傷つけることにはならないし、それを保証するのが公共性、公共的ルールというものではないでしょうか、という。他者の福祉を大切に思うならば、同じ比重で自らの福祉も大切にしてほしい。自分にとって価値ある「生」を問うことは、人々にとっての価値ある福祉を問うことでもあるのです。このように考えてみると、センの潜在能力アプローチは、社会的選択の視座を伴って、個人の社会性を尊重しながら福祉を保証する手立てを決定し、福祉を保証する手立てを講じながら個人の主体性を尊重するという、一見すると両立不可能な、その意味で離れ業ともいえる挑戦だったと後藤氏は言います。人には、選択することを通じて選択する力自体を高め、自分の位置や他者の関係や自他に対する責任を自覚し、自分のなした選択と真の利益とのギャップに気づく側面がある。だからこそ他者に対しての説明が重要なのだという。ここにセンの民主主義への強い信頼が見て取れます。
 潜在能力の機能の拡大こそ、発展というものの究極的目標であり、それは同時に自由の拡大を意味します。そしてより多くの自由は人々が自らを助け、そして世界に影響を与える能力を向上させるとセンは『自由と経済開発』の中で主張しています。私たちの社会にある制度、ルールは、私たちの潜在能力の拡大をサポートしてくれるものなのか否かで、その評価は決まります。生存の条件とは、まさに潜在能力の拡大させる当のものであるべきなのです。

ベーシック・インカムのジレンマ

 ベーシック・インカムは、新しい社会保障のあり方として注目していいのではないか。そんな思いを萱野稔人氏にぶつけてみたところ、意外にもその反応は否定的なものでした。世界経済のリセッションに拍車をかけた金融資本主義のベースとなっている新自由主義(ネオリベラリズム)と、ベーシック・インカムの考え方はある意味強い親和性をもっているからだというのです。今回のインタビューで、とくにお聞きしたかったのは賃金と労働との関係ですが、その関係を切断したのが金融資本主義であり、まさにそれと同じ形でベーシック・インカムも、カネ(賃金)と労働、カネと生産を切り離すというのです。
 ベーシック・インカムの基本である「無条件給付」は、カネと労働の分離を促すものです。働かずにカネがもらえて、しかも国民人一人ひとりに支給される。この仕組みは、なんのことはないネオリベラリズムが志向するカネと労働の分離を、より徹底化させるものであり、カネと生産を断ち切ってしまった金融資本主義とも相通じるものがあるというわけです。
 モノをつくって売ることから、カネの力によってモノづくりを支配する方へ大きく舵を切ったアメリカは、いわばカネを動かすことでカネを増やす領域をつくり出しました。アメリカは、金融帝国を目指してどんどん資本をつぎ込んでいきましたが、それを可能にしたのは市場経済を絶対とするネオリベラリズムです。大幅な規制緩和と小さな政府。市場原理を社会に浸透させるために、国家はできるだけ口を出さない。市場経済の徹底化が、やがて世界をまるごと一つの巨大市場にしてしまう。ネオリベラリズムは、地球上に生活するすべての人々を根こそぎその市場の内部に組み込もうとするのです。ベーシック・インカムのそもそもの発端は、そうした市場原理に人々が飲み込まれてしまわないようにするために生まれたアイデアでした。ところが、実際は全く逆に作用する。ベーシック・インカムは、それまで市場とは縁のなかった領域にも貨幣を行き渡らせてしまうというのです。貨幣経済とは別の論理で動いていた領域までも貨幣化させてしまう。ベーシック・インカムは、かえって貨幣の支配力を強めるだけではないかと萱野氏は危惧するのです。
 さらにもう一つ大きな問題は、承認への関心が薄いことです。働くということは、承認なくしてはありえないものだという。働くということは単にカネを得るだけではない。社会において、居場所を得ることでもある。労働には、こうした承認の次元が含まれていることで、社会と深く関わることができるのですが、ベーシック・インカムは、その契機を断ち切ってしまう。いうならば、生存の条件を自ら市場へ売り渡すことになる。ネオリベラリズムは、働くという、言い換えれば生存の条件を経済的合理性へと還元しようとします。ベーシック・インカムもまた同様に、生存の条件を市場原理に還元化する傾向をもっているというのです。繰り返すまでもなく、ベーシック・インカムの最大の特徴である「無条件給付」がカネと労働、カネと生産の分離を促すのですから、そもそも最初からジレンマを抱えていたと考えるべきなのでしょう。

暴力といかにして付き合うか

 ところで、カネと労働、カネと生産の分離は、他方、市場がやがて国家を飲み込むのではないかという幻想をもたせました。文字どおり、これは単なる幻想です。幻想であるにもかかわらず、私たちはそこに一種の期待すら抱いてしまったのです。なぜそのような幻想が生まれたのか、しかも日本の知識人たちにその傾向が強かったのはなぜでしょうか。資本主義による国家の超克という幻想に翻弄された知識人たち、そんな「日本イデオロギー論」を構想するのは、それはそれで面白いのですがそれは措くとして、ここには、国家と資本主義の位置付けの根本的な誤解があったというのです。
 国家は支配と服従の権力関係によって成り立つのに対して、資本主義は市場という自律的な人間同士の自由な交換によって成り立っていて、両者はそれぞれ別の原理によって動いている。グローバリゼーションによって一挙に力を得た資本主義は、やがて国家を飲み込み消滅させるだろうと考えたわけですが、この図式は、根本的に間違っているというのです。萱野氏は、そもそも国家と資本主義は対立するものではないと言います。ドゥルーズ=ガタリの「捕獲」という概念を援用して、国家と資本主義は、「捕獲」という運動が分化してできたものだというのです。
 国家は、強制的に税という形(富)を吸い上げる。一方、資本は、所有権に基づいて他人の労働の成果(富)を吸い上げる。国家と資本は、人々の労働の成果を吸い上げる二つのヴァリエーションなのです。暴力に基づいて労働の成果を吸い上げる仕組み=国家がまずできる。そのもとで、所有権に基づいて労働の成果を吸い上げる仕組み=資本主義ができるのです。資本主義の根幹である私的所有は、国家による公的所有を前提に、そこから派生することによって成立しました。そういう順番で成立した以上、資本主義が国家を超えるということはあり得ない。金融危機が起こった時に、金融機関は真っ先に国家に助けを乞うたわけですが、この公的資金注入の構図は、国家なくして資本は成立しないことをあからさまに表明してしまったのです。
 では、結局のところ国家とは何かということになります。萱野氏によれば、国家とは「社会における〈暴力への権利〉の源泉」です。一切の〈暴力への権利〉の源泉である以上、カネで買うことはできません。その意味でも、〈富への権利〉によって「社会における〈暴力への権利〉の源泉」を飲み込んでしまうなどということは、原理的に不可能なのです。
 国家の暴力といかにして付き合うか、個々人の生存の条件は、まさに暴力とのつき合い方にかかっています。〈暴力への権利〉の源泉は買えないという条件のなかで、私たちはどのように生存を確保していくべきか。そうした生存の条件を前にして、国家と資本主義の関係を考察することが重要なのです。

統治性の無限の彼方

 「様式化されない生などありません、しかし同時に、様式化され尽くしてしまう生もない。そして〈生存そのもの〉も、そこから事後的に溯行することで見出される何かであるにすぎない。剥き出しの生があって、それが形式化されて固定化する。その調教のプロセスがある。そう考えるのは過ちです。そうではなく、ただひたすら調教のプロセスがあって、その結果として形式化された生と非形式的な生が同時に浮上する、こともある、ということです。あるのは永遠の調教のプロセスだけです」  フーコーの最晩年期の講義が出版されて、これまでのフーコー像が、大きく書き換えられようとしていますが、佐々木中氏の仕事は、そうした「新しいフーコー」の目を通して捉えられた「生」のあり方、統治性でした。フーコーの目が見た私たちとは、〈私たちの生存〉とは、事後的に解釈された、その意味ではその結果としてしか把握することのできない「調教のプロセス」なのです。
 この人間の生に様式や形式を与える「調教」の作業は、かならず常にすでに歴史上どの時点でも存在します。しかし、失敗を余儀なくされたものとしてだけ、壊れかけこけつまろびつしながらガタピシ動く「調教機械」のようなものの作用の結果としてのみ存在する他ないものです。つまり、私たちとは、常にすでに「調教」の失敗の効果でしかないのです。「調教」の失敗? そう、私たちは常にすでに「調教」されている存在としてしか事後的に自らを把握できないのだけれど、その「調教」の結果である存在も、失敗の結果でしかないというわけです。完璧な形での「調教」からも、またその「調教」から完璧に逃走することもできずに、ただ緩慢に中途半端に、現在ただ今も「調教」され続けているはずの存在として生き恥を曝している自分。おそらく、それこそが私という存在、その生存の形なのでしょう。しかし、それはあらかじめ失敗することを運命づけられているわけでもないのです。失敗の結果ではあるけれど、その失敗が本当に失敗なのか、じつのところそれすらもよくわからない、そういう曖昧模糊とした存在なのです。
 国家の役割とは何か。佐々木氏は、それは端的に子供を「産み育てる」ことだと言います。「産み育てる」こととは、生を制定し、生存を設定する「調教」のプロセスそれ自体です。国家とは、人々=存在によって国家となるのであれば、子供は国家にとって文字どおり宝となる存在です。その国家に貧困が生じている。これをどう理解すればいいのでしょうか。そもそも「産み育てる」ことは、きわめてリスキーな作業です。にもかかわらず、国家はそれをしてきたのです。なぜならば、「調教のプロセス」を担う主体として機能してきたからです。貧困とは何かといえば、このプロセスがうまく機能しなくなったことを表しているのではないか。
 国家が担ってきたある種の「調教のプロセス」が、どこかおかしくなってきている。ガタピシ動く「調教機械」によって担われてきた私という存在そのものが、ガタピシ動くしかない「調教機械」になってしまっているとしたら……。「調教機械」を「調教機械」として字義どおり駆動させていくこと、それが私たちにとっての生存という意味であり、そのプロセスの調整がすなわち生存の条件だとしたら、今やそれがある意味機能不全を起こしてしまっているのではないでしょうか。
 統治とは、まさしくこの生存の条件を確定するプロセスのことでした。だからこそ、ネオリベラリズムは、生存の美学ということに躍起になったのです。ネオリベラリズムは、理念の水準に、可視的なスタイルの水準として、どうしても生存の文体が必要だったのです。しかし、少し落ち着いて考えてみればわかることですが、理念の水準と可視的なスタイルの水準には、共通する基盤など始めからないのです。そもそも、両者の関係にはなんら必然性がない。にもかかわらず、私たちはそれが唯一の生き方であり、「生」の形状であるかのように思い込んでいました。フーコーの言う他者の統治と自己の統治の抜き差しならぬ関係は、唯一の、最終的には還元不可能なものと考えられてきました。しかし、それはそう考えさせられてきた、そう思い込まされてきただけなのです。なんの誇張もなく、私たちはそのように「調教」されてきたわけだし、その「調教」から逃れられないものと勝手に思い込んできたのです。しかし、そうではない。
 フーコーが唐突に登場させたキュニコス派のディオゲネス。なぜ、フーコーはこの得体のしれない瘋癲にして稀代の哲人ディオゲネスを、この文脈で、すなわち、統治性について語られる生存の論脈において、登場させる必要があったのか。そう、あったのです。フーコーは、あえてディオゲネスをこの論脈においてこそ必要な一人の存在者として登場させなければならなかったのです。「言表可能性と可視性の〈別の〉結合を案出することによって〈別の〉真理を〈別の〉生存の形態において生きようとする永遠の努力」としてのキュニコス派的生。そして、それを実践し続けたディオゲネス。私たちは、私たち自身を統治するための、全く別のやり方がいまだに可能なのではないでしょうか、キュニコス派のディオゲネスは、そのことを私たちに示そうとした、とフーコーは指摘して死んでいったのだと佐々木氏は言いました。
 繰り返すまでもなく、完璧に調教され尽くし飼いならされる羊などいないのです。いまだ、それへの抵抗が続いている。まさに終りなき抵抗が。何も終わらない、終わることすら終わらせられない、永遠の終わりなき戦い。この戦いの途上こそが「生存」であり、生存の条件としての戦いなのです。常に別の生がある、常にすでに別の統治があり得る。そういう可能性へ開かれた存在としての「この私」を「この世界」へ投げ出すこと。唐突に潜在能力という言葉が脳裏をよぎります。そう、まさに潜在能力とは、「この世界」を「この生」として生きるための条件、その重要なツールではなかったのかと。フーコーとアマルティア・センという全く関係のない二人が、全く関係のない形で、しかし、唐突に結び付く。
 なんの必然性もない主体が、無関係のままに結合し、全く別の生の空間をつくり出すことだとしたら。まさにそれこそ別の生を生きること……。(佐藤真)

引用・参考文献
(1)アマルティア・セン『貧困の克服 アジア発展の鍵は何か』大石りら訳、集英社新書、2002

 

 
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◎アマルティア・セン、潜在能力、ベーシック・インカム
グローバリゼーションと人間の安全保障 アマルティア・セン 加藤幹雄他訳 日本経団連出版 2009
福祉と正義 アマルティア・セン、後藤玲子 東京大学出版会 2008
議論好きなインド人 アマルティア・セン 佐藤宏他訳 明石書店 2008
アマルティア・センの世界 経済学と開発研究の架橋 絵所秀紀他 晃洋書房 2004
センの正義論 効用と権利の間で 若松良樹 勁草書房 2003
アイデンティティに先行する理性 アマルティア・セン 細身和志訳 関西学院大学出版会 2003
貧困の克服 アジア発展の鍵は何か アマルティア・セン 大石りら訳 集英社新書 2002
クオリティ・オブ・ライフ 豊かさの本質とは アマルティア・セン 水谷めぐみ他訳 里文出版 2002
正義の経済哲学 ロールズとセン 後藤玲子 東洋経済新報社 2002
経済学の再生 道徳哲学への回帰 アマルティア・セン 徳永澄憲他訳 麗山大出版会 2002
アマルティア・セン 経済学と倫理学 後藤玲子他訳 実教出版 2001
集合的選択と社会的厚生 アマルティア・セン 志田基与師監訳 勁草書房 2000
不平等の経済学 アマルティア・セン 鈴村興太郎他訳 東洋経済新報社 2000
自由と経済開発 アマルティア・セン 石塚昌彦訳 日本経済新聞社 2000
貧困と飢餓 アマルティア・セン 黒崎卓他訳 岩波書店 2000
不平等の再検討 潜在能力と自由 アマルティア・セン 池本幸夫他訳 岩波書店 1999
合理的な愚か者 経済学=倫理学探求 アマルティア・セン 大庭健他訳 勁草書房 1989
福祉の経済学 財と潜在能力 アマルティア・セン 鈴村興太郎訳 岩波書店 1988
ベーシック・インカム入門 無条件給付の基本所得を考える 山森亮 光文社新書 2009
ベーシック・インカムの哲学 すべての人にリアルな自由を P・V・パリース 後藤玲子他訳 勁草書房 2009
すべての人にベーシック・インカムを 基本的人権としての所得保障について G・W・ヴェルナー他 渡辺一男訳 現代書館 2009
シチズンシップとベーシック・インカムの可能性 武川正吾編著 法律文化社 2008
自由と保障 ベーシック・インカム論争 T・フィッツパトリック 武川正吾他訳 勁草書房 2005
福祉社会と社会保障改革 ベーシック・インカム構想の新地平 小沢修司 高菅出版 2002

◎フーコー・ルジャンドル・ラカン
雑誌 現代思想 6月号 特集ミシェル・フーコー 青土社 2009
夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル 佐々木中 以文社 2008
ミシェル・フーコー講義集成(8〉 生政治の誕生 慎改康之訳 筑摩書房 2008
私は花火師です フーコーは語る M・フーコー 中山元訳 ちくま学芸文庫 2008
権力と抵抗 フーコー・ドゥルーズ・デリダ 佐藤嘉幸 人文書院 2008
賢者と羊飼い フーコーとパレーシア 中山元 筑摩書房 2008
フーコー G・ドゥルーズ 宇野邦一訳 河出文庫 2007
ミシェル・フーコー講義集成(7〉 安全・領土・人口 高桑和巳訳 筑摩書房 2007
フーコーの後で 統治性・セキュリティ・闘争 芹沢一也他編 慶応義塾大学出版会 2007
ミシェル・フーコー講義集成(6〉 社会は防衛しなければならない 石田英敬他訳 筑摩書房 2007
第II講 真理の帝国 P・ルジャンドル 西谷修他訳 人文書院 2006
西洋が西洋について見ないでいること P・ルジャンドル 森本庸介訳 以文社 2004
ドグマ人類学総説 西洋のドグマ的諸問題 P・ルジャンドル 西谷修監訳 平凡社 2003
ロルティ伍長の犯罪 「父」を論じる P・ルジャンドル 西谷修訳 人文書院 1998
対象関係 上下 J・ラカン 小出浩之他訳 岩波書店 2006
無意識の形成物 上下 J・ラカン 佐々木孝次他訳 岩波書店 2005
精神分析の四基本概念 J・ラカン 小出浩之他訳 岩波書店 2000
フロイト理論と精神分析技法による自我 上下 J・ラカン 小出浩之他訳 岩波書店 1998
精神病 上下 J・ラカン 小出浩之他訳 岩波書店 1987
家族複合 J・ラカン 宮本忠雄他訳 哲学書房 1986

◎生存、貧困、カネ
生存学vol.1 立命館大学生存研究センター編 生活書院 2009
生存権 いまを生きるあなたに 立岩真也他 同成社 2009
脱「貧困」への政治 雨宮処凛他 岩波ブックレット 2009
脱貧困の経済学 飯田泰之他 自由国民社 2009
大貧困時代 駒村康平 角川SSC新書 2009
絶対貧困 世界最貧国の目線 石井光太 光文社 2009
貧困研究 1、2 貧困研究会 明石書店 2008~
ルポ 貧困大国アメリカ 堤未果 岩波新書 2008
反貧困 「すべり台社会」からの脱出 湯浅誠 岩波新書 2008
新しい貧困 労働、消費主義、ニュープア Z・バウマン 伊藤茂訳 青土社 2008
現代の貧困 ワーキングプア・ホームレス・生活保護 岩田正美 ちくま新書 2007
権利・市場・社会保障 生存権の危機から再構築へ 伊藤周平 青木書店 2007
カネと暴力の系譜学 萱野稔人 河出書房新社 2006