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[最新号]談 no.89 WEB版
 
特集:ゲニウス・ロキと空間論的転回
 
表紙:吉澤美香 本文ポートレイト撮影 すべて新井卓
   
    
 

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お茶屋、座貸、ラブホテル・・・空間レンタル業の系譜学

加藤政洋
かとう・まさひろ
1972年長野県生まれ。大阪市立大学大学院文学研究科後期博士課程修了。博士(文学)。現在、立命館大学文学部准教授。文化地理学専攻。著書に、『京の花街ものがたり』角川選書、2009、『花街 異空間の都市史』朝日選書、2005、『大阪のスラムと盛り場 近代都市と場所の系譜学』創元社、2002、他がある。

花街という特異な場所を通じて、都市空間の形成にまつわる政治過程の一端を明らかにすること。
言い換えれば、それは、街ないし都市を構成しつくりあげるという意味での土地利用や再開発という地理的な側面に、
土地所有者、街の有力者、関連する業者、そして政治家・警察などの社会的な思惑を加味して、
花街の成り立ちから都市のあり方を考えることに他なりません。
その意味で、僕のやっていることは、花街史や文化史といった範疇のものではなくて、
歴史地理学的な都市史といえるかもしれません。


 
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場所と記憶・・・「郷土」表象はいかにしてつくりあげられたか

大城直樹
おおしろ・なおき
1963年沖縄県生まれ。大阪市立大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、神戸大学大学院人文学研究科准教授。文化地理学専攻。共著書に、『モダン都市の系譜 地図から読み解く社会と空間』ナカニシア出版、2008、『郷土 表象と実践』嵯峨野書院、2003、『空間から場所へ 地理学的想像力の探求』古今書院、1998、他がある。

郷土意識の形成において大きな役割を果たしたのが明治末期に始まる地方改良運動です。
日清・日露戦争によって、農家の次男以下が兵隊にとられ、村落共同体の構成員が減ってしまう。
それで内務省が町村合併を推進する。その際に郷土意識が芽生えてくるんです。
それまでは自分の村にしか愛着がなく、隣の村は知らないという状況だったのが、
たとえば小学校でもあちこちの村から集まるようになる。
それを一つの統合体としてまとめていくために、郷土という概念がもち出されるわけですね。

 


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土地の忘却・・・体感としての空間・政治・歴史

原武史
はら・たけし
1962年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。東京大学大学院博士課程中退。日本経済新聞社勤務を経て、現在、明治学院大学国際学部教授。日本政治思想史専攻。著書に、『昭和天皇』岩波新書、2008、『増補 皇居前広場』ちくま学芸文庫、2007、『滝山コミューン一九七四』講談社、2007、他がある。

僕は自分の方法論を「空間政治学」と呼んでいますが、
たとえば同じ東京の西側でも、JR中央線と西武線沿線の政治意識はどれだけ違うのか、
というのが気になるわけです。
たった数キロしか離れていないのに、沿線によってこんなに違うんだということを、明らかにしていく。
それはかつて自分が憧れた学問のあり方とつながっていると思っています。
 

editor's note[before]

空間論的転回再考


都市への視線、「空間」という問題構制

 「建築とは凍れる音楽」だと評したのは文豪ゲーテでした。このゲーテの言葉を借用して、「都市とは凍れる現実」ではないかと言ったことがあります。凍りついた、すなわち静止した音楽が具体的な音を発しないのと同じ理由で、静止した都市からは、本当の都市の姿、生き生きとした音=「現実」は聞こえてこない(見えてこない)からです。
 都市の専門家たちは、これまで凍りついた現実こそが都市であるかのように語り続けてきました。凍りついた現実とは、都市を構成するさまざまな要素のこと(もの)です。建築や土木構築物、道路や街割、制度や法律が都市を形づくるものであることは間違いないけれども、それは都市を都市たらしめているものの一部です。こう言ってよければその都市の形象にすぎません。都市の専門家たちによって捉えられた都市とは、その意味で常に/すでに過去(形)の都市なのです。
 むろん、ゲーテは、建築の内部に「真善美」が凍結されていることを示そうとしたわけで、建築をむしろ讃える意味でeine erstarrte Musik(≒frozen music)という言葉を使ったのでしょう。都市の専門家たちにとっても事情は同じ。凍結された都市こそが彼らにとっての都市なのです。
 都市の美も用もあるいは真実も凍っているから見えるわけで、解凍を始めればそれらは雲散霧消してしまう。都市は単なる社会になり、生活圏になり、人々が集い活動する場になります。都市の専門家は、解凍された瞬間から、その場所へのアクセスを失ってしまう。
 だが、私たちにとって、都市とは紛れもなく生ける現実です。言うまでもなく、その現実とは社会のことであり、生活圏のことであり、活動する場のことです。私たちの生きる都市は、一度も凍ることなくただ流動し続ける現実そのものなのです。フローであり、フローと「いま・ここ」でリアルタイムにアクセスし続けるそのこと自体が都市とのかかわりであり、そのまるごとの現実をとりあえず都市と呼ぶ。少なくとも私たちにとっては、そこにある現実こそが都市なのです。
 歴史や事物を閉じこめた氷としての都市、一方、凍結することなく絶えず変化し続ける現実としての都市。この都市に対する二つの見方は、一見水と油のごとく対立しているように見えます。事実、一九七〇年代以降登場してきた非専門家たちによる都市論の多くは解凍した後の、あるいは一度も凍ることのない現実としての都市をその対象としてきました。記号論、身体論、社会構築論、システム論、消費社会論といった立場から盛んに都市は語られてきましたが、そのほとんどが後者の立場からだったことは偶然ではありません。
 両者は棲み分けながらそれぞれの道を切り開いていくなか、一九九〇年代を前後する時期に、新たな胎動が起こります。後に「空間論的転回(spatial turn)」と呼ばれることになる都市論の新しい展開です。
 これまで「空間」を扱う学問分野は、空間の科学を標榜する地理学でしたが、都市社会学や文化人類学、カルチュラル・スタディーズなどの隣接する諸科学の影響を受けて、改めて「空間」それ自体を問題構制の基礎に据える考えが地理学のなかに浮上してきました。とりわけ「建築学・都市計画といった広範な人文・社会諸科学での都市論・都市研究の展開において、〈空間〉がそれぞれの分野の枠組みを超えて焦点を結ぶ知のトポスになった」(「はじめに」『都市空間の地理学』より)というのです。つまり、今の文脈で言うと、後者の立場から前者も巻き込む形が生じ、その両立場を通底しながら発展していくのが「空間論的転回」でした。
 この新しい動向は、繰り返すまでもなく「空間」に定位し、「空間」をめぐる問いであることに特徴があるわけですが、なぜそれが「空間」であったのか。それは、「〈空間(化された)表象〉が、都市社会を構制する諸力(資本・権力・文化・イデオロギーなど)を分析し読み解く際に、きわめて有効な概念・装置として認識されたからにほかならな」(同上)いからです。たとえば、従来空間というと主に数学や哲学の対象でした。デカルトの均質空間とかニュートンの絶対空間、あるいはカントの認識の先験的形式としての空間など、そこで扱われる空間は、社会的現実から遊離した、いわば心的空間として捉えられるものでした。xyz軸からなる無味乾燥の空間。重量ゼロの純粋空間が、それまでの私たちの認識する空間だったのです。
 それに対してフランスの思想家アンリ・ルフェーヴルは、そうした従来の空間概念を射程に、空間が内包する問題系を掘り起こしたのです。私たちの思考を基礎付ける「観念的」空間と「現実の」空間を隔てている距離こそが問題ではないかと切り出した。つまり、「空間を主観的形式にも客観的秩序にも還元せず、社会的に構成されたものとして捉え直」(「思想家アンリ・ルフェーヴル 空間論とその前後」同上)そうとしたのです。言い換えれば、旧来の空間概念の自明性を問題視したのです。
 この空間の自明性への疑義は、かえって人々の空間への関心を呼び覚ましました。ルフェーヴルは「空間は社会的に生産される」というメッセージを残します。「空間論的転回」は、まさにこのメッセージに促されるように、地理学のみならず、広く都市を対象とするさまざまな学問領域へ波及することになります。そして、その空間の考察は、空間の編制と言説の交錯する場所、すなわち都市へと向かいます。今号は、この地理学の周辺で起こった「空間論的転回」を手掛かりに、私たちの生ける現実、都市について考えてみようと思います。

都市の理想と現実

 人間のいない「都市」は、果たして都市といえるのでしょうか。いわゆる都市の専門家である都市計画家、建築家がこれまで描いてきた都市像のなかには、現実に生きる人間を想定していないのではないかと疑いたくなるものがありました。とりわけ近代の都市計画には、そうした人間不在の都市プランが少なからずあったように思われます。都市の理想……緑、太陽、空間の重視……を優先するあまり、肝心の人間の存在が不当に小さく見積もられていたからです。
 都市の理想を掲げ、その実行こそが都市計画の本義であると高らかに宣言したのがシアム(CIAM)でした。シアムとは、ル・コルビュジエやヴァルター・グロピウスという建築家、デザイナーを中心とするグループで、「都市」形態の理想主義を世界に啓蒙し、とくに戦後の復興計画には絶大な影響力をもちました。
 しかし、シアムの主張する理想主義にはそもそもムリがありました。理想解を具現化するにあたり、その遂行の妨げとなる予測不可能な因子は、最初から捨象される傾向があったからです。予想不可能な因子、とりわけ「人間」はその最たるものでした。そうした理想主義の下、人間の行動形態は可能な限り単純化され、数量化の下一元化されます。その結果、理想解を手に入れるのと引き換えに、不確定因子としての人間の存在意義は、極端なまでに縮小化されてしまったのです。
 一九三四年に活動を開始したシアムは、早くも五〇年代半ばを過ぎた頃から、こうした理想主義の限界を露呈させることになります。まず、人口の増加があります。人口の増加は、きわめてプリミティブな形で不確定因子の存在を主張することになります。さらには行動形態の多様性が主張されるようになると、機械論的に一元化された枠組み自体が崩れ始めます。その構成因子たる人間の存在を最小化することで都市の理想を実現しようと企てたわけですが、その人間が、最小化どころか最も大きな変数となって立ち現れてきたのです。
 理想としての都市、その欺瞞性が一気に吹き出してきたのは、わが国の場合六〇年代でした。理想主義に懐疑的な急先鋒が、まず同業の建築家たちから出てきました。
 「シアムの時代の都市のイメージというものは、巨大都市つまりメトロポリスのイメージであって、技術革新の力で拡大した領域の問題を構想するという形で、その中の人間の、都市生活の構造というものについては本質的な変化はない、というとらえかたであった。ところが、シアムには成長概念がないというのがぼくらの批判である。たとえば、シアムがつくったブラジリアとかシャンデガールという都市計画をみると、固定化されたパターンでもってとらえられていて、その都市が人口の増加や生活構造の変化などにどのように対応するか、その方法論が皆無である」(黒川紀章「未来は突然にやってくるか?」一九六七年)
 今から四○年ほど前に、当時新進の建築家であった黒川紀章は、建築と連関する都市計画に対して大胆な批判を試みました。黒川の指摘は、都市計画というものが技術的な問題をはらんでいるというのではなく、流動的な生活構造に対応できていないと指摘したのです。黒川は、六〇年代にすでに都市計画というものの本質的な矛盾を見て取ったのです。都市計画は、人間の扱い方を見誤っていると。より正確に言えば、そこには人間がいない、というのが黒川の主張でした。

都市に主体性を組み込む

 シアムの中心理論にはもう一つ大きな概念として「コミュニティ」がありました。都市を構成する単位のことで、ここでも人間はきわめて抽象的な存在として扱われ、都市という形式的な枠組みの内部に制度化されるものとして位置付けられていました。黒川は、このコミュニティという概念にも冷や水を浴びせます。人間はすでにコミュニティをはずれたところで生活し始めている。コミュニティそのものが流動化しているとはいえないか。そうした都市の内部に起こっているゆらぎをいかに方法論化するかが都市の当面の課題である、と黒川は主張したのです。そこで黒川がもち出してきたのが主体という概念でした。すなわち、人間の主体性こそ都市にとって最も必要なものではないかと提起したのです。。
 人間は決して予定調和的な行動をしない。不確定な行動をするのが人間であり、そうであればこそこの不確定性を都市という現状にあらかじめビルトインしなければならないであろう。動かないものとしてのインフラストラクチャーに対して、動くもの、つまり不確定要素としての人間の主体性を組み込む。言い換えれば、不動のものに随時交換可能な仮説部分を接合していく。後に黒川が提唱した「メタボリズム(という建築家グループ)」のコンセプトはこの考えに基づくものでした。
 建築の可能態として都市を構想したことは、少なくとも理想形態として抽象化された都市というものをより現実に引き戻したという意味で、シアムの欠陥を補うに十分なものだったという評価は妥当でしょう。ただ、黒川の思想の基盤には、都市に対する建築の優位が暗黙の前提としてあったことは否めません。仮に都市に主体性を回復させようというのであれば、建築もまたその障害になります。建築も同様に都市の構造物であれば、代謝機能(メタボリズム)を妨げるものとして都市の前景に出てくるものだからです。事実、黒川もそれを認めていて、建築さえも二次的な形態として背後に隠れ、むしろ前景に偶有的な人間の生活の原形を置くようなイメージをもっていたようです。そして、そのヒントをハプニングに見出そうとしたのでした。
 ハプニング、今ではまったく聞かれなくなった言葉ですが、偶発的なインタラクションを重視する表現行為のことで、今風に言えばパフォーマンスに近い。主に身体を媒介にして、都市そのものとかかわろうとするハプニングは、静態的で機械論的な都市機能に内部から揺さぶりをかける「主体的な行為」としてみなされたのです。身体を使用して街頭へ飛び出していく。黒川にとってハプニングは、都市から捨象された人間をあらためて都市に呼び込むための手段として称揚されたのです。それは、別の言い方をすれば、人間の見えない都市に対する人間の回復でもありました。
 黒川の「都市に主体性を」というスローガンは、こうして都市における人間の再生へと結実していきます。それは言い換えれば、近代都市が、都市の現実と向き合うことによって、生きる人間の空間として再定義されたことを意味します。都市は、人々が生活する具体的な場であり、文字どおり生きる場所として自覚されたのです。われわれ人間が拠って立つ場所であり、きわめて具体的な物理的空間としての領有。都市はこうして、その内部に人間存在を抱えながら、常に変化するgroundとして自覚されることになったのです。

ゲニウス・ロキの地理学

都市は人間のいる場所であるというきわめて当たり前の事実を、わざわざ確認せざるを得ない状況が、じつはわが国ではその後もしばらく続くことになります。黒川が都市に主体を見出してから二〇年以上経ってからも、東京という都市は相変わらず人間不在のまま都市再開発に明け暮れていました。バブル景気がピークに達する八〇年代、都市改造の槌音はいよいよ強くなり、激しさを増していきました。場所を構制する諸力を分析し読み解くには、八〇年代の東京こそ最もふさわしい場所になるとはいかにも皮肉な事態です。きわめてアイロニカルな形で人の見えない都市を、東京はその後も日々更新し続けていたのです。
 いまだ空間論的転回を経ていないこの時期に、都市史の分野から卓抜した都市研究が出ました。『東京の< 地 霊 ゲニウス・ロキ >』と題されたその研究は、いわゆる人文・社会学系の都市論とは明らかに一線を画するものでした。
「(…)都市史研究といわれるものの大半が、じつは都市そのものの歴史ではなく、都市に関する制度の歴史であったり、都市計画やそのヴィジョンの歴史であったりすることに、かねがね私は飽き足らなさを感じていた。都市とは、為政者や権力者たちの構想によって作られたり、有能な専門家たちによる都市計画によって作られたりするだけではない存在なのだ。現実に都市に暮らし、都市の一部分を所有する人たちが、さまざまな可能性を求めて行動する行為の集積として、われわれの都市はつくられてゆくのである」
 著者の鈴木博之はそう語り、自らの研究が狭義の都市論ではなく、その拠って立つgroundをも視野に入れた土地論であることを表明したのです。
 「民間活力の導入、国鉄分割民営化など、国土をめぐる新しいうごきが一九八〇年代なかばの中曽根政権下での政策から活発になった。とりわけ東京の土地は、いままさに未曾有の変貌をとげつつある」とし、「どのような土地であれ、土地には固有の可能性が秘められている。その可能性の軌跡が現在の土地の姿をつくり出し、都市をつくり出してゆく」。東京の場合も、決して例外ではなく、むしろ近代の東京の歴史は、そうした土地の歴史の集積として見るべきで、都市の歴史とは、すなわち土地の歴史でなければならないと結論付けました。
 さらに鈴木は、ゲニウス・ロキという言葉を引っ張り出してきて、そうした土地のもつ霊力ともいえるような力に着目します。ゲニウス・ロキとはラテン語の「geniusloci」。geniusは英語のspirit(精霊、魂)、lociはlocos(場所)で、一般にこれは土地霊とか土地の精霊と訳されるのですが、鈴木は、土地から引き出される霊感、土地に結び付いた連想性、土地がもつ可能性という意味を込めて、「地霊」と訳し直します。
 「地霊(ゲニウス・ロキ)という言葉のなかに含まれるのは、単なる土地の物理的な形状に由来する可能性だけではなく、その土地のもつ文化的・歴史的・社会的な背景と性格を読み解く要素もまた含まれている」というわけです。都市というものは、綿密な土地利用分析と権力者たちの構想だけでつくられているわけではなく、目に見えない潜在的構造、集合的無意識も働いているという。鈴木博之は、こうして都市をとりまく網状組織とそこに深くかかわる土地の、きわめて具体的な言説の編成体の分析として、都市論を再構築するのです。今にして思えば、 『東京の< 地 霊 ゲニウス・ロキ >』は、まさに東京の空間論的転回を先取りする試みではなかったかと思うのです。
今号では、三つの視点から地理の新しい見方、空間論的転回について考えます。
 都市の形成、その中心に寄り添うように存在し続けた場所に「花街」がありました。「花街」は、つねに「語られざるもの」「隠されたもの」として歴史の隙間に埋もれていた場所でした。近代都市の形成とその過程に介在する「花街」の役割について、地理学の立場から分析しているのが立命館大学文学部准教授で文化地理学を専攻する加藤政洋氏です。土地空間上のさまざまな事象、配置、位置、関係を、地理的な視点に立って捉える文化地理学の方法論を解説していただきながら、いわゆる「空間論的展開」について言及していただきます。
 自分の住んでいる場所や地域を指すごくありふれた語「郷土」。このありふれた「郷土」は、まさにそのなんの変哲もなさが、自明であることが、じつは大きな問題だというのです。「郷土」は、何よりも近代国民国家の形成と連動して人工的に「つくられた」概念であること。また、「郷土」形成のプロセスを稼動させる枠組みがいったん成立すると広範囲にその影響が及ぶこと。この大きく二つの理由により「郷土」は、土地空間上の政治力学、場所と記憶の問題を考えるうえで、重要な意味をもつといいます。特定の空間的範囲でありながら、マルチスケールな様相を呈する「郷土」概念・心象が、どのように構築され身体化されてきたのでしょうか。文化地理学的観点からそれを明らかにすべく研究しているのが神戸大学大学院人文学研究科准教授で地理思想が専門の大城直樹氏です。政治的な産物である「郷土」概念の形成過程について、大城直樹氏に郷里である沖縄を事例に論及していただきます。
 東京都東久留米市の滝山団地では、七〇年代戦後民主主義の旗の下、全生研(全国生活指導研究協議会)が「学級集団づくり」を実践していました。理想に燃えたその「自治的な共同社会」=コミューン、しかし子供の目には、それはまったく異なったものとして映っていたのです。『滝山コミューン一九七四』は、当事者の証言をもとに全生研の実態に迫ったドキュメンタリーですが、都市空間と重層的にかかわる政治性について体験的なまなざしを通して考察する「空間政治学」の実践でもありました。その著者である明治学院大学国際学部教授で日本政治思想史が専門の原武史氏に、土地の記憶と言説の歴史に切り込む方法としての「空間政治学」についてお話しいただきます。(佐藤真)

参考文献:
『都市空間の地理学』ミネルヴァ書房、2006

 

 

editor's note[after]

空間政治学の空間論的転回は可能か

なぜ「花街」か

  加藤政洋氏は、花街を研究対象とする理由について次のように述べました。
 「花街が都市形成の諸局面において街の発展を促す動因として利用された(あるいは作用してきた)産業=場所であること、そして風俗営業として取り締まりの対象となることから、それが都市の建設と(都市内部の)土地の用途にまつわる人びとの(政治的・経済的・社会的な)思惑を反映するかたちで創出されてきた空間に他ならないからです」
 花街のほとんどは、明治期以降の都市形成と再編の過程でつくられたものであり、常に近代都市の建設をめぐる政治の焦点になった場所です。その意味で花街は近代の所産だという。花街の成り立ちを知ることは、都市のあり方そのものを知ることに他ならず、それは同時に、都市空間の形成にまつわるポリティカルな編制を暴き出すことになるというのです。
 花街は大概の場合都市の周辺部につくられることが多い。中心部からどのくらい離れた所につくられたか、その布置を詳細に検討することによって当時の権力構造の一端を読解することが可能になるというのです。たとえば、大阪の飛田と今里の履歴を繙くことで、都市形成と政治のかかわりが理解できるという指摘がありました。加藤氏の著書『大阪のスラムと盛り場』(創元社)には、飛田遊郭の誕生について言及している箇所があります。インタビューを補足する意味で紹介しておきましょう。
 「一九一二年一月一六日午前一時、難波新地四番町の一角にある貸座敷〈遊楽館〉から出た火は、折からの〈烈風〉にあおられて、たちまちのうちに〈高楼〉の建ち並ぶ四番町と三番町を舐め尽くし、隣接する千日前も消失させ、一一時間以上にわたって付近一帯を焼き尽くし」ました。
 火災は大阪の伝統的な花街である難波新地に甚大な被害を及ぼし、遊廓の廃止や移転をめぐる議論を業者、府、市民の間に引き起こしたという。焼失した難波新地の貸座敷は、いったんは廃止が決定されます。ところが、その四年後突如として貸座敷業者の移転先が指定されます。場所は、「大火」直後から移転先候補地として名の挙がっていた「阿倍野」、すなわち、通称「飛田」でした。その表向きの理由は、失業した貸座敷業者の救済、市内に散在する遊廓の整理・統合、私娼の排除を目的とするというものでしたが、実際は、「欲深い地主が土地を持ち寄つて結束し、大資本の結合力によつて地価を昇騰せしめ、比較的短時日の間にボロい儲けをしやうと企て」(『関西 百七十会社の解剖』一九二九)るものだったというのです。
 事実、飛田の経営は大成功し、大阪府は、「市内に散在して居」る遊廓を「将来機会を待って漸次移転せしむる」どころか、逆に新たな指定地を次々に認可していく。飛田遊廓の成功がこうした動きを引き起こしたのです。飛田の経営の成功は、土地会社にとって遊廓経営が非常に魅力ある産業であることを証明し、以後、土地経営の核として「新地」開発が土地建物会社によって次々に進められていくことになるのです。
 大阪では、近世以来市街地の周辺を中心に「悪所」としての遊廓をつくり出してきましたが、一般的に土地条件の悪い新開の地に置かれることから「新地」と呼ばれることが多く、特に大阪では、「新地」と名のつくところはほぼ例外なく花街(遊廓)を指します。町ないし都市を構成しつくりあげるという意味での土地利用や再開発という地理的な側面に、土地所有者、町の有力者、関連する業者、そして政治家・警察などの社会的な思惑を加味して、花街の成り立ちから都市のあり方を考えること。加藤氏は自らの研究を、花街史や文化史といった範疇のものではなくて、歴史地理学的な都市史と位置付けます。


レンタルされる空間

 そのように特異な場所として成立させられた花街ではありますが、都市の装置として見た場合三つの大きな特徴があると加藤氏は指摘しました。都市化の推進役であり、都市文化の培養器であり、都市文化のパイオニア的存在であるというのです。しかもそんな文化生成の場が、同時に権力の視線が行き交う場所であり、都市にとってはきわめて危険なゾーンでもあったというところに、加藤氏はより強い関心を抱くのです。非常に縛りの強い秩序空間であることが、逆にある種の可能性を導き出してしまう。単なるカオスでも反秩序の空間でもない場所。単純な二分法的発想では絶対に見えてこない場。花街の都市空間としてのユニークさはむしろそんなところにあるのかもしれません。
 その関連で、加藤氏は席貸という業態に注目します。特定の私有空間を、時間を区切って貸し出す形態。京都では決して特殊なことではないこうしたサービスが、花街の周辺に、お茶屋とは別個に存在していたというのです。そして、花街の文化が変質するのと呼応するように、今では、席貸の痕跡を見つけ出すことも困難だという。
 飲食のための空間であり、お座敷あそびの空間であり、性愛の空間であり、宿泊の空間でもある。ある意味でマルチプルなユニバーサル・スペース。席貸は部屋なのか、空間なのか。空間であるとすれば、いかなる空間なのか。そうした空間が花街の周辺で成立した理由を探っていくと、その起源は、茶屋や貸座敷、塔頭に行き当たります。それが非連続的なプロセスを経て席貸へと収斂するのです。個人における最もプライベートな空間でありながら、レンタルスペースという点で、ある種の公共性を併せもつ場所。インティメイトな空間が同時にパブリックな性格をもつ場所でもありうること。こうした両義的空間が、享楽の文化とともに生み出されたということに、筆者は興味をもちました。

地理教育と郷土概念の生成

 大城直樹氏に「郷土」についてお尋ねした理由は、大城氏の次のような文章と出会ったからです。
 「〈明確に言語化されていない日常〉としての〈郷土〉が明確化するのは空間的な移動によって距離が生じだときであるのだが、そのときにすでに過去のものとして〈故郷〉へと転じてしまっているところに、〈郷土〉の経験における困難がある。経験的に知っていることを知識に転換する空間表象が必要とされるのは、まさにそのためである」。(「はじめに」『郷土 表象と実践』より)
 郷土は、地理的想像力によって構築されたものであるにもかかわらず人間や社会にとって所与の、本質的なものと考えられてしまうのはなぜか。それが「自然」化し「自明のもの」となるプロセスをまず明らかにする必要があると述べたうえで、このプロセスを稼働させる装置的な枠組みがいったん成立したのち、それがどのような範囲にまで影響を及ぼし、どのような局面において作動していたかを見る必要があるというのです。何よりもその「郷土」は、初等教育のなかで植え付けられたものであり、その教科が「地理」でした。「郷土」を問うことは、すなわち「地理」それ自体を問題にすることなのです。そして、その方法として空間的転回以降の文化地理学の知見が求められたのです。
 大城氏の議論を簡単に整理してみます。「郷土」という概念が一般的に使われるようになるのは明治以降のことで、そのきっかけは小学校の教科書に「郷土」という言葉を冠した教科書が登場したことにあります。郷土概念は学校教育と結び付くことによって、一般に浸透していきました。もう一つ大きな役割を果たしたのが明治末期からからの地方改良運動です。戦争により農家の次男以下が取られ労働力が低下する。小学校単位では子供が集まらないことから、より広域な単位で子供をまとめる必要性が出てきて、その共通単位として郷土がもち出されるのです。やがてそれは郷土教育運動として全国展開していきます。郷土資料館が学校の一部に併設され、郷土という視点で集められた文物が展示されます。文字資料だけではなく、物品に直に接することで、郷土概念が視覚的な広がりをもって身体化されていく。明治以降の学校教育の流れと照らし合わせて見ていくことで、郷土が人為的につくられた概念であり、国家的な要請のもと、意図的に刷り込まれた新しい概念であったということが明らかになります。
 一方、学術研究のなかで「郷土」は、新渡戸稲造が提唱した「地方学」を研究するグループ「郷土会」の活動として発展していきます。また、そのメンバーの一人であった柳田國男は、『郷土研究』を創刊し、その延長で民俗学へと発展させていきました。この郷土研究の流れは、先ほど言った郷土教育運動と結び付くことで、郷土地理研究に関連する膨大な知的ストックを生み出していくことになります。インタビューでは触れられませんでしたが、この運動のなかから、国体観念や日本精神を強調する観念的精神運動が生まれてくるのです。
 ところで、大城氏は出身地である沖縄について、郷土愛と愛国心の違いに触れて興味深いことを述べられました。柳田らが、それまでネガティブに捉えられていた沖縄を、民俗学的な視点から再評価したのではないかという質問に対して、「いや、それが完全な沖縄らしさとして評価されたのではなく、日本の古いものが残っているという評価なんですね。つまり沖縄は国家の辺境にあり、時間的に一番古いものが残されているという考え方、まさに柳田が『蝸牛考』で唱えた方言周圏論そのものです。沖縄は中国との関係が深いわけで、中国的なものがたくさんあるわけだけど、それは置いといて、あくまで日本の古層が残っているものとして評価した。ただ、それまで本土との違いを否定していたのを、違うからいいんだという肯定的な評価に変えたのは事実です」。
 郷土は、政治的な概念であることは間違いない。しかし、それを裏付けるような地理的想像力そのものに限界があるとしたら、そこで捉えられる郷土とは、いかにも浅薄な観念です。そのことを逆説的に論証してしまったのが地理的想像力であるところに、空間論的転回の面白さがあると思ったのは、果たして筆者だけでしょうか。


政治と空間

 「政治思想史の分野の人たちは、自由、正義、公共性、あるいは民主主義というような抽象的な理念をめぐる話が大好きなんです。それで出てくるのは、プラトン、ホッブズ、ルソー、ヘーゲル、マルクス、二〇世紀ではハーバーマスやハンナ・アーレントなど、引き合いに出される思想家はもっぱら西洋のビッグネームばかり。そういう研究が、さも政治思想史の正統であるという信念に近いものがあって、僕はそういうのが好きじゃないんです」
 「僕は自分の方法論を〈空間政治学〉と呼んでいますが、たとえば同じ東京の西側でも、JR中央線と西武線沿線の政治意識はどれだけ違うのか、というのが気になるわけです。たった数キロしか離れていないのに、沿線によってこんなに違うんだということを、明らかにしていく。それはかつて自分が憧れた学問のあり方とつながっていると思っています」
 原武史氏は、冒頭、こう言って政治学の現状を批判しました。この発言はきわめてまっとうなものでしょう。原氏が政治学に見たものは、たとえば社会学においても同様に散見できるものです。理論の検討およびその検証が重要であることは言うまでもありません。しかし、「いま・ここ」にいることは、ものを考えるうえで、まず最初の入り口です。入り口であると同時に、次なる一歩を踏み出すための出口でもあります。世界に身をゆだね世界の中で思考すること。世界とは社会であり、社会とは政治が交錯する空間でもあるのです。
 原氏は、自ら標榜するとおり、空間を介して政治ヘアプローチしています。原氏にとっては、空間が最初の入り口です。政治が実体化しある種の重量をもって空間を占有する。その占有がどのようなプロセスを経て行われるのか、あるいは、占有の主体が変わるのか、その空間全体を原氏は政治と呼んでいるのだろうと思います。
 たとえば、「西武沿線がもっている一つの政治風土があるんじゃないか。中央線沿線でもないし、ましてや東急沿線ではない。それぞれ沿線がもつ政治風土が違う」と言う時、また、「六〇年代に団地の自治会の主力になるのは女性なんです。ジェンダーやフェミニズムからの女性史研究はたくさんあるけど、たとえば団地の自治会で女性が多数派を形成し、自治会長にもなり、彼女らがどういう政治を行っていたか」が問題だと言う時、さらには「滝山団地は七三年頃まで本屋すらなかった。中央線には駅前に喫茶店や古本屋、映画館、劇場などがあるのは当たり前で、ある程度の年齢になれば、古本屋で本を買って喫茶店で読むとか、いかがわしい映画館に入るという経験は誰だってあるだろうけど、それがまったくない。(それが)団地の潔癖性につながっている。少しでも異物が侵入しようとすると排除する。それは既成左翼と新左翼の違いでもあって、新左翼はサブカルチャーとつながっている。いわば中央線的なんです」と言う時、空間政治学とは、空間を政治的視点から読み込むのではなく、空間そのものに政治の現実を見出すことだということがわかるのです。土地への視線、ディテールへのこだわり、感情のとらまえ方こそが重要であり、そこに表出する言動のすべてをまるごと捕獲することが空間政治学ではないでしょうか。空間政治学は、すぐれて空間論的転回の今日的バージョンだといえるのではないか、というのが筆者の感想です。
 地理学上の空間論的転回について、三つの視点から考えてみました。直接の言及はないものの、いずれのインタビューにもある共通するものがありました。記憶の問題です。空間を論じること、また空間から論じること、そして空間と共に論じること。空間への問いは、やがて一つの問題系へと収斂していきます。場所とかかわる記憶、ゲニウス・ロキです。歴史と政治が交錯する人々の集合的記憶の場所としてのゲニウス・ロキ。私たちの空間論的転回は、こうしてゲニウス・ロキの空間へと差し戻されるのです。(佐藤真)

 
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空間論的転回
京の花街ものがたり 加藤政洋 角川選書 2009
モダン都市の系譜 地図から読み解く社会と空間 水内俊雄、加藤政洋、大城直樹 ナカニシヤ出版 2008
都市空間の地理学 加藤政洋、大城直樹編著 ミネルヴァ書房 2006
花街 異空間の都市史 加藤政洋 朝日選書 2005
第三空間 ポストモダンの空間論的転回 E・W・ソジャ 加藤政洋訳 青土社 2005
ニュー・インペリアリズム D・ハーヴェイ 本橋哲也訳 青木書店 2005
時間と空間で読む近代の物語 戦後社会の水脈をさぐる 吉原直樹 有斐閣 2004
グローバル空間の政治経済学 都市・移民・情報化 S・サッセン 田淵太一他訳 岩波書店 2004
ポストモダン地理学 批判的社会理論における空間の位相 E・W・ソジャ 加藤政洋他訳 青土社 2003
郷土 表象と実践 「郷土」研究会編 嵯峨野書院 2003
空間批判と対抗社会 グローバル時代の歴史認識 斉藤日出治 現代企画室 2003
雑誌『現代思想』特集 サスキア・サッセン 青土社 2003 5月号
大阪のスラムと盛り場 近代都市と場所の系譜学 加藤政洋 創元社 2002
要塞都市LA M・ディヴィス 村山敏勝他訳 青土社 2001
雑誌『現代思想』特集 恐怖の政治学 青土社 2001 6月号
都市の社会学 社会がかたちをあらわすとき 町村敬志、西澤晃彦 有斐閣アルマ 2000
ポストモダニティの条件 D・ハーヴェイ 吉原直樹監訳 青木書店 1999
雑誌『現代思想』特集 変容する空間 青土社 1999 12月号
空間から場所へ 地理学的想像力の探求 荒山正彦、大城直樹編著 古今書院 1998
雑誌『10+1』特集 新しい地理学 INAX出版 1997 12月号
労働と資本の国際移動 世界都市と移民労働者 S・サッセン 森田桐郎他訳 岩波書店 1992


空間政治学
思想地図vol.5 特集 社会の批評 東浩紀、北田暁大編 NHKブックス別巻 2010
権力の館を歩く 御厨貴 毎日新聞社 2010
昭和天皇 原武史 岩波新書 2008
東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム 東浩紀、北田暁大 NHKブックス 2007
郊外の社会学 現代を生きる形 若林幹夫 ちくま新書 2007
増補 皇居前広場 原武史 ちくま学芸文庫 2007
滝山コミューン一九七四 原武史 講談社 2007
〈出雲〉という思想 原武史 講談社学術文庫 2001
可視化された帝国 近代日本の行幸啓 原武史 みすず書房 2001
空間の生産 H・ルフェーヴル 斎藤日出治訳 青木書店 2000
思想としての東京 近代文学史論ノート 磯田光一 講談社文芸文庫 1990
空間と政治 H・ルフェーヴル 今井成美訳 晶文社 1975


◎街路の政治、ストリートの思想
愛と憎しみの新宿 半径一キロの日本近代史 平井玄 ちくま新書 2010
ストリートの思想 転換期としての1990年代 毛利嘉孝 NHKブックス 2009
ベンヤミン・コレクション 1~5 W・ベンヤミン 浅井健二郎他訳 ちくま学芸文庫 1995~2007
スペクタクルの社会 G・ドゥボール 木下誠訳 ちくま学芸文庫 2003
パサージュ論 1~5  W・ベンヤミン 今村仁司他訳 岩波現代文庫 2003
文化=政治 グローバリゼーション時代の空間叛乱 毛利嘉孝 月曜社 2003
都市/建築フィールドワーク・メソッド 田島則行、久野紀光他 INAX出版 2002
アンテルナシオナル・シチュアシオニスト 1~6 アンテルナシオナル・シチュアシオニスト 木下誠監訳 インパクト出版会 1994~2000
スペクタクルの社会についての注解 G・ドゥボール 木下誠訳 現代思潮新社 2000
文化の政治学 M・ド・セルトー 山田登世子訳 岩波書店 1999
抵抗する都市 ナイロビ移民の世界から 松田素二 岩波書店 1999
T.A.Z. 一時的自律ゾーン H・ベイ 箕輪裕訳 インパクト出版会 1997
日常的実践のポイエティーク M・ド・セルトー 山田登世子訳 国文社 1987
東京劇場 ガタリ、東京を行く F・ガタリ他 UPU 1986


◎ゲニウス・ロキ、都市の現象学
東京の< 地 霊 ゲニウス・ロキ > 鈴木博之 ちくま学芸文庫 2009
銀座四百年 都市空間の歴史 岡本哲志 講談社選書メチエ 2006
アース・ダイバー 中沢新一 講談社 2005
場所の現象学 没場所性を越えて E・レルフ 高野岳彦他訳 ちくま学芸文庫 1999
日本の< 地 霊 ゲニウス・ロキ > 鈴木博之 講談社現代新書 1999
ゲニウス・ロキ 建築の現象学をめざして C・N・シュルツ 加藤邦男他訳 住まいの図書館出版局 1994
東京 都市の明治  初田亨 ちくま学芸文庫 1994
東京の空間人類学 陣内秀信 ちくま学芸文庫 1992
江戸の都市計画 鈴木理生 三省堂 1988