photo
[最新号]談 no.91 WEB版
 
特集:理性の限界……今、科学を問うこと
 
表紙:高津戸優子 本文ポートレイト撮影:すべて秋山由樹
   
    
 

photo

科学における「公共性」をいかにしてつくり出すか……統治者視点/当事者視点の相克

平川秀幸
ひらかわ・ひでゆき
1964年東京生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程博士候補資格取得後退学。博士(学術)。京都女子大学現代社会学部助教授を経て、現在、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター准教授(科学技術社会論、サイエンスショップ代表)。専門は、科学技術ガバナンス論。著書に、『科学は誰のものか 社会の側から問い直す』NHK出版 生活人新書、2010、共著に、『アクセス公共学』日本経済評論社、2010、『科学技術ガバナンス』東信堂、2007、他。

科学技術的な問題は、主観/客観というより、統治者視点/当事者視点の違いなのだと捉えるべきでしょう。
当事者視点というのは、単に個人の心理的な問題ではなく、客観的なもので矯正されるようなものでもない。
まさに、統治者視点/当事者視点の相克こそが公共世界をつくるわけです。
パブリックというのは、いろんな視点が混ざり合い、ぶつかり合う空間で、
主観や心理という言葉で片づけてはいけないのです。(詳しくは本誌で)


    
 

photo

ノンコミュニケーションを含みこむコミュニケーションへ……生の流れを妨げない思考

柳澤田実
やなぎさわ・たみ
1973年ニューヨーク生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。現在、南山大学人文学部キリスト教学科准教授。哲学・倫理学、宗教学。論文に「ノンコミュニケーション 生の流れを妨げない思考のために」(『現代思想』2011年、2月号所収)、「イエスの(接近=ディスポジション)」 (『ディスポジション』所収、現代企画室、2008)、「〈地続き〉の思想 木村敏、中井久夫」(『SITE ZERO/ZERO SITE』no.1、所収、メディア・デザイン研究所、2007)、他がある。

ベイトソンやインゴルドの思想は、日常において実現していることの創造性を
記述するための理論的道具立てをたくさん提供してくれています。
とくに、インゴルドは、今まさに進行している出来事に自ら参与し、その参与によって生じる身振りの痕跡を手書きのスケッチやメモで
そのまま記録していくgraphic anthropologyを提案していますが、私の課題は、その大半が無意識に沈み込んでいる
日常生活の創造性を記述し分析するための方法を編み出すことだと考えています。(詳しくは本誌で)

    
 

photo

理性主義を超えて……思考停止からの出発

高橋昌一郎
たかはし・しょういちろう
1959年大分県生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修士課程修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は、論理学・哲学。著書に、『東大生の論理』2010、ちくま新書、『知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性』2010・『理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性』2008、『ゲーデルの哲学』1999(以上、講談社現代新書)、『哲学ディベート――〈倫理〉を〈論理〉する』2007、NHKブックスなどがある。

日常的には、明日も日は昇り、電車も定刻どおりに動いて、学校や職場に行けばいつもと同じ仲間に会える。
99.9%がうまく予測できているので、なにも不確定性や不確実性に目を向けなくても生きていける。
ただし、これで全部がうまくいくだろうと思ってしまうと、それは一種の「理性信仰」ではないかということです。
私たちすべてが東日本大震災で実感したことですが、自然の根底には不確定性や
不確実性が潜んでいることを意識する必要があるでしょう。(詳しくは本誌で)
 

editor's note

理性の限界で、あえてその根拠を問うこと

科学技術はなぜ不安の対象になったのか

 科学技術に対する信頼が揺らいでいます。いやもっと踏み込んで言えば、科学技術そのものに対する不信感が増しているという方が適切かもしれません。
 かつて我が国は、「公害大国」と呼ばれていた時代がありました。1960年代、高度経済成長のもと、大量生産・大量消費社会が進む中、光化学スモッグや四日市ぜんそくの原因である大気汚染、水俣病を引き起こした水銀汚染など、全国各地で深刻な産業公害が発生しました。そうした社会状況を背景に、科学技術に対する不安が高まりました。ただ、今にして思えば、その不安はある程度解消されるものとして理解されていたように思います。産業公害の場合、被害者と加害者ははっきりと分かれていて、加害者の公害発生を止めさせることによってとりあえず事態は収束する。対立構造が明確な分、それに対する処方箋も明らかでした。そして何より、その原因を裏付け、立証する(であろう)科学への信頼がまだ十分に共有されていたように思います。科学技術の発展がやがてすべての問題を解決してくれるはずだという信頼と期待が、まだ私たちの中には息づいていたのです。
 ところが、80年代からにわかに問題となってきた地球環境問題は、それまでの科学技術がもたらす問題の枠組みを大きくはみ出すものでした。地球環境問題では、加害者であり、同時に被害者になり得る可能性を有します。両者を明確に区別することができないのです。加害者も特定の企業ではなく、世界中の多数の企業が複雑に絡み合い、また被害者の方も、国境を越えれば加害者になるといった流動的なものでした。国民国家という枠を越えて、国家、地域、個人それぞれのレベルで利害が錯綜するのです。さらに、問題を複雑にしているのは、それを解決するはずの科学技術が、かえって事態を混乱させていることです。たとえば、地球温暖化論が有力な根拠としている気候変動論。しかし、当の気候変動論が気候の長期予測は原理的に不可能だと匙を投げています。太陽と地球と月の1年後の位置関係は正確に予測できますが、一年後の気象状況を予測することはできません。一年後ですらそうですから、まして、50年後、100年後の地球上の気候がどうなるかなどということになるとまったくお手上げです。ところが、コンピュータの驚異的発展がシミュレーション技術を飛躍的に進歩させたことにより、そうした予測も可能だろうという幻想を生みます。科学技術の進歩が現実との乖離を促すというわけです。
 巨大技術がもたらす事故も、70年代以降目立ってきました。その象徴ともいえる原発事故に関しては、科学技術それ自体が当の問題の引き金になっています。肝心の科学技術が問題の原因であり、それゆえ解決する術を失っているのです。環境問題も原発問題もその核心は、「科学技術がついに自らの起こした出来事の尻拭いをすることができなくなった」(池田清彦)ことに尽きるというわけです。
 科学技術全般に対する漠然とした不安は2000年前後から強くなっていたようです。内閣府が行った調査ではそれを裏付けるように、2人に1人が「科学技術が専門家でなければわからなくなっている」「科学技術が悪用されたり、誤って使用されたりする危険が増える」「科学技術の進歩に自分がついていけなくなる」と答えています(『科学技術白書 平成18年度版』)。
 そうした科学技術に対する不安が高まる中、東日本大震災が発生しました。当初、地震・津波は自然災害で、福島第一原発事故は人災と言われました。その一方で、「想定外」という言葉が繰り返されました。なんとも空疎な言葉に聞こえます。科学技術は、なかば失墜していたのです。3月11日までは科学技術が機能していて十分にその役割を果たしていた。それが、3月11日を境にして突然機能不全を起こしてしまった。要は、すべてが「想定外」であったと言いたいのでしょう。しかし、そんなバカなことはありません。科学技術は、3月11日以前から機能不全を起こしていたのです。そして何より、科学技術がどれほどのものか、私たち自身がなんとなくわかっていたのではないでしょうか。そして、その「なんとなくそうかな」が「やはりそうだったか」に変わったのが、東日本大震災だったのです。
 今号は、今、再び起こった「自ら尻拭いできない科学技術」による出来事を捉えるうえで、その礎たる科学について考えたいと思います。ただし、その前に科学技術という言葉の意味を明らかにする必要があります。ここで問題にしたいのは、技術ではく、科学それ自体だからです。
 公害大国は汚名でも何でもなく、60年代の我が国の実態でした。それでも、まだ科学は光り輝いていました。繰り返しますが、科学が発展することによって、どのような問題もいずれは解決するだろうと誰もが思っていたのです。科学はある意味で万能でした。その科学の基礎の上に乗っかって技術が進歩すると考えられていたのです。技術は時に失敗もするし、事故も起こすだろう。であるならば、科学がそれをしっかりと支え補えば、技術は修正されて、再び健全な形で歩み始めることができる。「科学を信頼しようじゃないか」。それが、当時の気分だったと思うのです。
 しかし、科学技術への信頼、期待が大きく萎み、今や、不信の対象になろうとすらしています。こうした状況にあって、まず科学本来の役割を再認識し、科学の信頼度を高めることによって、科学技術を立て直そうという動きが出てきました。「完全無欠」な科学の再興です。科学リテラシーの徹底、サイエンスカフェやコンセンサス会議を通じて、科学本来の姿に立ち返ろう、言い換えれば、確実性、絶対的真理としての科学を再認識しようという考えです。しかし、科学は本当にそのようなものなのでしょうか。「正しさ」や「確かさ」の原型としての科学。森羅万象を基礎づける大本のようなものなのでしょうか。正しいとされている、確かだとされている、何よりもすべての物事の真理であるとされている科学。もしかしたらそのことこそが幻想ではないか。私たちは、まさに、ここから問いを起こしたいと思います。


なぜ科学を問う必要があるのか

 科学は古代ギリシャに始まったといわれます。古代ギリシャを代表する哲学者タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスをミレトス派と呼びますが、ミレトス派の関心は、自然そのものの原理にありました。それまで自然現象の理解をもっぱら神話や擬人性に求めたのに対して、ミレトス派は、自然現象を自然そのものの原理で説明しようとしたのです。つまり、神や人間はとりあえず棚上げして、自然の意味付けを自然の中に求めたのです。科学史では、ミレトス派の自然哲学をもって科学の誕生と位置付けています。
 それに対して、技術は人類の登場とともに始まったといわれています。今から250万年前人類は石の一部を打ち砕いて礫をつくりました。この打製石器が人類における道具の誕生を意味し、技術とはこの道具の発明、使用をその端緒とするのが一般的です。フランスの哲学者ベルグソンが、人間を「ホモ・ファーベル(homo faber=工作人)」と言ったのは、技術を人間の本質と見たからでしょう(中島秀人)。
 科学技術とひとまとめに語られてしまうことが多いのですが、科学と技術は本来別のものとして生まれたものでした。それは今日も変わらず、たとえば、目的や価値を考えた時、その違いは明らかです。理論生物学者である池田清彦氏は、科学と技術の違いを次のように説明しています。
 「科学にとっての最大の価値は、今までの理屈を超える新しい理屈を立てて、今までの理屈で説明できなかった現象を説明したり、未知の現象を予測」することで、何であれ新しいことを発見するところに価値があり、それ以外にはないと言います(『やぶにらみ科学論』)。それに対して、「技術は成功体験の集積であり、とりあえず理屈は後でもよい。たとえば、ある草を煎じて飲めば、解熱効果があったとする。科学はそのメカニズムを追及するが、技術(この場合は医術)としては熱が下がるかどうかが問題なのであって、理屈は二の次でよい」(同上)。つまり、科学の価値は、新しいことの発見にあり、技術の価値は、役に立つかどうかにあるというのです。新技術の利用権が特許で保護されている現今の社会では、役に立つ新技術は儲かる新技術でもあります。したがって、技術における価値は、新しいかどうかではなく、金が儲かるか否かにあるというわけです。
 技術は役に立てばいいわけで、それが結果として利益を生み出す。つまり儲かることが第一の目的です。それに対して、科学は新発見が目的であって、そもそも利益とは無縁の行為です。別の見方をすれば、純粋に真理のみを追究する運動が科学というものなのです。科学技術への不安がやがて不信に変わり、科学技術そのものへの批判へと変わっていく中で、その批判の矛先は、技術へ向けられていきました。その一つの理由は、新技術が生み出す富にありました。科学は富を生まない代わりに、真理を手にする喜びをもたらします。むろん、真理がすべてわかってしまったら、科学はそこでストップしてしまいます。科学という運動にとっては、真理は無限であり、永遠に追究できるものでなければならないことは言うまでもありません。
 科学と技術の目的の違い、価値の違いが、科学技術批判の矢面に立たされながらも、科学それ自体への批判に直接向かわなかった理由ではないかと思います。科学が求めているものは、端的に真理であり、それは正しさや確かさを確信することでもありました。しかし、科学技術への不安および不信について、ラディカルに掘り下げていくと、じつはその元凶がまさに科学の科学性、科学を位置付けている真理それ自体にあるということがわかってくるのです。科学技術の本当の問題は、科学の中にすでに埋め込まれていたのです。というか、科学という運動がその端緒から孕んでいた問題こそが科学の問題だった。「科学は真理を追究すること」、まさにそれこそが科学が内包する問題の本質だったのではないかと思うのです。

究極の真理という幻想

 科学は、ある時代まで確かに私たちに「輝かしい未来」を約束してくれました。しかし、現代の科学にそれを求めることはできなくなりました。「科学は真理を追究すること」ということが、ある時から単なる物語に変わってしまったのです。今号では、1、科学、技術、社会のかかわりの中で真理を追究するとされてきた科学の位置付けについて、2、真理の探究と科学的思考の関係について、3、真理を追究する理性の陥穽について、考察します。
 まず、1.について。科学技術社会論(STS=Science, Technology and Society)という分野があります。大阪大学コミュニケーションデザイン・センター准教授で科学技術のガバナンス論が専門の平川秀幸氏によれば、科学技術と社会のかかわりについて、主に社会学、政治学、経済学、歴史学、倫理学、哲学、教育学など人文・社会科学の観点から学際的に研究するのが科学技術社会論だといいます。「新しい科学技術はどのようにして生み出され、社会の中で使われるのか、その結果、社会にどのような影響が起きるのか。反対に、社会の側のさまざまな力、たとえば政治や経済の力は、科学技術に対してどういう影響力を及ぼしているのか。そしてそれらの影響によって生じる問題を解決するには、科学技術の研究開発やその使い方を誰がどのように舵取りしたらいいのか」(『科学は誰のものか 社会の側から問い直す』)といったことを考えるための研究で、言い換えれば、科学技術と社会の境界線上に立って、両者を橋渡しする見方や考え方、方法論を探るための学問が科学技術社会論だというのです。つまり、科学者や技術者たち「内側」と一般の「外側」の人々が、科学技術の問題に躊躇なく議論し合える関係をつくり出すお手伝い役が、科学技術社会論だというわけです。
 とはいえ、実際に普通の人たちが科学技術やその政策の問題に取り組もうとしてもそこにはいろいろな「参入障壁」があるといいます。とくに、「科学技術の問題は、科学技術が解決してくれるだろう」というお任せ楽観主義や「科学技術の進歩はだれにも止められない。多少の犠牲があっても進歩のためには仕方がない」といった宿命論もしばしば見受けられるというのです。つまり、先ほどから言っている科学の完全無欠主義、真理絶対主義がかえって「外側」の人々の参加を拒んでしまっているというわけです。むしろ、「外側」から、社会の側から、こうした真理絶対主義を切り崩していく必要がありそうです。そこで、平川秀幸氏に科学技術社会論の立場から、科学を位置付け直し(科学、技術、社会との関係性の中で)、公共世界の再構築という問題に切り込んでいただきます。統治者視点/当事者視点の相克がキーワードになるでしょう。
 南山大学人文学部キリスト教学科准教授で哲学・倫理学、宗教学が専門の柳澤田実氏は、『談』 86号でご自身の考え「連続性の哲学」を開陳されました。理性を中心とするヨーロッパの哲学的人間観においては、精神的活動と人間の行う生態学的活動とが切り離されてきたとしたうえで、宗教的経験や美的経験は、最も主観的なものとみなされてきたといいます。人間を全体として捉える視点を失ったのはまさにこの断絶に起因するとし(その象徴がデカルト的二元論)、これを乗り越える方策として「連続性の哲学」を構想します。柳澤氏にとって、科学とは理性中心主義の究極の姿であり、それは精神活動を意識に還元してしまった結果だと言います。そしてその陥穽からの脱却の手掛かりを、ベイトソンとインゴルドという二人の思想家に見出しました。そこで、ベイトソンとインゴルドの思想を梃に、科学的思考が内在する理性=意識の共犯関係を暴き、科学を生態学的文脈のうえに位置付け直す方策を検討していただきます。
 私たちは、あらゆる問題を理性によって解決できるものと思い続けてきました。理性を追究する果てで必ず真理をつかむことができると確信してきました。理性には限界がなく、真理は永遠です。この理性主義に裏打ちされて大躍進を遂げたのが科学でした。理性主義とは、出来事にはすべて理由があるという考え方です。そして、その理由も、じつは理性によって説明できなければならないのです。理性(=哲学)が求めるものが「理由」であるとすれば、科学が求めるものは「原因」です。「~とは何か」という究極の問いに対して、「なぜならば〇〇だから」と答えます。この「〇〇」として現れるのが「理由」であり、「原因」です。そして、この理由と原因をひとまとめにして、哲学では「根拠」と呼んできたのです。
 「問い」への応答、それを最深部で根拠づけているものが「理由」であり「原因」であるとしたら、理性と理由もしくは科学と原因の関係は、その端緒から同義反復的であったと言わざるを得ません。理性もしくは知性の根源には、大いなる逆理が組み込まれていたのです。
 國學院大學文学部教授で論理学・哲学が専門の高橋昌一郎氏は、数理経済学者ケネス・アロウの証明した「不可能性定理」、物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクの発見した「不確定性原理」、論理学者クルト・ゲーデルが導いた「不完全性定理」によって、「理性の限界」が示されたと述べています。すなわち、「選択の限界」であり、「科学の限界」であり、「知識の限界」が彼らによって明らかにされてしまったからです。
 科学を根拠づける真理。その真理を追究する理性――。
 最後に、もう一度科学と真理、科学と理性、そのかかわりを追究する科学的思考について、高橋昌一郎氏に考察していただきます。(佐藤真)

参考文献:
『社会の中の科学』中島秀人 放送大学教育振興会 2008
『やぶにらみ科学論』』池田清彦 ちくま新書 2003
『科学はどこまでいくのか』池田清彦 ちくま文庫 2006
『科学は誰のものか 社会の側から問い直す』平川秀幸 NHK出版生活人新書 2010


 
   editor's note[before]
 


◎科学・技術は誰のものか
科学は誰のものか 社会の側から問い直す 平川秀幸 NHK出版生活人新書 2010
アカデミック・キャピタリズムを超えて アメリカの大学と科学研究の現在 上山隆大 NTT出版 2010
科学技術コミュニケーション入門 科学・技術の現場と社会をつなぐ 梶雅範他編 培風館 2009
対話の場をデザインする 科学技術と社会の間をつなぐということ 八木絵香 大阪大学出版会 2009
はじめよう! 科学技術コミュニケーション 北海道大学科学技術コミュニケーター養成ユニット編 ナカニシヤ出版 2008
社会の中の科学 中島秀人 放送大学教育振興会 2008
科学コミュニケーション論 藤垣裕子、廣野喜幸編 東京大学出版会 2008
トランス・サイエンスの時代 科学技術と社会をつなぐ 小林傳司 NTT出版 2007
日本の科学/技術はどこへいくのか 中島秀人 岩波書店 2006
工学の歴史と技術の倫理 村上陽一郎 岩波書店 2006
自分で調べる技術 市民のための調査入門 宮内泰介 岩波アクティブ新書 2004
誰が科学技術について考えるのか コンセンサス会議という実験 小林傳司 名古屋大学出版会 2004
専門知と公共性 科学技術社会論の構築へ向けて 藤垣裕子 東京大学出版会 2003
公共のための科学技術 小林傳司編 玉川大学出版部 2002
パブリック・ガバナンス 改革と戦略 宮川公男、山本清編著 日本経済評論社 2002
〈標準〉の哲学 スタンダード・テクノロジーの三〇〇年 橋本毅彦 講談社選書メチエ 2002
鯨と原子炉 技術の限界を求めて L・ウィナー 吉岡斉、若松征男訳 紀伊國屋書店 2000
科学の社会史 ルネッサンスから20 世紀まで(増訂版) 古川安 南窓社 2000

◎科学を哲学する
科学アカデミーと「有用な科学」 フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ 隠岐さや香 名古屋大学出版会 2011
科学の科学 コレージュ・ド・フランス最終講義 P・ブルデュー 加藤晴久訳 藤原書店 2010
科学哲学 (ブックガイドシリーズ基本の30冊) 中山康雄 人文書院 2010 
科学哲学 (1冊でわかるシリーズ) S・オカーシャ 廣瀬覚訳 岩波書店 2008
科学はどこまでいくのか 池田清彦 ちくま文庫 2006 
科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる 戸田山和久 NHKブックス 2005
科学はいかにつくられたか 歴史から入る科学哲学 落合洋文 ナカニシヤ出版 2003
科学的認識と帰納的推論 ヒューム、ポパー、ライヘンバッハ 宮地正卓 日本図書センター 2003
科学を読む愉しみ 現代科学を知るためのブックガイド 池内了 洋泉社新書y 2003
やぶにらみ科学論 池田清彦 ちくま新書 2003
科学哲学のすすめ 高橋昌一郎 丸善 2002
疑似科学と科学の哲学 伊勢田哲治 名古屋大学出版会 2002
科学哲学 現代哲学の転回 坂本百大 野本和幸編著 北樹出版 2002
批判的合理主義 1.2 ポパー哲学研究会編 未来社 2001/2002
科学知と人間理解 人間観再構築の試み 高橋準二 新泉社 2002
近代科学と聖俗革命(新版) 村上陽一郎 新曜社 2002
科学の大発見はなぜ生まれたか 8歳の子供との対話で綴る科学の営み ヨセフ・アガシ 立花希一訳 講談社ブルーバックス 2002
科学を育む 黒田玲子 中公新書 2002
科学論の現在 金森修、中島秀人編著 勁草書房 2002
科学革命の現在史 日本の持続可能な未来のために 中山茂、吉岡斉編著 学陽書房 2002
科学計量学の挑戦 コミュニケーションの自己組織化 L・ライデスドルフ 藤垣裕子他訳 玉川大学出版部 2001
科学が問われている ソーシャル・エピステモロジー  スティーヴ・フラー 小林傳司他訳 産業図書 2000
批判的合理主義の思想 蔭山泰之 未来社 2000
科学の終焉(おわり) ジョン・ホーガン 筒井康隆監修 竹内薫訳 徳間文庫 2000
科学認識論 ガストン・バシュラール ドミニック・ルクール編 竹内良知訳 白水社 2000
科学から哲学へ 知識をめぐる虚構と現実 佐藤徹 春秋社 2000

◎理性・意識・精神
知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性 高橋昌一郎 講談社現代新書 2010
東大生の論理 「理性」をめぐる教室 高橋昌一郎 ちくま新書 2010
理性の探求 西谷修 岩波書店 2009
相対主義の極北 入不二基義 ちくま学芸文庫 2009
やさしいベイトソン コミュニケーション理論を学ぼう! 野村直樹 金剛出版 2008
理性の限界 不可能性・不確実性・不完全性 高橋昌一郎 講談社現代新書 2008
原因と理由の迷宮 「なぜならば」の哲学 一ノ瀬正樹 勁草書房 2006
無意識の思考 心的世界の基底と臨床の空間 I・マテ-ブランコ 岡達治訳 新曜社 2004
同一性・変化・時間 野矢茂樹 哲学書房 2002
精神と自然 生きた世界の認識論 G・ベイトソン 佐藤良明訳 新思索社(改訂版) 2001
バリ島人の性格 写真による分析 G・ベイトソン、M・ミード 外山昇訳 国文社 2001
精神の生態学 G・ベイトソン 佐藤良明訳 新思索社(改訂第2版) 2000
ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論 高橋昌一郎 講談社現代新書 1999
天使のおそれ 聖なるもののエピステモロジー G・ベイトソン、M・C・ベイトソン 星川淳訳 青土社(新版) 1992
実在論と理性 H・パトナム 飯田隆他訳 勁草書房 1992
理性の思想史 哲学的経験の一体性 E・ジルソン 三嶋唯義訳 行路社 1975
知性の歴史 思想史における理性と反理性 伊藤勝彦 新曜社 1972