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[最新号]談 no.92 WEB版
 
特集:養[老病]生論
 
表紙:高津戸優子 本文ポートレイト撮影:すべて新井卓
   
    
 

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養生論の射程——個人/社会の調和の思想

瀧澤利行
たきざわ・としゆき
1962年東京都まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程健康教育学専修修了。現在、茨城大学教育学部教授。医学博士。養生思想、健康文化論専攻。著書に『養生論の思想』世織書房、2003、『健康文化論』大修館書店、1998、他がある。

健康を第一にするという考え方は必ずしも万能ではない。
しかしながら、社会に迷惑をかけるかもしれないようなものに価値を置くのだったら、
健康に価値を置いた方がいいんじゃないかという思いもあります。
健康はその人が一所懸命やる限りにおいて、誰にも迷惑はかけないし、個人的にも社会にもプラスになるでしょう。
価値の追求というのはえてして人に迷惑をかけ、時に侵害することもある。
それは養生の考え方に反します。養生は自分の生を養うと同時に、人の生も大事にしますから。(詳しくは本誌で)


    
 

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患者の知、医療の認識論的転回

松繁卓哉
まつしげ・たくや
1972年東京生まれ。Royal Holloway,University of London 医療社会学修士課程修了(MSc in Medical Sociology)、立教大学大学院社会学研究科社会学専攻博士後期課程修了。博士(社会学)、現在、国立保健医療科学院医療・福祉サービス研究部主任研究官。 著書に『「患者中心の医療」という言説―患者の「知」の社会学』立教大学出版会(発売:有斐閣)、2010、他

病みの苦しみといっても、じつは社会関係、人間関係に起因する苦しみがかなりの部分を占めています。
だとすれば、それは医療資格者でなくてもケアできる部分かもしれない。
病を支える場合には、病みの苦しみをより正確に腑分けして、
どういう部分が病者の苦しみを形成しているのかが解明されていけば、
今まで医療者の側が難しく考えていたことが、
じつはもっと身近な手法で救われる可能性もあるかもしれないと思っているのです。(詳しくは本誌で)

    
 

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福祉社会の桎梏……病苦がなくなることを普通に欲望できる社会へ

小泉義之
こいずみ・よしゆき
1954年札幌市生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学。現在、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。哲学・倫理学。著書に『倫理学』人文書院、2010、『デカルトの哲学』人文書院、2009、『病いの哲学』ちくま新書、2006、他がある。

福祉国家では、健康や病気という概念が、養生から切り離されてしまって、何か別のものになっている。
がんの治療の定義ひとつとっても、そこにはがん細胞の体積、五年生存率といった数値の指標しかない。
それが悪いと言いたいのではありません。そのような福祉国家の功利主義は養生の功利主義とは異質なのに、
前者が後者を抑圧していること、国民集団レベルの健康の影が病気から恢復した健康と見なされていること、
それが国家目標にすら据えられていることに異を唱えているのです。(詳しくは本誌で)
 

editor's note

生老病死の「半健康」論

「完全な健康人」という幻想

 現代人の健康への欲求は大変強いものがあります。何が何でも健康でなくてはならないと思うあまり、健康や医療情報の収集に日々奔走する姿は(自分も含めて)、滑稽さを通り越して哀れにすら見えてきます。私たちは、なぜこんなにも健康に強い関心をもつようになったのでしょうか。
 ところが、その健康とは何かとなるととたんに雲行きが怪しくなってきます。よく引き合いに出されることですが、WHO(世界保健機関)は、「完全に、身体、精神、及び社会的によい(安寧な)状態であることを意味し、単に病気でないとか、虚弱でないということではない」ことを健康と定義しています。単に病気がないというだけでなく、心身・社会ともにバランスのとれた状態が「健康」だというのです。要するに、「健康でない状態ではないことが健康」と言っているわけで、あまりにも漠然としています。いわゆる二重否定に当たり、これでは何も言っていないに等しい。健康の定義自体が曖昧模糊としていて、どのようにでも解釈できてしまう。しかも、私たちシロウトならまだしも、病気のプロであるところの医療者側も同じらしい。じつは医者も十分に理解しているとは言い難い。
 さすがにこれではマズイと思ったのか、実際の臨床の現場では、別の観点から明確な定義付けをしています。正常値なるものを設けて、この正常値内に入っていれば健康としたのです。正常値とは、医学的に健康と判断された人の臨床検査での数値や結果のことで、その「医学的」がいかなるものかは、明確に定義されているわけではない。医療者の間では、全体の9割くらいがその数値内に入っていれば正常値だとしています。つまり、正常値とはあくまでも相対的な値に過ぎず、絶対的な数値ではない。正常値というともっともらしく聞こえますが、臨床現場においても、健康概念は依然あいまいなままなのです。
 それだけではありません。この正常値が今や一人歩きをしているのです。医療者にとって正常値は絶対的ではなく相対的な数値であると認識されているにもかかわらず、いったんそれが定められるとその数値を厳密に遵守しようとします。自然科学の基本は世界を白か黒かに分けます。自然現象に普遍的な法則性を探求する自然科学という学問の性格上答えはただ一つで、あれかこれか、あれでもありこれでもあり、ということは原理的にあり得ない。近代医学も自然科学を基盤に成り立っている限り、同じ発想で理解します。
 たとえば検診などで、医者に「あなたは異常です」と言われたりすると、私たちはとても不安になります。何かすごく悪い状態のように感じられ、心配でいてもたってもいられなくなるものです。ところが、『「医師アタマ」との付き合い方』の著者で臨床医の尾藤誠司氏によれば、多くの場合それは単に「正常値の範囲外」を意味する言葉だというのです(1)。本人に何の自覚症状や生活上の問題がなくても、正常値からほんの少しでも外れると、異常と判断されてしまう。たまたまその時体調を崩していて、翌日にはケロッとしていたとしても、白か黒かのどちらかしかない以上、それは黒であり異常となる。つまり、医療者にとって「グレーゾーンはあり得ない」のです。

半健康人という生き方

 そのことは健康について、もっとはっきりしています。私たちの健康のイメージは、たとえば、スポーツで汗を流した後の笑顔だったり、「元気ハツラツ……ドリンク!!」のCMだったりするのですが、医学の世界に元気は不要だという。尾藤氏に言わせれば、元気だけでなく、「足が速い」とか、「スタミナ十分」とか「よく食べる」とかも不要。要するに、人のプラスの部分は基本的に評価しなくて、「マイナス部分がないこと」が健康の意味だからです。医者にとっては、健康は「100%が正常な状態」を意味し、その理想の健康状態から減点方式で捉えて、「あなたはこのくらい」と評価を下す。そして、その理想にできるだけ近づけようと日々もがいているのが現代医療ではないかというのです。
 しかし、言うまでもなく、そんな100%が正常な状態の人間などいるわけがありません。結局、現実の人間は、どこかに異常をもった存在とみなされる。その結果、生きている人間のすべては、欠陥人間ということになってしまうのです。人体に欠陥があるとわかれば、その欠陥は正常に戻さなければならない。そういう欠陥を見つけるのが医療における診断であり、見つかった欠陥を修理し修復するのが治療ということになります。なんとも皮肉なことですが、数値で正常/異常の線引きを行う健康診断は、異常や病人を増やす結果になる。それもそのはず、かつてはそんな線引きなどなかったわけですから。ところが、いったん正常値という数値が定められると、その数値から外れたものはみな異常とみなされ、その瞬間、健康でない人、病人というレッテルが貼られてしまう。今や、病人はどんどん増えています。
 正常値の変化が病気を増やした例として、メタボリックシンドロームがあります。メタボリックシンドロームとは、内臓に過剰な脂肪が畜積されると同時に、高血圧、高血糖、高脂血症のうち二つ以上の症状が重なって、動脈硬化さらには心筋梗塞などに発展する可能性が増大する状態で、たとえば、以前はコレステロール値が250mg/dlを超えると異常とされていましたが、現在は220mg/dlに引き下げられました。その結果、メタボ予備軍が激増してしまった。単なる小太りと呼ばれていた程度の人が、突然、医学的に見て病人になってしまったのです。その結果、今では、日本人の40歳以上の男性の2人に1人は病気ということになりました。
 作家で医師の米山公啓氏は、医学的な数値だけで健康は計れないとして、新たにQOL(quality of life=生活の質)を導入しようという動きがあり、ある医師の健康概念を紹介しています(2)。それによると、「よく食べられ、よく眠れ、排泄に支障がなく、疼痛がなく、たとえあっても苦痛にならず、心理的に安定し、職場や家庭・学校といった社会環境において十分その役割を果たすことができ、生き甲斐をもって充実した日々を送れること」が全人的健康であるとしています。しかし、この定義に当てはまる生活ができる現代人が、どれだけいるだろうかと米山氏は疑問を投じます。結局のところ、どんな基準をつくっても、そこからはみ出る人はいるわけで、その結果日本人のすべては不健康な人間=半健康人ということになる。だから、私たちは、まず絶対的健康などあり得ないと自覚することだという。すなわち、完全な健康人などいないと早く悟るべきだと示唆します。

病の肥大化と医療の発達

 健康は医療が定義することではないとわかってはいるものの、正常値が象徴するように、何かに頼らざるを得ない場面では、医者の言葉を信用せざるを得ない。やはり、健康イメージは、医療がつくり出している面が大きい。では、その要因はというと、日本では医療機関へのアクセスが、物理的な距離としても経済面でもし易いことが挙げられます。日本の国民皆保険制度は世界的に見ても高い評価を受けていますが、医療を非常に身近なものにしたことは事実です。自己決定をする以前に、まず病院へ行く。医者に診てもらうことから病気とのかかわりがスタートする。考えてみれば、非常におかしなことで、自分のからだであるにもかかわらず、その状態がどうであるか、自分で判断するより先に医者に診てもらい、診断を下してもらう。言い換えれば、医者の判断なくしては、自らのからだがどういう状態なのか、つまり、病気なのか病気でないのかがわからないのです。ちょっと風邪をひいただけでも医師の診断を仰ぎます。医師が大丈夫だと言えば安心し、入院しないとダメだと言われれば、何の疑いもなく従います。私たちは、こと医療に関しては、完全に人(医者)任せです。
 もとより、その背景には経済的な潤沢さだけではなく、医療自体の急速な発展があります。医学が発達し、医療機器が進化し、医療従事者も増えました。さらに、大きいのはいわゆる予防医学の発達です。早めに発見し、早めに手当てをすれば病気は軽くすむ。あるいは、死なずに助かる可能性もある。そうした、予防医学の発展・普及が、私たちの医療への過信を招いているのです。じつは、こうした医療へのおんぶに抱っこの状況が、逆に病を肥大化させていると指摘する識者もいます(3)。そもそも病を病気と言い換えたのが医学であるし、その結果病気の幅が広がり、かつては病気とみなされていないようなものまでも病気にさせられてしまった。医療の発達がむしろ病を肥大化させたという意見です。
 『脱病院化社会』の著者イヴァン・イリイチは、病がいかに病院では治らないかを論証しましたが、この議論を受けて感染症が激減したのは薬剤の開発というよりは、自然に減り始める時期と単に重なったにすぎないという研究結果が報告されました。また、ルネ・デュボスという細菌学者は、近代医学の成功についてこんな喩えで皮肉りました。海の潮が引いていく時に、自分でバケツ一杯を汲んで、私が汲んだから潮が引いたのだ、と主張するのと同じことだというのです。
 最近脳ドックを受ける人が増えた結果どういうことが起こっているかというと、小動脈瘤と診断される患者が激増しているというのです。じつは、小動脈瘤は六〇歳を越えると平均的に誰にでもあるもので、私たちはその症状を老化と呼んできた。だから、それを病気ということ自体おかしなことだと指摘する専門家もいます(4)。
 今まで病気でもなかったものが、ある日突然病気になる。先ほど紹介したメタボのように、メタボという言葉が生まれた瞬間、病気ではなかった人が病人になってしまうのです。たとえ本人の生活に支障がなくても、からだの異変あるいは平均とちょっと違う状態に名前(病名)がつけられると、その瞬間から病気が出現し、その人は病人というレッテルを貼られてしまう。まさに医学の発達、医療機器の進化が、新たな病気をつくり出し、病そのものを肥大化させることに寄与しているのです。

生老病死と「養生論」の発見

 どこまでいっても完全な健康には届かない。いっそのこと、医療が強調するように、私たちは半健康人だと開き直ってみる。少し冷静に考えてみると、それも間違ってはいないことに気が付きます。釈迦は人の一生を「生・老・病・死」のサイクルに置きました。誕生から死までの間、人は、傷つき、痛み、障害に遭いながら生きるのが当たり前だというのです。身体とはそうした「不完全なシステム」であり、壮年期の一瞬を除けば、成長し続ける子供か、老いを増していく老人でしかない。幼いか老いているか、病んでいるか障害をもっているか、そもそも完全な健康状態でいる時などほとんどないといっても過言ではないのです(5)。
 人間の生活の中で、とりわけ健康の占める領域が肥大化しているのが現代社会です。であるならば、あえて医療の言い分に従い、それを幻想とわきまえて、病であることに甘んじてみるのです。「病気に完治なし」という言葉があります。風邪などをひくと快復してもまたぶり返すことがあります。治ってはまた再発する、その繰り返しが生きていることの証と逆に考えてみる。釈迦は生老病死を四つの苦だとも言っていますが、それを人間の決められた運命として引き受けて、病う身体に本来の人間の姿を見出すのです(6)。
 ところで、東洋では、自らの知恵と力とで自らの健康をつくり守りながら、生を充実させていくものとして「養生(ようじょう)」の考えがありました。簡単に言うと、「からだをいたわって、病を未然に防ぎ、天寿を全うする」ものが養生です。養生の方法を記したものが養生訓ですが、日本では貝原益軒の『養生訓』、白隠禅師の『夜船閑話』、佐藤一斎の『言志四録』が知られています。養生訓は、いわば生きるうえでの道しるべとなるもので、生き方あるいは「いのち」の養い方が極めて具体的に綴られています。興味深いことに、平均寿命が三〇歳前後といわれていた江戸時代に、貝原益軒は八四歳、白隠禅師は八三歳、佐藤一斎は八八歳と大変長命でした。そのことも、養生の思想に説得力を与えたようです。
 一見、健康礼賛思想と受け取られがちですが、養生の思想の根本には、むしろ安直な健康観を退ける健康そのものへの深い洞察があると喝破したのが、茨城大学教育学部教授で健康文化論が専門の瀧澤利行氏です。養生の思想の中心にあるものは、あくまでも人間生活の充実であり、決して健康の特権化ではない。むしろ行き過ぎた健康主義に抗する生活の思想だったという。さらに踏み込んで、そこで捉えられる生活は、すべての生活要素を健康一元論によって序列化し、生活を健康によってのみ方向づけるような「生活の健康化」ではなく、健康を特権化せずに、生活、人間存在と合わせた三者の総合的・有機的・発達的概念として把握する「健康の生活化」ではなかったかと問いかけます(7)。
 養生論を、狭義の意味での健康論を超える「生(きる)-活(力)」の思想と捉え直すことにより、「病」をも取り込んだ新たな健康観を打ち立てること。今号では、まず瀧澤利行氏に、現代の行き過ぎた健康主義(ヘルシズム)への批判を含めて、養生論の今日的意味および養生論の可能性について言及していただきます。

医療と福祉の陥穽の中で

 今日、多くの国々で「患者中心(patient-centred)」という考えが、医療のあり方をめぐる議論において、一つの潮流になりつつあるようです。一方、私たちが日常生活の中で医者とかかわる際に、「患者中心」であることを実感しているかというと、必ずしも肯定的な見解のみが示されているわけではない。むしろ、「患者中心の医療」の実現のための取り組みに「患者の不在」があることを指摘する声は大きいというのです。実際のところ、患者が関与する機会はまだまだ限られています。患者不在の場所で「患者中心の医療」が議論される事態を、私たちはどう理解すればいいのでしょうか。
 医療者・患者の双方が展開する取り組みを事例に、社会学の視点から「患者中心の医療」に切り込んだのが国立保健医療科学院医療・福祉サービス研究部主任研究官の松繁卓哉氏です。「患者中心の医療」を実現するために医療者および患者は何をすべきか、さらには、医療者側の高度な医学の専門知識と患者側の「素人の知」を、どのように折り合いをつけるか。松繁氏が着目するのが「エビデンス」と「日常生活のコンテクスト」の二極化です。この二極化は、さらに「disease」と「illness」、「科学」と「社会」という二項区分と結びつきながら、「知」そのもののあり方、成り立ちの根源へと私たちの思考を向かわせます(8)。安直な健康/病気の二分法を超えて、両者を取り囲む新たな知としての「患者中心」について、松繁卓哉氏に考察していただきます。
 「死の瞬間はない。死は境界ではない。生の終りは瞬間でも境界でもない。同様に、生の始まりは、瞬間でも境界でもない。起こっていることは、生と死の浸透、生への死の分散、死への生の分散である。これが末期の生の実情、そして、生そのものの実情である。だから、病人の生を肯定し擁護することは、生そのものの肯定と擁護につながる」(9)。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授で哲学・倫理学が専門の小泉義之氏はこう述べたうえで、次のように結論付けます。「病人は完治を求める。そして病人は、病苦が減るにつれ快くなり、病苦が無くなって快癒すれば快適になる。病人は快楽主義者であり快楽功利主義者である。(…)ところが、病気は必ずしも完治しない。病人は病気と共生することになる。ときに病苦と共生することになる。加えて、現代医療においては、完治という概念はほとんど死に絶え、特段の自覚症状が無くとも診断によって人間は病人に仕立て上げられるので、その意味でも病気と共生することになる。こうして、現代の病人は、快楽主義者であることを放棄」させられ、代わって、病気と共生しながら、健康の程度を増加させる人間に仕立てられていくと(10)。快楽功利主義を抑圧し、別の功利主義、すなわち健康を追求する理性の権力。そこにこそ現代福祉国家の核心があると小泉氏は指摘します。
 私たちは病苦と共にあり、その病苦を零度にしたいと思っています。しかし、そのことと国家が病苦からの解放、さらには病苦を未然に防ぐためと進める健康とは、もともと別のものなのです。病人は快楽主義者です。なぜならば、病苦が減っていく過程が、また、最終的には消滅することがこのうえなく快いと感じているからであり、それを心底欲望するからです。国家が管理する健康は、むしろそうした病人の欲望を封じ込め、快楽を抑圧します。現代の福祉政策の基調にある健康という概念、それを支える功利主義思想。倫理学における功利主義と反功利主義の対立を伏線に、福祉国家が標榜する健康、その具現化としての現代医療について論究していただきます。
 病である状態も健康のうちにあると考える新たな思想の確立。生老病死の養生論、そこに来るべき未来の倫理を見出したい。 (佐藤真)

参考文献:
1.『「医師アタマ」との付き合い方 患者と医者はわかりあえるか』尾藤誠司 中公新書ラクレ 2010
2. 『「健康」という病』米山公啓 集英社新書 2000
3.『病気と治療の文化人類学』波平恵美子 海鳴社 2000
4. 『医療のタテマエとホンネ』中川米造 かもがわ出版 1994
5.『死のレッスン』石田秀実 岩波書店 1996
6. 『健康問答 平成の養生訓』五木寛之、帯津良一 平凡社ライブラリー 2010
7.『養生論の思想』瀧澤利行 世織書房 2003
8.『「患者中心の医療」という言説―患者の「知」の社会学』松繁卓哉 立教大学出版会 2010
9.『病いの哲学』小泉義之 ちくま新書 2006
10. 「病苦、そして健康の影——医療福祉的理性批判に向けて」『現代思想』3月号「特集 医療現場への問い——医療・福祉の転換点で」青土社 2010


 
   editor's note[before]
 


◎養生論逍遥
養生訓(図解雑学) 帯津良一編著 ナツメ社 2011
生死問答 平成の養生訓 五木寛之、帯津良一 平凡社ライブラリー 2011
養生問答 平成の養生訓 五木寛之、帯津良一 平凡社ライブラリー 2010
健康問答 平成の養生訓 五木寛之、帯津良一 平凡社ライブラリー 2010
すらすら読める養生訓 立川昭二 講談社 2005
養生の実技 つよいカラダでなく 五木寛之 角川oneテーマ21新書 2004
養生論の思想 瀧澤利行 世織書房 2003 
養生の楽しみ 瀧澤利行 大修館書店 2001
養生訓に学ぶ 立川昭二 PHP新書 2000
健康文化論 瀧澤利行 大修館書店 1998
道教と気功 中国養生思想史 李遠国 大平桂一、大平久代訳 人文書院 1995
養生外史 不老長寿の思想とその周辺 中国編 吉元昭治 医道の日本社 1994
近代日本養生論・衛生論集成 瀧澤利行編 大空社 1993
近代日本健康思想の成立 瀧澤利行編 大空社 1993
中国医学思想史 もう一つの医学 石田秀実 東京大学出版会 1992
中国古代養生思想の総合的研究 坂出祥伸 平川出版社 1988
養生訓 貝原益軒 伊藤友信訳 講談社学術文庫 1982
近代医学の史的基盤 上下 川喜多愛郎 岩波書店 1977
近代保健思想史序説 民主的な健康観の確立のために 汲田克夫 医療図書出版社 1974
医学をみる眼 中川米造 NHKブックス 1970

◎健康幻想
健康幻想(ヘルシズム)の社会学 社会の医療化と生命権 八木晃介 批評社 2008
健康ブームを読み解く 野村一夫、北澤一利他 青弓社ライブラリー 2003 
健康の語られ方 柄本三代子 青弓社ライブラリー 2002
「健康」という病 米山公啓 集英社新書 2000
健康論の誘惑 野村一夫編著 文化書房博文社 2000
文化現象としての癒し 民間療法の現在 佐藤純一編 メディカ出版 2000
「健康」の日本史 北澤一利 平凡社新書 2000
健康という幻想 新装版 医学の生物学的変化 R・デュボス 田多井吉之介 紀伊國屋書店 1997
健康と病 差異のイメージ S・L・ギルマン 高山宏訳 ありな書房 1996
桃太郎さがし 健康観の近代 (朝日百科 日本の歴史別冊) 鹿野正直編著 朝日新聞社 1995
健康は幻想か M・ケーンレヒナ— 中村耕三訳 紀伊國屋書店 1982

◎病の言説
臨床医学の誕生(始まりの本) M・フーコー 神谷美恵子訳 斎藤環解説 みすず書房 2011
雑誌『現代思想』8月号「特集 痛むカラダ 当事者研究最前線」青土社 2011
病気の日本近代史 幕末から平成まで 秦郁彦 文藝春秋 2011
感染症は実在しない 構造構成的感染症学 岩田健太郎 北大路書房 2009
病いの哲学 小泉義之 ちくま新書 2006
医療人類学のレッスン 病いをめぐる文化を探る 池田光穂、奥野克己編 学陽書房 2007
病気と治療の文化人類学 波平恵美子 海鳴社 2000
病いの語り 慢性の病いをめぐる臨床人類学 A・クラインマン 江口重幸他訳 誠心書房 1996
〈病人〉の誕生 C・エルズリッシュ、J・ピエレ 小倉孝誠訳 藤原書店 1992
健康と病のエピステーメー 十九世紀コレラ流行と近代社会システム 柿本昭人 ミネルヴァ書房 1991

◎医者/患者のエピステーメー
話を聞かない医師 思いが言えない患者 磯部光章 集英社新書 2011
「医師アタマ」との付き合い方 患者と医者はわかりあえるか 尾藤誠司 中公新書ラクレ 2010
「患者中心の医療」という言説 患者の「知」の社会学 松繁卓哉 立教大学出版会 2010
白衣のポケットの中 医師のプロフェッショナリズムを考える 宮崎仁、尾藤誠司他 医学書院 2009
治療をためらうあなたは案外正しい EBMに学ぶ医者にかかる決断、かからない決断 名郷直樹 日経BP社 2008
医師アタマ 医師と患者はなぜすれ違うのか? 尾藤誠司 医学書院 2007
患者中心の医療 M・スチュワート 山本和利訳 診断と治療社 2002
患者学 誰でもいつかは患者になる 医者に医学があるように患者には患者学が必要だ 神前格 マガジンハウス 2000

◎医療・空間・病院
病院の世紀の理論 猪飼周平 有斐閣 2010
先端医療の社会学 佐藤純一、黒田浩一郎他編 世界思想社 2010
雑誌『現代思想』3月号「特集 医療現場への問い 医療・福祉の転換点で」青土社 2010
「社会的入院」の研究 高齢者医療最大の病理にいかに対処すべきか 印南一路 東洋経済新報社 2009
公平・無料・国営を貫く英国の医療改革 竹内和久、竹之下泰志 集英社新書 2009
分別される生命 二〇世紀社会の医療戦略 川越修、鈴木晃仁編著 法政大学出版局 2008
医療の危機に抗して 新しい地域医療の戦略 和田忠志編 医歯薬出版 2008
高齢者医療難民 介護療養病床をなぜ潰すのか 吉岡充、村上正泰 PHP新書 2008
「先端医療」の落し穴 姫路赤十字病院小児リンパ腫男児死亡訴訟をめぐって 仲正昌樹、佐藤功行他 御茶の水書房 2008
医療の限界 小松秀樹 新潮新書 2007
「医療費抑制の時代」を超えて イギリスの医療・福祉改革 近藤克則 医学書院 2004
脱病院化社会 医療の限界 I・イリッチ 金子嗣郎 晶文社 1979