 |
|
山下 今日のテーマは、「シネステジーの悦び」だと聞きました。鷲田さんは以前から「シネステジー」という概念を使って、感覚の融合を視覚・聴覚・嗅覚と個別に分けて捉えるのではなく、それぞれが浸透し合うような、感覚同士が融合していく姿を捉えるべきだと指摘されてきました。そこで、たばこにも、「五感」を多彩に働かせた楽しみや悦びがあるのではないかという、そのあたりを探っていきたいと思います。
じつは私自身はたばこを吸わないんです。ですから今回お話しさせていただくにあたって、たばこを吸う人たちとおしゃべりをして、自分なりにいろいろ考えてきたんですけれど、どうも「匂い」というのがまず、大きな要素なのではないかと。たとえば、「ピース」を吸っていた人とその煙の匂いは、すごく直接的に結び付いて、自分の中にたしかな「人物像」が思い浮かんでくるんですよね。また、ちょっと特別な匂いかもしれませんけど、インドネシアの「ガラム」というたばこ。この匂いを嗅ぐと、パッとインドネシアの風景や、男たちが地ベタに車座になってガラムを吸っていた姿が瞬間的に浮かんでくる。たばこの煙やかおりの経験というのは、自分の記憶と非常に密接につながって、特定の人物や場所、風景を想起させる「引きがね」になっている。そのことに気づかされました。
鷲田 そうですね。匂いと記憶ということでは、とても深いつながりがあると思いますが、それとは別に「匂い」ということではこんな経験があります。以前ドイツにいた時、隣のご家族に夕食をご馳走になったんです。ドイツは日本に比べると喫煙者の数が少ないし、とくにその日は寒い夜で室内が締め切ってあったので、僕はたばこをがまんしていたんですよ。帰ってから吸えばいいやって思って。そしたら、その家の方は誰もたばこを吸わないのに、シガールという葉巻を持ってきて下さって「どうぞ吸って下さい」と言うんです。そして「このシガールの香りはお肉料理ととても良く合って好きなので、吸ってくれる人がいて良かった」と言ってくれた。もちろん、気を使ってくれたのかもしれませんが、葉巻も灰皿もちゃんと用意してある。ただこの場合、紙巻きではなくて、いわゆるシガーの香りでなければダメなんですね。そういう微妙な香りを敏感に区別するんだなあって、その時はすごく関心しました。ですから、香り自体の楽しみや悦びっていうのも当然ある。でもたばこは、香りや味だけじゃなく、視覚的な悦びも大きいんですよ。
山下 ということは、煙ですか? あのゆらゆら漂っている「ゆらぎ」の感じ……。
鷲田 ええ。これは昔、停電した時に経験したんです。停電した真っ暗な部屋の中で、見えるものといったらステレオの赤いパイロットランプくらいの時。何もできないし、たばこに火をつければ少し明るいか、なんて思いながらすっかり観念して、ものすごくゆったりした気持ちでたばこを吸ったんです。そしたら全然おいしくない。おかしいな、と思ってさらに気を落ち着かせて吸ってみてもやっぱりおいしくない。それは、あのふわーっとしたたばこの煙が見えないからだったんです。
山下 ああ、なるほど。暗闇では「ゆらぎ」が消えてしまいますものね。
鷲田 煙を見ているとなんとなく遊びたくなるじゃないですか。ふっと吹いたり、輪をつくってみたり。あれは意外と「快感」のかなりの部分を占めているんじゃないかな。だから、自分と煙が隔離されると、たばこを吸う意味は著しく損なわれます。
山下 つまり、たばこを吸う楽しみは複合的で文化的な経験でもあるんですね。それに、ふわーっと漂う煙のゆらぎを見ることが、のんびりした気分を誘うのかな。ほかにも、たばこについて考える時、「リラックスする」ということもかなり大きな要素としてありますよね。この「リラックス」の語源は、「元に戻る」という「re」が、「lax」は「loose」で、「緩める」という意味ですね。
鷲田 「もう一度緩める」ですね。
山下 ですから、そういった、自分を緩める装置というか、まさに今おっしゃったような、「煙を見ながら」「匂いをかぎながら」「味を感じながら」、さっきまでの自分とはちがう自分をつくる道具なんでしょうね。
鷲田 そうですね。今、視覚の話をしましたけど、「感覚」という問題には還元できないところもある。というのは、「一服する」と言いますけど、これはずっと続いているものに一応区切りをつけて、一息つく時です。それこそリフレッシュするとか、一拍置いて、次またがんばろうという時には必ずたばこを吸う。ですから、これは自分で何か行動や振る舞いにリズムを刻んでいるんです。
山下 縦刻みのリズムですね。
鷲田 そんな感じです。たばこを吸わないのによく理解してくれますね。
山下 私はお酒が好きなので、リラックスということでは共通するのかな、なんて想像しているんですけど。それともう一つ。たばこについて考えるとき、「葉っぱの文化」という角度から見ると、お茶なんかにも共通する効果が見えてくるんじゃないでしょうか? お茶も「一服する」といって、少し休む時に飲んだりしますし。もともと、葉っぱのエッセンスや、それを焙じた煙って、私たちに、何かある特別な空間とか、香りの経験とか、そういうものを与えてくれるものですね。
現在のたばこの姿を、とくにお茶なんかと比較してみると、歴史的変遷が見えてきます。たばこは、最初葉巻だったものが紙巻きたばこになっていったことで、葉っぱ自体の個性だとか、土地の香りなど、葉っぱが持っているオリジナルな文脈みたいなものが薄くなってしまって、産業的な側面が強くなってきたんじゃないでしょうか。お茶は今でも、細かくそれぞれの産地別に分けられ、味わわれています。日本茶も紅茶もそうですね。一方、たばこはそうした土地の固有性を宿していた文化的な味わいを喪失してしまった。
鷲田 確かに、紙巻きたばこになってからは、葉っぱ自体の香りや味などに対するこだわりが薄れて、お茶なんかに比べると、その点寂しくなっています。ただ一方で、たばこには「ファッション性」という面もあるんです。この味は好きだけど、パッケージデザインが嫌いだとか、格好悪いとか言って、吸わないたばこもあるんですよ。
たとえば、日本である世代までは圧倒的にみんなが憧れ、指示していたのは両切りピースです。レイモンド・ローウィがデザインした、あの紺色に金が入ったパッケージが最高だと思って、みんな憧れたんです。しかも両切りであること。今はほとんどのたばこがフィルターつきですが、フィルターつきのたばこなんて軟弱な感じがして、拒否していたものです。
山下 なるほど。たばこは、葉っぱそのものというよりも、もう一段階近代化して、ファッション的な要素が強くなっているんですね。
鷲田 良くも悪くも、「イメージ性」が強い。もちろん、お茶なんかにもそういうのはあって、京都なら、お使い物にするには「一保堂」でないと格好つかないとかそういうのがありますけど、ビールやたばこのように大量に消費されるものは、本質的な味などよりもイメージ性が高い。というより最近では高くなりすぎているきらいもある。ビールなんて絶対ラベルで味わっているだけで、ラベルを外したらみんな区別つかないんじゃないかと思ったり。
それに、とくにたばこの場合は、今、吸っている人が何を基準に選んでいるかというと、味よりも、パッケージよりも、ニコチン含有量やタールの量で決めているというところがあるでしょう。それは倒錯してますよね。
山下 紙巻きたばこになってから、たばこは「そのものを味わう」というところから離れてしまったのでしょうか。そう思うと、たばこの文化的な側面はずいぶん希薄になってるように感じます。
鷲田 今はたばこの味も、平板というか、均質的になっているから、まあ、パッケージデザインで選んだりするわけですが、先ほど、停電の時にたばこがおいしくなかった話をしましたけど、本来は煙にも独特の雰囲気があって、それがたばこの魅力の一つになっているはずなんです。ですが、たばこの煙が本当に豊かな文化の一つかといえば、どうもその点も薄っぺらくなっている。その証拠に、自分の吐いた煙が部屋に充満していても全然気にならないのに、新幹線の喫煙車両のように、他人が吐いた煙が充満している場所はがまんできないんです。煙たいのも、匂いもイヤ。僕でさえ、新幹線に乗る時は禁煙車両に乗ることは多いんですよ。でもそれでは、本当の意味で煙を嗜好しているということにはなりませんね。
山下 自分一人だけでちょっと気分転換のために吸うけど、あとは何も作用がないし、他者に対しても害があるだけという感じになってしまっている。なんていうか、たばこが本来持っていた豊かさというか、そこをそぎ落としてしまった、単なる「商品」になっているのかもしれません。 |
 |
|
鷲田 僕が昔たばこを吸い始めた頃とか、あるいは大人たちが好んで葉巻を吸ったりしていた時ほど、今やたばこは、ゴージャスな文化ではなくなっている。そして僕自身そう思っているのに、やめられない。それはなぜか。僕は、たばこが「口に挿むもの」だからだと考えています。これは僕が男性だから、余計にそういう思いが強いのかもしれないけど、感覚的には「乳首」とほとんど変わらない。つまり、生まれて最初に吸ったものですね。
先ほど、リラックスというお話をしましたけど、「もう一度緩め直す」というふうに、たばこには「戻る」という要素が確かにある。ただ、その「戻り方」には二つあるんです。一つは、概念的に言うと水平と垂直みたいなもので「昔に戻る」、味が過去の記憶と結び付くという面。もう一つは、普段みんないろんな形で頑張ったり、構えたりしてるじゃないですか。これは一種の緊張ですね。そういう「緊張を解く」ことでリラックスするという面です。だから戻し方といっても、時間を通じてより昔へ戻るという戻り方と、緊張を解くという意味での戻り方と二つあって、たばこはその両面を持っているんです。そして口に挿むという感覚は、一瞬退行するというか、原初的な場所に戻るという欲求に密接に結び付いている。だから、やめられない。
山下 接触的な安定感。安心感があるということですね。でも、乳首に似ているというのは、形がですか?
鷲田 形も似ているし、いいものがそこから出てくるし。だけど乳首というのは象徴的なだけで、実際子供の時って何でもかんでも口に入れて、唇に挿んで感触を確かめて、飲むか吐き出すか決めるじゃないですか。それは人間にとっていちばん最初の知覚器官でしょう。そういう、自分の原始的な感覚とつながっているんです。だからいろんな感覚を諦めても最後まで諦められないものとつながっているんじゃないかな。そのために、頭の中では身体に良くないとか、意外とうまくないじゃないかとか、一日の中でおいしい時だけ吸えばいいじゃないか、と自分に言い聞かせるんですが、絶対にそのとおりにはならない。やっぱりオッパイをしゃぶっていたいという気持ちと、似ているところがあると思いますね。
少なくとも僕がたばこをくわえているのは、口が寂しいからなんです。じつは僕は四〇歳の時にドクターストップがかかって一端たばこをやめました。それが五〇歳の誕生日の時、アニバーサリーだから自分へ何かプレゼントしたいと思って考えて、喫煙習慣を自分にプレゼントした。だから一〇年間禁煙してたんですけど、この仕方なくたばこをやめていた間、代わりに鉛筆を何百本と噛んでたんですね。鉛筆をくわえて仕事をしているんですけれども、最後はイライラしてきて、グッグッと噛んでしまうんですけど。
山下 小学校でそういう子がいたな。
鷲田 そうです。結局は子供がモノをくわえるのと同じことですよ。そのことはたばこをやめた時に初めてわかった。この感触がたばこのものすごく重要な部分で、さっきの煙と同じくらい重要な部分を占めているなって。
そしてもう一つ、緊張を解くっていうことでいえば、えてして「嗜好品」というのはもともとそういう要素を持っていますね。お酒なんかは、たばこよりよほど顕著でしょう。
山下 私たちは、毎日なんらかの緊張を強いられる社会で暮らしている。そうである以上「たばこは健康に害を与えるから悪だ」というような簡単な言い方で「嗜好品」への思いを括りきれませんよね。いろんな要素を含めてたばこや「嗜好品」について考える必要がある。そうでないと、ものすごくつまらない「健康物語」の方向に、趣味や遊びの世界が追いやられちゃいますね。
鷲田 感覚論自体がそういう面を持っていますね。視覚は目の構造を探ればわかるとか、味覚は舌の味蕾を調べればわかるとか、耳は鼓膜を調べればわかるとか。でも「感覚論」を語る時、そういう考え方はとても貧しい。鼓膜をみてモーツァルトとシューベルトのちがいは、わからないんですからね。
ところで、山下さんがお書きになった『五感喪失』(文藝春秋、一九九九年)の中に、オーダーメイドシャツをつくる職人さんの話が出てきますね。あれはとても面白かった。お客さんの身体を手で触り、その感触を頼りに型紙を起こしていくという。長さを測るとか、形を見るというのは、その職人さんにとっては決して視覚の問題ではないんですね。
山下 そうなんです。その職人さんは、自分の感覚を全部つなぎ合わせながら、感覚的な経験の総和としてシャツをつくっている。ただこういった「感覚をつなぎ合わせる」ということは、じつは私たちも普段からやっていることなんですね。もちろん、職人さんほど厳密ではないとしても。
また、この「感覚をつなぎ合わせる」ということと、「解く」ということとは、私が「五感」をテーマにすることになったきっかけとも深く関係しているんです。私は以前『ショーン 横たわるエイズ・アクティビスト』(小学館、一九九五年)という本をまとめたのですが、ショーンさんという男性は、もう自分には余命がさほどないとわかっているエイズ患者でした。そんな彼に、自分が死に至るまでの変化を記録して欲しいと言われて、私は、いわば共同作業のような形で一冊の本をまとめました。
彼は、まるで、生きている「今」をすべて、自分の感覚を総動員して実感したいと思っているかのように、瞬間瞬間に、自分が見ているもの、聞いているものについてとてもよくしゃべったんです。それは、私がまったく意識化していない次元のことばかりで、「あそこの葉っぱの形が面白い」と言ったり、ものすごくうるさい喫茶店のモーニングサービスの時間に、「耳を澄ませてごらん、あそこのゆで卵のカサカサした音が面白いよ」とか、「あそこのスポーツ新聞が擦れた音が」とか、そういうことを言うんです。私はそれまで、何か目的へ到達するにはこうあらねばならないとか、ある地点へ向かって直線的に進む、そういう発想でしか物事を考えていなかったんですが、一方彼は、目的とは関係ないところで、いろんなはみ出し方をして、とてもさまざまなことを感じ取っていた。その姿を見た時に、私も彼のように生きられたらもう少し、ある意味で「緩む」のではないか、現在を全身で感じとることで楽しくなるんじゃないか、という感じがしました。もしかしたら、生きるということはそういう姿かもしれないなって思ったんです。この経験を通して私もずいぶん変わっていきました。「降りる」というか、「はみ出る」というか、「立ち上がる」だけではなく、ゆったりと「横たわる」――本のサブタイトルにもあえて「横たわる」という言葉を使ったのですけれど――そういう生き方の豊かさに、私は少しずつ気づいていったんですね。結果的に、この時の経験が、五感に関心を持つきっかけになったんです。
鷲田 普通、緊張を解くというと「ダランとする」と考えるじゃないですか。ですが逆です。ショーンさんの場合は、緩めること、解くことで敏感になっているんですね。感度が繊細になっている。
じゃあなぜ解くと敏感になるか。ちょっと言葉は難しいけど、識閾という言葉があるじゃないですか。要するにボーダーラインみたいな。人間というのは、とくに意識して何かを聞こうとか見ようとか思わなくても、目を開けていればいろんなものが入ってくるし、からだ中の皮膚で絶えず何かを感じている。だからいつも開けっ放しになっているわけですよね。ですがそうすると情報が多すぎて、いろんな情報に振り回される。だから僕らは「何かを感じている」と意識するところと、聞こえているけれども聞いたとは思わない、つまり意識しないでパスさせるところを使い分けているんです。僕らはあらゆる情報をそのまま受け取っているんじゃなしに、加工して遠近をつくり直すんです。
山下 自分に必要なものだけ入れて、あとはフィルターをかけてしまう。
鷲田 「スクリーニング」というんですが、通常、僕らは仕事をしている時とか、人の話を聞いている時とか、本に集中している時とか、何かに集中している時というのは、「点になる」というか、ものすごく狭くなっているんですよ。全部パスしている。催眠術の人の手はこれと同じ。「ハイこれに注意して」と言って、意識を集中させる。そうするとパスさせるものだらけになるんですね。でも本当は、識閾の下で催眠術師の声に深く影響されてしまうんです。気づいていない分無防備になって、知らないあいだに眠たくなっている。だからものに夢中になるとか、熱中するというのは、じつは催眠状態に入ることだと思う。
それでは「解く」というのはどういうことかというと、「点」をもう少し拡げて「面」にして、いろんなものに触れていることを感知する識閾を下げるんですね。ですからたとえば深夜に仕事をしている時、たばこを一服するでしょう。そうすると、あっコオロギが鳴いてる、ああもうコオロギが鳴く季節だったんだなんて気がつくんです。あるいはゴソッてネズミの音か何かわからない物音が突然聞こえるようになる。だからたばこは、識閾を下げることで感度を良くする効果を持っているのだと思います。 |
 |
|
山下 ところで、「シネステジー」という経験についてなんですが、たまたま昨日、国立能楽堂で能を観まして、『源氏供養』という能だったんです。演舞が終わった後、シテ方の装束について解説があったんですね。その時に、紫をぼかした色のことを表現するのに「におい」という言葉を使うと聞きました。これはやはり視覚だけではなくて触覚的なことや空間的な経験などが一緒になって出てくる言葉なのかな、と思ったんですけど、こうした表現はメルロ=ポンティが言っているシネステジーとはどう重なるのでしょう?
鷲田 シネステジーというのはもともと心理学の言葉。「シン」というのはシンセサイザーとか、シンフォニーと同じで「一緒に」という意味です。ラテン語では「コン」に当たります。だからコンピュータとか、コンポジションとか、カンパニーも同じ。「コン」とか「シン」というのは、「まとめること」「一緒にすること」を言うんです。一方、「エステジー」というのは、エステティックスのエステです。これは「審美的」というよりも、もともとは「感覚」という意味で、アイシテーシスという言葉です。だからエステティクスというのは、本来「感覚論」ということなんです。「共に感じる」、あるいは「感知を一緒にする」という意味。それでシネステジーというのは、心理学では、面白い感覚間のコンタクト、あるいは相互干渉の面白い現象と説明されていて、たとえば代表的な例は、ある音を聞くと色を見た時の残像が変わるという、音の経験が色彩感覚に干渉してくるという現象なんですね。
だけどメルロ=ポンティは、じつはそんなことは特殊な現象ではなく、感覚の基本じゃないかと言ったわけ。たとえば僕らが枝から飛び立つ鳥を見る時は、枝から鳥が離れるのを視覚的に見ているだけではなく、枝のしなりを見たり、羽ばたきや木の葉の擦れる音などを耳で聞いてそれと認識している。あるいは雨が降っている時、それを知るのは目で雨粒を見るだけではなく、外を走るクルマのタイヤがたてる、あの、粘ついてネチャッとしている音を聞き、同時に感触も呼び覚ましていますよね。つまり僕らが物を見るというのは、単純に視覚的ではなく、いろんな感覚を全部合流させているんだという考え方をメルロ=ポンティはしたんですね。
だから感覚の問題を論じる時、見ることを視覚器官の構造に結び付けて考えるというのは、感覚をものすごく抽象したもの、痩せ細らせたものにしてしまうんです。結局、見るということを一つとっても、じつは触れることとか、あるいは運動性というか、しなりとか、弾性というようなものとか、そういうようなものを全部見ているんです。どうしてそんなことができるんだろう、感覚器官は別々なのにという、そのことを考えるためには、感覚というのを「運動」の中で考えなければいけないんです。
山下 静止した状態のものではないと。
鷲田 これまでの分析では、哲学でも心理学でもそうなんですが、感覚器官があって、そこに向こうから刺激がやってきて、どう刺激をしたらその情報がどういうふうに伝わっていって情報処理されて脳に伝わっていって……と、そういうふうに感覚器官と感覚神経の問題としてスタティックに考えられていた。したがってここでは、動いているのは情報の方なんですね。情報がどこを刺激して、あとはシステムでガチャガチャガチャッとなるような、そんなイメージで考えられてきました。しかし僕らが物を見るとか、知覚するとか、感覚するというのは、じつはすごい「運動」なんですよ。
たとえば、ここにノートがあるでしょう。でも、今僕が座っている場所からは何が書いてあるのか見えない。それを見ようとしたら、身を乗りだして覗くじゃないですか。もうこれは、目だけで見てない。運動によって見えていることが変わったわけです。またあるいは、テクスチャーをどう感じるか。じっとしては絶対感じられない。撫でるように、まず手を動かさないとダメ。しかもギュッと接触してもダメなんですよ。触るか触らないか、注意深くまさぐる、ころがす、重さを感じる。触れるというのは、物に接触するという出来事じゃないんです。そんなのはただの衝突。衝突したら、ぶつかってお互いを壊すだけで、物のテクスチャーって感じられない。ほとんど愛撫ですよ。だから手にはものすごい緊張が必要ですね。身体の運動が緊張していないと物は触れないんです。卵だってそうでしょう。生卵だってぎゅっと持ったら壊れるからそっと持つ。さらに、そこまで手に緊張を強いて大切に扱うためには、「知りたい」という関心も必要です。だから本当はものすごい身体の神経と筋肉を動員して探っているんです。「探る」ということに、からだ中のあらゆるものを動員する。不自然な触るか触らないかの状態を維持するためには、人間の運動性と関心を総動員しているんです。感覚というのは決して待つことや刺激されることではなくて、探りにいくことなんです。
山下 静的なものより、もっと動的なというか、変化の中で捉えない限り、リアルな感覚は捉えきれないですね。
私は最近、「感覚統合」という取り組みを取材しているんです。何かというと、近年、LD(学習障害)とかADHD(注意欠陥多動性障害)の子供が増えていると言われているんですが、要するに知能的な発達に遅れはないんだけど、身体が思うように動かない、あるいは言葉がうまく使えない子供たちに対して、感覚的な刺激を集中的に「入れてあげる」ことで症状を克服していこうという取り組みなんです。
この療育で重要なのが、視覚や聴覚というよりもっと以前の、重力のある世界の中で動き回る時に大切な触覚や平衡感覚、そしてさっき鷲田さんがおっしゃった、肩とか肘とか手首に力をしっかり入れて、自分で微妙にそれを調節するという、専門的に言えば「固有受容覚」を発達させる、ということなんです。具体的な方法としては、わざと姿勢が不安定になるような状況で子供をヒモにぶら下がらせたり、大きなネットみたいなものの中に子供を入れて思いっきり揺らしたり、回転させたり。日常とは別次元の感覚的な刺激を経験させていきます。また、自分の身体の輪郭線、ボディイメージを感じ取れていない子供も多いので、たとえばタワシなどで全身の皮膚の表面をこすりながら辿っていく方法などをとっています。意識的に接触することで、触覚の識別作用を目覚めさせるということがねらいなんです。
鷲田 それは知性の問題ではなく、床が傾いているのさえすら正確にはわからないとか、身体のいちばん根っ子のところがうまく働かなくなっているんですね。それにしても、こういった深刻な病状に限らず、最近はすごくささいことから、生理の根っ子にかかわることまで感覚が想像以上に危なくなっているみたいですね。細かいことで言えば、電車の中でリュックを背負っている人の多くは、ぶつかっていることに気がつかないようですね。ふてぶてしいヤツだなとか、お行儀が悪いなんて思ったりするんだけど、悪気じゃないんですね。感覚として、自分の身体と持っている荷物がどのくらいのスペースを占めているのかがわかっていないらしい。
山下 そうなんです。わかってないんですね。社会全体として、自分の身体についての感覚が鈍くなってきている傾向がある。、実際、感覚についてあまり自己認識しないままに成長している大人や青年もずいぶんいるのかもしれないですね。
鷲田 まあ、僕の言っているのはごくごく普通の人のことなんですが、自分の身体の感覚が、僕らがかつて想像していたものとちがってきているなという感じがするんです。僕は、やはり摂食障害がこんなに問題になっているのも同じことだと思う。お腹が減る、食べる、満腹感が来て、もうOKになるというのは、生理のいちばん基本じゃないですか。ですが、そういった「生理」がじつは文化のあり方で簡単に壊れてしまうことが、この二〇年位の間にわかってきた。だから人間には「生理」というのがガチッとあって、その上に文化のいろんなスタイルがあるというのではなく、生理さえ文化の中にあって、少しタガが壊れるともう簡単に壊れるんだと。
おっしゃっていたように、揺れた時に体勢を立て直せないとか、床が歪んでいる時にそれが歪んでいるのか真っ直ぐなのかわからないとかいうのは、やはり人間の知覚のものすごい根っ子のところにかかわることだと思います。というのは、哲学でもいまだにうまく説明できないことの一つに、どうして地球は動かないのか、地面は動かないのかという問題がある。これは考えると意外と難しいんですよ。ただ、さっき触るという例で言ったけれども、やはり立つとか座るとかいういちばん基本的なことを含めて、知覚とか感覚というのは僕らの運動性ということとものすごく深く結び付いているということを突き詰めて、運動という視点から考えていくことが、問題を解決する鍵になるんじゃないかな。単なる感覚情報の接触というレベルで考えていたら絶対にこのことは説明つかないんですよね。
山下 先ほどの子供たちの感覚統合の話なんですが、そういう訓練によって、身体の感覚の芯みたいなものがしっかり保持できるようになってくると、文法がうまくつながらなかった子供が、ちゃんとしゃべれるようになったりするんです。まさに「感覚統合」なんです。私自身、そういう子供たちを何人も見ています。平衡感覚とか、触覚といった感覚を統合できていないと、言葉を操ることも難しい。やはりその土台がしっかりできないために、うまくいかないんですね。
鷲田 たぶん語るということと触覚、あるいは立つとか姿勢を保つということが連続しているのは、語るというのは頭で思ったことを言葉に直して発声することじゃないからだと思いますね。語るというのは、僕らが字を読む、本を読むとか、あるいはアナウンスするように喋るというのは、これはある文明の中で培われた言葉の使われ方なんですね。言葉というのは、話し掛ける、呼ぶ、歌うという、人や世界へ向けてのある種の働き掛け、運動なんです。かかわっていこう、届こう、触れようという、そういう言葉のいちばん根っ子にある組織力みたいなものが含まれているということと、身を保つということだとか、物を触りにいく、触れにいくという、すごい緊張感のある全身の使い方ですよね。
そういうような、さっきは運動のことを言いましたけれども、要するに人や物に働き掛けるという人間の運動性というものの大きな機能不全が起こっているんじゃないでしょうか。だから身体を立て直したら今度は言葉がスラスラと話せるようになったというのは、まさにそういう働き掛けとしての「話す」、「語る」ということであって、つまりその根っ子が回復された証なんじゃないでしょうかね。そう考えないと、どうして語ることと触れることがそんなふうに連携しているかなんて見えませんよね。 |
 |
|
山下 話が少したばこから脱線してしまったんですけど、先ほど、たばこの口唇体験というか、原初的な唇の体験について言われていました。これはたとえば、フロイトがよく出す例でいうと、自分の身体を他者というか他のモノとして見ていく、そういうどちらともつかない感覚というのも、シネステジーと関連しているものなんでしょうか?
鷲田 それはシネステジーの問題とはちょっとちがうと思うんですけど、フロイトの場合は、たとえばしゃぶるとか、食べるとかいうことに関連して言っているのは、人間にとっていちばん原始的な判断は、それが自分にとってプラスとマイナスどちらの意味を持っているかの判断、つまり口に入れていいものか、吐き出すべきものか、自己と他者というふうにもつながってくる感覚が、いちばん原始的だと言っているんですね。ですが嗜好品というのは、そういう原始的な、退行したレベルの判断じゃないんですよ。つまり退行したレベルだったらおいしいかおいしくないかというだけですから。
山下 必要か必要じゃないかについてはどうでしょう?
鷲田 それはちょっと大人の判断。おいしいものはむさぼり食う。でもイヤなものだったら頑として拒否するという感じです。
ところが嗜好品は味覚にもかかわるけれども、じつは生き物としての味覚のいちばん原初的なものからレベルを一つ上げたところにある。たばこって苦いでしょう。お酒も苦いでしょう。コーヒーも苦いです。それから納豆は臭いですよね。だから本来は人間が拒否しなければならないところに、じつはものすごい快楽を見いだすということなんですよね。これはほかの生き物にはない、やはり文化の基本的な現象だと思います。たとえば日本の言葉には、「渋味」「苦味」というのがあるじゃないですか。九鬼周造の『いきの構造』じゃないですが、あれは粋だなと言う時には、決して甘味だけじゃない。苦いけれども、それがめちゃめちゃ良いという、渋味、苦味というもののテイストの高さを、僕らは知るようになったと思うんですよね。
山下 たとえば食べることで、味覚五味といいますが、いわゆる「辛い」というのは痛覚なんですよね。そうすると、ここ一〇年くらい辛いものがブームだというのは、単に味の辛さよりも痛覚を楽しむということで、感覚としては非常に原始的な、退行したレベルを楽しんでいるということになる。
またそういう意味では感覚が変わってきていて、それは「正常」として語られてきたものの「クライシス」なのかもしれないし、あるいはもう一つの文明にむかっての、ある種のクリティカルな、ラディカルな行為になっているといえるのかもしれない……。ちょっとわかりにくいところですね。
鷲田 難しい、それは。ただ、こういう時代だからこそ、たばこの吸い方が単なる習慣というか、原始的な感覚でだけ味わうものになっていたり、味も平板化してしまったりしているのかもしれません。ですからたばこももう一度、アロマティックな、渋味、苦味のすごいゴージャスな感覚として楽しめるような文化に戻ればいいですよね。
その時の理想としては、人間って口移しというのがやっぱり興奮の極みみたいなところがあって、口移しでものをもらう、それはキスもそうだし、それから親というのは口でほぐしてあげて子供に食べさせたりしますが、あれは大人になってからイヤだと思うけれども、本当はやはり至福のものだと思うんです。ほかの生き物だってみんなそうじゃないですか。親が食べて、戻して、食べさせてあげる。そういう、食べ物を共にするということに、ものすごく深い人間の交流、あるいはそれに伴う信頼というものがあるんじゃないかな。こういったことが僕の、一種のフェリシティ、至福のイメージの中にあるんです。
それをすごく通俗的にしたのが鍋を一緒に食べるとかですが、たばこもお酒もみんな昔は回し飲みだったんですよ。農家でお酒を飲む時なんかは必ずね。自分一人でおちょこを持って手酌で飲むなんてことは絶対しなかった。少し飲んで回していく。それがお祭りの時の酒の飲み方で、たばこだって、まあドラッグというかマリファナなんてみんなで回すじゃないですか。あれを普通のたばこでやれるくらいにたばこの味がゴージャスになり、僕らも、識閾を落としてそれを享受できるようになった時に、本当の意味でたばこの文化というのが、文化としてのたばこが、もう一度復活する。習慣としてのたばこじゃなくてね。そういうたばこの吸い方にしたいですね。
山下 フィジーなんかでは、たばこじゃないですけど、「カバ」っていう樹木の根っ子を砕いた液体を回し飲みして、それで初めて村に入る、仲間になるという風習がいまだにありますね。
鷲田 それと、たばこの魅力の一つには温度も関係あると思うんです。温かいとかね。だから子供にとって味覚でいちばんなのは、味ってまだわからないから、口の中に生温かい母親の母乳が入ってくるということがあると思うんですよ。だからそれとちょっとでも温度がちがうと、ギュッと口を閉じてしまったり、嫌がったりする。さらに、ちょっと気が散っていつもとちがったりすると、自分の方に全部向いていないということがわかっちゃったりするんですよね。たった一度のちがいで拒否したりするでしょう。
だから今日はたばこと感覚の話なんだけども、最後は人とのかかわりということになって、シネステジーというのは感覚間のかかわりだけではなく、人と人との間の感覚の交流、あるいは共有ということがじつはすごい意味を持って、たばことか酒なんかは典型的に、嗜好品ほどみんなで回し飲みするというか、そういうことが大事なんでしょうね。本来お酒やたばこというのは大事な、人と人のつながりのしるしみたいなもので、そのちょっと危ない、危険だけれども深い快感をもたらすものをみんなで回して共有するというところに文化としての一つのあり方があったんだろうと。それは単に味の問題だけじゃないんですよね。
山下 総合的な感覚の経験を共有するということですね。でも今は独りだけで、ある文脈からも断たれたところで吸っています。
鷲田 とくにホタル族なんてその象徴ですよね。孤独な、孤立した喫煙。
山下 ただ、たとえば視覚では目を開けていればいつも何かしら見ていて、聴覚にしてもいつも何かしら聞こえているわけですが、そういうふうに考えてみると感覚器官というのは常に何か感覚し続けているわけですよね。その意味では口の感覚も同じで、いつも何か口の中に入れてダラダラしている習慣というのも、感覚の一つの性質じゃないかと思うんですが、どうでしょう?
鷲田 これに関しては、もういろんなところに書き散らかしてきたから言うのも恥ずかしいんだけど、ものすごい素敵な考え方があるんですよ。これはミシェル・セールが『五感』という本で書いているんだけど、人の魂はどこにあるか。多くの説では、心臓や脳、目にあるなどと言われるんですけど、彼は「皮膚の合わさる場所にある」と言っているんです。皮膚が自分自身に触れるところ。だから悔しくて唇を噛みしめる時には、僕の魂は唇にある。ダメだと思って目を閉じたら魂はまぶたに移動して、チクショーと思って拳を握ると手のひらに移動するというふうに。魂や心というのは、絶えず身体をいろいろ移動し、あるいは同時発生して、皮膚と皮膚が合わさるところにある。そして、その軌跡を描いたのが入れ墨なんです。「何々命」とか、天女を入れるような入れ墨じゃないですよ。プリミティブな幾何学模様の入れ墨があるでしょう。あれはその魂の軌跡なんだと、魂の地図を描いているんだという説があるんです。
山下 非常に素晴らしい。リアリティがありますよね。それは自分のことだけじゃなくて、他者との関係を考えた時にもリアルです。人の皮膚と自分の皮膚が触れ合ったところに、魂があるということですよね。「触る」ということは同時に「触られる」ことで、どっちかだけということはない。それがまた触覚の面白さなんですね。
鷲田 さっき言ったみたいに、単に密着したって触ったことにならない。そっと撫でたり、押したり引いたり。微妙な隔たりの中で相手に強い関心をもって触れるというですね。魂が脳にあるとか、心臓にあるとか、科学的にはいろいろ言ってるかもしれないけど、そんなところで怒っているはずはない。チキショーといって握った手のひらや噛んだ唇に、自分の魂が同時にジンジンしていると考えると、なんだかとても説得力があります。一方、ダランとしている時には魂がどこかに行っているんです。接触面がないからどこかに散らばっているんですよ。すごくいいじゃないですか。この説、僕はいちばん気に入っているんです。
山下 たばこもそういうものの一種と考えると……。
鷲田 まさに唇の合わさる感じ自体を楽しんでいるというか、人間の口というのは、さっき言ったように物を知覚するいちばんの出発点でもあるし、食べること、吸うこと、歌うこと、話すこと、全部人間の大事なものがここに集中していますから、そこで接触、つまり魂の感覚、コロコロと転がしながらくわえたばこで感じるというのは、やはり至福の時ですね。
山下 すごい豊かな場所を使う葉っぱの文化なんですね。
鷲田 そうです。いちばん豊かな場所を使うんですから、単なる習慣などではなくて、もっと「文化」として楽しめるようになるといいですね。
|