人間は生き物であり、自然の中にある…科学者と共につくる生命論的世界観

中村桂子

なかむら・けいこ
1936年東京都生まれ。東京大学大学院生物化学修了。三菱化成生命科学研究所人間・自然研究部長、早稲田大学人間科学部教授、大阪大学連携大学院教授などを歴任。1993年、自ら提唱する「生命誌」の理念を実現する「JT生命誌研究館」を設立、副館長に就任。2003年より館長。著書に、『生き物が見る私たち』(和田誠と共著)青土社、2014、『ゲノムに書いてないこと』、青土社、2014、『生命誌とはなにか』講談社、2014、『科学者が人間であること』岩波新書、2013、『生命科学から生命誌へ』小学館、1991、他多数。また館の季刊誌「生命誌」をまとめた生命誌年刊号を毎年編集・刊行する。
生きているということは、矛盾が生み出すダイナミズムなんじゃないか。そういうことを面白がれたり、
「それ、すごいね」と目を見張れないと、私にとっては、人間が生きものであるという感じがしてこないんです。
でも今は、0か1か、バツかマルか、という具合にできるだけ割り切ろう、明快に答えを出そうとしています。
これはまったく生きものには合わないことだと思います。
人間が自分も生きものとして生きつつ、生きものについて考えるということは、
その生きものがもっている状況をできる限りたくさん学ぶということであり、
そうであるからこそ私たちの生き方も面白くなってくる、そんなふうに考えています。

人間の自由、あるいは思考のための退屈のススメ

國分功一郎

こくぶん・こういちろう
1974年千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。パリ第10大学、パリ社会科学高等研究院DEA取得。博士(学術、東京大学)。現在、高崎経済大学経済学部准教授。専攻は哲学。著書に、『ドゥルーズの哲学原理』岩波現代全書、2013、『暇と退屈の倫理学』朝日出版社、2011、『スピノザの方法』みすず書房、2011、訳書に『カントの批判哲学』ジル・ドゥルーズ著、ちくま学芸文庫、2008、『マルクスと息子たち』ジャック・デリダ著、岩波書店、2004、他がある。
浪費はどこかで限界に達し、ストップする。それが満足するということであり、
この満足を享受することこそが、豊かで贅沢な暮らしだと書いたわけです。
浪費は各人に満足と豊かさをもたらす。しかもそれは消費とは決定的に異なり、ある地点でストップする。
だとすれば、これこそが社会を変えていく原動力になるのではないか。
ここに言う浪費とか満足とか豊かさを「楽しみ」と言い換えても良いと思います。
楽しむことによってこそ、社会が変わっていく。現在の消費社会は人々から楽しみを奪っている。
こうやって、道徳的批判とは全く異なるビジョンをつくっていけないかと思ったんです。

「人間的」のなかには、「非人間的」が内蔵されている

鷲田清一

わしだ・きよかず
1949年京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。大阪大学教授、大阪大学総長などを歴任。現在、大谷大学教授、せんだいメディアテーク館長。哲学・倫理学を専攻。著書に、『「自由」のすきま』角川学芸出版、2014、『〈ひと〉の現象学』筑摩書房、2013、『パラレルな知性』、晶文社、2013、他多数。
ホモ・サピエンス(homo sapiens)の訳語は、「知恵ある人」ですが、
sapioの語源であるsapereには、「味わう」という意味もある。
だから、直訳すれば、ホモ・サピエンスは「味わう人」ということにもなるわけです。
「味わう」というのは吟味するという意味でもあり、あたかも口のなかで噛みしめながら、
じっくりとその味を楽しむ。
そうやって味わうこと、そういう知のあり方がヒューマニズムであり、
その過程で築きあげられていくものそれ自体もまたヒューマニズムだと思うんです。

3・11以後の「人間」

また裂き状態のなかで

 古代ギリシアの時代から、「人間とは何か」という問いは、哲学における中心的問題でした。その場合人間は、生物学上のヒトという意味と、神および動物もしくは機械と対立する概念としての人間の、二つの意味をもっていました。もとより、哲学が問題にしたのは、哺乳類の霊長目ヒト科に属する生物としてのそれではなく、規範的かつ価値的な意味を含む後者の方であることは言うまでもありません。その概念枠のなかで、多くの哲学者はこの問いと向き合ってきたわけですが、なかでも最もよく知られているのは、ソクラテスの「人間」です。ソクラテスは、いわゆる「汝自身を知れ」というデルポイの神託に促されて、「人間とは常に彼自身を探求する者」と定義しました。ソクラテスは、自らが自らを問うという方法で人間とは何かという問いに答えようとしたのです。
 ソクラテスの人間が内観的、自己省察的であるとすれば、それとは対照的に政治的、社会的文脈から、つまり、外部から人間を規定したのがプラトンであり、さらにアリストテレスは、その方向を推し進め、人間はいわば社会的動物(animal social)であるとしました。
 他方、キリスト教に目を転ずれば、人間は神によって神に似せてつくられたクリーチャーであるとされ、神の恩寵にあずかるべき存在だと定義されました。いずれにしても、ヨーロッパ社会では、神はもとより、動物でも単なるモノでもない存在として人間は位置付けられていたと言うことができるでしょう。
 そうした人間観を一変したのがルネサンスでした。一四世紀に開花したルネサンスは、ギリシア・ローマの古典の復興を唱え、人間の解放と再生を謳う「人間主義」を打ち出しました。ルネサンスは、一方で、神秘思想、アニミズム、生気論といった目的論をも醸成していきました。目的論とは、自然は自らのうちに目的を有していて、その目的の実現のために存在するという考え方で、アリストテレスの自然観を引き継ぎ発展させた考えでもありました。要するに、ルネサンスは、自然界の現象を霊魂などの内的目的の実現と見たわけで、当然人間においても同様に、内的目的が重要視されたのです。すなわち、ルネサンスにおける解放と再生とは人間の内部に存する内的目的の実現およびその発露であり、その意味でルネサンスとは、世界の中心に人間を置く、有機体的、目的論的自然観の確立でもありました。
 こうした目的論的世界観を排して、世界を物理的メカニズムに還元したのが近代でした。デカルト(1596-1650)を嚆矢とする機械論的世界観の登場は、人間をも機械とみなし、人間は世界を動かす物理的なシステムの一構成要素へと位置付け直されたのです。外的な力から解放され、内的な(自らの)力で作動する目的論的人間は、機械論的世界観によって一変します。その代表的思想家であり医師であるラ・メトリ(1709-1751)は主著『人間機械論』で、人間を宇宙と同様に精巧な自動機械とみなし、人間の内部にあるとされた霊的なあるいは生気論的な活動因子を完全に払拭してしまった。比喩的に言えば、歯車(機械の部品)と最も遠くにあると思われていた人間が、歯車そのものになってしまったのです。
 大急ぎで哲学における人間観の変遷を見ました。ここでわかることは、歯車でないもの、言い換えれば、その内部に目的意志をもち活動する存在として登場した人間は、その後、いくつかの寄り道を経て、近代になってからは、自然界の有機的連関に基づく一要素、すなわち歯車とみなされる存在に変わったということです。ただし、注意しなければならないのは、ではギリシア以来の目的論的、生気論的人間が世界から完全に消滅したかといえばそうではない。「魂的」といってもいいような人間観――私たちの人間観の基底部には、そうした歯車ではない方の人間がいまだに生き続けているのです。あえて言えば、機械的なものと魂的なものが組んず解れつしながら、人間という概念を形付けていると言ってもいいでしょう。
 歯車であり、かつ歯車でないもの。近代以降、現代に至るまで、人間は、この相容れない両輪(歯車/歯車でないもの)の、いわば「また裂き状態」に置かれ続けているというわけです。
 このまた裂き状態のなかで、私たちに対し「新たな人間」という概念を模索する必要性を問うたのが、二○一一年三月一一日に発生した東日本大震災でした。地震・津波・原発事故は、私たちにあらためて「人間とは何か」という問いを突きつけてきたのです。
 「人間とは何か」という問い。それはこのまた裂き状態のなかで、人間と人間のつながりとは何か、人間と自然のつながりとは何か、あるいは、人間と科学のつながりとは何かという問い掛けでもあります。
 3・11から三年、未だ被災地の復興は道半ばですが、すでにあの時の記憶は薄れつつあります。それとともに、3・11が投げかけた「新たな人間」という問い掛けも風化し始めているのではないでしょうか。だからこそ、もう一度、3・11が突きつけた問題、すなわち「人間」そのものについて、さらには「また裂き状態」からの脱却を模索しなければならないのです。
 弊誌は今号で一○○号を迎えます。この記念すべき号を人間再考の第一歩とします。

物活論の射程

 人間再考にあたって、まず私たちはJT生命誌研究館館長・中村桂子氏を訪ねました。中村氏は、科学技術が自然と向き合っていない。東日本大震災で明らかになったのは、この事実であり、現代の科学文明が抱える問題は、ことごとくこの事実に集約できるだろうと問題提起をされておられます。私たちは、この問題提起を踏まえたうえで、3・11後の人間観を、主に科学技術との関連から考えてみようと思います。
 科学が誕生し、そこから発展した科学技術によって進歩を続けてきた「近代」。一六、一七世紀の科学革命を経て、自然を一種の「機械」とみなす機械論的世界観が近代を形付けてきました。機械論の特徴を挙げるとすれば、一切を数値化するところにあります。ガリレイは、世界を機械として見るとは、「数でみること」、「量で見ること」だと言いました。そして、徹底した数値化は、自然を操作可能な対象へと変えてしまったというのです。ガリレイの考えを受け継いだ近代の科学者たちは、いつか科学が世界を語り切れると考え、現代においてもその考えは変わりません。未だ数値化できていないものを数値化することが「進歩」と信じて疑わないのが科学者たちなのです。
 中村氏は、この数値化という作業をする前に、科学者はまず自然を「死物化」するといい、そこに大きな問題が潜んでいると指摘します。中村氏は著書『科学者が人間であること』(岩波新書)で、哲学者大森荘蔵氏の「死物化」という言葉を引き次のように言います。
 「客観的事実にはただ幾何学的・運動学的性質のみがあり、色・匂い・音・手触りといった感覚的性質は人間の主観的印象に属する」(1)からまず排除しようというのが死物化であり、現代の科学は、この死物化という作業を経て、数値化と結びつけることで世界を細分化していったというのです。言うまでもなく、近代の機械論的世界観がまずいというのでなくて――つまり、数値化そのものがいけないというのではなく――、この死物化という作業を経ることで、自然そのものとの一体感を失ってしまうことに問題があるというのです。死物化を突き詰めることは、世界はすべて数値に置き換えられるという幻想を生む。そのことが、自然から「生きている」という一番重要な要素を奪ってしまうというわけです。
 自然そのものとの一体感について、やはり大森荘蔵氏から「略画的」世界と「密画的」世界という言葉を引きながら、次のように説明します。「自分の眼でものを見、耳で聞き、手で触れ、舌で味わうという形で外界と接している時に私たちが描く世界像を、大森は〈略画的〉と呼びます。それに対して、可能な限り最小の単位まで還元し、分析的ものを見ていく見方を〈密画的〉と呼び」(1)、近代科学がそれを可能にしたというのです。
 密画化の何が問題なのでしょうか。中村氏によれば、密画化とはすべてのものを死物化し、さらには密画化のみが進んだ正しい見方とされ、略画的、すなわち、日常的な見方を否定するところが問題だというのです。そこで大森氏は、卓抜したアイデアである「重ね描き」を提案します。中村氏は、「DNAやタンパク質のはたらきを調べるという生命科学の方法で見ているチョウは、花の蜜を求めて飛んでいる可愛いチョウと同じものであるというあたりまえのことを認め」(1)たうえで、両方の描写を共に大事にするということが「重ね描き」だというのです。チョウをつかまえて、脚や胴体、触覚をばらばらにし、その中から取り出した物質を調べていると、つい「活きた自然」のことを忘れがちです。しかし、大森氏によれば、日常生活の風景と、科学者が原子・分子などで描く世界は同じ。密画的世界は、略画的世界と重ね合わせることで、生き生きとした自然につながっていく。中村氏は、そうした「重ね描き」の有効性を、科学者自らが科学者自らの言葉で伝えていくべきではないかと提言します。
 人間が生きものであり、自然のなかにあると考える立ち位置を決めて、そこに足場を置いたうえで、科学がつくってきた世界観を問い直すこと。すなわち、「人間は生きものであり、自然の中にいる」というところから出発し、その発想に基づいた世界をつくっていくこと。それは、日常と思想をもつ科学者によってこそ進められることを示し、その具体的な方法は「重ね描き」に求められると中村氏は主張します。そこでまず、中村桂子氏に、機械論的世界観から生命論的世界観への転換についてお話しいただきます。それはまた、死んだ自然を今一度活性化させる大森氏の「物活論」の再生を予告するものになるでしょう。

人間復興のための自然哲学

 高崎経済大学経済学部准教授で哲学者の國分功一郎氏は、著書『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)で、「退屈と気晴らしが入り交じった生、退屈さもそれなりにあるが、楽しさもそれなりにある生、それが人間らしい生」だと述べています。そして、楽しむことは思考することにつながると断言します。楽しむことも思考することも、どちらも受け取ることにおいて同じであり、人は楽しみを知っている時、思考に対して開かれているというのです。
 しかし、世界にはそうした人間らしい生を生きることを許されていない人たちもいます。戦争、飢餓、貧困、そして災害……。私たちの生きる世界は、人間らしい生を許さない出来事に満ち溢れているという。奇しくも、東日本大震災の発生は、そうした人間らしい生を生きることが困難であることを、われわれに気づかせる契機となりました。震災は、被災者から日常の生活を奪い去り、彼らを生活の再建に追いたて、退屈させることを許さないからです。であれば、彼らが人間らしく生きるためにはどうすればいいのか。果たして、彼らは楽しみに気づき、楽しみを知ることができるのでしょうか、それこそ私たちにとって喫緊の課題ではないかと國分氏は問い掛けます。
 退屈とどう向き合っていくかという問いは、あくまでも自分にかかわる問いであると断ったうえで、退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他者にかかわる事柄を思考することができるようになるはずだと付け加えます。そうであれば、3・11以降、私たちが求めている「人と人とのつながり」を、どのように解釈すればいいのでしょうか。それは〈暇と退屈の倫理学〉のなかで挙げられた、「どうすれば、皆が暇になれるのか、皆に暇を許す社会が訪れるか」という課題と関連してくると思われます。
 ところで、國分氏は、一七世紀の思想家スピノザの研究者でもありますが、スピノザの思想と最近関心をもって研究されているイオニア自然哲学との共通性を指摘しています。スピノザの有名な概念「神即自然」は、イオニア的な発想ではないかと國分氏は述懐します。
 「スピノザは〈可能性〉を認め」ません。「神すなわち自然のなかには必然性という法則性が働いていて、そこには外部はない、つまりそれを逃れることはできない。だから、その必然性のなかでどうやって生きていくかを考えていかなければならない」(2)。
 近代的な「自由」の概念は、「free from~」という意味での自由で、必然性を免れるという意味での自由です。しかし、スピノザの言う「自由」は必然性と対立しないという。スピノザにとって自由と対立するのは「強制」であり、普段、人間は周囲からさまざまなことを強制されて生きている。したがって、自らの精神、身体を貫いている法則を活かしきれないのです。
 「もしも自分を貫いている法則すなわち必然性を発見し、これにしたがって生きていくことができるようになれば、人間は自由になれる。自分の本性の必然性に沿って生きていくことができる。これがスピノザの用語で言えばコナトゥスにしたがって生きること」(2)なのです。
 そのことを踏まえて、『エチカ』を読み直してみると、スピノザの自然観そのものが人間の生き方の基礎として提示されていることがわかってくると國分氏は言います。自然を一つの必然性として捉える。そのうえで、精神・身体を貫いている必然性の法則を発見し、それにしたがって生きること。それこそがスピノザの考える自由だという。そして、その思想の源流には、イオニア的もの、すなわちギリシア以前の自然哲学があるのではないかと國分氏は考えています。
 現代社会は、人が純粋に「楽しむ」ことを奪われた社会だと見たうえで、その楽しみの追求が、スピノザ哲学を経由して、イオニア自然哲学と結びつくと國分氏は言う。自然哲学とはいわゆる自然を考える哲学でもあり、本性を考える哲学でもあり、「自然(フュシス)」とは何かを考える哲学でもある。であれば、楽しむことを思考することが、新たな自然の発見にもつながるかもしれない。國分氏に、暇、退屈、そして自由を手掛かりに、自然哲学の再構築による人間復興の道を探っていただきます。

今、「人間的」であるとは……

 ヒューマニズム、あるいは人間主義。それは、「人間」というものに、他の何とも替えることのできない固有の「尊厳」を見出す思想です。ひとがどのような境遇にあろうとも、すなわち、どのような階層に属し、どのような国籍、性別をもち、どのような年齢にあろうとも、それら一切とかかわりなく「人間」としてその存在が尊重されねばならないとするのがヒューマニズムの思想です。「人権」という観念もここに由来します。しかし、この「人間的」(human)という審級は、どこにその根拠をもつのでしょうか。
 大谷大学教授でせんだいメディアテーク館長・鷲田清一氏はヒューマニズムに拘泥しながらこんな問いを発します。「節約は美徳だが吝嗇までいくと悪徳になる。アルコールは嗜みとしては健全だが、依存症になれば病気と診断される。精力がないのは異常だが、ありすぎるのは普通ではない。愛されたいけれど、愛されすぎると怖い…」。(3)私たちの習性は、「自然な自然」と「不自然な自然」とがあって、その習性が「適切に機能する」限りは自然で、そうでない場合は不自然だとみなされる。ここでいう習性を「人間的」習性と言い直すならば、それは、「自然な自然」か「不自然な自然」か、というよりも、その両方ではないのか。「人間的」という意味には、その内奥に「非人間的」なものが内蔵されていると鷲田氏は言う。
 また、非人間的になることで、かろうじて人間的であり続けているという面もあります。だとすれば、むしろ、人間に固有なことは、「人間的」として確定できるものがないと言い切った方がいいのではないかと言う。なぜならば、最後の最後のところで「人間的」の名のもとに、逆に最も「非人間的」な行為に走ることもあり得るからです。「カントの『実践理性批判』を枕頭の書としていた人物がナチスの副総裁になりえたように。民主主義的な手続きが全体主義の猛威を生むことがあったように」。(3)
 「人間的」という言葉を置くことで、わたしたちは、何を伝えようとしてきたのでしょうか。そして、3・11以前と以後とで、「人間的」という概念に、意味の異同が生じていないでしょうか。「人間的」あるいはヒューマンという言葉を批判的に検討することで、3・11以後の新しい「人間」像に迫ります。それは、人間を最上位に置く「人権」概念の再検討へと向かうことになるでしょう。最後に鷲田清一氏に、「人間とは何か」という問いそのものの意味について、お話しいただきます。
 私たちはあらためて人間探求の第一歩をここからスタートします。「人間、もう一度見つけだす」ために――。

(佐藤真)

引用・参考文献
1 中村桂子『科学者が人間であること』(岩波新書、2013年)
2 國分功一郎、中沢新一『哲学の自然』(太田出版、2013年)
3 鷲田清一『〈ひと〉の現象学』(筑摩書房、2013年)

◎人間、自由、自然哲学

「自由」のすきま 鷲田清一 角川学芸出版 2014
哲学入門 戸田山和久 ちくま新書 2014
〈ひと〉の現象学 鷲田清一 筑摩書房 2013
哲学の先生と人生の話をしよう 國分功一郎 朝日新聞出版 2013
哲学の自然 中沢新一、國分功一郎 太田出版 2013
パラレルな知性 鷲田清一 晶文社 2013
哲学の起源 柄谷行人 岩波書店 2012
暇と退屈の倫理学 國分功一郎 朝日出版社 2011
ソクラテス以前哲学者断片集1~5、別冊 (ディールス、クランツ編) 内山勝利編 岩波書店 ~2009
エティカ スピノザ 工藤喜作、斎藤博訳 中公クラシック 2007
神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡 J・ジェインズ 柴田裕之訳 紀伊國屋書店 2005
パンセ I II パスカル 前田陽一、由木康訳 中公クラシック 2001
西洋古代・中世哲学史 K・リーゼンフーバー 平凡社 2000
哲学の原風景 古代ギリシアの知恵とことば 荻野弘之 日本放送出版協会 1999
物語ギリシャ哲学史 ソクラテス以前の哲学者たち L・デ・クレシェンツォ 谷口勇 而立書房 1988
古代哲学史 タレスからアウグスティヌスまで A・H・アームストロング 岡野昌雄訳 みすず書房 1997
ソクラテス以前の哲学者 廣川洋一 講談社学術文庫 1997
ヒューマニズムについて M・ハイデッガー 渡邊二郎訳 ちくま学芸文庫 1997
ソクラテス以前以後 F・M・コンフォード 山田道夫訳 岩波文庫 1995
ギリシア哲学者列伝 上中下 D・ラエルティオス 加来彰俊訳 岩波文庫 ~1994
ソクラテス以前の哲学 J・ブラン 鈴木幹也訳 文庫クセジュ(白水社) 1971
ギリシャ思想の起源 ヴェルナン 吉田敦彦訳 みすず書房 1970

◎3・11、科学技術、生命

生き物が見る私たち 中村桂子、和田誠 青土社 2014
ゲノムに書いてないこと 中村桂子 青土社 2014
科学者が人間であること 中村桂子 岩波新書 2013
科学の解釈学 野家啓一 講談社学術文庫 2013
科学技術をよく考える クリティカルシンキング練習帳 伊勢田哲治、戸田山和久他 名古屋大学出版会 2013
サイエンティフィック・リテラシー 科学技術リスクを考える 廣野喜幸 丸善出版 2013
科学を語るとはどういうことか 科学者、哲学者にモノ申す 須藤靖、伊勢田哲治 河出書房新社 2013
原発と活断層 「想定外」は許されない 鈴木康弘 岩波科学ライブラリー 2013
ポスト3・11の科学と政治 中村柾樹 ナカニシヤ出版 2013
科学者に委ねてはいけないこと 科学から「生」をとりもどす 尾内隆之、調麻佐志編 岩波書店 2013
構造災 科学技術社会に潜む危機 松本三和夫 岩波新書 2012
知の失敗と社会 科学技術はなぜ社会にとって問題か 松本三和夫 岩波書店 2012
大森荘蔵セレクション 飯田隆、丹治信治他編 平凡社ライブラリー 2011
科学は誰のものか 社会の側から問い直す 平川秀幸 NHK出版生活人新書 2010
科学技術コミュニケーション入門 科学・技術の現場と社会をつなぐ 梶雅範他編 培風館 2009
虚構の「近代」 科学人類学は警告する B・ラトゥール 川村久美子訳 新評論 2008
トランス・サイエンスの時代 科学技術と社会をつなぐ 小林傳司 NTT出版 2007

◎グローバリズム、難民、明かしえぬ共同体

難民・強制移動研究のフロンティア 重田桂他編 現代人文社 2014
難民問題のグローバル・ガバナンス 中山裕美 東信堂 2014
国境の境界を考える 日本人、日系人、在日外国人を隔てる法と社会の壁 丹野清人 吉田書店 2013
難民と市民の間で ハンナ・アーレント『人間の条件』を読み直す 小玉重夫 現代書館 2013
入門 人間の安全保障 恐怖と欠乏からの自由を求めて 長有紀枝 中公新書 2012
到来する共同体 G・アガンベン 上村忠男訳 月曜社 2012
難民研究ジャーナル 1~3 難民研究フォーラム編 現代人文社 2011~
領土・権威・諸権利 グローバリゼーション・スタディーズの現在 S・サッセン 伊藤茂訳 明石書店 2011
グローバリゼーションと人間の安全保障 A・セン、加藤幹雄他 日本経団連出版 2009
難民 思考のフロンティア 市野川容孝、小森陽一 岩波書店 2007
支援者のための難民保護講座 本間浩 岩波書店 2007
無為の共同体 哲学を問い直す分有の思想 J=L・ナンシー 西谷修、安原伸一朗訳 以文社 2001
グローバリゼーションと移民 豫谷登士翁 有信堂高文社 2001
人権の彼方に 政治哲学ノート G・アガンベン 高橋和巳訳 以文社 2000
明かしえぬ共同体 M・ブランショ 西谷修訳 ちくま学芸文庫 1997
難民とは何か 本間浩 岩波新書 1990