情動機能の生態学…アタッチメントと母子関係

遠藤利彦

えんどう・としひこ
1962年山形県生まれ。東京大学教育学部卒業後、同大学院教育学研究科修士課程修了。博士(心理学)。専門は発達心理学、感情心理学。九州大学大学院助教授、京都大学大学院准教授を経て、現在、東京大学大学院教授(教育学研究科教育心理学コース)。著書に『「情の理」論―情動の合理性をめぐる心理学的考究』東京大学出版会、2013、共著書に、『「甘え」とアタッチメント―理論と臨床』遠見書房、2012、『アタッチメントと臨床領域』ミネルヴァ書房、2007(編著)、『発達心理学の新しいかたち』誠信書房、2005(編著)、他がある。
アタッチメントは、いざとなったらいつでもそこに戻って来られて、
こころもからだも立て直してもらえるような「安全基地」です。
だから、アタッチメントの不全は心理的な発達の不全を生むばかりではなく、
身体的にも免疫系がうまく発達せず、病気になりやすいともいわれています。
こうしたことは全部つながっている。
いつでもくっ付ける人がいるという状況が、子どもの将来にわたっての社会性や感情面の発達、
あるいはパーソナリティの発達を考えるうえで、とても重要だということを、
アタッチメントは教えてくれるんです。

家族愛幻想、その根っこにあるもの

信田さよ子

のぶた・さよこ
1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学文教育学部哲学科卒業、同大学院修士課程(児童学専攻)修了。臨床心理士。専門はアディクション全般、アダルト・チルドレン、家族問題、DV(家庭内暴力)・虐待など。病院、相談室勤務を経て、現在は、1995年に設立した「原宿カウンセリングセンター」所長。著書に、『依存症臨床論』医学書院、2014、『カウンセラーは何を見ているか』医学書院、2014、『結婚帝国』河出文庫(上野千鶴子と共著)、2011、『母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き』春秋社、2008、『愛しすぎる家族が壊れるとき』岩波書店、2003、『依存症』文春新書、2000、『「アダルト・チルドレン」完全理解』三五館、1996など多数。
母娘関係は、明治以降の非常に脆弱な宗教なき近代国家とパラレルな関係にあり、
日本の近代家族の必然の一つであるからこそ、東日本大震災で国家的な危機が露呈すると共に、
やはり母娘問題も再浮上してきたのではないかと思います。
ですからこれは、日本人の近代における国と個人と家庭というものを今一度問い直す、
一つの窓口となるのではないかと考えています。

思春期危機、アタッチメントの危機

林もも子

はやし・ももこ
1960年生まれ。東京大学文学部心理学科卒業、同大学教育学研究科博士課程単位修得退学。現在、立教大学現代心理学部教授、臨床心理士、ASI (Attachment Style Interview)コンサルタント。著書に、『思春期とアタッチメント』みすず書房、2010、共著書に、『人間関係の生涯発達心理学』丸善出版、2014、『「甘え」とアタッチメント』ミネルヴァ書房、2007、他がある。
思春期は、その子どもが自立に向けて成長していればいるほど、
親がアタッチメント対象として希薄化し、否定されがちな時期なのです。
したがって、移行特有の危険は常に伴っています。
親などのアタッチメント対象との関係がアタッチメント・システムの起動に際して
使えない状態になっている一方で、
アタッチメント対象として新たに選択された友人などが、突然アタッチメント対象として使えなくなった場合、
アタッチメント対象の不在というエアポケットのような状況が生じます。
それがまさに思春期危機です。

親子関係とアタッチメントの拡張

 児童虐待という言葉を聞かない日はありません。新聞、TVは、連日のように児童虐待のニュースを伝え、週刊誌や月刊誌では、児童虐待をテーマとする特集が組まれ、書店には、児童虐待に焦点をあてたコーナーを設けているところもあります。児童虐待という現象に関する社会的な関心は、近年ますます高まってきているといっていいでしょう。
 全国207カ所の児童相談所が通告を受け、認知・対応した児童虐待件数は、調査を開始した1990年度の1,101件から、23年後の2013年度は、じつに約70倍の7万3765件となり、23年連続で過去最多を更新しました。また、虐待が疑われたとして、全国の警察が2013年に児童相談所へ通告した18歳未満の子どもは2万1603人で、過去最多だった前年を5,216人、割合で言えば32%上回りました。警察庁は、虐待への関心が高まり、匿名も含めた通報が多く寄せられていると説明、配偶者間の暴力、いわゆる子どもの前で行われる「面前DV」を含めたDV(Domestic Violence)の増加が主な原因ではないかと見ています。

社会問題としての「児童虐待」

 児童虐待とは何か、言うまでもなく本来なら養育し子どもを保護する者による加害行為のことです。児童相談所の児童福祉司として児童虐待の現場を見てきた川﨑二三彦氏によれば、「保護者は子育てのさなかに、なぜかその子を虐待してしまい、虐待を繰り返しつつ日々の養育に大変な労力を費やす。他方子どもは、虐待環境から逃れたいと切に願いながら、同時にその保護者から見捨てられることを恐れ、あくまでも保護者に依存して生きていこうとする」。だから、児童虐待は、保護者にとっても、また子どもにとっても大いなる矛盾であり、必然的に激しい葛藤を引き起こさざるを得ない。児童福祉司という立場から見ると、子どもの安全を優先させれば保護者と対立し、逆に、保護者に配慮しているだけでは、虐待をかえって深刻化させてしまう。まさにそのジレンマをかかえながら向き合わざるを得ないところに、児童虐待の難しさがあると川﨑氏は述懐します。(1)
 児童虐待は、その対応の難しさだけではありません。そもそも、何をもって児童虐待とするか、その定義自体からして難問です。そして、そのことが児童虐待への対応をより困難にしている要因の一つにもなっているのです。
 2000年に成立した児童虐待防止法では、児童虐待を次のように定義しています。

第二条 児童虐待とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう。以下同じ。)がその監護する児童(一八歳に満たない者をいう。以下同じ。)に対し、次に掲げる行為をすることをいう。
一.児童の身体に外傷が生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること。
二.児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること。
三.児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること。
四.児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。

 要約すると、児童虐待は、保護者が行う行為であり、それは、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト(neglect=教育の怠惰)、心理的虐待の4つに分類できるという。さらに、第三条は、「何人も、児童に対し、虐待をしてはならない」と明記し、虐待行為を明文で禁じています。
 その後2004年の法改正で、その第一条は、「児童虐待が児童の人権を著しく侵害し、その心身の成長及び人格の形成に重大な影響を与えるとともに、我が国における将来の世代の育成にも懸念を及ぼす」ものであるとなり、児童虐待は人権侵害であると改正されました。
 当初虐待は、身体的虐待(physical abuse)、つまり、子どもに対する身体的暴力(児童虐待防止法第二条の一)とネグレクト、つまり子どもの身体的、精神的な成長にとって必要な養育を親などの保護者が子どもに提供しないという行為(同法第二条の三)が中心でしたが、それに、成人への虐待も含めれば長い歴史をもつ性的虐待と、歴史は浅いけれどもこころにより深刻な影響を与える心理的虐待(psychological abuse)が加わり、今ではこの4つのタイプを児童虐待としています。流れからいうと、生命の危険や重度の身体障害を生じ得るタイプの虐待がまず緊急の課題となり(発生件数ももっとも多い)、次いで、そうした虐待から子どもを守るための方策や制度がある程度整えられてきた段階で、心理的、精神的影響が大きいタイプへの虐待への取り組みに重心を移してきました。言い換えれば、子どもに対する虐待の影響に対する関心が身体的なものから心理的なものへと移ってきたということです。

「虐待」を「乱用」と捉え直す

 ところで、虐待という言葉に違和感をもつという専門家がいます。確かに、目を覆いたくなるような暴力が行使されることは事実だとしても、それはごく一部で、虐待という言葉とはなじまないケースの方が数からいうとずっと多いのではないかというのです。臨床心理の立場から児童虐待の研究をしている西澤哲氏は、英語のabuseとその訳語である虐待とのあいだに微妙な意味合いの差異があると指摘します。虐待というと、残虐や虐殺というような言葉を連想させてしまい、日常生活からかけ離れた、きわめて非日常的なニュアンスをもってしまう。ところが、abuseという言葉は、夫婦やカップル、あるいは親子などといった親密な人間関係において、一方が他方を不適切に、あるいは不公平に取り扱っているという状態を意味するもので、日常的に使われている言葉だというのです。(2)
 Abuseは、通常「乱用」という訳語が与えられていて、alcohol abuseは「アルコール乱用」、drug abuseは「薬物乱用」と訳されています。child abuseを児童虐待と訳すのはむしろ例外的だという。もっとも「子どもの乱用」という訳はあり得ません、何の意味かわからなくなるからです。しかし、西川氏は、子どもという存在の乱用、あるいは子どもとの関係の乱用と考えると、かえって理解しやすくなるのではないかと提言しています。
 子どもと養育者の大人との関係の基盤には、子どもの欲求が存在します。「大人が子どもの健康的な成長を考えて、その欲求に応じたり、あるいは制限を加えることが、親子関係の基礎となる」からです。一方、乱用とは、「子どもの欲求や要求と無関係なところで、子どもとの関係を持とうとする場合に生じ」、「そうした関係の背後、あるいは土台には、子どもの欲求ではなくて親自身の欲求が存在している」。そして、「親が自分自身の欲求の満足を求めて子どもとかかわるとき、そこに〈子どもの乱用〉が発生」します。ここでいう乱用とは、「子どもの存在あるいは子どもとの関係を、親が子どものためではなく自分のために利用することを意味している」という。このことは、たとえば、性的虐待の場合を考えるとわかりやすいといいます。性的虐待とは、大人が自分の性的欲求を満足させるために子どもの存在を利用する行為、言い換えれば、子どもを性的に「乱用」することに他ならないからです。
 虐待とは乱用であるという考え方は、性的虐待だけではなく、その他のタイプの虐待に関しても当てはまるといいます。虐待という行為の背景には、子どもの乱用という現象が存在します。「乱用」という概念は、虐待という言葉であらわされている現象の全体像を理解しやすくしてくれるものであるとともに、虐待を生じる親子関係の本質を明確に言いあらわすものだと西澤氏は強調します。虐待という言葉は、ともすると暴力行為そのものを意味しているように受け取られてしまいますが、乱用は、行為を含めた関係のあり方を指している点で、児童虐待の本質に迫り得る言葉だというわけです。
 「親子関係の本質を〈欲求を満たす役割〉と〈満たされる役割〉という観点から捉えた場合、通常の親子関係においては親が子どもの〈欲求を満たす役割〉を果たし、子どもは〈満たされる役割〉を担うと考えられ」ます。「ところが虐待あるいは乱用が生じる親子関係では、その役割が逆転してしまっている。つまり、子どもが親の〈欲求を満たす役割〉を担い、親は子どもの存在や行動によって〈欲求を満たされる〉という関係が存在する」ことになるという。要するに、関係が逆転してしまっている。この逆転した関係こそ、虐待の生じている親子関係の本質的な特徴だと西澤氏は指摘します。
 ではなぜ、その親子関係が本質的なのでしょうか。
 西澤氏はある母子の例を紹介しています。(2)この母親は、日頃から教育熱心で、とりわけ算数の勉強を重視していました。算数がわからないと落ちこぼれるという強い思い込みをもっています。母親は、まだ2歳半の子どもに、九九を勉強させますが、子どもは母親が熱心になればなるほど勉強を嫌がり、反抗的な態度をとるようになります。そして、とうとうある日、勉強を嫌がって泣き叫ぶ子どもの態度にキレて、かなりの力で殴りつけ、入院が必要となるほどの大けがをさせてしまったのです。
 3歳にも満たない子どもは、普通九九を覚えたいと自分から思うことはないはずです。つまり、九九を覚えたいという欲求は、子どものものではなく、母親の欲求にすぎません。彼女は、子どもを通して、自分自身の欲求の満足を得ようとしているわけです。ここにきて、「乱用」の姿が明確になったといえます。この母親は、とても知的レベルが高い人でしたが、家庭環境が複雑であったため学校に十分に通えなかった。そのため、知識欲が満たされることなく、欲求不満の状態が大人になってからもずっと続いていたと考えられる。そして、自分自身が勉強したかったという強い欲求が子どもを通じて満足させようと思い、子どもの「乱用」に至ったのではないか、と西澤氏は見ています。
 こうした関係性は、たとえば、親の欲求満足のために子どもに勉強を強いるといった個々の出来事を超えて、その親子関係の本質的な特徴になってしまうというのです。「そのような逆転した役割関係のなかで成長した子どもは、親もとを離れてからも、自分自身の欲求は犠牲にして常に他者の欲求を満たすことにやっきになり、他者の欲求を満たせない自分には存在価値を感じることができないなど、さまざまな心理的不適応をきたすことも珍しくない」のです。ただ、ここで注目すべきは、乱用と役割逆転という観点を持ち込むことで見えてくるものです。
 この二つの観点をもつことで、「虐待という言葉からはみえてこない“child abuse”という現象の本質、さらには、虐待行為の背後に存在する〈虐待的人間関係〉あるいは〈乱用的人間関係〉の特徴が理解できるのではないか」というのです。そして、こうした観点は、虐待的な人間関係で成長した子どもがどういった心理的な特徴をもつに至るかを理解するうえでも、重要な示唆を与えてくれるという。

誰が虐待するのか

 児童虐待が、深刻な社会問題として捉えられているもっとも大きな理由は、冒頭で述べたように、それが親から与えられる行為だからです。少々古いのですが、厚生労働省の「社会福祉行政業務報告書」(2004年)によると、主たる虐待の内訳でいえば、虐待者のうちもっとも多いのが実母で、6割以上を占めています。次いで、実父が2割で、虐待を受けた子どもの、じつに10人のうち8人が自分の親からの虐待です。
 どうして子どもを虐待するのか、ましてや自分の子どもをなぜ? 児童虐待が社会問題化するなかで、こうした疑問は当然出てきます。これに対して、厚生労働省は、「子ども虐待の手引き」で、次のように述べています。
 「子ども虐待が生じる家族は、保護者の性格、経済、就労、夫婦関係、住居、近隣関係、医療的課題、子どもの特性等々、実に多様な問題が複合、連鎖的に作用し、構造的背景を伴っているという理解が大切である。」
 要するに、児童虐待は構造的な問題であり、それゆえ一筋縄ではいかない複雑さをもっているというのです。では、どのような構造をもち、何が児童虐待の要因となっているのでしょうか。このことについても、「子ども虐待の手引き」に簡単な説明があります。
 「虐待では、(1)多くの親は子ども時代に大人から愛情を受けていなかったこと、(2)生活にストレス(経済不安や育児負担など)が積み重なって危機的状況にあること、(3)社会的に孤立し援助者がいないこと、(4)親にとって意に沿わない(望まぬ妊娠・愛着形成阻害・育ちにくい子など)であること」。以上の4つの要因が揃っている時に、虐待が起こると指摘しています。
 この4つのなかで、とりわけ(1)の要因が、児童虐待においては特徴的だと思われます。子どもを虐待する母自身が、幼少の頃に自分の親から仕打ちを受け、満足に愛情をかけてもらえず、自己イメージの悪さをかかえて大人になった。しかも、なお現在に至るまで、その親から「おまえが子どもを育てるなんてできっこない」「しつけができてないじゃないか」などと非難され続けているというのです。(1)つまり、「生育史の中で体験した出来事が、めぐりめぐって新たな虐待の火種になる」、いわゆる「虐待の世代間連鎖」が生じるわけで、それは現場にいてもしばしば感じることだと川﨑二三彦氏も指摘しています。
 虐待という経験が癒されない限り、子どもはこうした心理的傷を抱えながら、その後の人生を歩み続けなければならない。虐待とは、子どもにとってもっとも親密な存在である親から与えられる行為です。言い換えれば、子どもは、自分にとってもっとも重要な人間関係において傷つけられるわけで、こうした経験をした子どもが、その後の人生においてさまざまな問題をもつようになることは、当然のことのように思われます。西澤氏は、このことを前提としたうえで、この経験が愛着の障害と虐待的人間関係の再現につながっていくという意味で、見逃せないことだと指摘します。そして、このことが児童虐待を特異なものにし、特徴付けているともいうのです。
 子どもにとって愛着の対象をもつことは、非常に重要だと専門家の多くが指摘しています。愛着の対象をもつこと、言い換えれば、情緒的な結びつきをもつことですが、この愛着の形成は、あらゆる面で子どもの精神的・心理的な健康の基礎となるものです。とくに乳幼児にとっては、自分を養育してくれる大人に対して愛着を形成することが、最大の発達課題になるといっても過言ではないといいます(西澤哲)。愛着が基礎となって、子どもは、自分は愛される価値のある存在だという「自己肯定感」をもてるようになるし、さらには、「親が悲しむことはやめよう」といった善悪の判断も芽生えるようになります。
 ところが、虐待を受けている子どもにとっては、この愛着の形成という課題が非常に困難なものになる。なぜならば、本来は、一番の愛着対象である親が、自分に暴力を向けてくるからです。そんな対象に、たとえ親であっても、いや親だからこそ適切な愛着を形成できないのは言うまでもないことです。そして、愛着を形成できないことが、子どもの発達にとって、とりわけその後のさまざまな対人関係に、深い影を落とすことになるのです。
 「愛着が形成されないことの最悪の結果は、〈対象の内在化〉の失敗ということだろう。対象の内在化とは、自分を大切にしてくれる人をこころのなかにすまわせること」です。「これは愛着形成の延長線上に生じるものと考えられ」ます。「しかし反対に、対象を内在化できていない子どもは、実際に親のそばにいないと、強い孤独感をもったり不安に陥ってしまう」。さらに、生育過程で、幼児期には、誰彼なしにべたべたする「無差別愛着傾向」を示したり、思春期以降は、他者に対して常に「しがみつき」的な人間関係しかもてなくなってしまうということもあるのです。
 さらに大きな問題としては、「虐待的人間関係の再現傾向」と呼ばれる対人傾向を示すことがある点です。虐待という経験をもった子どもは、その後の生育過程で会う大人との人間関係を虐待的なものにしてしまう傾向があるというのです。また、自分が親になった時に、子どもの時に受けた虐待を、今度は、自分の子どもに同じようにしてしまう。先程川﨑氏が指摘した「虐待の世代間連鎖」が起きてしまうのです。
 子どもにとっては、身体的な暴力もさることながら、見捨てられるという不安も大きいといえます。暴力によるからだの痛さよりも、ある意味では、親から見捨てられるというこころの痛みの方がより大きいという意見もあります。幼い子どもにとって、親から捨てられるということは、「世界が崩壊してしまうかのような恐怖」(西澤哲)にもつながるからです。
 見捨てられるという不安の結果、子どもは必死の思いで親にしがみつくことになります。これは第三者から見ると、きわめてパラドキシカルに見えるでしょう。子どもは、叩かれれば叩かれるほど、泣き叫びながら親にしがみつく。虐待は、親に対するいわば「病理的な依存状態」をつくることになるのです。そして、この病理的な依存は、子どもの精神的な発達に多大な影響を与えることになります。
 虐待が生じる関係は、先程言ったように役割逆転をしばしば起こすことになります。そうした関係は、子どもに対して大人の欲求や感情に対する敏感さを要求するようになります。その結果、子どもはいわば「小さな大人」となって成長し、自分の子どもらしさを犠牲にしてしまう。子どもが本来もっているはずの健康的な依存性や創造性は、小さな大人の状態とは相容れないため、こころの奥底に押し込められてしまいます。こうした子ども本来の特性の抑圧が、長きにわたって続くと、さまざまな問題が噴出します。そして、小さな大人がほんとうの大人になった時、あの忌まわしい虐待が、今度は自分の子どもに向かうことになるのです。虐待の経験が、世代を超えて、新たな虐待を生み出す。虐待は、こうして世代間連鎖となって継続していくことになるのです。世代間連鎖、あるいは世代間伝達こそ、児童虐待の本質ともいえるアポリア(aporia=解決不能)を象徴しているように思われます。

生態系としての親子、母子関係

 今号は、このような複雑な児童虐待の本質に対して、アタッチメント理論の観点から、あらたなフレームワークを提起しようと思います。
 幼児虐待の問題が深刻の度合いを深めているなか、さまざまな取り組みが始まっていますが、とくに、生育過程での親子関係に焦点をあてることでこの問題に迫ろうとする動きが出てきました。なかでも、今、もっとも注目されているのがアタッチメント理論です。生涯発達の視座を取り入れた臨床的アプローチは、その理論的ベースに情動を置いているところに大きな特徴があります。これまで情動は理性や認知と対立するものとみなされてきましたが、最新の研究から、むしろそれらと表裏一体の関係をなす高度な「適応」能力として注目されるようになってきました。情動には、人と人の間をつなぎ調整する機能があり、人間社会の土台を形成するものとして見直され始めたのです。さらにこの情動機能を発達という文脈に置くことで、人間同士の関係性を構築するコミュニケーション機能にも示唆を与えてくれることがわかってきたのです。しかも情動は、出生直後からすでに完成体としてあるのではなく、認知や運動、あるいは自己や自己意識などの発達と連動しながら、漸次的に現出するものであることが明らかになってきました。情動にフォーカスすると、たとえば、個々の子どもの経験、表出する情動の種類や頻度の偏りが、養育者などの他者との関係性の展開に深くかかわり、ひいては、子どものパーソナリティの形成に関与する可能性があることも見えてくるのです。
 「個体がある危機的状況に接し、あるいはまた、そうした危機を予知し、怖れや不安の情動が強く喚起される時に、特定の他個体への近接を通して、習慣的な安全の感覚(felt security)を回復・維持しようとする傾性」であるアタッチメント(愛着)は、母子臨床を基盤としながら、とりわけ子どもの虐待に対する治療や援助で効果を発揮しているといいます。そこで、東京大学大学院教育学研究科教授・遠藤利彦氏に情動機能から見たアタッチメント理論の有効性、さらには、アタッチメントが重要視する親子関係を、人間と人間の、人間と環境の相互作用の場=生態系と捉え直す新たな心理学を構想していただきます。
 日本の家族は、夫婦よりも親子の関係で支えられているといわれています。なかでも母子関係は確かな絆と考えられてきましたが、昨今、母との関係を苦しく思う娘たちの声をよく耳にするようになりました。とくに、アラフォー世代の娘たちは、「母が重い、苦しい、怖い」と赤裸々に語り出しました。また、団塊の世代である彼女たちの母たちは、娘を代理に夢を達成しようと試み、時には娘の幸せに嫉妬し引きずりおろし、時には自分の人生の保護者に仕立てます。そうした母親たちが最後の拠り所とするものが「母性」なのです。
 原宿カウンセリングセンター所長で臨床心理士の信田さよ子氏は、DVや虐待、依存症、摂食障害などの相談を受けながら、その原因の多くが母と娘の関係にあると考えています。そして、いわゆる家族愛の象徴として語られる「母の愛」こそが幻想にすぎず、そこにはある種の恐ろしさもはらんでいるというのです。
 信田氏に、家族愛幻想を成り立たせている現代の母子関係に迫り、その根っこにあるものを明らかにしていただきます。
 思春期は、身体、対人関係、自他の認識などさまざまな相(phase)の変わり目にあたる時期です。身体的には、ホルモンのバランスが変化し、外界から性別が明確になり、また、第二次性徴により、大人の身体を実感し始める。対人関係においては、養育者との関係が依存から自立に変わり、仲間関係も大きく変化します。さまざまな情動の渦にのみこまれて翻弄され、情動を抑えるのに必死で動きがとれなくなったりもします。虐待やDVが自覚されるようになるのもこの時期だといわれています。
 立教大学現代心理学部教授で臨床心理士の林もも子氏は、そのような体験と苦しみを思春期危機と呼びます。
 危機に直面して苦しんでいる時、意識するかしないかにかかわらず、アタッチメント・システムが発動しているという。思春期とは、アタッチメント対象を求める「子ども」から、自らがアタッチメント対象となる「大人」への移行期であり、そうした複雑な過程が、アンビヴァレンスな感情を生むというのです。思春期が大人へのアンビヴァレンスな感情を生む時期と捉えた場合、思春期危機とは、何を意味するのでしょうか。それは親子関係、母子関係にどのような影響を与えるのでしょうか。世代間の移行期でもある思春期の男女のこころの在りようについて、アタッチメント・システムに基づきながら考察していただきます。

 今号は、親子関係あるいは母子関係を情動に基盤を置く生態系とみなすことから、親子、母子が必然的に生み出してしまう病理現象=虐待に肉薄し、そこから抜け出す道を探ります。

(佐藤真)

引用・参考文献
1 川﨑二三彦『児童虐待 現場からの提言』(岩波新書、2006年)
2 西澤哲『子どものトラウマ』(講談社現代新書、1997年)

◎情動系の心理学、脳科学

シリーズ新・心の哲学III 情動篇 信原幸弘、太田紘史編 勁草書房 2014
感情とは何か プラトンからアーレントまで 清水真木 ちくま新書 2014
「情の理」論 情動の合理性をめぐる心理学的考究 遠藤利彦 東京大学出版会 2013
脳と情動 ニューロンから行動まで 小野武年 朝倉書店 2012
ヴィゴツキー著《最後の手稿》情動の理論 心身をめぐるデカルト、スピノザとの対話 ヴィゴツキー 神谷栄司、伊藤美和子他訳 三学出版 2006
感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ A・ダマシオ 田中光彦訳 ダイヤモンド社 2005
基盤としての情動 フラクタル感情論理の構想 L・チオンピ 山岸洋、野間俊一他訳 学樹書院 2005
エモーショナル・ブレイン 情動の脳科学 J・ルドゥー 松本元、川村光毅他訳 東京大学出版会 2003
情と意の脳科学 人とは何か 松本元、小野武年他編 岩波書店 2002

◎虐待される子ども、虐待する親

子は親を救うために「心の病」になる 高橋和巳 ちくま文庫 2014
消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ 高橋和巳 筑摩書房 2014
加害者臨床の可能性 A・ジェンキンス 信田さよ子、高野嘉之訳 日本評論社 2014
日本の児童虐待重大事件 2000-2010 川崎二三彦、増沢高他 福村出版 2014
児童養護施設の心理療法 「虐待」のその後を生きる 内海新祐 日本評論社 2013
誰か助けて 止まらない児童虐待 石川結貴 リーダーズノート 2011
ルポ児童虐待 朝日新聞大阪本社編集部 岩波新書 2008
子ども虐待という第四の発達障害 杉山登士郎 学習研究社 2007
児童虐待 現場からの提言 川崎二三彦 岩波新書 2006
DVと虐待 「家族の暴力に援助者ができること」 信田さよ子 医学書院 2002
子どものトラウマ 西澤哲 講談社現代新書 1997
子どもの虐待 子どもと家族への治療的アプローチ 西澤哲 誠心書房 1994

◎アタッチメント、愛着、安全基地

人間関係の生涯発達心理学 大藪泰、林もも子他 丸善出版 2014
メンタライジングの理論と臨床 精神分析・愛着理論・発達精神病理学の統合 A・W・ベイトマン、 P・フォナギー 上地雄一郎、林創他訳 北大路書房 2014
愛着障害と修復的愛着療法 T・M・リヴィー、M・オーランズ 藤岡孝志、ATH研究会訳 丸善出版 2013
「甘え」とアタッチメント 理論と臨床 小林隆児、遠藤利彦編 遠見書房 2012
愛着崩壊 子どもを愛せない大人たち 岡田尊司 角川選書 2012
思春期とアタッチメント 林もも子 みすず書房 2010
愛着理論と精神分析 P・フォナギー、遠藤利彦、北山修監修 誠信書房 2008
アタッチメント障害とその治療 理論から実践へ K・H・ブリッシュ、遠藤利彦、数井みゆき訳 誠信書房 2008
アタッチメント 子ども虐待・トラウマ・対象喪失・社会的擁護をめぐって 庄司順一、久保田まり他訳 明石書店 2008
愛着臨床と子ども虐待 藤岡孝志 ミネルヴァ書房 2008
愛着と愛着障害 理論と証拠に基づいた理解・臨床・介入のためのガイドブック V・ブライア、D・グレイサー 加藤和生監訳 北大路書房 2008
成人のアタッチメント 理論・研究・臨床 W・S・ロールズ、J・A・シンプソン 遠藤利彦他監訳 北大路書房 2008
アタッチメント 生涯にわたる絆 数井みゆき、遠藤利彦編 ミネルヴァ書房 2005
母子関係の理論 新版I、II、III J・ボウルビィ 黒田実郎他訳 岩崎学術出版社 1991
母と子のアタッチメント 心の安全基地 J・ボウルビィ 二木武監訳 医歯薬出版 1993
ボウルビィとアタッチメント理論 J・ホームズ 黒田実郎、黒田聖一訳 岩崎学術出版社 1996

◎母がしんどい

母と娘はなぜこじれるのか 斎藤環、信田さよ子他 NHKブックス 2014
母という病 岡田尊司 ポプラ新書 2014
母を許せない娘、娘を愛せない母 奪われていた人生を取り戻すために 袰岩秀章 ダイヤモンド社 2013
母がしんどい 田房永子 中経出版 2012
私は私。母は母。 あなたを苦しめる母親から自由になる本 加藤伊都子 すばる舎 2012
不幸にする親 人生を奪われる子共 D・ニューハース 玉置悟訳 講談社+α文庫 2012
毒になる母親 キャリル・マグドナルド 江口泰子訳 飛鳥新社 2012
ポイズン・ママ 母・小川真由美との40年戦争 小川雅代 文藝春秋 2012
シックマザー 心を病んだ母親とその子どもたち 岡田尊司 筑摩選書 2011
さよならお母さん 墓守娘が決断する時 信田さよ子 春秋社 2011
母を棄ててもいいですか? 支配する母親、縛られる娘 熊谷早智子 講談社 2011
シズコさん 佐野洋子 新潮文庫 2010
母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き 春秋社 2008
母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか 斎藤環 NHKブックス 2008
漱石 母に愛されなかった子 三浦雅士 岩波新書 2008
愛すべき娘たち よしながふみ 白泉社 2003