ゆるみ、反発、一時停止……介護のなかにからだを見つける

細馬宏通

ほそま・ひろみち
1960年兵庫県生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了(理学博士/動物学)。専門は会話とジェスチャーの分析、19世紀以降の視覚メディア研究など。現在、滋賀県立大学人間文化学部教授(コミュニケーション論)。また、ボーカルを務めるバンド「かえる目」では作詞・作曲も担当する。著書に『介護するからだ』医学書院、2016、『うたのしくみ』ぴあ、2014、『今日の「あまちゃん」から』河出書房新社、2013、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか アニメーションの表現史』新潮社、2013、『浅草十二階 —塔の眺めと“近代”のまなざし』青土社、2001他がある。
ぼくらは、シャワールームに連れて行くというゴールがあるから、それを介護行為だと認識しています。
でも相手とからだを触れ合わせながら何かをしているその状態は、ぼくが介護する側で
あなたはされる側という主客が反転したり溶け合ったりすることで、
どんな行為にでも転化できるわけで、その考え方はぼくにはとても魅力的です。
する/されるは、そう簡単には分けられないという発想に立つことですね。

表現としての聞き書き……介護を切り拓く

六車由実

むぐるま・ゆみ
1970年静岡県生まれ。大阪大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。専攻は民俗学。東北芸術工科大学芸術学部准教授から介護士に転身。社会福祉士、介護福祉士、介護支援専門員。現在、デイサービス施設「すまいるほーむ」管理者・生活相談員。著書に『介護民俗学へようこそ!「すまいるほーむ」の物語』新潮社、2015、『驚きの介護民俗学』医学書院、2012(第20回旅の文化奨励賞受賞、第2回日本医学ジャーナリスト協会賞大賞受賞)『神、人を喰う 人身御供の民俗学』新曜社、2003(第25回サントリー学芸賞受賞)、他がある。
民俗学の主な目的は、記憶を記録にしていくことです。
それによってのちの世代にもつなげていく、その媒介となることです。
「人生すごろく」や「すまいるかるた」であれば、新しい人のすごろくや読み札もどんどん増えていくと共に、
亡くなった人のすごろくや読み札も残っていくわけですね。これはもう歴史です。
すまいるほーむの歴史がそこに集約されている。これは聞き書きがもつ力であり、可能性だと思います。

どっちつかずの人たち……〈老い衰えゆくこと〉から社会を見る

天田城介

あまだ・じょうすけ
1972年生まれ。立教大学大学院社会学研究科社会学専攻博士課程修了。博士(社会学)。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授などを経て、現在、中央大学文学部社会学専攻教授。著書に『老い衰えゆくことの発見』(角川選書、2011)、『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』(多賀出版、2003)、ほか多数。
今、私たちがやるべきことは、ポスト経済成長時代の超高齢社会におけるアンダーミドルや
アンダークラスの視点に立脚したうえで、制度設計を組み立て直すことです。
すなわち、どっちつかずの人たちの、どっちつかずの身体を制度設計の前提として、
社会を再構築することです。

憂鬱なるからだを生きる

 人は、からだと共に生き、からだと共に死んでいく。医学や福祉、その専門性もサービスも高度に多様化した現代社会において、からだは今どこに向かおうとしているのでしょうか。
 からだは行為する実体であり、話す主体です。しかもすべての身体行為は、発話と共に生起します。ある時は同期し、ある時はずれ、ある時は無言の闇へと沈殿することば。それらあまたのことばたちは、意志をもってする行いであるところの「行為」に寄り添い、あるいは反発しながら、常にからだと共に表象します。
 どこにでもあるこのありふれたものとしての「からだ」は、決して閉じることはありません。いつも外へ開き、動き続けています。静態的ではなく動態的な実体であるところの「からだ」。一方からだは、いったん開かれ、動き始めると、永遠にその姿を維持し続けるということもありません。開かれ、動き始めた瞬間から、エンドポイントへ向かって歩み(走り)続ける。すなわち、死へ向かいながら、ピークを迎えた後は、確実に老い衰えていくのがからだです。
 からだを生きるということは、この外へと開かれる感覚を共有し、しかも老い衰えていくという事実を受け入れていくことです。開かれつつ、なお老い衰えゆくからだ、その「リアル」に触れることはいかにして可能か。今号は、主に高齢者のからだに照準し、からだについて「話す・動く」という観点から検討します。
 高齢者を研究することの意味とその社会性に注目し続けているのが、中央大学文学部社会学専攻教授の天田城介氏です。私たちの社会は、「できることはよいことである」という一般通念の上に成立している社会だとしたうえで、高齢者とは不思議な存在だといいます。多くの人は、生まれ育つなかでそれなりにからだや頭を動かせるようになり、青年期ないし若い成人期に働き始め、生活に必要なお金を稼ぐようになります。どのような職業につくのであれ、高齢者の多くは仕事をして稼ぐことで、食べていくことができた人たちです。高齢者とは、その意味で「できる人たち」として何十年も生きてきた人たちであり、言い換えれば、健常者として生きてきた人たちだといえます。しかし、多くの高齢者は一生涯「できる人」のまま人生に幕引きできる人たちではありません。老年期において次第に「できる人」であった自分が「できない人」に変わっていくことを経験する人たちがすなわち高齢者という存在なのです。その意味で、「老い衰えゆくこと」とは、「〈できたことが、できなくなる〉からだ」として生きることだと天田氏は指摘します。

 老い衰えゆくからだを生きる認知症高齢者の介護にかかわりながら、認知症高齢者が、ふだん生活のなかでどのようにからだを使っているか観察を通して研究しているのが滋賀県立大学人間文化学部教授・細馬宏通氏です。
 「目の前で起こっているのは、いつもの食事風景、レクリエーション、トイレや入浴、ベッド介助、そして職員さんや入居者の皆さんの語らいであり、何か人の目を開かせるようなぱっとした出来事ではない」としながらも、「当事者間の思惑や動作の〈ずれ〉が、さざ波のように絶えず産まれている」のが認知症高齢者の日常だというのです。しかし、それが平穏無事に見えるのは、「産み出された〈ずれ〉が常に創造的に、かつ、さりげなく目に止まらぬほどのすばやさで解決されているから」だという。ほんの小さな日常のやりとりであっても、そのあり方やあらわれ方は人それぞれであり、それらを懸命に注視すると、じつは彼らのからだからは、さまざまなアイデアが発せられているというのです。
 そこで、まず細馬宏通氏に、高齢者のとりわけ認知症高齢者といわれる人たちの動作、行為を通して見えてくる〈ずれ〉や〈やり直し〉を紹介していただきます。介護とは、じつは介護職員と認知症高齢者の双方がからだをそれぞれのやり方で動かすことではじめて達成されるものなのです。介護とは、介護する人の一方的な行為ではなく、介護する人/介護される人の相互行為であり、しかもその相互行為は、人のコミュニケーションに普遍的に見られる仕組みであることも明らかになるでしょう。

 特別養護老人ホームの利用者が何度も同じ話や同じ質問を繰り返したり、うろうろと歩き回るなど不可解な行動をしたりすることに、いらだちを覚えたり、どう対応していいのかわからなくなったりすることがあったと告白するのは、民俗学の研究者で、現在デイサービス「すまいるほーむ」の管理者・生活相談員の六車由実氏です。そういう自分の負の感情に押しつぶされそうになった時に、彼女はあえて「聞き書き」をして乗り切ってきたといいます。聞き書きは、聞くという行為というよりも聞いて、書いて、文章に表現すること。であれば、ある意味で書く(表現する)ために聞いてきたともいえます。聞き書きとは、こう言ってよければ、利用者を巻き込んで立ち上がってくる言語を介した創作物=身体行為なのです。聞き書きというケアとは異なるやりかたで利用者に向き合うこと。聞き書きは、六車氏にとって、利用者との関係を結び、愛情を抱くための新たな方法だといえるでしょう。
 六車氏が立ち上げた介護民俗学は、民俗学や文化人類学の参与観察を認知症の利用者へのかかわりと結び付けたのです。聞き書きによって、認知症の利用者の言葉と身体行為が共振するさまを、六車氏の語りを通して知ることになるでしょう。

 冒頭、天田氏の「老い衰えゆくこと」とは、「〈できたことができなくなる〉からだ」だということを紹介しました。できたことができなくなるとはどういう事態をいうのでしょうか。「昔からできなかった」のでも「ずっとできる」のでもない、「できたことができなくなる」というのです。まったくできなかったり、できないわけではないけれど、さりとてできるままのからだでは生きていくことができないこと。天田氏は、それを端的に「どっちつかずの身体」と呼びます。〈老い衰えゆくこと〉は、普通の人びとが身体の変容・変身を経験していく現実そのものだというわけです。
 〈老い衰えゆくこと〉は、当事者の家族などにとっても、当事者の「過去のできたこと」のイメージ・幻影に囚われながら、それを絶えず変容・再構成していく出来事です。さらに言えば、〈老い衰えゆくこと〉は、誰にとっても身近で想像可能な出来事です。そのため、みんなが「できたことができなくなる身体」に強い不安を感じるようになります。その意味で少子高齢化社会とは、「できたことができなくなるからだ」を生き、「できたことができなくなるからだに不安を感受するからだ」、すなわち、「どっちつかずの身体」を短期間に、未曽有の規模で生み出していく社会だといえるのです。
 〈老い衰えゆくこと〉を私たちの社会を変容させるもっとも大きな「社会の軸」として捉え、人々はその社会のなかで、いかに生きてきたのか、また生きていくことが可能なのか。介護の現場と社会制度のはざまを行き来することから「どっちつかずの身体」のリアリティに迫ります。

(佐藤真)

 


介護のなかのからだと言葉が示してくれるもの

 「ぼくは介護する人、あなたは介護される人」というような、旧来のする/されるの関係をやめた時、介護はその瞬間から変わり始めます。地面に無数の亀裂が入る地殻運動ともいえるような大きな変化。たとえば、それは私たちが拠り所としているからだの動き方、動かし方の変化となって表れます。私たちは、何かものごとをしようとする時、必ず身構えますが、まずこの身構えが変わるのです。認知症高齢者の場合、この身構えが難しいといわれています。私たちには自然にできる身構えが、認知症高齢者にはすごくハードルの高いものになっているのです。食事の場面や入浴の場面、それよりもっと日常頻繁にやる車イスの乗り降りとか、それらの行為は常に身構えるところから始まります。仮に身構えができたとしても、それをキープすることがまたとても難しいのです。
 身構えてそれをキープすること。この一連の行為を認知症高齢者が一人でやろうとすると困難を伴うことがあります。だからといって、介護者の立場に立って介護しようとしてもやはりうまくはいかないでしょう。「介護してあげる」という身構えがすでに認知症高齢者の身構えとずれを起こしているからです。
 ならばいったい何をしたらいいのか。まず何よりも、介護する/されるの関係をいったん反古にすることです。する/されるの関係を反古にし、関係をほどいたところから、相互行為を遂行するというかたちで介護の関係をつくり直すのです。それが真の意味での「身構える」ということではないかと細馬宏通氏は言います。
 重要なのは相互行為です。介護する/されるの関係をほどいたうえで、お互いが身構える。その相互行為のなかで、共通のゴールへ向かうのです。ただ、ここでいうゴールは、一つではありません。というか、小さなたくさんのゴールとその集合体としての大きなゴールが入れ子になった状態をゴールと呼び、小さなゴールを一つひとつクリアしながら大きなゴールへ向かう、そのプロセス全体が介護という相互行為だというわけです。ただし、その相互行為はいつもうまくいくとは限らず、躓くこともあるという。そして、認知症高齢者は、そのちょっとした躓きが行き詰まりを招き寄せる。介護の現場で起こっている問題の多くは、この躓きと行き詰まりではないかというのです。
 もとより言葉を発しながらの相互行為もあります。言葉が絡み合うことで、介護の現場の相互行為もより複雑になりますが、細馬氏は、「延長ジェスチャー」という面白い現象を紹介しつつ、介護におけるからだのありように有用な示唆を与えてくれました。介護の相互行為から恊働行為へという展開のなかで、言葉と行為の「ずれ」あるいは「やり直し」が「からだ」の問題として再考されるのです。

 民俗学の研究者が偶然から特別擁護老人ホームやデイサービスの現場に入って、介護民俗学を立ち上げる。それだけでもかなり興味深いことですが、介護民俗学はその展開の過程で、介護の世界そのものに大きな刺激を与えることになります。そのきっかけとなったのが「聞き書き」でした。語り手と聞き手の関係性から生まれる民俗学の聞き書きは、じつはそのまま介護の現場における利用者と介護スタッフの関係にも応用可能だということがわかったのです。細馬宏通氏も指摘するように、介護する側とされる側に関係が固定され硬直化してしまう介護現場において、聞き書きは驚くべき効力を発揮します。一時的ではあれ利用者と介護スタッフとの関係が逆転する事態が起こるからです。その結果として、人と人の関係は回復し、介護という営み自体が豊かなものになるというのです。
 それは何よりも、六車由実氏の介護現場へかかわる姿勢にあります。六車氏は、当初から問題解決や支援を目的にするのではなく、利用者の人生や経験そのものへの強い関心から聞き書きを始めました。民俗学が研究対象とするのは、地域で営まれてきた暮らしそのものであり、聞き書きは、実際にそれを長年経験してきた高齢者に対して行うものと六車氏は言います。介護現場で介護される立場にある利用者は、民俗学では語り手の立場に該当します。したがって、民俗学では語り手の高齢者の方が圧倒的優位に立ちます。聞き手である調査者(たとえば民俗学研究者)は、語り手に「教えを受ける」という立場になるわけで、利用者と介護スタッフの関係にあてはめると、関係がまったく逆転してしまう。介護民俗学の真骨頂は、まさにこの逆転現象にあるといえます。六車氏は、言います。「人生において通底する好奇心や為すべきことを、そのまま介護というフィールドにぶつけた結果、利用者に〈教えてもらう〉という新たなコミュニーケーションの回路を開いたのだ」と。しかも、利用者から得た記憶を一方的にネタにするのではなく、「聞いて、語られ、書き起こされ、確認され、また聞き返して……、という聞き手(支援者)と語り部(利用者)の"共同作業"がここでは生まれている」という。
 利用者自身の身体的記憶と言葉として表出する記憶は別のものではないと六車氏が言うように、からだと言葉のかかわりは、私たちが考えるよりずっと深いレベルで結びついているのでしょう。介護民俗学の聞き書きは、介護の現場でみられるそうしたからだと言葉の事実を、図らずも私たちに知らしめることになったのです。

 editor's note beforeで超高齢社会を「どっちつかずの人たち」が多数派を占める社会であると考える天田城介氏の議論を紹介しました。天田氏によれば、「〈多数〉である〈できる人たち〉に対して、〈少数派〉である〈できない人たち〉の中心は、かつては働くことのできない貧弱たちであり、働くことができない障害者や病者などでした」が、「戦後日本社会においては、次第に高齢者こそが、〈少数派〉である〈できない人たち〉のなかの〈多数派〉を形成してきた」というのです。
 かつてはできたのに今はできなくなってしまった、すなわち「どっちつかずの人たち」の「できる」ことが「できなくなる」という経験を詳細に分析したうえで、天田城介氏は次のように続けます。そもそも日本の社会保障制度はミドルクラスに照準し組み立てられてきたわけですが、超高齢社会に突入した現在においてもそれは温存されている。その結果今どういうことが起こっているか。ミドルクラスのアンダーミドル化が急激な勢いで進行しているというのです。家族がセーフティネットとなって高齢者を支え、支えきれない部分は医療・年金・介護の社会保障が支える、そういうシステムで日本社会は維持されてきたわけですが、ついにそのシステム自体がほころび、その前提となる制度設計それ自体が機能不全に陥ってしまった。だとすれば、今、私たちがやるべきことは、ポスト経済成長時代におけるアンダーミドルの視点に立ったうえで、制度設計を組み立て直すことであり、どっちつかずの人たちの、どっちつかずの身体を制度設計の前提として、社会を再構築することだというのが天田氏の結論です。
 すでに「老い衰えゆくからだ」を生き始めている私たち。細馬氏、六車氏が示してくれた介護にかかわるからだと言葉の可能性、また天田氏が示唆する歴史制度的な構造、この両極から捉えた時に、「老い衰えゆくからだ」は身体の現在を思考するための原点となり得るのです。

(佐藤真)

◎認知症のこころとからだ

「ユマニチュード」という革命 なぜこのケアで認知症高齢者と心がかようのか Y・ジネスト、R・マレスコッティ 誠文堂新光社 2016
認知症をつくっているのは誰なのか 「よりあい」に学ぶ認知症を病気にしない暮らし 村瀬孝生、東田勉 SBクリエイティブ 2016
認知症の語り 本人と家族による200のエピソード 認定NPO法人健康と病の語りディペックスジャパン編 日本看護協会出版会 2016
認知症 医療の限界、ケアの可能性 上野秀樹 メディカ出版 2016
認知症の私からあなたへ20のメッセージ 佐藤雅彦 大月書店 2016
雑誌『現代思想』3月号 vol.43-6「特集 認知症新時代」 青土社 2015
認知症によりそう 上田諭編 日本評論社 2015
認知症の人たちの小さくて大きなひと言 私の声が見えますか 永田久美子監修 harunosora 2015
ユマニチュード入門  本田美和子、Y・ジネスト他 医学書院 2014
Humanitude(ユマニチュード)「老いと介護の画期的な書」 Y・ジネスト、R・マレスコッティ 辻谷真一郎訳 トライヤリスト東京 2014
ユマニチュード 認知症ケア最前線 NHK取材班、望月健 角川ONEテーマ21 2014
認知症を知る 飯島裕一 講談社現代新書 2014
認知症の「真実」 東田勉 講談社現代新書 2014
社会脳からみた認知症 兆候を見抜き、重症化を食い止める 伊古田俊夫 ブルーバックス 2014
認知症 専門医が語る診断・治療・ケア 池田学 中公新書 2014
不幸な認知症、幸せな認知症 上田諭 マガジンハウス 2014
となりの認知症 西川勝 ぷねうま舎 2013
認知症「不可解な行動」には理由がある 佐藤眞一 SBクリエイティブ 2012
扉を開く人 クリスティーン・ブライデン NPO法人認知症当事者の会編 クリエイツかもがわ 2012
ああ認知症家族 つながれば希望が見えてくる 高見国生 岩波書店 2011
黄昏記 真野さよ 岩波書店同時代ライブラリー 1990

◎身体・言語・介護

介護するからだ 細馬宏通 医学書院 2016
介護民俗学へようこそ! 「すまいるほーむ」の物語 六車由実 新潮社 2015
老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉 砂連尾理 晶文社 2016
私は私になっていく 認知症とダンスを C・ブライデン 馬籠久美子、桧垣陽子訳 クリエイツかもがわ 2012
身体造形思考ノート オイリュトミーを聴き、歌う 宇佐美陽一 花書院 2012
驚きの介護民俗学 六車由実 医学書院 2012
からだという書物 笠井叡 書肆山田 2011
逝かない身体 ALS的日常を生きる 川口有美子 医学書院 2009
脳のなかの身体 宮本省三 講談社現代新書 2008
オノマトペ 擬音・擬態語をたのしむ 田守育啓 岩波書店 2002
コンタクト・インプロヴィゼーション 交感する身体 S・J・ノヴァック 立木燁子、菊地淳子訳 フィルムアート社 2000
認知運動療法 運動機能再教育の新しいパラダイム C・ペルフェッティ 宮本省三訳 共働医書出版社 1998
踊りと身体(からだ)の回路 小林正佳 青弓社 1996
表徴の帝国 R・バルト 宗左近訳 ちくま学芸文庫 1996
裸体のことば アスファルト・ブックス編集部編著 河出書房新社 1986
ボディランゲージを読む 身ぶり空間の文化 野村雅一他 平凡社 1984
からだ言葉の本 付“からだ言葉”拾彙 秦恒平 筑摩書房 1984
世界20カ国 ノンバーバル事典 金山宣夫 1983
ボディー・ランゲージ J・ファスト 石川弘義訳 読売新聞社 1971

◎超高齢社会と老い

2050年超高齢社会のコミュニティ構想 若林靖永 岩波書店 2015
人口減少社会の雇用:若者・女性・高齢者・障害者・外国人労働者の雇用の未来は? 西川清之 文眞堂 2015
日本の雇用と中高年 濱口桂一郎 ちくま新書 2014
シュタイナーの老年学 老いることの秘密 丹羽敏雄 涼風書林 2013
超高齢社会の基礎知識 鈴木隆雄 講談社現代新書 2012
2050 老人大国の現実 超高齢化・人口減少社会での社会システムデザインを考える 小笠原泰、渡辺智之 東洋経済新報社 2012
老い衰えゆくことの発見 天田城介 角川選書 2011
老いを治める 天田城介、堀田義太郎他 生活書院 2011
なぜ日本は没落するか 森崎通夫 岩波現代文庫 2010
高齢者は社会的弱者なのか 今こそ求められる「老いのプラン」 袖井孝子 ミネルヴァ書房 2009
老い衰えゆく自己の/と自由 天田城介 ハーベスト社 2004
老いの人類学 青柳まちこ編 世界思想社 2004
老い衰えゆくことの社会学 天田城介 多賀出版 2003

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