コク、この表現ならざるもの

伏木 亨

ふしき・とおる
1953年京都府生まれ。京都大学農学部卒業、同大学院を経て1994年から京都大学農学研究科食品生物科学専攻教授。農学博士。専門は食品・栄養学。現在は龍谷大学農学部教授。日本香辛料研究会会長、日本料理アカデミー理事。2012年日本農芸化学会賞、2014年紫綬褒章受賞。著書に『だしの神秘』朝日新書、2017、『味覚と嗜好のサイエンス』丸善出版、2008、『おいしさを科学する』筑摩プリマー新書、2006、『人間は脳で食べている』筑摩新書、2005他がある。
「比喩的コク」と名付けた第三層のコクは、洗練が極度に進み、抽象化されたコクとも言えます。
ここには本体としてのコクの実体はなく、ほとんど観念の世界です。
要素を極限までそぎ落とした、凡人にはちょっと物足りないと思われるほどに障りのないダシ。
しかしよくよく精神を研ぎ澄ませて味わうことで、そこにはかすかな陰影と余韻がある。
そのかすかな陰影と余韻で、芳醇なコクの世界を感じろというわけですね。

記憶のなかの家庭料理……思い出としての〈美味しさ〉

阿古真理

あこ・まり
1968年兵庫県生まれ。作家・生活史研究家。神戸女学院大学文学部卒業。広告制作会社を経てフリーとなり、食を中心とした暮らし全般、女性の生き方、写真など文化をテーマとして雑誌、書籍などでルポルタージュや論考を発表。著書に『なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか—パンと日本人の150年』NHK出版新書、2016、『小林カツ代と栗原はるみ—料理研究家とその時代』新潮新書、2015、『うちのご飯の60年—祖母・母・娘の食卓』筑摩書房、2009、『ルポ「まる子世代」—変化する社会と女性の生き方』集英社新書、2004他がある。
何を美味しいと思うかは、時代によっても、個人の経験によっても、
その日その時の体調によってさえ違うでしょう。
ですから記憶の美味しさは、二度と再び、まったく同じように再現することはできない。
同じレシピで同じようにつくっても、同じ体験は決してできない。
だからこそ、その一回限りの「美味しい!」という感動が、大切な記憶となって、
私たちの食生活を豊かにしてくれるのだと思います。

〈見る〉が生み出す味わいの世界……こころと食の認知科学

和田有史

わだ・ゆうじ
1974年静岡県生まれ。日本大学大学院文学研究科修了。博士(心理学)。現在、(独)農業・食品産業技術総合研究機構 食品研究部門食品健康機能研究領域感覚機能解析ユニット 上級研究員。専門官能評価士。専門は実験心理学、知覚心理学、認知心理学。共著書に『味わいの認知科学 舌の先から脳の向こうまで』勁草書房、2011、他がある。
食は単なる栄養補給ではありません。
楽しみであり、さらには社会性やコミュニケーションであり、
人類の進化、社会の変化をも巻き込んだ極めて複雑なこころのはたらきです。
その意味で、人間が感じる食べものの味わいは、五感情報や社会的な文脈に基づき、
人間自身によって「生み出される」ものだと思っています。

美味しさは快楽と節度の間にある


 「シャキシャキ」「ジューシー」「もっちり」「とろーり」「濃厚な」「揚げたて」。さらに、「極旨」「絶品」「厳選素材」「新食感」なども加えれば、ゆうに三○○語は下らないという。これらの美味しい感覚を表す言葉を「シズルワード」と呼びます。
 シズル(sizzle)とは、英語の擬音語で、肉を焼く時のジュージューという音のこと。転じて、美味しさを感じさせる刺激や質感をシズルと呼びます。ただ、口に入れて感じる味や食感の美味しさは、美味しさそのものであるため、シズルとは言わないらしい。あくまでも口に入れる前に感じられる「匂い」や「音」。それと「見る」ことで感じとれるもの。それこそがここでいうシズルです。言い換えれば、食べものが口腔内に運ばれる一瞬前の状態。いったいどんな味なのか、どういう美味しさなのか、想像をたくましくさせ、イメージを膨らませ、思いめぐらすこと、その経験すべてを私たちはシズルワードで表現してきたのでしょう。
 たとえば、「シャキシャキレタス」のサンドイッチ。コンビニの棚の一角を占めるサンドイッチのコーナーに、直角三角形のサンドイッチが整然と並んでいます。その断面を見ると、レタスが幾重にも重なり合っていて、まさに口に入る瞬間「シャキシャキ」と音が聞こえてきそうだと語るのは、2003年から「シズルワード」の調査を実施・分析している(株) BMFT代表の大橋正房氏です。ためしに買って「シャキシャキ」を実感し,「シャキシャキ」があたまのなかに居場所をもったように感じると、次からはその記憶の固まりを頼りに、その感覚を求めて食べることになると大橋氏は述懐します(1)。

 ところで、人間は、生きるためだけではなくて楽しむために食べることを始めたといわれています。現代社会では、セックスがそうであるように、食べることは本来の意味を離れた快楽の世界を目指しているというのです。極限まで発展させた享楽と快楽のメカニズム、それ自体が美味しい食を求めてやまない人間の業を示しているともいえるのです。一方で、人間は、料理の究極を求めて、ストイックな食の探求も忘れてはいません。美味しさの快楽と節度や品性を求めるこころは、人間にとって常に表裏一体なのです。
 今号は、味覚と嗜好の生理的メカニズムを縦糸に、食の文化や社会を横糸に、シズルの意味、およびその表現、美味しさの多様性について考えます。

 脂っこいもの、甘いもの、うんとダシがきいたもの。これらは大人も子どもも誰でもわかるコクですが、それに比べて、コクも何もないような溶液に対して、あえてコクがあるといってみる。日本人は酒に対して、極めてひねくれたつきあい方をしてきました。実際、酒には脂も糖分も、コクの材料はほとんど含まれていません。それはもうコクのイメージという他ない。日本人は、まさにそうした「面影」と呼んでもいいようなものを、食に見出してきたのではないか、そう言うのは龍谷大学農学部教授・伏木亨氏です。伏木氏は、食品・栄養学の立場から、日本の食文化のなかでとりわけ重要な役割を果たしてきたダシについて研究されてきました。もとより、ダシの文化は世界中に散見できるとしながら、日本はそれを極限まで洗練させたという意味で、ひと際異彩を放つというのです。あえて一言で言えば、うま味に特化した透明で障りのない味わい。その境地を目指しつつ、実体化させたのが他ならぬ日本のダシだというわけです。
 日本の食文化を語るうえでもう一つ忘れてはならないものにコクがあります。コクもまた、食の世界では独特の立ち位置をもつ素材ですが、興味深いことに日本の食文化では、コクを犠牲にしてまでダシを際だたせるということをやってのける。そして、日本人はそこにコクの品位を見出し、日本料理として確立させたというのです。日本料理が世界的に注目されるなか、その中心的役割を果たすダシとコクの関係について、伏木氏にうかがいました。ダシとコク、それは日本人の精神文化をかたちづくるいわば世界観のようなものであることが理解できるでしょう。

 現代において食およびそのイメージづくりに深くかかわっているのがメディアであることは言うまでもありません。いわゆる料理メディアは、その誕生期から「家庭料理」にフォーカスを当ててきました。当時、家庭料理が注目されていたというよりも、料理メディアが「家庭料理」を話題の中心へ駆り立てたという言い方の方が正確かもしれません。「家庭料理」はある意味で料理メディアによってつくり出された食の新たなジャンルだといえるでしょう。
 料理メディアが花開いた昭和から平成の現在まで、雑誌や書籍、まんが、TV番組は「家庭料理」をどのように伝えてきたのでしょうか。また、そこではどんな食事が描かれてきたのでしょうか。作家であり生活史研究家の阿古真理氏は、「家庭料理」に照準を合わせて、食のなかで「家庭料理」のもつ意味を研究されています。
 阿古氏は、まず、昭和を大きく三つの時代に分けて捉えます。前期は、かまどで炊くご飯を中心にした食文化のなかに、新規なるものとして外国料理が広まった時代です。中期は、敗戦によって過去の文化に自信を失った人々が、外国文化を積極的に取り入れた時代です。後期は、家庭料理がより手の込んだものへ向かうと同時に、外食化が進んだ時期です。
 昭和から平成に変わった1990代は、戦後築き上げた昭和の価値観が崩れていくと同時に、新しい食文化が芽吹き始めます。そして、2000年以降は、崩壊がさらに進み新しい現象が起こりますが、面白いことに昔の食文化がこの文脈のなかで再発見されるのです。
 昭和に洋食が広がり、平成には、カフェ飯が支持されます。そうしたなかで、なぜ和食は再発見されなければならなかったのでしょうか。阿古氏は、その理由を女性たちのライフスタイルの変化に見てとります。それまで長く台所仕事を担ってきた女性たちが、自らの意志をもってその台所から離脱するのです。まさにそれは、「家庭料理」そのもののパラダイムチェンジとなりました。
 日本人は料理に何を見ていたのでしょうか。日本の女性たちの意識とライフスタイルの変化に照準しながら、「家庭料理」の80年を辿ることで、日本人が見出した「美味しさ」の源流を探り出します。

 食の認知は、口に入れる前に視覚情報や嗅覚情報により始まっているといわれます。たとえば、こんな実験があります。ワインの殿堂であるボルドー大学ワイン醸造学科の学生にワインの味を評価させる時に、赤ワインのなかに、赤く着色された白ワインを紛れ込ませたところ、評価者は一貫して赤い白ワインを赤ワインに使われる典型的な言葉で評価し、白ワインに用いられる言葉を避けたというのです。ワインの味わいについて専門的な訓練を受けた人間でも、味を知覚する際に視覚情報の影響を強く受けるということを示しています。視知覚と食の感性には強いつながりがあるということの証でしょう。
 食べものの味わいは見た目によっても大きく変化します。このことは、食べものが盛り付け方や器、パッケージによって、評価が変わることからも理解できます。和食やフランス料理では、彩り、盛り付け、食器選択において、見た目の美しさが重要視されるようです。
 さらに、食べもの本来の情報を超えて、食行動場面の人の表情やしぐさが食べもの選択の判断基準になることもあります。食の認知は、味覚・嗅覚からの情報だけでなく、視覚による色・かたち・大きさの知覚、さらには、それらから喚起する記憶や経験までもが統合された結果であると言うのは(独)農業・食品産業技術総合研究機構 食品研究部門食品健康機能研究領域感覚機能解析ユニット上級研究員・和田有史氏です。
 視覚情報が食の認知に及ぼす影響について概観したうえで、食=味わいを人はどのように感じ、また伝えようとしてきたのでしょうか。認知科学の知見を手掛かりに、美味しさの発生機序、また美味しいと感じるこころの有り様について解き明かします。

(佐藤真)
引用・参考文献
(1) B・M・FTことばラボ編『ふわとろ SIZZLE WORD「美味しい」言葉の使い方』(B・M・FT出版部、2016)

 


その先にある味わいを求めて

 2013年に和食がユネスコの無形文化遺産として登録されました。それがきっかけとなって、今や和食は世界中でブームを巻き起こしています。じつは過去にも幾度か和食が注目されたことがありました。しかし、今回のブームが以前のそれと異なるのは、日本料理と和食が一緒になって海を渡ったことにあると伏木亨氏は指摘します。
 伏木氏によれば、平安時代のお膳料理を基礎にしたいわゆる料亭料理が日本料理であるのに対して、郷土料理を洗練させたものが和食です。障りのない淡い味わいこそが上品で高級であるという価値観の確立。そこにあるのは、多くの味の複合体によって醸し出されるうま味であるコクをあえて犠牲にして、ダシによる純粋なうま味を目指す究極の美味しさです。
 高度な連想や想像力の結果として、コクが物質レベルから精神レベルに達し、ここにもっとも上質な、観念としてのコクが立ち現れてくる。その境地を目指すのが日本料理だというわけですから、確かにわかりにくい。
 今回のブームはその推進力、広がりにおいても過去のブームとは一線を画します。いったい何が違うのか。伏木氏が注目するのが和食です。和食の基本は、今言ったように各地域に根ざした郷土料理です。さまざまな食材や料理法が雑多に含まれて発展した庶民の料理です。しかし、ここで言う和食はそれに留まりません。宮廷の味や江戸前のにぎり寿司などの各種専門店の人気メニューを吸収し、さらには、テンプラ、トンカツ、カレー、ギョーザ、ラーメンといった外国生まれの「和」の料理も取り込んだ和食です。その和食を魅力あるものにしているものが言うまでもなくコクというわけです。
 日本食は確かにこのコクを取り去ろうとしました。ただ、それはコクを否定しようというのではありません。コクの三層構造からいうともっとも上位に位置する「比喩的コク」。コクのあるうま味が万人に愛されている事実を考慮すれば、いずれこの難解なコクを楽しむ外国人が出てくることは想像に難くない。今回の和食ブームが引き金となって、そうしたコクの本当の美味しさ、コクの本質的理解へつながることを期待したいものです。

 今日のメディアは、もっぱら「おいしいお店」紹介のように、いわゆる嗜好品としての食ばかりを取り上げてきたように思います。そうした食のメディアの一般的なトレンドとは別に、阿古真理氏は家庭料理そのものへ視線を向けました。それは、きわめて重要な試みだと思います。なぜならば、食は記憶そのものであり、記憶によってその人の「美味しい」がかたちづくられるからであり、私たちが日々味わっている料理のほとんどはそうした家庭料理だと思われるからです。
 美味しいと思う気持ちは、人間だけに与えられた特権ではありません。ものを食べることで生命を維持する動物には共通にある感覚だと思います。ただ、何を美味しいと思うかは、時代や個人の経験によって異なるし、その時の体調によっても左右します。もとより、生まれ育った場所や民族によっても美味しさは異なります。その意味で記憶のなかの美味しさは再現不可能なものだといえるでしょう。
 私たちは、ふだん何気なく「美味しい」という言葉を使いますが、美味しさが記憶の堆積であるとすれば、その「美味しい」という言葉に込められた意味や気持ちが共有されている可能性は、案外小さいのかもしれません。「そもそも食は、これが〈普通の美味しさ〉だということが非常に共感しにくい特殊性に満ちています。ですから外側から見ただけではわからないことがいっぱいあるはず」で、そうであれば「食べている当事者が、内側から実感を込めてレポートする必要もある」と阿古氏は言います。
 そこで阿古氏はノンフィクションという方法を採用したというのです。著書『うちのご飯の60年 祖母・母・娘の食卓』では、「自分自身に取材し、母に取材し、その事実を積みあげて書いたという意味で、私にとっての典型的なノンフィクションの記述となりました」。家庭料理は一見社会とは関係のない営みのように見えるけれども、その現実も理想も時代の価値観とリンクしていて、そこには暮らしの変化が如実に反映されているという。それが、ノンフィクションという姿をとって立ち現れてくるというわけです。
 そうした試みを続けていくなかで、阿古氏は今改めて「定番の家庭料理」に注目します。
 「〈定番の家庭料理〉の再発見に希望をもっています。家族みんなが安心して食べられるような定番を中心にできれば、つくり手も腕が上が」るはずと阿古氏は最後に述べました。

 食べもののもつ視覚情報は、私たちが想像する以上に食の認知と強く結びついています。たとえは、スーパーマーケットで食材を購入する時、あるいはレストランや居酒屋で料理を注文する時、私たちは、見た目が美味しそうだと思って買うこともあれば、匂いにつられて注文することもあります。和田有史氏が言うように、食の認知は口に入れる前に視覚情報や嗅覚情報によりスタートしているといえるのです。さらにいえば、視覚情報は、味わう前の食品の判断だけでなく、味わっている時の味覚・嗅覚の経験までも変化させてしまう。それほど、視覚情報は食の認知に深くかかっているわけですが、そもそも視覚システム自体が食行動とともに発達してきたことが、進化の研究から次第に明らかになってきました。ヒトの色の知覚は、もともと食べものを発見するために生まれた機能であり、視覚システムの発達と食は、その端緒から強い相関関係があったと考えられます。その意味では、よく言われる「私たちは眼で食べている」といういい方は、決して間違いではなく、むしろ動物進化のプログラムを正確に描写する表現だということがわかります。
 もちろん、視覚による食の認知は色だけではありません。かたちや大きさといった食べもの自体の認知などとも深く関連します。たとえば、同化と対比というよく知られた視覚システムは、すでに食材の販売に利用されていますし、透明感や光沢感といった質感の知覚は、食材の鮮度評価で日常的に使われていると和田氏は指摘します。さらには、他者の存在も〈見る〉から始まる視覚情報の一つだとすれば、食を介して行われるコミュニケーションにも視覚システムは深く関与しているということになります。

 伏木亨氏は、日本料理は前兆を感じさせ続ける料理ではないかと言いました。つまり、食べる直前か、ちょっと箸がついた食べ始めの一口、二口辺りのところでドーパミン神経活動のピークを迎えて、快楽とともにもっとほしい、もっと食べたいという欲求がもっとも大きくなった瞬間を料理として表現して見せたのが日本料理ではないか、というのです。
 もしもこの言い方が正しいとすれば、食べることの前兆を感じとり、言葉やかたちに託すこと、すなわち、食べるという行為が完遂せぬままにその状態を維持し続けることが食という現象であり、その状態をとりあえず「美味しい」と表現してきたのではないでしょうか。「美味しい」という言葉の地平には、究極の美味しさを想起させつつ、それが潜在することをよしとするような、精神文化の奥深さが感じられます。〈美味しい〉のその先にあるものを求めて、私たちの探求は続きます。

(佐藤真)

◎旨いの文明、シズルの文化

ふわとろ SIZZLE WORD「おいしい」言葉の使い方 B・M・FTことばラボ B・M・FT出版局 2016
和食って何? 阿古真理 ちくまプライマリー新書 2015
シズルワードの現在 「おいしいを感じる言葉」調査報告 B・M・FT著 B・M・FT出版局 2015
雑誌『KOTOBA』第15号 特集「食べる」ってなに? 食の奥深き世界に迫る 集英社 2014
大衆めし 激動の戦後史 「いいモノ」食ってりゃ幸せか? 遠藤哲夫 ちくま新書 2013
味わいの認知科学 舌の先から脳の向こうまで 日下部裕子、和田有史編 勁草書房 2011
食の500年史 J・M・ピルチャー 伊藤茂訳 NTT出版 2011
料理の四面体 玉村豊男 中公文庫 2010
味覚と嗜好のサイエンス 京大人気講座シリーズ 伏木亨 丸善出版 2008
酒の日本文化 神崎宣武 角川ソフィア文庫 2006
おいしさを科学する 伏木亨 ちくまプライマリー新書 2006
人間は脳で食べている 伏木亨 ちくま新書 2005
発酵は錬金術である 小泉武夫 新潮選書 2005
コクと旨味の秘密 伏木亨 新潮新書 2005
旨いメシには理由がある 味覚に関する科学的検証 都甲潔 角川ONEテーマ21 2001
オーストラリア発 柴谷博士の世界の料理 柴谷篤弘 径書房 1998
世界を食いつくす J・マクランシー 管啓次郎訳 筑摩書房 1996
和食と日本文化 日本料理の社会史 原田信男 NHKブックス 1995
日本の東西「食」気質 山口米子 三嶺書房 1987
ガストロノマアド 美食の源流イタリアの旅 田中千博 三嶺書房 1986
美食の社会史 北山晴一 朝日選書 1975
食の文化史 大塚滋 中公新書 1975
世界の食事文化 石毛直道編 ドメス出版 1973

◎家庭料理・食卓・メディア

小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代 阿古真理 新潮新書 2015
昭和育ちのおいしい記憶 阿古真理 筑摩書房 2014
ファッションフード、あります。 はやりの食べものクロニクル1970-2010 畑中三応子 紀伊國屋書店 2013
昭和の洋食 平成のカフェ飯 家庭料理の80年 阿古真理 筑摩書房 2013
うちのご飯の60年 祖母・母・娘の食卓 阿古真理 筑摩書房 2009
崩食と放食 NHK日本人の食生活調査から NHK放送文化研究所世論調査部編 NHK生活人新書 2006
今日も料理 お料理番組と主婦 葛藤の歴史 山尾美香 原書房 2004
食卓の文化史 石毛直道 岩波現代文庫 2004
変わる家族 変わる食卓 真実に破壊されるマーケティング常識 岩村暢子 勁草書房 2003
ちゃぶ台の昭和 小泉和子編 河出書房新社 2002
食生活の歴史 瀬川清子 講談社学術文庫 2001
NHKスペシャル 知っていますか子供たちの食卓 食生活からからだと心がみえる  足立己幸・NHK「子どもたちの食卓」プロジェクト著 NHK出版 2000
台所から戦後が見える 朝日新聞学芸部著 朝日新聞社 1995
現代食べもの事情 山本博史 岩波新書 1995
食の戦後史 中川博 明石書店 1995
にっぽん台所文化史 小菅圭子 雄山閣 1991
戦後にみる食の文化史 山口貴久男 三嶺書房 1983

◎食べること、表現すること

まんがキッチンおかわり 福田里香、よしながふみ 太田出版 2014
まんがキッチン 福田里香 文春文庫 2014
『酒販論絵巻』の世界 日仏共同研究 阿部泰郎、伊藤信博編 勉誠出版 2014
生まれた時からアルデンテ 平野紗季子 平凡社 2014
マンガの食卓 南信長 NTT出版 2013
ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50 福田里香、オノナツメ 太田出版 2012
絵画の変 並木誠士 中公新書 2009
国文学 解釈と鑑賞 別冊 文学に描かれた「食」のすがた 小峰和明、ハルオ・シラネ、他編 ぎょうせい・至文堂 2008
食べる西洋美術史 「最後の晩餐」から読む 宮下規久朗 光文社新書 2007
文学と食 アウリオン叢書02 白百合女子大学言語・文学センター編 芸林書房 2004
〈食〉で読むイギリス小説 安達まみ、中川僚子 ミネルヴァ書房 2004
ワンダフルパーティーズ ハギワラトシコ マガジンハウス 1999
東京エスニック料理図鑑 アルシーヴ社編 冬樹社 1984

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