〈たんに見る〉ことがなぜ難しいのか

福尾 匠

ふくお・たくみ
1992年生まれ。現在、横浜国立大学博士後期課程、日本学術振興会特別研究員(DCI)。専門は、現代フランス哲学、批評。著書に『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ「シネマ」』(フィルムアート社、2018)、論文に、「映像を歩かせる 佐々木友輔『土瀝青asphalt』および「揺動メディア論」論」(『アーギュメンツ ♯ 2』、2017)、他がある。
映画は、とくにモンタージュでは、
視覚も聴覚も、時間も場所も、いったんバラバラにしてつなぎ直すという、
非日常的な、ある意味で非人間的な経験ができるメディアです。
それは、われわれが自然に行っている能力の連携のあり方を組み替えていく契機となる。
ドゥルーズはそう考えていたのではないでしょうか。

見えるものと見えないものの対話

藤田一郎

ふじた・いちろう
1956年広島県生まれ。東京大学理学部生物学科卒業後、同大学院理学系研究科動物学課程修了。理学博士。岡崎国立共同研究機構生理学研究所、カリフォルニア工科大学、理化学研究所などを経て、現在、大阪大学大学院生命機能研究科および脳情報通信研究センター教授。専門は、認知脳科学。著書に『脳がつくる3D世界 立体視のなぞとしくみ』化学同人、2015、『脳の風景 「かたち」を読む脳科学』筑摩選書、2011、『「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる』化学同人、2007、他がある。
意識にのぼる細胞がどこにあるかは科学的に探求できるはずで、
その知見を重ねていけば、クリックやコッホの言う「意識の神経相関( NCC )」にたどりつけるのではないかという期待をもたせてくれます。
しかし仮に意識の変動と相関して活動を変えるような神経細胞がある程度特定されたとしても、
意識のハード・プロブレムに答えられたわけではない。
意識のハード・プロブレムは、それくらい僕たちから遠いところにある問題なんですね。

見られた記憶は本物なのか

越智啓太

おち・けいた
1965年横浜生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科心理学専攻博士前期課程修了。警視庁科学捜査研究所、東京家政大学文学部を経て、現在、法政大学文学部心理学科教授。臨床心理士。専門は、犯罪捜査への心理学の応用。著書に、『つくられる偽りの記憶 あなたの思い出は本物か?』化学同人、2014、『ケースで学ぶ犯罪心理学』北大路書房、2013、『恋愛の科学 出会いと別れをめぐる心理学』実務教育出版、2015、他がある。
断片的な記憶がパッチワークのように貼り合わされていき、次第に現実感のある記憶が完成されていきます。
さらに、頭のなかでこれらのイメージを反芻することで、記憶はより鮮明で一貫した構造を獲得していきます。
そして最終的には、リアルな偽りの体験の記憶が形成されてしまうわけです。つまり、体験しなかった出来事でも一生懸命考えることによって、フォールスメモリーができあがるわけです。

ガラスの裏側にあるもの
眼とカメラ

 眼は大脳のアネックス、つまり別館といわれています。直径わずか二◯ミリ少々の小さな球体。しかし、これがなければ、脳の機能は大きく損なわれてしまいます。「器官は多くあるが、からだは一つ。そこで目が手に向かって〈私はあなたを必要としない〉ということはできないし、頭が足に向かって〈私はあなたを必要としない〉ということもできないのです」。これは新約聖書の言葉ですが、視覚心理学の池田光男氏がいうように、眼と大脳視覚領の関係はおよそこのようなものだと言います。
 眼は、よくカメラに比較されます。眼の水晶体はカメラのレンズであり、瞳は絞りです。眼底に張り付いている網膜は、カメラのフィルムで、レンズとフィルムの間の空間、つまり暗箱は透明でゼリー状の硝子体に当たります。デジタルカメラの仕組みも基本は同じですが、違いはフィルムの代りに光センサーがあり、それを画像処理して半導体メモリに記録するところです。したがって、外界の対象が像を結ぶところまでは光学的なプロセスで、眼もカメラ(フィルム、デジタル)も本質的な違いはありません。
 部品としてだけではなく、その働きも眼とカメラはよく似ています。たとえば、目の瞳は、明るいところでは直径が小さくなって光量を調節します。デジタルカメラでは、光センサーで外界の明るさを計測し、直ちに絞りの大きさを加減します。ピント合わせも同様で、カメラはレンズ(ヘリコイド)を前後に動かしてピントを合わせますが、眼は、水晶体自身が膨れたり扁平になったりしてピントを合わせます⑴。
 また、デジタルカメラには手振れ防止が付いています。これは被写体に追随してレンズの方向を動かすものですが、この機能は眼にも標準装備(!)されています。人間の頭は、常にぐらぐら動いていて、当然眼も始終動いています。本来なら年がら年中手ぶれ画像を見させられることになるわけですが、網膜像がぐらぐらすることはありません。それは、手ぶれ防止機能が施されているからです。
 手ぶれ防止機能が内蔵されていなかった頃のビデオカメラで撮影された映像を見ると、最初から最後までその映像は揺れ続けていたものです。しかし、今では、そのような映像を見ることは皆無です。たとえスマホで撮影されたとしても、彼/彼女らの映像は、対象物にピタッと静止したままです。私たちが外界を眼で見るのと同じ「見え」がそこにはあるのです。


「見えている」とは何か
 ここで一つ疑問が湧きます。カメラの仕組みに同調させて、眼の機能が理解できたとしましょう。ではそのことと、人間が見ているということは、どう関係するのでしょうか。つまり、そこに展開されている「見え」は、私たちが見ているということと同じなのでしょうか。言い換えれば、カメラと同じように画像を写し出(し/され)たとして、果たしてそれは見(る/た)ということになるのでしょうか。
 おそらく、哲学者の大森荘蔵氏ならば直ちにこう答えるに違いありません。「眼前の机が〈視覚的〉に立ち現れているそのこと、つまり、〈視覚的〉に〈存在〉していること、つまり、〈見えている〉そのこと、それは私との何の〈関係〉でもないのである」「単に〈見えている〉状態にある、それだけである」⑵ と。
 「見えている」ということ、あるいは「見え」という経験。日常生活のなかで、「見え」とは何か、「見えている」とはどういうことか、などと考えることはほとんどないでしょう。私たちは普通に「見て」暮らしていて、そのことに疑いの余地はありません。「見えている」とは、私たちにとってごくありふれた事態のように思われます。
 なぜそのように思うのでしょうか。それは、見るということが、なんの努力もせずにできてしまうからです。眼を開けば、たちどころに世界が見える。まさに、「見えてしまう」のです。こちらから働きかけるというようなことをしなくても見えてしまう。この「見えてしまう」という感覚が、「見える」という経験を、ありふれたものにしているように思います。しかし、本当にそうでしょうか。「見える」ということ、あるいは「見えている」ということは、そんなに普通のことなのでしょうか。
 「見え」という経験、あるいは「見えている」という事態は、じつは、それほどあたりまえのことではないのです。それどころか、「見る」という現象の裏側には、不思議とたくさんの謎が控えているのです。


「見えている」という場
 大森荘蔵氏は『新視覚新論』の「二章 見えている」で次のように言います。
 「見る、触れる、聞く、味わう、匂う、これら知覚動詞と呼べるものには人を誤解に誘うものがある。それらは或る〈動作〉と、その動作によって生じる〈状態〉とを一括して動詞的に表現する。そのため、その〈状態〉までが何か或る動作だと思い誤られることになりがちなのである」⑵ 。
 たとえば、釣りの名人が糸の先に跳ねる魚に手を伸ばして掴んだとしましょう、と大森氏は言います。それはその魚に「触れる」ことであり、これは文句なしに一つの「動作」であり、多少の経験と熟練とを要する動作だというのです。しかし、魚を掴んだ時の魚のヌルヌル、ピチピチした感触、その感触がしているということ、それは何の「動作」でもありません。魚がピチピチ跳ねるのは魚の動作ですが、その跳ねる感触はなんらの動作でもない。またひと切れの刺身を口に入れてモグモグするのは、まぎれもなく一つの動作ですが、その時の「味」、その味がすることは動作ではなく、強いて言えば「状態」といえるものだと大森氏は言います。
 それは「受動性(パッション)」のことではないか、私たちはすぐにもそう言ってしまいたくなるのですが、こういう言い方には、また別の危険性が潜んでいると大森氏は警鐘を鳴らします。受動というからには、何か「受けるもの」と「与えるもの」があり、その二つの間に「授受されるもの」がある、こういう思いに誘われる危険があるというのです。つまり、受け皿になる受信者、送り込む発信者、送られるメッセージ、こういう図式にはまりこむ危険があるというのです。
 「見えている」という「状況」は、私自身を取り込み、私を包み込んでの風景が「見えている」ということです。それは、一つの全体的「状況」であり、全体的「場」です。この全体的「場」のなかにおいてのみ、ここの私とあそこの絵、あるいは眼をそっちに向けている私とあそこに「見えている」絵、という「関係」が成り立ち得るのであって、それを成り立たしめている「場」である「見えている」という状態は何の「関係」でもない、と大森氏は断じます。
 「この場の中で私の体の皮膚面を境界として私の内側と外とを区別することは何でもない。そしてまた、この区分は私の生活、私の生存、にとっては決定的な境界である。この境界面において私は外の事物に触れ、この境界面の内部で私は育ち衰え年をとる、病気になり健康になり、様々な苦痛や激痛や快感をもつ。(…)要するに、すべてが外側に〈見える〉のであって、内側に〈見える〉と言うことはありえない。と言うことは、〈見えている〉という〈場〉にあっては、内側外側という区分、境界面という内外の境界、というものが意味を持たないのである。つまり、〈見えている〉という全状況にあっては「内部」というものがありえないのである。あるとしてもそれはすっからかんの内部である」⑵ 。
 目覚めている限り、私は否が応でも「見えている」状況の場にいます。私は、一瞬の中断もなく常時「見えている」風景の「ここ」にいるのです(たとえまぶたを閉じても、私の眼はまぶたの裏を見続けています)。私はここにいて右に「目を向け」左に「目を向け」、上を「仰ぎ」下に「目を落とす」。「目を凝らし」、また「目をそらし」、あるいは「目を開き」、「目を閉じる」。そのような眼の動きに同期するように、風景が、外界が、世界が「見えてくる」のです。それは、あたかも素通しのガラス越しに「見る」ことであり、ただ「見えている」という状態があるだけです。もとより、境界もなく、仮にあったとしてもその境界はいわば 0度の隔たりというほかないものです。


ガラス越しの世界
 今号は、この「見えている」という事態を手掛かりにして、視覚における虚・擬・戯について考えます。影絵が映画のモデルとなったのは、いつ頃からでしょうか。それは端的に素朴なリアリズムであり、代わって、ガラスこそ映画ではないかと主張するのは横浜国立大学博士後期課程・日本学術振興会特別研究員の福尾匠氏です。ガラスは、外の景色が見えると同時にこちら側の世界も映り込む。客観的なものと主観的なものを同時に存在させてしまうガラス。映画を透明なメディウム=ガラスとして捉え直し、映画を見るとはどのような経験をいうのか、あらためて考察していただきます。
 ものを見てなんであるかを意識的に感じ、それにもとづいて視覚対象に働きかけていると考えられていました。ところが最新の脳科学研究で、見えることと見たものに働きかけることは独立した別々の出来事であることがわかってきたのです。見ることにおいては、「ものが見えるという主観体験が生じる」ことと、「見ることに依存して行動を起こす」ことが、ではなぜ協働しているように見えるのでしょうか。脳と認知機能の不思議で複雑な関係を、大阪大学大学院生命機能研究科・脳情報通信研究センター教授の藤田一郎氏に解き明かしていただきます。
 私たちは、多くの思い出をもっています。楽しい思い出もあれば、悲しい思い出もある。時には、思い出に苦しめられることもあります。思い出は、まさに人生そのものです。ただ、その思い出たちが「本物」かどうかいうと、じつはかなりあやしいということが、最近の記憶研究からわかってきました。記憶の書き換えでつくられるフォールスメモリーについて、法政大学文学部心理学科教授で臨床心理士の越智啓太氏に視覚経験とのかかわりから考察していただきます。

(佐藤真)
引用・参考文献
(1)池田光男『眼はなにを見ているか 視覚系の情報処理』(平凡社 1988)
(2)大森荘蔵『新視覚新論』(東京大学出版会 1982)

◎シネマとドゥルーズ

ドゥルーズの霊性 小泉義之 河出書房新社 2019
物質と記憶 A・ベルクソン 杉山直樹訳 講談社学術文庫 2019
眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ「シネマ」 福尾匠 フィルムアート社 2018
ドゥルーズ 思考のパッション P・モンテベロ 大山載吉、原一樹訳 河出書房新社 2018
ドゥルーズの哲学 生命・自然・未来のために 小泉義之 講談社学術文庫 2015
ジル・ドゥルーズの哲学 超越論的経験論の生成と構造 山森裕毅 人文書院 2013
ドゥルーズの哲学原理 國分功一郎 岩波書店 2013
シネマ1* 運動イメージ 財津理、齋藤範訳 法政大学出版局 2008
シネマ2* 時間イメージ 宇野邦一、石原陽一郎他訳 法政大学出版局 2006
哲学とは何か G・ドゥルーズ/F・ガタリ 財津理訳 河出書房新社 1997 
記号と事件 1972-1990年の対話 G・ドゥルーズ 宮林寛訳 河出書房新社 1992 
ベルクソンの哲学 G・ドゥルーズ 宇波彰訳 法政大学出版局 1974

◎脳・視覚・ハードプロブレム

潜在認知の次元 しなやかで頑健な社会をめざして 下條信輔 有斐閣 2019
物質と意識 脳科学・人工知能と心の哲学 P・チャーチランド 信原幸弘、西堤優訳 森北出版 2016
脳がつくる3D 世界 立体視のなぞとしくみ 藤田一郎 化学同人 2015
意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論 M・マッスィミーニ、G・トノーニ 花本知子訳 亜紀書房 2015
ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう 意識のハード・プロブレムに挑む 鈴木貴之 勁草書房 2015
意識をめぐる冒険 C・コッホ 土屋尚嗣、小畑史哉訳 岩波書店 2014
ファースト&スロー あなたの意思はどのように決まるか 上下 D・カーネマン 村井章子訳 ハヤカワ文庫 2014
もう一つの視覚 〈見えない視覚〉はどのように発見されたか M・グッデイル、D・ミルナー 鈴木光太郎、工藤信雄訳 新曜社 2008
「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる 藤田一郎 化学同人 2007
視覚の文法 脳が物を見る法則 D・D・ホフマン 原淳子、望月弘子訳 紀伊國屋書店 2003
意識する心 脳と精神の根本理論を求めて D・J・チャーマーズ 林一訳 白揚社 2001
眼はなにをみているのか 視覚系の情報処理 池田光男 平凡社 1988
目と精神 M・メルロ=ポンティ 滝浦静雄、木田元訳 みすず書房 1966

◎記憶とフォールスメモリー

意識的な行動の無意識的な理由 心理学ビジュアル百科認知心理学編 越智啓太編著 創元社 2018
脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議 J・ショウ 服部由美訳 講談社 2016
つくられる偽りの記憶 あなたの思い出は本物か? 越智啓太 化学同人 2014
子どもの頃の思い出は本物か 記憶に裏切られるとき K・サバー 越智啓太他訳 化学同人 2011
記憶はウソをつく 榎本博明 祥伝社新書 2009 
自伝的記憶の心理学 佐藤浩一、越智啓太他訳 北大路書房 2008
抑圧された記憶の神話 偽りの性的虐待の記憶をめぐって E・F・ロフタス、K・ケッチャム 仲真紀子訳 誠信書房 2000
目撃者の証言 E・F・ロフタス 西本武彦訳 誠信書房 1987
ダルヴィングの記憶理論 エピソード記憶の要素 E・タルヴィング 太田信夫訳 教育出版 1985

◎イメージ・ガラス・隔たり

イメージ学の現在 ヴァールブルクから神経系イメージ学へ 坂本泰宏、田中純他編著 東京大学出版会 2019
視覚的無意識 R・E・クラウス 谷川渥、小西信之訳 月曜社 2019
科学者の網膜 増田展大 身体をめぐる映像技術論:1880-1010 青弓社 2017
エクリチュールと差異 上下 J・デリダ 合田正人、谷口博史訳 法政大学出版局 2013
イメージの根源へ 思考のイメージ論的転回 岡田温司 人文書院 2014
イメージ 視覚とメディア J・バージャー 伊藤俊治訳 筑摩書房 2013
半透明の美学 岡田温司 岩波書店 2010
零度のエクリチュール R・バルト 石川美子訳 みすず書房 2008
見るということ J・バージャー 笠原美智子訳 筑摩書房 2005 
イメージの哲学 F・ダゴニエ 水野浩二訳 みすず書房 1996
面・表面・界面 一般表層論 F・ダゴニエ 金森修、今野喜和人訳 法政大学出版局 1990
批評空間 モダニズムのハードコア 現代美術批評の地平 太田出版 1995
季刊 武蔵野美術no.79 1990 特集表層感覚〈皮膚の時代に〉 武蔵野美術大学 1990
マニエリスムと近代建築 コーリン・ロウ建築論選集 伊東豊雄、松永安光訳 彰国社 1981

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