私たちの内部には贈与のモラルが隠れている……楕円構造の二つの焦点

平川克美

平川克美

ひらかわ・かつみ
1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業後、翻訳会社を設立。1999年には、シリコンバレーのBusiness Café Inc.の設立に参加。隣町珈琲店主。実業家、文筆業。著書に『株式会社の世界史:「病理」と「戦争」の500年』(東洋経済新報社 2020)、『見えないものとの対話:喪われた時間を呼び戻すための18章』(大和書房 2020)、『21世紀の楕円幻想論: その日暮らしの哲学』(ミシマ社 2018)他がある。
昨今、贈与経済を見直そうという機運が高まっています。
それはいいことなんですが、じゃあ贈与経済だけでいけるかといったら、そうはいかないでしょう。
現代の交換経済、貨幣経済、市場経済も同時に考えていく必要があるということです。
つまり、楕円で考えるということですね。
さらに、付け加えるとすれば、「自分を勘定にいれる」ということです。

私たちは決して贈与から逃れることはできない……「与えの現象学」が示すもの

岩野卓司

岩野卓司

いわの・たくじ
パリ第4大学哲学科博士課程修了。現在、明治大学大学院教養デザイン研究科長・教授。専門は思想史。著書に『贈与論 資本主義を突き抜けるための哲学』(青土社 2019)、『贈与の哲学 ジャン=リュック・マリオンの思想』(明治大学出版会 2014)、訳書に『ジョルジョ・バタイユの反建築 コンコルド広場占拠』(共訳、水声社 2015)他がある。
僕らはお腹のなかに貴重な財産をもっている。
それは食べたものを血や肉に同化し所有していく財産だが、
血や肉になっていらなくなったものは捨ててしまう。
いらないもの、もしくは同化できない異質なものとして排泄してしまうわけですね。
一方贈与も、自分が持っているものを人に贈ることで、
自分とは異なるもの、あるいは自分にとってはいらないものや価値のないものとして異化している。
ここにアナロジカルなイメージが立ち上がってくるわけです。

贈与のモラル……互酬性の原理とアナキズムの可能性

山田広昭

山田広昭

やまだ・ひろあき
1956年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程中退。パリ第8大学第三期博士(フランス文学および比較文学)、学位論文「意味と無意識――ポール・ヴァレリーと精神析」。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授、言語情報科学専攻。著書に、『可能なるアナキズム マルセル・モースと贈与のモラル』(インスクリプト 2020)、『三点確保 ロマン主義とナショナリズム』(新曜社 2001)他がある。
「贈与のモラル」の毒性が、人を鎖のように縛ってしまうおぞましいものにならないために、
いくつかのアイデアが必要です。
その一つが「第三者への返済」というアイデアです。
これは簡単に言うと、「お返しの義務」は必ずしも贈ってきた相手に返さなくても、
別の人に返してもいいんじゃないか、ということです。

「贈与」先にありき

贈与とは何か
 今号は「贈与」を取り上げます。えっ贈与、あの贈与税とかの贈与ですか? そうです、その贈与です。贈与は、普段あまり耳にすることのない言葉ですが、過去に一度だけ贈与を意識したことがありました。父が亡くなった時です。ちゃんと相続の手続きをやらないと贈与税を取られてしまうから注意しなさい、と叔父に注意され、にわかに贈与という言葉が気になり出したのです。
 結果的に贈与税を支払うことにはならなかったのですが、親が子どもに財産を譲るだけなのに、なぜ税金を払わなきゃならないのか、あたりまえといえばあたりまえの疑問が湧きました。年間一一○万円を超えて他人から贈与されたら、税金を取られるという贈与税。そんな法律があることも知らなかったし、「当事者の一方が自己の財産を相手方に与える意思を表示し、相手方がそれを受託することでその効力は生じる」、そんな条文自体読んだこともなければ、聞いたこともありません。法律の専門家でもない限り、知る機会も使う機会もないでしょう。そのくらい馴染みの薄い言葉でした。
 「贈与」という言葉は、私たちの普段の暮らしとほとんどかかわることのない言葉です。いきなり「贈与」を特集すると言われたら、ピンとくる人は、確かに少ないかもしれません。
 では、贈り物やプレゼント、あるいはギフトという言葉はどうでしょう。日常生活で、こちらはよく使うと思われます。とくにこの原稿を書いている二月はバレンタインデーの月。街中では、どこもかしこもチョコレートやプレゼントの話題でもちきりです。また、プレゼントといえば、誕生日プレゼントやクリスマス・プレゼントがあります。もともと日本にはなかった習慣ですが、今ではごく普通に家族や友人同士でプレゼントを贈り合ったりしています。
 お中元やお歳暮も古くからある贈り物の習慣です。世話になった人への感謝の気持ちから始まったといわれていますが、今日では贈る/贈られるの関係は、個人間を超えて法人間でもごく普通になっています。冠婚葬祭も贈り物がつきものです。結婚式ではお祝いを包み、葬式では香典を贈ります。結婚式も葬式も必ずお返しをすることも共通しています。冠婚葬祭か贈り物か、どちらが先かはわかりませんが、いわゆる記念日というものと贈り物、プレゼントを贈るという習慣は、切っても切れない深いつながりがあることは間違いないようです。
 贈与という言葉は今言ったように、日常言語として使うことはほとんどないけれど、贈与とは、贈り物を与えるということです。贈り物やプレゼントと同じ意味ですし、ギフト= giftは贈与の英語です。そういう意味で言えば、「贈与」という言葉こそ使わないまでも、その意味するもの、すなわち贈り物をあげたりもらったりという行為は、私たちの暮らしに浸透しています。
 ところで、贈与はこういった慣習に属すばかりではなく、現代では新しいかたちの贈与も生まれています。明治大学大学院教養デザイン研究科長・教授の岩野卓司氏によれば、今日のボランティアや臓器移植が贈与にあたるといいます。
 「ボランティアが問題になるのは、NPOという〈非営利組織〉との関係である。NPOの形態はさまざまであるが、ボランティアを人的資源にして、例えば災害時に被災地に人的物的援助をしたり、日常的に福祉活動を行ったりする。会社などと違い、営利を目的としているわけではないので、このボランティアとNPOを貫く論理が贈与なのである。(…)もうひとつは、臓器移植である。(…)臓器の売買が禁じられている現在、臓器移植を説明するのは贈与の言葉である。(…)あともう一つは、多くの国で実験をしたり導入を検討したりしている、ベーシック・インカムである。これは全ての国民に生活に最低限必要な所得を無条件で給付する仕組みである。言い換えれば、国による国民への無条件の贈与である」 ボランティアとNPO、さらには臓器移植も現代社会になくてはならないものだと岩野氏は言います。
また、ベーシック・インカムは未来の社会のためのものであり、これらは、贈与の新しい形態ではないかと示唆しています。


贈与のポジとネガ
 贈与が、今日改めて注目されています。その一番の理由は、資本主義が限界を迎えているのではないかという危機感からです。東西冷戦終結後、二○○○年代に入ってネオリベラリズムが世界を席巻し、自由競争や規制緩和を推し進めた結果、経済格差が広がり、富が一部の金持ちに独占されるようになりました。『21世紀の資本』の著者トマ・ピケティによれば、二○一○年のアメリカ合衆国では、もっとも所得の多いトップ一○%の人たちが国民所得全体の約五○%を所有し、資産に関しても、トップ一○%が合衆国総資産の七○%以上を独占しているといいます。しかも、今のまま資本主義が続くと格差はさらに広がると予想しています。資本主義批判は、マルクス以来綿々と続いていますが、近年では市場経済に取って代わる原理として、「贈与」に期待が寄せられています。
 「市場は商品の交換を通して利益をあげる場であり、経済が最優先事項である。だから、資本主義が行き過ぎると経済が優先され、交換による利益の獲得のため、人間関係などは切り捨てられていく。それに対して、贈与は経済的にみれば損失である」。けれども、そうであるがゆえに「贈与を基盤として社会・経済のモデルを考えると、消費や利他性を重視したり、切り捨てられた人間関係を再び考え直すことができる」と岩野氏は指摘します。
 フランスの社会学者アラン・カイエは、社会の新しい基盤として、贈与の可能性を追求していますが、カイエによれば、「親族関係、婚姻関係、隣人関係、仲間関係、友愛、愛情」といった一番本質的な社会関係は、市場経済の利害関係を超えて、〈与える・受ける・返す〉の贈与の儀礼によって成立しているというのです。しかも、この関係は最終的には利潤の追求に還元されないと考えられていて、この社会関係と贈与を基盤にして政治と倫理、さらには民主主義を考えていくべきだと提言しています。
 カイエの同僚である経済学者セルジュ・ラトゥーシュは、生産による経済発展に取って代わる「脱成長社会」を唱えていますが、この構想に不可欠なものが、利他主義や自然の恵みの尊重といった「贈与の精神」だと岩野氏は言います。経済成長をベースにする考え方は、生産至上主義に陥り、非正規雇用のような非人間的な労働環境を産み出し、大気汚染や生態系の破壊のような環境破壊をもたらします。それに対して、「贈与の精神」は、利益にとらわれない互酬性によって人間らしい本来の生活を取り戻してくれるというのです。
 資本主義を乗り越える原理として贈与は評価されていますが、当然ネガの面もあります。たとえば、自然の贈与も恵みばかりか災害をもたらすこともあります。作物に実りを与えてくれるものは、また害虫やウイルスをもたらします。他人への贈与も、身の程をわきまえない高額なものを相手に与えることで自ら破産する場合もありますし、相手にして、大金を手にしたことで怠け出し身の破滅を招く場合もあるでしょう。贈与に期待を寄せることはよいとしても、こうした負の側面も併せもっていることに、意識的であることが肝要だと岩野氏は指摘しています


ポスト・ヒューマンと贈与論
 まず、お訪ねしたのは実業家、文筆業の平川克美氏。喫茶店「隣町珈琲」の店主をしつつ文筆活動を続けておられます。平川氏は、マルセル・モースの贈与論に注目します。
 モースによれば、贈与経済とは全体給付のシステムです。現代社会が交換経済による市場原理で動いているのに対して、部族社会は贈与経済で動いていて、その原理が全体給付のシステムだというのです。「贈与と全体給付の経済」と「等価交換の経済」は、「贈与のモラル」「等価交換のモラル」を生み出しました。
 現代社会は、貨幣をもとに等価交換のモラルしかないように見えるけれども、贈与のモラルが消え去ったわけではありません。贈与のモラルの焦点と等価交換のモラルの焦点が重なり合ったにすぎないという。二つの焦点をもつ楕円構造としての現代社会において、平川氏は、もう片方の焦点である贈与のモラルに注目しようというのです。花田清輝の楕円幻想論に寄り添いながら、贈与のモラルについて考察していただきます。
 モースの贈与論に触発されて、独自の贈与論を展開した思想家がジョルジョ・バタイユですが、その贈与論に拘泥しながら、オルタナティブな思想へ発展させているのが、先に紹介した岩野卓司氏です。岩野氏は、バタイユを引きつつ次のように言います。生のもっとも根本的な条件は太陽によるエネルギーの贈与です。地球上にエネルギーが満ち溢れ、それを成長の糧にして生物が生存可能なのは、太陽が休みなくエネルギーを贈与してくれているからで、しかも、この根源的な贈与は一方的なものです。この贈与は地球の生物の物質的な起源であるだけではなく、人間の価値観あるいは道徳的判断の起源にもなっているという。太陽エネルギーの産物である「私たち(人間)」が、供儀やポトラッチなどをとおして濫費の方に向かうのも、もとを辿れば、この太陽の贈与に帰着する。バタイユの言う無償の贈与を手がかりに、現代社会における贈与論の可能性について言及していただきます。
 マルセル・モースをアナキズムの文脈へと置き直すことで、アナキズムの可能性を追求しているのが東京大学大学院総合文化研究科教授山田広昭氏です。非中心性、自主的連合、そして常にダイレクトに否を表明できる直接民主主義、これらはアナキズムの変わることのない基底であると山田氏は言います。アナキズムが絶対的自由主義と異なるのは、そこに互酬性の原理が不可欠のピースとして組み込まれている点です。抗争と意にそぐわない協調と積極的な相互扶助とがないまぜに共存している世界こそ、モースが『贈与論』の結論として提示したモラルに他なりません。
 「階級も国民も、そしてまた個人も、互いに対立しながらも殺し合うことなく、互いに自らを与えながらも自己を犠牲にすることがないようにする仕方を学ばなければならない」というモラル。モースの贈与のモラルを基に、来るべき社会の構成原理として再構築すること、それはいかにして可能か。山田氏にお聞きします。(佐藤真)

引用・参考文献
(1)『贈与論:資本主義を突き抜けるための哲学』(青土社、2019)
(2)『21世紀の楕円幻想論:その日暮らしの哲学』(ミシマ社、2018)
(3)『可能なるアナキズム:マルセル・モースと贈与のモラル』(インスクリプト、2020)
(4)M・モース『贈与論 他二篇』森山工訳(岩波文庫、2014)


◎贈与論の地平

贈与の系譜学 湯浅博雄 講談社選書メチエ 2020
世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 近内悠太 News Picks パブリッシング 2020
贈与論 資本主義を突き抜けるための哲学 岩野卓司 青土社 2019
負債論 貨幣と暴力の5000年 D・グレーバー 酒井隆史監訳 高祖岩三郎他訳 以文社 2016
交易する人間(ホモ・コムニカンス) 贈与と交換の人間学 今村仁司 講談社学術文庫 2016
贈与論 他二編 M・モース 森山工訳 岩波文庫 2014
贈与の哲学 ジャン= リュック・マリオンの思想 岩野卓司 明治大学出版会 2014
借りの哲学 N・S= ラジュ 高野優監訳 太田出版 2014
贈与の謎〈新装版〉 M・ゴドリエ 山内昶訳 法政大学出版局 2014
贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ 桜井英治 中公新書 2011
純粋な自然の贈与 中沢新一 講談社学術文庫 2009
親族の基本構造 C・レヴィ= ストロース 福井和美訳 青弓社 2000
無の贈与 祭の意味するもの J・デュヴィニョー 利光哲夫他訳 東海選書 1983
ヴェニスの商人 W・シェイクスピア 小田島雄志訳 白水U ブックス 1983


◎太陽のスカトロジー

太陽肛門 G・バタイユ 酒井健訳 景文館書店 2018
別冊水声通信 バタイユとその友たち G・バタイユ他 水声社 2014
ジョルジュ・バタイユ 神秘経験をめぐる思想の限界と新たな可能性 岩野卓司 水声社 2010
雑誌『談』no.80 特集 無意味の意味/非- 知の知 吉田裕他 たばこ総合研究センター 2007
呪われた部分 有用性の限界 G・バタイユ 中村元訳 筑摩学芸文庫 2003
眼球譚(初稿) G・バタイユ 生田耕作訳 河出文庫 2003
バタイユ 聖性の探究者 酒井健 人文書院 2001
異質学の試み バタイユ・マテリアリストI G・バタイユ 吉田裕他訳 書肆山田 2001
内的体験 無神学大全 G・バタイユ 出口裕弘訳 現代思潮社 1970
バタイユの世界 G・バタイユ他 青土社 1978


◎楕円幻想の周辺

21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学 平川克美 ミシマ社 2018
楕円の日本 日本国家の構造 山折哲雄、川勝平太 藤原書店 2020
日本の新時代ビジョン「 せめぎあいの時代」を生き抜く楕円型社会へ 鹿島平和研究所、PHP総研編 PHP新書 2020
楕円の思考と現代会計 会計の世界で何が起きているか 石川純治 日本評論社 2018
楕円形のこころ がん哲学エッセンス 樋野興夫 春秋社 2018
楕円幻想 初期ドストエフスキイ・漱石と賢治・初期古井由吉について 武田秀夫 現代書館 2013
資本主義のパラドックス 楕円幻想 大澤真幸 ちくま学芸文庫 2008
復興期の精神 花田清輝 講談社文芸文庫 2008
楕円の鏡 幻想小説集 渡辺恒人 近代文芸社 1982
別冊新評 No.42 花田清輝の世界 新評社 1977


◎ポスト資本主義とアナキズム

可能なるアナキズム マルセル・モースと贈与のモラル 山田広昭 インスクリプト 2020
民主主義の非西洋起源について「あいだ」の空間の民主主義 D・グレーバー 片岡大右訳 以文社 2020
未来のプルードン 資本主義もマルクス主義も 的場昭弘 亜紀書房 2020
アナキズムの歴史 支配に抗する思想と運動 R・キンナ 米山裕子訳 河出書房新新社 2020
脱成長 S・ラトゥーシュ 中野佳裕訳 文庫クセジュ 2020
大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝 斎藤幸平 堀之内出版 2019
未来への大分岐 資本主義の終わりか、人間の終焉か? M・ガブリエル他 集英社新書 2019
資本主義の終焉 資本の17の矛盾とグローバル経済の未来 D・ハーヴェイ 大屋定晴他訳 作品社 2017
実践 日々のアナキズム 世界に抗う土着の秩序の作り方 J・C・スコット 清水展他訳 岩波書店 2017
資本主義はどう終わるのか W・シュトレーク 村澤真保呂他訳 河出書房新社 2017
ポストキャピタリズム 資本主義以後の世界 P・メイソン 佐々とも訳 東洋経済新報社 2017


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