「声のきめ」を聴く……グルーヴのなかへ

山田陽一<

山田陽一

やまだ・よういち
1955年生まれ。京都市立芸術大学名誉教授。専門は、民族音楽学、音響人類学。学術博士(大阪大学)。著書に『響きあう身体 音楽・グルーヴ・憑依』(春秋社、2017)、編著書に『グルーヴ! 「 心地よい」演奏の秘密』(春秋社、2000)他がある。
私が音楽を経験するとき、私と音楽は互いを所有しあっています。
つまり、私が音楽に棲みつき、音楽を所有するとき、
音楽も私に棲みつき、私を所有しているのです。
この、相手の中に棲みついて、その相手を所有するというのは、
まさに相手に憑依することを意味していますから、
この「所有」は、言葉の本来の意味において「憑依」と言い換えることができます。
つまり、私が音楽を経験するとき、私は音楽に憑依していると共に、音楽も私に憑依しているのです。

声に出すことば……言語と意味を超えて

川原繁人

川原繁人

かわはら・しげと
1980年東京生まれ。マサチューセッツ大学で博士号を取得(言語学) 。ジョージア大学、ラトガーズ大学を経て、現在慶應義塾大学言語文化研究所教授。専門は、音声学、音韻論、一般言語学。著書に『フリースタイル言語学』大和書房、2022、『音声学者、娘とことばの不思議に飛び込む~プリチュアからカピチュウ、おっけーぐるぐるまで~』朝日出版社、2022、『言語学者、外の世界へ羽ばたく:ラッパー・声優・歌手とのコラボからプリキュア・ポケモン名の分析まで』教養検定会議、2022、他がある 。
「音声学」の枠を超えて、認知科学の立場から捉え直すと、
「音象徴」は「音(=聴覚)」と「意味」という「感覚間のつながり」として解釈できます。
このような「感覚間のつながり」に着目するという流れのなかで、
過去から存在していたけれども研究対象にならなかった「音象徴」という現象について、
「音声を考えるうえで重要な意味をもつのではないか」というふうに
考えられるようになってきたということだと思います。

「分かったつもり」から異質な他者との声が響き合う「対話」の地平へ

田島充士

田島充士

たじま・あつし
1976年生まれ。筑波大学大学院人間総合科学研究科心理学専攻修了。博士(心理学)。東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授。専門は、教育心理学、異文化コミュニケーション。著書に『「分かったつもり」のしくみを探る:バフチンおよびヴィゴツキー理論の観点から』(ナカニシヤ出版、2010)、編著書に『ダイアローグのことばとモノローグのことば:ヤクビンスキー論から読み解くバフチンの対話理論』(福村出版、2019)他がある。
巨大な組織間の非道な暴力を目のあたりにすると、
一学者として、対話の有効性を訴え続けることに無力感を覚えることは事実です。
しかし私たちは、未来を諦めるわけにもいきません。
お互いの視点を完全には理解できないという、
バフチンが明らかにした人間の絶望的なまでの宿命はまた、
既存のシステムにわれわれの視点が完全には取り込まれず、
世界を新たな姿をもつものとして更新する可能性を常に秘めているという希望でもあります。

モノ・人が響き合う世界


人間に先立って存在する
 ヨーロッパ近代の思想の核心に人間中心主義が君臨していたことは改めて言うまでもないことです。その人間中心主義に疑問を投げかけた哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの哲学を見直す試みが始まっています。思弁的実在論のスティーヴン・シャヴィロもその一人ですが、シャヴィロは、とくに思弁的実在論との思想的連動性に注目します。思弁的実在論や新しい唯物論、オブジェクト志向存在論と呼ばれる新しい哲学の潮流と関連付けることで、哲学・思想における現代性を炙り出そうというのがシャヴィロの戦略のようです。
 ホワイトヘッドの基本的な目的は、「自然の二重分岐(bifurcation of nature)」と呼ぶもの、言い換えれば「意識において感知される自然と意識の原因である自然」の絶対的な対立を乗り越えることにありました。シャヴィロはホワイトヘッドの著者『自然という概念』を引用しつつ次のように言います。
 「一方でぼくらの前には世界のフェノメナルなあらわれがある。つまり、〈樹々の緑、鳥たちのさえずり、太陽の暖かみ、椅子の硬さ、ヴェルヴェットの肌触り〉といったように。他方、ぼくらには隠された物理的現実があって、たとえば、〈 (あら)われとしての自然の意識を生みだせるように心に作用する分子や電子の結びつきのシステム〉がある。近代思想の多くはこの分岐にもとづいていて、一次性質と二次性質[ロックとデカルト]、ヌーメナ(叡智界)とフェノメナ(現象界)[カント]、顕在イメージと科学イメージ[ウィルフリード・セラーズ]など二つの間のいろいろな対立のかたちをとっているが、どれも同じ分岐である」と。
 現象学、より一般的には大陸系の哲学が、この分岐の一方に位置していて、他方には、より科学的で還元主義的なかたちの分析的思考が控えています。ところが、ホワイトヘッドは、この分岐をまとめて手放そうとするのです。
 「われわれはどちらかをとって、選ぶことはしない。(…)〈赤く燃える夕日〉や地表すれすれで屈折する陽炎の〈分子や電磁波〉がどちらも同等の存在論的地位をもっている」 。それゆえ、そういう世界であることを説明する必要があるとホワイトヘッドは言います。ホワイトヘッドによれば、世界はさまざまな過程(プロセス)によって構成されていて、単なるモノから成り立っているわけではない。何ものも前もって与えられることはなく、すべてはまずそれがある通りのものにならなければならない。「いかにして (﹅﹅﹅﹅﹅) 活動的存在actual entityは生成するかということが、その活動的存在が 何であるか (﹅﹅﹅﹅﹅)を構成している(…)その〈存在〉は、その〈生成〉によって構成されている」というわけです。
 まず、このように理解してみようとホワイトヘッドは問いかけます。そうすると、プロセスは、自然の分岐の両方の側面をまたいでいることがわかるというのです。つまり、プロセスとは私が理解する当のものにも、私が理解するやり方にも等しく適用されるということです。
 「私は、自分の外にある対象世界に相対する(あるいは現象学者たちが言うように〈志向する〉)主観ではない。なぜなら〈主体〉も〈対象〉もそれじたいさまざまな生成の過程なのであって、あらゆる活動的存在は、等しく対象でありまた主体でもある」からです。主観というかたちで取り出すことそのことに問題がある、とホワイトヘッドは言うのです。


プロセスとactual entity
 デカルト以来、とりわけカント以来のほとんどの西欧哲学は、認識の諸問題を中心にしているために「自然の二重分岐」をよりいっそう強めてきたといえます。「それは存在論(あるところのものの問いをじかに提起する)を犠牲にして認識論(ぼくたちが知るものをぼくたちがいかにして知りうるかを問う)を特別あつかいしてい」て、「デカルト主義のコギトやカント主義の超越論的演繹、現象学のエポケー(判断停止)のどれも、世界についての私たちの知識に世界を依存させている。これらの全てが知られるもの(﹅﹅﹅﹅﹅)をぼくらが知るさいのやり方(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)に従属させている」という。しかし、ホワイトヘッドは、これとまったく反対のことを主張します。「経験されるモノたちは、それらについての私たちの知識から区別されてしかるべきである。この依存関係があるかぎりにおいて、事物(﹅﹅)モノたち(﹅﹅﹅﹅))が認識(﹅﹅)に道を開くのであって、その逆ではない。
(…)経験される現勢的=活動的なモノたちは、それじたいが知識を含みながらも、知識を超越する共通世界に参入する」 。つまり、いかにしてぼくらが知るのか(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)という問いが最初に来る。なぜなら、ぼくらが知るやりかたそれじたいが、どのようにモノたちが存在しており、何をなしているかということの帰結であり産物であるからである」 。その逆ではないというのです。
 「認識論を特別あつかいするのをやめなければいけない」し「特権を取り去らなければならない。なぜならば、ぼくらはモノたちそのものを、モノについてのぼくらの経験に従属させることはできないから」だというのです。この文脈のポイントは、経験をどう捉えるかにあると思われます。端的に言えば、経験されるものと経験それ自体に、主従関係はないということです。
 この考えは、ホワイトヘッドの主要概念であるプロセスにあてはめると理解しやすい。「プロセスは、その対極にある事物を実体と考える立場、言い換えれば、事物の究極の姿を根源粒子的に設定し、認識を事象の分解という操作において特徴づけようとする考え方に、異議申し立てをする、という形で提示された」というのです。もとより、この概念はホワイトヘッドだけのものではなく、ベルクソンやジェームズの哲学、ヘラクレイトスや東洋思想などにおいても見受けられるものです。
 「経験世界の構成要素は、それぞれ独立の原始的単位などではなく、相互に浸透しあうような不可分の流動のうちに認められねばならない。存在とは、絶え間のない持続的な創造的発展なのであって、数量的な処理の可能な根源粒子という概念は、人知のもたらした抽象に過ぎない」
 けれども、ホワイトヘッドは自然科学が前提にしている原子論的立場をやみくもに否定したわけではありません。というのも、『過程と実在』において全面的に展開されたactual entityという概念を吟味してみるとよくわかるという。actual entityは、「ライプニッツのモナドのようにミクロの世界でありながら、同時にマクロの世界を自らのうちに映し、自らにおいて実現するものと規定されているが、一方窓のないモナドとは異なって、相互に開かれ相互に結びつき、自らのうちに過去と未来を含みながら、その原子的個体性を実現する時空的統一体ということになってい」ます。
 actual entityは経験的主体としてモノ(無機物)から神にいたるまですべての存在者に適用される一元論的な概念です。そして、絶えざる流動にあって、同時に自らを限定する限定者として次々に自らを更新していく。その時に、原始的個体性を実現する時空統一体として、不変性や粒子性をアピールするというわけです。


ポリフォニーの諸相
 われわれは、自らの外にある対象世界に相対する主観(主体)ではありません。主体も対象もそれ自体さまざまな生成プロセスであって、あらゆる活動存在は、actual entityあるいはプロセスのなかにあっては、等しく対象であり、また主体です。そのactual entityの響き合いこそ、われわれであり、われわれが生きる世界です。
 そこで今年度は、世界の響き合いという視点から、私、身体、モノの関係を問い直します。今号は、「声のポリフォニー」をテーマに、民族音楽・音響人類学が専門の山田陽一先生に身体の経験それ自体である「声」について、また、音声学、一般言語学が専門の川原繁人先生に「声・音・ことば」のつながりについて、さらに、教育心理学、異文化コミュニケーションが専門の田島充士先生に「他者との声が響き合う」対話およびその言語空間について、お話していただきます。                             (佐藤真)


引用・参考文献
(1)S・シャヴィロ『モノたちの宇宙 思弁的実在論とは何か』上野俊哉訳(河出書房新社 2016)
(2)浜口稔「プロセス/ホワイトヘッド 過去と未来を含んだ時空統一体。その相互乗り入れ的生成変化」『哲学・思想コーパス事典』所収、アルシーヴ社編 日本実業出版社 1987)
(3)A・N・ホワイトヘッド『自然という概念』藤川吉美訳(松籟社 1982)
(4)A・N・ホワイトヘッド『過程と実在』山本誠作訳(松籟社 1979)
(5)A・N・ホワイトヘッド『科学と近代世界』上田泰治、村上至孝訳(松籟社 1981)

◎ダイアローグのポリティクス

オープンダイアローグ 思想と哲学 石原孝二、齋藤環編 東京大学出版会 2022
生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス 桑野隆 岩波書店 2021
オープンダイアローグ 私たちはこうしている 森川すいめい 医学書院 2021
[増補]バフチン カーニヴァル・対話・笑い 桑野隆 平凡社ライブラリー 2020
ダイアローグのことばとモノローグのことば ヤクビンスキー論から読み解くバフチンの対話論 田島充士編著 福村出版 2019
開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる J・セイックラ、T・アーンキル 斎藤環訳 医学書院 2019
ヴィゴツキー、ポラン/言葉の内と外 パロールと内語の意味論 ヴィゴツキー、ポラン 神谷栄司、小川雅美他訳 三学出版 2019
ドストエフスキーの創作の問題 付:より大胆に可能性を利用せよ M・バフチン 桑野隆訳 平凡社ライブラリー 2013
「分かったつもり」のしくみを探る バフチンおよびヴィゴツキー理論の観点から 田島充士 ナカニシヤ出版 2010
ミハイルバフチンの時空(serica archives)せりか書房編 せりか書房 1997
小説の言葉 付:小説の言葉の前史より M・バフチン 伊東一郎訳 平凡社ライブラリー 1996
ドストエフスキーの詩学 M・バフチン 望月哲夫、鈴木淳一訳 ちくま学芸文庫 1995
ミハイ―ル・バフチ―ンの世界 K・クラーク、M・ホルクイスト他 川端香男里、鈴木晶訳 せりか書房 1990


◎声・ことば・ラップ

言語学者、外の世界へ羽ばたく ラッパー・声優・歌手とのコラボからプリキュア・ポケモン名の分析まで 川原繁人 教養検定会議 2022
フリースタイル言語学 川原繁人 大和書房 2022
音声学者、娘とことばの不思議に飛び込む プリチュワからカピチュウ、おっけーぐるぐるまで 川原繁人 朝日出版社 2022
ビジュアル音声学 川原繁人 三省堂 2018
ジブラの日本語ラップメソッド Zeebra 文響社 2018
MCバトル史から読み解く日本語ラップ入門 DARTHREIDER KADOKAWA 2017
フリースタイル・ラップの教科書 MCバトルはじめの一歩 晋平太 イースト・プレス 2016
音とことばのふしぎな世界 メイド声から英語の達人まで 川原繁人 岩波科学ライブラリー 2015
うまく歌える「からだ」のつかいかた ソマティックスから導いた新声楽教本 川井弘子 誠信書房 2015
「あ」は「い」より大きい!? 音徴学で学ぶ音声学入門 川原繁人 ひつじ書房 2015
言語論のランドマーク ソクラテスからソシュールまで R・ハリス、T・J・テイラー 齋藤伸治、滝沢直宏訳 大修館書店 1997
第三の意味 映像と演劇と音楽と R・バルト 沢崎浩平訳 みすず書房 1984


◎音のアルケオロジー

フィールド・レコーディング入門 響きのなかで世界と出会う 柳沢英輔 フィルムアート社 2022
音と耳から考える 歴史・身体・テクノロジー 細川周平編著 アルテスパブリッシング 2021
アメリカ音楽の新しい地図 大和田俊之 筑摩書房 2021
アフリカ音楽の正体 塚田健一 音楽之友社 2016
民族音楽12の視点 増野亜子編 徳丸吉彦監修 音楽之友社 2016
音の考古学 荒山千恵 北海道大学出版会 2014
雑誌『談』特集 おとはどこにあるのか 聴くではなく、奏するでもなく 小沼純一、渋谷慶一郎他 たばこ総合研究センター 2008
諸民族の音楽を学ぶ人のために 生活/表象/歴史/伝統/古典/現代/大衆/集団/声楽/宗教 櫻井哲男、水野信男編 世界思想社 2005
毎日ワールド・ミュージック 1998-2004 北中正和 晶文社 2005
小泉文夫著作選集 1-5 小泉文夫 学研プラス 2003
初めての世界音楽 諸民族の伝統音楽からポップスまで 柘植元一、塚田健一 音楽之友社 1999
雑誌『談』特集 音のからだ 高橋悠治、中沢新一他 たばこ総合研究センター 1997
眼と耳 見えるものと聞こえるものの現象学 M・デュフレンヌ 桟優訳 みすず書房 1995
音の考古学・古代の響き 橿原考古学研究所附属博物館編 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 1982


◎グルーヴの臨界

グルーヴ! 「心地よい」演奏の秘密 山田陽一編著 春秋社 2020
針と溝 stylus&groove 齋藤圭吾 本の雑誌社 2018
響きあう身体 音楽・グルーヴ・憑依 山田陽一 春秋社 2017
音楽する身体 〈わたし〉へと広がる響き 山田陽一編 昭和堂 2008
ラバーソウルの弾み方 ビートルズと60年代文化のゆくえ 佐藤良明 平凡社ライブラリー 2004
自然の音・文化の音 環境との響きあい 山田陽一編著 昭和堂 2000
アーバン・ブルース C・カイル 北川順子、高橋明史他訳 ブルースインターアクションズ 2000


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