二項対立を調停する
清水高志
1967年生まれ。東洋大学教授、井上円了哲学センター理事。日本文藝家協会会員。専門は哲学、情報創造論。著書に『空海論/仏教論』(以文社 2023)、『実在への殺到』(水声社 2017)、『ミシェル・セール:普遍学からアクター・ネットワークまで』(白水社 2013)、共著に『今日のアニミズム』(奥野克巳と共著、以文社 2021)他 。
自性があるとも言えない、
そして世界を成り立たせている摂理には従っている、
という意味では「自然のなかのもろもろ」も私たちもじつは同じなんです。
そのような汎生命的な自然観というのがこれからは大事だし、
仏教などの宗教も、
それを考えてきたのだと思います。
縁起あるいはアニミズムの他力性
奥野克巳
1962年生まれ。立教大学異文化コミュニケーション学部教授、専門は文化人類学。著書に『はじめての人類学』(講談社現代新書 2023)、『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(新潮文庫 2023)、『絡まり合う生命:人間を超えた人類学』(亜紀書房 2022)、共著に『今日のアニミズム』(清水高志と共著、以文社 2021)他 。
それはすべてが自分の力でできているという考え方から、
世界はそのようにあって、
世界の方が私たちに向かってやってくると、
そのように視点を変えるということだと思います。
〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学
護山真也
1972年生まれ。信州大学人文学部教授。専門はインド哲学、仏教学。著書に『仏教哲学序説』(ぷねうま舎 2021)他。論文に「仏教認識論の射程:未来原因説と逆向き因果」『未来哲学 創刊号』所収(未来哲学研究所 2020)他。
どこからが世界とつながる要素なのか。
自分のコントロールの及ぶところ及ばないところを含めて、
縁起的な関係性のなかにある自分というものを捉えていくと、
少なくともこの肉体に囚われた自己とは違うレベルで自分というものを捉えられるでしょう。
テトラレンマ・アニミズム・未来原因説
「顕現しないものの現れ」と東洋思想
これまでの西洋哲学では、私たちが生きる生活世界(感性的・地平的世界)と神や一者などと呼ばれるものの間には、何もないか、あったとしても単なる空想的世界、あるいはこう言ってよければ怪しげな神秘的世界が広がっているだけ、と考えられていました。ところが、言語学者でありイスラム学者でもあった井筒俊彦氏は、この間に、第三の領域である「顕現しないものの現れ」としての世界があると示唆したのです。そして、それを根拠に井筒氏は、精神的東洋哲学の構想を提起しました。それは、その一部として含む「東洋」思想の諸伝統を、何らかの方法的措置を加えることで、普遍的な思想体系として組み直すことであり、そのようにして、「東洋哲学」を、西洋哲学のように現代の世界的哲学に寄与し得るものにしようと企てるものでした⑴ 。
「東洋哲学」を構想した背景として、井筒氏は、近代日本における「日本哲学」、あるいはそれを含む「東洋哲学」の必要性を示し、その典型的な成功例として西田幾太郎氏の哲学を見ています。明治期の日本は、西洋文化、とりわけその背景としての西洋哲学の輸入に際して、それへの自然な反動として「日本哲学」もしくはより広く「東洋哲学」を確立することが求められていました。けれども、それらの「東洋哲学」は、近代日本が置かれた状況からして、何らかのかたちで、西洋中心主義の産物であるオリエンタリズムの支配下にありました。永井晋氏は、ただしと断ったうえで少なくとも二つの、オリエンタリズムに対する単なる反動を超えた、普遍的価値をもつ「日本哲学」あるいは「東洋哲学」の試みが現れたことに注目します。西田幾多郎氏と井筒俊彦氏の哲学です。それが可能だったのは、二人の哲学が、それぞれの仕方で、日本もしくは東洋の伝統的思想の特殊性だけにアクセントを置くのではなく、それらを普遍化する方法をもっていたためではなかったかと提起します。
西田氏にとって「西洋」とは単なる地理的概念ではなく、あくまでも「表象的思考」、「対象化論理」のことです。それに対して論理としての「東洋」とは、「西洋」、つまり表象的な対象化に対立するのではなく、むしろ、あらゆる対象性をその根底から「包む」、より深い「場所」の論理です。その包むことを西田氏はベルクソンの純粋持続、アリストテレスの判断論などを主な手引きとして、それらがなおそれに縛られている対象化論理を、その「手前」に、すなわちそれらが「於いてある場所」にまで遡ることでそれを行おうとするというのです。このことは、対象性の地平(西洋)からいわば垂直方向への徹底した退歩と見ることができます。すなわち、対象性を全体として否定する「絶対無の場所」への退歩であり、これこそが西田氏にとっての、論理としての「東洋的なもの」ではなかったかと永井氏は問います⑴ 。
一方、西田氏は別のところで、「東洋的なもの」とは、「形なきものを見、声なきものの声を聞く」ことだとも言います。あらゆる対象性がそこに於いてある「絶対無の場所」においては、対象性を形成するかなる形(形相)も通すことなく世界が直接、そのまま現れてくることを意味するからです。
精神的東洋と共時的構造化という方法
西田氏とは違い、自らの哲学をはっきりと「東洋哲学」と主張したのが井筒俊彦氏です。井筒氏は、「東洋」という言葉の意味を、日本の哲学界で伝統的に使われてきた意味を改変させます。というのは、従来日本で「東洋哲学」という時、インド、中国、日本が「東洋」とみなされていましたが、井筒氏はその範囲を超えて「東洋」の内容を、イスラム、ユダヤなどの中東や、さらにはギリシャにまで拡大します。さらに、「東洋」という言葉の意味を、地理的な意味から、「経験の深層次元」という超歴史的かつ超地理的な意味へと変換させ、そこに自律的な経験の野を設定し、それを「中間界」と名付けるのです⑴ 。 井筒俊彦氏は、『意識と本質』の「後記」で次のように言います。「一口に〈東洋哲学〉といってしまえば、すこぶる簡単で、すぐにも〈西洋哲学〉と比較対照できるだけのまとまりをもった一つの統一体であるかのような印象も与えかねないけれど、実際に自分でなかに一歩踏みこんでみると、その漠然たる広さに、たちまち足がすくんでしまう。それはいわば、とりつきようもない不気味な怪物にでも出逢ったような感じですらある」というのです。
東洋哲学、その根は深く歴史は長い。また、その地域的広がりも大きい。さまざまな民族のさまざまな思想、あるいは思想的可能体が入り組み入り乱れて、そこにあります。西暦紀元前をはるかに遡る長い歴史。それを「東洋哲学」の名に値する有機的統一体にまでまとめあげ、さらにそれを世界の現在的状況のなかで過去志向的でなく未来志向的に、哲学的思惟の創造的原点となり得るようなかたちに展開させるためには、そこになんらかの、西洋哲学の場合には必要のない、理論的、人為的操作を加えることが必要になります⑵ 。
そのような理論的、知的操作の、少なくとも一つの可能なかたちとして、井筒氏は「共時的構造化」ということを提案します。この操作は、手短かにいえば、東洋の主要な哲学的諸伝統を、現在の時点で、一つの理念的平面に移行し、空間的に配置し直すことから始まります。つまり、東洋哲学の諸伝統を、時間軸からはずし、それらを範型論的に組み変えることによって、それらすべてを構造的に包み込む一つの思想連関的空間を、人為的につくり出そうとすることであると井筒氏は言います。
こうしてできあがる思想空間は、当然、多極的重層的構造をもつことになります。そして、この多極的重層的構造体を逆に分析することによって、われわれはその内部から、いくつかの基本的思想パターンを取り出してくることが可能になります(3)。
テトラレンマとトライコトミー
今号を皮切りに、今年度は「〈精神的〉東洋」について考察します。その第1回は、トライコトミーを取り上げます。
二元論や二項対立の克服もしくは調停という課題は、そもそも東洋の思想的営為においても古くから問われていました。西洋の形式論理では、古代ギリシャ以来矛盾率(「Aは非Aではない」といった論理)による議論、二元論的なロジックはむしろ常套でしたが、インドで発達したのは四区分別(テトラレンマ)と呼ばれる独自の論法です。たとえばインドのナーガルジュナ(龍樹)が『中論』で駆使しているテトラレンマは、①すべては真実(如)である、②すべては真実(如)ではない、③すべては真実(如)であり、かつすべては真実(如)でない、④すべては真実(如)であるわけでなく、かつすべては真実(如)ではないわけでもない、といったものです。二項対立の調停という文脈のなかで、なぜ④を必要としたのでしょうか。それは、端的に「多即一」、「一即多」の世界観に超出するためだといわれています。このテトラレンマに、東洋の思想的営為の極限を見出します。
「主体と対象」「一と多」に、さらに「内と外」(ないしは「含むと含まれる」)という二項対立を加える。二項対立の種類を限定しつつも増やすことによって、構造をより直感しやすくするわけです。このように三種類の二項対立を組み合わせることによって、媒介と縮約の循環的構造をつくり、原因となる始点がどこにもないあり方を示す方法が、トライコトミー(trichotomy)です。西洋的発想の基底にある二項対立をいかに回避するか、東洋大学教授、井上円了哲学センター理事の清水高志氏に、トライコトミーを手がかりに考察していただきます。
複数種のエンタングルメント=絡まり合いとは、相依相関する「縁起」のことです。「縁って生起すること」を意味する縁起とは、精神的・物質的な要素としての法(ダルマ)が、他の法に依存して生じるという道理を指しています。民族誌において、文化や社会といった枠組みのなかで語られてきた、ある事物と他の事物との「関係性」とは、まさしくこの縁起的な働きを別の言葉で置き換えたものです。むしろ、仏教のもっとも基本的な思想ともいえる縁起の道理は、「関係性」として描かれるメカニズムを、より深層から理解するための糸口となるのです。
一方アニミズムは、自分と自分の周囲の世界の連絡通路をつねに開いておく、言い換えれば、モノや他生にも注意を払うことによって、モノや他生や世界の側からの働きかけに対しても私が応じるという機序で成立するようにも思われます。だとすれば、自力のみに頼るのではなく、あちら側からもたらされる他力を感じて、あるがままの自然を受け入れるアニミズムと「縁起」は、近傍に位置する二種の思想的営為といえそうです。立教大学異文化コミュニケーション学部教授奥野克巳氏にお聞きします。
原因は結果に時間的に先行する。われわれの多くが当然のように前提とするこの考えに、異議を唱えたのが、インド仏教の論師プラジュニャーカラグプタです。たとえば、明日、恋人とのデートが約束されている場合、その未来の出来事が現在の心に幸福感をもたらすとします。あるいは逆に、明日に控えた手術が現在の心に暗い影を落としているとしましょう。われわれは過去の積み重ねのうえに現在があるという考えにとらわれていますが、現在はまた未来からの影響のもとに成り立っています。因果のベクトルは過去から現在へという方向性だけではなく、未来から現在へも向けられているとしたら……。ブラジュニャーカラグプタによれば、過去と未来は対称性の関係にあり、過去のものが結果を生み出す作用をもつのならば、同様に未来のものも結果を生み出す作用をもつと考えても、なんら不都合はないと主張したのです。
果たしてこの考えを屁理屈として退けることは可能でしょうか。一見奇妙に見える未来原因説を〈今ここ〉を生きる哲学の文脈とすり合わせることから再検討します。お尋ねしたのは、信州大学人文学部教授でインド哲学、仏教学がご専門の護山真也氏です。(佐藤真)
(1)永井晋『〈精神的〉東洋思想:顕現しないものの現象学』(知泉書館 2018)p139-157
(2)井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫 1991)p409-415
(3)永井晋『動きのなかに入り、共に動くこと:「顕現しないものの現象学「から考える』『談』no.129所収(TASC 2024)p57-59
◎一と多、内と外、フォルムとタイプ
構造の奥:レヴィ=ストロース論 中沢新一 講談社選書メチエ 2024
精神の考古学 中沢新一 新潮社 2024
社会的なものを組み直す:アクターネットワーク理論入門 B・ラトゥール 伊藤嘉高訳 法政大学出版局 2019
物質と記憶 H・ベルクソン 杉山直樹訳 講談社学術文庫 2019
実在への殺到 清水高志 水声社 2017
四方対象:オブジェクト指向存在論入門 G・ハーマン 岡嶋隆佑監修 山下智弘、鈴木優花他訳 人文書院 2017
中動態の世界 意志と責任の考古学 國分功一郎 医学書院 2017
五感〈新装版〉:混合体の哲学 M・セール 米山親能訳 法政大学出版局 2017
ミシェル・セール:普遍学からアクター・ネットワークまで 清水高志 白水社 2013
大森荘蔵セレクション 大森荘蔵、丹治信春他編 平凡社ライブラリー 2011
セール、創造のモナド:ライプニッツから西田まで 清水高志 冬弓社 2004
◎アニミズム、仏教、人類学
空海論/仏教論 清水高志 以文社 2023
雑誌 思想 2022年10月号 no.1182 マルチスピーシーズ人類学 箭内匡、奥野克巳他 岩波書店 2022
絡まり合う生命:人間を超えた人類学 奥野克巳 亜紀書房 2022
今日のアニミズム 奥野克巳、清水高志 以文社 2021
雑誌 たぐい vol.1- 4 石倉敏明、近藤祉秋他 亜紀書房 2019 ~2021
マンガ人類学講義:ボルネオの森の民には、なぜ感謝も反省も所有もないのか 奥野克巳、MOSA 日本実業出版社 2020
モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと 奥野克巳 亜紀書房 2020
アニミズム時代 岩田慶治 法蔵館文庫 2020
人類学とは何か T・インゴルド 奥野克巳他訳 亜紀書房 2020
ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと 奥野克巳 新潮文庫 2018
森は考える:人間的なるものを超えた人類学 E・コーン 奥野克巳監訳 亜紀書房 2016
雑誌 現代思想 2016年3月臨時増刊号 人類学のゆくえ 中沢新一監修 青土社 2016
インディオの気まぐれな魂:叢書人類学の転回 E・ヴィヴェイロス・デ・カストロ 近藤宏他訳 水声社 2015
死をふくむ風景:私のアニミズム 岩田慶治 NHKブックス 2000
岩田慶治著作集 1- 8 岩田慶治 講談社 1995
◎〈精神的〉東洋哲学、仏教
井筒俊彦:起源の哲学 安藤礼二 慶應義塾大学出版会 2023
死と生の仏教哲学:親鸞と空海を読む 立川武蔵 角川選書 2023
仏教哲学序説 護山真也 未来哲学双書 未来哲学研究所/ぷねうま舎 2021
東洋哲学序説:井筒俊彦と二重の見 西平直 未来哲学双書 未来哲学研究所/ぷねうま舎 2021
雑誌 未来哲学 創刊号 未来哲学とは何か 未来哲学研究所/ぷねうま舎 2020
仏教原論:ブッディスト・セオロジー 完全版 立川武蔵 KADOKAWA 2019
〈精神的〉東洋哲学:顕現しないものの現象学 永井晋 知泉書館 2018
仏教論争:「縁起」から本質を問う 宮崎哲弥 ちくま新書 2018
増補新版 別冊文藝 井筒俊彦:言語の根源と哲学の発生 安藤礼二、若松英輔責任編集 河出書房新社 2017
入門 哲学としての仏教 竹村牧男 講談社現代新書 2009
意識と本質:精神的東洋を索めて 井筒俊彦 岩波文庫 1991
雑誌 遊 no.5 インド自然学 松岡正剛、杉浦康平他 工作舎 1973
◎コスモスの思想
コスモスとアンチコスモス:東洋哲学のために 井筒俊彦 岩波文庫 2019
レンマ学 中沢新一 講談社 2019
論理と歴史:東アジア仏教論理学の形成と展開 師茂樹 ナカニシヤ出版 2015
日本仏教史:思想史としてのアプローチ 末木文美士 新潮文庫 1996
コスモスの思想:自然・アニミズム・密教空間 岩田慶治 同時代ライブラリー 岩波書店 1993
自然学曼陀羅 physica mandala 松岡正剛 工作舎 1979
雑誌 遊 no.10 存在と精神の系譜 下 工作舎 1977
雑誌 遊 no.9 存在と精神の系譜 上 工作舎 1976
二十一世紀精神 松岡正剛、津島秀彦 工作舎 1975