「空」という泡沫
正木晃
1953年生まれ。早稲田大学オープンカレッジ講師。専門は宗教学。主な研究課題は日本密教、チベット密教、宗教図像学(マンダラ研究)など。著書に『「ほとけ」論:仏の変容から読み解く仏教』(春秋社 2021)、『マンダラを生きる』(角川ソフィア文庫 2021)、『「空」論:空から読み解く仏教』(春秋社 2019)他多数。
日本人の共通感覚としてある何かを思想や哲学として明確なかたちにしたのが、
日本版の「空」になるのかもしれません。
「中身は空っぽ」とはいかなることか
石飛道子
1951年生まれ。仏教学者。北星学園大学非常勤講師、札幌大谷大学特任教授。専門はインド哲学、龍樹思想。著書に『古代インド論理学の研究:ブッダ・龍樹・ニヤーヤ学派』(起心書房 2023 )、『「スッタニパータ」と大乗への道』(サンガ 2016)、『「空」の発見』(サンガ 2014)、『龍樹:あるように見えても「空」という』(佼成出版社 2010)他多数。
「何もないな。今日は気持ちがいい朝だな」とかって、そういうところで考えてもいい。
「こだわらない」というところで考えてもいい。
青空みたいにすごくきれいさっぱり何にもないところというような、
そういうふうであるといいのかなと。
縁起から空への「飛躍」
彌永信美
1948年生まれ。専攻は仏教学、仏教神話研究、比較文化。著書に『幻想の東洋:オリエンタリズムの系譜 上・下』(ちくま学芸文庫 2005)、『仏教神話学 1・2』(法藏館 2002)、『歴史という牢獄:ものたちの空間へ』(青土社 1988)がある。また、ヨーロッパ精神史や仏教文化史・神秘思想史などについての論文がある。
その向こうに、何か底知れない深淵が顔をのぞかせる。
ぼくはそれを「絶対的存在の狂気の光」とか「絶対的非存在の暗黒」と表現していますが、
それを「空」と言い換えることも可能かもしれません。
「空」とは、何の隠喩なのか
あるのでもなければないのでもない
「色即是空、空即是色」、日本人なら誰もが知る『般若心経』の一文です。仏教教義を示す言葉のなかで、おそらくもっともよく知られた文言ですが、意外にもその解釈をめぐっては、今日でも議論が絶えないといいます。『般若心経』などの初期大乗経典は、菩薩(悟りを求める人)たちの実践の具体的な事例を述べ伝えつつ、一方で、批判相手の世界解釈の根本を揺るがそうとしました。しかも、大乗仏教徒たちの主張の仕方は大変ショッキングなものだったというのです。なぜならば、彼らは、日常の論理とは、まったく異なることを述べたからです(1) 。「色は空である」は、まさにそうしたとっぴな表現の一つでした。
「色」とは、色形あるもののことですが、ここでは、さらに「迷い」の世界すなわち「俗なる」世界を指しているといいます。では、「空」は何を指しているのでしょうか。「悟り」の世界すなわち「聖なる」世界を指しているといいます。「迷い」と「悟り」以外の第三者の存在は許されていないのです。そして、その二つの和は一切です。ゆえに「色は空である」という表現は表面的には「AはBである」ということを述べているかのように思われますが、じつはそうではなく、「色は色以外のもの(非色)である」すなわち「Aは非Aである」と言っているというのです。この種の表現は般若経典ばかりではなく他の大乗仏教経典類にも見られます。
「Aは非Aである」? これは、日常の世界ではあり得ないことです。そもそも形式論理学的思考がそれを許さないことを、当の大乗仏教徒たちはよく知っていたはず、と指摘するのは、「空」を仏教の歴史全般から読み解く仏教学者の立川武蔵氏です。立川氏によれば、「Aは非Aである」ということが日常の言語活動においてはあり得ないからこそ、なおさら彼らはそのような表現を用いたのではないか。それは、悟り(絶対的真理)の世界がわれわれの言語を拒否しているという考えの、われわれの日常的言語による表現なのだ、というのです。真理が言語を拒否しているということも言語によって語られねばならない。人間には一つの言語のみが許されているのであって、絶対的真理そのものを語る言語が日常的言語の他に許されているわけではないからです(1) 。
「迷いと悟り」は、「人と神」「俗なるものと聖なるもの」などと同様に、宗教に常に存在する「二つの極」だと立川氏は言います。これらの二極は相反するものであり、Aと非Aです。しかし同時に、二極間の交わりは可能であり、時として二極はまったく同一のものとなること、つまり俗なるものの「聖化」が可能であること、が宗教の存立の必要条件です(1) 。この交わり、あるいは同一性をいかに成立せしめるかが、すべての宗教の問題ではなかったかと立川氏は問いかけます。
相反するものの同一たること、これが大乗仏教の根本精神になります。その精神が「Aは非Aである」というように論理学者に弁証の必要を感じさせるようなかたちで表現されていたために、後の仏教思想家たちがこのような表現の内容を「論理学」と呼ぶべき領域において取り上げたのです。「Aは非Aである」をいかにして論証するか。それが大乗仏教の思想家たちのいわば任務だったというのです(1) 。
「Aは非Aである」が「空」の根本に据えられる。それ自体非常にパラドキシカルな表現です。仏教にとって最重要の概念のひとつであるにもかかわらず「空」は、時代や地域、もしくは学派や宗派によって、さまざまな理解や解釈を生み出しました。たとえば、無我/非我や縁起には概念規定のようなものがあります。ところが、「空」にはそれがないのです。というのも、「空」は時代や地域によって、大きく変容を遂げてきたからだというのは、宗教学が専門で、主に日本・チベット密教を研究する正木晃氏です(2)。
正木氏によれば、インド仏教の歴史において、最初に登場した頃の「空」と、日本仏教の歴史において認識されてきた「空」とでは、理解や解釈がほとんど一八◯度、逆転しているというのです。さらに面倒なことに、一般的には最初の理解や解釈が正しく、後になればなるほど理解や解釈が正しくない方向へ向かっていくものと思われがちですが、そうとも言いきれないというのです。仏教もまた社会とのかかわりなしには成り立たず、社会の変化に対応できなければ、滅びるしかありません。仏教にとって、「空」は他に比べられるものがないほど重要な位置付けにあるので、文字どおりありとあらゆる手段を駆使して、生き延びさせる必要がありました。その結果が、「空」に多様極まりない理解や解釈をもたらした、と正木氏は指摘します。
世界を空なりと観ぜよ
ところで、日本仏教では、ブッダが「空」を説いたことになっていますが、じつは、ブッダは「空」を説いてはいません。そもそも「空」が仏教に登場し、脚光を浴びるようになったのは、大乗仏教が誕生してからです。とりわけ、ナーガールジュナ(龍樹)が現れて、「空」を仏教教義の中核に据え、高度な宗教哲学を築きあげてからのことです。
現存する最古の仏典と考えられているものに『スッタニパータ』があります。仏教学者中村元氏によれば、『スッタニパータ』は原始仏教を代表する仏典ですが、その「第五 彼岸に至る道の章」におさめられている第一一一九偈(詩句)では、次のように説かれています。
つねによく気をつけて、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。
(『ブッダのことば:スッタニパータ』中村元訳 岩波書店 一九八四 二三六ページ)
「世界を空なりと観ぜよ」とは、文脈から考えると、「自我に固執する見解をうち破」ることと、深い関係があるようです。そして、「世界が空なり」と見抜くことができれば、その人は「死を乗り超えることができる」と説かれています。
『スッタニパータ』には、これ以外に「空」ということばは見あたりません。たとえ一カ所でもあれば、ブッダが「空」を説いたことになるかもしれませんが、一カ所しかないということは、ブッダにとって、「空」という概念はさして重要ではなかったのではないか、とも考えられると正木氏は言います。ただし、中村元氏は、自我に対する執着を離れること=「空」を観じることという認識が、やがて大乗仏教の「空観」に至る道の端緒となったとも指摘しています。その意味では、「空」は、いうまでもなく、大変重要な文言であったのです。
どこまでもただ「かくあること」
今号は、「〈精神的〉東洋」の二回目として、この「空」を、もう一つの重要な概念「無」と関連付けて考察します。
仏教の伝統的用語では「空」の思想を「空観」と呼びます。「空観」とは、あらゆる事物(一切諸法)「空」であり、それぞれのものが固定的な実体を有しない、と観ずる思想のことです。この思想は、すでに原始仏教において説かれていましたが、大乗仏教の初期の『般若経』ではそれをさらに発展させ、大乗仏教の基本的教説としました。その後この「空観」を哲学的・理論的に基礎付け、大乗仏教の思想を確固たるものにしたのがナーガールジュナです。ナーガールジュナはこのため仏教史においてひときわ重要であり、わが国では、「八宗の祖師」と仰がれているほどの存在なのです(3) 。
先に述べたように、「空」は驚くほど多様な意味をもち、さまざまな理解や解釈がなされてきました。この決して一義ではない「空」の概念について、まず仏教史、とくに大乗仏教誕生以降の仏教にフォーカスして俯瞰します。お聞きするのは、正木晃氏です。
仏教の開祖ゴータマ・ブッダの教えを、伝統的かつ革新的に受け継いだのがナーガールジュナです。伝統的というのは、ナーガールジュナもブッダ同様に善なるものを探し求めて、論理と法の地で活動し続たという意味です。革新的というのは、その実践の順序がブッダとは逆で、まず論理と法の地で活動し
たうえで、その後に善なるものへと向かったという意味です(4) 。どんなに優れた見解でも、押し付けられるならば、それは苦しみです。ブッダの法すらも見解の一つとみて、そこから離れることを可能にするのが「空性」です。例外なく、あらゆる見解から離れるのです。「空性」それ自体は見解ではありません。(5)「空」は、理論ではなく論理です。であるならば、「空」は一種の形式に過ぎません。こう言いい切るのは、札幌大谷大学特任教授で、インド哲学とナーガールジュナの思想を研究する石飛道子氏です。「空」が形式であるということは、簡単に言えば、「中身は空っぽ」ということです。「空」は「空っぽ」という意味のとおり、人々を圧迫したり威圧したりすることはありません。「空」は、決して人々に苦痛をもたらすことはないのです。この「中身は空っぽ」という意味について、石飛氏に改めてお聞きします。
仏教学および仏教神話学を研究される彌永信美氏は、『事典 哲学の木』の「空」の項目において、それは一切の言語的表現や思念を超えた超越、あるいは絶対の「別名」であると言います。また、「空」や「無」は、そのような「存在/非在」の対立を「空に帰した」ところで現れる超―存在論的境地を表現するものであり、言語表現や思考が希薄になって、ほとんどの概念が使用不可能になっていく、そのような次元に残った数少ない表現の一つが「空」であり「無」であるということができる、とも言います(6) 。
「空」とは、まさに実体がない、正真正銘の「空っぽ」のことであり、言語表現を超えた先にあるような、もはや比喩ですらない何か、あえて言うならば語り得ぬもの。その語り得ぬものについて、彌永信美氏にお話しいただきます。(佐藤真)
(1)立川武蔵『空の構造:「中論」の論理』(講談社学術文庫 2024)p13-16
(2)正木晃『「空」論』:空から読み解く仏教(春秋社 2019)p1-3
(3)中村元『龍樹』(講談社学術文庫 2002)p5
(4)石飛道子『龍樹:あるように見えても「空」という(構築された仏教思想)』(佼成出版社 2010)p2-5
(5)石飛道子『龍樹:あるように見えても「空」という(構築された仏教思想)』(佼成出版社 2010)p96-97
(6)彌永信美「空」『事典 哲学の木』所収(講談社 2002)p273-276
◎ナーガールジュナと空
新装版 龍樹(ナーガールジュナ):空の論理と菩薩の道 瓜生津隆真 大法輪閣 2023
疾駆する馬上の龍樹:空という理と思考の理 槻木裕 法蔵館 2023
龍樹『根本中頌』を読む 桂紹隆、五島清隆 春秋社 2016
ブッダと龍樹の論理学:縁起と中道 石飛道子 サンガ文庫 2012
龍樹の仏教:十住毘婆沙論 細川巌 ちくま学芸文庫 2011
龍樹:あるように見えても「空」という(構築された仏教思想) 石飛道子 佼成出版社 2010
龍樹と、語れ!:『方便心論』の言語戦略 石飛道子 大法輪閣 2009
龍樹造「方便心論」の研究 石飛道子 山喜房佛書林 2006
大乗仏典 14:龍樹論集 梶山雄一、瓜生津隆真訳 中公文庫 2004
龍樹 中村元 講談社学術文庫 2002
増補新版 龍樹・親鸞ノート 三枝充悳 法蔵館 1997
竜樹:仏法流布の勇者たち 3 田丸ようすけ 第三文明社DBコミックス 1990
ナーガールジュナ研究 瓜生津隆真 春秋社 1985
中論:縁起・空・中の思想 上中下 三枝充悳 第三文明社レグルス文庫 1984
佛陀と龍樹(ヤスパース選集5) K・ヤスパース 峰島旭雄訳 理想社 1960
◎空の思想
空の構造:「中論」の論理 立川武蔵 講談社学術文庫 2024
「空」論:空から読み解く仏教 正木晃 春秋社 2019
スタディーズ 空(Studies Buddhism) 梶山雄一 春秋社 2018
「空」の発見:ブッダと龍樹の仏教対話術を支える論理 石飛道子 サンガ文庫 2018
空の実践:ブッディスト・セオロジー IV 立川武蔵 講談社選書メチエ 2007
空の世界:龍樹から親鸞へ 山口益 大法輪閣 2006
空の思想史:原始仏教から日本近代へ 立川武蔵 講談社学術文庫 2003
新装版 空入門 梶山雄一 春秋社 2003
仏教思想 3:空の論理〈中観〉 梶山雄一、上山春平 角川文庫ソフィア 1997
空の論理:大乗仏教 III 中村元 春秋社 1994
大乗起信論 宇井伯寿、高橋直道訳注 岩波文庫 1994
西谷啓治著作集 第10巻:宗教とは何か 西谷啓治 創文社 1987
◎空と中観思想
般若思想史 ワイド版 山口益 法蔵館 1999
中観思想の展開: Bhāvaviveka研究 江島恵教 春秋社 1980
中観と唯識 長尾雅人 岩波書店 1978
空性思想の研究:入中論の解読 小川一乗 文栄堂 1976
中道の倫理的価値 猿渡貞男 啓林館 1975
空観と唯識観:その原理と発展 田中順照 永田文昌堂 1968
中観思想の研究 安井広済 法蔵館 1961
◎空の周辺
縁起の思想 三枝充悳 法蔵館文庫 2024
死と生の仏教哲学:親鸞と空海を読む 立川武蔵 角川選書 2023
「ほとけ」論:仏の変容から読み解く仏教 正木晃 春秋社 2021
仏教論争:「縁起」から本質を問う 宮崎哲弥 ちくま新書 2018
入門 哲学としての仏教 竹村牧男 講談社現代新書 2009
幻想の東洋:オリエンタリズムの系譜 上下 彌永信美 ちくま学芸文庫 2005
日本仏教史:思想史としてのアプローチ 末木文美士 新潮文庫 1996
空と無我:仏教の言語観 定方晟 講談社現代新書 1990
縁起と空:如来蔵思想批判 松本史朗 大蔵出版 1989
歴史という牢獄:ものたちの空間へ 彌永信美 青土社 1988