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談 no.62 WEB版
 
パフォーマティヴィティの言語へ
 
Translated : Andrew Dewar
  photo:鈴木理策
   
   
 
20世紀言語学からみたパフォーマティヴィティ……言語使用と身体

加賀野井秀一 Syuichi Kaganoi

20世紀に入って、言語学についての非常に多くの新理論が確立されてきた。その中で、パフォーマティヴィティは言語の創造性を解明するための第一歩でもある。20世紀言語学の流れを俯瞰し、パフォーマティヴィティというものを考えていくことで、単に言語の学問というだけではなく、言語を含む表象、関連領域とのさまざまな結び付きが明らかになる。
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Since the beginning of 20th century, a large number of new linguistic theories have been created. Among these, the first step in understanding creativity in language is the theory of performativity. When making a bird's eye view of 20th century linguistics, performativity allows the scholar to see not just the field of linguistics, but connections to verbal and non-verbal expression, and many other related fields.

かがのい・しゅういち
1950年高知県生まれ。
中央大学大学院、パリ第8大学大学院卒業。現在、中央大学理工学部教授。著書に、『日本語の復権』講談社現代新書、1999、『20世紀言語学入門』講談社現代新書、1995、『メルロ=ポンティと言語』世界書院、1988、訳書に、『海』ミシュレ、藤原書店、1994、『極限への航海』ルピション、岩波書店、1990、他がある。

 

言語は変わるから言語なのだ……イデオロギーとの拮抗

田中克彦 Kathuhiko Tanaka
「言語においては、いかなる変化も正しいとされたためしがなく、すべてが < 乱れ > として糾弾される」にもかかわらず、ことばは変わらなかったことはなく、また人間はことばを変えようとすらする。言語がその本来の意味において変化するエネルギーであると認識する時、それと激しく拮抗する国家、イデオロギーの存在を改めて思い知らされる。しかし、それは言語自身に内在する矛盾性でもあるのだ。エスペラント語、ソビエト言語学を批判的に検討することから、言語による言語からの「解放」のベクトルを探る。
 
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"In language, there has been no attempt to accept change, and all change has been condemned as 'disorder'" In spite of this, language has not stopped changing, and people continue even to try to change it. If looked at from the point of view that language contains the power to change, it becomes clear why so many nations and ideologies have so strongly resisted that change.
However, this is the contradiction within language itself. By making a critical examination of Esperanto and Soviet linguistics, the author searches for a linguistic release from language.

たなか・かつひこ
一橋大学大学院社会学研究科修了。現在、一橋大学名誉教授。著書に、『名前と人間』岩波新書、1996、『言語学とは何か』岩波新書、1993、『ことばのエコロジー』農文協、1993、『国家語をこえて』筑摩書房、1993、『言語からみた民族と国家』岩波同時代ライブラリー、1991、他がある。

 

自由の言語学……なぜ私はウソをつくのか

浜田寿美男 Sumio Hamada
人間の行動について、心理学はそれを可能にする能力や特性を軸に理論化した。それはいわば人間の「力のメカニズム」への還元であり、言語使用やコミュニケーションについても同様な力学が働いていると浜田寿美男氏は言う。それに対して、意味世界を生成していく身体および他者との関係からもう一度、言語、そして人間の行動を解きほぐしていけるのではないかと言う。「虚偽の自白がどのように生まれるか」という供述分析に着目し、そのプロセスから言語、心理、発達、身体の関係を
考える。
 
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Psychology has built up theories around the abilities and characteristics that make human activity possible. These might be said to be concentrated representations of the "mechanics of power" in humans. Sumio Hamada suggests that these same forces are at work in language use and communication.
Through this, he says, it should be possible to reinterpret human behavior in light of our bodies and our interactions with others, which create the world of meaning.He analyses the means by which we create falsehoods about ourselves, and examines this process relation to language, psychology, development, and the body.

はまだ・すみお
1947年香川県小豆島生まれ。
京都大学大学院文学研究科(心理学)博士課程単位取得退学。現在、花園大学社会福祉学部教授。著書に、『私のなかの他者』金子書房、1998、『ありのままを生きる』岩波書店、1997、『発達心理学再考のための序説』ミネルヴァ書房、1993、『自白の研究』三一書房、1992、他がある。

 

神の言葉の言語学……宗教の言語はなぜ人をうつのか

落合仁司 Hitoshi Ochiai
「宗教それ自体の魅力は、< 神 > が多一的であったり、絶対的超越的であったりする、その普遍性あるいは必然性にあると言うよりも、むしろ < 神 > が人となったり、人が < 神 > となったりする、その可能性にある。宗教とは、この世界の他者がこの世界に内在し、この世界の自己がこの世界に超越する、その可能性を信ずることなのである。」落合仁司氏は、ほとんどの宗教が < 神 > を無限とする時、無限を論理の対象としたカントールの集合論によって < 神 > を証明しようとする。 < 神 > と数学、そしてそれと深く関わる論理体系=言語の問題に引き寄せて、人が宗教に求めてきた意味を考える。
 
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"The attraction of religion itself lies not so much in the unchanging or inevitable aspects of God being plural and singular at the same time, or absolute andall-powerful, but rather in the possibility of God becoming man, or of man becoming God. Religion is the belief that a being not of this world can still be in it, and
that this being can be above our world at the same time."
According to Hitoshi Ochiai, when most religions make their "God" unlimited, they prove the existence of that "God" through (Kantor) set theory, which is relatesto the theory of infinity. This paper ponders the meaning people have looked for in religion, in light of "God" and mathematics, and the theory of language which is
deeply connected with these.

おちあい・ひとし 1953年東京生まれ。
東京大学卒業。現在、同志社大学教授。著書に、『 < 神 > の証明』講談社現代新書、1998、『地中海の無限者』勁草書房、1995、『トマス・アクィナスの言語ゲーム』勁草書房、1991、『保守主義の社会理論』勁草書房、1987、がある。

 

「初速と暗号、マルチメディアとしてのデリダ

東 浩紀 Hiroki Azuma
これまで深く論じられることの少なかったデリダの第二期に当たる70年代後期から80年代前期の仕事に対して、画期的な読解を試みたのが東浩紀氏である。東氏は、テクストの単なる実践的な戯れとして評価の定まらなかった第二期のデリダこそ、90年代に露になる地殻変動の先取りであったことを明らかにした。それは、記号、表象を支える新たなエピステーメーの組み替えの到来を予兆するものとなった。存在論的不安、郵便的不安という二本の線分が交錯する現代という時代を読み
解き、今また暗号的不安の時代の始まりを示唆する。デリダのパフォーマティヴィティを切り口にして、現代における記号、表象の意味を探る。
 
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Hiroki Azuma makes an energetic examination of the work Derrida did during his second period, between the late seventies and the early eighties, a period relatively little studied so far. Azuma shows that it is precisely this period of Derrida's, in which the playful aspects of his texts have kept them from being given fixed evaluations, that led to the great changes in the 90s. It became an omen of the arrival of new epistemes of signs and symbols.
Azuma explains how our present age is divided into ontological uneasiness and postal uneasiness, and shows that we are entering a new age of cryptical uneasiness. Modern signs and symbols are examined in light of Derrida's idea of performativity.

あずま・ひろき
1971年東京都生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科修了(学術博士)。現在、日本学術振興会特別研究員。著書に、『郵便的不安たち』朝日新聞社、1999、『存在論的、郵便的』新潮社、1998、がある。

 

editor's note[before]


パフォーマティヴィティとは何か


パフォーマティヴとは、ジョン・ラングショー・オースティンという言語学者が出した概念で、日本では「行為逐行的」と翻訳されている。言語がもつ役割は、ものごとの状態や事実を記述するだけではない。その言語を発したことによって、発話者自身がある行為を行っていることがある。オースティンは、そうした発話が行為の遂行を果たしている場合があることを明らかにしようとした。たとえば、「きみの後ろにクルマが来てるよ」という発話は、道路を歩いている人間の背後をクルマが走っている状態を記述しているように見える。しかし、ある場面においては、それは「危ない! ひかれるゾ!」という警告でもある。また、「明日会おうね」という発話は、「明日私はあなたと会うことを約束する」ということを考えている私の心の状態を記述しているのではなくて、発話することによって「約束する」という行為自体を逐行しているのである。オースティンは、このように約束や、警告、宣言などの文の機能が、記述を第一の目的としているのではなく、むしろある行為の逐行にあることを、コンスタティヴ(事実確認的)に対してパフォーマティヴと呼んだ。言語学の分野で、ふだん使用されている言語を分析する日常言語学派の一人として目覚ましい業績を遺したオースティンのその中心的概念である「パフォーマティヴ」を手掛かりとして、今号では人間と言葉の関わりを考えてみたい。

高まる言葉への関心

大野晋氏の『日本語練習帳』(岩波新書)が売れているという。7月21日付けの広告には、110万部突破と記されていた。これは新書としては驚異的な数字だ。大野晋氏といえば、日本語が南インドの古タミル語を起源とするという仮説を提起して言語と文明の系統関係に大胆に切り込んでいった国語学者である。大論争を巻き起こしたこの仮説の実証的裏付けを続ける一方で、大野氏は、「ハ」と「ガ」や敬語の使用方法などを通して日本語の文法についても研究を続けてこられた。その成果を活かしながら、言葉の技術の習得と、私たち自身がその技術をどのくらい使いこなしているかを、練習問題集の体裁で書かれたのが『日本語練習帳』である。いわば日本語を使用する人のためのトレーニングブックといったところだ。今、書店に出向くと、『日本語練習帳』がうず高く平積みされている光景を目にすることだろう。そして、その周囲には、同様に日本語関係や言葉を扱った本が並べられているはずである。日本語をテーマにして類書を集めたブックフェアが盛んに行われている。『日本語練習帳』が一つの引き金になったのだろうが、日本語や言葉に対する関心が高まっていることはまちがいないようだ。言葉や日本語の具体的な使われ方が問題になることも少なくない。たとえば、現在(99年7月31日)審議が行われている「国旗・国歌」法案に関連して、「君が代」の「君」が誰を表しているかということで議論伯仲した。また、通信傍受法(通称盗聴法)の対象が通信である場合、電子メールなどのデータ通信もその対象になるわけだが、そうであれば傍受という表現は適切かどうか、法案の言葉をめぐって議論は尽きない。そもそも法律の審議は、表現の解釈とその運用をめぐる議論である場合が多い。法律と言葉の関係は根深い。新聞やTV報道には、そうした本質的な問題へ切り込んだものもあった。法案を日本語や言葉の問題として捉え直し、現行の法律制度の限界を示唆しているのである。年末の「流行語大賞」の発表やら、「今年のキーワードは◯◯」といったように、言葉によって現代を表現することが一種の国民的行事になっている。また、「ムカつく」「キレる」の若者ことば、駅のホームのアナウンスを代表する騒音公害、まちの至るところで目にする標語の氾濫、さらにはマニュアル語や差別語の問題と、社会との関わりで言葉を問われることも多くなった。例に出したような言葉や情報の過剰なまでの氾濫、いわば言語のインフレーションが問題になる一方で、日本人のお父さんたちにみられるような一語文、一音文、いわゆる「メシ・フロ・ネル」に「オイ」「オー」「アー」といった言葉や情報の極端な萎縮、デフレーションも無視できない問題だ。この傾向は、今や大学生からローティーンにまで広がっているという。こうしたことが話題になるのは、ひとえに私たち日本人が、日本語や言葉の使用に関してかつてより敏感になっているからだろう。しかし、このことは同時に、それとは裏腹な現象をも暗示している。つまり日本語そのものが、私たちの間で変わり始めているその兆候だと見ることもできるからだ。

理論より現場への関心

こうした傾向が日本特有の問題かどうかはわからないが、ここで気がつくことは、その関心の向かい方である。言葉に対する関心は以前からあった。あとで述べるように、ある一時期言語学が一種のブームを巻き起こしたことがあった。しかしながら、今関心がもたれているのはそうした「言語」という大きな枠組みではない。実際に使用される場面やその効果あるいはスキルといったレベルでである。言語構造、言語システムといった理論的な関心よりも、ここで例に出したような、今私たちが使っている言葉そのものに対する興味である。そしてどうやらそうした傾向は、人間に関する学問分野においても顕著になりつつあるようだ。日本語や言葉の使用は、今では、人文科学や社会学といった個別の分野においても重要な関心事になってきているのである。70年代、80年代、いわゆる現代思想という領域では、言語に関する議論が盛んであった。現代思想という問題領域そのものが言語学のフィールドとピッタリと重なり合っていた時期さえあった。やがて言語学から記号学へとさらにフィールドを広げていく中で、現代思想と言語の結び付きはますます強く深くなっていった。ところが、今やそうした現代思想と「言語」の緊張関係は薄れつつある。繰り返すまでもなく、今問われているのは言葉の具体的な使われ方であり、その効果や結果である。言語の体系やパラダイムがどうしたというような議論を聞くことは、少なくとも思想や哲学の分野では少なくなってしまった。言語から言葉へ。そしてさらに日本語へ。この変化の背後に何があるのだろうか。私たちは、今一度70年代、80年代の思想状況を振り返ってみる必要がある。

人間諸科学と言語のモデル

80年代初頭、「ニューアカデミズム」を生む引き金となった浅田彰著『構造と力』のサブタイトルには、「記号論を超えて」と記されていた。ここで言われている構造とは、言うまでもなく構造主義の構造であると同時にポスト構造主義の構造であり、記号論とは言語を範としながらも、それを大幅に拡張した理論であった。構造主義とポスト構造主義、この考え方のモデルになったのが、言語の構造、体系である。よく知られているように、構造主義は、人類学者であるレヴィ=ストロースが言語学者であるロマン・ヤコブソンとの出会いによって誕生した。レヴィ=ストロースは、自らの研究課題である親族の関係を調査している時に、ヤコブソンの一般音法則の研究を知り、この考え方を全面的に取り入れて、『親族の基本構造』という著作を書き上げた。それまでさまざまな文化に発見されながら、その理由が解けないでいた近親相姦の禁忌を、婚姻規則との関係において、言語の構造論をヒントにして解き明かしたのである。レヴィ=ストロースはこの考えをさらに進めて、やはりあらゆる文化に散見される神話体系についても、同様に言語をモデルに解明した。この一連のレヴィ=ストロースの人類学上の研究成果をもって、構造主義は誕生としたといわれている。時を同じくして、ジャック・ラカンがソシュール以降の言語学を導入し、あまりにも有名な「無意識は一つの言語のように構造化されている」という言葉に象徴されるような、精神分析の構造主義化を推し進めた。また、ミッシェル・フーコーは、歴史と社会の分析を言語体系と表象空間の関連から行い、ルイ・アルチュセールはマルクス主義を、ロラン・バルトは文学を、ジャック・デリダは哲学を言語とのつながりにおいて探究していった。ジル・ドゥルーズも言語構造に備わったダイナミズムに着目し、独自の力の思想をつくり出した。もとより、彼らだけではなく人文科学の分野で数多くの研究者が構造主義の傘の下でさまざまな成果を上げていったが、彼らの思考の基礎にあったのは、常に言語のしくみであり体系であった。いわゆる68年前後にフランスを中心に沸騰した構造主義という新しい知のしくみは、文字どおり言語における構造、体系をもとに組み立てられたものであった。では構造主義とポスト構造主義とでは、何が違っていたのか。そして記号論とはどう結び付いていたのか。浅田彰氏に従えば、記号論は乗り超える対象でなければならなかった。だとすれば、構造主義、ポスト構造主義と記号論とはどこが異なっていたのか。

ポスト構造主義の登場と言語観の変容

実のところ構造主義とポスト構造主義の違いを説明するには限られた紙面では無理であるし、そのことに多くのページを割いている研究書もあるのでそちらをお読みいただきたいが、あえて述べるとすれば、構造という言葉の解釈にその混乱が生まれた原因があったように筆者は考えている。以前から何度か指摘しているように、構造言語学における構造という概念は、structure というよりは system に近い。structure というと建築の構造設計を思わせるように、柱やパネルによって構築された構造体を想像させる。しかし、言語における構造は、たとえば将棋やチェスのルールのようなもので、物理的な構築物といったニュアンスはない。むしろ、目に見えないがその制度を厳しく律しているものである。要素はリジッドで固定的なものであっても(それさえも厳密にはそう言い切れないのだが、この議論はインタビューの随所に登場するのでそちらを参照していただきたい)、その相互関係によって容易に変わりうるものであり、静態的ではなく動態的であり、部分的ではなく全体的なもの、そういうシステムが言語における構造である。制度という面から見れば、確かに不動であり強固なしくみをもっているが、ルールである以上必要があればどんどん組み変えていいものである。現に、スポーツのルールは構成員や場所や条件によって、さまざまに変わりうるものであることは私たちがよく知っているはずだ。そうしたことを前提にして、構造主義とポスト構造主義の関係をとりあえず次のように形式的に捉えることはできるだろう。構造を強調しすぎたがために(たとえば、実存主義への批判、マルクス主義史観への批判を通して)構造の制度面が露骨に前景化したものが構造主義である。逆に構造自らがもつ変換可能性の方を強調し、力動性を極端に前景化したものがポスト構造主義である。両者は、もともと連続したものなのである。では、記号論はどうか。ソシュールは、「言語学はやがて記号学の一部門になるだろう」と予告した。ところが、全く逆に、記号学こそが言語学の一部門と宣言したのがバルトであった。記号が先か、言語が先か、記号が言語に含まれる? 言語が記号に含まれる? こうした議論は、実は当時から繰り返し議論されていたことだ。さらに記号学と記号論を明確に分けて論じるべきであるという主張も出された。言語学と記号学、記号論との関係についても、一筋縄ではいかない複雑な関係にある。しし、ここでもあえて単純化すれば(そういう暴挙を許していただければ)、構造主義に全面的に従いながら、人間の思考、行動様式いっさいを記号作用のもとに再編成しようとしたのが記号学であり、その応用面、産出面を意味との関係を下敷きに深化させたのが記号論であり、その全体像の基礎づけにくみしたのが言語学であった。少なくとも、筆者はそう理解している。記号学、記号論共に、80年代後半にその関心はピークに達した。言語学は、言語学という固有の領域とは別に、今述べたような理由で思想や哲学といった現代思想との関わりの中で発展していった。人間の追及においてその関連する諸科学は、皆何らかの理由で言語と関わらざるをえなかったのである。逆に言えば、言語のしくみが解明されることによって、人間の思考や行動様式がある程度理解可能になるのではないかという強い期待感が人文科学側にはあったということだ。しかし、そうした期待感はその後急速に薄れていった。それはなぜだろうか。その疑問を解く鍵こそが、実は昨今の言語の使用面への関心にあるのではないだろうか。言語の理論や構造に対する関心から、言葉が話されている現場や話しているということに人々の関心が移行してきているのである。すなわちそれこそが言語学に対して人々がもつ関心が失われてきたという理由ではないかと考えられる。つまり、こういうことだ。私たちは言葉のしくみを知る前にすでに言葉を話している。人間にとって言葉がどの段階で獲得されるのか、これも言語学の尽きない大テーマである。だが何よりも、現にこうして話したり、話しを聞いたりすることができるということが不思議だ。現実に言葉を使用していることが、最も大きなナゾとして私たちの前に立ちはだかっているということに、改めて私たち自身が気づいたのである。私たちは、話をし、聞き、ある場合は文字によって言葉を伝え、文字を通してさまざまな事柄を知る。言葉の使用場面をさまざまに変えながら、何がしか言葉を操っている。言葉が使用されているその時、言葉はどのような意味をもっているのだろうか。そして操っているのであれば、私の何が操っているのか。それは私自身なのか。構造主義は確かに言語と人間科学を結び付ける役割を果たし、一定程度の成果を得ることができた。しかし、それはあくまでも言語を媒介にして人間に迫ることであった。人間は無意識という言語に操られている。しかし、私が知りたいのは、無意識そのものの方ではなかったか。なぜ言葉を私が使用してしまうのか。何よりもまず私が話す時に、なぜ日本語でなければならないのか。私が今話をしている、話を聞いているもの、その言葉のしくみこそが私が今知りたいことである。言葉を通して言葉に問いかけることとはそもそもどういう事態をいうのか。言語の理論面からの追及に代わって、言葉の使用へと人々の関心がシフトしてきた背景にあるのは、言葉の意味への傾斜ではないか。学問としての「意味論」だけへの関心というだけではなく、意味が生まれてくる場所としての、私の身体、私の発する言葉への関心。著しいメディア環境の変化を経て、人々はますます強くそうした言葉の意味に憑かれているように思われる。

メディアの変容、再び問われる言葉というナゾ

私たちは、オースティンのパフォーマティヴという概念を一つの道具にして、それを手掛かりに言葉について考えていこうと思う。まず、最初に今世紀の言語学の動向を俯瞰する。ソシュールの打ち出した言語理論は、言語学のその後の方向性を決定してしまった。ソシュール革命といっても過 言ではない地殻変動。言語における構造の発見は、今世紀の言語観を根底から書き換えてしまったのだ。20世紀の言語学とはなんであったのか。そしてそこから出てきた構造主義の思想を改めて捉え直し、言語学と人間諸科学との関連性を考察する。お聞きするのは、言語学と哲学を専攻されている中央大学助教授加賀野井秀一氏。次に、言語は変化するという立場に立って、言語が変わりうる可能性を考えてみたい。言語学をリードしてきた構造言語学。しかし、それは一面で言語の大きな特徴である変化という現象に対して歪めた見方を定着させてしまったという。20世紀言語学の陥穽を、言語学の内部に探ってみたいと思う。忘却されて久しいソビエト言語学、エスペラント語を手掛かりに、一橋大学名誉教授の田中克彦氏にお聞きする。意味の生成と言語はどのような関連性をもちうるのだろうか。冤罪に関わりながら、供述分析を通して虚偽の自白が生まれるプロセスを探るという注目すべき研究を行っているのが花園大学教授の浜田寿美男氏だ。ウソをつかせてしまう心理状態とはどういうものか、言葉の使用が自らを加害者に仕立て上げてしまう過程を探り、自白の構造に迫る。加えて、心理学の限界についても考察していただく。四番目は視点を少し変えて、言葉と信仰の関係を考えてみたい。宗教の魅力は、神・他者の内在と自己の超越にある。この一見非論理的に見える二つの展開が、実は合理的かつ論理的構造によって保証されていて、それこそが宗教の魅力であると喝破したのは、同志社大学教授の落合仁司氏である。しかも落合氏は、それを最も論理的な言語である数学によって証明してしまった。人々はなぜ宗教に引き寄せられるのか、言葉の使用との関係から考察する。オースティンのパフォーマティヴの考え方を批判することにより、逆説的にパフォーマティヴィティの可能性を示唆したデリダ。日本学術振興会特別研究員の東浩紀氏は、デリダ思想を徹底的に掘り下げて、全く新しいデリダ像を描き出した。東氏に従えば、最も難解だと目されていた80年代のデリダのエクリチュールの実践は、エピステーメの変革期の到来を予感させるメディア環境をいち早く先取りしたものであったという。言葉、そのパフォーマティヴィティへのシフトの背後にあるのは、メディア環境の地殻変動ではないか。今日の、言葉、電子メディア、エピステーメの関係について分析してもらう。

五人のインタビューを通して、私たちはまさに今使用される言葉のありように迫ってみたい。20世紀に入って、言語学についての非常に多くの新理論が確立されてきた。その中で、パフォーマティヴィティは言語の創造性を解明するための第一歩でもある。20世紀言語学の流れを俯瞰し、パフォーマティヴィティというものを考えていくことで、単に言語の学問というだけではなく、言語を含む表象、関連領域とのさまざまな結び付きが明らかになる。


 

editor's note[after]


エクリチュール再考

言葉と社会がどう結び付いているかという研究は、言語学では長い間未開拓であったという。それが、急速に関心を高めてきたのは、言語学が60年代以後隣接諸科学との関わりを積極的に進めてきたからである。今では、言語と社会の関わりを探る社会言語学は一つの分野を確立するまでに発達しているし、人文科学の側においても言葉は社会的な現象として重要視されている。言葉が社会にどう影響を与えるのか。すでに言語学では、この問題に関しては一つの結論をもっている。よく知られているようにサピア=ウォーフの仮説がそれで、外界の認識は言葉によって条件づけられるとした。「言葉先にありき」というわけだ。もっともこの逆の関係、すなわち「社会先にありき」の事例がないわけではなく、今日では、サピア=ウォーフの仮説は一つの可能性として捉えるべきだとする見方が強い。いずれにせよ、言葉の使用は、私たちの社会環境と深いつながりをもっていることだけは確かだ。言葉およびその使われ方を掘り下げることによって、私たちは言葉と社会の目に見えない関係を発見することができるのかもしれない。

言語使用と身体

言語学が人文科学を牽引した時代。20世紀は、言語学が大きな影響力をもって「知」の全体を主導した世紀であった。なかでも70年代、80年代は、構造主義の登場により言語が、「知」の組み替えそのものにコミットしたきわめて稀な時代であった。ソシュールは、近代言語学の父であると同時に、現代思想の重要人物の一人でもあった。加賀野井秀一氏が言うように、「思考が言語に牛耳られる」、当時の状況はまさにそういう雰囲気を醸し出していたのだ。20世紀はその意味で言語学の世紀であったことはまちがいない。だが、その影響圏域を詳細に見てみると、言語学と一言で括りきれない多様で複雑な絡み合いが起こっていたことがわかる。言語学、記号学、記号論といった言語を核に広がる領域同士の関係もそうだが、当の言語学内部においても、さまざまな動きや流れがあった。たとえば構造主義言語学といった場合でも、ヨーロッパのそれとは別にアメリカ発のものもあり、構造それ自体の捉え方も大きく違っていた。当時言語学の専門家の間でさえ、混乱があったようだ。ましてや構造主義という言葉を知っている程度の一般知識では、当時の状況を正確に把握することは容易ではないだろう。加賀野井氏の見方に従って、もう一度20世紀の言語学と知の関係を整理してみよう。一般的にソシュールは、近代言語学の父と言われるが、ソシュール以前にも近代言語学にとって重要な役割を果たした言語学者はいた。そうしたソシュール前史を視野に入れたうえで、ソシュールの業績を位置づけ直す。つまり、ソシュールを言語学史の中でいったん相対化させてみる。そうすることによって、言語と構造の関係がより明らかになってくるだろう。言語においては、まず体系的な把握が必要だった。体系を把握することは、当然それを成り立たせる要素に注目することになる。全体を構成する体系の把握は構造主義に行き着いた。また、それを支える要素および要素間の差異へのこだわりは記号論を生み出した。一方は巨視的に、他方は微視的にという方向性こそ逆向きであるが、その関係はコインの裏表のように深いつながりをもっていた。両者にとって、ネックとなるのは意味の問題だ。意味を捨象して完全に構造のシステマティックな側面だけに的を絞っていったのがアメリカの構造主義言語学であった。その延長上に言語機能としての文法の研究が生まれ、チョムスキーの変形生成文法理論を経て、認知科学へと発展する。人工知能、コンピュータサイエンスと言語学の結合は、アメリカでは必然的な流れであった。その過程で改めて意味の問題が浮上してきた。言語と意味論が再び結び付いたのである。ヨーロッパの構造主義や記号論においても、意味の問題は無視できなくなってくる。ラングからパロールの言語学へ展開することは、言語の創造性が問われてくるからだ。言語構造と意味の関連が注目されるようになる。言語学は、言語行為論へ、記号論は意味生成論へと発展する。パフォーマティヴィティはそうした言語・記号の生成、創造という観点から出てきた考え方であった。パフォーマティヴィティの視点を導入することは、コミュニケーションにおける意味の生成、意味の生産へと目を向けることになる。加賀野井氏は、そこで「言語的身振り」ということを提起する。つまり言語を身体との関係性から捉え直そうというものだ。そこでは知覚と言語の関わりが問題となる。一方、言語を身体の表現としてみると「場」が問われる。「場」とは、言語使用の各々の場面のことである。私たちにとっては、それは日本語を話す「私の身体」ということになる。日々話し、聞く、日常の言語行為の場。日本語を操る私の身体、それは日本的身体と呼べるような場だ。私はいつから日本語を話すようになったのか。気がついた時には、私はすでに日本語を話していた。そしていつのまにか日本的な慣習を身に付け、日本人らしい振る舞いをしていた。すなわち日本人になっていたのだ。日本人になったのは、日本語を話すからか。サピア=ウォーフが説くように、日本語という言語を使用することによって、私は日本的身体を獲得したのだろうか。日本語の特徴として主語がないことが指摘される。その結果日本語はあいまいになり、思考方法もあいまいさを含んだものとなる。言語がものの見方を決めるという立場からはそう結論づけられる。しかし、本当にそう言い切れるのだろうか。加賀野井氏は疑問を投げかける。そうした言い方がいかに紋切り型であるか、日本語を日々使用している立場でもう一度検討しようというのである。日本語のあいまいさという常識は、十分に疑っていい議論である。社会言語学の立場から、私たちは改めて日本語と日本人の関係を考察してみる必要があるだろう。
加賀野井氏は最近『日本語の復権』を上梓した。ここでの主題はまさにその日本語だ。日本語の特質を日本文化に還元させて安心する安直な日本文化論を厳しく批判している。パフォーマティヴィティをもとにした社会言語学の一つの成果が誕生したといえるだろう。

自律の変化か混交による変化か

言語使用者の意識は、「無意識の意識」である。ソシュールは話し手の意識をそのように考えた。意図のない受動的な心的反応系としての言語行為。したがって、言語における変化は意図をよそに生じる。ソシュールの共時言語学はこうした考えから生まれ、言語の構造(ラング)が重要視され、構造主義言語学が確立されていった。田中克彦氏によれば、それは言語を科学として捉えようとする強い社会的な要請によるものだったという。当時の言語学者の中には、言語学が人間科学の中で最も科学的であると考える者もいた。青年文法学派はそう主張し、言語をいわば機械にみたてて、その変化は規則正しく起こると考えた。生物とは、自律した有機体である。生き物の科学である生物学にとって、こうした自律するマシンとしての生物は大いなるナゾであると共に、究明すべき対象でもあった。言語も例外ではなかった。言語の変化がどうして起こるのか。それ自体の内部で内的変化を起こす言語とは、まさしく生き物そのものである。言語学は、19世紀の知識人にとっては、生物学と同等のものであったのだ。生き物が変化する、その変化に注目したのが進化論であった。個体の変化は目にすることができる。しかし、種の変化を確認することはできない。この矛盾と格闘するところから進化という考え方が生まれた。言語も同じ運命をたどっていくことになる。個としての人間の言語の変化はつかまえられるが、言語全体の変化が何によって起こるのかを捉えることは困難だ。そこ で進化という考えが導入されるのだが、その原因を探ろうとすればやはり言語の内部に見いだすほかない。そこに登場するのが無意識という概念装置である。19世紀から20世紀にかけて言語の側から俯瞰してみると、精神分析の隆盛と進化論の発展期は、みごとにシンクロしあっていることがわかるだろう。いずれにせよ、その三者に共通するのは自然(内部)に隠された自律性を見ようとすることである。そうした自律性=自然性にその変化の要因をゆだねる見方に対して、社会的な視点をもち込んだのがソビエト言語学であった。ソビエト言語学は交差(スクレシチェーニエ)という概念を打ち出した。それは諸言語の混交によって変化が起こるという考え方で、今でいえばクレオール語の発想を思わせる斬新なものだ。田中氏は、ソビエト言語学の問題意識とエスペラント語の関わりに着目する。今ではほとんど注目されることのない(少なくとも社会主義国以外では)エスペラント語について、クレオール語的な視点からその可能性を導き出そうとするのである。また、変化こそ言語の重要な特徴であり、いったん言語の変化に注目すると、そこでは国家やイデオロギーが激しく拮抗していると指摘する。言語はその使用する文化と切り離しては考えられない強い結び付きをもっている。言葉とは、文化そのものであり、政治や民族という背景を切り離して論じることはできないのだ。

パフォーマティヴィティのメカニズム

浜田寿美男氏が注目する自白は、まぎれもなく権力構造の中からつくり出されるものである。浜田氏の専門は発達心理学である。これまでの心理学は、人間の内部を観察することが目的であるにもかかわらず、外部からそれを描写するという矛盾を抱えていた。とりわけ実験系の心理学では、観察対象をいわゆる刺激(心的)反応系として捉えたうえで、客観的な現象として記述するというのが基本的なフォーマットであった。心理の内奥へ踏み込んでいくという視点がもともと欠けていたのである。発達心理学では、さらに発達という条件が加わる。つまり、人間という生物体にとって発達 とは自明であり、それを妨げる要因があれば、その原因を突き止めて取り除いてやらなければならない。あくまでも発達=伸びるということを前提としたうえで、その心理状態を研究するのが発達心理学であった。浜田氏は、まずそうした心理学の基本姿勢に疑問を投げかける。心理学は、人間心理の内的過程こそ分析対象としなければならないのではないか。心理学とは人間の内部観測(松野孝一郎「記憶と内部観測」『談』no.58参照)なのだ。心理学への懐疑を抱きながら始めた供述分析は、さまざまな発見をもたらした。発達心理学の基本姿勢がまず問い直され、能力とは何かという大きな問題に突き当たる。そこから一つのヒントを得る。人間の諸行動は、単一個体(一人)に還元しえるものではなく、他者との間で織りなす生の物語として捉え返すことができないか。なぜありもしないウソを自白することができるのか。冤罪の研究を続ける中で、供述が一人の内的な力によって形成されるのではなく、ある場合には、複数の他者との相互関係から生み出されることがわかってきた。虚偽の供述は、個人のウソとは異なる特異な創造世界である。言葉によって構成されたもう一つの内的な世界で ありながら、共同作業によって築かれているという意味では外部に開かれた言語世界でもある。言葉の使用がコンテキストに依存するということを、供述は端的に示しているといえる。もう一つ、自白へと導かれる特殊な環境について浜田氏は指摘する。身柄が拘束され、留置場という状況の中で罵倒され続けるという体験がいかに特殊であるか、しかも無実であることを信じている場合においては、その心理的状態はいっそう複雑である。コンテキストと言語使用の関係は、場と身体の関係に置き換えられる。場に励起する言葉は、身体とコンテキストの絡み合いの中でつくり出される。
自白の研究によって、私たちはパフォーマティヴィティのメカニズムを考える有力な方法論を手に入れることができるかもしれない。


言葉の詩的機能と論理的機能

落合仁司氏へのインタビューは、一見パフォーマティヴィティと関係がなさそうに見えるかもしれない。ましてここで述べられているのは数学と宗教の関連性である。二つとも日常の言葉の世界とは確かにかけ離れた分野ではある。しかし、宗教とは、まず言葉から入るものではないだろうか。「アナタハカミヲシンジマスカ?」という呼びかけは、まさしく言葉によるものである。コーラン、お経は言葉なくして存在しないものであるし、第一、聖書には、「始めに言葉ありき」と記されてある。宗教とは、言葉そのものだといっても過言ではない。数学はどうか。実は数学も言語の一種である。落合氏が述べているように、言語における論理性を形式的に純化させたものが論理学であり、論理学とは数学に属するものである。数学はその基底部において論理学と集合論によって形づけられたものなのだ。落合氏の議論の要旨をまとめてみよう。宗教は二つの特徴をもっている。他者の内在と自己超越で、これは「一でありかつ多」であるということを示していて、無限を考えることである。無限というものを扱ってきた学問分野は数学で、なかでも集合論は最も有力な方法論である。宗教の構造と数学の基礎的な構造が同型であれば、宗教的命題を信ずるという信仰は、数学的心理を追及することと一致する。カントールの集合論によれば、無限集合とその部分集合は同一であるが、宗教の「神の本質と実存の同一」(他者の内在)とは同型である。また、部分集合とベキ集合の差異は、宗教の「神の活動と本質の差異」(自己超越)と同型である。したがって両者は全く同型であり、宗教の構造が数学の定理によって位置づけられたことを示す。宗教は非合理と決め付ける見方は退けられて、文字どおり宗教は合理的なものとなる。もっともカントールの無限集合そのものは公理であり、公理である以上それを認めない立場もある。ヒルベルトの立場はそれだが、ゲーデルの登場によってそれは選択の問題になってしまった。つまり、無限集合は認められるか否かということになり、これはただちに信仰の問題へ直結する。ここでも、宗教と数学は同一の構造になっているのだ。宗教がなぜ人を引きつけるのか。一言でそれを言うのは難しいが、落合氏によれば、宗教は数学的論理機能に加えて、詩的表出機能を併せもっているからであると いう。論理的なものを詩的に表現する。宗教の言葉の秘密はそこにあるのではないかというのが落合氏の意見だ。

エピステーメの変換

宗教の言葉は、別の言い方をすれば、パフォーマティヴかつコンスタティヴな言語である。それは、オースティン、サール、ポール・ド・マンを経て、脱構築された新たな言語行為の地平を指す。デリダの哲学は、このパフォーマティヴ/コンスタティヴな言語行為論に決定的な影響を与えた。デリダの哲学を、言葉とその使用という文脈の中に引き寄せて考えるとすれば、パフォーマティヴかつコンスタティヴであるという新たな言語の様態に触れざるをえない。これまでの議論は、ここで決定的な転換を遂げることになる。東浩紀氏は、第二期(70年代初頭から80年代半ば)のデリダに注目する。これまでこの時期のデリダの仕事は、戯れのエクリチュールなどと揶揄され、まともに論じられることが少なかった。確かに『葉書』にしろ『弔鐘』にしろ、一度でもそのページを開いた者であれば、それがあながち的外れな批判でもないことはわかるだろう。事実、『弔鐘』の新訳が連載という形で始まった第一回目で、翻訳者の鵜飼哲氏は訳者付記として次のように記している。「『Glas』を翻訳することある種の「狂気」の発作がなければ、このような決断が私に訪れることはなかっただろう。いくつもの言語で書かれた「原文」を単一とみなされているある「自然」言語に訳し入れること、それだけでほとんど、あらかじめ返済不可能な債務をみずから望んで背負い込むことに等しい」と。ではなぜそのようなテキストをデリダが書こうとしたのか。『存在論的、郵便的』という書物は、その徹底的な読解に当てられている。東氏のインタビューでは、彼自身が断っているように、それとは少し違った角度からその意味を掘り下げている。簡単に整理してみよう。
デリダは、すでにこの時期にポストモダンの到来を予感し、その新たな時代に向けた戦略の準備に取りかかっていた。モダンからポストモダンに変わることは、エピステーメが変換することを意味する。コミュニケーションの様態が大きく変わってしまうことだ。モダンの時代に通用していた記号、表象のシステムはいっさい機能不全に陥る。郵便局が機能しなくなり、郵便的・暗号的時代になるのだ。つまり、読者や観客は見えなくなり、見えない読者、見えない観客に向けて発信することになる。そうした郵便的・暗号的時代のコミュニケーションを想定したものとして、デリダのエクリチュールという概念は読み直さなければならない。書かれたもの、発話されたものという差異はすでに消滅し、エクリチュールは、図像、映像、音と一緒になった新たな記号表現となる。東氏に従えば、デリダのエクリチュール理論とその実践とは、現代の状況を正確に予見したうえで、まさに電子メディアの時代のコミュニケーションを想定して書かれたものだというのだ。見渡せばコンピュータ文化が浸透しインターネットが普及し、情報環境は確かに大きく変わってしまった。当然コミュニケーションの様態も変わらざるをえない。インターネット上では、e-mail、チャット、ICQが同時に行われている状況が進行している。もとより、電話やケータイ、ファックス、手紙も顕在だ。だからといってフェイス・トゥ・フェイスのオーラルなコミュニュケーションが少なくなったわけでもない。つまり、多種多様なコミュニケーションの場がすでに私たちの前には広がっているのである。

見えないパフォーマティヴィティ

これまでのコミュニケーションの様態と、では何が大きく異なるのだろうか。おそらく最も特徴的なことは、発話言語でもなく文字言語でもないような、いわば第三の言語とでもいうほかない言葉が誕生しつつあることであろう。デリダが指摘したように、パロールとエクリチュールはいまや完全に一体化しつつある。それは特に電子メディアでは顕著だ。キーボードに向かって文字を打つことと、話すことは分離できないほど接近したものになっている。しかも発信者と受信者という境界もあいまいだ。テキストのみならずグラフィックやサウンドを添付すれば、受け手側はそれに新たな書き込みを行い、再び別の受け手に転送することも可能である。よく言われるようにオリジナルかコピーかという議論は、少なくとも電子メディアにおいては過去のものになったと言わざるをえない。漢字のフェティシズムが生まれている背景には、現代の書記行為がキーボードとディスプレイによって行われるということも影響しているのではないか。漢字の詳細なディテールを思い出す必要はなくなり、漢字はアーカイヴとして自由に取り出すものとなったからである。チャットでは、誤変換によって生まれた誤字が、次々に新しいシンタグムをつくり出していく。誤字が言語活動を活性化させるのである。インタビューでも指摘されたように、コンピュータ上では、文字(text)データをグラフィックデータとして読み込むことができる。文字は完全に画像となる。文字はドットだとかビットだとかという以前に、切り張りOKなグラフィティ(いたずら描き)なのだ。電子メディアでのコミュニケーションに一度でも関わった者であれば、それがこれまでのコミュニケーションとどれほど異なったものかわかるだろう。話し言葉と書き言葉の違いを云々するような牧歌的な時代ではないのだ。言葉の使用におけるパフォーマティヴィティという概念は、大幅に書き換えられなければならない。東氏が言うように、こうした新たな状況においては、「見えないパフォーマティヴィティ」という戦略が有効性をもってくることは十分考えられるだろう。

日常言語の研究の手掛かりである「パフォーマティヴ」は、電子メディアというもう一つの日常をグラウンドとしてもった時に、その意味は変わらざるをえないだろう。だが、それはパフォーマティヴという概念の限界が明らかになったということではない。いやむしろ、パフォーマティヴかつコンスタティヴな言語戦略を私たちが用意しなければならない段階にきていることを示唆しているのだ。パフォーマティヴィティ(見えない)の言語の新たな有効性を探る準備を始めなければならない。

 
   editor's note[before]
 
言語学入門

『言語学が好きになる本』町田健 研究社出版 1999
『20世紀言語学入門』加賀野井秀一 講談社現代新書 1995
『言語学への開かれた扉』千野栄一 三省堂 1994
『言語学への招待』中島平三編 大修館書店 1994
『言語学とは何か』田中克彦 岩波新書 1993

現代思想と言語学

『言語行為』J.P.サール 坂本百大・土屋俊訳 勁草書房 1986
『ソシュールの思想』丸山圭三郎 岩波書店 1981
『言語と行為』J.L.オースティン 坂本百大訳 大修館書店 1978
『知覚の言語』J.L.オースティン 丹治信春ほか訳 勁草書房 1976
雑誌『現代思想』1976年10月号
 「言語論 現代思想の新しい鍵」 青土社 1976
雑誌『現代思想』1975年6月号
 「特集 言語 人間存在への新しい視点」 青土社 1975
雑誌『現代思想』1973年10月号
 「特集 現代の言語論」 青土社 1973

日本語論の現在

『日本語の復権』加賀野井秀一 講談社現代新書 1999
『日本語練習帳』大野晋 岩波新書 1999
『日本語の現在』陣内正敬 アルク新書 1998
『日本語ウォッチング』井上忠雄 岩波新書 1998
雑誌『現代思想』1998年8月号
 「特集 液状化する日本語」 青土社 1998
『日本語のレッスン』竹内敏晴 講談社現代新書 1998
『杉本つとむ著作選集』 八坂書房 ~1998
『日本語の歴史』山口明穂ほか 東京大学出版会 1997
『日本語の風景』佐藤武義 おうふう 1997

ウソの言語学

雑誌『SCIaS』1998年4月3日号
 「特集 虚々実々の大ウソ学」 朝日新聞社 1998
雑誌『言語』1996年3月号
 「特集 ウソの言語学」 大修館書店 1996
『自白の研究』浜田寿美男 三一書房 1992
『ほんとうは僕殺たんじゃねえもの』浜田寿美男 筑摩書房 1991
『狭山事件虚偽自白』浜田寿美男 筑摩書房 1988

エクリチュール再考

『郵便的不安たち』東浩紀 朝日新聞社 1999
『存在論的、郵便的』東浩紀 新潮社 1998
『デリダ 脱構築』現代思想の冒険者たち28 高橋哲哉 講談社 1998
雑誌『批評空間』1998年
 no.18「トランスクリティークと(しての)脱構築」 太田出版 1998
「弔鐘」J.デリダ 鵜飼哲訳
 雑誌『批評空間』連載中 太田出版 ~1999
雑誌『現代思想』1988年5月号臨時増刊
 「特集 デリダ」 青土社 1988
『ポジシオン』J.デリダ 高橋允昭訳 青土社 1981
雑誌『現代思想』1982年2月号臨時増刊
 「特集 デリダ読本」 青土社 1982
『尖筆とエクリチュール』
 J.デリダ 白井健三郎訳 朝日出版社 1979
『エクリチュールと差異』
 J.デリダ 若桑毅ほか訳 法政大学出版局 1977
『声と現象』J.デリダ 高橋允昭訳 理想社 1970
『根源の彼方に グラマトロジーについて』
 J.デリダ 足立和浩訳 現代思潮社 1972

デジタル・コミュニケーションの圏域

雑誌『Inter Communication』NTT出版 ~1999
『本が死ぬところ暴力が生まれる』B.
 サンダース 杉本卓訳 新曜社 1998
『いまの生活「電子社会誕生」 』仲俣暁生編 晶文社 1998
『インタラクティヴ・マインド』桂英史 岩波書店 1995
『電子メディア論』大澤真幸 新曜社 1995

無限集合、神の臨界

『 < 神 > の証明』落合仁司 講談社現代新書 1998
『無限論の教室』野矢茂樹 講談社現代新書 1998
『ゲーデル』竹内外史 日本評論社 1998
『ゲーデル未刊哲学論稿』
 R.コンスエグラ編 好田順治訳 青土社 1997
『ゲーデルの不完全性定理』
 R.スマリヤン 高橋昌一郎訳 丸善 1996
『現代真理論の系譜』山岡謁郎 海鳴社 1996
『わかる数学入門』佐藤愛子 共立出版 1994
『数学迷宮』小島寛之 新評論 1991
雑誌『季刊思潮』1989年
 no.3「< 数学の思考 > をめぐって」 思潮社 1989
『教養の数学』細井勉 新曜社 1978
『無限集合』森毅 共立出版 1976