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匿名性の意味を問い直す
巨大匿名掲示板 P2Pのファイル交換ソフト・Winnyの作者が著作権法違反幇助の疑いで逮捕されたことなどにより、IT(情報技術)における匿名性に、関心が集まっています。匿名性の問題を考える時に、ITの進展がもたらしたネット環境を無視することはできなくなったということでしょう。言い換えれば、インターネットによって外部との常時接続が当たり前になったことが、私たちに匿名性への関心を改めて惹起させることになったということです。今号では、匿名性について考えます。
「2ちゃんねる」という匿名掲示板があります。一日あたりのアクセス数は時によって一○○万を超えることもあるという巨大な掲示板です。インターネット視聴率調査「Japan
Access Rating」の「年間ランキング(二○○二年版)」(株式会社アイ・エス・ティ)によると、「2ちゃんねる」のドメインごとのアクセス量は全体で四位、コミュニティ掲示板系では第一位、また、検索サイトgoogleとYahoo!
JAPANが同年に発表した日本国内の検索キーワードでも第一位です。 「2ちゃんねる」には、さまざまなジャンルが、カテゴリー別に分類されていて、その数四○以上。また、掲示板が四○○以上、スレッド(掲示板=板のトップページに現れる話題)はざっと六○○○以上、トップページから消えているスレッドを含めると一六万六○○○以上あるといいます。「2ちゃんねる」はまさにお化けのようなサイトです(*1)。
誰でも手軽に新しくスレッドを立ち上げることができ、ユーザー同士障害を意識することなく自由に意見を言い合える。時事問題からビジネス、趣味や娯楽、果てはアイドルや風俗まで、とにかくありとあらゆる話題が二四時間休みなく書き込まれる。「2ちゃんねる」の最大の魅力は、なんといってもこの匿名で書き込めるというところにあります。
「2ちゃんねる」が立ち上げられたのは一九九九年五月。そのちょうど一年後に西鉄バスジャック事件が起きましたが、「2ちゃんねる」はこの事件をきっかけにして、世間の注目を集めるようになりました。というのも、犯人が「2ちゃんねる」に犯罪予告を書き込んでいたことがわかったからです。「ネオむぎ茶」という奇妙なハンドルネームもさることながら、それが匿名の掲示板であったことが注目されたのです。日頃ネットと関わりの少ない層にも「2ちゃんねる」は強い印象を与えました。
「2ちゃんねる」の最大の特徴である匿名性は、しかし、一方で市民に強い不信感を抱かすことにもなりました。たとえば、ストーカーや不審者の匿名性が、より強い恐怖感をつくり出すように、匿名性には好ましくないイメージもつきまとう。匿名性という言葉から、犯罪との関連を連想する人もいるでしょう。
西鉄バスジャック事件がきっかけで認知度が高まったように、その匿名性を犯罪と結び付けて見ようとする風潮もありました。実際、「2ちゃんねる」では、その後犯罪予告騒動や企業の内部告発、名誉棄損で管理者が敗訴するといったことが起きます。システム上の変更が加えられて、現在では、匿名掲示板とは謳ってはいるものの、完全な匿名性が守られているわけではないと言われています。
匿名性の功罪 「2ちゃんねる」の言動は、今や一般のメディアも注目しています。もともとマスコミが取り上げることのないようなネタの集積所が「2ちゃんねる」でした。ところが、マスコミが情報のリソースとして「2ちゃんねる」を使用し始めているのです。たとえば、「麹町電脳観測所」(雑誌『諸君!』)というコラムがあります。話題のネタを「2ちゃんねる」のスレッドの書き込みから引用し、それにコメントを付け加えるというものです。こうなるとマスメディア対「2ちゃんねる」という構図、また、マス報道に対する自由な匿名の発言の場「2ちゃんねる」という位置付けも一筋縄ではいかなくなります。
匿名性を考察するにあたって、まずこの「2ちゃんねる」をとりあげます。 昨年、雑誌『世界』(11月号)に掲載された「嗤う日本のナショナリズム」が話題になりました。社会学者の北田暁大氏が、「2ちゃんねる」について論じたものです。九○年代の終わりに「2ちゃんねる」が浮上してきたことと若者のコミュニケーションの構造的変容の関わりを探り、現代の若者に見られる「つながり」指向を明らかにしたものです。北田氏はこの「つながり」指向が、手段ではなく目的になっていることに注目します。何かを積極的に論じることよりも、とにかく「つながっていたい」と彼(彼女)らは強く思う。この「つながり」=「接続指向」は、ネット環境のみならずあらゆる場面に見ることができますし、匿名性への願望とも符牒し合います。
『談』no.68でインタビューさせていただいた斎藤環氏も「2ちゃんねる」におけるコミュニケーションに注目しています。雑誌『Inter communication』(no.48)の連載「メディアは存在しない7 メディアのオートポイエーシス(前編)」では、北田暁大氏の論文を引き「2ちゃんねる」について主にBlogとの比較で論じています。Blogとは、Weblogのことで、簡単に言うと日記形式のウェブサイトのこと。わが国でもBlogは急速に普及していますが、なぜか日本人はBlogよりも「2ちゃんねる」により親しみを感じていると斎藤氏は見ています。そしてその理由を、匿名性に関する親和性、態度の違いから生まれてきているのではないかと言います。やはり、そのカギは「つながり」指向にあるのでは、と斎藤氏は推測します。
そこで、北田暁大氏と斎藤環氏に、「2ちゃんねる」、Blog、さらにネット環境におけるコミュニケーションとしては無視できないチャットについて、匿名性と関連させて話し合っていただきます。
身体と匿名性 カミングアウトという言葉があります。もともとは「若い女性が社交界入り」をするという意味でしたが、現在では、「自分が、同性愛者、エイズ、ガンといった少数派の立場、主義であることを公にすること」という意味で使われる場合が多いようです。少数派に属することによる差別・偏見をなくすために、自ら隠していたことを進んで露にする。言い換えれば、プライバシーをあえて公表することで、それが隠す必要のないものということを他者に了解させることだと言えます。
プライバシー(privacy)は「私事、私生活、または私的な生活」のこと。自らの匿名性が露になる時、私たちはプライバシーが侵害されたと感じます。カミングアウトは、逆に自ら匿名であることを放棄する。つまり、他者による侵害も拒否しないということを、公にすることです。
もう一○年以上も前のことになりますが、TV司会者の逸見正孝氏が自らガンであると告白して、大きな反響を呼びました。逸見氏はTVカメラに向かって、ガンと闘うと宣言しました。逸見氏は、自らのプライバシーを公表したのです。しかし、その数ヵ月後、皮肉にもTVは逸見氏がガンとの闘いに敗れたことを告げることになりました。
逸見氏の行動を当時メディアはカミングアウトと言いました。彼は、ガンという(隠していた)プライバシーをあえて公表したからです。しかし、自らの身体がガンに蝕まれていて、それと戦うということを、プライバシーというのでしょうか。知られていないはずの自らの肉体の秘密を露にしたという意味では、確かにプライバシーの領域に属することです。しかし、それを敵とすること、つまり、自分の戦う相手だと宣言することは、もはやそれが自らの肉体ではないものとして捉えられたことを意味しているとはいえないでしょうか。病気になることと、病気であると宣言すること。この両者の間には、超えられない深い溝が存在しているのではないかと思うのです。そんなことを考えていた時に、次のような言葉に出会いました。
「遺伝子情報や肉体の残りものがはたしてプライバシーの領域か否かという議論は的を外します。生まれながらの肉体、病んだ肉体、死にゆく肉体は、人格的心理的主体が破綻し失調するところで出現してくるからです。だから、主体論すべてを捨て、まったく別のアプローチを編み出」さないといけない。(*2)
立命館大学大学院先端総合学術研究科教授・小泉義之氏はこう述べて、「主体を語らず肉体を語ること」が重要なのだと言うのです。 「病気を宣告されるだけで、あるいは、ビオスから脱落しかけている人間を見るだけで、ビオスの厚みを食い破るゾーエーを垣間見て恐怖する。そこで(…)恐怖を心理的で社会的な不安に転化し、生-政治や生命倫理や社会構築主義にすがって、ビオスの穴を隠そうとする。あるいは、ビオスの穴をセキュリティ・ホールと称して、リスク社会のビオスを捏造する」(*3)。
ゾーエーとビオスは、イタリアの政治哲学者ジョルジョ・アガンベンの概念で、簡単に言うとゾーエーは生物的身体、ビオスは政治的身体を意味します。私たちの身体は、ゾーエーとビオスという二つの層によって管理されているというのがアガンベンの考えですが、小泉氏はアガンベンの考えを使いながら、政治的身体という覆いを食い破って表れる生物的身体そのものが病気の身体だと言うのです。そうであるとすれば、病気を語ることは何を意味するのでしょうか。ゾーエーを語ることなのか、ビオスを語ることなのか。病気になることと匿名性の問題が、ここには横たわっています。小泉氏に、身体を切り口に、病気になることと病気を語ること、匿名性とプライバシーの関わりについてお聞きします。
「ゼロ・トレランス政策」と匿名性 一説によれば、東京都の監視カメラの数はおよそ二○○万台。新宿駅と池袋駅周辺だけでみても七○○台以上設置されていると言われています。最近、渋谷センター街に設置されたドーム型監視カメラは、三六○度回転する全方位型で、撮影された画像は、渋谷警察署と警視庁本部の生活安全総務課に送信され、二四時間体制でモニター監視され、録画記録されているといいます。地下鉄やJR駅構内、商店街やコンビニ、ファミリーレストランにも監視カメラの設置が進んでいます。私たちの生活は、今や、監視カメラによって包囲されているのです。
監視カメラ導入の理由の第一に挙げられるのは犯罪発生率の増加です。犯罪やテロから市民を守るため、監視カメラは必要だというわけです。実際、東京都が提出した「東京都安全・安心まちづくり条例案」では、「犯罪の防止に配慮した環境の整備」として、警察の指導にしたがって都内全域に、監視カメラの網の目を張りめぐらすことが定められています。しかし、セキュリティ管理が目的とはいえ、「犯罪の未然防止」という考え方は、根本的な問題を孕んでいます。
「都市が無秩序である場合に、犯罪は起こるべくして起こる。犯罪を未然に防ぐためには、犯罪を生む恐れのある芽をいち早く摘み取る必要がある」。「近年の犯罪学の領野でもっとも影響力をもった論文」にジョージ・ケリングの「割れた窓」理論があります。その趣旨は、犯罪の予防にあります。そして、この論文を下敷きに実行に移したものが「ゼロ・トレランス政策」でした。「ゼロ・トレランス政策」とは、警察による予防的取り締まりを徹底させることによって秩序を維持する都市政策であり、九○年代のニューヨークに導入され一定の成果を得ました。
大阪女子大学専任講師・酒井隆史氏は著書『自由論--現在性の系譜学』(青土社)でこの「ゼロ・トレランス政策」について、次のように報告しています。 「街路でのちょっとした秩序を乱す行為や粗暴な行為(incivilities)にたいして寛容であってはならない。そんなささいな振る舞いを街路から一掃し、攻撃性のある〈物乞い(beggars)〉、ホームレス、〈売春婦〉、酔っぱらいなどに処罰を与えねばならないし、それが街の安全性に必須である。〈犯罪は無秩序の帰着点〉なのだから。(…)犯罪と無秩序はここでなだらかな連続線を描くのだが、この発想が〈ゼロ・トレランス政策〉に多大な影響を与えることになる」。
犯罪から身を守るためには、寛容であってはならない。そのためには、監視の手をゆるめてはならない。無秩序や混乱と犯罪が少しでも関係するのであれば、ただちに秩序を回復すること。「ゼロ・トレランス政策」の思想は、言い換えれば、都市の秩序を乱す恐れのある匿名的なもの一切を払拭することだといえます。
わが国で急増する監視カメラが見ているものは、ほかならぬ匿名的な存在ではないでしょうか。酒井隆史氏に、「ゼロ・トレランス政策」を糸口に、都市と匿名性の関係についてお伺いします。 (佐藤真)
*1 大阪大学大学院経済研究科・松村真宏ほか「2ちゃんねる研究所改訂版」(2002)http://www2.econ.osaka-ac.jp/~matumura/pukiwiki.php?%A3%B2%A4%C1%A4%E3%A4%F3%A4%CD%A4%E
B%B8%A6%B5%E6%20%B2%FE%C4%FB%C8%C7 *2 小泉義之「戦争機械を発明するために 『千のプラトー』の読み方・使い方」雑誌『情況』3-4-11号所収
*3 小泉義之「不安のビオス、恐怖のゾーエー」雑誌『ユリイカ』36-7月号所収
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