[最新号]談 no.74 WEB版
 
特集:ゾーエーの生命論 ・・・メディカライゼーションの抗い
 
表紙:牛腸茂雄 本文ポートレイト撮影:鈴木理策 
   
 
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資源化するからだ・・・再生医療の供給源としての


粥川準ニ Junji Kayukawa
ヒトクローン胚からES細胞をつくり、それを分化させてできた移植用組織を患者に移植することを 「セラピューティック・クローニング」、治療目的のクローンといいます。 セラピューティック・クローニングの一番の問題は、 肉体的、精神的負担の、男女の非対称性ということがあからさまに出てきてしまうということです。 卵子というのは女性からしか採れないわけで、体外受精を始めとして生殖技術というのは、 基本的に肉体的にも精神的にもその負担というのは圧倒的に女性にかかるわけです。それをどう考えるかということです。
かゆかわ・じゅんじ
1969年愛知県生まれ。編集者を経て、96年よりフリーに。現在、医療、食料、環境など、科学技術と人間社会との関係を独自の視点から取材、執筆を行う。著書に、『クローン人間』光文社新書、2003、『人体バイオテクノロジー』宝島新書、2001、『資源化する人体』現代書館、2002、共著書に、『生命操作事典』緑風出版、1998、他がある。

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(対談)小泉義之×金森修

いのち、ゾーエーとビオスの狭間で

小泉義之 Yoshiyuki Koizumi
消極的優生がなぜ不快かというと、そういう人々をとにかくどこかで切り捨て淘汰するという議論だから。それに対して積極的優生は一見危ないんだけども、肯定していいと思うのは、少なくともかれらを生かさなければいけないと考えるから。殺したら意味ないんだもの。結局生きていてもらわないと何を操作していいのかわからないんだから。ある種の積極的優生の治療的介入は肯定すると言った時に、当然あらゆる種類の障害者について生きていてもらわないと困る。そうじゃないと治療的介入の可能性なんて開けないから。
こいずみ・よしゆき
1954年、札幌市生まれ。東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻博士課程退学。現在、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。著書に『レヴィナス――何のために生きるのか』日本放送出版協会、2003、『生殖の哲学』河出書房新社、2003、『ドゥルーズの哲学』講談社現代新書、2000、また、編著書に、『生命の臨界――争点の生命』人文書院、2005、他がある。 
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金森修 Osamu Kanamori
生命倫理というのは医者の暴走を制動する、ブレーキをかけるという重要な機能があると同時に、医者にある何か新しい思考可能性の地平をバーンと開いてやるという、そういう機能もじつは最初から持っていたということなんだよ。つまり、やめろというのと行け行けというのを同時に持っているのが生命倫理。生命倫理学は、水でもあり、アルコールでもある。自分で言うのもおこがましいけれど、ぼくは、生命倫理学のそうした両面性を両方ともやろうと思っている。
かなもり・おさむ
1954年札幌市生まれ。東京大学大学院博士課程満期退学。パリ第1大学哲学博士号取得。現在、東京大学大学院教育研究科教授。著書に、『自然主義の臨界』勁草書房、2004、『負の生命論』勁草書房、2004、『ベルクソン――人は過去の奴隷なのだろうか』日本放送出版協会、2003、『サイエンス・ウォーズ』東京大学出版局会、2000、共著書に、『科学論の現在』勁草書房、2002、他がある。

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(対談) 佐藤純一×野村和夫

健康言説とメタメディカライゼーション


佐藤純一 Junichi Sato
医学の言うリスクファクターの考え方というのは 一般的な統計学から言えばちょっと違っているんですよ。 リスク論では、暗数は基本的に措定しない。ところが、 医学は暗数を措定するというか、 リスクの個別化、モノ化というのをやる。 はいこれがリスクですよ、と取り出せるものと考えるんです。 だから医学でいうリスク論は、括弧つきの「リスク論」なんですよ。 やっぱり自然科学としてはかなり不完全なものなんですね。
さとう・じゅんいち
1948年生まれ。東北大学医学部医学科卒業、大阪大学大学院医学研究科博士課程単位修得満期退学。現在、高知大学医学部医学科教授。医療思想史、医療社会学、医療人類学専攻。編・共著書に、『健康論の誘惑』文化書房博文社、2000、『文化現象としての癒し』メディカ出版、2000、『医療神話の社会学』世界思想社、1998、『哲学と医療』講座人間と医療1、弘文堂、1992、他がある。
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野村一夫 Kazuo Nomura
健康というキーワードの裏には 必ずリスクという概念が張り付いているんです。 昔は病気に対して健康という概念がわりと単純に対置されていた。 病気の欠如状態、病気のない状態という感じでね。 今、病気というよりももっとそれが広がっていて、 リスクのない状態というのが健康というふうに考えられていると 思うんです。これは素人も専門家も同じだと思うんですけど、 そのリスクという概念が、そもそも恣意的なんです。
のむら・かずお
1955年大阪生まれ。現在、国学院大学経済学部教授、法政大学大原社会問題研究所研究員。著書に、『子犬に語る社会学』洋泉社、2004、『リフレクション』文化書房博文社、2003、『インフォアーツ論』洋泉社、2003、編・共著書に、『健康ブームを読み解く』青弓社、2003、『健康論の誘惑』文化書房博文社、2000、『文化現象としての癒し』メディカ出版、2000、他がある。
 

editor's note[before]


ゾーエー/ビオスの二分法を再考する


 これまで、ゾーエーとビオスについて過去二回言及している。一つは、小泉義之氏のインタビュー「ゾーエー、ビオス、匿名性」(no.71)において、もう一つは、小松美彦氏の「いのち……守らなければならないものは何か」(no.73)において。
 匿名であり続けてきた身体がそれをやめる瞬間、たとえば、カミングアウトする身体というものを考えた時に、そこに現れるものを身体におけるゾーエーの相と捉え直してみることはできないかという質問を小泉氏にぶつけてみた。自らががんであることを表明することは、ビオスによって覆い隠されてきた生理的身体を、ゾーエーの相に置くところから編み直すことではないかと思ったからである。ゾーエーの相は、生理的な身体にとって生命の源である。がんはビオスを侵犯するものとして恐怖の対象となるが、ゾーエーにおいては、逆に生命それ自体の力の行使であり、ゾーエーとは親和性がある。カミングアウトという行為は、その意味でビオスに根をはった現代の身体管理に風穴をあける可能性を孕んでいるのではないか。ゾーエーをある種の可能態とみなそうという問題提起であった。しかし、小泉氏は、ゾーエーとビオスの二分法はそんな単純なものではないとことわったうえで、確かにゾーエーは「生命の力」ではあるが、現代社会においてはそれこそが権力の有力な対象物だというのである。現代社会は、近代民主政治とは別の仕方でわれわれを統治するシステムをもっているところに大きな特徴がある。それをフーコーの言葉で「生-政治」というならば、まさに「生-政治」にとってゾーエーこそが関心事だという。ゾーエーの力を最大限活かしながら、逆にそれを包摂し飼いならす。「生-政治」は、ゾーエーの身体をケアし管理する。それは、真の意味で「福祉社会」の実現なのだ。そこには、ゾーエー/ビオスの一筋縄ではいかない関係が見え隠れする。
 さて、もう一人小松美彦氏は、臓器移植の現場で「人間の尊厳」という言葉が一人歩きをしていると警告する。その背後にあるのは、理性的生命を上位に見る見方だ。理性的生命を上位に見ることによって、いのちそのものである生物的生命が軽んじられているのではないかと危惧する。ゾーエーよりビオスの身体が重視されているのだ。脳死者、植物状態の人間、長期の闘病生活を続ける老人、末期がん患者、こうした人間たちを「ただ生きているだけ」の状態とみなし、「尊厳死」はその状態から早く解放させてやることだという。しかし、仮に「ただ生きているだけ」という言葉を使用したとしても、「ただ生きている」ことこそ「いのち」そのものではないか。そういう生物的生命を「自己超出」と呼び、アガンベンの言う「ゾーエー」とは、まさにこの「自己超出」のことに他ならないと小松氏は喝破するのである。逆に言えば、生物的死、すなわちゾーエーの死に抵抗し続けるのが「生きる」ということの意味なのだともいう。しかし、現代の生-政治(あるいは生-権力)は、そのゾーエーの死とゾーエーの生のふるいわけをする。「生きている」身体に等しく手を差し伸べているかに見えながら、じつのところ「ただ死を待っている生」に対しては、そっとその背中を押す。小松氏も生-政治が現代社会に深く浸透している事実に注目する。しかし、小泉氏とは違って、ゾーエーはその緩衝帯となりうる可能性を孕んでいると考えているようだ。
 お二人のゾーエーとビオスに関する議論を簡単に紹介した。小松氏のゾーエーの解釈は、小泉氏よりわかりやすいように思われるかもしれない。生物的生命という言い方は、イメージとして捉えやすいだろう。イヌもカブトムシもメダカも向日葵も生きている限り「いのち」があるわけで、それがゾーエーに他ならないというのであるから。しかし、では「生きている」ということをどのように明示化しうるのだろうか。「脳死をもって人の死とする」。臓器移植の途を拓いたこの言葉の意味を果たして何人の人が正確に理解しているのだろうか。少なくとも筆者は、この言葉の真の意味を理解できないでいる。小松氏の議論に引き付けて言うと、小松氏の解釈するゾーエーも思うほどにはやさしい概念ではないということがわかる。

肉体は反乱しない

 こころとからだ、あるいは精神と肉体といったように、私たちはこれまで身体というものを二つの側面から見ることを常識としてきた。いわゆる心身二元論といわれているもので、ものごとを考える大筋のところで私たちはこの二分法を採用してきた。たとえば、肉体労働という言葉がある。地面を掘ったり、木を切ったり、荷物を運んだりすることは、直接からだを動かす労働だ。からだ、肉体を道具のように使用する。スコップや鋸、台車は肉体の延長物であるが、肉体もまたそうした道具の一部でもある。肉体は、一種の機械のような役割をする。それに対して頭を使うのが精神労働で、いわゆる事務職はからだの中でも頭=脳を使用する。計算をしたり、予定をたてたり、アイデアを出したりすることは、イスに座っていてもできる労働である。コンピュータを前にして、からだを使うとすればせいぜい指でキーボードをタイピングするくらいである。
 こころとからだ、あるいは精神と肉体という二分法によって、たとえば労働はこのように二種類に振り分けられてしまう。そして、ブルーカラー、ホワイトカラーという言い方があるように、肉体労働より精神労働が上位にあるかのようなイメージを付与する。心身二元論という枠組みは、単に精神と肉体を切り離しただけではなく、精神というものを肉体より上に見る、さらにいえば、精神が肉体を支配するという構図を定着させたのである。先ほどの小松美彦氏の理性的生命と生物的生命という図式もこの心身二元論の枠組みをそのまま踏襲しているといえる。だが、問題はその先にある。こころとからだ、精神と肉体という場合のからだや肉体が、すでに一枚岩ではない。からだや肉体もまた二つに分断されているのだ。
 アガンベンのゾーエーとビオスという二分法にあえてこだわり続ける理由は、ここにある。精神が肉体をコントロールし支配する。心身二元論のこうした支配/隷属の構図に対して、肉体は常に反逆の拠点となりうる可能性をもっていた。近年「身体」への強い関心が見られるが、この身体はここでいう肉体と同じ意味であり、理性や知が支配や管理と安直に結び付けられることに対する警戒心がその根っこにはあると思われる。からだあるいは肉体にアクセントを置いて語ることは、近代の心身二元論という思考的枠組みを相対化することでもあった。ところが、その相対化の拠点となるはずのからだあるいは肉体そのものがすでにスポイルされているのだ。現代の生-政治は、からだあるいは肉体を簡単に排除と選別の対象にするようなことはしない。いやむしろ、手厚く保護しようとするのである。殺すのではなく、生かすこと、生かし続けることが、現代の生-政治の管理手法なのである。からだあるいは肉体は反逆の拠点どころか、生-政治における要衝となる。生-政治においては、健全にして健康な肉体こそ理想のものであり、それを徹底させることが生-政治における課題ですらあるのだから。
 生-政治は、ゾーエーとビオスという二つの相を貫徹し、今やビオスからゾーエーヘその圏域を移動させてきている。ゾーエーとビオスは、生-政治にとっても、またそれを相対化させたいと考える私たちにとっても重要なメルクマールである。だとすればどうするか。身体あるいは肉体へのポジティヴな視線をいったん反故にする。そして、ゾーエーとビオスが蝶ネクタイのように絡み合っているとしたら、まずその結び目をほどく必要がある。

再生医療のめざすもの

 ゾーエーの相を考察するにあたり、さしあたって身体(人体)の資源化という観点から考えてみたい。クローン羊の誕生、ES細胞の樹立、ヒトゲノムの解析などバイオテクノロジーは近年目覚ましい発展を遂げている。わが国でも今、バイオテクノロジーは次世代産業の牽引役として熱い視線をあびている。なかでも、再生医療への期待は大きい。再生医療とは、病気やケガで失った組織や臓器の機能を回復させるために、本人もしくは他人の細胞を取り出して培養し、それを患者に移植する治療のことである。人工臓器の開発が思うに任せず、また臓器移植ではドナーが絶対的に不足するという状況で、人体の再生能力を利用する再生医療は、新しい医療技術として注目されている。しかし、再生医療は革新的な医療技術であるばかりでなく、これまでとは徹底的に異なった位相にあることでも注目される科学技術なのだ。というのは、これまでの科学技術にとってその材料は、石油や鉱物、植物であったのに対して、再生医療は身体が材料である。つまり、私たちのからだ、肉体がそのまま材料として用いられるのである。
 身体を材料に用いるという新たな事態は、さまざまな問題を引き起こす。たとえば、すぐ思いつくこととして材料は商品なのかという疑問がわく。商品であれば、当然売買という商行為が発生するわけで、材料の提供者にその対価が支払われるはずである。ところが、実際にはそうはならないというのだ。
 「ティッシュ・エンジニアリング(組織工学)関連のビジネスモデルでは、人体材料は次のように扱われる。まず医師(提供者側医師)は、大学病院などで患者の同意を得たうえで人体材料(抜歯のさいにとれた口腔粘膜や手術で摘出された臓器の一部など)を採取する。企業は、その医師を通じて、人体材料を無償で入手する(ただしその医師がその企業の役員などの要職に就いている場合も多い。当然、その報酬を得ている)。企業は入手した人体材料を独自の技術で加工して、移植などに使える〈製品〉にし、医師(患者側医師)からのリクエストに応じて医療機関に納入する。(…)最終的には、患者は医療機関に〈手術料〉などに含まれるかたちで金を払い、医療機関は企業に〈加工費〉などの名目で金を支払う。しかし、企業はそこで使われる技術の特許権の取得者(発明者)にライセンス料を払う必要があるが、取得者がその技術を開発するさいに使った人体材料の提供者に金を払うことはない」。(粥川凖二「人体の資源化・商品化」『生命倫理とは何か』平凡社)
 身体の材料の供給源としては、生きているヒトの身体である「生体」、脳死者などの「死体」、さらには中絶胎児などの「死胎」があるが、いずれにしても材料の提供者は無償で提供することになるのだ。確かに、化石燃料を採掘するのに地球に報酬を支払っているわけではないが、原則として採掘権は埋蔵しているその土地の所有者に支払われる。石油は立派な商品である。しかし、身体の材料が果たして商品といえるかどうかは微妙だろう。粟屋剛氏(岡山大学教授)も『人体部品ビジネス』(講談社メチエ)で、たとえば角膜を例にして、疑似商品と呼ぶことはできても商品と断定することはできないと言っている。
 臓器や組織、細胞といった身体の材料をゾーエーと呼ぶことは可能だろう。アガンベンは収容所において死を待つためだけに生かされている収容者を脳死者同様にゾーエーだと言った。その伝で言えば、資源として利用される身体の材料はまさしくゾーエーである。近代社会の関心はもっぱらビオスであったが、生-政治は、あからさまに生物学的生命であるゾーエーの方により強い関心を抱く。それは、端的に未来の資源となりうるものだからだ。
 政治や倫理の争点がビオスからゾーエーへ移行してきたという小泉義之氏の言葉が思い出される。ビオスからゾーエーへという流れを、身体の資源化という文脈に沿って読み直してみよう。再生医療のもつ隠された意図が明らかになるはずだ。サイエンス・ライターとして、とくに身体の資源化・商品化について精力的に取材と執筆を行っている粥川凖二氏に、主に再生医療との関わりから身体の資源化についてお話しいただく。

ゾーエーの改造

 『談』no.67「リスクのパラダイム」にご登場いただいた東京大学大学院教育研究科教授・金森修氏は、生殖系列の遺伝子改造についての論文を数回に渡って発表された。簡単に言うと、遺伝子改造は、より射程の大きい「人工性の哲学」の特殊なバージョンにすぎない。たとえば、人体加工は昔から普通に行われてきた技術の一つで、ゲノムをいじることも基本的には全く同じ技術であるという。ゲノムは自然の所与だから手をつけるべきではないという議論は説得力に欠け、遺伝子改良の是非を論じるのではなくて、改良する場合にはどういうふうにすべきかという問いとして定立すべきであると主張する。つまり、遺伝子操作であれ遺伝子改造であれ技術としての特異性はなく、ふつうの技術の一種でしかない。そして、技術というものは、技術自身の中にそれを止める論理をもっていない。遺伝子操作や遺伝子改造に歯止めをかけるなら、技術外在的なもの――かけがえのない人生とか社会思想や倫理――にたよるしかないという。
 この一連の論文に筆者は強い関心をもった。金森氏自身のある対談の中で吐露しているように、そのいずれも、優生学とも接触するきわどい議論である(その一つは「リベラル新優生学と設計的生命観」というタイトルがつけられている)。身体の資源化と多くの問題を共有し、またゾーエーとビオスという二分法をあてはめてみると、遺伝子改造という思考実験は、また別の意味をもってくる。ゾーエーは生物的生命であるという意味において生きる他ないものである。それは自らの姿をつくり変えていく力でもある。だとすれば、金森氏の視線はまっすぐにゾーエーそのものに向けられていると考えられるからだ。
 金森氏は、最新の論文でプロテスタント系神学者ヘフナーの言い出した概念「human becoming」に触れて、人間は〈在る〉存在というよりも〈成る〉存在で、〈たえず成りつつあるものとしての人間〉と捉えられるだろうという。これはつねに改造されつくり変えられながら生き続けている、未来企図の中に投げ出される生き物の姿を表現している。要するに、放っておいても自然は遺伝子を改造し、私たち自身をつくり変えている。自然と人工の間にあるはずの境界線がなし崩しになっている以上、生殖系列の改造に手を染めまいと自らを律する理由はどこにもないというのだ。ゾーエー自身が遺伝子の改造を夢見ているとしたら、私たちにいったい何ができるのだろうか。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授・小泉義之氏に再びご登場いただき、金森修氏とゾーエーとビオスという二分法を手掛りに、遺伝子改造、身体の資源化、生命倫理について徹底的に議論していただこうと思う。

つくられた病気「生活習慣病」

 からだに関して、私たちが身近に感じることといえばなんだろうか。ほとんどの人はすぐに健康について思い浮かべるのではないか。健康は今や国民の最大の関心事なのだ。しかし、「健康とは何か」といざ尋ねられるとだれも答えに窮するのではないか。じつは、専門家もちゃんと定義できていないのである。
 「健康とは、単に疾病や虚弱がないというだけのことではなく、身体的、精神的、社会的にも完全に良好な状態(well-being)であることを言う」  これは、有名なWHOの政策目標の宣言文である。健康を定義しようとしてみごとに失敗している。健康概念がいかにあいまいなものか、WHOの宣言文は図らずも露呈してしまっているのだ。ところが、この本来定義不可能なはずの健康を、あたかも実在するモノのように捉え、強引に健康の普及に邁進しているのが現代社会なのである。当然その背後にあるものは、生-政治である。たとえば、「成人病」を「生活習慣病」に呼び換えて健康増進を図ろうとする厚生省(現厚生労働省)は、いわば生-政治における具体的な出先機関である。国民に健康への関心を惹起させることは、生-政治がその射程をすでにゾーエーに置いていることを示しているのだ。
 以前より健康問題に関心を持ち、それを健康言説と批判し続けてきたのが高知医科大学教授・佐藤純一氏である。佐藤氏は、厚生労働省のキャンペーンこそまさしく「生活習慣病」言説以外のなにものでもないと言う。
 「もともと厚生省の行政用語であった〈成人病〉を〈生活習慣病〉と〈予防〉を軸に再構成したものであり、厚生省・臨床医学・社会医学の三者の思惑の合致したところに構築された政治的産物である。(…)ここで語られ続けるのは、現在の〈健康習慣〉を通して未来の病気を防ぐという〈予防言説〉であり、それによって語られるものは〈健康〉であり、これは、まさに〈健康言説〉そのものなのである」。(「〈生活習慣病〉の作られ方」)
 佐藤氏は、健康は規範概念であり、「生活習慣病」言説は、その規範としての健康を語る健康言説であると続ける。つまり、健康言説は健康をめぐるイデオロギーであると同時に、社会的イデオロギーになっているという。そういう状況下では、生-政治の議論との擦り合わせがますます重要になってくると指摘する。
 ところで、言説分析とは何か。ごく簡単に言えば人々の使用する「言葉」から、その社会を解明しようというものだ。人々が日常世界においてものごとを理解する時に決定的な役割を果たすものが言葉である。私たちの生きる世界は、すべて言葉によってつくられていて、文化も歴史もみなこの言葉に深く規定されている。だから、逆に自明とされている言葉の意味を疑い、その布置、使用方法、由来などを検討することによって、私たちの社会を明らかになるというのである。こうした言説分析から社会を解明しようと立場が社会構築主義だ。社会構築主義によれば、ある種の自然科学も言説によってつくりだされていると考える。身体や生命に関わるさまざまな用語も、この立場からは言説とみなされる。
 今日、社会構築主義への期待はかつてほど強くはない。しかし、現代の医療やバイオテクノロジーが孕む問題群に関しては、相変わらずするどい切れ味をみせていると筆者は考えている。いうまでもなく、身体や生命は生-政治がダイレクトに浸透している領域だからだろう。
 佐藤氏同様に、健康言説に社会学の立場から関心をもち、健康言説への懐疑的認識の必要性を説くのが国学院大学経済学部教授・野村一夫氏である。一見もっともらしい国家の保健政策のロジックは、「これって健康にいいんだよ」という食卓の会話にまで浸透し、その結果、まわりまわって人々の病気体験そのものを道徳的ジレンマにしてしまう。こうした事態を単に健康/病気の問題と見てはならない。「言説としての健康」ではなく、実在するのは単に「健康言説」だけであり、「健康は言説である」という批判的視点が絶対に必要なのだと強調する。

 ゾーエー/ビオスの二分法を手掛りに、再び「いのち」の問題に切り込もうと思う。その最後は、からだの最も身近な問題「健康」について考えみたい。とくに、「健康は言説」であるという視点から。佐藤純一氏と野村一夫氏に、現代社会において猛威を振るう「健康言説」について語り合っていただく。    (佐藤 真)

 

editor's note[after]

再生医療に何を期待しているのか

身体が資源化する。しかも、その資源の供給源は圧倒的に女性である。女性のからだがいまや人類とその未来にとって重要なストックになりつつある。そして、それを強力に後押ししているものこそ現代の医療に他ならない。現在、医療現場では再生医療に対して大きな期待が集まっているが、この再生医療がまさに身体の資源化の途を拓く立役者である。再生医療のまなざしは、真っ直ぐに女性のからだ、とりわけ子宮と胎盤に向けられている!
 粥川準二氏の言葉は、衝撃的であった。先端医療の現場で、今何が起こっているのか。そして何が求められているのか。粥川氏が関係者への取材から得たものは、驚くべき事実であった。急激な勢いで進行する医療化(メディカライゼーション)。その目指すものは何か。それは私たちをどこへ連れ出そうというのか。まさしくそれは身体を徹底的に商品化し収奪する社会である。
 身体は資源としての価値のみに還元される。そこでは、身体におけるビオス的側面は見事にはがれ落ちてゾーエーそのものと化す。ゾーエーという剥き出しの身体だけが求められるのである。「生きている」ことが、そこでは決定的な意味をもつ。「生きていてほしい」と願うのは、他ならぬ生-政治なのだ。「いのち」が何よりも尊いのは、それが大切な資源だからだとしたら、なんというパラドクスだろう。
 粥川準二氏の議論を改めて整理してみよう。
 体細胞クローン動物の誕生、ヒトES細胞の樹立、ヒトゲノムの塩基配列の解読という同時期に確立されたバイオテクノロジーの三つの技術革新が、先端医療を飛躍的に発展させたという。とりわけES細胞は、身体のあらゆる臓器や組織に分化する「多能性」と無限に増殖する「不死性」という二つの大きな特徴をもち、万能細胞などと呼ばれる夢の細胞である。ES細胞の樹立は、他の二つの新技術と組み合わされることによって再生医療への応用が期待されている。再生医療とは、患者自らの再生能力を活かす医療で、従来の臓器移植や人工臓器に代わる新技術だ。クローン技術とES細胞の技術が組み合わさった医療モデルをセラピューティック・クローニングというが、再生医療研究の中でもとくに注目される医療技術である。再生能力を活かすということから、一見再生医療はバラ色の医療技術のような印象を与えるが、じつはいくつかの大きな問題を抱えている。その一つは、受精卵であれ未受精卵であれ基本的には卵子を使用するところにある。つまり、女性の身体からしか採れない細胞を使うことを前提とする医療技術なのである。また、そうした卵子の供給には、基本的に対価は支払われない。原則的に無償である。要するに、再生医療は、女性の身体を供給源とする医療技術であり、必然的に身体の資源化、いのちの商品化を促進することになる。さらに問題なのは、そうした技術に対する十分な検討がなされぬままに技術だけはどんどん進んでしまっていることだ。クローン技術に関する規制もその効力を失っている。
 いまや、身体は人類にとって化石燃料にも匹敵する重要な資源となった。しかし、繰り返すまでもなくそこでターゲットとなる身体は、女性の身体である。人類の未来を拓くものとして期待される再生医療であるが、裏返せばそれは、女性の身体、からだ、いのちを供給源とする資本主義の新たな戦略拠点なのだ。私たちは、医療(技術)のいわばこの影の部分をしっかり見据えておく必要がある。むろん、これは医療に限ったことではない。そもそも科学技術というものは多かれ少なかれ輝かしい表の顔とは裏腹に、常に暗部ともいえるような影の顔をもっている。そのことに十分注意を払う必要があるということだ。この科学技術の二面性については、次の小泉義之氏と金森修氏の対談においても重要な争点となっている。後ほどもう一度検討しよう。

生命の序列とゾーエー

 粥川氏は、インタビューの最後で身体の資源化と優生思想の関係についても触れられた。これまで優生思想は生殖技術との関わりで議論されることが多かったが、セラピューティック・クローニングにおいても同質の問題が浮上してくるというのである。卵子、受精卵、体細胞を医療目的に使用する場合には、必ずその質が問われるはずだというのである。研究材料になるものもあるだろうが、治療が目的である場合はやはり感染症や遺伝病のヒトの卵子や受精卵、体細胞の使用は避けられるだろう。健康なヒトの細胞はやはりニーズが高いに違いないだろうから、そうであれば優生思想が入り込んでいると見ていいのではないかという疑念である。美味しい(質の良い)食肉を効率良く生産するためにクローン動物はつくられたという面がある。それと同じような構図が見て取れるということだ。身体を資源として捉え直す。たとえば、良質の食肉を生産したいというのと同様に私たちはその「質」を問うようになる。そこに現出するのは、私たちの内なる優生思想かもしれない。
 この内なる優生思想をどう捉えるか、そしてそれがいのちをめぐる科学技術にどのような作用を及ぼすのか。小泉義之氏と金森修氏は、この身体が資源化するという現状を踏まえながら、身体の「質」という問題から議論をスタートさせた。「ゾーエー/ビオス」という区分は、身体の「質」を問い、さらにそれを序列化するというところへ踏み込んでいく概念装置として捉え返すことができるだろう。対談のポイントを挙げてみると大きく四つあった。一つは、ビオスはゾーエーを新たな価値物として扱い出したこと。二つ目は、生命倫理には二つの顔があり、身体(の資源化)はその両面から分析される必要があるということ。三つ目は、積極的優生論は治療的介入の可能性を開くということ。四つ目は、ゾーエーをいかに引き受けるかということ。
 まず、ゾーエーとビオスの理解の仕方がお二人では違っていることに注意しておきたい。小泉氏は、「生きるに値しない生命」の「生きる」がビオスで「生命」がゾーエーと区分けしたうえで、身体(人体)の資源化という文脈において、ゾーエーが新たな価値物として扱われ始めていることに注目する。それは現代の生-政治が身体そのものに介入していることを示しているという。
 一方、金森氏の見解はこうだ。一般的な見方とは少し異なり、より根源的なものをむしろビオスに見出し、ビオスの中で生命は質的な序列をもっているとする。したがって、ゾーエーよりビオスの方がずっと重要だというのだ。そうした前提にたつとQOLを重要視することが障害者差別につながるという議論は納得できないという。QOL、すなわち「質」の序列化を行っているのはビオスであって、QOLはビオスにとって根幹ともいえる概念だと主張する。それに対して、小泉氏は今いわれているQOLは、ごく普通のきわめて単元的な価値を「質」の基準に置いているのが問題であり、障害があるということは「質」が低いと見なされる。まさにその構図が問題なのだ。「人間の尊厳」という言葉も同じである。ただの生命体であれ延命することに意味があるという言葉の先にあるものは、ゾーエーとしての身体だ。生-政治は、ゾーエーのとくにその資源的な側面だけをすくい取る。
 金森氏は、「人間の尊厳」という概念をもち出してきた生命倫理について、昨今展開してきた持論を披露する。これまで生命倫理というと、日本では科学技術の暴走を制御しブレーキをかけるものという認識が一般的であった。しかし、それが生まれた欧米圏(とくにアメリカ)では、そうした側面と同時に「新しい思考可能性の地平を開く」という機能ももっていた。生命倫理は、火を消す水としての役割と火に油を注ぐような煽る役割の両面がある。生命倫理には両面性があるという認識にたつと、たとえば生殖系列の遺伝子改造もある種の可能性を開くものとして捉え直すこともできる。それは、これまでの凝り固まった優生学批判に風穴を開けることにもつながる。いわゆる新優生学とも目される思考実験が可能となるのである。つまり、こうした思考実験も生命倫理学の範疇だというのだ。
 そこで三つ目のポイントになる。小泉氏も、遺伝子改造を全面的に肯定する。ただし、それはこれまで私たちが「ある種の人間を長きにわたって生殖から排除し続けてきた」という歴史的事実に基づいて、すべての「障害者の生殖を肯定する」という前提にたてばという限定付きだ。遺伝子改造はこれまでの価値観を転倒させることが可能だから肯定できるというのである。それは、「ビオスのセクシュアリティの価値基準を逆転する技術的可能性を開く」ことにもなるからだ。優生学だからいけないという論理はそれ自体倒錯している。小泉氏は「切り捨て淘汰」という思想のもとに殺人を許してきたことが優生学の欠陥であって、その思想を捨てる「積極的優生学」は肯定されるだろうという。すべての障害者には生きていてもらいたいのである。治療的介入を肯定するという意味でも。それは、人間が「まともな生物に変容する」(『生殖の哲学』)チャンスでもあるからだ。
 金森氏は、さすがにそこまで大胆には言わない。ただ、今後人間の身体が変容しサイボーグ化していくことは、人為的な遺伝子改造を待たなくてもありうることで、優生学のある一面は肯定できるだろうという。小泉氏とその点では一致する。しかし、金森氏はそれはゾーエーではなく、あくまでもビオスの欲望と捉えているというところに違いがある。生命の意志のようなものを金森氏は感じとっているのだろうか。小泉氏は、反対にそれをゾーエーの相として捉える。それは意識も意志も働かないような「ただ生きている」だけの生命である。であればこそ、それをどのように引き受けるかが問題になるし、私たちの生きていくうえでの課題もそこにある。ゾーエーをいかにして引き受けるか。それはあえて自ら病人になることなのか。小泉氏も明確には述べていないが、生-政治が私たちの身体の深くまで浸透している状況では、確かに、ビオスを越えてゾーエーのレベルまで立ち戻って考える必要があるのかもしれない。これが四つ目のポイントだ。

ヘルシズムの意味するもの

 アガンベンのゾーエーとビオスという二分法は、フーコーの生-政治を「身体/生命」の言説をめぐる分析へと読み替え、その脱構築化であったと暫定的に述べておこう。アガンベンによれば、生命、生物、人間、肉体、自然はゾーエーに、また生活、人物、人格、精神、文化はビオスに対応するという(小泉義之)。かつて政治の場は人間に特有のビオスを中心に行われてきた。たとえば、アガンベンの研究対象である古代ギリシアにおいて、それはポリスと呼ばれた場所に他ならなかった。つまり、人格をもち生活をする人間という具体、すなわちビオスが「生き」て何がしか行う場所がポリスだったのである。ところが、近代以降ゾーエーがポリスの領域に侵入してきているという。
 「政治はゾーエー、すなわち人びとの生物学的な意味においての生そのものの管理をみずからの統治行為の中心に置くようになる。このようにして人びとの生物学的な意味においての生、あるいは〈生きているということ〉そのものをみずからの統治行為の中心におくようになった政治――これをフーコーは〈生政治(bio poritique)〉と名づける。そしてこれの解明に着手したのであったが、この〈生政治〉のありようを解明することがアガンベンにとってもまた主題であるようなのである」(上村忠男「閾からの思考――ジョルジョ・アガンベンと政治哲学の現在」)。
 生-政治は、フーコーによれば近代特有の政治形態と考えられていたが、アガンベンは、古代ギリシアの世界にすでにその萌芽はあったという。ただし、ビオスからゾーエーへその焦点を移動させてきたことが決定的に重要だというのである(小泉氏の立論もこの議論の延長にある)。言説分析の対象が「身体/生命」に置かれるようになったのはそういう理由からだ。改めて「身体/生命」をめぐる言説およびその空間が問題になってくる。
 さて、佐藤純一氏と野村一夫氏の対談は、現代社会において生-政治がいかに私たちの身体の奥深くまで入り込み、意識までも支配しコントロールしているかを明らかにした。「健康」への異常ともいえる私たちの関心は、もはやブームという域を通り越してイデオロギーになっている。ブームではなくイデオロギーとして現代の健康を捉えるべきだというのが、お二人の共通認識である。健康が支配的なイデオロギーとなってしまったのはなぜか、そこにフォーカスを当てると浮かび上がってきたのが言説という問題である。健康イデオロギーあるいは健康言説。もともと実体すらあいまいな健康がいつのまにか一人歩きを始め、私たちの意識や行動を規定し始める。単なる言葉でしかない健康に、なぜ私たちはかくも簡単にコントロールされるようになってしまったのか。そこに生-政治の本当の恐ろしさがある。対談の論点を整理しよう。
 まず最初のポイントは、治療医学が公衆衛生化したということだ。佐藤氏によれば、近代医学は、病気を治すことをその目的として発展してきた。病気になったからそれを治療する。だから、治療医学というのである。それに対して、公衆衛生は病気の発現を未然に防ぐことを目的とする。病気そのものではなくその予防が主たる目的なのだ。公衆衛生の考えは、病気になる前にその芽を刈り取ってしまおうというのである。そして、近代医学は、その方向で治療医学から予防医学へとシフトしたのである。なぜそのようにしたのか。理由はいろいろあるが、一つには実体として措定できないような病気、すなわち「病的な状態」という他ないようなものがたくさん出てきたために治療がおぼつかなくなってきたことが挙げられる。また、単に治療に失敗するというケースがいっぱい起こってきたのも理由の一つだろう。そこで未然に防ぐという考えが生まれ、公衆衛生の考え方を取り込むことになったというわけだ。
 もう一つ伏線として挙げられるのはリスク概念の導入である。病因が特定できないのであれば、その可能性のあるものをもれなくピックアップして、関係のありそうなものを除去すればよい。確率論の考えを取り入れて、リスクファクターを見つけ出し、それを消していくという方向へ舵をとり直したのである。しかし、ここに大きな落とし穴があった。リスクファクターは統計学的にみれば単なる暗数にすぎない。にもかわらず、医学の公衆衛生化という文脈の中で、それが特定できてあたかも取り出せるモノのように扱われてしまったのである。佐藤氏が問題視する「リスクのモノ化」ということを医学はやってしまう。しかも、野村氏の言うように、リスクファクターの選択自体が恣意的な操作によって行われる。特定病因論と確率論という本来ありえない二つの考え方を、強引に結び付けたのが近代医学だというのである。さらに、そうしたリスクファクターをたくさん抱えている(温床)ものが私たちの身体だとしたのだ。
 今日言われる「健康」という言葉の裏側には、野村氏が指摘するように、ここで措定されたリスク概念がぴったりと張り付いている。「リスクのない状態が健康」であるとされるわけだが、リスクのない状態というのは何かといえば、それが健康だという。つまり、自己言及的構造になっているのである。健康が言説であるという理由は、このように、健康を意味付けている当のものが健康そのものであるという、いわば言葉によってそれが定義付けられているという意味からである。
 生活習慣病という概念は、今いった「リスクのない状態が健康」という健康言説と、医療における「リスクのモノ化」がまさに交錯するところに出現し、私たちの意識と行動を内部から規定しようとしているという意味で、いまやイデオロギーと呼べるような存在になっている。しかも、もう一つ大きな問題は、そうしたイデオロギー、言説を受容しているのは、じつは他ならぬ私たち自身であるということだ。生活習慣病に顕著に表れていることだが、それを受け入れて待望すらしているのは医療従事者でも国家でもなく、私たち自身だというところに、じつは看過できない最も大きな問題が横たわっている。お二人がそこで声を合わせるように指摘しているのが、いわゆる非正規医療の役割である。非正規医療とは、民間医療や代替医療、統合医療と呼ばれているもので、これまで正規医療(近代医療)の外部に位置するものであった。ところが、近年、リスク概念の導入と健康言説の浸透という状況のなかで(もちろん薬漬け医療といった近代医学への批判も大きな要因)、こうした非正規医療に対する評価が大きく変化し、正規医療に匹敵するような影響力をもち始めている。これまで問題にしてきたような健康概念やリスクの温床としての身体という見方は、正規医療と非正規医療が重なり合い相互補完的に機能する状況で――それが私たちの生活世界に他ならない――、今や完全に私たちの意識の内部に定着しつつある。佐藤氏の言葉を借りればヘルシズムの浸透であり、また、野村氏によれば、それはメタメディカライゼーションの徹底化である。すべての現象を病い/健康の二分法で捉え、その善後策を講ずる。生-政治は、このように私たちの身体を統治するのである。

 ゾーエーからビオスへ。そして、今、生-政治はその矛先を逆にビオスからゾーエーへとシフトさせようとしている。繰り返すが、現代社会に深く根を下ろす生-政治は、「生きるに値しない生命」には容赦なく死をつきつけるということはしない。かつて権力は人の「死」をコントロールしてきた。その象徴が死刑の執行である。しかし、今日の権力は、そのような形で「生/死」をもてあそぶようなことはしない。事態は逆である。生-政治は、いのちを囲い込み積極的に生かし続ける。むしろ、生-政治は「生」をコントロールするのである。そして、そのコントロールする主体の座を手放す。コントロールする主体は、その身体を生きるその人自身だ。「生」の自己管理を貫徹させること。生-政治は、このように私たちの身体を統治するのだ。しかし、今日の生-政治は、すでにその先に新たなターゲットを見つけ出している。それがゾーエーであることは、あえて言うまでもないだろう。
 現代の医療は、一方で健康の増進を奨励し、他方では身体の資源化を推し進める。ある意味では全く正反対に見えることを同じ手つきで同時に遂行するのである。だからこそ、私たちはゾーエーに最後の拠点を見出す。メディカライゼーションへの抗い。その手掛かりは、じつは生-政治が収奪しようとしているゾーエーそれ自身にある。なぜならば、ゾーエーとはいのち、それも「生きるに値しない生命」としての生命のことだからである。「生きている」ことが、生-政治にとっては、「生きている」ことに対する唯一の、そして最大の抗いでもあるからだ。  (佐藤 真)

 
   editor's note[before]
 


◎ゾーエー、ビオス
ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生 G・アガンベン 高桑和巳訳 以文社 2003
アウシュヴィッツの残りのもの アルシーヴと証人 G・アガンベン 上村忠男ほか訳 月曜社 2001
木村敏著作集6 弘文堂 2001
人権の彼方に 政治哲学ノート G・アガンベン 高桑和巳訳 以文社 2000
政治学 アリストテレス 山本光雄訳 岩波文庫 2000
デュオニソス 破壊された生の根源像 K・ケレーニイ 岡田素之訳 白水社 1999
はじまりのレーニン 中沢新一 岩波書店 1998
人間の条件 ハンナ・アーレント 志水速雄訳  ちくま学芸文庫 1994
暴力批判論 ベンヤミン 野村修訳 岩波文庫 1994
ハイデガー全集第55巻 ヘラクレイトス 辻村公一他訳 創文社 1990

◎遺伝子改造/新優生学
生命の臨界 争点の生命 小泉義之、松原洋子編 人文書院 2005
生殖の哲学 小泉義之 河出書房新社 2003
レヴィナス 何のために生きるのか 小泉義之 日本放送出版協会 2003
遺伝子改造社会 池田清彦、金森修 洋泉社 2001
人体改造の世紀 森健 講談社ブルーバックス 2001
人体改造 寺園慎一 日本放送出版協会 2001
ドゥルーズの哲学 小泉義之 講談社現代新書 2000
優生学と人間社会 生命科学の世紀はどこへ向かうのか  米本昌平他 講談社現代新書 2000
千のプラトー 資本主義と分裂症 G.ドゥルーズ、F.ガタリ 宇野邦一ほか訳 河出書房新社 1994

◎科学論と生命
自然主義の臨界 金森修 勁草書房 2004
負の生命論 金森修 勁草書房 2004
科学論の現在 金森修、中島秀人編著 勁草書房 2002
科学革命の現在史 中山茂、吉岡斉編著 学陽書房 2002
現代科学論 井山弘幸、金森修 新曜社 2000

◎資源化する身体
クローン人間 粥川準二 光文社新書 2003
資源化する人体 粥川準二 現代書館 2002
人・資源化へ危険な坂道 ヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療 福本英子 現代書館 2002
先端医療のルール 人体利用はどこまで許されるのか 島次郎 講談社現代新書 2002
操作される生命 科学的言説の政治学 林真理 NTT出版 2002
人体市場 R・アンドルース、D・ネルキン 野田亮訳 岩波書店 2002
人体バイオテクノロジー 粥川準二 宝島新書 2001
人クローン技術は許されるか 御輿久美子他 緑風出版 2001
人体部品ビジネス 「臓器」商品化時代の現実 粟屋剛 講談社メチエ 1999

◎ 生-政治、生-権力
自己のテクノロジー フーコー・セミナーの記録 M・フーコーほか著 田村俶訳ほか 岩波現代文庫 2004
フーコーの権力論と自由論 その政治哲学的構成 関良徳 勁草書房 2001
フーコーの穴 重田園江 木鐸社 2003
フーコー思考集成 1〜10 M・フーコー 小林康夫ほか編訳 筑摩書房 〜2002
性の歴史 1〜3 M・フーコー 田村俶訳ほか 新潮社 1987 

◎ 健康言説、メディカライゼーション
生命の政治学 広井良典 岩波書店 2003
健康ブームを読み解く 野村一夫、北澤一利他 青弓社 2003
健康の語られ方 柄本三代子 青弓社 2002
健康論の誘惑 野村一夫編 文化書房博文社 2000
文化現象としての癒し 民間医療の現在 佐藤純一編 メディカ出版 2000
「健康」の日本史 北澤一利 平凡社新書 2000
医療神話の社会学 佐藤純一、黒田浩一郎編 世界思想社、1998
健康と病 サンダー・L・ギルマン 高山宏訳 1996
現代医療の社会学 黒田浩一郎編 世界思想社 1995
哲学と医療 講座人間と医療1 弘文堂 1992
〈病人〉の誕生 C・エルズリッシュ、J・ピエレ 小倉孝誠訳 藤原書店 1992
健康と病のエピステーメー 柿本昭人 ミネルヴァ書房 1991