photo
[最新号]談 no.77 WEB版
 
特集:「いのち」を記録する…生命と時間
 
表紙:木原千春 本文ポートレイト撮影:鈴木理策、秋山由樹
   
   
 photo
いのちとしての芸術作品……保存・修復の「生-政治」

岡田温司
Atsushi Okada
作品というのは、時間と共にあるものです。たとえそれが劣化しようとも、 それは時間と共にある以上当然のことです。生命に老いがあるように、作品にも老いはあるんです。 そういう作品の時間に無理矢理介入すること、それが修復というお題目であっても、 私はそれをやることに対しては反対です。 生命とは歴史そのものなんですよ、それを消すことは歴史の痕跡を消してしまうことです。

おかだ・あつし
1954年広島県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。著書に、『処女懐胎』中公新書、2007、『芸術と生政治』平凡社、2006、『モランディとその時代』人文書院、2003、『ミメーシスを超えて』勁草書房、2000、他がある。
 photo
時間は脳の中でどう刻まれているのか……生命、複雑性、記憶 

池谷裕二 Yuji Ikegaya
脳の状態は決定論ではないと思うのです。それは、われわれの生活を考えてみればわかると思いますが、 同じ環境というのは二度ときませんよね。脳もそれによって干渉を受けているのかもしれませんが、 自分の内部の状態を内発的に変えていって、自分自身を書き換えてしまうので元には戻れないのです。 つまり、脳は非エルゴードだと。ただし、非エルゴードというのは科学界ではほとんど禁句みたいなもので、 嫌われるんですよね。

いけがや・ゆうじ
1970年静岡県生まれ。東京大学大学院薬学系研究科博士課程生命薬学修了。2002〜5年までコロンビア大学(米ニューヨーク)に留学。現在、東京大学大学院薬学系研究科講師。神経生理学。著書に、『進化しすぎた脳』講談社ブルーバックス、2007(朝日出版社 2004)、『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』祥伝社、2006、『海馬』糸井重里氏との共著、新潮文庫、2005、『記憶力を強くする』、講談社ブルーバックス、2001、他がある。
 photo
生命システムをどのように記述するか

金子邦彦 Kunihiko Kaneko
生物の特徴に多様性がありますが、それは、単にベタッと連続的に多様なのではなくて、いくつか分かれて多様になっている。 つまり、どこでもよどめるわけではなくて、飛び飛びに離れてよどむんですよ。 よどむ点というのは離散的にしか分布できないということが基本なんじゃないかと。 一方ではものすごく多様性をもっていて、しかもそれが連続的な多様性じゃなくて飛び飛びになっている。 そこに生物の大きな特徴があると思うんです。

かねこ・くにひこ
1956年神奈川県生まれ。東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。現在、東京大学総合文化研究科教授。理学博士。著書に、『生命とは何か 複雑系生命論序説』東京大学出版会、2003、『複雑系の進化的シナリオ 生命の発展様式』(池上高志らと共著)朝倉出版、1998、『複雑系のカオス的シナリオ』(津田一郎と共著)、朝倉出版、1996、他がある。
 

editor's note[before]


「変わる」こと、「生きる」こと


「生きている」細胞は映像化できない!?

 『談』no.63「移動の記述法」で河本英夫氏(東洋大学文学部教授)は、細胞の動きとそれを外から「動き」として記述することの根本的な違いを次のような比喩を使って説明しています。少し長いですが引用します。
 「からだの細胞がいつも動いていることは、誰もが知っていることです。そこでこの動いている状態を写真に撮るとしましょう。細胞の動いている状態を、オートワインダー付きのカメラで連写したとします。ある細胞の時間t1はこれ、t2はこれ、t3はこれ、t4は……、というようにそれらを並べてみる。この一連の写真を今度は早回しにします。そうすると動いているように見えるはずです。この原理を応用したものがペラペラマンガであり、アニメーションです。今、静止することのない連続的に動き続けている空間を記述しようとすると、このアニメーションのような方法で捉えることになります。ある状態aを記述し、次にある状態bを記述し、さらにある状態cを記述し……、という具合に状態記述がずらっと並ぶ。そしてあたかもアニメーションを見るのと同じように、その状態記述の連続として空間が捉えられる。果たしてこの方法によって、動いている状態を記述することができるでしょうか」。
 答えはもちろんNOです。それは、この方法がアニメーションと同じであるという理由において、記述したことにはならないと河本氏は言います。外部から見る=観察という方法では、「動いている」という実態を描写できないというのです。
 アニメーションが動いているように見えるのは、じつは、そう見ようとしている人にだけなのです。アニメーションは、どんなに動いているように見えても、しょせん単なる静止画のつながりでしかありません。そこには、静止画を素早く連続的につなげると、あたかも動いているように見えてしまうという視覚の性質が使われています。たとえば、点滅する踏み切りの警報器を思い起こしてみましょう。二つの赤いランプが左右に交互に点滅すると、あたかも一つの発光体が左右に移動しているように見えます。ゲシュタルト心理学の創始者の一人であるウェルトハイマーは、その現象を「仮現運動」と名付けましたが、これは知覚がある刺激を運動として捉えようとする性質によるものです。つまり、ここでの「動いている状態」は、見ている側の視覚によって構成されたものなのです。オートワインダーによる連写も同様で、映像によって記録された細胞が動いているように見えるとしても、それは徹頭徹尾見る側による「構成された運動」にすぎないのです。
 では、からだの細胞の方はどうでしょうか。からだの細胞は、言うまでもなく、見る側のいかんに問わず動いています。それ自体で動いています。見る側が構成しなくても、からだの細胞は日々途絶えることなく動いています。このように、からだの細胞の動きとそれを記録する映像の動きは、根本のところで全く異なるものなのです。細胞の動きという、私たちにとっては自明と思われているものですら、その記述方法となるとほとんどお手あげの状態です。
 動いている細胞……。ここで「動いている」という意味は、「生きている」ことに他なりません。つまり、「生きている」状態を、私たちはまだきちんとした形で記述できていないのです。私たちの日常言語の中に、「生きている」という実態を表す適切な言葉がまだないということを、まず確認しておきましょう。

純粋持続と差異の差異化

 アニメーションのように、観察者(見る側)によって構成された「動き」ではない、それ自体で動いているもの。その「動き」に迫ろうとした試みの嚆矢がベルクソンの哲学であることに異論はないと思います。ベルクソンの「純粋持続」は、外部から計量的に捉えるのではなく、「内なる自我の躍動」として、純粋に内側から体験される「動き」を持続という形で概念化しようとしたものでした。その試みが成功しているかどうか、それは研究者によって見解が分かれるところですが、少なくとも「動き」を「持続」と捉え直すことによってそこに内的な展開の契機を見出そうとしたことは、「動き」を「生きている」状態と考える私たちの議論に大きなヒントを与えてくれます。
 ベルクソンの「純粋持続」を、現代思想の文脈の中で、「差異化」という概念で読み替えたのがドゥルーズです。ベルクソンの「純粋持続」には、時間の空間化、空間の時間化という哲学上の難問を抱えて煩悶するある種の煮えきれなさが見受けられますが、ドゥルーズはそれを徹底的に時間論として読み込みました。差異の差異化――差異することと差異化されるものとの差異――という形で運動を見て、その繰り返しとして「時間」を捉え直したのです(河本英夫氏)。あるいは、こう言い換えることもできるかもしれません。「差異構造のすべてを持続の側に受け持たせて、差異それ自身であるもの(持続)と差異によって差別されるのみでそれ自身は差異構造をもたないもの(空間)とのあいだの差異と考えなければならない」(木村敏氏)。ドゥルーズは、時間と空間の本性の差異はもっぱら時間の側が担っているとしたのです。つまり、時間と空間の差異、それ自身が時間だというわけです。「動き」あるいは「生きている」状態は、まさしくベルクソン=ドゥルーズにとっては、時間そのものなのです。
 映像としてではない生命現象。時間そのものとしての「生きている」という事態。私たちは、このことをどのように捉えたらいいのでしょうか。これまで、『談』では数回にわたって「いのち」について考えてきました。今号では、その「いのち」を「生きている」ものと捉え返し、その重要なポイントとなる「時間」を手掛かりにして考察します。

生きものは、みな「生きたがっている」

 「生きるということは不思議な現象であって、生きている以上は生きることそのものを求めていくところがあります」。以前『談』(「身体のなかの進化論」一九九六年)で岡田節人氏と対談された木村敏氏はこう述べました。そして、ドイツの医学者ヴァイツゼッガーの、「生きている」ということを求めるあり方が「主体性」であり、人間だけでなく生きものはすべて主体的に活動している、という考えを紹介しながら、「生きている」という意味には、生物学的な意味だけではなく、「生きたがっている」という行動(動き)が含まれていると指摘したのです。
 ヴァイツゼッガーの「主体性」にしても「生きたがっている」という行動という言い方にしても、自然科学の言葉としてある種の馴染みにくさがあることは否めません。とくに「主体性」という言葉には、六○年代に流行した実存主義の残滓が見え隠れします。木村氏自身もそれは認めているようで、「主体性」が使い古されたカビのような言葉であると素直に述べておられました。ただ、そうであったとしてもこれらの言葉は、これまでの生命科学が忘れかけていた重要な側面に光を当てたとして評価するのです。
 生命には、生きものである普遍性という軸の他に、もう一つ個別性、多様性という軸があります。その二つの軸のどちらかが欠けても、生命科学は成り立たない。ところが、今の生命科学は普遍性の追求にのみ邁進して、もう一つの軸である、個別性、多様性が軽んじられているという。ヴァイツゼッガーの「主体性」の議論には、まさにその個別性、多様性を生命科学に組み込もうという強い意思が表れていると木村氏は言っています。
 対談の中でお二人は、分子生物学の成果を十分理解しながらも、それとは別の新たな動向が出てきているという点で意見の一致をみました。木村氏は、精神医学の立場から、精神医学が脳をターゲットとした生物学的精神医学(バイオロジカル・サイカイアトリー)に傾斜しているのに対して、精神病理学はもっぱら精神面の研究をその対象としてきたところに大きな違いがあったと言います。とはいえ、生物学的精神医学の発展は、精神病理の分野においても自然科学化を押し進め、現在では、薬物を治療に活かす生物学的精神医学をベースにした、新たな精神病理学が芽生えようとしているというのです。
 生命論においても「まるで申し合わせたように」同じ動向が見られると岡田氏は述べました。岡田氏は、生命科学が再び生物学へ向かう胎動があるという興味深い指摘をしています。「生命科学は、バクテリアからヒトまで共通の原理を発見しその原理を分子の働きとして説明することによって、人間の経済性の利潤を求めるプラクティカルなところへ直ちに突入」しましたが、今日再び生物学の時代が到来しつつあるというのです。生命科学は、確かに細胞一個一個の普遍性を明らかにしました。けれども、多細胞生物の場合は、生命体であることが基本です。つまり、細胞の集合体が基本になっていて、ある側面からみれば社会であるような性質も見られます。そこで、岡田氏は、生命科学の成果を十分考慮したうえで、そうした多細胞の集合体=社会を組み込んだ、新たな生物学が希求されているというのです。

変化と多様性をどう捉えるか

 多細胞生物を細胞社会と見ようという見方も、また単細胞生物でさえも主体として見るヴァイツゼッカーの見方も、生きものを具体的な個体として捉えようとするところに共通性があります。生きものの大きな特徴に、多様性があります。個体としての多様性を論じるためには、分子生物学が明らかにした遺伝子の仕組みだけでは説明できません。遺伝子に還元できない別の仕組みが必要になってきます。
 ゲノムと遺伝子の関係は、おおよそ次のようなイメージで考えることができます。ゲノムはHD(ハードディスク)そのものであり、染色体はHDの本体、遺伝子はHDに保存されたデータ(情報)、そして細胞はHDに保存された情報を画像や音声に変換し、再生や録画を行うPCのようなものにあたります。ただ、この説明では、自己複製とタンパク質合成ということは説明できても、もう一つの重要な仕事が説明できません。もう一つの重要な仕事とは、「変化」ということです。ゲノムが、自己複製とタンパク質合成という二つの仕事しかしていなかったならば、生物というのは一つの種類しか存在しなくなってしまいます。人間なら人間だけ、ショウジョウバエならショウジョウバエだけであり、あるいは複製されたクローンだけになってしまう。しかし、言うまでもなく地球上にはあらゆる生物が存在します。多種多様な植物や動物が存在し、しかもヒトを例にとればその一人ひとりが個性をもっています。つまり、生物は個体としての独自性をもって生きているのです(中村桂子氏)。それは、端的に変わりうる存在だということです。変わることが、多様性をつくり出しているのです。
 この多様性をつくり出すのも、じつはゲノムの重要な働きです。すなわち、それが「変わる」ということなのです。分子生物学の著しい発展によって、ゲノムのすべてが今や解明されつつあります。その成果を先取りして、「ゲノムの解析完了イコール生命の仕組みがわかった」という短絡した主張も生まれました。セントラルドグマという言い方はまさにその典型でした。しかし、それは、生きものの半面しか見ていません。生きものが「生きている」ということ、「多様性」をもっているということ、さらには、「個別性」をもっているということ、これらには明確な共通性があります。それは、「変わる」ということです。HDは確かにゲノムに似ています。しかし決定的な違いがあります。言うまでもないことですが、HDは「変わる」ことができません。FD(フロッピーディスク)からCDへ、CDからDVDへ、さらにはDVDからHDへ、技術の進歩はその形態を大きく変えました。けれども、この進歩は記録媒体の変化であり、あえて比喩的に言えば、細胞における自己複製とタンパク質合成にあたります。生きものが「変わる」というのは、もっと本質的な変化です。HDを含むコンピュータそれ自体が、気がつくと「龍」になっていた、「東京湾」になっていたというような変化のことです。別言すれば、「質」が変わってしまうことです。ドゥルーズの言う差異化とは、まさしくこの「質」の変化のことでした。この「質」の変化を生きものという文脈の中にどう落とし込んでいくか、おそらく岡田氏の言う新たな生物学、ヴァイツゼッカーの言う主体性は、その道を拓くための思考のツールなのかもしれません。

寿命としての時間

 生きものの多様性をつくり出していく時間。それはヒトにとっては、個体の歴史です。より具体的に言えば、人それぞれの歴史、つまりライフストーリーにあたります。生きもの(生物)であるという普遍性をもち、生きもの(種)としての多様性に開かれ、生きもの(個体)としてのライフストーリーをそれぞれが独自性(主体性)をもって生きること、この一切を「生命」というのでしょう。
 ところで、ライフストーリーが生きものを考える一つの軸となるとすると、ヒトにとって生涯という意味が重要になってきます。ヒトは、生涯をかけて個性をつくり、多様性をつくり、また種としての子孫を残すわけですから。ライフストーリーとは、「生きたがっている」生命の軌跡そのものだといえます。
 ライフストーリーという視点からヒトを改めて見てみると、生きものにとっては不可避な事態について思い知らされます。生きものは、必ず死ぬという事実です。生きものとして生まれた以上、成長し、老化し、やがて死を迎えます。「誕生は死への第一歩である」からこそ、私たちは、「生きたがる」のかもしれません。
 寿命としてのライフストーリー、これもまた「生きもの性」を決定付ける重要な要因の一つです。そして、寿命こそ「時間」そのものなのです。私たちは、寿命によって限界付けられたライフストーリーを生きる「生きもの」だということになります。
 この寿命についても、分子生物学は大いに寄与しました。さしあたっては、細胞死の発見があります。再生系の細胞と非再生系の細胞の違いから、アポトーシス、アポビオーシス、ネクローシスという三種類の細胞死の方法があり、分裂寿命はほぼ六○回ぐらいと決まっているといいます(田沼靖一氏『談』「老いの生物学」一九九八年)。このことは、生命の連続性をある段階で自らが絶ち切ること、すなわち、細胞に自死のシステムがセッティングされていることを示しています。細胞自身にセッティングされているこの自死のプログラムは、何を示しているのでしょうか。田沼氏は、これはもはや「遺伝子の夢」という他ないものであろうと言います。遺伝子が存続するために遺伝子をつくり直す。それは、いうならば次世代を残すために自己を積極的に消滅させることです。その手段が有性生殖という高度な技術であるならば、それと構造的に一体となったこの細胞死のシステムこそ、生命の本質を表しているといえます。
 生命という連続性を保持することを目的にして、あえて個体としての連続性を断つ。生命は、時間によってその生涯を限界付けられ、同時にまた、時間に生命を受け渡すことによって、「生きたがる」自己を獲得しているのです。生命とは、まさに、時間そのものに寄り添い、時間に住み着く「主体性」そのものだといえるでしょう。

 今号では、生命と時間を三つの切り口から掘り下げます。まず、生命と寿命の関係について、「生-政治」という視点から考察します。あらかじめ生命は寿命によって限界付けられているにもかかわらず、私たちは常に永遠の生あるいは不老不死の夢に取り憑かれてきました。近代の「生-政治」は、その願望を欲望に変換し、さまざまな場所に備給し続けています。芸術制作の場、またそれを鑑賞するミュージアムも例外ではありません。いや、芸術の場こそある意味で不老不死への欲望を赤裸々に表明する空間だといっても過言ではないのです。いたみ、煤にまみれ、汚れ、朽ち果てようとする作品を保存し修復すること。なんの疑いもなく遂行される修復という行為を正当化させているものこそ永遠の生、不死への渇望なのです。京都大学大学院人間・環境学研究科教授・岡田温司氏に、一見つながりのないように見える芸術制作の場、鑑賞の空間に深く浸透する「生-政治」についてお話いただきます。
 次に、ヒトのライフストーリーに深いレベルで関わる記憶について考えます。ヒトの時間意識とは、他ならぬ記憶のことです。現代の記憶研究は、脳科学の進展によって飛躍的に進みました。脳の中で刻まれる記憶としての時間について、東京大学大学院薬学系研究科講師・池谷裕二氏におうかがいします。
 三番目は、生命現象の複雑さ、多様さが時間によってもたらされているということについて。生命システム自体が、時間との抜き差しならぬ関係の内にあるという事実について、カオス、複雑系から探求されている東京大学総合文化研究科教授・金子邦彦氏にお聞きします。    (佐藤真)

 

editor's note[after]

薄目で見ること、生命を捉える方法

保存・修復のジレンマ


 「作品というのは、時間と共にあるものです。生命に老いがあるように、作品にも老いはある。修復というお題目で老いに介入することは、歴史の痕跡を消してしまうことになります」。岡田温司氏は、インタビューの最後にこう言って、それは、生命そのものを否定してしまうことにつながると芸術作品の保存・修復について警鐘を鳴らしました。
 作品をできるだけオリジナルな状態で鑑賞したい、美しい状態で見たいと思うのはごく普通の感情だと思われます。汚れて煤けたキャンバス、腐食し、傷んだ壁画が、洗浄され修復されて美しく甦るのだから、「こんなにいいことはないではないか」、「何が問題だというのか」、おそらく大方の人々はそう思うに違いありません。それほど保存・修復は、現代ではきわめて正当な行為と考えられています。ところが、その普通と思われている感情の中に「生-政治」のメカニズムが深く入り込んでいるというのです。
 「生-政治」もしくは「生-権力」。『談』ではさまざまな角度から再三取り上げてきましたが、美術館やそこに展示されている美術作品も、「生-政治」と無関係ではありません。いや、それどころか、視覚的なイメージの方がむしろ先行していて、「生-政治」化を誘導していったともいえるのです。生命こそ権力にとって最大の賭金となる。規律権力から「生-政治」への重心の移動によって、権力システムが個人(主体)の内部へ組み込まれました。私たちは、この権力を内在化させたシステムとして自ら発現するのです。
 一八世紀後半から顕在化してくる「生-政治」は、医学、生理学、衛生学、生物学、精神病理学、統計学、人類学、犯罪学などの知や制度と一体となって、私たちの身体およびその環境に微視的な力学圏を布置していきます。芸術とその言説はそれに先んじるように、いわば目に見える形でその下地づくりをしていったのです。汚れること、腐食すること、朽ちること、これらは直ちに「老化」のイメージと結び付き、劣化や悪化というコノテーション(潜在的意味作用)を引き出します。生命とは老いること、ならばその老いを可能な限り遅らせたい。生命は、やがて死ぬ。ならば、死なない方法を見つけ出したい。この「不老不死」への渇望が、芸術の表象である「永遠の美」と重なり合う時、保存・修復の言説がつくりあげられるのです。「まるで美容整形かダイエットか住宅リフォームのように、修復以前と以後の写真(映像)を並べて、before/afterを演出しようとする」。岡田氏が危惧するこうしたレトリックは、「生-政治」が内在化した社会にあっては、なかば当然の帰結なのです。
 ところで、近代社会は「まなざしのコントロールする空間」であり、それを極限まで徹底化させた場所がナチスの強制収容所だとアガンベンは言います。岡田氏は、ここでも驚くようなことを言いました。パノプティコン的空間の典型例が強制収容所だとすれば、最も「民主的」で隠れた形でそのまなざしを取り込んだ装置が、他ならぬミュージアム=美術館ではなかったかと言うのです。パノプティコンとは一見対極にありそうなミュージアムとそこに収蔵されている作品群。「どんな状態にある作品をいかにしてどこまで修復するのか。それは、いわば芸術作品の〈生命〉に関わること、つまり、その〈診断〉や〈治療〉、〈予後〉や〈健康管理〉に関わる重要事項」であり、「本格的な病院や医者の登場とも時間的に重なり合う」という。その背景にあるのは、衛生思想です。とりわけ一八世紀後半のビクトリア朝の時代、衛生学、あるいは公衆衛生の思想が広く社会に行き渡ることによって、健全で清潔な都市(ロンドン)、健全で秩序ある社会と家族(ブルジョア)、健全で美しい芸術(その殿堂としてのナショナル・ギャラリー)の三者は、あたかも三位一体をなすかのように、分かちがたく結び付いていったというのです。
 社会・家族、都市、そして美術館の三者が「清潔」の理念の基に一体化する。この強力な三位一体は、やがて排除と選別という社会体制を準備することになります。老いることは、クロノスに身を売り渡すことであり、それは端的に悪であり、病気であるとみなされてしまう。それは、生命にとっては必然的なはずのライフストーリー、「生老病死」という過程を自ら否定することでもあります。冒頭に引用した岡田氏の発言は、まさしくこの老いを悪や病気と見なす「生-政治」のメカニズムそのものに向けられた批判でした。生命とは歴史そのものである時、その歴史を洗浄することは、歴史そのものを抹消することになります。それは、生命の抹殺を意味する行為であり、ライフストーリーという時間の抹殺でもあるのです。

記憶は未来のためにある

 時間を意識することは、日常生活では記憶を意味します。現在の意識とは、記憶に他なりません。現在の記憶研究は、脳科学が切り開きました。池谷裕二氏は、インタビューの冒頭、なぜ記憶があるのか、それは「未来の自分のため」にあり、脳がその役割を担っていると言いました。ただ、脳はオールマイティというわけではなくて、その仕事のほとんどは「予測」と「適応」に絞られているというのです。その「予測・適応」を遂行するために記憶を蓄えるということが必要になるというわけです。
 通常、ものの名前をよく覚えているとか、電話番号を忘れないとかということを記憶と呼んでいますが、それは記憶の中の意味記憶に分類されるもので、記憶の分類からいうとごく一部でしかありません。脳科学、神経科学によって解明された記憶の種類には大きく分けて「ワーキングメモリー(短期記憶)」と「長期記憶」の二つがあります。「ワーキングメモリー」は、とりあえず短期間(数十秒〜数分程度)記憶しておくところです。「長期記憶」はさらに細かく、個人の思い出などの「エピソード記憶」、知識としての「意味記憶」、身体で覚える、ものごとの手順としての「手続き記憶」、勘違いのもととなる「プライミング記憶」に分類されます。この分類は、心理学者のスクワイアによって提唱されたもので、「スクワイアの記憶分類」と呼ばれています。この他にも、「ワーキングメモリー」と「エピソード記憶」は意識のレベルで記憶されているところから「顕在記憶」、一方、「意味記憶」、「手続き記憶」、「プライミング記憶」を「潜在記憶」とする分け方もあります。記憶が関わる脳の部位としては、海馬、扁桃核、乳頭体、視床などがありますが、とりわけ海馬が重要です。池谷氏が指摘するように、海馬は情報を篩にかけて整理する場所であり、海馬を経由して情報は必要な脳の部位に蓄えられるという仕組みになっているのです。この海馬の機能がかなりわかってきたことが、脳の記憶研究を飛躍的に進めることになったのです。

ニューロンの時間論の意味

 「記憶は脳の機能であり、記憶が私たちにとっての時間である。以上」。むろん、これだけでは全く面白くありません。それこそ知識としての「意味記憶」を蓄えただけで終わってしまいます。むしろ、重要なのは池谷氏が紹介する脳の分散処理と時間との関わり、さらには、ニューロンの時間と意識の時間の違いです。私たちが問題にしたい生命と時間のつながりは、意識化された「顕在記憶」よりも「潜在記憶」、あるいは、脳内機能そのものにこそあるのです。
 池谷氏は、脳の分散処理を「転がるリンゴ」を例に説明してくれました。「転がるリンゴ」を認知するためには少なくとも色、形、動きの三つの解析が必要で、それを脳はそれぞれ別の部位でやっているというのです。しかも処理には微妙にタイムラグがある。最初に認知できるのが色。次が形で、最後が動き。「だから、〈転がっているリンゴ〉という描写はあり得ない」。正確には「〈○・二秒前にここに赤い物体がありました。○・三秒前、それはリンゴでした。○・五秒前にそれは転がっていました〉」となるというのです。しかも、現在の神経科学では統合システムはないので、それは分散処理されたまま脳内の数カ所に格納されることになるわけです。これは、きわめて不思議な事態だといえます。ニューロンはまず赤いという色に反応し、それに少し遅れてりんごの形に反応し、最後に動きに反応する。さらに興味深いのはそのニューロンは、百分の一秒より細かくは認知できないというのです。つまり、脳の中で時間は、ある単位以上には細かくできないのです。池谷氏は、量子力学の例を引いて、時間も脳の中では量子的、すなわち、離散的(飛び飛び)でしかありえないという。時間というものが――少なくとも脳を介して認知される時間に関しては、百分の一秒より細かくしても意味がないということになります。これは、ちょうど一秒間に三〇フレームでコマ送りされるビデオフレームと同じくらいです。ということは、どういうことか。editor's noteの冒頭で述べたような疑問が、じつはあまり意味がないということを示しているということになります。つまり、細胞それ自体の動きと視覚によって構成された動きが全く別物であったとしても、脳を介している以上、そもそも一致することがありえない。というよりも、その不一致という事実自体がほとんど意味のないことなのです。
 池谷氏がその後に紹介したニューロンの時間が意識に先行しているという報告では、結局細胞自体もゆらいでいて、私たちはそもそもそうしたゆらぎの中にいるという。そのことから、生きものというのは、ゆらぎの構造をもった閉じた系であり、そのゆらぎ自体が内部の状態を少しずつ変異させているのではないか、という仮説に行き当たります。脳の時間がゆらぎ自体だとしたら、そのゆらぎの目的とは何か。それを追究するためには、科学そのものの方法論をも変えていかざるを得ないというのです。「脳の状態は決定論ではない」。したがって、非エルゴードに足を踏み込まざるを得なくなり、それはもはや科学を踏み越えてしまうかもしれません。

ゆらぎからよどみへ

 科学を踏み越えた新たな科学は、いかにして可能なのでしょうか。生きものの時間の探求は、時間というものが何かという、結局哲学的な問題領域へ向かうことになるのです。
 池谷氏の後半の議論が「ゆらぎ」に行き着いたとすれば、金子邦彦氏のインタビューはこの「ゆらぎ」から始まりました。金子氏は、生きものをまず「ゆらぎ」と考えるところから出発しようというのです。インタビューを整理してみましょう。生物はよくできた機械で時々エラーを起こす。これまでそうイメージされることが多かったわけですが、実際は逆ではないか。そもそも変化(エラーに見えるような)することが自然であって、その中でたまたまある状態に留まり続ける。それこそが生物で、そう考える方がはるかに自然だろうという。「ゆらぎがあるからこそ、生物は柔軟に適応し進化したと考えることもできるのではないか」というわけです。
 ここで言う「ゆらぎ」とは何か。金子氏は著書『生命とは何か』で次のような言い方をしています。「細胞の状態をどのような量で表現したとしても、それがきちっと一定した値をとるとは考えられないであろう。同じタイプの細胞をとってきてもそれは細胞ごとにそれぞれ異なっている。また1つの細胞を時間的に追った場合でもその状態は時間的にゆらいでいる」。つまり、「細胞の状態のゆらぎは、たとえばその化学成分の濃度や遺伝子発現量のゆらぎとしてとらえられる」というのです。ゆらぎとは、簡単に言えばズレやブレやノイズと見なされるような「状態の変化」のことです。そうした状態の変化が常に起こっているのが生きものだというわけです。
 そうした生物は、しかし膨大な化学成分があります。普通の物理学では状態を表すのに三次元空間の一点で表せるのですが、細胞の中には十万種類の成分があり、その状態を表そうとすれば、十万次元の中の一点になります。しかもその辺りというあいまいなものになる。「ある細胞のタイプはあるまとまりをもった雲のようなものとしてみえて、それとは別のタイプの細胞は別な点の雲としてみえる。そのタイプの違いは、異なる雲の違いです。違うタイプの細胞の属する雲は、十万次元の中で離れて存在していてお互いはつながっていない。そういうふうに雲がいくつか離れて存在する」。
 生物の特徴に多様性がありますが、それはこの雲の違いであり、また、金子氏のキーワードである「よどみ」と深く関係します。では、「よどみ」とは何かということになるわけですが、これがなかなかつかまえにくい概念です。それは、金子氏の研究がそもそも力学系ベースだからですが、これも簡単に言ってしまえば、変化している、すなわち、ゆらいでいる系の中で変化の少ない状態が「よどみ」です。変化が少ないということはあるところに留まっているということですが、「よどみ」は増える方にも関わっている。留まる方にも、増える方にも「よどむ」ということは、言い換えれば平衡状態を回避する役目をもっているのではないかというのです。そして、「エントロピーは閉じたシステムでは時間と共に減りはしない、ということで時間の矢の指標となりました。生物学的なレベルでも、違うレベルで時間の矢がある」という。ここに、時間が深く関わってくるわけです。
 熱力学で、閉じた系の場合はエントロピーが増え続けてやがて熱平衡状態を迎えます。開放系では、ものの出入りがあることで平衡状態を逃れる散逸構造がありますが、それと同じように、平衡状態を外れるようなシスステムが生物には最初からあって、それが「よどみ」と関係しているのではないかと金子氏は考えているのです。ただやっかいなのは、散逸構造ではその条件が外から与えられているのに対して、生物の場合はその条件を自らがつくり出しているというところです。そのことをどう理解していけばいいのか。金子氏は、新たな概念が必要になってくるだろうと言います。熱力学がエントロピーというそれまでなかった概念をつくり出すことで理論化できたように、生物のこの「よどみ」現象を理解するためには、新たな概念、新たな理論大系がぜひとも必要だと言うのです。熱力学は、ミクロ現象にはあえて目をつむりマクロ現象だけを考えることで、その理論化に成功しました。生物のこのシステムの解明にも、同様の方法論的な飛躍が必要です。金子氏が「薄目で見る」と言ったのは、まさしくこの新たな方法のことでした。
 生命とは「ゆらぎ」であり、「よどみ」という特異な現象を孕んだシステム全体のことです。言い換えれば、ある種の「いい加減さ」をもったゆるい仕組みです。であるならば、それをつかまえるためには、つかまえる側も「いい加減」さと「ゆるさ」が必要条件であり、それを金子氏は「薄目で見る」と表現したのでしょう。

 「生きている」ことは、すなわち「変わる」ことです。この変化、動きという事態にどう向き合えばいいのでしょうか。もしかすると、それは、科学それ自体の方法論を組み替えていくことになるかもしれません。たとえそうであっても、私たちはそれを遂行する必要があります。なぜならば、変化するものが生命である限り、もはや時間を無視して捉えることはできないからです。時間を組み込んだ新たな科学の方法論が待望されます。 (佐藤真)

 
   editor's note[before]
 


◎生命システムの思想
生きていることの科学 生命・意識のマテリアル 郡司ペギオー幸夫 講談社現代新書 2006
システム現象学 オートポイエーシスの第四領域 河本英夫 青土社 2006
"1分子"生物学 生命システムの新しい理解 合原一幸編著 岩波書店 2004
生命とは何か 複雑系生命論序説 金子邦彦 東京大学出版会 2003
メタモルフォーゼ オートポイエーシスの核心 河本英夫 青土社 2002
システムバイオロジーの展開 生物学の新しい展開 北野宏明編 野村修訳 シュプリンガー・フェアラーク東京 2001
生命システム 金子邦彦他 青土社 1997
オートポイエーシス 生命システムとはなにか H・R・マトゥラーナ、F・J・ヴァレラ 河本英夫訳 国文社 1991

◎複雑系/カオス
カオス 力学系入門 1.2. K・T・アリグッド他 津田一郎訳 シュプリンガー・ジャパン 2006
カオスと秩序 複雑系としての生命 F・クラマー 高木隆司他訳 学会出版センター 2001
カオスから見た時間の矢 時間を逆にたどる自然現象をなぜみられないか 講談社ブルーバックス 2000
複雑系入門 知のフロンティアへの冒険 伊庭崇、福原義久 NTT出版 1998
カオスの紡ぐ夢の中で 金子邦彦 小学館文庫 1998
複雑系の進化的シナリオ 生命の発展様式 金子邦彦他 朝倉出版 1998
複雑系のカオス的シナリオ 津田一郎他 朝倉出版 1996
カオス まったく新しい創造の波 合原一幸 講談社 1993
哲学者クロサキと工学者アイハラの神はカオスに宿りたもう 合原一幸、黒崎政男 アスキー出版局 1999
カオス 自然の乱れ方 竹山協三 裳華房 1991

◎脳・記憶・情動
進化しすぎた脳 池谷裕二 講談社ブルーバックス 2007(朝日出版社 2004)
脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?  池谷裕二 祥伝社 2006
記憶と情動の脳科学 「忘れにくい記憶」の作られ方 J・L・マッガウ 大石高生他訳 講談社ブルーバックス 2006
海馬 池谷裕二、糸井重里 新潮文庫 2005
脳はここまで解明された 内なる宇宙の神秘に挑む 合原一幸編著 ウェッジ 2004
無意識の脳 自己意識の脳 身体の情動と感情の神秘 A・R・ダマシオ 田中三彦訳 講談社 2003 
エモーショナル・ブレイン 情動の脳科学 J・ルドゥー 松本元他訳 東京大学出版会 2003
記憶力を強くする 池谷裕二 講談社ブルーバックス 2001
生存する脳 心と脳と身体の神秘 A・R・ダマシオ 田中三彦訳 講談社 2000

◎生命の時間/自己の時間
時間はどこで生まれるのか 橋元淳一郎 集英社新書 2006
生命と現実 木村敏との対話 木村敏、檜垣立哉 河出書房新社 2006
時間は実在するか 入不二基義 講談社現代新書 2002
偶然性の精神病理 木村敏 岩波書店 2000
記憶と生 H・ベルクソン、G・ドゥルーズ 前田英樹訳 未知谷 1999
時間 生物の視点とヒトの生き方 本川達雄 NHKライブラリー 1996
時間を哲学する 過去はどこへ行ったのか 中島義道 講談社現代新書 1996
時間と自己 木村敏 中公新書 1982
創造的進化 ベルクソン 真方敬道訳 岩波文庫 1979
時間 その哲学的考察 滝浦静雄 岩波書店 1976

◎芸術と生-政治

芸術と生政治 岡田温司 平凡社 2006
フーコーコレクション6 生政治・統治 M・フーコー 小林康夫他訳 ちくま文庫 2006
マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女 岡田温司 中公新書 2005
モランディとその時代 岡田温司 人文書院 2003
ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生 G・アガンベン 高桑和巳訳 以文社 2003
必要なる天使 M・カッチャーリ 柱本元彦他訳 人文書院 2002
システィーナのミケランジェロ 青木昭 小学館 1995

◎寿命の現象学
時間と生命工学 ヒトの一生のメカニズムに迫る 独立行政法人産業技術総合研究所 年齢軸生命工学研究センター編著 丸善 2005
ヒトはどうして老いるのか 田沼靖一 筑摩新書 2002
老化時間 寿命遺伝子の発見 白沢卓二 中公新書 2002
分子レベルで見る老化 老化は遺伝子にプログラムされているのか? 石井直明 講談社ブルーバックス 2001
死の起源 遺伝子からの問いかけ 田沼靖一 朝日選書 2001