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「共存」、「共生」から「共在」へ
現実化するゼロ・トレランス 「ゼロ・トレランス」に関心が高まっています。「ゼロ・トレランス」とは、文字どおり不寛容の徹底化ということで、ここ数年、社会の管理・統御技術としてアメリカで注目されている概念です。犯罪学者のジョック・ヤング氏によれば、「市民道徳に反する行為を絶対に許さず、しつこい物乞いや押し売り、浮浪者、酔っぱらい、娼婦を厳しく取り締まり、街中から逸脱者や無秩序を一掃すること」であり(1)、そのターゲットは、コミュニティに置かれています。 「ゼロ・トレランス」の発想源に、「割れた窓(broken
window)」理論があると酒井隆史氏は指摘しました(2)。道徳的な乱れ、ルール違反、秩序の乱れがやがて大きな犯罪につながっていく。割れた窓はまさにその徴候であるというわけです。わが国でも導入される日は近いだろうと酒井氏は危惧していましたが、じつは「ゼロ・トレランス」もしくはそれに近似した政策が、次々と現実化しているのです。たとえば、学校の「いじめ」対策として「ゼロ・トレランス」で対応しようという声があがっているといいます(3)。「服装や言葉の乱れなど」はレベル一〜二、「喫煙」はレベル三、悪質な暴力行為はレベル四〜五とし、それぞれ担任、生徒指導部長、教頭、校長というように、レベルによって細かく対応している学校が出てきているというのです。また、文部科学省も強い関心を示し、一昨年まとめられた報告書には「ゼロ・トレランス方式の調査研究」が盛り込まれていたといいます。 ヤング氏は、包摂型社会から排除型社会へという流れは、世界的な傾向であると述べています。その背景に、犯罪の凶悪化、増加といった理由だけではなく、社会全体の衰退、失業者の増大、コミュニティの崩壊、伝統的家族の解体、他者への尊敬の念の喪失、社会病理の蔓延をヤング氏は挙げていますが、その他に、社会そのものの流動化が起因しているという指摘もあります。いわゆる共同体の崩壊がその最も大きな原因だというのです。
「共生」の二つの源泉 ところで、近年、「共生」という言葉が、さまざまな文脈で使われるようになりました。「人間と自然の共生」、「他民族・他文化の共生」、「障害者との共生」、「男女の共生」等々。今日、価値観の多様化がいわれ、旧来の発想に変わる新しい価値が求められるようになり、その一つとして「共生」という発想が出てきたのです。自他の融合である共同体への回帰ではなく、他者の存在を認め、他者との対立、緊張関係を受け入れながら新たな関係を創造しようという営為が、「共生」です(4)。 「共に生きる」を原義とする「共生」には、生態学用語のシンビオシス(symbiosis)と社会思想に由来するコンヴィヴィアリティ(conviviality)の二つの源泉があります。シンビオシスは、さらに両者共に利益のある関係が広義の意味での共生だとすれば、関係はなく単に空間を共有している「共存」、一方のみが利益を得る「寄生」に分けられます。コンヴィヴィアリティは日常的には宴という意味しかありませんが、イヴァン・イリイチなどがそれに「開放性」、「異質な者の許容」、「参加者によるルールの遵守」といった含意をもたせたことで、より能動性のある概念になりました。 シンビオシスとコンヴィヴィアリティには、異質な存在、自分にとって都合の悪い存在に対する「許容」という共通点があります。今日、「共生」が新たな価値体系の重要な構成要素足り得ている理由は、まさにここにあるといえます(5)。しかし、その「許容」には対立、差異、多様性は含まれているものの、それへの同化は含まれていません。言い換えれば、「共生」は、あくまでも異なるものと「共に生きる」ことであり、そのための権利と承認要求です。種としての類縁性、相利共生は「共に生きる」ことの条件なのです。したがって、根源的な他者に対しては、かえって門戸を閉ざしてしまう。いわゆる原理主義に対しては排他的で、また、条件次第では、ある種の寛容さとも対立します。
「共在感覚」の射程 寛容さを失った社会の中で、いかにして他者(根源的な)を理解し受け入れていくか。そんなことを考えていた時に、「共在感覚」という聞きなれない言葉をタイトルに据えたテキストに出会いました。 「村の中ほどの広場で、男が叫んでいる。ヒットラーの演説を思わせる、はげしい身振りだ。どうにも収まりのつかない鬱憤を投げ出しているかのように見える。私は、尋常ではないものを感じて家の外へ飛び出す。何か大きな事件が起きたのではないか。しかし村内にはわずかな人影が見えるだけだ。安楽椅子に腰掛けてハンティングネットの縄をなう老人、差しかけ小屋で鍋を火にかける女。日常生活は、何も聞こえていないかのように続いている」。 アフリカ・ザイールの熱帯雨林に住む農耕民ボンガンドの村に滞在した著者が、その「特異な発話」を体験した時の印象です。私たちの常識からすると特異に聞こえる発話は、ボンガンドの村では「ボナンゴ」と呼ばれていました。「ボナンゴ」は、その語り手だけを見ていると、大声で聴衆を相手にしているような「演説」のように聞こえます。ところが、聞き手に注目すると、その「演説」に耳を傾ける人はおろか、村の中に誰もいないということもあるのです。「ボナンゴ」をしている最中にその人の横を通り過ぎる場面に遭遇したこともあるそうですが、語り手の存在がまるで透明人間ででもあるかのように、無視してさっさと行ってしまったそうです。その後著者は、ザイールで調査を続けている間、この、「ボナンゴ」を何度も聞き、ボンガンドの村ではそれが日常的に行われていることを知ったのです。 著者は、ザイールの調査の後、カメルーンに赴き、狩猟採集民であるバカ・ピグミーの人々と出会います。そして、ここでは、ボンガンドとは全く異なる発話の様子を体験することになりました。この二つの社会を貫くものは何か。著者はそれを「共在感覚」と名付けたのです。 「人と人が共にある、そのやり方がいかに多様でありうるか。アフリカのフィールドで人々と生活を共にしながら、私は身にしみてそのことを感じた。共にある態度、身構え、そういったことを呼ぶのに、ここでは〈共在感覚〉ということばを用いてみたい。私が本書で示そうとしているのは、共在感覚のさまざまなあり方、そしてその面白さである」。 共存ではなく、また共生でもない「共在」。この「共在」という言い方に注目してみたい。文化人類学のフィールドワークから得られた「共在感覚」。この記述を通して見えてくるものとは何か。おそらく、人々の関わり、つながり、切れながらも、共にあることへと向けられるある志向性ではないでしょうか。「共在」という言葉から、他者との新たな関係を考えることができそうです。そこで、『共在感覚--アフリカの二つの社会における言語的相互行為から』の著者、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科准教授・木村大治氏に、ズバリ「共在感覚」についてお聞きします。
「交流する」身体の地平 ケアということばがあります。広くは世話や気配りのことですが、主に医療の領域では、看護とか介護という意味で使われています。看護や介護をすることは、他者へ手を差し伸べることであり、他者への働きかけそのものです。ケアはその意味で、共にあることを強く意識しているといえます。共にあることから出発するケアですが、一般的に〈病い〉の後に営まれるものと受け止められていました。ケアは、つねに〈病い〉の後からついてくるものという暗黙の了承がありました。しかし本当にそうでしょうか。ケアは、〈病い〉と共にすでに始まっているのではないか。ケアについて、改めてこう問いかけたのが、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター准教授・西村ユミ氏です。 西村ユミ氏は、神経内科病棟で看護師として働いていました。神経内科病棟には、徐々に全身の筋力を失い、しまいには自力で呼吸することさえ困難になっていく患者や、自分の意志に反して勝手に動く身体とうまく付き合っていかなければならない患者、あるいは、脳梗塞などの脳血管障害を発症した患者など、その多くは、言語を音声で表現する言語コミュニケーションが困難な状態だったというのです。中には、気管切開により、また、人工呼吸器を付けるために、言葉を発するすべを失った人、脳の言語中枢に障害を受けたため、声を出すこと自体が困難な患者すらいたのです。神経内科病棟の看護師たちは、こうした患者たちの、はっきりした言葉や身振りで表現することのできない訴えを受け止めることから看護を始めていたというのです。 医療の領域では、いわゆる植物状態の患者は、自分自身や自分を取り巻く環境を認識できず、他者と関係することは不可能であると定義されています。しかし、実際に彼らと接している看護師や医師の多くは、この定義では理解できないような「患者の力」を目の当たりにしているといいます。なぜそのようなことが可能なのか。それは、そこに「身体」があるからだというのです。植物状態の患者と看護師との関わりをつなぐものこそ身体に他ならない。身体がそこにあることで両者は意思疎通が可能になるのだろうというのです。 西村氏は、看護師であった時の経験に基づいて、ある看護学生が、「病い」にどう遭遇し、そこでどのような経験をし、それをどう表現しているか、その具体的経験を記述するという試みを始めました。患者の傍らで経験している者の声に耳を傾け、その作業を通して、他者の病いや苦しみに手を差し伸べること自体の意味をそこでは問い直そうとしたのです。 「病むものはその経験を共有する人を欲する。つまり、〈病むこと〉は他の人びとともにある。病む者という〈他者〉の身近に身を置く医療者の経験は、病い自体、あるいは病いという出来事をともにつくりあげているといえるであろう」。 「病い」は、病む当事者にのみ経験されているものではなく、その傍らで「病むこと」に触れている者にも同等に経験されている出来事ではないか。西村氏は、「病い」という経験は、ケアという営みと対になって、手を差し伸べようとする者の行為と共につくられるものだという確信を得るのです。つまり、「病い」が形づけられることとケアの営みが始まることは、同じ出来事の二つの現れだというのです。 他者と共にある私とケアとの関わり、その結び目としての身体について、西村ユミ氏にお聞きします。
「自分探し」という不毛を超えて 人間の行動の原因はその人の内面にあります。だから、行動を変えるには、その人のこころを変えなければならない。社会現象を社会や環境からではなく個々人の性格や内面から理解しようとし、また、「共感」「ふれあい」「自己実現」といった言葉で解決を図ろうとします。「自分探し」という言葉に象徴されるようなこうした考えが、今われわれの周囲にはびこっていないでしょうか。自分の行動に関わる問題が生じた時に、常に自分の内面へと注意が向き、自分のアイデンティティを問い直し、自分の性格や意識、心的内容こそを改変しようとする傾向をもっているとしたら、それは「心理主義」という罠に落ちている、そう指摘するのは玉川大学文学部人間学科准教授・河野哲也氏です。本来は、社会的・政治的であるはずの問題を、個人の問題へとすり替えるのは典型的な政治的プロバガンダだと河野氏は厳しく批判します。 河野氏は、『〈心〉はからだの外にある 「エコロジカルな私」の哲学』(NHKブックス)で次のような例を出して心理主義、さらには心理主義的道徳観の限界を提示しています。 以前、少年による残酷な犯罪が続いた時に、「なぜ人を殺すことは悪いのか」という問いを発した青年に対して、知識人はまともに答えることができなかったということがありました。河野氏によれば、それこそが心理主義の陥穽を表しているというのです。「人を殺してはいけない」という道徳律は、参加者同士の取り決めであり取引であり、相互的な呼びかけです。殺人の禁止(その理由)を人間行為の相互性にではなく、自分のこころの中に探すということ自体が異常なことではないかというのです。この考え方において、忘却されているのは「他人の存在」であり、「身体性」ではないか。人の死とは抽象的な概念ではなく、具体的な事実です。すなわち、私たちにとっての死とは、何よりも死体のことなのです。道徳や倫理の最終的根拠は、生きた身体が殺人によって死体になるという事実です。つまり、身体がそこにあるということです。 河野氏は、われわれの身体は環境の中に埋め込まれていて、「こころ」の活動も周囲の環境から切り離してはあり得ないとするギブソンの生態学的心理学を拠り所に、「私とは何か」、「内面とは何か」、「他人とは何か」という課題を捉え直そうとします。言い換えれば、自己と他者の関わりについて、生態学的心理学の観点から答えようというわけです。 そこで、最後にこのエコロジカルな身体の理論を、「共在感覚」へと架橋することで、「共に在る」哲学、その可能性を河野哲也氏にお聞きします。(佐藤真) 引用・参考文献 1.ジョック・ヤング『排除型社会--後期近代における犯罪・雇用・差異』青木秀男訳、洛北出版、2007 2.酒井隆史「匿名性……ナルシズムの防衛」『談』no.71所収、TASC、2004 3.香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』講談社現代新書、2007 4.井上達夫『共生の作法』創文社、1986 5.廣野喜幸「共生」の項『事典
哲学の木』講談社、2002
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