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[最新号]談 no.83 WEB版
 
特集:パターナリズムと公共性
 
表紙:齋藤芽生 本文ポートレイト撮影:新井卓
   
    
 

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人間の合理性とパターナリズム

瀬戸山晃一
せとやま・こういち
1966年広島県生まれ。大阪大学大学院法学研究科修了(法学博士)、米国ウィスコンシン大学マディソン校ロースクール修了(M.L.I., LL.M.)。大阪大学留学生センター准教授。法学(法理学、法と医療・生命倫理、行動心理学的「法と経済学」)専攻。主な論文に「遺伝子医療時代における倫理規範と法政策」杉田米行編『日米の医療』所収、大阪大学出版会、2008、「遺伝子情報例外主義論争が提起する問題」甲斐克則編『遺伝情報と法政策』所収、成文堂、2007、 Arguments For and Against Genetic Privacy Protection Laws, 54 Osaka Univ. Law Review (2007)、「自己決定の合理性と人間の選好—Behavioral Law & Economicsの知的洞察と法的パターナリズム—」日本法哲学会編『宗教と法』有斐閣所収、2003、「現代法におけるパターナリズムの概念」『阪大法学』、1997、他。

パターナリズムという概念や規制自体の是非ではなくて、
個別の領域や事例において、
どのようなパターナリズムに基づく法的な規制や保護が不要(不適切)であり、
いかなるパターナリズムに基づく制度が必要なのかという規範問題を、
公共性の概念の下で、再検討することだろうと思います。
パターナリズムを所与のものとして捉えたうえで、
どういうパターナリズムをわれわれは選択すべきか、
今、問われているのは、まさにそのことではないでしょうか。

 
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「同意」はパターナリズムを正当化できるか。

樋澤吉彦
ひざわ・よしひこ
1973年長野県生まれ。日本福祉大学大学院社会福祉学研究科社会福祉学専攻博士前期課程修了。立命館大学大学院先端総合学術研究科先端総合学術専攻博士課程在籍中。精神科病院ソーシャルワーカーなどを経て、現在、長野大学社会福祉学部社会福祉学科専任講師。主な論文に、「〈同意〉は介入の根拠足り得るか?—パターナリズム正当化原理の検討を通して—」『新潟青陵大学紀要』5号、2005、「『自己決定』を支える『パターナリズム』についての一考察:『倫理綱領』改定議論に対する違和感から」『精神保健福祉』34巻1号、2003、他。 「樋澤吉彦のホームページ」を開設。

正当化原理が備わったパターナリスティックな介入があって
初めて本来的な自己決定を実現できると考えています。
その意味において、社会福祉実践のなかで忌避されてきたパターナリズムは、
条件付きではあるものの、
実践のなかでもっと言及されてもよいのではないかと考えています。

 


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(鼎談)大屋雄裕×北田暁大×堀内進之介

幸福とパターナリズム……自由、責任、アーキテクチャ

大屋雄裕
おおや・たけひろ
1974年福井生まれ。東京大学法学部卒業。現在、名古屋大学大学院法学研究科准教授。法哲学専攻。著書に、『法解釈の言語哲学:クリプキから根元的規約主義へ』勁草書房、2006、『自由とは何か—監視社会と「個人」の消滅』ちくま新書、2007、共著に、『岩波講座憲法1』岩波書店、2007、『情報とメディアの倫理』ナカニシヤ出版、2008、他。

リスクの影すらなくしておかないと支配者として安全ではいられない。
セキュリティが徹底されていく背景にはこういう問題がある。
支配者自体が被支配者の欲望に操られていて、
結果的に、社会それ自体が被支配者の可能性とか希望を
縮減する方向へ向かっていく。これを止めるためにはどうすればいいか。
配慮への欲望を捨てることです。


北田暁大
きただ・あきひろ
1971年神奈川県生まれ。東京大学人文社会系研究科博士課程退学。博士(社会情報学)。現在、東京大学大学院情報学環准教授。著書に、『嗤う日本の「ナショナリズム」』NHKブックス、2005、『〈意味〉への抗い』せりか書房、2004、共著に、『思想地図』vol 1、2、NHKブックス、2008、『歴史の〈はじまり〉』左右社、2008、他。

私たちの倫理的直観は多くの場合、
体系化され得るほどに整合性をもっていない。
その整合性のなさを、人々の合理性の欠如と捉えるのではなく、
それなりに道理に適ったreasonableなものとして受け止めていく。
私としては、「何かイヤだな感」というのも、総体としてみれば
一定の道理をもった倫理感覚として考えてみたいんですね。


堀内進之介
ほりうち・しんのすけ
1977年大阪府生まれ。東京都立大学大学院修士課程修了。政治社会学、歴史社会学専攻。現在、首都大学東京大学院博士後期課程在籍、現代位相研究所首席研究員。共著書に、『幸福論 〈共生〉の不可能性と不可避性について』NHK ブックス、2007、『ブリッジブック社会学』信山社、2008、論文に、「再帰的近代における批判とはいかなるものか」、「統治の比較社会学 真・善・美の歴史的位相」『社会学論考』、首都大学東京・都立大学社会学研究会、2008、他。

制度設計への批判を通じて、
それ自体が制度設計に翻っていくような形での
コミットメントしかないんじゃないかと思っています。
その意味で、フーコーの言葉ですけども、
その都度の決定において合意的でない部分がどれくらいの比率であって、
それは避けられないかどうかということを徹底して考えていくというのが私のスタンスです。


 

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パターナリズムとは何か

 パターナリズムという言葉をよく耳にするようになりました。印刷メディアはさることながら、ブログやミクシィ(SNS=Social Networking Serviceの一つ)などのウェブ上でも、パターナリズムに直接言及した書き込みや「それってパターナリズムじゃない?」といったコメントが寄せられていたりするのを目にすることがあります。あるいは、日本社会は、非常にパターナリスティックである、と発言する研究者がいます。身近なところでは、『談』別冊「shikohin worldたばこ」の対談で、生物学者の池田清彦氏が、「国家全体が、科学を武器にパターナリスティックな言辞を弄して人々のからだを管理しようとしている」と述べておられたのが印象的でした。
  どちらかというとあまりいい意味で使われることのないパターナリズムですが、そもそもパターナリズムとはいかなるものでしょうか。それは本当にネガティブなものなのでしょうか。今号では、いったん先入見を解除したうえで、パターナリズムについて、作用圏域、隣接領域との関わりからその意味について考えてみようと思います。
 パターナリズムとは何か。刑事法が専門の國學院大學教授・澤登俊雄氏によれば、それは、「ある人の行為が他人の利益を侵害するわけではないのに、そのような行為はあなたのためにならないからやめなさいとか、もっとこういうことをしなさいといって干渉すること」と簡潔に説明しています。澤登氏は、憲法や法哲学、政治史、国際関係論といった異分野の専門家たちと一緒に「パターナリズム研究会」を長年やってこられましたが、その研究会が基になって、『現代社会とパターナリズム』を著しました。パターナリズムを正面に掲げた専門書となるとわずかしかありませんが、本書はその中の貴重な一冊です。主に、私たちの生活する社会が「自由社会」といわれながら、個人に対する介入や干渉が認められるのはなぜか。具体的な事例を挙げながら検討するというスタンスで、パターナリズムが認められる根拠が、ほぼ網羅的に検討されています。そこで、本書の議論を敷衍しながら、まず、パターナリズムの概略を明らかにしましょう。

干渉の理由とパターナリズム

 人々の生活や暮らしに国家などの公権力が介入、干渉を行う理由として、侵害原理、保護原理、道徳原理の三つがあるといわれています。自由主義のベースとなっている「個人の尊厳の尊重」あるいは「自己決定の尊重」(プライバシーの権利)と三つの原理を突き合わせてみると、保護原理の解釈が最も難しいようですが、この保護原理こそパターナリズムの言い換えだといえます。現代社会では、パターナリズムによる介入、干渉が人々の生活や暮らしのさまざまな場面で行われています。
 パターナリズムの意味には、大きく分けて二種類あるといいます。一つは、他者に干渉する「理由」としてのパターナリズム。もう一つは、「支配の形態」としてのパターナリズムです。まず、「干渉する理由」からみてみましょう。それは、およそ五つ考えられるといいます。一は、他人に危害を及ぼす行為を防ぐという理由。二は、人々に著しく不快感を与える行為を防ぐという理由。三は、公共の道徳を保持するために干渉するという理由。四は、公益のためという理由。五は、干渉される人のために干渉する理由。
 一の危害とは、人々の生活に対する実害のことで、刑法でいう、個人的法益、社会的法益、国家的法益に対する侵害にあたります。この侵害を防ぐために他者の行為に干渉するのが「侵害原理」です。二は、実害は認められなくても、人々に著しい不快感を与えるような行為に対しては、それを防ぐための干渉は許されるという考えで、不快原理と言い換えることもできます。ここでの基準は、実害ではなく感情です。三は、社会生活をおくるうえで公共の道徳を守るべきという立場から、いわゆる反道徳的行為に対して干渉することで、モラリズムとも呼ばれています。ただ、反道徳的といっても価値観や文化などによって大きく異なるので、議論の多いところです。四は、集団的利益を優先することです。
  さて、最後の「干渉される人のために干渉する」といういささかわかりにくい理由が、いわゆるパターナリズムにあたります。さしあたって他人を侵害するわけではなく、さりとて不快感を与えるわけでもない。公益に関わるわけではなくモラルを乱すというものでもない。あえていえば、干渉されるその人のためにという理由によって干渉する。「干渉されるその人のためになるから」という理由によって干渉する場合が現実には多々あるのです。「他人のために」という親切、思いやり、あるいは善意が、パターナリズムの源です。
 「干渉される人のために干渉する」=パターナリズムについて、具体的な例を挙げてみると、たとえば子供のゲーム機での遊びなどがその典型でしょう。親が夢中になって遊んでいる子供からゲーム機を取り上げてしまう。子供の自由への干渉です。しかし、子供は他者を侵害しているわけではないし、著しい不快感を引き起こしているわけでもない。公益を損なってもいないし、モラルを乱しているわけでもない。親は子供のことを思って干渉するわけで、まさしく「干渉される人のために干渉する」典型的な例だといえます。
 道路交通法は、クルマのシートベルトの装着を義務付けています。また、オートバイの運転手のヘルメットの使用、さらには、初心運転者には初心者マークの表示が義務付けられています。これらの義務付けは、主に義務付けられている、その人のための規制である点から、パターナリズムにあたります。
 もう一つ典型的な例としてたばこを挙げることができます。たばこのパッケージには、製造たばこの消費と健康との関係に関して注意を促すための財務省令で定める文言が印刷されていますが、これはパターナリズムで説明できます。ただし、前述のシートベルトの装着やヘルメットの使用の場合は、干渉される者(運転者)はイコール規制される者ですが、たばこの場合は、注意表示の義務付けは干渉される者(喫煙者)にではなく、製造業者に対するもので、後で言いますが、これは「間接的パターナリズム」と呼び、「直接的パターナリズム」と分けて捉えています。

パターナリズムの種類

 パターナリズムは、その介入、干渉の仕方によって、いくつかの種類に分けることができます。先に述べた介入理由とも密接に関連しますので、その主だったものを挙げておきます。
 「強いパターナリズム」と「弱いパターナリズム」——介入、干渉される者(本人)に判断能力がない、もしくは十分な判断能力がない場合、その介入、干渉は、「弱いパターナリズム」といいます。また、反対に、干渉される者(本人)に十分な判断能力が認められる場合、その介入、干渉は、「強いパターナリズム」と呼んで、「弱いパターナリズム」とは分けて考えます。ただ、「強い」か「弱いか」の分かれ目となる判断能力を、どうやって認識するのか、そもそもその基準はなんなのか、どうやって決めるのか、じつは、議論の多いところではあります。たとえば、「弱いパターナリズム」の場合、不十分である範囲や程度をどこで見きわめるか、また不十分である範囲や程度に対応した干渉の仕方についてきちっとした議論が必要になってくると思われます。
 「直接的パターナリズム」と「間接的パターナリズム」——先ほど出した道路交通法とたばこの例に見られるような規制されている(介入、干渉される)者が本人か、本人以外か(たとえば製造業者)とによって分ける場合。しかし、この区分は、実際にはかなり難しいところがあります。たとえば、たばこの例でいうと、その人のためであるとされている本人が、それを回避しようとすればできるからです。喫煙をやめれば、パッケージに表記されているようなリスクを回避できる。にもかかわらず、回避しないで吸い続けているとすれば、むしろリスクを承知のうえであえて吸っていると考えられるわけで、本人は、選択の自由を行使しているに過ぎないともいえるからです。
 「積極的パターナリズム」と「消極的パターナリズム」——その人のためであるとされる本人の現状よりも、より良くするためになされる介入、干渉を「積極的パターナリズム」、現状よりも悪くなることを防ぐためになされる介入、干渉を「消極的パターナリズム」と分ける見方です。
 「フィジカル・パターナリズム」と「モラル・パターナリズム」——その人のためであるとされる本人の身体的・物質的利益または損失に関するパターナリズムを「フィジカル・パターナリズム」、精神的・道徳的善または悪に関するパターナリズムを「モラル・パターナリズム」と呼んで、区別する見方です。
 「強制的パターナリズム」と「非強制的パターナリズム」——介入、干渉の形態に、自由への介入として強制的なものと、自由への介入を含まないものがあり、前者を「強制的パターナリズム」、後者を「非強制的パターナリズム」と分けて考える場合があります。しかし、これについては、「法」とは多かれ少なかれ強制的なものなので、その度合いが強いものから弱いものまで、単に連続性があるといえばいいことではないかという意見もあるようです。
 以上、パターナリズムが論じられる場合の種類を挙げてみましたが、実際にはこれらのパターナリズムは、重なり合って構成されていることの方が多いように思われます。それを「複合的パターナリズム」と呼ぶ場合もあります。
 最初にパターナリズムの意味には、大きく二つの意味があるといいましたが、もう一つの意味が「支配の形態」です。パターナリズムとは、権力を行使する側と行使される側との間に生じる関係、言い換えれば、「保護の関係」がある場合に成立するものです。保護について権力を行使する側が、専断的に決することが可能である場合にそれをパターナリズムと呼ぶ、という言い方ができます。つまり、パターナリズムは、専断的な保護として現れる支配の形態だといえるわけです。家庭における親とその保護下にある未成年の子供の関係などは、この典型例でしょう。同様に、主治医と患者の関係、刑務所の看守と受刑者の関係、学校における担任の教師とその生徒との関係などが、ここでいう保護の関係にあたります。そして、親、主治医、看守、教師が、専断的に保護について決することができれば、そこにパターナリズムが成立しているといえるのです

パターナリズムの根拠を探る

 パターナリズムというのは、今見てきたように日常のあらゆる場面に登場するありふれた現象です。しかし、その含意が緻密に論じられているのは法学の分野です。その法学の立場から、人々の行動や現実の社会との関わりから、法とパターナリズムの関係を研究されているのが大阪大学留学生センター准教授・瀬戸山晃一氏です。瀬戸山氏は、パターナリズムを所与のものとして捉えたうえで、どういうパターナリズムをわれわれは選択すべきか、公共性の概念と照らし合わせながら検討しておられます。そこで、瀬戸山氏は「人間の合理性」に注目します。とりわけ、昨今議論されることの多い「法と経済学」で「人間の合理性」が問われています。「法と経済学」では、人間行動の合理性がその理論的前提になっているというのです。そこで、パターナリズムを考えるにあたって、その根幹にある「人間の合理性」およびその基盤となっている近代の人間観についてお聞きします。
 パターナリズムには「支配の形態」という意味があるといいました。たとえば、医療の分野で、この支配の形態が大きな問題になっています。いわゆるインフォームド・コンセントは、医師のパターナリスティックな態度に対して、患者側の、つまり被支配者側の権利を主張するものです。患者の「自己決定」を最大限重視するとして、では、医師側のパターナリズムはむしろ積極的に退けられるものと見なすべきなのでしょうか。言い換えれば、パターナリスティックな介入に正当性はないという言い方はどこまで可能か、ということです。長野大学社会福祉学部福祉学科専任講師・樋澤吉彦氏は、ソーシャルワークにおいては、パターナリスティックは決して否定的なものではなく、本来の意味でのクライエントの「自己決定」を支えるための必要不可欠な要素ではないかと指摘します。「自己決定」を本来的で実践的なものに再構築するものとして、むしろ積極的にパターナリズムを活用しようというのです。とかく負のイメージで捉えられがちのパターナリズムについて、福祉活動の実践現場からその可能性について、樋澤氏に考察していただきます。
 われわれの生活環境を「快適」にさせる善意のシステム、それがパターナリズムではないか、という大胆な意見に出会いました。三人の気鋭の社会学者による鼎談集『幸福論 〈共生〉の不可能性と不可避性について』(NHKブックス)で、一貫して主張されていることはパターナリズムこそ幸福の大前提ではないかということです。パターナリスティックな社会設計の中で、私たちは、「快適」で「健康」に暮らし、「幸福」を享受している。もしもそこに問題があるとすれば、社会設計が悪いのであってパターナリズムではない、とこの本は指摘します。それに対して、われわれは単にそう思わされているだけではないか。そこにあるのは、フーコーのいう生-権力で、まさにそのシステムこそが問題とする反論も当然出てきます。そこで、『幸福論』の著者の一人である現代位相研究所首席研究員・堀内進之介氏と名古屋大学大学院法学研究科准教授・大屋雄裕氏、東京大学大学院情報学環准教授・北田暁大氏の三人に、自由と規範、自己責任と承認、アーキテクチャの権力といったキーワードを手掛かりに、現代の幸福感とパターナリズムとの関係について掘り下げていただきます。  (佐藤真)



引用・参考文献
澤登俊雄編著『現代社会とパターナリズム』ゆみる出版、1997
中村直美『パターナリズム研究』成文堂、2007

 

 

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自由とパターナリズム

 瀬戸山晃一氏は、法理論的な立場からパターナリズムを研究してきました。瀬戸山氏によれば、パターナリズムは自己決定と対立するようなものではなく、それどころか、法の分野に限って言えば、パターナリズムはキー概念ですらあるというのです。瀬戸山氏の発言を辿りながら、パターナリズムの概念を整理してみましょう。
 瀬戸山氏は、パターナリズムを「本人のためになる」ことを目的とした介入と定義します。しかし、その介入によって、本当に本人のためになったかどうかは問わないというのです。ここにパターナリズムの重要なポイントがあります。瀬戸山氏は、このことを親子関係と、医師と患者家族の関係で説明します。親が子供におせっかいをやく(介入)場合、それが子供(本人)の将来(=幸福)を考えてのことであればパターナリズムですが、本当の目的がじつは親の将来(=幸福)を考えてであれば、それはパターナリズムとは言わないという。また、子供のためを思っておせっかいをやいた結果、それがかえってあだになり本人は不幸になったとしても、それはパターナリズムであり、反対に、子供は幸福になっても、その目的が子供ではなく親の将来にあるとしたら、それはパターナリズムとはみなされないというのです。
 がんの告知の場合はもう少し複雑です。通常、告知をしないことがパターナリズムと言われています。患者の自己決定を蹂躙し、インフォームド・コンセントと対立するからです。しかし、患者のため家族のため(利益)を思って、あえて告知をしないというケースも当然ある。瀬戸山氏の定義では、本人とその家族を思ってそうするわけですから、これはパターナリズムとみなされます。他方、告知をする目的が医師の利益にある(隠していたことを訴えられたり、疑念をもたれたりすることがイヤで)としたら、これはパターナリズムではなく似非パターナリズムだと瀬戸山氏は言います。「告知を控える=パターナリズム/告知をする=インフォームド・コンセント」という図式は、その意味で一面的過ぎるというわけです。医療上のパターナリズムはすべて悪しきものとする社会的通念こそ、修正される必要があるということでしょう。
 ただ、話の中には出てきませんでしたが、がん告知に関してはわが国固有の事情もあって、それが事態をよりいっそう複雑にしている面もあるようです。というのは、日本の場合、告知を控える理由として、医師によるよりも家族の要望からという場合が少なくないからです。患者個人の意思よりも、家族の患者本人に対する意向が優先される。むしろ、ここに見られるのは、「家族による身内である患者に対するパターナリズム」です。
 インフォームド・コンセントも、それが押し付けになったとしたらパターナリズムになるということです。パターナリズムは、少なくとも医療においてはネガティブなものではなくなりつつあるようです。とりわけ先端医療の分野では、その傾向は著しいようで、瀬戸山氏が紹介するように生命倫理では、パターナリズムが必要不可欠、という意見も出てきています。パターナリズムを自律の原理の補完原理として位置付けていこうという考えです。相反するものと見なされてきた自由とパターナリズムが、むしろ積極的に融合しあい、より強固な自律原理を構築していく。であるとすれば、パターナリズムのみならず、「自由」の概念も幾分か修正される可能性が出てきます。

「合理人」より「現実の人間」を重視する

 瀬戸山氏の発言のもう一つのポイントは、パターナリズムの法的介入の正当性についての議論です。天秤の比喩を使って、個人の自己決定の自由を制約する原理を分類し、パターナリズムの特徴を明らかにしました。本人(被介入者)の自由と第三者、社会の利益が秤にかけられるのが他者危害防止原理(侵害行為)、他者の不快を覚えずに生きる感覚が秤にかけられるのが不快防止原理、社会道徳の維持が秤にかけられるのがリーガルモラリズム(道徳原理)です。いずれも、保護する利益・価値が本人とは別のものであるのに対して、法的パターナリズムのみが、本人の自由と他ならぬ本人自身の利益が秤にかけられるというものです。侵害原理や道徳原理、不快原理との違いがあいまいだったために、パターナリズムが今一つわかりにくかったわけですが、この分類によって差異が明確になりました。パターナリズムとは、「本人のためになる」ことだと瀬戸山氏が言う意味は、本人の自由が優先されるか制約されるかは、あくまでも本人自身に関わることであり、本人自身のうちに還元されるべき問題だということです。
 ところで、「法と経済学」は、パターナリズム的態度に懐疑的であり、リバタリアン的な立場からパターナリズムを忌避しようとするといいます。ところが、その「法と経済学」の内部から出てきた行動心理学的「法と経済学」では、逆にパターナリズムを擁護するような考えが生まれてきているという。なぜそのような違いが生ずるのか。
 ミクロ経済学の考えを法学に取り込んだ「法と経済学」は、人間は自己の利益を最大化するように決定し行動するいわゆる「合理人モデル」を想定して人権や差別の問題を分析しようとしました。「合理人モデル」においては、何よりも富の最大化に価値が置かれていて、個人の自己決定は過小評価されています。個人の自由、価値への問題意識が希薄だというのです。それに対して、むしろ行動心理学的「法と経済学」は、「現実の人間」に注目します。さまざまな認知的バイアスによって右往左往するのが人間です。現実の市場というものは、抽象的な存在としての合理人によってではなく、時には自己利益に適した行動から逸脱し、あるいは規範を無視して行動するような非合理的な人間=現実の人間によって担われている。行動心理学的「法と経済学」は、個人にこそフォーカスを当てる。パターナリズムは、あくまでも本人(個人)とその本人の自己決定の価値に介入するものです。だから、行動心理学的「法と経済学」では、むしろパターナリズムが積極的に称揚されるのです。とはいえ、パターナリズム一般を擁護するというわけではなく、その正当性は、場面場面で異なりますから、個別の領域やケースごとに細かく検討される必要があるでしょう。

パターナリズム正当化原理の二つのパターン

 「自己決定の重要さを習ってきたのに、それが全く通用しないような世界がある。しかし、それでもやはり自己決定が重視されなければならないとしたら、それをどうやって実現させていくのか、ソーシャルワークの課題は、まさにそこにある」
 樋澤吉彦氏とパターナリズムの出会いは、ソーシャルワークの現場での実践の過程においてでした。「自己決定もへったくれもないような世界が目の前に存在している」時には、パターナリズムも有効だと思われたからです。福祉の世界では常に悪者扱いされていたのがパターナリズムです。パターナリズムは、自己決定と対立する概念と捉えられていたのです。もちろん、その後パターナリズムについて考えていくなかで、その考えは大きく揺らいでいきます。
 パターナリズムにも肯定的な面がある。そのことに気づいたのは、恩師である坪上宏氏の「援助関係論」と向き合ったのがきっかけだったと樋澤氏は述懐します。精神障害者のソーシャルワークに従事していた坪上氏は、その現場での実践を踏まえて、独自の「援助関係論」を提唱していましたが、樋澤氏は、その読解を通して、パターナリズムが正当化され得る地平を発見していくのです。坪上氏の「援助関係論」は、「一方的関係」、「相互的関係」、「循環的関係」という三つの関係で構成された世界です。普段、私たちが普通にやり取りしている関係が「相互的関係」ですが、社会福祉の文脈では、ソーシャルワークの援助を求める人々(被援助者)にソーシャルワーカーが適切な援助を提供する関係になります。しかし、その関係は固定することなく、「気づき(変化)」を契機としながら、援助者も被援助者同様の地平へと向かわせます。援助者と被援助者の各々が、主体的・内在的に変化を重ねながら、あたかも螺旋を画くように自己を獲得していく。そういう運動を「循環的関係」と呼んだのです。
 しかし、坪上氏は、自己獲得的関係の運動だけではない、もう一つの関係が存在することを示唆します。それが、「一方的関係」で、ソーシャルワークの中には、援助者が一方的に被援助者に介入する関係もあり得るというのです。この三つの関係が重なり合いながら一つの世界を構成している、それが社会福祉実践だというわけです。この「一方的関係」こそ、パターナリズムのことであることは言うまでもありません。つまり、坪上氏はパターナリズムを「援助関係論」の要素の一つとして考えていた。樋澤氏はそこに注目するのです。自己決定とパターナリズムが対立するものではなく、相補的関係にあるとしたうえで、それが正当化され得る原理を考えようというわけです。そこで、条件付きと断りながらも、二つのパターンを提起します。一つは、当該個人の状況/状態が生命の保全のための緊急性の高い場合で、原則的には「合理的人間モデル」に基づいた介入が行われます。二つ目は、当該個人の状況/状態が生命保全のための緊急性は低いものの持続的な支援を必要とするような場合で、原則的に当該個人の「意思反映モデル」に基づいた介入が行われます。そして、主要かつ本来的な正当化原理は後者であり、その場合、徹底的な「対話」がこの原理の土台になります。
 樋澤氏は、正当化原理が備わったパターナリスティックな介入があってはじめて本来的な自己決定を実現することができると考えています。その意味において、社会福祉実践のなかで忌避されてきたパターナリズムは、条件付きではあるものの、実践のなかでもっと言及されてもよいのではないかと結論付けるのです。ただ、インタビューの最後で、それはあくまでも当該個人の利害に関してであり、仮に他者の利害を基軸にした時は、この正当性原理は前提とならないのではないかと疑問を挟みます。というのも、「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」(二○○三年成立)では、条件付きではあるものの、ソーシャルワーカーの社会へのパターナリスティックな介入を要請しているからです。樋澤氏が危惧するように、この法律はソーシャルワークの実践というものを根底から揺るがしかねない爆弾のようなものです。仮に、「社会の安全」を介入要件とするならば、自己決定権という大前提と抵触することになるからです。

パターナリズムと「動物化」問題

 パターナリズムを所与のものとしたうえで、その選択はどのような形をもつのか。また、「本人のためになる」ことが前提のパターナリスティックな介入は、社会の要請に対してそれを要件にし得るのか。インタビューで浮き上がってきたこの二つの問題点は、奇しくも鼎談の議論と交錯します。論点を整理しておきましょう。
 一、再生医療などの「生と死に関わるテクノロジー」において、どのような責任をもつのか。二、個人のリスク予期と社会的なリスク予期をどう調停するのか。三、なぜ私たちは、パターナルな配慮を要請してしまうのか。四、動物化を促すアーキテクチャこそ新たなパターナリズムではないか。
 いずれの問題に対しても、興味深い議論が展開されましたが、ここでは、パターナリズムととくに関わりのある三、四について、三人の発言を拾いだしながら検討してみましょう。
 大屋雄裕氏は、生き残り宝クジの例を出して、リスクコミュケーションの問題から、パターナリズムに接近します。生き残り宝クジの一番の問題点は、参加者の誰もが解体される側になることもあるということを想定したがらないところにあるというのです。自分は、解体される側ではなく、生き延びる側にい続けると思い込んでいる。つまり、生き続けられるだろうという予測のもとで、生き残り宝クジに参加するわけです。しかし、その予測、予期が正しいかどうかは、当然のごとくわからない。私たちは、よくリスクを気にするという言い方をするけれども、今の例からわかるのは、リスクを気にするというよりも、リスクに対する自分の予測、予期に怯えているんじゃないかという。その結果、リスクに対する徴候自体を忌避しようとするわけです。
 いわゆる科学的認識に基づく客観的なリスクよりも、こうした個人的、主観的なリスク予期に重心を置くとどうなるか。たとえば、個人の自由な自己決定というものが危うくなる。それを保証するために、ある程度のパターナリスティックな介入があり得るだろうというのです。私たちは、リスクそのものというよりは、リスクの影に怯えている。そのリスクの影を追い払うためには、端的に情報を増やす方がいい。それが、パターナリスティックな配慮を要請する動機になっているのではないかというのです。そもそも個人(主体)は、国家のパターナルな配慮によってつくりあげられているという現実がある。サービスが行き届き、監視の行き届いたホテルに住みたいと願っているのは、私たち自身です。このことが、パターナリズムを受け容れてしまう最も大きな要因ではないかというわけです。
 堀内進之介氏は、このパターナルな配慮について、東浩紀氏の言う「動物化」に引きつけて考えるべきではないかと提言します。鼎談の後半、話題となったアーキテクチャ(環境管理型)は、まさに「動物化」の議論に接続する問題です。現代におけるアーキテクチャの意味をどう評価するか。アーキテクチャが、完全ではあり得ないという認識をもち得る限り、パターナリスティックな介入もあり得るでしょうが、仮にそれが完全であった時、私たちはパターナリズムに何を期待するのか。筆者は、「自己への配慮」について、もう少し考えてみてもいいのではないかという堀内氏の最後の言葉が、じつはこの問いに対する応答ではないかと思います。それは、とりもなおさずパターナリズムをフーコー的な視点から捉え直すことにつながるからです。
 北田暁大氏も「動物化」をアーキテクチャの問題系から問い直します。動機付けがきわめて人間的な統治の手法であるのに対して、アーキテクチャは動物を管理する統治の方法論です。この二つのベクトルが最も接近するところに、セキュリティという論理が浮上してくるというのです。セキュリティの論理を媒介にすれば、「完全なるアーキテクチャの構築に対する人々の動機付け」を調達することが可能になります。その結果、自ら動物となることに対する人々のコミットメントが調達できるはずだというロジックです。
 パターナリズムは、すでにアーキテクチャに埋め込まれている。私たちの議論は、じつはここから始まるのです。瀬戸山晃一氏は最後にこう言いました。「パターナリズムを所与のものとして捉えたうえで、それをどの程度取り入れるか、まさにその選択が問われている」と。パターナリズムの選択。この言葉の裏にあるものこそ、「公共性」ではないでしょうか。私たちは、この問題を引き続き次号で掘り下げていこうと思います。(佐藤真)

 
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◎パターナリズムとは何か
パターナリズムの研究 中村直美 成文堂 2007
パターナリズムと経済学 小林好宏 現代図書 2005
現代社会とパターナリズム 澤登俊雄編著 ゆみる出版 1997
法理学講義 田中成明 有斐閣 1994
「紹介 J・クライニッヒ著『パターナリズム』」 パターナリズム研究会 国学院法学25 1983
Paternalism : Some Second Thoughts G.Dworkin Sartorius(ed) 1983
Paternalism N.Fotion Ethics vol.89,No2 1979
The Justification of Paternalism Bernard Gert and Charles.M.Culver Ethics vol.89,No2  1979
Criminal Paternalism M.D.Bayles in The Limits of Law (Nomos XV) 1974
The Enforcement of Morality R.E.Sartorius Yale Low vol.81, 1972
自由論 J・S・ミル 塩尻公明他訳 岩波文庫 1971
Paternalism G.Dworkin in R.A.Wessertrom(ed) Morality and Low Wadsworth Publishing Conpany 1971
Legal Paternalism J.Feinberg Canadian Journal of Philosophy vol.1,no.1.  1971
Law,Liberty,and Morality H.L.A.Hart Stanford University Press 1963

◎パターナリズムの正当化、自己決定
〈同意〉は介入の根拠足り得るか? パターナリズム正当化原理の検討を通して 樋澤吉彦 新潟青陵大学紀要第5号所収 2005
法的パターナリズムと選好 パターナリスティックな法介入の効率性 瀬戸山晃一 阪大法学54巻第4号所収 2004
自己決定を支える「パターナリズム」についての考察 「倫理綱領」改定議論に対する「違和感」から 樋澤吉彦 精神保健福祉34巻1号所収 2003
自己決定の合理性と人間の選好 Behavioral Law & Economicsの知的洞察と法的パターナリズム 瀬戸山晃一 宗教と法所収 有斐閣 2003
自己決定権とパターナリズム インフォームド・コンセントと〈癌の告知〉問題を中心に 瀬戸山晃一 マルチ・リーガル・カルチャー 法文化へのアプローチ所収 晃洋書房 1998
現代法におけるパターナリズムの概念 瀬戸山晃一 阪大法学所収 1997
法介入の正当化諸原理 瀬戸山晃一 法学最前線所収 窓社 1996

◎自由、正義、法
〈自由〉の条件 大澤真幸 講談社 2008
自由とは何か 監視社会と「個人」の消滅 大屋雄裕 ちくま新書 2007
統治と功利 安藤馨 勁草書房 2007
法解釈の言語哲学 クリプキから根源的規約主義へ 大屋雄裕 勁草書房 2006
自由の平等 立岩真也 岩波書店 2004
自由を考える 9・11以降の現代思想 東浩紀・大澤真幸 NHKブックス 2003
「不自由」論 「何でも自己決定」の限界 仲正昌樹 ちくま新書 2003
責任と正義 リベラリズムの居場所 北田暁大 勁草書房 2003
弱くある自由へ 自己決定・介護・生死の技術 立岩真也 青土社 2000
自由の社会理論 数土直紀 多賀出版 2000
他者への自由 公共性の哲学としてのリベラリズム 井上達夫 創文社 1999
モラル・アポリア 道徳のディレンマ 佐藤康邦他編 ナカニシヤ出版 1998
自由論 I・バーリン 小川晃一他訳 みすず書房 1997
自由の論法 ポパー・ミーゼズ・ハイエク 橋本努 創文社 1994

◎臓器移植、生命倫理
幸福論 〈共生〉の不可能性と不可避性について 宮台真司・鈴木弘輝・堀内進之介 NHKブックス 2007
脳死・臓器移植の本当の話 小松美彦 PHP新書 2004
自己決定権は幻想である 小松美彦 洋泉社新書 2004
生命倫理の基本原則とインフォームド・コンセント 森川功 じほう 2002
生命倫理学入門 今井道夫 産業図書 2005
生命倫理とは何か 市野川容孝編 平凡社 2002
責任という原理 科学技術文明のための倫理学の試み H・ヨナス 加藤尚武監訳 東信堂 2000

◎リバタリアニズム
リバタリアン宣言 蔵研也 講談社新書 2007
国家はいらない 蔵研也 洋泉社 2007
リバタリアニズム読本 森村進編著 勁草書房 2005
自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門 森村進 講談社新書 2001
リバータリアニズム入門 現代アメリカの「民衆の保守思想」 D・ボウツ 副島隆彦訳 洋泉社 1998
自由の正当性 古典的自由主義とリバタリアニズム N・P・バリー 足立幸男監訳 勁草書房 1990
アナーキー・国家・ユートピア 国家の正当性とその限界  R・ノージック 嶋津格訳 木鐸社 1974


パターナリズムの文献作成に関しては、『パターナリズムの研究』(中村直美)を参考にしました。