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[最新号]談 no.96 WEB版
 
特集:痛みの声を聴く
 
表紙:小谷元彦 本文ポートレイト撮影:坂本政十賜
   
    
 

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(社会的な痛み)への処方箋…痛むからだの当事者として考えること

粥川準二
かゆかわ・じゅんじ
1969年愛知県生まれ。編集者を経て、現在ライター、翻訳者、ジャーナリストとして活動。国士舘大学、明治学院大学非常勤講師。博士(社会学)。医療、食料、環境など、科学技術と人間社会の関係を独自の視点から取材、執筆を展開する。著書に『バイオ化する社会』青土社、2012、『クローン人間』光文社新書、2003、『人体バイオテクノロジー』宝島社新書、2001、共著に『生命倫理とは何か』平凡社、2002、他がある。

問題の根底には、「病気や痛みは自己責任」と考えられているということがあると思います。
病気や痛みがすべて個人の責任に帰され続ける限り、
社会にある「痛点」に触れることができないまま、現状がずっと続いてしまうかもしれない。
むしろ病気や痛みを起点として、その人を取り巻く環境、
ひいては社会全体を改善していくくらいの意識をもつことが重要なのではないか。


    
 

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痛みの向こうへ、人を動かす痛み

外須美夫
ほか・すみお
1952年鹿児島県生まれ。医学博士。専門は麻酔。九州大学医学部卒業後、アメリカ・ウィスコンシン医科大学留学、北里大学医学部麻酔科教授を経て、現在、九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学教授。著書に『君も麻酔科医にならないか』真興交易(株)医書出版部、2012,『眠りと目醒めの間――麻酔科医ノート』メディカルフロントインターナショナルリミテッド、2009、『痛みの声を聴け 文化や文学のなかの痛みを通して考える』克誠堂出版、2005、他。また医師生活のなかで詠まれた歌集「回診」角川書店、2008、他がある。

痛みに苦しむ時、誰もがこの世界に痛みが無ければいいと願うでしょう。
けれども痛みが無ければ、痛みによって生まれるものを見ることもできません。
痛みは人を動かす大きな力です。痛みや病気や死を排除しない社会、
それらによって健全につながる社会を、見つめていきたいと思っています。

     
    
 

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生活の哲学…「痛み」を生きる

篠原雅武
しのはら・まさたけ
1975年神奈川県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。現在、大阪大学大学院国際公共政策研究科特任准教授。社会哲学、思想史専攻。著書に、『全-生活論 転形期の公共空間』以文社、2012、『空間のために 偏在化するスラム的世界のなかで』以文社、2011、『公共空間の政治理論』人文書院、2007、共訳書に、『スラムの惑星 都市貧困のグローバル化』M.デイヴィス、明石書店、2010、他がある。

世界が壊れるかもしれないことを、「痛み」という感覚をつうじて予見しているはずなのです。
「痛み」が生じるのは、私たちの生きている状況が脆くて、壊れやすくなっているからで、
壊れそうなところに生じるのが「痛み」なのです。
「痛み」は、主観的な経験ではあるけれども、やはり客観的な実在性をもっていて、
「脆さ」、「壊れやすさ」を端的に表現するもの、それ自体だということです。
 

editor's note

「痛み」からの思考


 いつ頃から私たちは「こころの痛み」とか「こころが痛い」という言葉を使うようになったのでしょうか。道でころんだり、机のかどにぶつけたり、あるいはナイフで切ったりと、子どもの頃の思い出の多くは、からだの痛みと共に甦ってきます。大人になってからも、たとえば医者に「どこか痛いところはありませんか」と尋ねられれば、喉や頭、腹、腰などのからだの痛みを訴えます。痛みというのは、基本的にはからだのなかで起こることであり、その痛みの原因もからだ=身体に内在するものと思われてきました。だとすれば、「こころの痛み」や「こころが痛い」という表現は、「こころ」もからだの一部であり、身体という客観的な存在とみなすようになったからではないか。しかもそれはごく最近起こったことであり、せいぜいさかのぼっても九〇年代以降のことだと思われます。
 臨床心理士の信田さよ子氏は、一九九五年以来日本で心的外傷(トラウマ)という言葉が市民権を得たのをきっかけに、「こころの傷み」というわかりやすい表現が人々に共有されるようになったのではないかと指摘します。それまで心的現象は、人格や性格といった心理的概念で捉えられていましたが、九〇年代の半ばを境に、傷や痛みといった主に身体にまつわる用語が用いられるようになったというのです。(1)
 心的現象は、心理的経験であって、主観性の域を出るものではなかった。しかし、心的現象、心理的経験は身体性と結びつくことで、自然科学的な疑似客観性をもつようになったという。「こころが折れる」という言い方もよく聞きます。痛みや折れるという言葉を用いることにより客観性が生まれ、主観的経験は他者と共有可能なものとして捉えられるようになる。言い換えれば、主観的な経験が、身体という物理的存在と結合することでいわば可視化されるような効果を生んでいるのではないかというのです。本来心的現象の対象であった「こころ」が痛みの対象になる。昨今言われる「社会の痛み」という言葉も、その流れのなかで理解できそうです。

受動的感覚としての痛み

 「こころが痛い」、「こころが折れる」といった身体的な言葉、すなわち疑似客観性をもつ使い方をするようになった背景には、何があるのでしょうか。信田氏は、自己責任論の定着とその反発があると示唆します。「自分の気持ちは自分次第」という自己責任論とそれに対する反撥が自身のなかで葛藤する。そのどうどうめぐりのループからなんとか抜け出したいと思っている時、心理的な言葉はかえって混乱をひき起こす。内閉的な心理学用語では、そのループの外に出ることはできません。しょせん「あなたのなかのこころの問題にすぎない」の一言で片付けられてしまう。そこで、疑似客観性を帯びた表現を用いることで、そのループを越えられると考えているのではないかというのが信田氏の考えです。
 つらいことがあってこころが「折れた」り、ショックを受けてこころが「痛む」ことは、自らの意志を越える経験と考える。自分の責任の及ばないものと見る。つまり、自らの心理現象とは別個の、外から与えられるものとみなすのです。たとえば、被害という言葉は、すでに免責性を包含しています。犯罪被害者にはなんの責任もないのと同じように、「痛む」ことに責任はありません。なぜならば、痛みは呼び込んだわけではなく、それは常に「訪れる」ものだからです。
 例外はあるとしても、痛みの基本は訪れるものであり、受動的感覚です。あらゆる被害は受動的であり、受動的であることにおいて被害の責任を問われることはない。つまり、被害者として自己定義すること、被害者であると承認されることが、受動的感覚である痛みの訪れを肯定することにつながるのです。「〈私の体は痛い〉と感じるには、訪れた痛みを受動し、そう感じることへの承認、被害者であることの承認が必要である」と信田さよ子氏が言う時、彼女が日々カウンセリングするさまざまな被害者――DV、虐待、性暴力の対象となっている女性たち――を想定しているのは明らかです。痛みは自らが望むものではなく、常に外部から不意にやってくる。この徹底して受動的で、不確実性をはらんだものこそ「痛み」に他なりません。そして、痛みはこころもその一部とするような身体に直にやってくる。そうした直接体験の全体を、私たちは「痛み」と呼んできたのです。「こころ」や「社会」は私たちにとって決して抽象的なものではありません。きわめて具体的な客観的対象であり、それが今、「痛み」を伴って私たちの前に現れているのです。

痛みは志向性をもたない

 痛みの当事者研究の稲原美苗氏は、エレイン・スカリーの『痛む身体 世界の構築と破壊』(The Body in Pain:The Making and Unmarking of the World,1985)を引きながら、痛みは主観的でありなおかつ身体的なもの、いうならば、身体化された主観性であると言います。(2)「痛みを言葉で表現することは不可能であり、それは言語的な表現の枠を超えたところに存在する」。私たちは、幼い頃から損傷や疾病に関連した経験を通じて、「痛み」という身体的経験がどのような感覚をもつのかということを習得しています。目の前にいる人が「痛い」と言っているのを聞いて、その人が経験している感覚を「快感」だと思う人はいません。痛みの感覚は明らかに「不快感」です。痛みは、客観化・対象化できない体験でありかつ主観的・身体的体験です。その限りにおいて、痛みは永遠に共有されないのかもしれない。しかし、表出された痛みは、身体を通して現れた表現であり、そうであれば、自らの経験に置き換えることができる。主観性の身体化とはそういう意味であり、だから、私たちは、痛みを共有はできないにしても、共感することはできるのです。
 痛みの定義としてもっともよく知られているのが国際疼痛学会(International Association for the Study of Pain:IASP)が作成したものです。そのなかで、痛みは「現実のあるいは潜在的な組織損傷に結びついた、またはそうした損傷に関する用語で表現された不快な感覚および情動の経験」と定義されています。さらに、「痛みは主観的である」と付記されています。
 この痛みの定義のなかに使われている「経験」や「主観的」という言葉は、近代医学を基礎付けている生物医学から見れば、やや異端的な意味合いをもっていると指摘するのは、医療社会学の美馬達哉氏です。「損傷に関する用語で表現された」状態をも痛みに含めるという考えは、簡単に言えば、「本人が痛いものは、誰がなんと言おうと痛い」ということであり、まさに痛みの主観的な性格を強く打ち出しているところに、この定義のポイントがあるというのです。(3)主観的な訴えや患者自身の経験よりも、客観的な病症や数値化できる検査結果を重視するところに近代医学の大きな特徴がありました。ところが、この定義はそれを否定こそしないまでも、客観的なデータと同じ比重で、あるいはそれ以上に主観的経験を重要視しているのです。
 美馬氏は、国際疼痛学会の痛みの定義が、生物医学の標準からは距離を置き、痛みの当事者に寄り添った概念になっているのは、二〇世紀の戦争と戦傷の経験が働いているからではないか言います。また、一九世紀以降の痛みに関する生理学の歴史は、痛みのもつ主観的経験という側面を排除し、客観的に測定可能な「痛みという感覚」に焦点を絞りつつ展開してきましたが、そのことへの反動という側面もあったのではないかというのが美馬氏の考えです。ただ、もう一つ付け加えるならば、痛みそのものがもつ身体性も影響しているように思えます。スカリーは、なぜ痛みは主観的でありなおかつ身体的なものであると言ったのでしょうか。繰り返しになりますが、スカリーは、そこにこそ痛みの最大の特徴があると考えたからでしょう。
 稲原美苗氏の解説によれば、スカリーは、痛みへの思考を「なぜ痛みによって言語を失うのだろうか」という素朴な疑問からスタートさせたそうです。痛みの経験の真っただなかで、痛みに圧倒されている時、人は言葉を失います。痛みを経験として語ることができないのです。痛みの当事者にとって、その痛みに対して第三者のような立場に立てない限り、その経験を言葉にすることができないとスカリーは言います。
 痛みは、他の身体的・精神的な体験(愛情や恐怖感のような感情)とは異なり、誰か(または何か)に対する愛情や誰か(または何か)に対する恐怖感のように対象をもちません。他の感覚や知覚は、外部に対象をもつがゆえに客観化でき、客観化できるがゆえに言語での表現が可能になります。ところが、痛みにはそのような外的な対象がなく、何も痛みを表現することができないというのです。痛みは自己の身体に帰属するものであり、この自己の身体は他の外界の対象のように、他者と共有することができません。したがって、痛みを言語で明瞭に表現することができないというわけです。(2)それを受けて、稲原氏は、痛みは志向性をもたないと簡潔に述べるのですが、逆にそのことによって、痛みが身体そのものであるということを自らに強く印象づけることになる。痛みとは、まさにそうしたパラドクサル(逆説的)な現象なのです。

二種類の「痛み」

 痛みは常に主観的であり、その主観性は身体化されている。現代の痛み論は、この二つのテーゼを土台にして構築されていると、とりあえず言うことができるでしょう。痛みが主観的なものであるというのは、医療従事者の間ではすでに了解されていました。それはきわめて簡単な事実からわかることです。MRI(核磁気共鳴画像装置)やCT(コンピュータ断層撮影)、Ⅹ線には、痛みは写らないからです。ペインクリニックの専門医・北原雅樹氏が言うように、たとえ画像診断で椎間板ヘルニアが見つかったとしても、それが本当に腰痛の原因かどうかは、臨床診断をしないとわからない。患者さんの話をよく聞き、患者さんの身体に実際に触れることで、ようやく痛みの原因にたどりつけるというのです。(4)画像診断はあくまでも補助的なものにすぎません。痛みが主観的なものであるということは、専門家にとってはいわば暗黙知だったというわけです。
 ここで簡単に痛みの発生メカニズムについてスケッチしておきます。痛みは、「病気やケガなどでからだのどこかが傷害を受けた場合に、全身に分布している痛覚受容器が傷害の刺激を受けて興奮し、それによって生じた電気信号が脳に伝わって痛みを知覚する」というものです。痛みとは、からだの異常を知らせる警告信号であり、生命を守るために備わっている基本的な機能です。(5)痛みは、人間にとって不快なものであり、だからこそ痛みから早く解放されたいと思うわけですが、その一方で、痛みは人間が生存するためには必須な感覚機能でもある。痛みは、このように両義性をはらんだ感覚機能であるところに、もう一つの特徴があります。
 痛みには、大きく分けて二種類の痛み、急性痛と慢性痛があります。この発見が、痛み研究を飛躍的に進展させました。急性か慢性かという違いは、文字どおり持続時間の長さによるものですが、急性痛は、今言った生命を守る機能としての痛みの方をいいます。病気やケガによる痛みや歯科治療や注射による痛み、あるいは女性の出産時の痛みなどが急性痛で、言い換えれば、健康な人々が日常的に経験する痛みがこれです。組織損傷などの痛みを引き起こした原因が取り除かれ、損傷が回復するまでの間に痛みが生じます。激しい痛みであっても、原因が取り除かれれば痛みは消失します。これに対して、慢性痛は、簡単にいえば、急性痛の回復が悪くて慢性化したものをいいます。たいてい三カ月から六カ月以上続きます。
 美馬達哉氏は、慢性痛の例として、末期がんの患者さんの痛みを紹介しています。慢性痛とは、手術不能な末期がんでの痛みのように、組織損傷の原因を医学的に取り除くことができない場合に痛みが持続する状態のことをいいます。ターミナルケアなどでは、こうした慢性痛は、全人的痛み(total pain)と呼ばれ、身体的痛みだけではなく、社会的痛み、精神的痛み、スピリチュアルな痛みの三つの要素が組合わさったものとして理解されています。身体的痛み以外の要素は、生理学的研究で扱われている痛み――主に急性痛――ではなく、痛みの当事者の経験としての痛みのさまざまな次元を表していると美馬氏は指摘します。
 「急性痛と慢性痛の違いは、原因を医学的に取り除くことが可能かどうか、という点だけで決まるものではない。むしろ、慢性痛としての臨床現場で問題化するのは、末期がんのように痛みの原因がはっきりしたものではない方が多い。(…)たとえば、腰痛や事故後の〈むち打ち症〉のように、医学的原因が検査ではっきりとはしないのにひどい痛みが生じることがある。それ以外にも、医療者からは〈どこも悪くない〉といわれながら、身体のさまざまな部分の痛みに苦しめられている人は数多い」。(3)
 慢性病とは、痛みの感覚が生じているメカニズムという面では、生理学的に説明が難しい状態ですが、痛みの当事者には、痛みの経験が明確に自覚されている状態といえます。ここでとくに注意したいのは、慢性病のメカニズムは、組織損傷の結果として生じる急性痛と、生理学的にはほとんど共通点をもたないということです。痛みの発生機序そのものが、急性痛と慢性痛ではまったく異なるからです。ただ、誤解があってはならないのは、急性痛と慢性痛を併せもつ患者さんもいるということです。急性痛が長期化したものと、慢性痛が混在していることもあるそうです。熊澤孝朗氏によれば、関節リュウマチやがんなどによる痛みの原因として、急性痛の長期化もあるそうです。これらの痛みは、病巣が治癒せずに、ずっと存在し続けることが原因だといわれています。がんの患者さんのなかには、がんの浸潤に伴って起こる組織損傷と炎症によって急性痛が生じ、急性痛が長期化したり、がん浸潤が神経そのものを損傷することで慢性痛を引き起こしている例もあるようです。(5)発生機序の異なる二つの痛みは、それが混在することで治療をより困難にしているようです。


「痛み」の共感と当事者研究

 今号は、この痛みについて考えてみたいと思います。今日、人文社会学の分野で「当事者研究」が注目されています。とりわけ痛み論の文脈で、当事者という視点に立った研究が成果を上げているといわれています。当事者とは、もともとは法律用語で、第三者と対比して用いられ、間接的に伝聞したのではなく、直接にそのことを主体的に経験している人という意味をもっています。痛みという経験は、当事者の意識にとっては直接的なものです。今まさに自ら感じる痛みを疑うなどということはあり得ないからです。しかし、痛みの当事者ではない第三者にとって、その痛みを共有することは難しい。とくに、明確な身体的疾患を伴わない慢性痛のような場合、他者が痛みに苦しんでいるかどうかを判断するには、不確実性が伴います。(3)その意味では、痛みの経験にアプローチするには、痛みの当事者という視点から出発するのも有効な方法ではないかと思われます。もっとも、痛みには志向性がなく、言語を拒絶するというスカリーの立場に立てば、当事者視点にも限界がありますが、少なくとも、痛みへの共感を見出すことは不可能ではないように思われます。
 ジャーナリストの粥川準二氏は、自身を原因がはっきりせず、長期的かつ重篤な腰痛の当事者であるといいます。数年前から、治療法を求めて医療機関を渡り歩き、事実上入院に近い状態で治療を受け続けた時期を過ごし、同時に、腰痛治療に関する書籍や論文、診療ガイドライン、エビデンス・レビューを読み続け、腰痛の専門家たちにもインタビューをしてきました。そうした経験からわかってきたことは、「生物学的(物理的・構造的)損傷」という見方では腰痛(特に慢性腰痛)を治療することは不可能だと腰痛の専門家自身も感じ始めているということでした。今や、「生物心理社会的疼痛症候群」という見方をする専門家も出てきているといいます。痛みという現象には、生物学的、医学的な側面だけでなく、心理的、社会的な側面が少なからず存在し、痛みに対するアプローチもまた、それらに応じたものに変わりつつあるようです。そこからさらに見えてきたことは、「身体的な痛み」と「社会的な痛み」との間には深いつながりと共通性があるということ。痛みとはその意味で「社会問題」そのものではないか、と粥川氏は問題提起します。
 「社会問題」を生む「社会的な痛み」とは、そもそもどういうものをいうのでしょうか。社会学者がいうように、社会的な断絶が生み出すものなのか。だとすれば、断絶を埋めるべき「連帯」こそ最重要課題となると粥川氏は言います。「社会的な痛み」をめぐる言説を掘り起こしながら、その処方箋を探り出していただきます。

「痛み」のなかに希望を見出す

 医療技術の進歩により、痛覚の受容体や、痛み信号のインパルスを伝導する神経回路やシナプスでの伝達物質や、痛み刺激の脳での投射部位が解明されつつあります。しかし、「痛み」をいくら科学のメスで刻んでも痛みの実体や本質をつかむことは難しい。何度も言うように、痛みは、主観的な体験だからです。
 「傷があるから痛いのではない。発痛物質が神経終末を刺激するから痛いのではない。痛みを伝える物質が脊椎後角で放出されるから痛いのではない。それらは、神経系に作用し、痛みの情報を伝達するが、痛んでいるわけではない。たとえば、がんが増大して神経を圧迫したり、がんが脊椎を破壊するから痛いのではなく、痛みを人が知覚し体験するから痛いのである。痛みの存在は、痛みを知覚し体験する人のなかにある」。(6)
 麻酔科医として多くの患者さんと接してきた九州大学大学院医学研究院麻酔・蘇生学教授・外須美夫氏は、自我さえ消滅させてしまう痛みの凄まじさを知り抜いているがゆえに、痛みを味わった人の力というものの存在にも気付かされるといいます。痛みを味わうことは、すなわち世界が変わるということ。痛みという体験を通して、人は新たな自分に出会い、新たな世界と接触する。痛みや病は決して負というものだけではなく、人を動かす力となることもあるというのです。
 痛みを訴える患者さんと痛みを癒す治療者の間にある痛みの壁。その壁の向こうにあるものは何か。外須美夫氏に、痛みという現象を探りながら、痛みの可能性について考察していただきます。

生活、それは「痛み」と共に生きること

 戦後の高度成長において、生活は、基本的にはよくなるもので、少なくとも、維持が困難になり、破たんするなど、よほどのことでもないかぎり起こりえない、例外的なこととみなされてきました。ところが、近年においては、生活の困難、破たんは、さして珍しくない事態となりつつあります。「生活が安定的に維持可能だという想定のもとに成り立っていた知のあり方では、いったい何が問題であるかを、捉えることも、適切な説明もできないような状況が到来しつつある。既存の学問領域の枠組みにとらわれることなく、生活の困難という問題を単刀直入に提起し、これがいったいどういうことかを考え言葉にしていくことが、今あらためて必要なのではないか」。(7)こう問うことから、生活哲学の必要性を説くのが、大阪大学大学院国際公共政策研究科特任准教授・篠原雅武氏です。
 では、どのようにして「生活」を問おうというのか。その方法として、篠原氏が注目するのが「痛み」です。「生活を問い直すことの起点となるのは、痛みからの思考である。この世に生きていることの痛みは、生活という組織体の綻び、解体から、生じるものであるからだ。綻び、壊れつつある生活をつくり直し、痛みの生じることのないものへと仕立て直さないかぎり、痛みはけっして軽減されず、むしろ、いっそう深刻になる」。(7)生活とは、痛みと共に生きることではなかったのか。痛みから始まる「生活」の哲学について、篠原雅武氏にお話しいただきます。

(佐藤真)


引用・参考文献:
1.信田さよ子「訪れる痛みと与える痛み」(『現代思想』vol39-11 青土社、2011年)
2.稲原美苗「痛みの表現 身体化された主観性とコミュニケーション」(『現代思想』vol39-11 青土社、2011年)
3.美馬達哉「もし私が痛みを感じているのならば、私はとにかく何かを感じているのだ」(『現代思想』vol39-11 青土社、2011年)
4.北原雅樹「痛みは常に主観的である」(『iliholi』03 エクスナレッジ、2010年)
5.熊澤孝朗「痛みのメカニズム」(『iliholi』03 エクスナレッジ、2010年)
6.外須美夫『痛みの声を聴け 文化や文学のなかの痛みを通して考える』(克誠堂出版、2005年)
7.篠原雅武『全−生活論 転形期の公共空間』(以文社、2012年)

 
   editor's note[before]
 


◎痛みのサイエンス
君も麻酔科医にならないか 外須美夫 真興交易㈱医書出版部 2012
痛みをやわらげる科学 痛みの正体やその原因、最新の治療法までを探る 下地恒毅 ソフトバンククリエイティブ 2011
よくわかる痛み・鎮痛の基本としくみ 伊藤和憲 秀和システム 2011
雑誌『iliholi』03 特集「〈頭痛と腰痛〉痛みの最新科学」 エクスナレッジ 2010
痛み学 臨床のためのテキスト J・ストロング、熊澤孝朗、山口佳子訳 名古屋大学出版会 2010
痛みと沈痛の基礎知識 上下 小山なつ 技術評論社 2010
眠りと目覚めの間 麻酔科医ノート 外須美夫 メディカルフロントインターナショナルリミテッド 2009
トリガーポイントブロックで腰痛は治る! どうしたらこの痛みは消えるのか? 加茂淳 風雲舎 2009
腰痛ガイドブック 根拠に基づく治療戦略 長谷川淳史 田中敦子(CDナレーション)春秋社 2009
痛みを知る 熊澤孝朗 東方出版 2007
痛みのケア 慢性痛、ガン性疼痛へのアプローチ 熊澤孝朗 照林社 2006
痛みのサイエンス 半場道子 新潮選書 2004
「腰痛」は終わる! 「世界の治療ガイドライン」に基づく最新の腰痛治療 長谷川淳史 WEVE出版 2004
腰痛は〈怒り〉である 痛みと心の不思議な関係 長谷川淳史 春秋社 2000
臨床医のための痛みのメカニズム 横田敏勝 南江堂(改訂第2版) 1997
腰痛をめぐる常識の嘘 菊地臣一 金原出版 1994
脳と痛み 痛みの神経生理学 横田敏勝 共立出版 1993

◎痛みの文化
語りきれないこと 危機と痛みの哲学 鷲田清一 角川ONEテーマ21 2012
生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー 小泉義之 青土社 2012
他者の苦しみへの責任 ソーシャル・サファリングを知る A・クライマン、J・クライマン他 坂川雅子訳 みすず書房 2011
「いのちの思想」を掘り起こす 生命倫理の再生に向けて 安藤泰至編 岩波書店 2011
腰痛は脳の勘違いだった 痛みのループからの脱出 戸澤洋二 風雲舎(改訂版) 2007
生のあやうさ 哀悼と暴力の政治学 J・バトラー 本橋哲也訳 以文社 2007
診療内科を訪ねて 心が痛み、心が治す 夏樹静子 新潮文庫 2006
痛みの声を聴け 文化や文学のなかの痛みを通して考える 外須美夫 克誠堂出版 2005
痛みと身体の心理学 藤見幸雄 新潮選書 2004
腰痛放浪記 椅子がこわい 夏樹静子 新潮文庫 2003
他者の苦痛へのまなざし S・ソンタグ 北條文緒訳 みすず書房 2003
無痛文明論 森岡正博 トランスビュー 2003
司教が見た日本の痛み 家庭・学校・政治・宗教 森一弘 女子パウロ会 2000
「聴く」ことの力 臨床哲学試論 鷲田清一 TBSブリタニカ 1999
痛みの文化史 D・B・モリス 渡辺勉、鈴木牧彦訳 紀伊國屋書店 1998
痛みの心に基づく間主体的想像力 谷口龍男 北樹社 1996
神の痛みの神学 北森嘉蔵 講談社学術文庫 1986

◎当事者とは何か
当事者研究の研究 石原孝二編 医学書院 2013
バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体 粥川準二 青土社 2012
雑誌『現代思想』vol39-11 特集「痛むカラダ 当事者研究最前線」 青土社 2011
発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい 綾屋紗月、熊谷晋一郎 医学書院 2010
つながりの作法 同じでもなく違うでもなく 綾屋紗月、熊谷晋一郎 生活人新書(NHK出版) 2010
その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち 上岡陽江、大﨑栄子 医学書院 2010
雑誌『現代思想』vol38-12 特集「臨床現象学 精神医学リハビリテーション・看護ケア」 青土社 2010
レッツ! 当事者研究 1・2 べてるしあわせ研究所 地域精神保健福祉機構・コンボ 2009-2011
リハビリの夜 熊谷晋一郎 医学書院 2009
逝かない身体 川口有美子 医学書院 2009
ドナ・ウィリアムズの自閉症の豊かな世界 D・ウィリアムズ 門脇陽子、森田由美訳 明石書店 2008
べてるの家の「当事者研究」 浦賀べてるの家 医学書院 2005
当事者主権 中西正司、上野千鶴子 岩波書店 2003
夜と霧(新版) ドイツ強制収容所の体験記録 V・E・フランクル 池田香代子訳 みすず書房 2002
自閉症だったわたしへ D・ウィリアムズ 河野万里子訳 新潮文庫 2000
ショア C・ランズマン 高橋武智訳 作品社 1995
ショアの衝撃 鵜飼哲、高橋哲哉編 未来社 1995

◎日常性、空間、脆さ
全−生活論 転形期の公共空間 篠原雅武 以文社 2012
空間のために 偏在化するスラム的世界のなかで 篠原雅武 以文社 2011
都市への権利 A・ルフェーヴル 森本和夫訳 ちくま学芸文庫 2011
スラムの惑星 都市貧困のグローバル化 M・ディヴィス 酒井隆史監訳 明石書店 2010
藤田省三セレクション 市村弘正編 平凡社ライブラリー 2010
三つのエコロジー F・ガタリ 杉村昌昭訳 平凡社ライブラリー 2008
精神史的考察 藤田省三 平凡社ライブラリー 2003
空間の生産 A・ルフェーヴル 斎藤日出治訳 青木書店 2000
資本のパラドックス ネオ・マルクス主義を超えて P・ピッコーネ、粉川哲夫 せりか書房 1995
人間の条件 H・アーレント 志水速雄訳 ちくま学芸文庫 1994
いのちの女たち とり乱しウーマン・リブ論 田中美津 河出文庫 1992
具体的なものの弁証法 K・コシーク 花崎皋平訳 せりか書房 1977
日常性の弁証法 安永寿延 勁草書房 1972