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[最新号]談 no.97 WEB版
 
特集:〈快〉のモダリティ
 
表紙:片山裕 本文ポートレイト撮影:秋山由樹、坂本政十賜
   
    
 

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〈快〉の幸福論…人間の欲求と「やみつき」のちから

廣中直行
ひろなか・なおゆき
1956年山口県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科(心理学専攻)博士課程修了後、実験動物中央研究所、理化学研究所脳科学総合研究センター、専修大学などを経て、現在、三菱化学メディエンス株式会社創薬支援事業本部に勤務。医学博士。専門は心理学、神経精神薬理学。著書に『「ヤミツキ」の力」』光文社新書、2011、『快楽の脳科学 「いい気持ち」はどこから生まれるか』NHKブックス、2003、『人はなぜハマるのか』岩波科学ライブラリー、2001、他がある。

火それ自体が人間にもたらす感覚的な「快」が先ずあって、
夜でも明るくて便利だとか、冬でも暖かいとか、
食料を煮たり焼いたりすると食べやすかったりおいしくなったりするといったこと、
つまり「機能」は二の次ではないかと。
人間にとっての「快」とは、後回しにしてもいいような付加的なものではなくて、
むしろそれが人間存在の根本にあるものではないかと、今はそう思うようになりました。


    
 

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消費社会と快楽のゆくえ…真物質主義から第三の消費文化へ

間々田孝夫
ままだ・たかお
1952年富山県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。金沢大学文学部を経て、現在立教大学社会学部教授。専攻は消費社会論、経済社会学、社会行動論、社会階層論。著書に『第三の消費文化論 モダンでもポストモダンでもなく』ミネルヴァ書房、2007、『消費社会のゆくえ 記号消費と脱物質主義』有斐閣、2005、『消費社会論』有斐閣、2000、『行動理論の再構成』福村出版、1991、他がある。

今の若い人を見ていると、ほとんど「快楽」という意識をもたずに消費行動を楽しみ、
それゆえに快楽のもつネガティブな側面から解放されているというふうにも見えます。
むしろ外見は一般的な生活を維持しながら、
内面は自分の趣味や興味のある対象にはひたすら寄り添っていくことで大きな楽しみを得る。
そういう快楽に、おそらく今はなっているし、これからもそういう方向で成熟と深化をとげていくんだろうと思います。

     
    
 

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喜び、快楽のモダリティを変えること

十川幸司
とがわ・こうじ
1959年香川県生まれ。山口大学医学部卒業。自治医科大学精神科で臨床に従事した後、パリ第八大学、社会科学高等研究院(EHESS)で精神分析、哲学を専攻。現在、個人開業(十川精神分析オフィス)。精神分析家、精神科医。著書に『来るべき精神分析のプログラム』講談社選書メチエ、2008、『精神分析(思考のフロンティア)』岩波書店、2003、『精神分析への抵抗 ジャック・ラカンの経験と論理』青土社、2000、他がある。

喜びということは、快楽のモダリティを変えることによって、生まれてくる情動です。
それは現実を無視することでも現実に服従することでもなく、
逆に、現実をよく見据えるなかでしか、生まれてこない情動です。
快をベースとして、喜びを見出すこと……そこにこそ精神分析の課題があると思います。
 

editor's note

快楽、存在の条件としての…

快のベクトルにシフトさせる

現代社会を消費と関連付けて「消費社会」と捉えるのはごく一般的な見方でしょう。そうしたうえで、消費社会論では、消費社会とはものがあふれる社会だと規定します。モノがあり過ぎる。にもかかわらず、生産者は市場へ次々にモノを供給するため、私たちは消費しきれずに、パンパンに膨れ上がったお腹を抱え、身動きできずにただただうろたえている。現代社会とは、まさにこのようなモノが過剰にあり、消費に取り込まれた社会に他ならないというのです。
 しかし、哲学者の國分功一郎氏は、それはまったくの見当違いではないかと疑義を呈します。フランスの思想家ボードリヤールも指摘するように、現代の消費社会を特徴付けるのは、モノの過剰ではなく、希少性であると。消費社会では、モノがあり過ぎるのではなく、それどころかモノがなさ過ぎるのだというのです。なぜかといえば、商品が消費者の必要によってではなく、生産者の事情で供給されるからであり、生産者が売りたいと思うものしか、じつは市場に出回っていない。消費社会とは、その意味でモノが足りない社会ではないかというのです。 (1)
 そもそも私たちはモノ(商品)をちゃんと受け取っているのでしょうか。百歩譲って、仮にモノがあり余っているとしても、そのたくさんのものを、私たちはちゃんと受け取っているのでしょうか。残念ながらそうはなっていないと國分氏は続けます。私たちが受け取っているのは単なる記号であって、モノそのものではないからだというのです。
 ボードリヤールによれば、消費という現場で人はモノではなく、モノに付与された意味や情報、あるいは記号を受け取っているという。モノの受け取りには、どうしても限界があります。お腹がいっぱいになれば、もうそれ以上は食べられなくなります。必ず満足がくる。ところが、記号や意味、情報の受け取りには限界というものがありません。満足がないのです。つまり、いつまでたっても終わることがない。
 私たちはこうした意味・記号・情報の終りないゲームに参加させられてしまった消費者ではないかとボードリヤールは言います。では逆に、モノを受け取るとはどういうことをいうのでしょうか。國分氏は、消費に対抗してそれは浪費をすることだと言います。必要を超えた支出があってはじめて人間は豊かさを感じることができる。人間が豊かに生きていくためには、浪費が必要だという。つまり、余分はムダではない。浪費とは、言い換えれば、必要の限界を超えてモノを受け取ることです。浪費は、その意味で豊かさの条件に他なりません。現代社会では、その浪費が妨げられている。人々は、浪費家ではなく、消費者になることを強いられているのです。モノを受け取るのではなくて、終わることのない記号消費のゲームを続けさせられているというわけです。(2)
 いかにしてこの状態から抜け出すことができるか。消費はモノを受け取らないことだとすれば、私たちが目指すことはただ一つ、モノを受け取れるようにすればいいのです。記号・意味・情報ではなく、モノそのものを受け取ること。國分氏は、それが贅沢ではないかと言う。贅沢を取り戻すことが、この状態を脱する有力な方法だと提起します。
 モノを受け取ることこそが贅沢への道を開くと國分氏は言いますが、それは、端的にそのモノを楽しむことです。モノを受け取ることとは、モノを楽しむことに他なりません。衣食住を楽しみ、生活を楽しみ、芸術や芸能、娯楽を楽しみ、遊びを楽しむ。それは、言い換えれば、人のこころを「快」のベクトルにシフトさせることです。楽しさや気持ちよさ、満足感といった快を享受することであり、さらにいえば、快楽に身を委ねることです。
 モノを受け取るチャンスそのものが奪われている現代社会にあって、モノを受け取り、純粋に楽しむことができる社会に変えるために何が必要なのか。私たちが、快に注目する意味はそこにあります。快を享受し、快そのものを楽しみ、喜びとして受け入れること。
 今号は、現代社会とのかかわりのなかで、重要な位置を占めるようになってきた快および快楽について考えます。

快楽こそ生きるうえでの原動力

 ものごとの原理や目的を探求するのが哲学であるとすれば、自然や宇宙と共に人間の生き方や目的の追究も哲学の使命です。古代ギリシアの哲学者エピクロスは、快楽こそ人間を導く原動力であり、目指すべき目的であると考えました。
 「(…)快楽が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快楽は、……一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、……道楽者の快楽でもなければ、性的な享楽のうちに存する快楽でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されないことにほかならない」。(メノイケウス宛の手紙)
 『快楽の哲学 より豊かに生きるために』(NHKブックス)の著者木原武一氏は、エピクロスの「快楽の哲学」はこの言葉にほぼ言い尽くされているという。エピクロス主義者を意味する「エピキュリアン」は、肉体的快楽を旨とする快楽主義者、あるいは美食家の代名詞になっていますが、これは大きな誤解で、胃袋よりはるかに重視したのは、すこやかな心身であったというのです。エピクロスにとって快楽とは、山海の珍味によって胃袋を満たすといった積極的なことがらではなく、身体に苦痛がなく、こころが穏やかであるといった、どちらかといえば消極的なものでした。
 「身体の健康と心の平静こそ、至福なる生の目的である」と言う時、エピクロスが重視したのは、明らかに後者の方です。身体の健康が肉体の快楽であり、心の平静が精神の快楽です。平静はギリシア語で「アタラクシア」、乱されない状態という意味ですが、身体の健康を「苦痛や障害に乱されない身体」と考えれば、快楽とは乱されない心身を獲得することだと定義することができます。木原氏は、エピクロスにとって最も価値あるものが快楽であり、より重要なのは、何ものにも乱されない心の平静(アタラクシア)である。これを基準にしてもろもろの欲望を判断、行動しなければならないとエピクロスは考えたと言うのです。(3)
 快楽こそが人間を動かすと断じたエピクロスの「快楽の哲学」は、一七世紀以後、主にイギリスとフランスの哲学者に受け継がれ、人間の本質を考え、社会を改革するための原理として展開されたと木原氏は続けます。「ロックは人間の意志を決定するのは、快楽の感覚よりもむしろ苦痛の感覚であること、ヒュームは、人間を支配するのは理性ではなく情念であることを主張し、ベンサムは人間は快楽を求めるという原理から〈最大多数の最大幸福〉の実現される社会を構想した」。さらに、「人間の心の中には、快楽や幸福を求めるはたらきと同時に、快楽や幸福を阻止しようとする働きも存在」し、それは「目的を達成した瞬間に、快楽は去り、幸福を飽き足りなく思う心のはたらき」であるという。また、人間には幸福は不可能と述べたのはカントであり、人間のこころには枯れることのない苦痛の泉があり、これがたえず人間の幸福を阻止していると指摘したのはショーペンハウアーでした。
 ざっと見てきたように、哲学が快楽を問題にする時、常に幸福と寄り添う形で捉えられていたことがわかります。木原氏はそうした哲学者の思考を辿りながら、結局のところ幸福とは消極的なものではないかと言う。「煩わしいことを考えなくてよい、不満がない、不足しているものがない、欲しいものがない、痛みがない……。〈ある〉ではなく〈ない〉という否定表現によって幸福は示され、生きている実感にかかわり合う。快楽は個別の快感から生まれるが、幸福は、心身全体のここちよさをともなう」。
 こころが満ち足りてさえいれば、その人は幸福だといえます。快楽が部分的なものだとすれば、幸福は全体的なものといえるかもしれません。部分は数限りなく存在するけれども、全体は常に一つしかない。その意味で、快楽は多種多様であり、幸福は一種一様といえるだろうと木原氏は結論付けます。エピクロスのアタラクシアは、こうして消極的ではあるけれども、生きているという実感に支えられた幸福感を人々のこころにもたらすのです。

やみつき研究から見えてきたこと

 『談』では、no. 66(2001年)で「快楽と生命」という特集を組みました。タイトルそのままに、快楽の重要性をいのちの問題に引き付けて考察しました。その時インタビューさせていただいたのが廣中直行氏(当時専修大学教授)です。快楽について神経精神薬理学の立場から主に情動機能と関連付けてお話しいただいたのですが、その時のキーワードが渇望(craving)でした。人間が何かにハマってしまう時、その人のなかでいったい何が起っているのか。快感や快楽を得ているまさにその最中は、じつはハマっていなくて、それを渇望している時(それより前)にハマっている。つまり、外部刺激がドーパミンを放出させて快感、快楽を得ていると外部から観測できたとして、その最中に快感、快楽を感じているかどうかはわからない。出力した表情(快感、快楽)と主観的経験が一致しているとは言い切れないというのです。自分がハマっていると思っているまさにその時、すでに快感は過ぎ去ったあとかもしれない。快/不快の感じは、じつは周囲の状況によってつくり出されているもので、その正体すら私たちはまだわかっていないという話で終わりました。
 さて、今回また廣中氏をおたずねした理由は、快の発生機序の究明ではなく、むしろ快そのものをどう捉えるかというところに、研究の矛先を向けておられるからです。心理学や生理学の分野からのアプローチといってもいいかもしれませんが、要は、その「気持ちのよい」という感じは何なのか、それは、つまるところ人間を幸せにするものなのか、といったこころの領域に近いところで、快や快感、さらには快楽というものを探っておられることに興味をもったからです。
 廣中氏は、最新刊『「ヤミツキ」の力』(遠藤智樹氏との共著)で、楽しいとか気持ちよいとかウキウキするといったいわゆる快について、その専門分野であるはずの心理学、生理学でも、じつはあまり詳しく研究されてこなかったといいます。人間はまじめに生活すべきで、生きていくのに最低限必要なモノを必要な分だけ消費する質素な生活がよい。楽しさや快感はどうでもよい余計な価値で、しかもそれを「求めて生きる」などということは、厳粛な社会人の考えることではない。そういう道徳観念が私たちの頭のどこかにあったために、快を真剣に研究してこなかったというのです。(4)
 一方、動物行動学の最近の動向に触れながら、人間以外の動物も遊んでいるとか、何かを好んでいる、楽しんでいるという可能性がまじめに論じられるようになってきたと述べています。動物は「その日ぐらし」で、危険の多い環境で、自分や仲間を守り、食べ物を手に入れ、繁殖をし、それだけで手いっぱいだと思われてきたが、実際はそうでもないらしく、動物も楽しんで生きているという知見が数多く報告されているというのです。人間が生きている意味として、楽しさや気持ちのよさ、あるいは快感のウェイトが増してきているのではないかと述べています。
 廣中氏は、人間が楽しみや気持ちのよさを求め、また快感に浸る心理を「やみつき」と表し、やみつきのポジティブな側面に焦点を当てます。「やみつき」は、人間が人間らしく生きていくために必要な要件であり、それを追求することが人間に幸福感をもたらしているといいます。そこで、まず最初に、快の欲求に従うことから開かれる現代の「幸福」のあり方について、廣中氏にうかがいました。

第三の消費文化と快楽の諸相

 冒頭、國分功一郎氏の消費社会批判を紹介しました。國分氏の批判は、消費社会という社会体制に向けられていたというよりは、消費という実態、消費の内実を問うものだと思われます。その論脈において根拠となっていたのがボードリヤールの消費論でした。いわゆるポストモダン消費社会論と喧伝されている議論です。ポストモダン消費には、脱合理主義とか脱構造化とかシミュラークルの優越化があるといわれていますが、それらに共通する特徴が記号化という問題です。モノという実体から遊離したという意味でシミュラークルなもの、あるいは有用性、利便性から離れたという意味で脱合理主義的なもの、さらには、モノと人間の関係それ自体を相対化するという意味で脱構造的なもの、それらを端的に表すものとして「記号」がポストモダン消費を特徴づける概念となったのです。モノそのものを消費することから記号を消費する社会へ。消費社会が記号の消費を中心とするポスト消費社会へ変わったというこの考えは、きわめて一般的なものだと思われます。ただ、別の見方をする識者もいます。その際最も大きな違いは、消費社会のフレームワークそのものにあります。現代社会を消費と関連させて捉える時、その前提となるのは現代が資本主義社会であるという暗黙の了承です。そして、現代資本主義とは、消費者を操り、需要をつくり出し、資本主義を維持するものという考えです。そこでは、消費者に自律性は認められず、生産者(供給)側が需要をつくり出していることから、その消費内容は消費者や社会のニーズに沿わないムダなモノ、浪費とみなされる。ただし、ムダなモノや浪費は、資本主義を存続させていくための担保でもあるわけで、消費社会にとっては健全な、つまり有用なムダであり浪費だというわけです。
 立教大学社会学部教授で消費社会論が専門の間々田孝夫氏は、消費社会を「人々が消費に対して強い関心をもち、高い水準の消費が行われており、それにともなってさまざまな社会的変化が生じるような社会」としたうえで、「消費社会では、消費という行為が、欲望やあこがれの対象となり、快楽、自己実現、優越性の確認といった意味をもつようになり、その水準を上昇させることが積極的に追求されるような意識や行動のあり方が消費主義であり、そうした消費主義が拡大するとともに出現した文化を消費文化」と考えます。そして、冒頭で述べた生産者主義および消費浪費論は、一部妥当ではあるけれども、現代資本主義にはこれとは異なった側面が存在し、モノから記号へ、消費社会からポスト消費社会へといった単純な解釈や図式では見落としてしまうことが多いと指摘します。消費文化は自律性と独自の論理、ないし発展の方向性をもっていて、それに沿った消費行動が発生するという立場に立てば、生産者側は、むしろその変化に適応して構造を変えざるを得ないのではないか。消費の自律性を前提とする立場から現代消費文化の動向を展望し、それと現代資本主義との関連を分析することではじめて消費社会は捉えられるというのです。(5)
 今日、人々の価値観が、機能的価値の重視から文化的価値の重視へ変化し、それにともない消費文化は物質主義から脱物質主義へ、さらには真物質主義へ移行しつつあるという。そのなかで大きな意味をもちはじめたのが快楽であり、快楽は現代の消費社会の駆動原理になりつつあると示唆します。そこで、間々田氏に消費社会論の文脈から、快楽のもつ意味、さらにはその役割についてお聞きします。間々田氏の主張する第三の消費文化において、その多様な側面が明らかになり、快楽の意味それ自体の脱構築化がはかられることになるでしょう。

精神分析の目的と快の役割

 心理学の分野において、とりわけ快の問題について関心をもってきたのが精神分析でした。精神分析が最後にたどり着いたのが「快原則」、「快」の理論化だったと思います。10年以上にわたり臨床経験を積んでこられた十川幸司氏は、精神分析にシステム論(オートポイエーシス)を接合するシステム論的精神分析を構想しています。「感覚」、「情動」、「欲動」、「言語」の四つの回路とそのカップリング(二重作動)からなるシステム論的精神分析については、本誌no. 76特集「情動回路 感情・身体・管理」の河本英夫氏との対談でその一端を紹介していただきました。そのなかで、快は欲動の充足にかかわる原理と考えることができると述べています。
 ところで、十川氏は、昨年連載をはじめた「ジグムント・フロイト論」で、次のような議論を展開しています。
 フロイトの思想的変遷を初期、中期、後期と分けたうえで、「後期(1920年以降)を特徴づけるテクストは、『快原理の彼岸』である。そこで提示された生の欲動/死の欲動という原理は、フロイトがそれまで提示していた心的法則である一次過程/二次過程あるいは快原理/現実原理とは次元の異なった対立を示している。快原理は、経験的な心的過程すべてに当てはまる法則である」。
 ところが、この法則を突き詰めていくと法則そのものが破綻する地点(彼岸)があるというのです。その地点からつくり上げられたのが、生の欲動/死の欲動という対立原理だという。もちろん、死の欲動も快原理に仕えているわけですが、その大きな特徴として、死の欲動は生の欲動と混合することでしか経験世界には見出すことができないというのです。「この原理は、もはや経験的な世界の法則ではなく、それより一段上の超越論的な原理」であるという。しかもこの超越論的な原理は、〈破行〉によってのみ発見可能という特殊な性質を持ち、今後、さらに変容する可能性をもった可塑的な原理だというのです。フロイトは、この考えによってさらなる方法への問いを私たちに開いたといえると指摘します。(6)
 フロイトの思想を、フロイトの思想的変遷にそって読み直し、そこから、精神分析の可能性を引き出すこと。十川氏は、その作業の過程で、あらためて快の重要性がみえてくるというのです。フロイトの精神分析にとって、快、さらには快楽は、私たちが考えている以上に、大きな意味をもっていることが、フロイトの思想の読解からわかってくるというのです。
 そこで、最後にこころのあり方の追求のなかで出会う快および快楽について、十川氏に考察してもらいます。ここで十川氏はとても重要な指摘をします。それこそが本号のタイトルである「快のモダリティ」についてであり、これを変換することによって、私たちは喜びという情動を手にすることができると示唆するのです。

(佐藤真)


引用・参考文献:
1.國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)
2.國分功一郎「嗜好品と豊かさ 豊かさとは何か、楽しむとは何か」(『TASC MONTHLY』no.44、2月号、2013年)
3.『快楽の哲学 より豊かに生きるために』(NHKブックス、2011年)
4.廣中直行、遠藤智樹『「ヤミツキ」の力』(光文社新書、2011年)
5.『第三の消費文化論』(ミネルヴァ書房、2007年)
6「ジグムント・フロイト論」(『思想』8月号、岩波書店、2012年)



 
   editor's note[before]
 


◎快楽の哲学
快楽の哲学 より豊かに生きるために 木原武一 NHKブックス 2010
人性論(中公クラシックス) ヒューム 土岐邦夫、小西嘉四郎訳 中央公論新社 2010
意志と表象としての世界(中公クラシックス) 1~3 ショーペンハウアー 西尾幹二訳 中央公論新社 ~2004 
名誉と快楽 エルヴェシウスの功利主義 森村敏己 法政大学出版局 1993
ベンサム/J・S・ミル(世界の名著49) 関嘉彦、山下重一他訳 中央公論新社 1979
カント(世界の名著39) 土岐邦夫訳 中央公論新社 1979
人間知性論 1-4 ロック 大槻春彦訳 岩波文庫 ~1977
告白 アウグスティヌス 上下 服部英次郎訳 岩波文庫 1976
人間論(世界教育学選書37)エルヴェシウス 根岸国孝訳 明治図書出版 1966
物の本質について ルクレティウス 樋口勝彦訳 岩波文庫 1961
エピクロス 教説と手紙 出隆、岩崎允胤訳 岩波文庫 1959

◎脳・情動・快
快感回路 なぜ気持ちいいのか、なぜやめられないのか D・J・リンデン 岩坂彰訳 河出書房新社 2012
喜びはどれほど深い? 心の根元にあるもの P・ブルーム 小松淳子訳 インターシフト 2012
脳と心を支配する物質 生田哲 ソフトバンククリエイティブ 2011
「ヤミツキ」の力 廣中直行、遠藤智樹 光文社新書 2011
動物たちの喜びの王国 J・バルコム 土屋晶子訳 インターシフト 2007 
エモーショナル・ブレイン 情動の脳科学 J・ルドゥー 松本元、川村光毅他訳 東京大学出版会 2003
やめたくてもやめられない脳 依存症の行動と心理 廣中直行 ちくま新書 2003
快楽の脳科学 「いい気持ち」はどこから生まれるか 廣中直行 NHKブックス 2003
人はなぜハマるのか 廣中直行 岩波科学ライブラリー 2001
楽しみの社会学 M・チクセントミハイ 今村浩明訳 新思索社 2000
複雑性としての身体 脳・快楽・五感 大森荘蔵他 TASC『談』編集部編著 河出書房新社 1997
フロー体験 喜びの現象学 M・チクセントミハイ 今村浩明訳 世界思想社 1996

◎快原理
ジークムント・フロイト論 十川幸司 『思想』no.1060所収 岩波書店 2012
フロイト全集 6 1901-06 症例「ドーラ」、性理論三篇 渡辺俊之、越智和弘他訳 岩波書店 2009
来るべき精神分析のプログラム 十川幸司 講談社選書メチエ 2008
フロイト全集 17 1919-1922 不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学 須藤訓任、藤野寛訳 岩波書店 2006
精神分析(思考のフロンティア) 十川幸司 岩波書店 2003
精神分析の方法 I II セブン・サーヴァンツ W・R・ビオン 福本修訳 紀伊國屋書店 ~2002
新版 精神分析事典 R・シエママ、B・ヴァンデルメルシュ編 小出浩之、加藤敏他訳 弘文堂 2002
精神分析入門(中公クラシックス)I II フロイト 懸田克躬訳 中央公論新社 2001
精神分析への抵抗 ジャック・ラカンの経験と論理 十川幸司 青土社 2000
マゾッホとサド(晶文社クラシックス) G・ドゥルーズ 蓮實重彦訳 晶文社 1998

◎快楽とセクシュアリティ
快楽上等! 上野千鶴子、湯山玲子 幻冬舎 2012
快楽の歴史 A・コルバン 尾河直哉訳 藤原書店 2011
快楽なくして何が人生 団鬼六 幻冬舎新書 2006
セクシュアリティ J・ウィークス 上野千鶴子監訳 河出書房新社 1996
性の歴史 I II III M ・フーコー 渡辺守彰他訳 新潮社 ~1987

◎消費文化と快楽
第三の消費文化論 モダンでもポストモダンでもなく 間々田孝夫 ミネルヴァ書房 2011
「第三の消費文化」の概念とその意義 『応用社会学研究』no.53所収 間々田孝夫 立教大学社会学部 2011
暇と退屈の倫理学 國分功一郎 朝日出版社 2011
消費社会のゆくえ 記号消費と脱物質主義 間々田孝夫 有斐閣 2005
無のグローバル化 G・リッツァ 正岡寛司監訳 明石書店 2005
マグドナルド化する社会 G・リッツァ 正岡寛司監訳 早稲田大学出版部 1999
消費文化とポストモダニズム 上下 M・フェザーストン 川崎賢一、小川葉子訳 恒星社恒星閣 1999
消費の見えざる手 大澤真幸、F・ガタリ他 I&S/ポスト消費社会研究会編 リブロポート1992
シミューラークルとシミレーション J・ボードリヤール 竹原あき子訳 法政大学出版局 1981
消費社会の神話と構造 J・ボードリヤール 今村仁司、塚原史訳 紀伊國屋書店 1979