3・11以後の公共性…正義のあやうさにどう対処するか

山脇直司

やまわき・なおし
1949年青森県八戸市生まれ。一橋大学経済学部卒業後、上智大学大学院哲学研究科修士課程修了。1983年ミュンヘン大学にて哲学博士号を取得。東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻教授を経て、現在、星槎大学共生科学部教授、東京大学名誉教授。専門は、公共哲学、社会思想史。著書に、『公共哲学からの応答 3・11の衝撃の後で』筑摩選書、2011、『社会思想史を学ぶ』ちくま新書、2009、『社会とどうかかわるか 公共哲学からのヒント』岩波ジュニア新書、2008、『公共哲学とは何か』ちくま新書、2004、他多数。
公共哲学は手段であって目的ではありません。
では、目的は何か、「より善き公正な社会を追求すること」、それに尽きると思います。
そうした目的、課題に対して、そのための道具立てが公共哲学なんです。
私は、活私開公と滅私開公の協働をはじめ、
さまざまな分野にわたる公共的問題について自分の考えをさらに深め、発展させていきたい。
そのためには、まず3・11が突きつけた問題を整理・吟味し、
公共哲学の立場から応えていくことが私に課せられたテーマだと思っています。

ロスト近代において公共性をいかに担保するか

橋本努

はしもと・つとむ
1967年東京都生まれ。横浜国立大学経済学部卒業後、東京大学大学院総合文化研究科課程博士号取得。専門は経済社会学、社会哲学。現在、北海道大学大学院経済学研究科教授。著書に『ロスト近代―資本主義の新たな駆動因』弘文堂、2012、『自由の社会学』NTT出版、2010、『自由に生きるとはどういうことか―戦後日本社会論』筑摩書房、2007、他がある。
「ロスト近代」を考える場合も、個々人の損得を判断する背後にどういう駆動因があるべきなのか、
ではなくて、そこに共有されているものを社会の資源と考え、
それをうまく引き出しさえすればいいのではないでしょうか。
つまり、われわれを突き動かしている潜在的なものをもう一度見直すことが、
社会全体をダイナミックに動かすための着眼点になり得るのではないか、ということです。
公共性というのは、個々人の利害関係の背後にある潜在的なものだというのが僕の発想。
だから、そうした背後にあって人々を突き動かすものを、意識化し、共有していくことが重要なんですよ。

公共圏、人々が個性を発揮できる場所

稲葉振一郎

いなば・しんいちろう
1963年東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業後、東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専攻は社会倫理学。現在、明治学院大学社会学部教授。著書に、『社会学入門〈多元化する時代〉をどう捉えるか』、NHKブックス、2009、『「公共性」論』NTT出版、2008、『モダンのクールダウン』NTT出版、2006、『リベラリズムの存在証明』紀伊国屋書店、1999、他がある。
相手の個性や力量、性質を見極めることや、
自分の存在感を相手にきちんと示すということにも意味が見えてきます。
つまり「徳」という概念もリアリティをもったものとして浮上してくるのではないでしょうか。
開かれた自由な領域で出会う無数の人たちと、無名の大衆同士として付き合うのではなく、
その誰かに、まさに存在感を持った個人として出会い、お互いにそういう者として向き合うこと。
近代以降そうした領域が見えなくなってしまっただけであり、それは公共圏の中に、今もあり続けているのです。

公共性論の死角

公共性論の隆盛

 公共性をめぐる議論は、1990年代後半から政治学、法学、社会学、経済学などのさまざまな分野で盛んになってきました。公法学の晴山一穂氏によれば、公共性論への関心の高まりの背景には、市場原理にもとづく新自由主義のグローバルな展開とそれに対抗する国内外の社会運動の前進、社会主義体制の崩壊と旧社会主義圏も含めた諸国における市民運動の高揚、これらと関連する市民社会論に対する世界的な関心の増大などが考えられると言います。とりわけわが国の状況に引きつけてみれば、「官から民へ」のスローガンのもと、80年代の初頭から大々的に進められてきた「新自由主義的行政改革」をその重要な要因の一つとしてあげることができると指摘します。(1)
 1997年に提出された旧総理府(現内閣府)の行政改革会議(会長は当時の総理大臣でもある橋本龍太郎)の最終報告書には、「〈公共性の空間〉は、決して〈官〉の独占物ではない」とする有名なテーゼが掲げられています。公的事務・事業の民営化、各種規制の緩和・撤廃、行政の減量化・スリム化、公務員の削減と非公務員化など、市場原理にもとづく一連の新自由主義的改革方策が、包括的に提起されたことを、このテーゼは象徴的に現わしているというのです。「官による公共性の独占を打破する」というきわめてわかりやすい論理は、2000年代に入って民間企業のビジネスチャンス拡大のための方策へと徹底・純化されたと晴山氏は付け加えます。
 こうした新自由主義の立場からの公共性解体論に対抗するように、日本国憲法の定める諸価値に公共性の根拠を見出し、国家・行政の手を通して公共的価値の復権・実現を図ろうとする「国家・行政の公共性」論の立場があります。彼らは、行政改革の本質を国家・行政の本来の公共的役割を否定するものと捉え、公共性解体論と真っ向から対峙します。さらに、両者から一定の距離を保ちながら、NPO活動の前進などを背景に、国家と市場の中間に位置する団体や諸個人のなかに公共性の新たな担い手を見出そうとする「市民的公共性」論も台頭してきました。いずれにせよ、新自由主義をベースに国家・社会の再編成が急速に進みつつあるわが国にあって、公共性の内容とその担い手をどのように考えるかという問題は、晴山氏も強調するように、公共性論にとっては、重要な理論的・実践的課題であることを、まず確認しておきましょう。

公共性概念の多義性

 公共性論への関心が高まるなか、公共性をめぐる議論はかえって混乱の度を深めつつあると診断するのは、政治学の山口定氏です。現状を「公共性」問題への関心の量的増大のなかに潜む混迷状態と捉えたうえで、公共性をめぐる議論の内容は、公共性の具体的内容分析というよりは、公共性問題の理論的定位や公共性問題を考える際の理論的枠組みの検討に集中している。そのために、肝心の具体的な制度構想や改革への手掛かりとなるような、問題整理がなされていないと山口氏は指摘します。(2)
 こうした公共性をめぐる議論の混迷の原因はどこにあるのでしょうか。晴山氏は、その重要な要因に公共性という用語および概念の多様性・多義性それ自体にあるのではないかと指摘します。公共性概念についての共通の理解を欠いたまま、各自が独自の公共性論を立ち上げるために、その相互関係すら理解できずにうろたえているのが現状ではないか。要するに、公共性概念の多義性・多様性についての理論的深堀りがなされないまま議論をしているところに基本的問題があると言うのです。
 たとえば、私たちは公(こう)、公(おおやけ)、公共、公共空間、公共団体、公共交通など、「公」ないし「公共」を冠する言葉を普通に使っています。また、公共の福祉、公益といった用語は法概念を指示していますし、公共事業、公共サービス、公務員、公有などは、公法分野において多く使用されているようです。しかし、これらの「公」ないし「公共」を冠する用語は、意味内容や相互の関係において明確に定義されているわけではなく、厳密に区別されることなく、無自覚に使われているのが現状のようです。そもそも、「公」と「公共」の使い分けもあいまいです。同じ意味で使用されている場合もあれば、区別して使われることもあり、決して一様ではない。さらに、「公」ないし「公共」とともに「官」という語もしばしば使われますが――「官から民へ」や「官民協同」など――、官、公、公共の関係も多義的で、必ずしも統一的な用法があるわけではないのです。
 公共性を表象するこれらの用語は、では、何に着目して捉えられているのでしょうか。たとえば、国家や行政という存在に着目して公共性が語られる場合もあれば――国家の公共性、行政の公共性というように――、それとは別に、ある事物ないし役務――事務・事業、行為・活動――の内容・性質に着目して語られることもあります。さらに、これらのいずれとも異なり、一定の空間・領域ないしは人と人の関係のあり方に着目して語られることもあります。いずれにしても、これら三つの相互関係は明確ではなく、十分な整理がなされないままに議論が進められてきたと晴山氏は指摘します。

公共性概念に含まれる要素

こうした観点とは別に、日常語として使用される公ないし公共のイメージから、その多義性に注目するのが行政学の村上弘氏です。身近な例で考えてみようと切り出し、次のように述べています。
 「会社、組織、地域等のなかで自己主張が強い人に対して、〈全体のことを考えてほしい〉〈みんなのことを考えて〉と説得する場合も、要するに〈公共性〉を訴えているのである。(略)〈全体〉と〈みんな〉ではニュアンスが異なる。(略)「みんな」という場合にも、多数またはすべてのメンバーに共通の価値に従うことと、〈弱い〉立場にあるメンバーを含めてみんなに配慮することとは、少し違うだろう。さらに、自己主張する側は、〈イエスマンばかりではなく異論を述べる私のような人がいた方が、かえって議論に活力とバランスをもたらし、全体(会社、組織)にとってプラスになりますよ〉と、少数意見の持つ〈公共性〉を訴えて弁明したりするのである」。
 「全体」と「みんな」という言葉は、公共を想起させます。その使い分けから、公共性に抱くイメージの違いを指摘し、むしろ公共性という言葉の多義性、多様性に注目するのです。さらに、外国旅行の体験を例に、現地人と旅行者という立場の違いから、公共性の感じ方の差異にも言及します。
 「外国に旅行したり一時滞在するとき、しばしば私たちは心細い〈異人〉(エイリアン)になるわけだが、その際ありがたいのは、公共施設や安全性と、人やお店の親切だ。外国人にまで提供される便益こそ、すべての人に開かれたと言う意味で公共的である。ある国では〈交通機関や警察は当てにならないが、現地の人が親切で助かった〉という感想を持ったり、逆に別の国では〈人々はなんとなく冷たいが、観光案内所や公共交通がしっかりしているので快適だった〉ということもある。(略)そうした公共施設や人情・親切が国民に限って与えられるときでも、公共性が存在するといえるが、外国人もその恩恵に預かれれば、その社会は公共性の要素がより多いという感想を持つことになる」。(3)
 村上氏は、ここで挙げた事例から、公共性の供給主体や方法は一つではなく複数あること、そして供給対象者の範囲や、外国人にとっての公共性の意味について考えることができるのではないかと示唆します。そのうえで、公共性の用語としての使い方を、「A.社会一般の利益になる。多くの市民の利益になる。B.社会一般に関連する。共同で利用できる。多くの市民に開かれている。C.国家、政府に関連する」の三つに整理し、さらにそこから三つの論点が浮かび上がってくるというのです。
 第1に、多くの場合、市民に開かれている財やサービスは市民の利益になるので、AとBは重複します。しかし、その一方で、たとえば犯罪やドラッグなどのように、市民に開かれているがゆえにマイナスの価値や不利益になるものもある。他方で、逆にBに含まれにくいA、つまり共同利用でなく個別に所有できる財・サービスで広く市民の利益になるものも少なくない。たとえば、人々にとって衣食住が充足し、公共交通だけでなく自転車や自動車での移動が容易で、コンビニで二四時間買い物ができる、などのことは公共性に属するかという問題です。じつは、ここには政府と公共性の関係についての論点も含まれています。というのは、公共性を共同利用可能な公共財に限定すると、政府の役割が大きくなりますが、個別所有・利用する財・サービスの一部も公共性に含むとすれば、市場原理や民間企業の役割を広く認めることになるからです。つまり、Aの要素を重視して、公共財だけでなく、私的財もそれが安価でかつ十分に供給されるという条件が満たされる限りにおいて、公共性を構成するものと理解できるというわけです。
 第2に、A、Bに関する別の問題として、市民の間で意見や利害が異なる場合に、社会一般の利益としての公共性をどう定義するかという問題があります。市民の意見や利害が一致しない事項は公共性に含めないか、あるいはそれを調整することが公共性であるという考え方もあるからです。
 第3に、社会という意味の公共性A、Bと政府という意味の公共性Cとの重なりもしくはズレをどう見るかという問題。政府の活動すべてが、社会にとって公共的な意味をもっているとは限りませんし、政治リーダーの個人的利益のために政府が動くこともあり得る。逆に、公共的な価値が、すべて政府によって実現されるわけでもないのです。

公共性がはらむ問題

 以上挙げた論点を、村上弘氏はさらに別の角度から検討することで、公共性の再定義を行います。公共性とは、1、多くの市民や社会集団の共通利益(の一部)。2、市民や社会集団の異なる個別利益(私益)の総和(の一部)。3、国家や地方自治体などの「全体」の利益(の一部)。先に示した用語の使い方のA. B.を言い換えたのが1、2で、C.は3に対応します。村上氏によれば、そうした操作の過程で、公共性に関する新たな問題点が浮上してくるというのです。これまでの文脈に沿って言い換えるならば、現在の公共性論の混迷が、公共性概念が本来はらんでいる問題として浮き彫りになるということです。では、その問題とはいかなるものでしょうか。村上氏の問題関心にそって挙げてみましょう。
 まず最初に検討されなければならないのは、「多くの市民や社会集団」とはどの範囲を指すかという問題です。通常、政治単位として見る場合、国や地域がその範囲になります。ただ、政治単位の内部の人々の利益のために、外部に大きな不利益や負担を転嫁する政策は、果たして公共的といえるでしょうか。たとえば、将来の国民に負荷を強いることになる国債の大量発行による予算拡大などが典型例ですが、大いに問題のあるところです。
 次に、政治単位内で、多数者の利益は増えても、少数者の利益が侵害される場合はどう考えるかということ。国民と外国人居住者間で発生する問題やジェンダー間の不平等、あるいは特定地域への迷惑施設の立地などがこれに該当します。開かれた公共性が謳われながら、一方で少数派の排除が起こっている事実をどう受け止めるかという問題です。
 第3 に、公共財は排除不可能性と非競合性をもつ財と定義されていますが、当然民間企業の参入は難しく既得権益の問題が発生します。逆に「私的財」は公共性に含まれるかという問題もあります。
 第4に、貧困者への公的扶助や公的介護保険のように、これまで私的な事柄と考えられてきた問題が、社会や政府が対応すべき問題だと人々のなかで認識され始めていることです。単純に公共性の定義がますますあいまいになり、その範囲も拡大していることが影響しています。
 第5は、市民の利益を果たして市民自身が正しく判断できているかという問題です。これは端的に現行の選挙制度のなかで、合理的な選択ができるかという問題に直結します。
 最後に、政府が公共性を保障する場合、誰がそのための貢献や資源を提供するかという問題です。政府の市民に対するサービス供給は、人権の保障、政策の実施、市場原理の修正などですが、当然市民に対価を求めるわけではありません。同様に、市民が政府や国家に対して行っている貢献も、各種の納税、法の遵守、次世代の養育など、決して小さくはない。とはいえ、わが国が抱える巨大な財政赤字は、社会全体として、政府からの受益と政府への貢献のバランスがとれていないことを示しています。受益と貢献の対応関係がたとえ明らかであっても、それを正確に位置付けることはきわめて難しい。それは結局のところ、公共性とは何かという本質的な問題に直結します。

公共性を問う意味

 村上弘氏の問題関心を引き受けて、今号では公共性について考えます。『談』では、no. 72「特集 〈公共性〉と例外状態」(2005年)で、公共性について特集を組みました。政治理論が専門の齋藤純一氏の主張する「価値の複数性が保障される空間」に準拠して、official、commonにopenを加えた、三つの層の重なりに公共性を見出すというのが特集の趣旨でした。今号は、そのスタンスを維持しながら、公共性という概念が今日なぜ重要性をもち得るのか。改めて公共性を議論の俎上に載せる意味を問うことから、公共性論の今日的意義を検討したいと思います。
 最初にお訊ねするのは、公共哲学が専門の星槎大学教授・山脇直司氏です。山脇氏は、公共哲学を善き公正な社会の実現のために、現下で起こっている公共的諸問題を市民と共に考えていく学問と位置付けたうえで、従来の公私二元論では捉えきれない社会現象に対して、「活私開公」「滅私開公」という独自の基軸で向き合い、公共性論に新風を送り込んできました。
 2011年3月11日に東日本を襲った大地震と大津波、それに伴う福島の原発事故は、私たちにさまざまな問いを投げかけることになりましたが、それらに対して公共哲学はどう応えることができるのか。公共性の意義、そして何よりも公共性論を、今最も必要としているのは誰なのか。公共哲学の第一人者である山脇氏にズバリお聞きします。
 3・11は、社会学にも大きな衝撃を与えました。経済社会学を専攻する北海道大学教授・橋本努氏は、3・11の大震災・大津波・原発事故を明治維新(1868年)、敗戦(1945年)と並ぶ時代の転換点と捉え、その歴史的位相について分析をしています。
 橋本氏は、近著『ロスト近代 資本主義の新たな駆動因』で、「近代」、「ポスト近代」、「ロスト近代」という時代認識の枠組みを提示し、とりわけ原発事故の問題を、「ポスト近代」から「ロスト近代」への時代変容のなかで位置付け、本書の趣旨である「資本主義の駆動因」という観点から検討しています。同時に、グローバル化の影響を受けた現代の福祉国家が、新自由主義の諸政策を大胆に取り入れた結果、「北欧型新自由主義」というモデルが到来したと言います。
 公共性論との関連で興味深いのは、「北欧型新自由主義」に深くかかわるグローバル化/反グローバリズムの弁証法への言及です。グローバリゼーションは、私たちの可能性を奪うものと捉えられていましたが、じつは、反グローバリズムこそ潜在的可能性の全面開花を理想とする運動だったというのです。ロスト近代の駆動因という観点から過去20年の世界史を振り返ってみると、反グローバリズム運動が果たした意義は、私たちが考えている以上に大きく、その中心にあるのが潜在的可能性だというのです。
 そこでこんな仮説を立ててみました。近代・ポスト近代に対応する公共性とは何か。それは、意識化・明文化・共有化によって担保されるものです。それに対して、ロスト近代に対応する公共性はどのようなものかというと、無意識的で私的なものではないかと想像できます。内面化されているので決して表には出てこない。一見つかみどころがなさそうですが、じつは私たちの私的領域に深く埋め込まれていて、時折ひょいと顔を出す。潜在的な可能性としてあり続けるもの、それがロスト近代における公共性ではないか。近代・ポスト近代からロスト近代への時代変容は、公共性という概念それ自体の変化を促したのではないか、そう考えてみたのです。橋本努氏にまずロスト近代とはいかなる位相かお聞きし、そのうえで公共性との関連についてお話いただきます。おそらく、資本主義は、人々の潜在能力を新たな駆動因として見出し、そこでは公共性という概念が重要な要素となると思われます。
 『談』no. 70「特集 自由と暴走」(2004年)で「自由主義の課題 個人と公共政策をリンクさせる」というテーマで明治学院大学社会学部教授・稲葉振一郎氏にお話をうかがいましたが、その際、稲葉氏は最後にこう締めくくりました。「……実体的な空間であれ、理念的な空間であれ、開かれた世界がないとダメだということです。ここがダメでも他があるというように、常にそういう場所があるということがリベラルな生き方であるし、それをあてにしているのがリベラリズムです。リベラリズムというのは、そういう選択肢があることを許す政治であり哲学です。それが欺瞞にならないためにも、そういう場所、外を確保し続けていく必要がある。(略)ほんとうにそれがつくれるのか、まさに、それがリベラリズムの課題です」。
 稲葉氏の言う「外」こそ、私たちの考える公共性ではないでしょうか。「外」とは何か、そこは、明確に顔の見える世界です。言い換えれば、匿名ではいられない世界、氏素性がはっきりとした個人として対面する世界のことです。その議論を展開するなかで、おそらく重要になってくるのがハンナ・アーレントの思想です。最近取り組んでおられる共和主義との関わりのなかでアーレントの公共性論を見直すという話になると思われます。それはまた、公共哲学における「徳」概念の再評価にもつながっていくでしょう。
 公共性とは誰のためのものなのか。公共性という概念を、その担い手だけではなく、供給者/受給者の関係から問い直します。

(佐藤真)

引用・参考文献:
1.晴山一穂「公共概念に関する一考察」(『専修法学論集』no.106、2009年)
2.山口定「新しい公共性を求めて」(『新しい公共性』、有斐閣、2003年)
3.村上弘「公共性について」(『立命館法学』、2013年)

◎公共哲学の射程

公共哲学からの応答 3・11の衝撃の後で 山脇直司 筑摩書房 2011
公共哲学 M・サンデル 鬼塚忍訳 ちくま学芸文庫 2011
リベラリズムと正義の限界 原著第2版 M・サンデル 菊池理夫訳 勁草書房 2010
正義論 改訂版 J・ロールズ 河本隆史、福間聡他訳 紀伊國屋書店 2010
これからの「正義」の話をしよう 今を生き延びるための哲学 M・サンデル 鬼澤忍訳 早川書房 2010
共に公共哲学する 日本での対話・共働・開新 金泰昌編著 東京大学出版会 2010
グローカル公共哲学 「活私開公」のヴィジョンのために 山脇直司 東京大学出版会 2008
社会とどうかかわるか 公共哲学からのヒント 山脇直司 岩波ジュニア新書 2008
公共哲学 1~20 佐々木毅、金泰昌編 東京大学出版会 ~2006 
人間の安全保障 A・セン 東郷えりか訳 集英社新書 2006
公共哲学とはなんだろう 民主主義と市場の新しい見方 桂木隆夫 勁草書房 2005
すれっ枯らし公共心 公共哲学とはなんだろう 続 桂木隆夫 勁草書房 2005
公共哲学とは何か 山脇直司 ちくま新書 2004
公正としての正義 再説 J・ロールズ 田中成明他訳 岩波書店 2004
不平等の再検討 潜在能力と自由 A・セン 池本幸生訳 岩波書店 1999
公共性の構造転換 市民社会の一カテゴリーについての探究 第2版 J・ハーバーマス 細谷貞男、山田正行訳 未来社 1994
人間の条件 H・アーレント 志水速雄訳 ちくま学芸文庫 1994
リヴァイアサン T・ホッブス 水田洋訳 岩波文庫 1992
心の習慣 アメリカ個人主義のゆくえ R・N・ベラー他 島薗進、中村圭志訳 みすず書房 1991
近代の哲学的ディスクルス J・ハーバーマス 三島憲一他訳 岩波書店 1985
永遠平和のために カント 宇都宮芳明訳 岩波文庫 1985
ニコマコス倫理学 アリストテレス 上下 高田三郎訳 岩波文庫 1971、1973
公共の哲学 W・リップマン 矢部貞治訳 時事通信社 1957 

◎公共圏の政治学、公共の社会学

公共圏と熟議民主主義 舩橋晴俊、壽福眞美 法政大学出版局 2013
公共性の政治理論 齋藤純一 ナカニシヤ出版 2010
新しい公共を担う人びと 奥野信宏 岩波書店 2010
「公共性」論 稲葉振一郎 NTT出版 2008
政治と複数性 民主的な公共性に向けて 齋藤純一 岩波書店 2008
幻の公衆 W・リップマン 河崎吉紀訳 柏書房 2007
公共の役割は何か 奥野信宏 岩波書店 2006
他者の権利 外国人・居留民・市民 S・ベンハビブ 向山恭一訳 法政大学出版局 2006 
公共性 齋藤純一 岩波書店 2005
デモクラシーの古典的基礎 木庭顕 東京大学出版局 2003
新しい公共性 そのフロンティア 山口定、佐藤春吉他編 有斐閣 2003
ハーバーマスと公共圏 G・キャルホーン 山本啓、新田滋訳 未来社 1999 
公共圏の再考 既存の民主主義批判のために N・フレイザー 未来社 1999
公共政策のすすめ 現代的公共性とは何か 宮本憲一 有斐閣 1998
アーレントと現代 自由の政治とその展望 千葉真 岩波書店 1996
公共圏という名の社会空間 公共圏・メディア・市民社会 花田達朗 木鐸社 1996
美徳なき時代 A・マッキンタイア 篠崎榮訳 みすず書房 1993
公共性の喪失 R・セネット 北山克彦、高階悟訳 晶文社 1991
コミュニケーション的行為の理論 J・ハーバーマス 河上倫逸他訳 未来社 1981
世論 上下 W・リップマン 掛川トミ子訳 岩波文庫 1957

◎グローバリゼーション・公共空間・自由

グローバル化の遠近法 新しい公共空間を求めて 姜尚中、吉見俊哉 岩波書店 2013
正義の秤(はかり) グローバル化する世界で政治空間を再想像すること N・フレイザー 向山恭一訳 法政大学出版局 2013
政治・空間・場所 政治の地理学にむけて 改訂版 山崎孝史 ナカニシヤ出版 2013
ロスト近代 資本主義の新たな駆動因 橋本努 弘文堂 2012
空間の経験 身体から都市へ Y・トゥアン 山本浩訳 ちくま学芸文庫 2011
経済倫理=あなたは、なに主義?  橋本努 講談社 2008
公共空間の政治理論 篠原雅武 人文書院 2007
帝国の条件 自由を育む秩序の原理 橋本努 弘文堂 2007
リベラリズムの存在証明 稲葉振一郎 紀伊國屋書店 1999
都市への権利 H・ルフェーブル 森本一夫訳 ちくま学芸文庫 1993